とある葛藤の本能理性【バトルブレイン】
美琴は今日も深い溜息を吐いていた。
その原因はすぐ隣のベッド…いや、『自分のベッド』にある。
寮へと帰り、部屋のドアを開けた瞬間、美琴の目に飛び込んで来たモノは、
「はぁ! はぁ! あ゛あ~、お姉様お姉様お姉様! くんかくんか! くんかくんかhshs!」
ルームメイトである白井が、何故か自分のベッドの上で枕やらシーツやら毛布やらを、
匂いを嗅ぎつつ抱き締めている最中の姿であった。
『いつもの事』ながら、どっと疲れが出る美琴である。
「……何やってんの…黒子…」
「すんすんすんす………ハッ!? お、お帰りなさいですの」
お帰り、とは言いつつも美琴の寝具を放そうとはしない白井。
「あのね…いい加減にしないと放電する【やく】わよ」
「お姉様の愛の電撃【ムチ】で文字通り身も心も焦がされるのならば、この黒子本望ですの」
目がマジである。タフなドM相手では、叱ろうがお仕置きしようが通用しない。
それどころか罵りの言葉を吸収し、自らのエネルギーへと変換するのだ。
我々の業界ではご褒美です状態なのである。
しかも厄介な事に、シカトしても「その冷たい態度も素敵ですのー!」と繋がる為、
もはや対応策が無いのである。故に美琴は、今日も深い溜息を吐いているのだ。
ただし一応断ってはおくが、美琴は別に白井を嫌っている訳ではない。
彼女に助けられた事も一度や二度ではないし、
(あくまでもルームメイトとして)パートナーだとも思っている。
しかしそれを口にするとまたややこしい事になるのは分かりきっているので、
敢えて言わないようにはしている。
が、しかしそれはそれ。これはこれである。
白井の暴走っぷりは日に日に面倒くささを増しており、美琴にとっても悩みの種だ。
この前は美琴の使用済みストローを舐めようとしていたし、
その前は夜中に美琴と同じベッドに忍び込もうとしていた。
更にその前は美琴が寝ている隙に口付けをしようとしていた…なんて事もあるくらいだ。
そろそろ本気でルームメイトを代えて欲しいと、寮監に直談判しようかと思った程である。
そして今もこうして、美琴のベッドを我が物顔で占領している訳なのだ。
美琴はガックリと肩を落とし、とりあえずシャワーでも浴びようと浴室に足を運ぶ。
すると当たり前の様に「お背中をお流しいたしますわ!」と服を脱ぎ始める白井に、
美琴はここでようやく電撃をぶっ放した。
痺れながらも満足げな白井ではあるが、足止めにはなっただろう。
美琴は溜息を吐きながら、ぬるめのお湯を浴びるのだった。
◇
その翌日である。昨日の様子とは打って変わって、テンションが高ぶっている美琴。
正確に言えば、あくまでも顔は必死に呆れ顔を作ってはいるのだが、
心の中では満面の笑みなのである。
その一方で、昨日の美琴と同様に深い溜息を吐いている人物が一人、
美琴と向かい合わせに座っている。それこそが美琴が上機嫌な理由でもあるのだが。
「はああぁ……終わらねー…休みてー…寝てー………不幸だー…」
上条である。
彼は左手で頭をガリガリかきながら、右手で目の前の問の答えをガリガリ書いている。
本日はゴールデンウィーク最終日。
だが彼には黄金な週間など一日も無く、補習・課題・宿題・小論文・感想文の毎日を送っていた。
小萌先生の頑張りで、もう一度一年生を送る事はなくなったのだが、その代償も大きかったのだ。
しかし最終日だと言うのに、彼のテーブルの上には真っ白な宿題の山。
そこで年下(しかも中学生)に教えを請うという恥を忍んで、美琴に手伝ってもらっている。
勉強の事ならば、学園都市でも最高の演算能力を持つレベル5に聞くのが一番だし、
レベル5の中でも最も気安く仲が良いのは美琴である事も上条は自覚している。
ちなみに現在、インデックス・オティヌス・スフィンクスの「○○ス」三人組はここにはいない。
彼女達(スフィンクスは雄だが)がいると絶対に宿題に身が入らないし、
美琴とインデックスは、何故か顔を合わせれば小競り合いが始まるからだ。ナンデカナー。
と長々と説明した訳だが、つまり何が言いたいかと言うとだ。
上条と美琴は今、部屋の中で二人っきりだという事だ。
上条は視線を問題集に釘付けにしたまま、テーブルを挟んで向かい側の美琴に質問する。
どうやら今は、数学の時間らしい。
「あのー、美琴センセー? ここが分からないんですけどー…」
「全く仕方ないわねアンタは。ほら、さっきやった公式を当てはめれば簡単でしょ?
