「アアアアアアアアア!!」
身長3m。規格外の巨漢が夜に吠える。その名は黒房清十郎。【新人類】と呼ばれる殺人鬼。
「アアアアアアアアア!!」
繰り返し吠える。殺戮衝動を発散するためか、やるせない怒りを空に放つためか。否。黒房は喜びの雄たけびを上げていた。ただ嬉しくて、子供のように叫び倒していた。
「本場の殺人鬼に誘われたぞぉぉぉ!!」
幼いころからあこがれていた、殺人の本場、刃離鬱怒に誘われたのだ!殺し、殺され、血で血を争うあの世界に!
いつか誘われることを夢見て、黒房は本当に頑張ってきた。殺人鬼としての際立った風貌になるために全身に自分で傷をつけた。物心ついたころには両親を撲殺した。ペットのジョンは股から引き裂いたし、隣のおばちゃんはジグソーパズルみたいにバラバラの欠片にしてやった。
殺して殺して殺しまくってきた。ナイフ使いを目指してみたり、拳銃使いに憧れてみたり、斧を使ったりのこぎりを使ったり。最近になってようやく自分の型が掴めてきた。膂力に任せた残忍な嬲り殺しだ。いつか絶対認められる、そう信じてやりぬいた。
殺して殺して殺しぬいて、ついにチャンスが巡ってきたのだ。あと何人か殺して、“彼”にアピールできれば夢はかなう。黒房を動かしてきた、キラキラと輝く夢が実現する。
「アアアア!本当に!信じれば!夢は叶うんだなあああぁぁぁぁ!!!」
最後の締めとなる場所をどこにしようか。それはとっくに黒房の中で決まっていた。
「より多く!より無残に殺そう!殺しまくろう!当然舞台は!人の死ぬほど集まる渋谷だよな!!」
◇ ◇ ◇
きい、と蛇口をひねる音。
シャワーノズルから吐き出された水流が、陶磁器めいた女の白い肌を温める。女の名は浦見栞。“裏原宿ストローヘッズ”の元中心メンバーであり、今は亡きヘッドの浦見絶彦の妹であり。
【ウラハラシザーズ】と呼ばれる連続殺人鬼であった。
大好きな兄を殺した仇たちを。殺し、殺し、殺してきた。そうして浴びた返り血を浴室で落とす。
こんなことをしたって、奇麗にならないのは分かっている。肌は白くても、私の魂は汚れてしまった。
こんなことをしたって、兄さんが笑ってくれないのは分かっている。多分悲しく首を振るだけだろう。
それでも私は止まれない。それが私に能力を授けた男の目論見の通りだとしても。都合のいい切り捨て可能なコマとして、踊らされていると分かっていても。兄さんがいないこの世で、兄さんを殺した奴らが、笑って暮らしているのがどうしても許せないのだ。
「…今さら、止まれるわけも、許せるわけもないじゃない。」
“裏原宿ストローヘッズ”の裏切り者は全て殺した。あとは、メンバーをそそのかした裏組織。私なんかじゃ到底知ることも出来ない巨大組織の存在も、あの男は教えてきた。
もう私は止まれない。止まらない。男からのメールを再度確認する。仇の居場所。組織の人間の居場所。その真偽を確かめる術はなくても、私はもう絡みついた宿業から離れることが出来ないのだ。
「…渋谷。か。」
◇ ◇ ◇
青百合高校の講堂に、万雷の拍手と歓声が渦巻く。西条なつみ率いる演劇部。全国高等学校演劇大会で優秀校に輝いた彼女らは凱旋公演を大成功で終わらせた。
演者控室。通常ならば休息の空間であるが、西条なつみにとってはその限りではない。慕うファンが続々と訪れ、心のこもった差し入れをしていく。それを完璧な笑顔で受け取っていく。後輩、同級生、時には教師に保護者。老若男女問わず引き付ける魅力と華が彼女にはある。
一段落付いたかというとき、大柄な女生徒がびくびくしながら差し入れを持ってきた。
「さ!西条先輩!凄く…凄くカッコよかったです!これ、受け取ってください!」
「ありがとう!手作りのクッキーとは嬉しいね。甘いものは演じた後に欲しくなるんだ。オヤツはとても大切さ。」
「わ、私、ずっとデカ女っていじられてて!でも、同じくらいの背の先輩は、どこまでもかっこよくて…みんなに人気で…、私なんかとは違うなって…」
ス、と後輩女子の口になつみは人差し指を当てて言葉を遮る。
「駄目だ、駄目だよ。自分を卑下しちゃいけない。人はいつだって変われる。君だって、すぐに私みたいになれるさ。」
恐るべきことに。西条なつみは本心からこの台詞を言っている。人の可能性を信じ、人の成長を祈り、愛を尊いものと感じている。その上で、殺し、嬲り、蹂躙し続けている。
「せ、先輩!あの!あの!良かったら、このあと一緒にお茶とかいかがでしょうか!」
一世一代の告白を、西条なつみは涼し気な顔で躱す。
「フフ、申し訳ないけど私もこの後用事があってね、お茶は魅力的だけど別の日にしてくれるかな?」
「う~、分かりました…。どちらに用事があるんですか?」
すうと一息。獲物を狩る獣の目をしていたことに気が付けた者はこの場にいなかった。
「渋谷かな。」
◇ ◇ ◇
スラッシュ・スラッシュ。
私は切り刻みます。私は切り刻まれます。
トラッシュ・トラッシュ。
私は捨てます。私は打ち捨てられます。
月もないどんよりとした夜空の下。路地裏に場違いな明るい声が響く。声の主は小津夏美。相手を汚染し惑わす言葉は『クラック・クラック』。人呼んで【ガールズトーク】。
今夜の“トーク相手”の哀れな姿は彼女の足元に無残に転がっていた。何回も、何回も、潰すかのように切り刻まれ地面の染みに近い遺体となっていた。
「ひ!ひい!やめろ!やめやがれ!」
見るからにやくざ者といった風体の男が、平凡な見た目の女子高生に怒鳴っている。しかしその声は震え、すでに漏らしていたのか、股間には惨めな染みがくっきりと浮かんでいた。異常極まる光景だった。
その異常の中心、小津夏美は心から楽しそうに笑いかける。
「んふ!わかるよ!お仲間みたいに刻まれるのは嫌で、苦しいと考えているんだね!でも…」
ヒュン、と軽い音共にナイフが投げられ、やくざ者が隠し持っていた通信機を貫く。
「仲間に連絡して、みんなでボコボコにするのは楽しいよね!んふふ!わかる!お兄さんの楽しさわかるよ!お兄さんにも伝わるよね!私の喜び!」
やくざ者の顔が、意志に反し奇妙に歪む。小津夏美の喜びが流入してきたのだ。笑いだしそうになる衝動をグッと抑え、やくざ者は言葉を投げる。
「て、てめえ!やたらめったら殺して回りやがって!もうここらの裏の奴らはてめえのことを知ってるぞ!お終いだ!お終いだ!俺らみたいな半端者じゃない。本職が!てめえを殺しに…ギャブ!」
言葉を遮り頭を勝ち割る。
「んふ!んふふっふ!頭が割れるみたいに痛い!やっぱり!やっぱり!苦しくて!楽しい!」
ああでも。と小津夏美は考える。魔人として覚醒し、様々な倫理観が削ぎ落ちてしまった自分でも、このまま無軌道に殺して回っても先がないことくらいは分かっていた。ならば自重するか?ブレーキを踏みましょうか?
