離れない想い ~Never_Let_Me_Go 中編
麦野沈利が去って、部屋にひとり残された上条当麻。
ベッドに寝転がったまま、じっと天井を見つめている彼の脳裏では、今も彼女の言葉が繰り返される。
――惚れた女に、自分の弱さを押し付けるな。
いつもの彼なら何もためらうことなく口にする言葉が、なぜだか今は辛く感じられた。
自分の弱さを言い訳にして、他人にそれを強いたり、あるいは傷つけたりする者たちへ向けて、これまでずっと彼が言ってきたこと。
なのに初めて自覚した己の弱さを目の前にして、自分もそうなってしまうこと、そうなってしまったことに、上条は戸惑い逃げ出してしまったのだ。
「ははっ。あいつらに向かって、えらそうなこと、言えるわけねーじゃねえか」
敵を目の前にして、逃げ出すことなどこれまでの彼には無かったこと。
ずっと自分の信念のために戦ってきたはずなのに、その信念を自ら曲げてしまうことが怖かった。
そんな自分の弱さを目にして、それをどうしてよいのかわからなくなり、認めようとせず尻尾を巻いて逃げ出した。
「俺の弱さ、か……」
彼は『不幸』だ。生まれてからこの方、ずっと不幸の連続だった、らしい。
らしい、というのも彼にはもう、昔の記憶が無いからだ。
かつてインデックスを救ったときに、彼は自身のエピソード記憶を失う羽目になる。
その後、彼女が所属する組織からその保護者役を命じられ、彼女がイギリスに戻るまで、ずっと一緒に過ごしていた間に彼は様々な事件に巻き込まれてきた。
最初は、『禁書目録』という世界を破滅に導くという少女が持つ『力』を巡る争いから、彼女を守るはずだった。
だが、実際には科学と魔術の争い、科学の覇権をめぐる争い、そしてついには第三次世界大戦にまで巻き込まれることとなる。
だからこそ上条は、もうこれ以上彼女を巻き込ませまいと、自分の元から離すよう、土御門元春とステイルにイギリス清教との交渉を頼み込んだ。
結果、彼女は一旦ロンドンに戻ることになった。
最初は渋っていたインデックスだったが、『幻想殺し』のことを魔術側でも調べてくれるよう、上条が頼んだこともあって、最後はなんとか折れてくれた。
もちろん上条にとっても、その調べは重要なことであり、『神の右席』と呼ばれる魔術師らとの戦いからずっと気になっていることでもある。
今でも時々、インデックスとは電話のやり取りをしているが、相変わらず元気に過ごしているようだ。
「ごめんね、とうま。『幻想殺し』のことは、なかなかこちらでも調べがつかないんだよ」
彼の右手の鍵を握っていたかもしれない左方のテッラは死亡し、右方のフィアンマは行方不明。
もしかしたら、最大主教「ローラ=スチュアート」なら何かを知っているのかも知れないが、もちろん彼女がそれを明らかにするはずもない。
『必要悪の教会(ネセサリウス)』の資料を片端から漁っても、手がかり一つ見当たらない現状に、インデックスの焦燥は増すばかりなのだが、それをおくびにも出さないのは彼女なりの気遣いだ。
「ありがとうな、インデックス。まあ、焦ってもしょうがないしな。またわかったらでいいからさ」
「うん。――それはそうと、とうまはちゃんとご飯食べてるのかな? またいろんなことに巻き込まれてない? 私がいないからって、自堕落な生活してちゃだめなんだよ!」
上条は、――お前が言うな、と思わず口をつきそうになるのをぐっとこらえて、はいはいと彼女の話を聞いてやる。
