あの日の**を待つ君へ
第1章 取り戻した日常、失ったモノ(上条side)
夕暮れ時の第七学区。
シャケ弁と某ブランドの缶コーヒーが何故だかよく売れるコンビニの雑誌コーナーに、補習帰りと思われる3人の男子高校生の姿があった。
「やっぱり今月も独占やねー。表紙が眩しいわ」
「こっちでは特集が組まれてるみたいだにゃー。付録まであるぜよ」
「付録!? まさかとうとう……」
「何を想像してるか予想はつくがハズレだぜい? 普通にバイオリン片手に持った特大ポスターだにゃー」
「特大ポスター!? ほな買わな!!」
「じゃあ俺はこれとこれを……」
「ツッチーは義妹一筋じゃなかったん?」
「その舞夏に買ってくるよう頼まれてるんだにゃー」
「ああ、そういや義妹さんは御坂嬢とお友達やったね。今でも仲良しなん?」
「御坂嬢が常盤台の寮を出てからは、会うことも滅多にないみたいだにゃー。でも、メールはたまにしてるみたいだぜい」
「御坂嬢とメールだなんて、ボクもしてみたいわー。そのメアド、ボクにも教えてよ」
「無理な相談だにゃー」
いくつかの雑誌を比べた後、それぞれ目当ての雑誌を手に取り、土御門と青髪ピアスはレジへ向かう。
しかし、2人の後方に黙って突っ立っていた少年だけは、何も買わないまま出口へと向かった。
「あれ? カミやんは何も買わんの?」
観賞用と保存用だとか言って各雑誌2冊ずつ抱えている青髪ピアスが、1人だけ出口へと向かう友人に問い掛けた。
呼ばれて立ち止まった上条は、いかにも退屈ですといった様子で欠伸をする。
「興味ありませんな」
「えー!? これなんて御坂嬢のブロマイド付きやのに!?」
「だから興味ねえって。外で待ってるから早く買ってきやがれ」
信じられないといった様子の青髪ピアスを残し、上条は1人先にコンビニを出た。
自動ドアの向こうにある友人の背中を見つめながら、青髪ピアスは不思議そうに首を傾げる。
「どうしたんやろカミやん……確かカミやんも御坂嬢と知り合いやないの?」
「まぁ、カミやんにもきっと色々あるんだぜい。放っておくがいいにゃー」
いつもの軽い調子で青髪ピアスに答えた土御門は、空いたレジにさっさと雑誌を持って行った。
一方、コンビニを後にした上条は、陽が大分西に傾いた空を見上げていた。
オレンジ色に染まった空には、学園都市では珍しくもない飛行船が浮かんでいる。
「……、本当に独占だな」
誰に言うでもなく、上条はボソッと呟いた。
かつて一人の少女が嫌いだと言っていた飛行船。
皮肉なことに、最近その飛行船には彼女のことばかりが表示されている。
「我らが御坂嬢はまたチャリティーコンサート開催するみたいだにゃー」
「……そうらしいな」
買い物を終えたらしい土御門が上条の隣に立った。
同じように空を見上げた彼の視線の先には、やはり同じ飛行船が浮かんでいる。
「今回のチケットも即日完売なんだろうにゃー」
「……そうだろうな」
飛行船の液晶画面にはでかでかと『御坂嬢による第3回チャリティーコンサート いよいよ明後日よりチケット発売!!』の文字。
そして、その文字と共に、上条もよく知る少女の顔が大きく映し出されている。
「……、超電磁砲も頑張ってるな」
その小さな呟きに、ハッとして上条は土御門の横顔を見た。
それは普段学校で見せるものとは違う、土御門元春のもう一つの顔。
あの長き戦いにおける御坂美琴のことを知っている人物としての、率直な感想だった。
続けて、今度は上条を見据えて、土御門は言う。
「カミやん、お前が何を考えているのか予想はつく。だが、これは彼女の選んだ生き方だ。そして少なくとも俺は、この生き方が間違っているとは思わない」
「土御門……」
「確かに以前の彼女をよく知るお前には色々感じるものがあるだろう。だが、超電磁砲は色々と知ってしまった。あれだけの真実を知ってしまったんだ……彼女の責任感を考えれば、以前と同じように過ごせるはずもないだろう」
サングラスの奥にある土御門の瞳はよく見えない。
しかし、上条がよく戦場で見掛けたあの真剣な眼差しをしているだろう。