スタップ・スタップ
下らない考えはやめましょう。どうせなら派手に。ブレーキを踏むよりもアクセルを踏む方が絶対に楽しいじゃない。
「派手にやるとしたら…んふ!渋谷かしら!」
◇ ◇ ◇
コツリ、コツリ。稚切バドーは夜を歩く。警察に存在を知られて以来、“殺人鬼を減らすために努力をしております”というポーズのために毎夜歩いていた。
とはいっても、バドーの能力を活用すれば殺人鬼と出くわさずに平穏な日々を過ごすことは容易だ。『象撫』は相手がこちらを知覚したときに発動できる。即ち、殺人鬼がこちらを捉えたかどうか瞬時に判別できるのだ。捕捉されたら全力で逃げる。ただそれだけ。それだけでよかったはずなのに。
「頼むぜ?もうちょいマジにやってくれよ。こうも成果が上がらないと、ちゃんとやってるのか疑っちまうわな。」
大悲川南兵衛。お目付け役にしてバドーの首輪を握る人物。
「…私は真剣にやっていますよ?偶然出会わない可能性もゼロじゃないでしょう?」
無駄な抵抗と分かっていても、言い訳を口にする。自分のような魔人能力者は組織に存在を捉えられたら成す術もない。初見殺しに近い能力者は、対応された時点で詰んでいる。魔人警察という最高クラスの組織にマークされた時点で、バドーはこの男の言葉に従わざるを得ない。
「勿論信じるさあ?ただね、今回はこっちの指定の場所に行ってほしいんだ。ま、パーっと魔人同士でぶっ潰し合ってくれや。」
いつまでたっても慣れない。自分を道具としてしか見てこないこの目には。
いつまで続くのだろう。心許せる相手も家族もなく、社会に認められないまま死にたくない一心でさまよう灰色の日々は。
溜息と共にバドーは夜を歩く。大悲川の指定という事は、その場所には殺人鬼が待ち構えているのだろう。これから殺し殺されの関係を築き上げることに気分が重くなる。
出来れば殺したくない。あの冷たい死を取り込む感覚はいつまでたっても慣れそうにないから。
ただそれ以上に。
「死にたく、ないんだよねえ。」
自分の浅ましさに嫌気がさしながらも、バドーは歩く。殺すために。生きるために。
「…渋谷。スクランブル交差点…ね。」
◇ ◇ ◇
夜よりほかに見るものもなし
◇ ◇ ◇
渋谷。スクランブル交差点。おそらくは日本で一番人が行き交う魔境。殺人鬼の報道が連日なされ、多くの人々が家にこもり夜の街に人気がなくなる中でも、この場はまばらながら人の姿があった。
それが、急遽消えた。人間が持つ生存本能というのは素晴らしい。この場に、人ならざる殺人鬼が集うと、本能が告げたのだ。どんな楽観主義者でも冷や汗と共に家に戻らざるを得ないような、凶悪な殺気が今の渋谷には渦巻いていた。
魔境に引き寄せられた修羅は五人。
【新人類】 黒房清十郎
【ウラハラシザーズ】 浦見栞
【ラブ・ファントム】 西条なつみ
【ガールズトーク】 小津夏美
【ドッペルぬらりひょん】 稚切バドー
今日、この場にいなければ。彼ら彼女らは日々変わらず人を殺しただろう。自分の思うまま暴を振るい、己の意志を貫き続けただろう。
しかし。出会ってしまった。今日、ここで、出会ってしまった。
死ぬ。死ぬ。一人を除き、今夜、明日の朝を迎えずに死ぬ。惨めに、無残に、何一つことを成せず。殺人鬼どもの人生はここで終わる。
互いの姿を認識した瞬間。二人は、前へと進んだ。三人は、後ろへ退いた。進んだ者は、黒房清十郎と浦見栞。退いた者は、西条なつみと小津夏美と稚切バドー。
凄惨極まる戦いが、始まる。
◇ ◇ ◇
「アアアアアアアアア!!!」
黒房が雄たけびを上げる。自身の夢への総仕上げ。テンションは最高潮。そんな黒房が選んだ道具は、丸太であった。
『あーたネ、やっぱり奇をてらったやり方は似合わないわヨ?せっかくそれだけのバディがあるんだから、THE暴力!って感じを押し出した方がいいんじゃナーイ?』
“彼”の忠告に素直に従い、自分の思いつく限り最高の暴力の象徴、丸太を持ってきた。渋谷のど真ん中、どいつもこいつもひき肉にする気概で叫ぶ。
「アアアアアアアアア!!!」
凶悪な叫びに恐れをなしたのか、集まった殺人鬼どもが散っていく。誰が逃がすものかと、追撃の姿勢を取る黒房の前に、立ちふさがる者が一人。【ウラハラシザーズ】浦見栞だ。決意に満ちた、思い詰めた瞳で真っすぐに黒房を見上げる。
「アアアアアアアアア!!!」
そんな決意の瞳を無視し、丸太による大暴力で蹂躙しようとする黒房に、栞が告げる。
「…お前が『劇団』の一員だな?」
ピタリと、黒房の動きが止まる。“彼”の組織を知っていることに驚いたのだ。
劇団。アメリカに拠点を持つ超一級の殺し屋集団。その特徴はシンプル。強さだ。劇団員全員が、殺しの本場である刃離鬱怒で名の知れた少数精鋭。世界各国の殺人エリートをスカウトし、常にハイレベルな集団を維持している。
「“裏原宿ストローヘッズ”のヘッドを殺した時・・・私の兄さんを殺した時、場を整えたのは『劇団』だって聞いた。そしてその場には尋常でない大男がいるって聞いた…。兄さんの死に加担した奴は!全員!この手で殺す!」
常人なら空気だけで気圧されそうな殺気を、黒房は笑顔で受け止める。
(お!仇討ちってやつかな?…裏原宿?色々仕事してたから正直全く覚えてないけど、ここまで思い詰めて来るってことは本当なんだろうな!…となると、野蛮人キャラはやめて、憎らしい仇キャラでいこう!応用性が大切だって、“彼”も言ってたしな!)
ニヤリ、と酷薄な笑顔を作る。
「加担したからなんだっていうんだぁ?お前の兄貴がどうしたってんだぁ?いちいち踏みつぶした虫けらに心を割く暇があるわけねーーーだろぉ?」
(よし!我ながら憎らしい!良い出来ぃ!)
プルプルと、栞の唇が怒りで震える。
「――殺す。」
言うが早いか黒房の胸元に飛び込む。あまりに馬鹿正直に正面から来る姿に疑問を覚えつつも、黒房は丸太で迎撃する。
瞬間。ジャギンと。異質な音が響き渡る。栞は、丸太と自分の関係を断ち切った。完全に、間違いなく直撃コースだったはずの丸太が、ぬるりと不可思議な動きで栞を避ける。
困惑する黒房に対し鋏一閃。栞に出来る最速の攻撃が首元に迫る。が、黒房はこともなげに渾身の一撃を躱す。3mの巨躯とは思えぬ素早さ。
丸太を躱されたことに困惑しつつも、体は自然と最適解を取る。目の前の相手を殺すための最適解を。巨木のような脚で、栞に向けて足刀蹴りを放つ。が、栞は瞬時にバックステップ。黒房に触れさせない。
ハイレベルな息つく暇もない応酬。並の魔人だったらこの時点で三回は死んでいるだろう。
「アアアアアアア!!!意外と!やるなぁ!」
「…あんたなんかに褒められても、欠片も嬉しくないね。」
凄絶なるかたき討ち。生死の天秤はどちらに傾くのか。結末はこの夜だけが知っている。
◇ ◇ ◇
一方、渋谷ヒカリエ方面。
(やれやれ、とびっきりに罪深い人たちと会えたのは嬉しいけど、まさか四人もいるとは!これはなかなか悩ましいね。)
西条なつみは夜を駆けていた。“脚力”を二倍にしてスクランブル交差点から離れる。それと同時に“思考速度”を二倍にして超速で状況を整理する。
自己の欲求に正直に罪人を狩ってきた西条なつみは当然犯罪者の情報を収集している。娘を溺愛する名家の父親のバックアップもあり、かなりの精度の情報を握っていた。実際、今日渋谷に来たのは【ガールズトーク】が渋谷に来ると情報を得ていたからだ。
小津夏美は殺人の快楽にも魔人能力にも目覚めたばかりで隠匿という事を知らない。相手と苦楽をより深く共有するために「私の楽しみを分けてあげる!お兄さんの喜びも伝わるよ!」などと喧伝しながら殺し回った結果、裏社会には彼女の能力に関する大まかな情報が出回っていた。
(フフ、察するところショルダーバッグを持っていた女子高生が【ガールズトーク】かな?傷だらけの大男は最近話題の殴殺魔だろう。あんなに大きな殺人鬼なんてそうそういないだろうから。あとの二人はちょっと分からないね。)
西条なつみの『バイ・クイーン』は攻守に応用の効く能力ではあるが、単純火力のごり押しには相性が悪い。また乱戦もそこまで得意ではない。一旦距離を取り、他の殺人鬼がどう出るかで今夜の身の振り方を考えることにしたのだ。茶羅山槍夫を狩った時のように、ポーチにはいろいろと用意してある。
(…おや?誰一人こちらには来ないね。)
これは予想外の展開。追ってきた相手とうまく一対一になるようにして狩ろうと思っていたがいきなり当てが外れた。
(となると、むこうで乱戦が始まった?それとも一対一が二組出来ている?)