「ちゃんとご飯も食べてるし、相変わらずいろんなことに巻き込まれてるよ。お前がいないおかげで、上条さんも平穏な朝を迎えることが出来てるんだからな?」
「むーーっ! それじゃ私が騒動の原因みたいなんだよ! 今度そっちへ帰ったら、真っ先にとうまの頭を噛み砕いてやるんだから、覚えておくんだよっ!」
「おーおー、いつでも来やがれ。俺だって今までの上条さんじゃ無いからなって、無いです無いんですからっの三段活用!」
離れているのをいいことに、冗談半分本音半分のような会話をしても、インデックスの噛み付き攻撃が飛んでくることは無い。
と言うより、彼女とこんな他愛もない会話をすることが、今の自分にとって、どれほどの救いになっているかは良くわかっていた。
それは遠い地球の反対側にいる彼女も同様らしく、
「相変わらずとうまはとうまなんだねっ!」
フンス、と鼻息も荒く電話口で叫ぶインデックスの顔が、目に浮かぶようだ。
しかしおそらくは彼女も、自分と同じ気持ちなんだろうな、と彼は思う。寂しさを堪えて無理に笑顔を作るような、そんな思いでいるのだと。
「――なあ、インデックス。お前、そっちで寂しい思いなんかしてないか? 皆、優しくしてくれるか?」
「うん、大丈夫だよ、とうま。こっちにはすているも、かおりも、いつわだってあにぇーぜだっておるそらだって、みんないるからね。だから気にしなくていいんだよ」
これじゃどちらが保護者かわからないよな、と思いながらも上条は、
「本当なら、俺がちゃんとお前の傍で守ってやらないといけないんだけどさ、ごめんな。俺と一緒だとお前まで巻き込んじまうから……」
「ううん。私だってとうまの足手まといにはなりたくないもん。私もみことみたいに戦えたらよかったんだけど……」
「そ、そんなことないぞ。本当は俺だってお前がいた方が、もっと楽に戦えるかなーって思ってるんだからな。だからそんなこと、もう言うんじゃねーぞ」
本心を覗かれたような気がして、その瞬間、どきり、と上条の心臓が跳ねた。とっさに言いつくろってはみたものの、おそらく彼女にはお見通しだろう。
それでも――わかったんだよ、とインデックスの声が聞こえてきた。
大切な家族が離れ離れになったようで、何かを繕うような嘘さえも、優しさ故のことだと思えるようになってしまった。
そう、思ったのもつかの間、
「ねえ、とうま。――みこととは仲良くしてる?」
その言葉を聞くたびに、上条の胸がちくりと痛む。おそらくインデックスには何もかも承知の上なのだろう。
なんのことはない。自分がインデックスにこうしていつものように振舞えているのも、美琴がいるからなのだ、と。
「ああ、大丈夫だ。仲良くしてるぞ」
「よかった。とうま、みことのこと、優しくしてあげるんだよ」
「ああ、わかってるさ」
「――じゃ、またね。みことによろしくなんだよ」
「またな、インデックス。なんか困ったことがあったら、いつでも助けに行くからな?」
「うん、ありがとうなんだよ。とうま」
自分は、結局、美琴と居ることを選んだのだ。だがそれは決してインデックスを捨てたわけじゃない。今だって何かあれば、彼女を助けに行くことに迷いはない。
だがそれも、いつだって美琴が傍に居てくれたから。彼女の支えがあったから。
彼女が居てくれるから、自分は戦うことだってできるのだ。
――もし、美琴が居なくなったら?
