FはMになる。MはFになる
―Side.M
私はベットの上で悶え苦しんでいた。
爛れるような疲労感が全身を包む。
蛍光灯の不躾な光が、網膜を通して大脳皮質を揺さぶる。
そして、激烈な痛みが腹部を襲う。
しかし、この苦痛が「煉獄の炎」というのなら、私は甘受、いや、享受しよう。
煉獄の先には天国が待っているのだから。
そこには天使がいて、私を出迎えてくれるのだ。
―Side.F
俺は長椅子の上で悶々と悩み、苦しんでいた。
全速力で走ってきた影響の疲労感が全身を包む。
ゴム材で出来たクリーム色の廊下が、冷ややかな圧力を浴びせかけてくる。
そして、猛烈な無力感が俺を襲う。
しかし、俺の苦しみなど、取るに足りない末梢的な問題だろう。
俺は、無事を祈ることしか出来ない、ただの傍観者なのだから。
―Side.M
「……やっぱり、部屋に入ってもらった方がよかったかなぁ?怒ってないかなぁ?」
私はぽつりと弱音をこぼす。
普段の私は、あまり弱音を吐くことがなく、わりかし根性のある女だと自認している。
しかしご自慢の根性も、腹部を襲う激痛にじわじわと揺さぶられ続け、今や砂上の楼閣と言うべき様相になっている。
「まぁ、こんな姿は見られたくないだろうから、ね。外で待って貰った方がいいとは思うけど……」
傍らに立っている母は、私の手をぎゅうっと握り、こう答えた。
いつもの破天荒で豪放磊落な言動は何処へやら、歯切れの悪く、含みのある回答だ。
「けど?」
「けど、どうして入ってもらわなかったの?一緒の方がお互い気楽だったんじゃないかしら?」
母の言葉が胸に突き刺さる。
そうなのだ。
この痛みも苦しみも、二人一緒なら幾ばくかましになっただろう。
しかし、私は敢えて独りで(正確には母も一緒だが)戦うことを決めた。
理由の一つとして「恥ずかしさ」があった。
今は少し落ち着いているが、この部屋に移された時の私の姿は、見るに耐えないものだった。
私は恥も外聞も無く、呻き、喚き、泣き、叫んだ。
たとえ生涯を誓い合った相手とはいえ、この様な醜い姿を見せたく無かったのだ。
そして、もう一つの理由。
二人一緒だと、きっと甘えてしまいそうだったからだ。
甘えてしまい、途中で挫けてしまいそうだったからだ。
こんな場合「甘えてもいいよ」と言ってくれるだろう。
「俺は何も出来ないけど」と手を握ってくれるだろう。
事実、あの人は最後の最後まで一緒にいたいと申し出てきた。
その申し出を断った際の表情は、悲痛に満ちた、いたたまれないものだった。
しかし、今回ばかりは甘えるわけにも、挫けるわけにも、諦めるわけにもいかない。
なぜなら私は。
―Side.F
ベンチから矢庭に立ち上がる。
長椅子の隣に深く腰掛けていた父は俯いて眼を閉じたままで、見向きもしない。
そのままふらふらと廊下を彷徨し、突き当たりにある白いドアを眺める。
白いドアの先では今、壮絶な戦いが繰り広げられているのだろう。
俺はその部屋に立ち入ることを許されていなかった。
出来るならば部屋の中に入って、手を取って励まし、勇気づけ、共に戦いたかった。
しかし、俺は入室を拒否され、部屋の前でただ祈ることしか出来ないでいる。
部屋と廊下を遮るただの白いドアが、分厚く高く威圧感のある、堅牢な城門に見える。
その城門は、俺を隔絶し、拒絶しているかように思えた。
「くそっ!」
やるせない気持ちを拳に乗せて、廊下の隅に屹立する自動販売機を叩いた。
自動販売機は前後に大きく揺れ、ごとん、と迷惑そうに音を立てた。
「いいから落ち着け。俺たちが騒いだところでどうにもならん」