「……そう、だな」
長かった戦いが終わり、平和な日常を取り戻した世界。
ただ、全てが元通り、という訳にはいかなかった。
色々と変わってしまったことがある。
「お待たせやでー。おおっ!? こっちにも御坂嬢やないの! 大画面でもやっぱり可愛いわー」
「待たされたにゃー。あのレジのお姉さん『研修中』って書いてあったから、雑誌12冊は苦労したに違いないぜい」
雑誌が入ったビニール袋を抱えて、青髪ピアスが上条と土御門の間に顔を出した。
青髪ピアスが加わったことで、土御門の雰囲気も普段のデルタフォースらしいものへと変わる。
(……、)
3人で馬鹿をして、補習を受け、こうしてコンビニに立ち寄ったりする――それが、上条の取り戻した日常の姿であり、上条が望んでいた日常でもあった。
もちろん上条自身、この日常に不満などありはしない。
ただ一つ、たった一つだけ、上条が望む日常に足りないものがあった。
それは、
(御坂……お前は本当にこれで良かったのか?)
空に浮かぶ美琴の“お嬢様スマイル”に、上条は疑問を投げかける。
学園都市の誇る秀才『御坂美琴嬢』は上条もよく知る少女のはずなのに、まるで全く知らない同姓同名の少女のように思えてならない。
それ程、美琴は上条にとって遠い存在へと変わってしまった。
(御坂……これは本当にお前が望んだ日常なのか?)
戦前の上条の日常にあって、戦後取り戻した上条の日常にただ一つ足りないもの。
それは、上条がよく知る『御坂美琴』の存在。
(御坂……)
上条当麻が新しく手に入れた日常は、『御坂美琴』のいない日常だった。
御坂美琴が変わったのは、戦いが終わり、彼女が中学3年生になってからだった。
だが、それは美琴が何か大きな怪我を負ったからというわけではない。確かに数週間入院はしたが、あのカエル顔の名医のおかげで後遺症は一つもなかった。
彼女が変わった原因は、彼女が戦いを通して知ってしまった事実にある。
『人質……? あの子たちがまた利用されてるって言うの?』
『あの子たちは兵器なんかじゃない!!』
美琴のDNAマップを利用した体細胞クローン、『妹達』。
上条の活躍により解決されたと信じていた『妹達』の問題は、美琴が考えていたよりももっと複雑なものだった。
「治療」という名目で世界各地に預けられていた『妹達』だが、彼女たちの存在は時に『兵器』、時に『人質』として、美琴や上条の知らない所で都合良く利用され続けていた。
一方通行の暗躍によって解決された問題もあるが、それでも犠牲が0のまま戦争が終わったわけではない。
激しさを増した戦いの中で、『妹達』の中からも犠牲者は出てしまった。
『もう誰も死なせないって……私が守るって誓ったのに……』
学園都市に利用され続けていた『妹達』。
だが、美琴が知ってしまった事実はそれだけに留まらなかった。
『ファイブ、オーバー……?』
『私のせいでこの人たちは死んだ……だってこれ全部私の力の応用なんでしょうッッ!?』
学園都市が開発したファイブオーバーシリーズの存在。
超能力者の能力を研究することで生み出された最悪の兵器。
第三位超電磁砲の派生研究によって生み出された無人殺戮兵器は、その能力を人の為に役立てようと誓った少女の前で、一般人を含む多くの人々をの命を奪ってみせた。
『あぁぁぁああああああああああああああああ!!』
都合良く『妹達』を利用し続ける世界の闇と、『ファイブオーバー』による悲劇。
戦争で美琴が知ってしまったこの2つの事実は、確実に彼女を追い詰めた。
『私があの時ちゃんと断っていたら……』
『私が超能力者になんてならなかったら……』
全て自分に責任があると思ったのだろう。
無邪気で明るかった笑顔は消え、御坂美琴の“償い”の日々が始まった。
『過去は変えられない。だから未来を変える。変えてみせる』
『今度こそ必ず、私はこの能力を世界の為に使うの』
退院直後より、美琴はその頭脳を駆使して償い始めた。
常盤台在学中より論文をいくつも書き上げ、いくつかの研究に大きな進展をもたらした。