なんにせよ、チームを組むなどというのはありえない。我を通し、自分の道に邪魔なものを殺すことで排除してきたからこその殺人鬼なのだ。ましてや出会ったばかり。互いのことを信じられない状況で、殺人鬼が手を結ぶはずがない。
(疲弊したところを漁夫の利でもいいけど…)
ぬらり、と唇を舐める。爬虫類めいた、それでいて蠱惑的な動きだった。
「フフ、【ガールズトーク】!苦楽を共にする能力!彼女は、私の罪を共有してくれるのかな?同じくらい罪深くなってくれるのかな?嗚呼!素敵だ!是非!是非!持ち帰って一緒にゆっくり溶け合いたいなあ!」
西条なつみにとって、苦楽を共有できる能力は理想と言えた。傷つけ、傷つけられ、喰い、喰われ合う。
「彼女の喉元に齧り付いた時、彼女の痛みが私に来る?私を喰らってくれる?私の幸せを理解してくれる?フフフ、最高だ。最高だよ。いつもより倍は念入りに色々したいね。」
罪重ねる強欲な狂人、【ラブ・ファントム】 西条なつみ。彼女は今宵の獲物を決めた。
「カロリーを使いそうだ。オヤツを持ってきて正解だったね。」
◇ ◇ ◇
走る走る走る。無我夢中で、全身全霊で、一心不乱に。内臓がひっくり返りそうになるが、バドーは全力でスクランブル交差点から逃げていた。
モヤイ像を過ぎたあたりで失速する。胃が限界を訴えていた。
「オゴォ…、オバアアぁ…ウエェェェェ」
吐いた。吐いた。吐いた。胃の中身が空っぽになり、胃液しか出なくなるまで吐き続けた。鼻水も涙もだらしなく垂れ落ち、周囲には吐瀉物のにおいが充満した。その横で、
「オグエェ…、うぶ!オボロロロロロ」
【ガールズトーク】、小津夏美も盛大に吐いていた。
『クラック・クラック』により、夏美の苦しみの理由がバドーに伝わる。バドーの苦しみの理由が夏美に伝わる。
『象撫』により、互いの認識が混合され、知覚が再構築される。
テレパス系の魔人能力者が偶然出会ったことにより、超速の情報交換が行われた。そして、互いに認識を共有した。それ即ち。
《あの黒セーラーの女はヤバすぎる》
◇ ◇ ◇
人の死を取り入れるというのは、あまりに悲しく、受け止めきれない。殺人ガガンボの件で初めて人の死を取り入れた時、稚切バドーは心底そう思った。普段他人と認識を混合しないよう努めているのは、こうした負の感情に引っ張られ壊れないようにするためだ。
そんなバドーにとって、西条なつみは劇薬としか言いようがなかった。見た目は超然とした、完璧な生徒会長。同性のバドーでも、月明かりに照らされた西条なつみの凛とした笑顔は魅力的に映った。
だからこそ、完璧な不意打ち。西条なつみがこちらを認識した瞬間、『象撫』で体に入り込んでくる漆黒の情報。西条なつみのこれまでにしてきたこと、自身に向けてくる感情、罪重ねるための、餌に対しての情熱。
殺人鬼としての意識が違い過ぎた。
人の皮を被った災厄のどす黒い殺意と異常性、狂気。それでいて何事もなく一般生活を送る人間的感性。『象撫』はそれらを容赦なくバドーに伝えてきた。全く理解できない享楽を送り込まれたバドーは、胃の腑がぐるりと逆流するのを感じて逃げ出したのだ。
恐ろしいことに、あの西条なつみという女はごく普通の生活の幸せというものを知っている。楽しい学園生活を送り、後輩には慕われ、部活に熱中する青春を送り、それを全霊で楽しんでいる。人を愛し、愛され、夢や希望の豊かさを知っている。
その上で、人を殺し、徹底的に蹂躙することを楽しんでいる。
もう少し西条なつみの認識を取り込んでいたなら、精神に何らかの不調をきたしていただろう。まさしく、バドーにとっての天敵としか言いようがなかった。
仮に、バドーがもっと前から警察の依頼を受けていたなら。何人もの死を受け入れ、人の裏にある悪意を知り、良くも悪くも少しずつ摩耗していたなら。西条なつみの悪意にも耐えられたかもしれない。
しかし。出会ってしまった。今日、ここで、出会ってしまったのだ。
◇ ◇ ◇
小津夏美は殺人鬼たちの快楽を飲み込み自らの糧とする殺人鬼だ。しかし殺人鬼としても魔人能力者としても目覚めたばかり。ルーキー殺人鬼と言っていいだろう。
そのルーキーにとっては、西条なつみの漆黒の殺意は濃すぎた。原液のカルピスをそのまま飲まされているような気分。今まで自分が楽しんできていた殺意は、非常に薄いものだと痛感させられた。
殺人鬼としての年季が違い過ぎた。
苦楽の共有と言っても限度がある。例えば目の前に小さなハムスターが一匹震えているとして、大多数の人間が「可愛い」「守ってあげたい」と思う中、「素揚げにしたら美味そうだな」と本気で考えている人間の感覚を理解したいだろうか。共有したいだろうか。
しかもその人間はハムスターが可愛いと理解したうえでそう思っているのだ。
小津夏美にとっての西条なつみは“ソレ”であった。心の底から楽しんでいるのが分かるからこそ、ソレを理解したくなかった。確かに小津夏美は殺人鬼だ。しかし今までは平穏なる生活を送ってきたのだ。
ソレを理解してしまったら、今まで人間として積み重ねてきた日々、家族と過ごしてきた慎ましくも温かな日々を完全に否定してしまうと理解したのだ。だからこそ身体が共有を拒絶し、内臓が暴れるのを感じて逃げ出したのだ。
もう少し西条なつみの喜びを取り込んでいたなら、精神に何らかの不調をきたしていただろう。まさしく、小津夏美にとっての天敵としか言いようがなかった。
仮に、小津夏美がもっと前から魔人能力に目覚めていたら。何人も殺し、殺し、殺され、殺され、魂を少しずつ黒く染めていたならば。心底からの殺人鬼となり今までの自分を切り捨てていたならば。西条なつみの悪意にも耐えられたかもしれない。
しかし。出会ってしまった。今日、ここで、出会ってしまったのだ。
◇ ◇ ◇
小津夏美と稚切バドーは見つめ合う。『クラック・クラック』が互いの苦楽を共有する。『象撫』が互いの認識を混合し再構築する。
見つめ合っていた時間は一分にも満たなかっただろう。しかしそれは互いにとって今までの人生で一番濃密なコミュニケーション。自身の汚いところも奇麗なところも、何もかもをさらけ出した、テレパス系能力者同士だからこそ可能な究極にして一瞬の意思伝達。
二人は同時に同じ結論にたどり着いた。協力して、最大の天敵を倒そうという結論に。
「ねえ…もう伝わってると思うけど、こういうのは口に出すことが大切だと思うの。」
小津夏美から話しかける。
「同意する。しっかりと形にしたい。」
稚切バドーも答える。既に瞳に敵意はない。
「「協力して、あの女を倒そう」」
同時に口にして、互いの拳コツンとをぶつけあう。互いに血濡れた殺人鬼。それでも、この夜だけはともに歩むことに決めた。
「あ、勿論わかってると思うけど!裏切りは勘弁だからね!」
殺人鬼然とした振る舞いはどこへやら、ごく普通の女子高生のように小津夏美は話しかける。
「む…そんなことするはずがないと、互いの能力で分かっているはず。」
バドーも、背伸びをやめ、年齢相応の反応を返す。その直後、バドーはクスリと笑う。
「?どうしたの急に?」
「貴方の能力じゃわからないと思うけどね、あのヤバい女、西条なつみっていうんだ。」
「うげ~!最悪!ナツミ被りしてんじゃん!とりあえず、あいつはサイジョー!それで固定!OK!?」
「はいはい、OKよ。」
――こうして、ありえるはずのない殺人鬼同士の協力関係が築かれた。女王狩りが、幕を開ける。
◇ ◇ ◇
浦見栞VS黒房清十郎
小津夏美&稚切バドーVS西条なつみ
◇ ◇ ◇
✂side:浦見栞
単純な膂力では黒房に利があるのは明白だった。それを理解した瞬間、栞は背を向けて走り出した。逃げるためではない、勝つ準備を整えるための疾走。相手の一撃、丸太との縁を断ち切っての奇襲、それを防がれた時点でこうすることは想定の範囲内であった。
罠の気配を感じながらも、黒房はその背を追う。自分の体力、身体能力、そして何より『マーダー・エントリー』さえあれば、大抵の相手には五分以上の戦いが出来ると判断したからだ。
生半可な策であれば、単純暴力で押しつぶせる。それは思い上がりでも何でもなく歴然とした事実であった。3mの巨躯を誇る戦闘魔人の疾走を止められるものなどそうはいない。実際今までは全ての相手を薙ぎ倒してきた。
栞はスクランブル交差点を離れ、道玄坂方面に向かう。入口に巨大な水槽がある店。安さの殿堂。メガドンキホーテを戦場にすることを栞は決めた。
壁のように積まれた様々な物品。見通しの悪い通路。縁を断ち切る『因果嘲』は、何か物があるときでないと能力を生かせない。まっさらな平地での戦いよりゲリラめいた戦いを得意とする。
(…あの大男の“縁”を見たけど、何か超常のものとは繋がっていなかった…丸太で殴りかかってきたことからも、単純な物理攻撃のはず!)