父は深いため息と共に、落ち着き払った声で言った。
達観と言うべきか、諦観と言うべきか。
超然としたその態度が、逆に俺を苛立たせる。
「こんな時に落ち着いてられるかよ!他人事みたいに言うんじゃねえ!」
「もちろん他人事なんかじゃない。だが、あのつらさは本人にしか分からないし、本人が耐えるしかないんだ」
「だからって!一緒にいてやること位なら出来るはずだ!」
「でも、お前は部屋に入るなって拒否されたんだろ?」
その無神経で無慈悲な一言が、俺を激高させる。
ベンチに座る父の胸ぐらをつかみ、無理矢理引きずり起こす。
「何でなんだよ!どうして一緒にいちゃいけないんだ!俺はそんなに邪魔なのかよ!?」
俺はたまりにたまった鬱憤を、父にぶちまけていた。
こんなことを父に言ったところで、どうにもならないこと位重々分かっていたが、言わずにはいられなかった。
溢れ出た感情の奔流を止める術を、俺は持ち合わせていなかった。
胸ぐらを掴んだまま腕を引き寄せ、見下ろす形で父を睨みつける。
それでも父は泰然としていた。
「今は辛いだろうけど、いつか喜べる時が来る。今は分からなくても、いつか分かる時が来る」
父はにっこりと笑っていた。
その笑みは、嘲笑や愚弄といった要素を一切含んでいなかった。
まるで足下の覚束ない赤ちゃんを優しく見守るような、いかにも『父さん』らしい笑顔だった。
そして、こう付け加えた。
「父さんも一緒だった。不安だったし、焦燥感に胸が潰されそうだったし、自分が無力だと思ったよ。でも、今こうしてちゃんと『父さん』をやってる」
父の深みのある声が、俺を落ち着かせる。
俺は『父親』の偉大さを体感した。
そして、改めて自分の愚かさを痛感した。
胸ぐらを掴んていた腕を放し、深々と頭を下げる。
「どうだ、落ち着いたか?」
「ごめん、父さん。俺、どうかしてた」
「気にしなくてもいいさ。誰しもが通る道だ。男はどーんと構えて、ただ一言『お疲れさま』って言ってやればいい」
いつまでもめそめそうじうじむしゃむしゃくしゃくしゃしていられなかった。
俺は父の言う通り、どーんと構えてその時を待つことにした。
なぜなら俺は。
―Side.M
耐え難い激痛が断続的に襲い来る。
意識が飛んでしまいそうな痛みに何とか耐えながら、私は母の手を握った。
「やっぱり怒ってるよね?怒鳴り声が聞こえる……」
私は外の様子が気がかりだった。
ドアを隔てた先にある廊下から、大きな物音や怒鳴り声が聞こえるのだ。
怒っているのだろうか。
愛想をつかしているのだろうか。
今更ながら、深い悔恨の念が胸をせめたてる。
「ああ。気にしなくていいわよ。こういう時の男はバカだから」
母はあっけらかんと答えた。
先ほどのしおらしさは何処へやら、天真爛漫で天衣無縫ないつもの母に戻っていた。
そして、懐かしさに浸るような表情を浮かべている。
「あの人もそうだったわ。廊下で暴れて、叫んで。病院なのに救急車じゃなくてパトカーが来ちゃったのよ」
「さもありなんな話ね……」
いつもと変わらぬ母の態度に、私の気分は少し和んだ。
さりとて、身体を襲う激痛が和らぐことはなく、打ち寄せる波のように一層激しさを増してやってくる。
それでも私は、平常心を保つために必死になって母に話しかける。
「……ねぇ、お母さんもこんなにつらかったの?」
「そりゃもう!ぎゃんぎゃん泣いて叫んだわ!今ではいい思い出ね。もう二度と体験したくないけど」
母は苦々しい思い出を語っているつもりなのだろうが、その表情はとても誇らしげで懐かしそうだった。
私もいつか、この激痛を懐かしく思える日が来るのだろうか。