慈善活動も積極的に行い、その取り組みは毎回メディアに取り上げられた。
液晶画面の向こう、インタビューに応える美琴は、自身が活躍する理由についてこう述べた。
『私は私の全てをもって、これからの世界平和の為に尽力します』
『それが超能力者である私の責任ですから』
世界規模の戦いが終わっても、御坂美琴の戦いが終わることはなかった。
いや、終わらせることを、美琴は良しとしなかったのである。
(……なんだかなぁ)
帰宅した上条は、ベッドの上で仰向けに寝転がりながらぼんやりと考えていた。
友人らと何を話ながら帰ってきたのかはよく覚えていない。あれからずっと、美琴のことばかり考えていた。
戦いの中で事実を知った美琴が放った言葉の数々は、今でも鮮明に思い出せる。
少女が一人追い詰められてゆく様子を思い出し、上条は唇を噛み締めた。
『これは彼女の選んだ生き方だ。そして少なくとも俺は、この生き方が間違っているとは思わない』
コンビニ前で土御門に言われたことが脳裏に浮かぶ。
土御門は正しい。いや、絶対的に正しいかはともかく、少なくとも間違ってはいない。
(そんなの俺だってわかってる)
『妹達』の為に命を捨てる決心さえした彼女だ。
美琴の正義感や優しさを考えれば、自分の能力が元で起きた悲劇に対して償おうとする彼女の意思は十分に理解出来る。
もしも自分が美琴の立場であったら、やはり全てを犠牲にしてでも償おうとするだろう。
(けど俺は……)
美琴自身に責任はない、そう思っている。あの悲劇は美琴の能力を悪用した者共が起こした悲劇であり、美琴もまたその被害者だ。
しかし一方、もしも自分がその立場であれば、「俺の知らないところで起きたことだから俺に責任はない」など思えるはずのないことを、上条は知っている。
自分自身を加害者と思うことはあっても、被害者として哀れむことなど決してないだろう。
(俺は……)
結局、上条と美琴は似ていた。似ているからこそ、美琴の選択を否定し切れない自分がいる。
ただ、今の美琴の在り方を理解は出来ても、納得は到底出来なかった。
理解と納得は別物だ。
(何が“お嬢様スマイル”だよ。あんなのちっともアイツらしくないってのに)
その輝かしい功績から“御坂美琴嬢”ブームに沸く学園都市だが、上条はそのブームを嫌っている。
テレビをつけても空を見上げても街を歩いても店に入っても“お嬢様スマイル”を浮かべる御坂美琴の顔があり、それを目にする度に自分の日常から消えた彼女を思い出してイライラしてしまうのだ。
それに、紙面や液晶画面上で見る美琴が心から笑っているとは、上条には到底思えなかった。
彼女の偽りの笑顔は、平和な日常を取り戻して幸せなはずの上条の胸を、いつでも苦い何かで絞めつけた。
「御坂の奴、今何考えてるんだろ……」
気が付けば想いが小さな呟きとなって漏れていた。
ポケットから戦後きちんと修理して復活した携帯電話を取り出し、メールの受信BOXを過去に遡ってみる。
3月まで遡ったところで、ようやく美琴の名前が見つかった。
1月以前のメールはすでに消えており、2月12日の美琴とのメールがギリギリ残っていた。
『明後日、いつもの自販機前で会える?』
2月12日に美琴から届いたメール。バレンタインの呼び出しメールで、確かこのメール自体が随分と久々な美琴からのメールだった。
(……、とりあえず保護しとくか)
過去のやり取りが消えてしまわないようにメールを保護してから、上条は携帯を手放した。
瞼を下ろして思い出すのは、今年の2月と3月のこと。
上条当麻が御坂美琴と共に過ごした、最期の日常である。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
美琴の中学卒業も迫っていた今年2月のバレンタインデー。
雪の降るそのバレンタインデー当日に、上条は美琴に呼び出された。
美琴から呼び出されて会うのは、おそらく戦後初めてのことだったように思う。むしろ 会うこと自体が、いつもお世話になっている病院を退院して以来初めてのことだった。