所狭しと置かれた商品は、二人の視界を悪くする。店内に鳴り響く、妙にこびりつくテーマソングは聴覚を妨害する。しかし、栞に視覚・聴覚の不利は関係なかった。自分と黒房の縁を見ればいいのだ。糸の方向に黒房はいる。
(奴の居場所は分かる。不意打ちで、奴と“地面”の縁を断ち切る!)
それは浦見栞の必殺の一撃。地面と縁を断たれた人間は、地下深くに吸い込まれていく。地面とあらゆる影響を及ぼすことが出来なくなるというのはそういう事なのだ。
ただし、当然地面との糸は足裏についている。超至近距離に接近して、相手の歩みに合わせて地上すれすれの糸を断ち切らなくてはならない。
(大丈夫だ。この店内では私の位置はすぐには分からない。私はあいつの位置が分かる。)
自身に言い聞かせる栞の耳に、怒声が届いた。
「アアアアアアアアア!!!」
耳をふさぎたくなるほどの大音量。
「アアアアアアアアア!!!」
黒房清十郎の強みは、恵まれた体格を十全に活かすことのできる小技の数々。風呂上るるい江を葬り去った時のように、反響音で栞の位置を探る。
「そこかあああああ!!」
(見つかった!?ブラフ!?マジ!?判断が付かないけど、接近は糸でわかる!)
縁を示す糸は、対象との距離が遠いほど細くなり、近いほど太くなる。その特性により相手との距離を測れるのだ。その糸が、どんどんと太くなる。うずたかく積まれた商品をものともせず、真っすぐに黒房は近づいてきていた。
『マーダー・エントリー』。安さの殿堂に積まれた商品は、まさに黒房の認識する障害物そのもの!ならば能力を活用すれば透過できる。最速、最適のルートで真っすぐに栞に向かっていく。
急速な接近を前に、栞は早々に切り札を切ることに決めた。
◇ ◇ ◇
シュルリと響く衣擦れの音。行為の後のけだるさは、妙な心地よさとなって栞を襲う。
横で無邪気に寝息を立てるのはカズト。
別に嫌いじゃなかった。むしろ好きな方だった。
こうして体を開いてもいい程度には好ましい関係を築けていたと思う。
野心家で、背伸びしがちで、ロマンチストで。
(兄さんを殺しさえしなければ、ね。)
復讐の準備が整うまでの間、栞はカズトとともに過ごしていた。上昇志向の強いカズトは、どうやら色々と危険な組織と関係を持っていたようだ。そしてそれを自慢げに話す幼さの持ち主でもあった。
「…それで、こんなものまで仕入れた、と。」
栞はそれをこっそりと拝借した。カズトは殺す。しかしそれで復讐が終わるわけではない。後ろ盾に“あの男”しか持たない栞にとって武器はあればあるだけいい。
魔人能力だけで対処しきれない相手とやりあう日のために。
◇ ◇ ◇
「ウオララララぁぁぁ!!」
『マーダー・エントリー』で一直線に栞に向かう黒房。その眼前に、ピンという音とともに黒い物体が投げ込まれる。
ギリシア火、パイナップル、ポテトマッシャー、様々な異名を持ち、数多の戦場で兵士の命を刈り取ってきた兵器。
手榴弾である。
そして、手榴弾を投げ込むと同時に『因果嘲』発動!栞と手榴弾の縁を断ち切り、互いに干渉不可能とする!超至近距離で炸裂したにもかかわらず、手榴弾は栞に傷一つつけることがない!
「ウオオオオ!?」
黒房は、こんな至近距離で手榴弾を爆発させられるとは全く思っていなかった。とっさに雑多にものが積まれた棚を盾にするが防ぎきれない。
戦闘型魔人、驚異の肉体を持っていたとしても流石に手榴弾相手に無傷とはいかない。
「グオアアアア!?」
ダメージを追った黒房は、地面に潜った。『マーダー・エントリー』の認識する障害物はかなり大雑把である。メガドンキホーテには地下に食品コーナーがある。目的地を地下に定めた場合、床は黒房にとって立派に障害物足りえるのだ。
「な…!?」
ドンキホーテ店内を真っすぐに突き進んできたことが予想外なら、床に潜り込んだのも予想外。
(物体透過能力!?となると…このままじゃヤバい!)
栞はとっさに店内の脚立に上る。床下からの完全なる奇襲を警戒したのだ。
(大丈夫…奴の位置は縁の糸で分かる…!)
しかし、予想外はさらに続く。奇襲に備えて構えているうちに糸がどんどんと細くなっていく。黒房との距離がみるみる離れていく。
(な…!?逃げるの!?)
兄の仇をむざむざと逃がすわけにはいかない。『劇団』のことも聞きだしたい。縁の糸の示す方向に従い、黒房を追う。
渋谷道玄坂はかつてヤマハミュージックの巨大店舗が44年もの長きにわたり存在していた、音楽野郎のメッカだ。ヤマハミュージックなきあとも、数多の楽器専門店が軒を連ねている。
メガドンキ前の総合音楽ショップ、クロサワ楽器に黒房は駆けこんだ。
「アアアアアアアアア!!!」
雄たけびを上げながら、あっという間に最上階に向かって上っていく。
「アアアアアアアアア!!!」
雄たけびを続けながら、手当たり次第に楽器を手に取り、窓から栞に向けて投げつける。ドラムセットの重さは約10キロ。電子ピアノの重さは約50キロ。
(腕力に任せて高いところから重いものをぶつける作戦…!だけど!私には効かない!)