こうすると…ね? yの値が出てくるから後は」
「あー、あー。なるほどね。サンクス、ミコっちゃん」
「べ、別に大した事じゃないし! 勘違いするんじゃないわよ!
ただアンタから頼りにされるのが嬉しいだけなんだからねっ!」
嬉しすぎて、ツンデレ具合もこじれる美琴である。
緩んで落ちそうになる頬を頑張って引き上げてはいるが、
気を抜くとすぐにでもニマニマしてしまいそうになる。
と、そんな時だ。上条が急に立ち上がった。
「…? どしたの?」
「悪ぃ。ちょっとトイレ。……ジュース飲みすぎたのかも」
テーブルの上には勉強道具の他にも、ストローが刺さったコップが二つある。
勿論、上条の分と美琴の分だ。
中には安物のオレンジジュースが注がれているのだが、
大量の宿題を片付けているとやたらと喉が渇き、上条はゴクゴクと飲んでしまっていたのだ。
トイレが近くなるのも当然の事である。
上条がお花を摘む【ようをたす】姿を不覚にも想像してしまい、
ボンッ!と音を立てて、勝手に顔を爆発させる美琴。
「わ、分かったから早く行ってきなさいよ馬鹿! わざわざ言わなくてもいいから!」
上条は「えー? そっちが『どしたの?』って聞いてきたんじゃんかー」と不満を漏らしつつも、
オシッコまで漏らす訳にはいかないので、そそくさとトイレに駆け込む。
さて、ここからがある意味本番である。
上条の暮らしている空間で、一人っきりになってしまった美琴。
ここで彼女の中で、悪魔が囁いたのだ。
美琴の目の前には、先程まで上条が座っていたペラッペラの座布団が一枚ある。
無意識なのか意識的なのか、美琴はごく自然にその座布団を手に取っていた。
(……あ…まだ温かい…)
座布団には、まだ上条の体温がほんのりと残っており、その温みが手からじんわりと伝わってくる。
何だろう。とてもイケナイ事をしている気がするのだが、
その思いとは反比例して、心臓はもの凄くドキドキしてくる。
美琴は頭をポーっとさせながら、その座布団をギュッと抱き締めて、そして、
「………すん…」
匂いを嗅いだのだ。だが頭をポワポワさせたまま、
「…アイツの匂いがすりゅ~……」などと感想を漏らした瞬間、彼女はハッと我に返った。
「って!!! ななな何やってんのよ私はっ!!!
こ、ここ、これじゃあ昨日の黒子と一緒じゃないのよっ!!!」
今更である。出来れば座布団を手に取った所で気付いてほしかった物だ。
しかも先程までケツが乗っかっていた物【ざぶとん】のスメルを堪能するとか、
寝具で楽しんでいた白井よりも遥かに上級者である。
しかし、そんな事は言いつつも、
自分の座っていた座布団と上条が座っていた座布団を、『しっかり』と入れ替える美琴。
だが悪魔の囁きはそれで終わりではなかった。
自分が白井と同じような事をした事で、今までの白井の奇行が頭の中でフラッシュバックしてくる。
(……そう言えば…黒子【あのこ】、私のストローを舐めたりもしてたわね…)
既に説明した通り、テーブルの上には上条の飲みかけのジュースのコップと、
そこに刺さったストローがある。先程まで上条が口にしていたストローが。
「ま、ままままたお手洗いが近くなっても可哀想だし!!!