「悪い。待たせちまったか?」
「ううん。私もさっき来たところ。アンタにしちゃ早いじゃない」
その日、珍しく待ち合わせ時間より5分も早く着けたというのに、やはり美琴は先に待っていた。
雪が降る中、美琴はピンクのミトンをはめた両手で小さな手提げ袋を持ち、自販機に背中を預けて待っていた。
さっき来たところとは言っていたが、おそらく嘘だ。美琴の靴の上に積もっている雪を見るに、少なくとも30分は前に来ていたに違いなかった。
「……、随分と久しぶりだな」
「そうね」
「身体の調子はどうだ? お前も結構酷い怪我だったし……」
「心配ないわ。あのゲコ太先生さすがよね。後遺症どころか傷跡一つないわよ」
美琴はそう言って自分の左肩を軽く叩いて見せた。
病院に運ばれた時にあった左肩の酷い傷は、どうやら本当に完治したようだ。
「アンタこそ大丈夫? 私なんかよりずっと酷い状態だったでしょ」
「安心しろ。上条さんの回復力は並大抵ではございませんのことよ! ……にしてもお前、何か忙しそうだな? 最近よくニュースで名前聞くぞ」
「ああ、論文のこと? 頑張ったのよ、あれ」
「何の論文だっけ? えっと……」
「筋ジストロフィー症についての論文よ。まぁ、アンタの頭じゃ読んでも理解出来ないと思うわよ」
クスっと美琴が悪戯っぽく笑った。
年上としての威厳も何もあったものではないが、確かにその通りであるから言い返すことも出来ない。
「はいはい。どうせ上条さんは馬鹿ですよ。年下の家庭教師が必要なくらい馬鹿ですよーだ」
「そう言えばアンタ、ちゃんと3年生になれそうなの?」
「何とか進級出来るみたいだな。小萌先生が尽力してくれたらしい」
「そう。良かったわね。……あ、はい、これ。ハッピーバレンタインデー!」
「あ、サンキュー。こんな寒い日にわざわざ済まないな。ありがとう」
美琴に差し出された紙袋を受け取れば、綺麗にラッピングされた何かが入っていた。
本人の許可を得てからその場で中身を見てみると、
「クッキー?」
「アンタ前に言ってたじゃない。お菓子は手作りがベストだって」
「てことはこれ、お前が作ってくれたのか?」
「この御坂美琴様のお手製よ。後輩だったら卒倒モノなんだから。ありがたく味わいなさい♪」
「今食べても?」
「いいわよ」
バレンタインを意識してか、クッキーはココア味のハート型だった。しかし、よくよく見るとプレーン味やストロベリー味も混ざっているようで、様々な味を楽しめるように配慮してくれているのがわかった。
30枚ほどあるその中から、1枚のクッキーを摘まんで口に運ぶ。
「……ん! 美味しい!!」
「良かった。久しぶりに作ったから、ちょっと心配だったのよねー」
「これホント美味いって! また作って欲しいって頼みたいくらいですよ!!」
「えっ……」
デパ地下で売られていても全く違和感のないような美琴のクッキー。その味に夢中になるあまり発した一言で、美琴が一瞬にして固まった。
以前のように顔を真っ赤にして漏電することはない。
ただ目を丸くして、こちらをじっと見ていた。
「作ってくれよな、御坂」
「……、アンタは」
「ん?」
初めて見る美琴の様子に、新たなクッキーに伸ばしかけた手を止める。
何故だか少し悲しげに見える瞳でじっとこちらを見つめてくるかと思えば、
「……何でもない」
美琴は小さく溜め息をついて、視線を他のところに移した。
「んー? まぁ、何でもないならそれでいいけど」
「何でもないわ。何でも」
話はそれ以上続かず、その後も美琴の了承を得た上で、彼女のクッキーを食べ続けた。
そしてクッキーが半分より少なくなった頃になって、美琴が突然背中を向けた。
「私、そろそろ帰るわね」
「へ? もう帰るのか?」
素っ頓狂な声を出してしまったからか、美琴がくるりと振り向いた。
「……アンタ一体何を期待してたの?」
「い、いや期待っていうか、お前と会うと何かしら色々なことが起きる気がするからさ」
勝負とか罰ゲームとか勝負とか罰ゲームとか!