雨あられと降り注ぐ楽器の縁を次々と断ち切りながら栞は進む。
「アアアアアアアアア!!!」
確かに楽器に殺傷能力を持たせるまでの腕力は栞にはない。戦場を有利に使わせないという点では黒房の目論見は当たっていたかもしれない。しかし、別段黒房が有利になるというわけでもない。単純な物理攻撃は栞に届くことがない。
しかも殺傷能力があるほどの質量の楽器には当然限りがある。あっという間に弾はつき、突き進む栞に対し打つ手がなくなった。
「アアアアアアアアア!!!」
もはや吠えるしか出来ないのか。最上階に黒房の雄たけびが響き続ける。投擲がなくなったのを確認し、栞もクロサワ楽器に飛び込む。縁の糸は変わらず最上階を示している。
「アアアアアアアアア!!!」
変わらず雄たけびは続いている。手榴弾の傷が癒えないうちに、こちらのタイミングで不意打ちを仕掛けるのが正解だと判断し栞は階段を上る。
最上階、奥まった位置にある一室から雄たけびが聞こえる。栞は一つ大きく息を吸う。大丈夫だ。まだ能力はバレていないはずだ。地面との縁を断つという切り札に気付かれてはいないはずだ。自分に言い聞かせ、部屋に突入する。
突入と同時に雄たけびの方向に一気に飛び込み、足元を掻き切る!何度も練習した一撃必殺。非力な自分が強者を討つために積み重ねた技。
しかし、雄たけびの方向にあったのは、高音質が自慢の高級オーディオであった。
「位置丸分かりになるのに雄たけびし続けるわけないだろ?」
栞の背後から野太い声が響く。楽器の投擲が終わったあと、最上階に栞が上ってくるまでの間に黒房は仕込みを済ませていた。自身の雄たけびを超高音質のオーディオに録音し、再生を続けていたのだ。
雄たけびというあまりにも分かりやすい餌に栞は食いついてしまった。すぐさま反転し、黒房に向き直るが、何もかもが遅かった。巨人の凶悪な打ちおろしの右ストレートが、栞の右肩を粉砕した。
「ああああ!あが!ぎぁ!」
痛みに悶絶する栞に、黒房は容赦なく拳を振るう。黒房との縁を断ち切ればこれ以上の攻撃は受けない。しかしそれは仇討ちを諦めることを意味する。逡巡する栞のことなど一切考慮せず、黒房の容赦のない攻撃は続く。
「石蹴り、好きだったんだよな俺。」
栞の腹部に強固な前蹴りが突き刺さる。ゴボリと口から血が溢れ出るが、黒房はまったく蹴りを止めない。ローキックで足をへし折り、崩れ落ちたところにサッカーボールキック。階段から転がり落とす。
学校帰りの小学生が家まで石ころを蹴り飛ばして運ぶかのような気楽さで、黒房は栞を蹴り運ぶ。店外に出るころには四肢の骨は全てへし折れていたが、この程度で刃離鬱怒にスカウトされたエリート殺人鬼が手を緩めるわけがない。
「ホイっと。」
鋼の蹴りが肝臓に突き刺さる。吹っ飛ばされた拍子に、アスファルトで体がじゃりじゃりと削られる。右ひじの骨が露出する。
「~~~!!!」
栞は泣き言だけは漏らすまいと必死に歯を食いしばるが、そんな努力をあざ笑うかのように蹴る。蹴る。蹴る。鋏を出す暇なんて無い。道玄坂を【ウラハラシザーズ】浦見栞が血まみれになって転げ落ちる。
どれだけ蹴り転がされたであろう。気が付けばスタート地点のスクランブル交差点まで戻されていた。
「ん~、どうせなら渋谷らしいぶっ殺し方にしたいよな!」
ぐったりとする栞の髪を無造作に掴み、無理矢理立たせる。そしてそのまま、力任せに上空に放り投げる。
(あ…月が…奇麗…)
我ながら的外れなことを考えているな、と栞が自嘲した直後、ハチ公像に落下し、ぐちゃりと嫌な音を立てた。
「ま、そこそこ楽しめたかな!」
黒房の傷は、すでに癒え始めていた。
◇ ◇ ◇
🚺side:小津夏美&稚切バドー
(さてさて、どこにいるのやら。)
【ガールズトーク】を狩るために、西条なつみは夜の渋谷を練り歩く。
(なんとなく、だけど。巡り合える気がするんだよね。殺人鬼同士。)
その勘が正しかったのか、それとも相手もこちらを探していたのか。【ガールズトーク】、小津夏美の姿を遠方に捉えた。しかしほんの一瞬姿を見せたかと思えばすぐさま反転し、逃げていった。
(私を恐れている…という感じじゃないね。かなり演技臭い。誘っている?フフ、面白い。)
ちらりと姿を見せては逃げていく【ガールズトーク】に罠の気配を感じながらも、西条なつみは誘いに乗ることにした。
(渋谷は広く入り組んでいるからね…逃げに徹されるよりは全然いいさ。)
そうして、誘導されたのは渋谷の再開発エリア。かなり工事が進んだとはいえ、いまだ渋谷には様々な資材が積まれた開発中のエリアが存在する。本来であれば立ち入り禁止の区間だが、殺人鬼たちには何の拘束力もない。
(視界の悪い空間だけど…私なら対応できるさ。)
『バイ・クイーン』で“聴力”を倍にして周囲の気配に耳を澄ます。相手を見失ったので何気なくしたことだったが、それが幸いした。倍になった聴力は、背後から近づいてくる衣擦れの音を敏感にとらえた。
(な!?)
驚きながらも振り返り対応。迫って来ていたのは【ドッペルぬらりひょん】、稚切バドー。殺人鬼に共闘はあり得ないと思い込んでいた故の戸惑いをついて、大上段から金槌が振り下ろされる。
“反射神経”を倍にすることでなんとかポーチを盾に防ぐことが出来た。その時に生じた隙に完璧に合わせる形で、【ガールズトーク】、小津夏美が背後からナイフを突き立てる。
「アグ…!」
ダメージは間違いなくあった。しかし妙な手応えだったので襲撃者二人は同時に距離を取った。西条なつみのセーラー服を、ナイフの刃が通らなかったのだ。
(…特注の…防刃繊維を編み込んだ制服…一応に備えて“耐久性”を倍にしておいてよかった…!)
「やれやれ、せっかちな二人組だね。そんなにまとめて相手にしてほしいのかな?」
完全に虚を突かれ、背に痛撃を受けたにもかかわらず平然と笑う。その得体の知れなさに引き込まれないように、二人は能力対象を互いに絞った状態で、一歩引く。
実はこの時、果敢に攻撃を続けていれば、高確率で討ち取ることが出来ていた。しかしダメージがまるでないかのように振舞う西条なつみの演技に騙されて二人は踏み込むことを躊躇したのだ。
《夏美、落ち着いて、多分はったり。》
《わかるよ。バドー。でもコイツ相手にギャンブルはしない。堅実に勝ち切ろう!》
戦闘における西条なつみの一番の武器は、卓越した演技力だ。彼女の喜びは、怒りは、哀しみは、楽しみは、全霊の本物に見える。しかしそれは全て真実であり全て偽り。
真っ向勝負かと思いきや不意打ち。右かと思えば左。左かと思えば右。怯えているかと思えば勇ましく、激情のまま突っ込んでくるかと思えば逃走し。嘘かと思えば誠。誠かと思えば嘘。彼女の言葉、動作、表情。全てが表で全てが裏。
更に相手を困惑させるのが『バイ・クイーン』だ。“脚力”を倍にして素早く動く。“腕力”を倍にして力強く動く。そんなシンプルな使い方だけではなく、“思考速度”を、“説得力”を、“嗅覚”を、倍にし、戻し、また倍にし、変幻自在の戦い方が出来る。
倍にするには自分自身に触れる必要があるが、西条なつみはそれすら利用する。これみよがしに自分の頬を撫でる、その瞬間に戦闘スタイルが変わる。かと思えば何も変わらず。かと思えば変わり。倍化するためのキーすら発動と未発動を織り交ぜ、相手の思考を混沌に叩き込む。
相手が戸惑い困惑したならば更に言葉で揺さぶる。
「助けて」「殺して」
「許して」「お前のせいだ」
「本当はこんなことしたくない」「さあやりあおう」
「皆殺しにしてやる」「協力しないかい」
「君の母親はね」「初めましてでいいのかな」
「私は知っているよ」「私は何も知らなかったんだ」
彼女を前にし、ニュートラルな感情で勝負を挑める者など存在しない。感情を思うままに操り、虚々実々の世界に引きずり込む。まさにトリックスターと呼ぶにふさわしい、百面相の持ち主。それが罪人狩りの【ラブ・ファントム】なのだ。
・・・その彼女が、完全に翻弄されていた。
「生意気なぁぁ!」
怒りの演技。猛烈な殺気と共に大きく右腕を振り上げる。どうしてもそちらに意識が行ってしまう迫力。それを隠れ蓑にして左腕で素早くナイフを取り出し切り付けようとする。意識と視線に対するミスディレクション。
《夏美!左手のナイフが本命!右手に意識向けないで!》
《ありがと!バドー!振り上げた右手に石を握りこんでいる!そっちの死角だから気を付けて!》
それを二人の完璧なる意思疎通が打ち砕く。完璧に意思疎通が出来るという事は、視点が倍になるという事だ。夏美に対しての偽りはバドーに見破られ、バドーに対しての偽りは夏美に見破られる。
人は他人と心底から分かりあえることなどあるのだろうか。目の前の愛する人と分かりあえたと思っても、それは思い込みかもしれない。幻想かもしれない。どんなに親しいと思っている人でも、想いの共有を証明するすべなどない。
しかし、二人には真の理解が可能だった。夏美とバドーの意識は混合し、苦楽を共にし、新たに構成される。それはもはや一個の生物。
西条なつみからすれば、目が四つ、腕が四本、足が四本の化け物を相手にしているようなものだ。
《わかるよ!バドーは右から上段蹴りを仕掛けるのが楽しいんだね!私が左からの下段蹴りで、同時に合わせてくれると嬉しいんだね!》
完璧なタイミングで繰り出される挟撃。バドーの上段蹴りを防ぐのに意識をとらわれた結果、夏美の下段蹴りが深々と突き刺さる。
「うあ…!」
西条なつみの凛々しい切れ長の瞳が痛みに歪み、片膝をつく。そこに全く同時に二人の横蹴りがみぞおちに繰り出される。
「あ…!ひぐ…!」
大きく吹き飛ばされ、鉄骨の山に叩きつけられる。何という皮肉!倍化能力を自在に操る、西条なつみが、『バイ・クイーン』の使い手が、倍の物量に押しつぶされようとしている!