そう考えただけで自分の足元が、がらがらと音をたてて崩れてしまうような恐怖に襲われる。
「いやだ……」
思わず声が漏れる。
「失いたくない……」
誤魔化しようのない本心からの言葉。
「御坂を……美琴を……」
心がびりびりと震える。
背筋を冷たいものが走り抜ける。
「俺は……っ!」
何もない地平に一人放り出されて、いったいどちらを向いたらいいのかわからなくなるような感覚に、ぶるりとその身を震わされる。
彼女だけが、自分の進むべき方向を指し示すことが出来るということを、今こうして上条は思い知らされているのだ。
「どうしたらいいんだよっ!」
彼を悩ませるのは、得体の知れない恐怖、だった。それは理由のない感情。原因不明の感情だ。
かつて『不幸』の中心にいた少年は、不幸にして過去の記憶を失った。
それは自分の身に降りかかった不幸な経験の記憶を失うことになったが、その時の感情を失ったわけではない。
失い、去られ、無視され、蔑まれ、嫌われ、貶めれられ、この世のありとあらゆる悪意に晒されてきた少年が受けた心の傷は失われることがなかった。
その記憶だけがすっぽりと消え去って、残された寂しさ、悲しみ、恐怖といった感情だけが、上条の心の中でトラウマとなって暴れるのだ。
上条は記憶を失って、初めて美琴に恋をした。
まだその想いが小さかったときならなんでもなかったが、自分の存在にかかわるほどの莫大な感情となってからは、それが失われることによる恐怖も莫大だ。
これまではいつも美琴が居ることが、当たり前のようになっていた時はなんともなかったが、彼女が傷ついて初めて分かったその恐怖に、彼はトラウマを刺激される。
だがそのトラウマは、記憶が消えたために原因が分からない。克服するためには常に恐怖と向き合い、戦って乗り越えるしかない。
それが叶わなかった時、その先にゴールはなく、地獄の底に繋がっている破滅の運命が待ち受ける。
そこから彼を連れ出せるのはただ一人だけ。
ヒーローを助けられるのは、彼とともに、彼のために一緒になって立ち向かえるヒロインだけなのだ。
「――当麻っ!」
突然、扉が開く大きな音とともに聞こえてきた声。
それは彼がずっと聞きたかった声だった。
「み……御坂っ!」
その声に上条はベッドから飛び上がるようにして、声のした方へと向いた。
彼が目にしたのは、はあはあと息を切らせるようにして、部屋へと飛び込んできた御坂美琴の姿。
「さが……したわよっ! この馬鹿っ!」
「御坂……」
顔を紅潮させ、目には涙を滲ませ、じっと上条を見つめている。
「病院から姿を消したって聞いて、心配したんだから」
一歩、また一歩と上条の方へと近づいてくる彼女の姿に、
「お、俺は……ッ!」
上条の心に再び恐怖が蘇る。
だがそんな彼の心の闇に、光をもたらさんとするかのごとく、彼女は構わず踏み込んでいく。
「当麻……」
(ク・ル・ナ!)
上条の心に、再び痛みが蘇る。同時に彼の脳内には、聞いた憶えのない声が響いてきた。
ぎりぎりと胸が、頭が締め付けられるような感覚が巻き起こる。
だがそんな彼の心の痛みさえも、
「私、決めたの……」
(チ・カ・ヨ・ル・ナ!)
脳内に響く声さえも、
「何があろうと、絶対に……」
(オ・マ・エ・ノ・セ・イ・ダ!)
消し去るようにして、
「アンタの傍から離れないって」
(ヤ・ク・ビ・ョ・ウ・ガ・ミ!)
美琴が上条の闇へと踏み込んでいく。
「いくらアンタが、私を巻き込むまいとしたって」
(ク・ル・ナ!)
それはかつて、あの実験を止めるために、
「私の方から巻き込まれてやるんだからっ!」
(ア・ッ・チ・ヘ・イ・ケ!)
上条が美琴の闇へ踏み込んで行ったように、
「ねえ、当麻。私は」
(オ・マ・エ・ノ・セ・イ・ダ!)
美琴は躊躇うことなく、
「何があったって、もう二度と」
(ゼ・ン・ブ・オ・マ・エ・ノ・セ・イ・ダ!)
上条の心へと踏み込んで、
「傷付いたりしない」
(オ・マ・エ・ナ・ン・カ!)