「何も起きないわよ! 失礼ね」
「ゴメンゴメン。そうだよな、今日はバレンタインデーのお菓子くれる為だもんな」
また、美琴が不自然に固まった。
もしや機嫌を損ねたかと、予想される久々の雷撃に備えていると、
「……アンタそこまでわかってて何でそういう態度なわけ?」
美琴は小さくそう呟いた。
「ん? それってどうい……」
「アンタ、クッキーまた作って欲しいとか以外に、何か私に言いたいことないわけ!?」
本日一番の大声。と言っても、ビリビリも伴っていなければ、怒気を含んでいるわけでもない。
ただ、何かを訴えかけるような声音ではあった。
しかし、美琴が何を求めてそんなことを言うのかはさっぱりわからなくて、
「ん? 俺、もしやまだお礼言ってない? そうだよなぁ、ねだる前にまずは感謝しなきゃだよなぁ。ありがとう、御坂。すごく美味しいし、嬉しいよ」
唯一心当たったことを実行した。
単純に、心からの感謝を言葉と笑顔にして美琴に返した。
「……、うん。喜んでもらえて良かったわ」
一瞬の間を置いて、美琴は微笑を浮かべた。
それは、上条がよく知る美琴の反応としてはかなり妙だったはずなのだが、その時の上条にはその違和感の正体が全くわからなかった。
「じゃあ、行くわね。色々することあるのよ」
以前に比べれば明らかにそっけない態度。
美琴の思考回路が全く読めない。
(俺何か間違ったかな……?)
危ない戦場にいつも必ずついて来てくれて、背中を預け合った少女。いつでも自分を信じてついて来てくれた頼もしい存在。
そんな美琴の背中が、上条から遠ざかって行く。
(本当に帰っちまうのか……)
美琴が行ってしまうと思うと、急に淋しさが増した。
久しぶりに会えた美琴と、もっと色々話したいことがあった。
だから、
「せめて送らせろよ」
あっさりと背中を向けて歩き始めていた美琴を追い掛け、隣に並んだ。
「……別にいいけど」
美琴の左隣を歩く。少し腕を振れば触れてしまう、10cmほどの距離。
たった10cmが、ひどく遠く感じた。
たった10cmで、世界が分かれているかのようだった。
色々話したいことがあったはずなのに、どの話題も長くは続かず、すぐに気持ち悪い沈黙が訪れた。
馬鹿みたいにはしゃいで夜通し駆け回っていた日々が、ひどく懐かしく感じた。
「ここでいいわ」
しばらくして、美琴が立ち止まった。常盤台の寮に続く最後の曲がり角だ。
あの自販機からここまでどういう道順で歩いて来たのか思い出せない。ただ、気が付けば別れの時となっていた。
「今日は会えて良かったわ。3年生になっても課題頑張りなさいね」
何故だか、上条にはこれが美琴との最期に思えた。
何故だか、今日を限りに美琴が上条の前から消えてしまうような予感がした。
「じゃあね。今日はありがとう」
どこか不自然な微笑を残して角を曲がろうとした美琴を、上条はとっさに呼び止めた。
「御坂!」
ビクッと肩を揺らし、美琴の足が止まる。
「ホワイトデー、会ってくれよな!!」
「え……?」
振り向いた美琴は目を丸くしていて、突然のことに大分驚いているようだった。
「今日のお前のクッキーには敵わないけどさ。何かお返し用意するからさ!」
「おか、えし……」
「な、いいだろ?」
美琴はじっとこちらを見つめてきた。
その視線の感じは、自販機前で何度か受けた視線と全く同じだった。
そして、短いのに長く感じる沈黙を挟んだ後、
「いいわよ」
美琴は笑って、そう言った。