《バドー、きっちりこのまま押し切るよ!》
《わかるよ!夏美!最後まで油断しないで!》
微塵も気を抜かず、左右から同時に仕掛ける二人。その二人の間にふわりと、小箱が投げ込まれる。
『バイ・クイーン』は収納能力を倍にすることもできる。小箱の中にそれより少し大きい箱を、その少し大きい箱にさらに大きい箱を、物理法則を無視した逆マトリョーシカのように仕込むことで、小箱の中に巨大な物体を仕込むことだってできる。
「『バイ・クイーン』解除。」
バチバチバチ!と何箱分もの能力が解除され、小箱の中のモノが明らかになる。夏美とバドーは油断せずにそのモノを捉え、しっかりと観察をした。これが西条なつみの切り札と判断し、目をそらさなかった。
現れたものは、赤黒い塊。5歳児ほどの大きさの物体。いや。それは物体ではなかった。
それは、生きていた。
両手足を落とされ、全身の肉を焼かれ、削られ、抉られ、性別、年齢すら定かでない程にいたぶり尽くされ、喰われ尽くされた哀れな被害者。西条なつみに目をつけられ、狩られた不運な罪人。
西条なつみのオヤツであった。
◇ ◇ ◇
稚切バドーと、オヤツの目が合う。片方しかない目は、それまで何をされてきたのだろうか、虚無を煮詰めたかのような、絶望を固めきったかのような、深い漆黒に満ちていた。
「アギィ!」
電流を喰らったかのように、バドーの体がビクンと跳ね上がる。バドーはオヤツの認識を取り込み、混合してしまった。
焼かれ、切られ、割かれ、裂かれ、潰され、捩じられ、千切られ、擦られ、折られ。尊厳は消え去り、ただただ死を望み。それでも生かされ、オヤツとしてつまみ喰われてきた絶望を!漆黒の苦痛を!取り込んでしまった!
オヤツの体験が瞬時にバドーを駆け巡る。溶けた鉛を胃袋に注ぎ込まれるような、全身の皮膚が全て自分でない何者かに切り替わっていくような、想像を絶する不快感がバドーの肉体と精神を叩きのめした。
一瞬で涙と鼻水、涎が大量に溢れかえり、特徴的なベンチコートを汚した。
「あ…お…ぶぇ…」
パクパクと、水槽から投げ出された金魚のように、全身を痙攣させる。地に崩れ落ちずに立っていることだけでも奇跡的なほどのダメージをバドーは心身に負ったのだった。
小津夏美と、オヤツの苦楽が共にされる。しかし、オヤツから送られてくるのは“苦”のみ。焼かれた皮膚が苦しい、塩をすりこまれた傷口が苦しい、無いはずの両手足が疼くのが苦しい、やすりで削られ切った鼻が苦しい。
「…ァ…!…!ィ…!…」
圧倒的な“苦”が小津夏美を侵食してきた後、時間差で僅かな“楽”が届いた。ざまあみろと、お前もすぐにこうなるんだという、あまりにも惨めな喜びの感情と、西条なつみに殺されることだけを救いとするちっぽけな希望が。
毛穴という毛穴が開き、そこから蟲が這いずり出るかのような、命の価値が損なわれていくかのような虚脱感。気が付いたら吐いていた。気が付いたら泣いていた。気が付いたら―――無様に地に這いつくばっていた。
「…!…!ヒィ…!」
自分の体が自分で上手く動かせない。自分の意志に反して顔面が卑屈に歪む。「西条なつみ様、お願いですから殺してください」と、媚びを売るオヤツの矮小な喜びが小津夏美を強制的に笑わせる。ぐちゃぐちゃの笑い泣きと共に地面を転がるしかできなくなった。
◇ ◇ ◇
あまりにも無防備に痙攣する二人。
「フフ、【ガールズトーク】には効くかもしれないと思っていたけど、そっちの子にも効くとは。私はついてるね。」
ここまでの惨状を作り出しておきながら、実に楽しそうに西条なつみは笑う。すっと二人に近づくと、首筋に注射針をプツリと差し込んだ。薬液が注入される。
「お父様はそれなりに権力があってね、これは裏から仕入れた魔人警察が使用する暴徒鎮圧用の筋弛緩剤だ。それを倍の効力にしてある特性品。感覚はそのままだけど、体が全くいう事を聞かないだろう?」
「…ァ…ゥ」
「ヒ…ギ…」
体が全く思い通りに動かせない。舌が麻痺しだらりと垂れさがり、言葉を発することもままならない。
「そろそろコレにも飽きていたから、丁度良かった。」
ぐちゃり、全く躊躇わずに西条なつみはオヤツの頭蓋を踏み砕く。死に際の痛みと、解放される喜びが二人に伝わり、ビクリと硬直する。
「…さて、そっちのショルダーバッグの子が、【ガールズトーク】でいいのかな?」
同性でもハッとさせられるような、冷たく美しい笑顔。水に濡れた日本刀のような、鋭利でありながら引き込まれる残忍な笑顔。それは演技ではなかった。【ガールズトーク】にこれからすること、溶け合うことを想像するだけで西条なつみは欲望を抑えきれず溢れさせていた。
小津夏美は自分がこれからどれだけろくでもない目に合うかを想像し、涙をさらにあふれさせた。先ほど幸運にも息絶えたオヤツの比ではない程に自分は喰らいつくされるのだろう。
西条なつみの白い両手がゆっくりと近付き、頭を鷲摑みにし、向き直らせる。
「駄目だよ、目をそらしちゃあいけない。君の能力が噂通りか試したいんだから。」
小津夏美は必死に首を振ろうとするが欠片も抵抗できない。漆黒の殺意、悪意を共有したくなかった。それでも筋弛緩剤で緩んだ肉体、精神では能力を制御しきれず、西条なつみとの共有が始まる。
「…!!凄いなコレは!君の怯えが伝わってくる!不思議な感覚だ!君には私の昂りが伝わっているのかな!?」
言うが早いか、西条なつみは小津夏美に口づけをした。じゅるりと深く舌を絡める。そしてそのまま、舌先を齧り切った。
「…ィ!…ァ!」
「嗚呼!凄い!凄いな!私は今、罪を喰らって、喰われている!この痛み!この喜び!」
恍惚と、とろけた表情を見せる。
「フフ、少しはしたなかったね。ついつい我慢できずに先っちょをいただいてしまった。君とはもっともっと、深く深く溶け合いたい。一緒に罪重ねたい。」
西条なつみはポーチをあさり、“テイクアウト”の準備を始める。小津夏美にもう一切の希望はない。絶望し、震え、遠い日に来るであろう死を待ち望むしかできない。
そんな様を、稚切バドーは見せつけられていた。
――バドーは物心がついたころから魔人だった。中学生になったころ、能力を制御しきれず、家族全員の認識が混合した。
母は、魔人のバドーを疎んでいた。
父は、そんなバドーを産んだ母を出来損ないだと思っていた。
弟は、自分もいつかバドーのような魔人になるのではないかと怯えていた。
全員がなんとか薄皮一枚でこらえて、表層に出していなかった認識を、『象撫』は暴き、共有させた。次の日には母は実家に帰り、父は弟を連れてバドーから逃げていった。
それ以来、バドーは能力を使ってただただ生きてきた。皮肉なことに、自身の命をつなぎとめる手段は自らを苛む『象撫』だけであった。
何のために生きているのか。そんなこと知らない。習ったこともない。社会に居場所がなく、認められることもなく、他人の認識の隙間を利用してその日暮らし。
そんな日々が力尽きるまで続く。そうバドーは思っていた。家族ですら崩壊させたような薄汚れた自分に、心を許してくれる相手が、心を許せる相手が現れるわけがないのだから。そうバドーは思っていた。
だから。だから、だから、だから!
