その香りは誰がための
その日、インデックスとスーパーへ買出しに出かけた上条当麻は、買い物かごに、見たことのない、
されど見慣れたデザインのプラスチックボトルが入れられているのに気がついた。
「インデックス。これ、お前が入れたのか?」
「そうだよ、とうま。シャンプーが切れちゃったんだけど、カナミンのが売り切れだったから、カエルので我慢するんだよ」
その緑色のボトルは、いつも見慣れたカエルのデザイン。彼の持つ携帯ストラップからぶら下がるマスコットと同じもの。
表には『ゲコ太シャンプー・低刺激なのでお子様にも大丈夫! フローラルの香り』というラベルが付いていた。
「ゲコ太シャンプー、ね」
値段はインデックス愛用の「カナミンシャンプー」よりわずかに安かった。
ま、安いからいいか、と特に何も考えずにいた上条だが、ふとあることを思い出す。
(ゲコ太といったら、御坂の好きなキャラクター、だったよな? もしかしてアイツ、これ使ってんじゃねえだろうな?)
ふと浮かんできたのは、上条が最近、ちょっと気になりだした女の子の姿。
いつもなにかと付きまとってきては、いろいろと世話を焼きたがるお節介な女の子。
以前は道端でばったり会うだけで電撃を放たれていたが、いつの頃からかそれもなくなり、気がつけば自分の隣で笑顔を見せるようになっていた女の子。
ロシアから戻った夜に、自分の手をとって――ひとりじゃないと言ってくれた、御坂美琴のことだった。
一緒に行ったハワイでの『グレムリン』との戦いでは、苦戦を余儀なくされた自分を掩護してくれたおかげで、なんとか勝つことも出来たっけ、
と記憶を手繰っている上条の脳裏には、いつしか彼女の笑顔が浮かんでいた。
(御坂なら、間違いなく使ってそうだな。でもアイツの髪、なんだかいい香りがするんだよな。こんな安物シャンプーの香りじゃ無さそうな感じだし……)
何度か嗅いだことのある美琴の髪から漂う香りが脳裏に甦っただけで、上条はなぜだか心臓がきゅっとする感覚を覚えていた。
彼女の顔を思い出すだけで、顔もわずかに火照って、胸が高鳴る感じだってしているのだ。
(あれ? なんで俺はこんな事でドキドキしてんだろ?)
スーパーの売場でゲコ太シャンプーを片手に、ぼうっと物思いにふけたまま突っ立っている男子高校生の姿が、店内に妙な違和感を漂わせている。
そんな上条を見ていたインデックスが、
「とうま? なんで顔を赤くしてぼうっとしてるの? なに? また誰か他の女のことでも考えてたりするのかな?」
「イ、インデックスさん? そ、それは誤解ですよって。上条さんは別に御坂のことなんて考えて……」
そのとたん、インデックスのこめかみに、なにやらピキリと浮き出たものが。
あのときは、自分のことだからと彼女のことをステイルに頼んで、学園都市に留守番をさせてしまってから、美琴の話にはやたらと攻撃的になった。
「とうま! 短髪がどうかしたってぇ?」
「ひぃっ!? インデックス、ちょっ、こ、ここでそれはマズイって!? いやいやいや、俺は何も思ってませんのことよーー!!」
上条の目には、じりじりと近寄ってくるインデックスの背中に、なにやら黒いオーラが見えている。
それがなぜだか彼には、地獄の使者の姿にも似ているように思えた。
「やっぱり、とうまはとうまだったんだねっ!!」
そう言うなり彼女の歯がぎらりと輝いたかと思うと、ガブリ、と上条の後頭部に突き刺さる。
直後、彼の放った絶叫が、大きく流れているBGMを圧倒するように店内に響き渡っていったのだった。
「不幸だーーーーーーっ!!」
「とうま、お風呂、お先にあがったんだよ」