確かに笑っていたのに、何故だか泣きそうな顔に見えたのは気のせいだろうか。
「じゃあね」
今度こそ、美琴は角を完全に曲がって去って行った。
それがバレンタインデーの出来事だった。
それから1ヶ月後、ホワイトデーがきた。
偶然にもその日は常盤台中学の卒業式があり、美琴と会えたのは門限ギリギリのわずかな時間だった。
「ゴメンね。卒業パーティなかなか抜けられなくて」
「そりゃ“御坂様”の卒業だからな。お前がパーティの主役みたいなものだろ? むしろ本当に抜け出してきて大丈夫だったのか? 忙しいなら明日とかでも……」
「いいの。明日からはもっと忙しくなるから。それに卒業生は私だけじゃないし、少しくらい抜け出しても大丈夫よ」
黒子にはちゃんと理由も言ってから来たしね、と美琴は補足した。
あの自称“お姉様の露払い”である白井が、お姉様との貴重な時間をわずかであれ自分に譲ってくれる日が来るとは驚きである。
「よく白井が許したな、今日俺と会うこと」
「まあね。で、何くれるの?」
「こちらでございます」
「開けてもいい?」
「もちろんでございます」
ホワイトデーを意識した白のハートがデザインされた袋。その中から現れたのは、
「これって……ロケット?」
「ん? あー、うん。確かそんな名前だったような……」
上条が美琴に選んだホワイトデーのお返しは、ハート型のロケットペンダントだった。
中に好きな写真を入れられるペンダントで、裏には「Mikoto」と名前を刻印してもらっている。
「……、」
「えっと……気に入ってもらえましたでせうか?」
「……うん! ありがとう!!」
「喜んでいただけたなら光栄です。ゲコ太型もあったから迷ったんだけどさ、お前ももうすぐ高校生だしこっちの方がいいかなって……」
「んーゲコ太型もなかなか捨て難い選択肢だけど、確かにアンタの言う通りかもねー。高校生になるのよね、私」
「ちなみに、どうしてもゲコ太から卒業出来ないなら、ロケットの中にゲコ太の写真入れるってのも一つの手だと思うぞ」
「なっ!? さ、さすがにそれはちょっと遠慮しとくわよ!?」
ゲコ太をネタにからかえば、久々に美琴が美琴らしい反応を返してきた。
もちろん危険なビリビリは遠慮したいが、やはり上条当麻と御坂美琴の関係にはこういうノリが不可欠だと思う。
「御坂、そのペンダントつけて見せてくれよ」
「いいわよ。ちょっと待ってね……」
「あ、俺がつけてやるよ」
自分でつけようとした美琴の背後に回り、ペンダントをつけてやる。
つけやすいように気を利かせた美琴が、少し伸びた茶髪を掻き上げた。
「ん。もういいぞ」
「ありがとう。……うん、チェーンの長さもちょうどいい感じ」
上条の合図で美琴が再び髪を下ろす。その仕草にちょっとだけドキッとしたのは秘密だ。
美琴の胸元に輝くロケットペンダントは上品な輝きを放っており、決して高いものではなかったのだが、美琴がつけることによって少し高級感が漂っているように感じた。
「似合うかしら?」
「ああ、似合ってますぞ。俺の目もなかなかだな!」
「何よそれ。自画自賛?」
楽しそうにクスクスと笑う美琴。
少し伸びた髪のせいか、それとも成長と共に少しずつ母親に近付いているスタイルのせいか。ただのクソ生意気な中学生だったはずの少女が、大人びた雰囲気を纏う魅惑的な少女に見える。
「中学生はアウト・オブ・眼中」と普段から言い張っているが、美琴が高校生になるということはつまり――?