私もいつか、この激痛を誇らしく思える日が来るのだろうか。
そんなことを考えていると、今までに無い激痛が押し寄せて来た。
身体の内部を鋼鉄のスコップで掘り返されているかのような激痛だ。
こらえきれず、思わず大きな呻き声をあげる。
いよいよだ。
―Side.F
部屋の中から大きな呻き声が聞こえる。
いよいよ始まったのだろう。
今すぐにでもドアをぶち破って駆け寄ってやりたい衝動に駆られたが、ぐっと堪える。
俺はベンチに座って、祈るように手を組み、額へと押しあてた。
その時、自分の手が震えていることにようやっと気付いた。
廊下には、沈黙だけが充満していた。
聞こえてくるのは、呻き声と医師の声だけ。
十分経ったか、
三十分経ったか、
一時間経ったか、
はたまた五分も経っていないのか。
時間の感覚が分からなくなってしまった。
この状況が永遠に続きそうな気がした。
すると、隣に座っていた父が突然肩を組んで来た。
「それでいいんだ。男はどーんと構えて支えてやればいいんだ」
男らしく勇ましい台詞とは対照的に、父の手は俺と同じく震えていた。
父もまた、不安と戦っているのだろう。
口は達者なのに手は震えているというギャップが、可笑しく思えてきた。
「父さんも手が震えてるじゃねえか。やっぱり不安なのか?」
「バカ言え。父さんのは武者震いだ」
「強がらなくてもいいんだぜ?ほんとは怖いんだろ?」
「いや、父さんは嬉しくて嬉しくて仕方ないんだ」
父は立ち上がり、高らかな声で言う。
「お前は俺にとって、世界で一番大切な宝物だ。世界で一番大切な宝物が、世界で一番大切な宝物を手に入れるんだ。
これ以上に嬉しいことなんて、世界中何処探したって見つからないだろう?」
これが父親というものなのか。
これが支える者の強さなのか。
いつもの頼り無さげな父の姿はなかった。
誇らしげな『男』の姿がそこにはあった。
俺は圧倒され、声も出せないでいた。
―Side.M
長い長い、果てのないトンネルを、ただひたすら潜っていく感覚だった。
どれだけの長さなのか、
どこに通じているのか、
そもそも先はあるのか、
私には分からなかった。
身体の内部をスコップで掘り返されるかのような痛みは、
身体の内部をショベルカーで掘り返されるかのような痛みへ変化していた。
死んでしまいそうな、いや、死んだ方がましと思える程の痛みだった。
しかし、私は途中で諦めることも、投げ出すことも、ましてや死ぬなんて出来ない。
したくない。
してたまるか。
喉が張り裂けそうな程、呻き、叫び声をあげた。
「―――――!――――!」
「――!――――!」
励ましの声がかかっているのだろうが、今は到底理解できそうにない。
何を言われてもただのノイズにしか聞こえなかった。
先の見えない格闘の末、果てのないと思われたトンネルに一筋の光が差し込んだ。
徐々に広がったその光は、一気に弾けて辺り一面を照らし始めた。
そして。
煉獄を抜けた先は、天国だった。
そして、天国には天使が待っていた。
私はその天使を抱きかかえた。
―Side.F
自らの存在を誇示するかのような泣き声が、廊下に轟いた。
その泣き声を聞いて、俺は放心してしまった。
呆然と立ち尽くす俺の背中を、父がどんっと強く押してくれた。
「行ってやれ。『お父さん』」
「ありがとな。『おじいちゃん』」
俺は目の前の白いドアを開け、意気揚々と進んでいく。
中には、世界で一番大切な宝物が待っているのだ。
そして、世界で一番愛している妻にこう言ってやろうと思う。
「お疲れさま」
と。