その夜、パジャマに着替えたお風呂上りのインデックスが、濡れた髪をバスタオルで拭きつつ上条の前へとやってきた。
彼女の透きとおるような長い銀色の髪は、いつ見てもきらきらと輝いて、誰もがつい見惚れてしまうような美しさだ。
特に風呂上りの湿り気を帯びた彼女の銀髪はしっとりとして、鈍感な上条をしても、きれいだと思わせるほどの魅力を持っていたが。
「おう。じゃインデックス、バスタオルをかしてくれ」
上条はそう言って、いつものようにインデックスの頭を拭いてやっていく。
腰まで伸びた彼女の髪は、きちんと乾かしてやらないと、翌朝彼女が目覚めたときに寝癖や枝毛でひどいことになり、
それを直す彼女の機嫌もひどいことになることを、彼は知っていたから。
じっと座って髪を乾かしてもらっているインデックスと、その世話を焼いている上条の姿を見れば、まるで妹の世話を焼く兄か、
娘の世話をする父親のようにも見えるだろう。
だが今日は、いつもと何かが違っていた。
(あれ、これって……)
ふわんと上条の鼻腔をくすぐる香りが、彼の記憶を呼び覚ます。
インデックスの髪から漂うフローラルな香り。それは新しく買ったシャンプーの香りだった。
その正体に気づいた上条の脳裏に浮かんだのは、
(――御坂の匂い、だよな……)
インデックスの髪を拭くタオルの動きが、だんだんとゆっくりになって。
同時に上条の脳裏を占めるものが、どんどんと大きくなって。
つい――すうううぅぅぅっと、鼻から大きく息を吸い込んだ彼に気づいたインデックス。
「――とうま?」
はっとした上条が気がついたときには、向こうを向いて座っている彼女から、なにやら不穏な気配が伝わってくる。
「いや、あの、インデックスさん? これはえっと、その……あはははは。シャンプーが変わるだけでなんかいつもと違う香りだなーってつい……」
慌てて誤魔化そうとするも、誤魔化しきれないのが上条の上条たる所以。
これはまた噛み付きか、と一瞬覚悟した彼であったが、次の瞬間、冷水を浴びせられたような心地を味わうこととなる。
「――とうま……」
どことなく寂しそうなインデックスの声だった。
「インデックス……どうしたんだ?」
彼女の変化に何か深刻そうな気配を感じた彼は、躊躇うことなくインデックスへと意識を向ける。
向こうを向いているので、表情は見えないが、なんとなく肩に力が入っているようにも見え、膝においている手は、
きゅっと拳が握られて、わずかに震えているようにも感じられた。
「とうまもそろそろ、ちゃんと自分の気持ちに向き合ったほうが良いのかも……」
「――いきなり、なんなんだよ?」
「ここ最近のとうま、なんか変なんだよ。ぼうっと考えごとしてたり、ちょっと顔を赤らめてたり、ときどきため息なんてついてたりするんだよ……」
「え? いや、そんなことないぞ? 大体なんで俺がそんな恋する乙女みたいな……」
そう言いかけて上条は、自分の言葉に戸惑いを隠せなくなってしまっていた。
(恋する乙女だと? なんで? 俺が? いやいやありえねえって……相手は中学生だぞ)
(ちょっと待てって、俺。大体なんで俺が御坂に恋しなくちゃいけないんだ? そりゃ確かにあいつはちょっとビリビリしてるけど……美人だし可愛いしな)
(いやそもそもなんで御坂が出て来るんだ? 第一、俺はあいつといつ知り合ったかさえわからねえくらいなんだぞ? 確かに俺の記憶喪失を知ってるけどさ。
だからって本人に聞くわけにもいかねえだろうし)
(あの香り嗅ぐだけで、隣にあいつがいるみたいでなんだかドキドキしちまうし……ってなんで俺は御坂のことばっかり考えてるんだ?)