稚切バドーは全身の力を振り絞る。初めてだったのだ。自身を理解してくれる相手と出会えたのは!能力も、何もかも晒しても側にいてくれる相手と巡り合えたのは!
稚切バドーにとって、小津夏美は紛れもなく生まれて初めての友達だった。
その友達が泣いている。彼女がどうしようもない殺人鬼だなんて分かっている。それでも、理屈じゃない。このままでは彼女は死ぬよりなお酷い、残虐極まる地獄に叩きこまれる。それだけはさせない。
「待…て…やめろ…イカレ…女…」
麻痺しきったはずの舌で、必死に言葉を絞り出す。体は相変わらず動かないが、標的を自分に変えさせるだけの効果はあった。
「ヘエ、普通なら喋るのだって無理なはずなのに凄いね。ううん、君は後回しにしようと思っていたけど、万が一動けて邪魔をされても面倒だ。」
しゅらりと、ナイフを取り出す。
「君も魅力的だけど、メインディッシュが待っているんだ。サクッと終わらせてもらうよ。」
酷く義務的に、バドーの首筋にナイフがあてられる。瞬間、バドーは能力を、『象撫』を全開にする。かつて家族を崩壊させたときのように、その場の全員の認識を混合し再構築する。西条なつみの漆黒の認識が流れ込んでくることに意識乱され、能力は一瞬しか発動できなかったが、その一瞬で十分だった。
血飛沫が夜の渋谷に霏々と舞い散る。鮮やかな赤が空を染める。
殺人ガガンボに対して用いた方法。存在を誤認させる魔技。
西条なつみは、稚切バドーだと認識して小津夏美の首を掻き切った。
◇ ◇ ◇
何が起きたか分からず、二人のナツミは目を白黒させる。存在を誤認させるといっても、自分を他人と思い込ませるほどに強烈に認識を乱すには相当の集中が必要だ。
筋弛緩剤を打たれ、さらに精神にダメージを負った状態では、西条なつみ自身を稚切バドーだと誤認させることは無理だった。そこでバドーが選んだ方法は、小津夏美を、生まれて初めての友達を、楽に死なせてやることだった。
「あ…」
声にならない声が小津夏美の口から零れる。コヒューコヒューと空気音が吹き出る。首筋から夥しい血がドクドクと流れ落ち、アスファルトを染め上げる。朱に染まる地面とは裏腹に小津夏美の顔色はどんどんと白くなっていく。生命力が急速に失われているのは明らかだった。
(ごめん。夏美。許してくれるなんて思えないけど。私には、これしかできない。…すぐに後を追うから…。)
能力を振り絞ったバドーに、西条なつみに抗う術はない。すぐに殺されてしまうだろう。多分自分は地獄行きだ。きっと、夏美も。そこでしこたま怒られるのもありかな、などと考えるバドーに、『クラック・クラック』による苦楽の共有がなされた。
飛び込んでくる夏美の苦しみ。掻き切られた痛みの共有。バドーの喉元に焼けるような熱さが走る。
(ああ、そりゃそうだよね。理由はどうあれさ、殺したら恨まれるよね。ごめん…ごめんよ…)
友達に恨まれながら、まもなく殺される絶望感にバドーは沈んでいく。その沈鬱な心に、今度は夏美の喜びが沁み込んできた。
その喜びとは、感謝。最期に一緒に戦ってくれたことへの、魔人として生まれ変わった自分と仲良くしてくれたことへの、楽に死なせてくれたことへの、この上ない感謝。
「バド…ちゃ…私た…ち…友…だち…」
その言葉は、『クラック・クラック』ではなく、紛れもなく小津夏美自身の口から懸命に絞り出された言葉。最後まで言い切れなくても、能力なんて関係なくても、真に伝わった言葉。
その言葉を聞いた瞬間、バドーは『象撫』をもう一度、全力で発動させた。
人の死は極力取り込まないように生きてきたバドーが、全力で夏美の死を取り込んでいく。『象撫』は対象の知覚、意識が鮮明に行われるほどに効力は増す。この時、夏美にはバドーしか世界にいなかった。バドーには夏美しか世界にいなかった。
完璧に夏美の死を取り込んだ結果、バドーの喉元がパクリと開き、鮮やかな血が噴き上がった。バドーの顔色も急速に青ざめていく。二人の痛みは共有され、二人の喜びは共有された。
両者から溢れ出る真紅の血が、渋谷のアスファルトの上で合流し一つになった時、小津夏美と稚切バドーは同時に絶命した。
若い身空で、夢や目標を何も叶えられず、惨めに、何一つことを成せずに死んだ。しかし二人は、誰もが驚くほどの笑顔をたたえていたという。
クラップ・クラップ
静寂の渋谷に拍手が響き渡る。拍手の主は西条なつみ。自身にとって最高の獲物を無駄にしたが、悔しがるそぶりはない。ただ静かに、目の前で息絶えた二人に拍手を送る。
かくも見事に相手と自分を殺して見せた二人へ、殺人鬼として最大の敬意を示し、西条なつみは再び夜の渋谷へと消えていった。
◇ ◇ ◇
(…これは…もう駄目だなぁ…)
だらだらと流れる鮮やかな血。浦見栞は、自身の命が間もなく終わることを受け止めた。両手足の関節は歪にねじ曲がり、開放骨折、血と共に骨が飛び出ている。あばらも粉々になっており、口から血が溢れ出る。
奥歯は砕けているし、右の眼球は破裂した。特徴的だったピアスごと耳はねじ切られていたし、内臓もいくつか潰れていた。『因果嘲』を操る右手の指もほとんど潰れてしまい力が入らない。
負けた。勝てなかった。仇討ちを果たすこともできず、志半ばに朽ち果てる。
分かっていた。こうなることは。能力に目覚めたとはいえ、戦闘のプロフェッショナルというわけではない。兄を殺された恨みを原動力にひたすら走ってきたが、プロの殺人鬼集団に勝てるわけがない。どこかで返り討ちに合って野垂れ死ぬなんて分かっていた。
それでも。栞にはこの道しかなかった。傷だらけになって、ボロボロになっても、兄の死に関わったやつらが笑って暮らしていることが許せなかった。
兄がいるから外から様々な組織が干渉してきただとか。
巨大なグループのトップが急遽抜けることで生まれた空白期間が治安を生むだとか。
そんなことは栞には関係なかった。ただ兄が好きだった。本当に、本当に好きだった。愛という意味で、恋という意味で、性という意味で。
牢獄のような家から、手を引いて連れ出してくれた兄さんの眩しい笑顔が浮かぶ。
チームの馬鹿たちと一緒に、安っぽいカレーを美味そうに頬張る兄さんの笑顔が浮かぶ。
兄さんと一緒になら学校に行くといった時の、困ったような笑顔が浮かぶ。
奇跡のような、閃光のような儚い思い出の数々。
(これが…走馬灯ってやつかな…兄さんはいつも笑っていて…。分かってるよ。こんなことをする私を、兄さんが喜んでくれないなんてことは。)
それでも。
たとえそうだとしても。
「オーケィ!今回はかーなりグッドだったわよォ!」
「ありがとうございます!王道にこだわってみました!」
黒房が“彼”に携帯で連絡をしている。渡米前の最後の殺しのチェックを受けているのだ。
「丸太ちゃん選んだのは良かったわァ。やっぱり便器じゃねえ、殺人鬼は殺人鬼でもB級映画よ、最終絶叫計画ヨ。」
「はい!この間の反省を生かしてパワー丸出しにしてみました!本当は知性なきバーバリアン路線を試そうと思ったんですが…」
「そう!あーた、アドリブで憎らしい仇役に移行したのはベリグ!だったわヨ!実際どうなの?仇の覚えはあったノ?」
「いやー、正直原宿?ストロー?よく覚えてないです!でも、どうせ仇討ちに来てくれたなら生かさなきゃなって!」
「いいわいいわぁ!それでこそ『劇団』の期待枠ヨン!」
「ありがとうございます!!良い練習になりました!」
許せなかった。浦見栞には、自分たちの平穏をあっさりと壊し、気にも留めずにヘラヘラと笑える奴らが許せなかった。いつか惨めに無残に死ぬことが分かっていても、許せないと示さずにはいられなかった。
ジャギン。
ぐちゃぐちゃに潰れた右手を必死に動かし、痛みとの縁を断ち切る。
ジャギン。
不安だとか恐怖だとか疲れだとか、自身の行動を阻むものとの縁を断ち切る。
ジャギン。
私に能力を授けた男だとか。私を利用して動いている計画だとか、絡みついた諸々の宿業を断ち切る。
ジャギン。
あとほんの少し。ほんの少し動くために、余計なものを全て断ち切り削ぎ落していく。
もう動かないと思っていた四肢に力を込める。関節が悲鳴を上げる。ミチミチと嫌な音が腱から聞こえるが知ったことではない。内臓がいくつか駄目になっていくが、知ったことではない。ドボドボと体中から血が溢れ、意識が遠のいていくが、知ったことではない。
何もかもが!知ったことではない!