彼を元の場所へと連れ戻すのだと。
「――傷付いてなんかやるもんですかっ!」
(キ・エ・テgfdst…wer…yuikjh…)
上条の視界が揺れる。身体が震える。頭が痛い。寒い。苦しい。動けない。
脳内に響いていた声が、ノイズのように変わって頭の中をぐちゃぐちゃにかき回していく。
突然上条が、頭を抱えて苦しみだしたのを見て、驚き慌てて駆け寄ろうとする少女の姿。
その彼女が差し出してくる手を目にしながら、
(――ああ、あの時と同じだ)
混濁する意識の中で、上条の脳裏に甦る記憶。
ロシア上空、ベツレヘムの星の上でのこと。
ハワイの空港でのこと。
そして……、
(でもやっぱり、巻き込みたくないんだよ)
すうっと伸ばされた彼女の手が、
(ごめんな)
遠ざかっていくように、
(やっぱり俺は)
感じられて、
(お前の手をとることなんて……)
そう諦めようとしたとき、
「―――――――じゃない」
気がつけば、美琴の胸にぎゅっと抱き締められていた。肌に伝わる彼女の温もりが、上条を悪夢から解き放つかのようにじんわりと心に染みてくる。
こうして誰かに抱き締められたのはいつ以来なんだろう、と上条は思う。
記憶を無くす前にはあったのだろうか。憶えていないはずなのに、それはなぜだかとても懐かしく思われた。
「――アンタは一人じゃない。その苦しみを、その重荷を、当麻一人だけになんて背負わせない」
耳元で、優しくささやく声が、上条の心に重く圧し掛かる苦しみを、振り払うようにかき消していく。
「私が傷付いたのは、自分の所為よ。私がまだまだ未熟だったから。決して当麻の不幸に巻き込まれたわけじゃない」
静かな言葉だった。だが何者にも否定されないような明確な意志を持って。
今、彼女の目の前にいる者は、巻き込まれたもの。
『不幸』にして、御坂美琴の弱さに、未熟さに、選択の余地さえなく巻き込まれた。
「アンタが……当麻が、どれだけ私を不幸に巻き込んだと言ったって、私はそれを認めない」
「み、さか……」
「それでも背負うというのなら……」
美琴が向けた射るような瞳から、ぽろりと滴が零れる。
つうっと頬を伝ったかと思うと、ぽたりと上条の右手の上に落ちた。
「私の幸せも背負ってよ! 私の全てを背負ってみなさいよ! アンタの背負った不幸だって、元はといえば全部私の物なんだから!」
「――ッ!」
気圧されるような心の揺らぎが上条を襲う。思考が麻痺を起こし、何も否定が出来なくなって。
「私ならアンタの全部を背負ってみせるわ! アンタの不幸も、幸せも、どんな重荷だって背負ってみせる……」
上条の目に映った彼女の顔は、笑っていた。
その笑顔を目にするだけで、上条はすっと気持ちが軽くなるように感じられる。
「――でも、当麻だって、私に当麻のものを背負わせるなんてしたくないでしょ?」
「ああ。美琴には何も背負って欲しくないんだ」
いつだって、彼女には背負ってなんか欲しくなかった。その重荷で、輝くような眩しい笑顔を曇らせることなどして欲しくなかった。
彼女には、ただでさえ背負うものが多すぎると上条は思う。
超能力者(LEVEL5)、学園都市第三位、学園都市の広告塔、そしてなによりも『妹達(シスターズ)』のこと。
あの実験のことも含めて、未だ美琴の中に、贖罪の意識は消えていない。そんな彼女に笑ってていいと言ったのは上条だ。
それでも彼女自身が持つ、原罪にも似た罪の意識に決着をつけられるのは、いつになるのだろう。
にもかかわらず彼女は、その真っ直ぐで一本気な性格の通りに、吹き付ける逆風に向かって雄々しく立ち向かうのだ。
能力勝負では彼女に負けたことの無い上条だが、それでもいつの間にか美琴には、自分には無い眩しさを感じていた。
「だったら、尚更、私が背負うべきものは私に背負わせて欲しいの。それでもって言うのなら、背負えるように、私のことを支えてくれる?」
「御坂……」
言われずとも、美琴のことはずっと支えてやりたいと思っている。