わ、わ、私がチョロっとアイツの分のジュースを飲んであげようかしら!!?」
無茶苦茶な言い訳を自分自身に言い聞かし、美琴は上条のコップに手を取る。
いいのかそれで。
しかし美琴はそのまま止まる事なく、「はむっ」とストローを口にくわえた。その瞬間、
「何してんの?」
「にゃあああああああああああああ!!!!!」
トイレから戻った上条に声を掛けられビクゥッ!としてしまった。
男の小便など手を洗う時間を入れても、ものの数十秒で完了するのだ。
逆に言えば数十秒という短い時間で美琴は、
上条の座布団を抱き締め、匂いを嗅ぎ、自分の座布団と入れ替え、
言い訳をして、ストローを口にくわえた事にもなるが。どんだけだよ。
美琴の様子がおかしいようにも見えたが、そんなのは『いつもの事』なので、
あまり気にせずに宿題の続きを再開する上条。
自分のジュースのストローに美琴の口が付いた事にも、
自分の座布団が美琴の座布団と入れ替わっている事にも気付かずに。
◇
それから数十分。今は国語の宿題に取り掛かっている上条なのだが、
「だぁ~もう! 『この時の私の気持ちを説明せよ』とか言われても知るかよ!
そんな事、夏目漱石【これかいたひと】本人に聞けよ!」
身も蓋もない事を叫びながら嘆いていた。対して、
「く、口を動かす前に手を動かしなさいよ!」
と注意をする美琴ではあるのだが、下に敷いた座布団が気になり、
どうにも据わりが悪くモジモジとしてしまう。自分で取り替えたクセに。
だがそんな事を知る訳もない上条は、シャーペンを放り投げてベッドに横になってしまう。
ちなみにこのベッド、普段はインデックスが使っている物である。
「ちょ、アンタ! 何してんのよ! まだ宿題こんなにあるのよっ!?」
「いやダメだ…すげー眠くて集中できねー……昨日も課題やってて、ろくに寝てなかったし…
悪い、30分だけ寝かせてくれ…起きたら続き…やる……か…ら…………くかー」
勝手な言い分だけ言うと、上条は光の速さで眠りに就いた。
美琴は「ったく、もう…」と呆れながらも、上条に毛布をかけてあげる。
何だかんだ言いつつも、上条には甘いようだ。惚れた弱みという奴なのかも知れない。
30分経ったら上条を起こすとして、それまで暇になってしまった美琴。
とりあえず部屋の中にある漫画本でも読んで時間を潰そうかと思った瞬間である。
美琴の脳内に、本日三度目となる悪魔の囁き。
(そう言えば……黒子ってば、夜中に私のベッドに忍び込もうとした時もあったのよね…)
再び白井の奇行がフラッシュバック。そして目の前には、無防備な姿で仮眠を取る上条の姿。
寝息を立てて、可愛らしい寝顔(美琴談)で眠りこけているその様子から、
ちょっとやそっとじゃあ起きないであろう事が窺える。
美琴はそこで何を閃いたか、言わなくてもお察し頂けるだろう。
「そ、そう言えばこんな所で寝ちゃったら風邪引いちゃうわよねー!!!