「あーーもうわかんねえよっ! ったく……」
「どうかしたの、とうま?」
「――あ、あ!? いや、なんでもねえよ。なんか心配してくれるみたいなのはありがたいけど、俺なら大丈夫だからな? インデックス」
「――やっぱり変なんだよ、とうま。この私の完全記憶能力には……」
「いや変じゃないよないですないんですからの三段活用? じゃ、じゃあ俺も風呂行ってくっからっ!」
彼女の言葉をそう遮ると、着替えをつかんで脱衣所に飛び込むように駆けていった上条。
インデックスは彼の後ろ姿を見送ったあと、ぽつりと小さく呟いた。
「――インデックスは、とうまが幸せになるのなら、喜んで応援したいんだよ。でも……ごめんね、とうま。
この気持ちに整理がつくまででいいから、もう少しだけ、私に付き合って欲しいんだよ」
そうしてぽたりと一粒だけ、滴が落ちた。小さく握られた白磁のような彼女の手の甲に。
いつもの寝床、浴槽の中で、上条はゲコ太シャンプーのボトルを握ったまま、物思いに耽る。
シャンプーから放たれる、甘く新鮮で爽やかな香りに包まれて、ドキドキと高鳴る心臓の鼓動と、ぐっと締め付けられるような胸の苦しさを覚えていたのだった。
「――御坂美琴、か……」
そっと名前を呟いてみた。
それだけでふわりと浮き上がるような高揚感と、かあっと顔が火照るような熱っぽさが感じられて。
すでに冬の最中となって、底冷えのするこの浴室で眠るには辛い季節だというのに、熱くなった身体にはちょうど良かった。
生まれてはじめて味わうこんな気持ちは、いったい何なのか、なぜなのか、自分でもさっぱりわからない。
もしかすると記憶を失う前の自分なら知っていたかもしれない。が、それも今となっては詮無いことだと思い直し、
これ以上考えるのはやめようと上条は大きく息を吐く。
「明日になれば、この香りにも慣れちまうだろうし、こんなもやもやした変な気持ちだって、忘れちまうに決まってるさ」
そう独りごちてシャンプーのボトルを棚に置くと、頭から毛布と布団を引っかぶり、身体を丸くするようにして眠りに付く。
いつもの大きな枕を抱きしめるようにしているだけで、気持ちが落ち着いていくような気がするのだが、
今日ばかりは目を瞑っている間も、なぜだか美琴の笑顔は脳裏から離れてくれなかった。
それでもやがて上条の意識は、深遠の淵へと静かに沈んでいった。
もう明け方なのか、ふっと意識が戻りかけたとき、上条の腕の中に何かが感じられていた。
それは熱くもなく冷たくもない、自分と同じ温かさを持ったもの。
まるで女の子を抱きしめているような感覚と、あたりに漂ういつもと違う良い香り。
上条には何の疑いもなく、それは御坂美琴なんだと思えていた。
(――ああ、御坂か?)
『――お願いだから美琴って呼んで欲しい』
(みこ、と)
『当麻』
(ああ、美琴……)
『なあに? 当麻』
(美琴はいい匂いだな)
『ありがと、当麻』
(――お前の匂い、もっと嗅いでいたいな)
『当麻だったら、いいよ』
(そうか、だったら……ここと、ここと、ここも)
『――いやん、当麻のエッチぃ……』
(み、美琴ぉ……えっ!? あれっ? えええーーーっ!)
ガバッと飛び起きた上条が目にしたのは、見慣れた浴室の風景と自分が抱きしめている大きな枕。
「ええっーーー!?」
悲鳴のような叫びを上げかけたところで、慌てて口を押さえる。
夢だとわかってほっとする一方で、上条はなぜだかものすごく残念な気持ちになっている自分に気がついた。
(お、俺が、アイツの匂いをもっと嗅いでいたいだとおおぉぉ?)
はぁはぁと肩で息をするも、彼は心臓の高鳴りが押さえられなくなってしまっていた。
上条の胸はきゅっと切ない苦しみを訴えるだけでなく、顔までもが熱く火照っている。
「い、いつから上条さんは、匂いフェチの『くんか条さん』になってしまったんでせう?」
(――くそっ! こんな夢見ちまったらアイツの顔なんて、今日一日まともに見れるわけねーよ! ふ、不幸だ……)
なぜそれを不幸だと思ったか考える間も無く、すぐに起床時間がやってきた。
もちろん気持ちを入れ替えるための二度寝など許されるはずもなく、そのまま登校時間を迎えることとなる。
放課後の帰り道、いつものように美琴と遭遇した上条は、もちろんまともに彼女の顔なぞ見られるはずもなく、顔を真っ赤にさせて逃げ出すように走り去っていく。
後に残された美琴が、いつもと違う上条の様子に訳もわからず、ただぽかんと彼の後姿を見つめるだけだったのは言うまでもない。
~~ THE END ~~