「あ、あのさ」
一瞬心ここにあらずとなっていた上条は、美琴の一言で我に返った。
見れば、目の前にいる美琴が胸元のペンダントを握り締めながら、こちらをじっと見ている。
続く言葉を待てば、彼女は何やら逡巡した後にゆっくりと口を開いた。
「これだけ?」
「え?」
「ホワイトデーにアンタが……『上条当麻』が『御坂美琴』に届けたいものは、本当にこれだけ?」
「……、」
正直、美琴の問い掛けの真意が全くわからなかった。
もしかすると手作りクッキーのお返しがロケットペンダント一つというのは、お嬢様基準で及第点以下なのだろうか。
確かに「ホワイトデーは3倍返し」って言うし、お嬢様基準ならもっと豪華なものを期待していたのかもしれない。
(やっぱりお菓子もセットにするべきだったか?)
そうして自分で考え出した結論に基づき、
「ごめん! やっぱりペンダントだけじゃ足りなかったよな。お前はわざわざクッキー作ってくれたのに」
素直に謝った。
これで久々の電撃が飛んでくるなら仕方ない。甘んじて受けとめよう。
(下手すりゃ超電磁砲モノだったりして? 乙女の気持ち踏みにじった罰とか言って……)
だが、美琴の反応は予想とは全く違うものだった。
「あ、ううん。そういう意味じゃなくて……」
怒って電撃を飛ばしてくるどころか、何やら泣きそうな顔でこちらを見つめてくる。
「違うの。お返しはもう十分。ロケット、本当にすごく嬉しいから」
本当にそうならば何故、美琴の表情からは嬉しさよりも悲しさが伝わってくるのだろう?
「ご、ごめん。その、お返しのことじゃなくて……ううん。いいの。何でもない。変なこと聞いちゃったわね。うん。そうよね、そんなことあるわけないわよね……あるわけ……」
それは上条への言葉というよりも、美琴の自問自答のようだった。
最後、美琴が小さく何かを呟いたようだったが、その言葉は小さすぎて聞こえなかった。
ただ、呟いた後に美琴見せた笑顔は、やはり泣き顔にしか思えなかった。
「じゃあ私、もう行くわね。さすがに黒子に怒られちゃうから」
「御坂、お――」
「あ! でもその前に、アンタに渡したいものがあるの。もちろん受け取ってくれるわよね?」
突然発せられた美琴からの別れの言葉。
まるで数秒前の奇妙な笑顔を隠すかのように、美琴は不自然なほど明るく振る舞った。
美琴のペースに流されたままでいると、美琴は自分の携帯電話からストラップを取り外した。
「はい、お返しのお返し。いや、それは変か。それじゃあ、アンタの無事進級を祝って、でいいかしら?」
「御坂これ……」
「何よ? ピョンコ可愛いでしょピョンコ。何の文句があるって言うのよ」
美琴に手渡されたもの。それは、かつて罰ゲームとして美琴と携帯電話のペア契約をさせられた際、特典として貰ったペアストラップの片割れ。
上条の携帯電話に今尚ついているゲコ太の片割れ、ピョンコだった。
「さっきアンタが言った通り、美琴センセーもそろそろカエルから卒業しなきゃなーって思うわけよ。でもやっぱり捨てるのは嫌だしさ。というわけで、悲しいけどアンタの元へ里子として出すことに決めたわっ!」
「ちょっと待てって! お前、俺には絶対外すなとか言ったくせに――」
「捨てたら許さないんだから。アンタのゲコ太と一緒だったらピョンコも寂しくないと思って、泣く泣く里子に出すんだからね!」
「そんな理由知らねえよ! っていうか、高3の俺がカエル2匹もつけてる方が明らかに変だろ!?」
「んー確かにアンタの言い分にも一理あるわね。……じゃあ、これが最後の罰ゲームってことでいいわよ☆」
「ええっ!? 罰ゲームって何!? 最近の上条さんは罰ゲーム科せられるようなことした覚えありませんのことよ!?」
緑のカエル一匹ならともかく、ここにピンクのカエルがもう一匹増えることだけは、もうすぐ3年になる男子高校生として絶対に避けたい。
だが、そんな願いも空しく、美琴は上条から携帯電話を取り上げると、器用にピョンコをくくり付けた。
「おい、御坂これ!?」
「元気でね、ピョンコ。ゲコ太と仲良くするのよ」
「おーい、御坂さーん!!」
「ゲコ太も、ピョンコをよろしくね。あと……」
「もしもし美琴たーん! 聞こえてますかー!?」
「アンタのご主人様のことも……頼んだわよ」
「……み、さか?」
何かが変だった。
御坂美琴は今なんて言った……?