「うああああああああ!」
最後の気力を振り絞り、栞は立ち上がった。残り僅かな命の蝋燭を爛々と燃やし、鋏を黒房に投げつけた。
「うお、危ない。」
不意打ちであったが、黒房はあっさりと躱した。流石に通話しながらというわけにはいかず、一瞬、“彼”との電話を中断して躱した。
努力が報われるとは限らない。奇跡が起こるなんて浦見栞は信じていない。神様がいるなんて、浦見栞は信じていない。
しかし。
奇跡を求めぬ一筋の努力こそが、ほんのひとかけらの奇跡をもたらした。
鋏は、黒房と、携帯電話の間を、ゆっくりと通過した。
ジャギン。
夜の渋谷に、一際鈍い音が響く。縁を断ち切る残酷な音が響く。
「……あ?」
何か取り返しのつかないことが起こったことを肌で感じ、黒房は呆けた声を漏らす。浦見栞は見事に断ち切って見せた。“彼”と黒房の縁を!
「え…?ちょっと待ってちょっと待って!!?え!?嘘だろ!?」
“彼”との通話を試みる。自分の夢である刃離鬱怒への渡し人との通話を。しかし、不思議と何も聞こえない。『因果嘲』で縁が断ち切られたことにより、互いに干渉することは一切不可能となった。黒房がいくら叫んでも“彼”のもとに声が届くことはない。“彼”からの声も聞こえない。
「嘘だ!嘘だ!!こ、こんなところで!?そんな!だって!だって俺!」
何かの電波障害かもしれない。そう思い込もうとしたが駄目だった。“彼”との縁が、刃離鬱怒との縁が完全に切れてしまったことは黒房自身が一番よく理解できた。もはや“彼”の声も思い出せない。
「お、終わる!?俺の夢が!?こんな!こんな下らないことで!?」
恐慌状態に陥った黒房は、栞を睨みつける。もしかしたら、黒房は今夜初めて栞を敵と認識したのかも知れない。感情のままに怒鳴り散らす。
「お前!お前!何をしたか分かっているのか!?刃離鬱怒だぞ!日本人として呼ばれるのは俺が初めてだったんだ!殺人鬼界のビッグニュースなんだぞ!大快挙だったんだぞ!いや、俺個人の名誉の問題だけじゃない!日米の殺人鬼業界のパイプが構築出来るはずだったんだ!お前がしたことは…」
「ハハ。」
唾を飛ばしがなり立てる黒房の言葉を、栞の乾いた笑いが両断する。
「ごめんね。私、そんな難しい話はわからないの。」
笑顔。全開の笑顔。この一瞬だけ、裏原宿ストローヘッズで、愛すべき馬鹿どもと、最愛の兄と、閃光のような日々を過ごした時と同じ笑顔が出来た。
「中学だって行ってないんだもん。」
「アアアアアアアアア!!!畜生!ちくしょううううう!!」
怒りに身を任せ、黒房は栞を叩き潰そうとする。強者として生まれた黒房の生まれて初めての恐慌、焦燥、混乱。
もしも、今日、浦見栞と出会ってさえいなければ。黒房清十郎はエリート殺人鬼として無事渡米出来ていたかもしれない。このように隙だらけで、無様に怒り散らす姿は見せなかったかもしれない。
しかし。出会ってしまった。今日、ここで、出会ってしまったのだ。
その結果。
「ハハ。いたいけな少女を痛めつけてとどめを刺す?いけないなあ、君は実に悪い人だ。」
致命的な隙を晒し。背後から迫りくる西条なつみに全く気が付けなかった。プツリと、薬液が黒房に注入される。対魔人用の筋弛緩剤の効力を倍にした特性品。いかな黒房と言えど、抗うすべはなく、全身の力が抜け地に崩れ落ちる。
「最近噂の殴殺魔…であっているかな?ちょっと色々付き合ってもらうよ?」
「あ…あ…嘘だ…俺は…殺したりない!まだ!まだ!殺したいのに…」
「…!凄いな君は!普通だったら到底喋れない量を打ち込んだつもりだったんだけどね。じゃあもう一本。」
追加の筋弛緩剤に、黒房の意識は奈落に消える。無人となった雑貨屋から拝借したキャリーバッグの容量を倍にして、黒房を収納する。
「…素敵だ。とても素敵な夜だった。 今日、ここで、出会えて良かった。歌いたいくらいに、キラキラした夜だ。」
西条なつみは、鼻歌交じりに、今にも息絶えそうな浦見栞に近づく。
「人の食べかけに興味はないから…もし望むなら楽にしてあげるよ。どうする?」
今にも意識を手放しそうな状態に喝を入れて、ボロボロの右手に意識を集中させる。弱弱しく。しかし確かに。浦見栞は西条なつみに中指を突き立てた。最期の最期まで、誰かの手を借りる気はなかった。
矜持と共に突き立てられた中指を少しの間眺めた後、にっこりと笑みを浮かべ、西条なつみは渋谷を去っていった。
余談ではあるが、このあと黒房清十郎は西条なつみの邸宅で苛烈極まる拷問を受け、ひたすらに食い散らかされた。焼かれ、削がれ、抉られたが、それでも泣き言は一つも言わなかった。
日付が変わるころ、小休止を取った西条なつみの隙を突き、到底動けない量の筋弛緩剤を打たれているにも関わらず死力を振り絞り、舌を噛み切って自決をした。
『劇団』の一員としては惨め極まる死に方であったが、一抹の矜持を示して見せた。【新人類】 が最期に殺して見せたのは、自分自身だったのだ。
◇ ◇ ◇
煌々と、青白い月が渋谷を照らす。
―――浦見栞の命の灯が間もなく消える。手足には欠片も力が入らない。ここでもう終わりだと、死を受け入れた栞の耳に、涼やかな声が届く。歌う。西条なつみが歌う。その歌が誰のために歌われたものかは分からない。しかしそのハードロックは、無人となった渋谷にどこまでも深く響き渡る。
(嗚呼…兄さんが好きで…よく聞いてたっけ…。兄さん…私…頑張れたよ…ね…?……)
命が消える直前、浦見栞の脳裏に浮かんだ兄は、いつものように笑いかけてくれた。
さよなら傷だらけの日々よ
目指すは次の世界
明日はもうここにはいない
ありがとう悔いだらけの日々よ
今ならば言える
人はたやすく変われぬけど
いつの日か本当に戻るべき場所を知る
B’z 『さよなら傷だらけの日々よ』
場違いなその歌は、紛れもなく、渋谷の夜に響くレクイエムであった。
西条なつみ:生存
黒房清十郎:死亡
浦見栞:死亡
小津夏美:死亡
稚切バドー:死亡
終