この想いを自覚する前、あの魔術師との約束を交わした時に、あっさりと言葉に出せたのはなぜなのかと考えたこともあった。
それは、あの鉄橋での姿を見たときからずっと、彼女を守りたいと思っていたからなのだと思う。
別に好かれていなくても構わない。大切な仲間として、ともに助け合い、支え合えるのなら、それで十分だと思っていた。
だがそれは自分の目の前で、彼女にあんなことが起こるまでは、だ。
「私はずっと……当麻の傍にいるって決めたの。言ったでしょ? 私とアンタは同じ道を歩んでるって。だから私を置いて、一人で消えようだなんて許さない……」
「それでもやっぱり俺は――んっ!?」
上条はその言葉を、続けることが出来なかった。なぜなら、美琴が彼の口を塞いでいたからだ。
彼の視界いっぱいに映るのは美琴の顔だった。そして唇に、柔らかく温かな感触。
「――んんっ……」
「……ん……」
想いを告げるように、美琴が上条に口付ける。
ゆっくりと、やさしく、熱く、激しく。
彼女の腕が、上条の首の後ろに巻きつくように廻されている。
気が付けば上条も、美琴の背中に腕を廻し、じっくりと味わうような口付けを繰り返していた。
「み……美琴。お前……今、なにを……」
「うん……。ずっと……当麻のことが……」
どちらからともなく、ゆっくりと唇が離れた。冷気に触れた上条の唇が、まるで熱を持ったように、じんじんと火照っている。
見れば、美琴の瞳からぽろぽろと、涙が零れていく。
上条はその涙を拭いてやることが出来なかった。
「――好きだったの」
「そう……か。俺も、好きだった」
それは上条も涙を流していたからだ。別に悲しいとか、嬉しいからと言うわけではない。
ただ、美琴の想いに触れたから。彼女の意志の下の愛が、彼の中にある『何か』を揺さぶっていた。
ずっと抑えていたものが、彼の中から溢れだして、ついにその重石を撥ね退けたのだから。
「――私は当麻を縛りつけてる、そのふざけた鎖を解いてあげたかった」
「美琴……」
「なんでもかんでも、なにもかも一人で背負って、背負い込んで。いつか潰れてしまいそうなそんな生き方なんて、当麻にはして欲しくないの」
「…………」
「私だって、当麻の重荷になりたくない。当麻が楽になれないなら、私から離れたっていい。でも……今のアンタは一人になんてさせられないのよっ!」
絞り出すような彼女の声に込められたのは、愛、なのだろうか。
たとえそれが、その想いが愛でないのだとしても、美琴は今、自らの欲する所を為そうとしている。
「一人でどこかへ行ったりしないでよ! 私は当麻と一緒なら、不幸になっても構わないっ!」
「美琴……」
「――当麻とだったら、地獄の底までだってついて行くんだからっ!」
叫ぶように、思いの丈をぶつけてくるこの少女を、彼は内なる感情のままに受け止める。
抱きしめている美琴の身体は、華奢で、柔らかかった。
あと少し強く力を入れるだけで、儚く砕けてしまいそうな彼女なのに、どうしてこんなに強いんだろうと思う。
「俺と一緒に地獄へ落ちようなんて、そんなこと、させられっかよ!」
「当麻……」
上条は無意識に拳を握り締めていた。強い眼差しで、じっと彼女の顔を見つめている。
「――地獄に落ちる前に、お前を抱いて、這い上がってみせるから!」
まるで自分の意志を、誓いを、彼女に告げんとするかのように。
「俺は、ずっと一緒にいたいんだ。美琴」
もはや彼に躊躇いは無い。
「――俺は、お前と一緒なら、この幻想(悪夢)をぶち殺せるんじゃないかって思えるんだ」
多くの者たちを救ってきた主人公(ヒーロー)が、初めて求めた救いを与えることが出来るのは、
「だから、これからもずっと、俺の隣にいて欲しい……」
たった一人の主人公(ヒロイン)だけ。
「――もし俺がまた一人で行ってしまいそうになったら、お前の手で止めて欲しい。辛いことがあったときには、こうやってまた、抱きしめて欲しいんだ。美琴」
「うん。私は当麻の前から消えたりしないから。私はずっと一緒にいるから、いつでも止めてあげるし、抱きしめてあげるわ」