「私の分まで大切にしてよね。失くしたりしたら新技ぶちかますわよ」
美琴の手から携帯電話が返される。
かつてこの少女とペア契約を結んだ携帯電話は、2匹のカエルを揺らしていた。
「……ピョンコを私だと思って大切にしなさいよね」
「御坂、俺……」
よくわからないままに開いた口からは、言葉の続きが出て来ない。
美琴はふわりと微笑み、携帯電話を握る上条の右手を両手で包み込んだ。
そして、
「本当にありがとう。元気でね」
言うだけ言うと、美琴はくるりと身を翻して走り出した。
上条が呆気に取られて立ち尽くしている間に、御坂美琴の姿は見えなくなった。
別れ際に見た涙を我慢したかのような美琴の笑顔が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「美琴……」
後に、この時追い掛けなかったことを、上条は深く後悔することとなる。
何故ならそれが、上条の見た『御坂美琴』の最期だったのだから。
◆ ◇ ◆ ◇ ◆
「……俺、寝ちまったのか」
気が付けば夜8時を過ぎていた。美琴とのことを回想しながら途中で眠ってしまったらしい。
何だか酷く懐かしい夢を見ていた気がする。
(『元気でね』……今思えばあれって完全に別れの挨拶だったよな。何で追い掛けなかったんだよ、あの時の俺)
言われた時には気付かなかったが、今思えばあれが『御坂美琴』から上条への最期の挨拶だったに違いない。
戦前の自分自身を全て断ち切り、秀才『御坂美琴嬢』として過去の罪を償い続けることを選択した美琴。
御坂美琴の中にある上条当麻という存在もまた、過去の美琴自身と一緒に断ち切られてしまったわけだ。
メールも電話も、解約はしていないようだが、あの日以降全く繋がらなくなっている。
(今のアイツにとって、俺は必要ないってことなのか……)
頭のすぐ横に放っていた携帯電話を見れば、そこには確かにカエルが2匹ついていた。
つぶらな瞳が4つ、上条を見て笑っている。
(御坂だと思って大切に、ね)
右手の人差し指でカエルを撫でてやる。
何の変哲もないただのストラップは、幻想殺しが宿る右手に触れられても何一つ変化しない。
(御坂美琴と彼女の周りの世界を守る、か……)
かつてアステカの魔術師と交わしたあの約束を忘れてなどいない。誓った想いも変わりはしない。
しかし、今の上条に出来ることは何もなかった。
むしろ美琴自身が『上条当麻のいない日常』を選んだのだから、彼女の望む通り彼女から遠ざかることこそが、今の上条に出来る唯一のことだった。
その事実が、何よりも上条の胸を締め付けている。
(本当に何も、俺に出来ることはないのか……?)
テレビにも紙面にも空にも何処にも彼女の笑顔は存在せず、あるのは偽りの笑顔だけ。
どうにかして彼女の本当の笑顔を取り戻したい。
(何か……何かあるはずだ。俺が御坂の為に出来ることが、何か……!!)
今、上条当麻が御坂美琴の為に出来ることは、一体何か。
考え込んだ上条は、そのまま再び深い夢の世界へと落ちていった。