こっ、こ、こうなったら、ひ、ひひと、ひと、人肌で温めてあげた方がいいのかしらっ!!?」
またも無茶苦茶な言い訳を独り言でぶちかます。
もう5月に入り春真っ只中であり、周りの空気は寒さとは無縁で温める必要もないだろうし、
そもそも『こんな所で』も何も、上条が横になっているのはベッドの上だ。
ベッドの上で寝たら風邪を引くと言うのなら、人は一体どこで寝ればいいと言うのか。
と、そんなツッコミを入れる者など、この場にいる訳もなく、
美琴はいそいそと上条のベッドに潜り込む。
白井と全く同じ事をしていると思うと複雑ではあるのだが、
これはあくまでも上条が風邪を引かないようにする為の予防処置()なのだと割り切る。
美琴には大義名分()があるのである。仕方ない()のである。セーフ()である。
「ふぉ…ふおおおおおぉぉぉぉ………」
自分でやっておきながら、美琴はいざ上条の隣で横になってみると、
今更恥ずかしさのあまりワナワナと震えてきた。
目と鼻の先には上条の背中があり、少し手を伸ばせば思いっきり抱きつく事も可能である。
しかし羞恥心やら背徳感やら罪悪感やら理性やらがそれを塞き止め、
美琴を硬直したままの状態にしていた。
ここまでやったのだ。もういいだろう。
普段の自分では絶対にできないような経験を、思う存分楽しんだではないか。
白井の事を棚上げして、自分もこんな事をしては、彼女にも申し訳が立たない。
美琴はそんな事を思い、ベッドから立ち上がろうとする。
しかしその時、事件が起きた。
「んっ…んー……むにゃ…」
「っ!!!?」
ゴロン、と寝返りを打ち、上条がこちらを向いてきたのだ。
先程まで背中だった眼前は、くるりと回って上条の胸元が現れる。
そしてほんの少し顔を見上げれば、「すーすー」と寝息を立てる上条の寝顔。
しかも美琴の顔との距離は、わずか数㎝だ。
それはちょっとだけ首を伸ばせば、お互いの唇と唇がぶつかってしまう距離だった。
美琴は再度思い出した。
(く…黒子……私が寝てる隙に、キ…キキ、キス……とかもしようとしてた…のよね…)
心臓はバックンバックンであった。
もしも今から、頭に過ぎった『その行為』を自分がしてしまったらと思うと、顔が沸騰しそうになる。
だが流石にそれはマズいだろうという認識はあるらしく、美琴は思い留まった。
美琴は絶賛熟睡中の上条に語りかける。『何故か』小声で。
「あ…あー、そろそろ起きなさいよ。もうすぐ30分経つんだから」
いつの間にか、あれから25分程が経とうとしていた。
随分と長い時間、ベッドの上でお楽しみだったようだ。
しかし上条は起きる様子がない。小声なのだから当然である。
「お……おお、おき、おき、起きない…と、キ…キキキキスっ!!! しちゃうわよ!?」
訂正しよう。美琴は思い留まっていなかった。
始めから上条が眠っている間に、口付けをする気満々だったのだ。
小声だったのも、本気で起こす気がなかったからである。
ここで上条が起きてしまったら、口付けをするチャンスもなくなってしまう。
「お、おお、起き…ないの…? ホホ、ホントにしちゃう…わよ…?
も、もう遅いんだからね! 私は何があっても知らないんだからっ!」
何があってもと言われても、だったら大声で上条を叩き起こせばいいし、
そもそも「起きないとキス云々」というのも美琴発信な訳で、嫌なら止めれば良いだけなのだが。
しかし夢の外【げんじつせかい】の自分周りでそんな事が繰り広げられているなど知る由も無い上条は、
「んー……いいから…美琴…早く………むにゃ…」
と寝言をほざくのだった。その一言が美琴の引き金を引くなど、知りもしないで。
◇
「…………あれ?」
上条が目覚めると、既に3時間が経過していた。仮眠の筈が、本眠りへと突入していたようだ。
「えっ……えええええええええっ!!?
な、何で美琴は起こしてくれなかったんだ!?
いやそれ以前に、何で美琴センセーも俺と一緒に寝てんのーっ!!?」
上条の隣には、気持ち良さそうに寝ている【きぜつしている】美琴の姿。
残されたのは、終わっていない宿題とベッド周りの謎の焦げ【ふにゃー】跡。
そして微かに感じる、唇の柔らかい感触だけだった。