「良かった。ありがとう」
それは世界が最後のときを迎えようとも。
たとえ世界が上条(ヒーロー)を不必要なものだとしても、美琴(ヒロイン)にはいつだって彼が必要なのだから。
「――だったら私からもお願いがあるんだけど」
「ん?」
いつだって美琴(ヒロイン)は、上条(ヒーロー)のためにいるものだから。
「ちょっとだけ、アンタの胸を貸して欲しいの」
「ちょっとと言わず、好きなだけ使っていいからな……」
そしてまた、上条(ヒーロー)は美琴(ヒロイン)のためにいるものだから。
「――お前が泣いていいのは、俺の胸でだけだぞ」
そう言うと上条は再び、美琴をその腕に強く抱きしめる。
彼女の手が、彼の背中へと回されて、さらに抱きしめ返す。
ふたりはそのまま、ゆっくりとベッドへ倒れこんでいった。
翌朝、上条が目を覚ましたとき、最初に感じたのは実においしそうな良い匂いだった。
その匂いを嗅いだだけで、彼のお腹からなんとも間抜けな音が聞こえてきた。と、同時に猛烈な空腹に襲われる。
病院を抜け出して以来、まともな食事なんて取らなかったし、取れもしなかったが、今朝は久しぶりに食欲が湧いていた。
昨日、あれだけのことがあったからか、今の上条からはもはや苦悩のようなものは感じられない。
彼自身、一体なににそれほど悩んでいたのか馬鹿らしくなるほどに、爽快な気分になっていた。
ん……っと大きく体を伸ばすだけで、体中に力のようなものが満ち溢れてくるのが感じられる。
(――もう迷わない)
気が付けば、自分の頬も緩んでしまっているのを感じていた。
(俺は、決めたんだ。失いたくないからこそ、御坂と……美琴と、今度こそ同じ道を行くんだ)
上条が目覚めた気配を感じたのか、
「おはよう、当麻。よく眠れた?」
キッチンからひょこっと顔を出した美琴の顔も、同じくらい笑顔になっていた。
「おはよう、美琴。いい匂いだな」
「今できるから、先に顔を洗ってきてね。さっぱりするわよ?」
まるで母親のような彼女の物言いに、ふふっと笑みがこぼれる。
そんな彼の表情に気が付いた美琴が、
「どうかしたの?」
「いや、なんでもねえ」
「……変な当麻?」
それでも、照れ隠しのようにふわりと笑った彼女の顔は、幸せが今、彼の目の前にあることを物語る。
「――幸せだな……」
そう呟いた彼の顔も、同じように笑っていたことには、彼自身も気が付かなかった。
それでも不幸を乗り越えた先にある幸福というものを、上条は今、しっかりと手にしたことだけは感じていた。
朝食を済ませると、二人は揃ってアイテムの隠れ家を出た。上条にとってはこんな逃避行など、すでに何の意味も持たなくなったから。
彼は再び、立ち上がることが出来たのだ。
外観上は古い廃ビルとしか見えない建物を出ると、すぐ下の道路にふたりは降り立った。
久しぶりにまっさらな陽の光を浴びた上条が感じたのは、
「空って、こんなに高かったんだな」
眩しそうに見上げたそこには、雲ひとつ無い青空が広がっており、さわやかな風が、彼の頬を撫でていく。
再開発に失敗したといわれるこの学区の荒れ果てた街路には、この時間になっても行き過ぎる人影ひとつ見当たらない。
それでも隣に寄り添うように立つ少女へと目を向ける。
じっと自分のほうを見ている彼女と目が合った。そこに見えた美琴の瞳は限りなく力強く、そして限りなく優しかった。
その瞬間に、上条は初めて自覚する。
彼女はそうやって、ずっと自分のことを見つめ続けていたことを。ずっと自分だけを見ていたことを。
こうして心が通じ合ってみれば、今やはっきりとそのことがわかるのだ。
いつだって彼女は、その鳶色の瞳で自分の背中だけを見ていたのだろう。これまでずっと、自分はそんな彼女の想いに気が付かなかったのだ。
だが。
これからは。
彼女は自分の隣に立ち、自分も彼女の隣に立つ。
「美琴……」
上条がそっと手を差し出した。
「――手、繋ごうぜ」
今この瞬間から、美琴は間違いなく、上条の隣に並び立つ。
