美琴先生 2
とある高校の教室で、一人の少年が机の前で頭を抱えていた。
登校して席に着き、一○分ほど経過しているが―――広げた教科書と数冊のノートの頁をめくるばかりである。
(姫神からノートを借りたのはいいけど……よりによって退院翌日の今日が小テストで、授業で当てられるのが俺の列……)
過去に、携帯アプリの『らくらく英語トレーニング』に挫折している上条である。英語に対する苦手意識が五割増しに
なっているため、その英語の教科書と睨めっこするだけでもかなりの苦痛となっていた。
しかし、今回の小テストも合格点に達しなければ放課後に補習が待ち受けている。
補習、補習、補習……と補習を受けることで、今現在は(かろうじて)出席日数や単位をカバーできている(と思われる)が、
それで高校を卒業させてもらえると思えるほど上条も馬鹿ではなかった。この調子だと、進級も怪しいだろう。
仮に今回、二年生に進級できても―――同じように三年生に進級させてくれるほど学校も甘くはないはずだ。
だが、
「さ……さっぱりわかんねぇ」
癖毛がはねてツンツン頭になっている髪を両手でぐちゃぐちゃにして、二○秒置きに絶望と再チャレンジを繰り返す。
一週間に一、二回は入院している上条は、完全に授業に着いていけなくなっていた。
ノートだけは姫神愛秋沙や吹寄制理からちょくちょく借りて写している。家や病院(入院前提)で少しでも勉強しようと
努力はしているのだが、まったく追いつかないのが現状だった。ちなみに、借りたノートから写した以前の授業内容に
続けてその日の授業の内容を書いてしまったりしているため、混乱を招いているのがその一因である。
(せ、せめて単語だけでも覚えよう……)
問題の一、二割は英単語やその意味を書くものだ。それで少しでも稼ごうと暗記を試みる。
ところが、その単語も短いものではなく、数もかなりのものだった。
(お……終わった)
小学生にしか見えない担任が『おはようなのです!皆ー、さっさと席に着きやがるんですよー!』と元気に声を上げて入室した。
担任の月詠小萌は『今日の日直は上条ちゃんなのですよー』と微笑むと、上条の元まで歩いてきて日誌を渡した。
上条は作業を一時中断して号令をかける。
「起立!」
ホームルームが始まる。
「―――と、いうわけで教育実習生の方を紹介します。
野郎共はもうちょっと落ち着いてください。鼻息が荒すぎですよ。静かに静かに。どーどー。
今回着ているのはあの有名な常盤台中学のお嬢様なんですから、怖い思いとかさせたら先生怒りますからねー」
(教育実習って……研修みたいなもんだっけ?)
教員免許状を取得するために必要なんだっけかなー、とまったく興味のない上条は一時限目の英語の小テストに備えて
英単語の暗記中である。日誌は机の中に封印中。
「ではではー……入っちゃってください!」
がらっと音を立てて入り口の引き戸が開いた。
教壇に向かって歩く革靴の足音が、静まり返った教室に響き渡った。
まったく目を向けていない上条は口の中で英単語の発音を繰り返している。
(……妙に静かだな)
ふと、こんなことが思い浮かんだ。
その教育実習生とやらが年齢不詳の五和先生だったりとか顔を変えた元錬金術師であったりとか、七三分けに髪をセットした
筋肉ムキムキスーツ姿のアックア先生とか、美術の先生とかでシェリーが現れる、なんていうことが。
(はっはっは……そんな冗談みたいな話ある訳ねぇけどありそうだから頼むから冗談でも勘弁してくれよ……)
と、そこまで考えて常盤台中学出身らしいこといっていたような気がして白井黒子の可能性に恐怖した。
黒板にチョークで名前が書かれているらしく、硬い音と擦れる音が続く。
かっかっかっ。
やがて、再び静寂が訪れると月詠小萌が紹介を始めた。
「はいはーい。この方が教育実習生の“御坂美琴先生”です。
なんと!超能力者(レベル5)が第三位の『超電磁砲(レールガン)』なのですよーっ!!」
教壇に紺色のスーツとタイトスカートを纏い、やや緊張したような面持ちの御坂美琴が立っていた。
薄く口紅が塗られた唇が動く。
「初めまして。御坂―――」
「ありえねぇっ!美琴先生?リアル美琴先生ですか!?何が起こってんだ!さっぱりわからねぇよ!
鈴科百合子とかエロ教師オリアナ先生とかそんなチャチなもんじゃ―――」
「月詠先生。チョークをお借りしますね」
「どーぞどーぞ」
ドパァァンッ!! という派手な音を立てて、席を立ち上がった上条の額でチョークが炸裂した。
白い粉が煙のように広がり、上条の顔と髪を真っ白に染めた。学園都市最強もびっくりの真っ白である。
小萌は咳き込む上条を見ながら、
「ほほう。御坂さん、中々やりますね。あれだけ情け容赦なく投げられれば先生の素質がありますよ」
「けほっ……。ど……どんな素質だよ」
学園都市最強もびっくりの真っ白になった上条に美琴が歩み寄った。
上条の首根っこを掴むと、窓を開けて頭を突き出させる。地上十数メートルの風が頬を撫で、上条は真っ青になった。
「待て!教育実習生だろうが先生だろ!?生徒を殺す気かーっ!」
「はいはい、黙って。ちゃっちゃと粉を落としなさい」
それだけいうと頭から順に粉を払い落とし始める。
悪かったわよ、という小さな呟きを聞いたような気がして、上条は横目でちらりと見る。心臓がどきっとした。
(ち、近い……!)
至近距離に美琴の顔がある。
薄化粧ではあるが、美琴の整った顔立ちを一層に引き立てている。元々女子中学生としては高い背丈もあって、
幼さが抜けた十代後半の女性に見えなくもない。スーツも十分着こなしている。微かに鼻孔をくすぐる香りは香水だろうか。
さらにほとんど密着状態である。服の上からでわかる柔らかい感触に上条の胸が高鳴る。
「……何よ」
視線に気づいた美琴が目を細めて見返すと、小声で問いかけた。
「……に、似合ってない?その、結構恥ずかしいんだけど。口紅とか。滅多にしないし……ええと」
口ごもりながらも手を動かす。ある程度払い落とし終わると、頬に赤みを帯びた美琴ははっきり言った。
「似合ってない……?」
似合ってる、と即答しそうになり思い止める。だが返答に迷った末、結局思ったことをそのまま口にした。
美琴は赤みの増した顔を引き締めてようとして、ガチガチに固まった表情のまま足早に教壇へ戻ると簡単な挨拶と自己紹介をした。
話すことで少しずつ冷静を取り戻しかけ―――上条がじっと見ていることに気づくと表情が崩れかけた。
教室中から敵意、殺意、嫉妬、羨望の眼差しが向けられていることに、上条はまだ気づいていない。
新しい一日が始まる。