彼にとって、御坂美琴という何者にも代えがたい少女は、自らが守る存在でなく、肩を並べ共に進んでいける『特別な』存在として、深く心に刻まれることになるのだ。
「――うん!」
もはや言葉にせずとも、美琴には彼の言わんとすることがはっきりと理解できた。
上条はこれからも御坂美琴とその周りの世界を守り続けるだろう。そしてその守るべき周りの世界の中心には、間違いなく彼自身がいるのだということを。
美琴は差し出された手を取ろうと、手を伸ばしかけたその時。
――向こうの通りの古いビルを、轟音とともに真っ白な光線が貫いた。
「――ッ! メ、原子崩し? 麦野かっ!!」
「――麦野さんっ!?」
超能力者第四位『原子崩し(メルトダウナー)』麦野沈利の放った粒機波形高速砲の白い光が、ビルの建屋を貫いて、青い空へと登っていく。
「美琴ッ!!」
「当麻ッ!!」
その光の放たれた方へと向かって、ふたりが通りを駆け出そうとした時、美琴の携帯が鳴った。
上条のすぐ後ろを走りながら、電話に出た彼女の耳に飛び込んできたのは、
「土御門だ! カミやんはそこにいるかッ? 超電磁砲!」
「――え? あ、はい。何かあったんですか?」
いつもと違う土御門の口調に、美琴の勘が何かを告げる。
「――敵襲だ! 『ヤツら』がそっちへ向かった! カミやんを頼むッ!」
同時に彼女の体から放射される電磁波レーダーが反応する。
「危ないっ!」
「うわっ!?」
すぐ横の路地から、空中へ飛び出してきた何かが二人に襲い掛かる。美琴は思わず上条を突き飛ばすと、その物体へと電撃を放つ。
だがそれは器用に電撃を避けた動きをすると、上空へと舞い上がっていった。
直径70センチぐらいの機械の輪のような外形。雀蜂が飛ぶような太く低い唸り声を響かせながら、再び円を描くような軌道で二人へと迫ってくる。
「『Edge Bee(エッジ・ビー)Ⅱ』だとぉ!?」
「なんでこんなものが……きゃっ!」
金属製には見えないくすんだ外枠の内側に、シャンプーハットのようなプロペラが付き、外側にはぐるりと取り囲むチェーンソー。
その『外枠』上面に印刷された『Edge Bee Ⅱ』という機種名。
それはふたりの間を切り裂くようにすり抜けると、すぐ脇のビルの壁へと激突する。
ギャリギャリギャリギャリ!! とコンクリートを削りながら上昇し、ふたりを睥睨するかのごとく、頭上高くに浮かんでいた。
「無人攻撃機、ね……」
美琴が空中に浮かぶそれを睨みつけながら、言った。
「お前の電撃でいけるか?」
上条が美琴を横目で見つつ聞く。
だが彼女から返ってきた言葉は、意外なものだった。
「やってみないとわからない……」
発電系能力者(エレクトロマスター)の頂点に立つ彼女には、似つかわしくない言葉。
「――電磁波で見てみたけど、かなりの耐電耐磁対策が成されてるから、ちょっと手こずるかも。多少の電撃では効かないと思う」
その言葉が終わらないうちに、それは再び動き出す。
「来たわよッ!! ――当麻ッ!!!」
「おおおおおおおおおおおおおッ!!!」
美琴の動きを牽制するかのようにゆるいカーブを描きながら、高速で降下してきたそれは、彼女へと向けた軌道を突然変えると、上条へとその刃を向けた。
どうやら搭載されたAIは『幻想殺し』を標的としているようだった。
これまでに磨き抜いてきた彼の『前兆の予知』と、咄嗟の反射神経で身体を捻るようにしてそれをかわす。
が、殺人ディスクの姿勢制御装置はそれさえも計算しているのか、上条の背後で向きを変えると、たちまちその背中へと襲い掛かる。
もう一度避けようと踏ん張った彼の足元で、古い舗道の角石が外れた。
グラリ、とバランスを崩した上条の身体には、もはや避けられるだけの運動量は残っていない。
「しまっ――!!!!!」
――ズバァァァァァァァァアアアアアアアアンン!!!!!!
その刹那、轟音とともにオレンジ色の眩い光が、彼のすぐ後ろを通り抜けていった。
~~ To be Continued ~~