某月、某日。夜。鈴木さんのおうち。

 この日は鈴木タクミの五歳の誕生日。
 鈴木家の綺麗に整頓されたリビングで、テーブルの上に置かれたケーキを囲む三人の家族の姿があった。

 両親は息子の誕生日を祝い『ハッピバースデーのうた』を手拍子をしながら歌っている。
 頭に三角の帽子を乗せられたタクミは、その状況を楽しみながらも、目の前に置かれている大きなイチゴの乗ったケーキを早く食べたくてソワソワしていた。

「たっくん、誕生日おめでとうー!」

 歌が終わり、年に一度の催しをタクミの母・ヨウコは拍手で息子を祝福した。
 ケーキの上では五本のロウソクに火が灯り、ゆらゆらと揺らめいている。

「さ、たっくん。何をお願いするのかな?」
「ぼくね、こうかくせんたいクラスタシアンのおもちゃがほしい!」
「おっとタクミ。願い事は口に出したらダメなんだぞ。」
「あ、わすれてた!」

 父・ヒロシの言葉を聞き、タクミは慌てて両手で口を押さえた。
 もちろん両親らは事前にタクミの欲しい物を聞き出していて、押入れにはクラスタシアン変身セットを隠してある。
 ヨウコからすれば子供用の玩具にしては割高だとも思ったが、そこは愛する息子の誕生日プレゼント。なんら惜しむつもりもなかった。

「さ、それじゃ火を吹き消して。ぷーって!」
「うん!」

 待ちに待ったタイミングである。タクミは返事をするやいなや大きく息を吸い込むと、ロウソクの火に向かって思いっきり──





──ピンポーン。





「あら……こんな時間に誰かしら……?」
「タイミング悪いな……タク、吹くのはちょっと待っててくれ。すぐに追い返すから。」

 息が漏れないように両手で口を押さえたタクミは、ぷひぷひと小さな鼻で呼吸しながら頷いた。

「……ん?」

 鈴木家のインターホンにはカメラとマイクがついており、室内に設置されているモニターを使って外の様子を確認することができた。
 だがヒロシがモニターを確認しても、誰の姿も無かった。

「どちら様でしょうか? 誰か居ますか?」

 マイクで呼びかけてみても返事はない。

「イタズラかな……一応様子を見てくる。」
「あなた、最近は物騒みたいだから気をつけてね……」
「はは、どうせ近所の子供だろう。心配することは無いよ。」

 そう言ってヒロシが玄関へと向かう。

 ちょっと誰も居ないことを確認して、すぐにタクミの誕生日パーティーを再開しよう。

 そう考えながら、ヒロシがドアノブに手をかけようとして、

 ふと、

 ドアの鍵が開いていることに気がついた。


「鉢植えの下に合鍵……随分と古典的だ。防犯意識が薄いんじゃないかい?」


 パキリ、という音がヒロシには聞こえた。

 まるで当人の意思など介する間もなく、ヒロシの首が百八十度回転していた。

「あえ……?」

 即死だった。
 音を立ててヒロシの体が倒れる。
 死の間際に、愛する家族の姿を思い描くこともできなかった。

「キャ、アアアアアアアアアアアアア!!!」

 様子を見に来たヨウコがヒロシの姿を見て叫ぶ。

「た、た、たっくん……! にげ──がひゅ!」

 パキリ。
 ヨウコはリビングに駆け込んだ途端、ヒロシと同じように崩れ落ちた。

 その体をまたいで女がタクミの前に現れる。
 赤茶色の髪をした、長身の女だった。

「やぁ、少年。静かにできていて偉いね。」

 両手で口を押さえたまま硬直するタクミを見て、女は微笑んだ。

 タクミには目の前で何が起きたのか理解すらできていなかった。
 ただ、大好きな母がピクリとも動かなくなったのを見て、自然と目から涙が溢れた。
 それなのに何も無かったように振る舞う見知らぬ女が、とても怖かった。

「おや、誕生日だったんだね。」

 女はテーブルの上のケーキを見てそう言った。

「何歳になったの? ロウソクが五本だから五歳かな?」
「…………」

 タクミは動けない。ぷひぷひと鼻を鳴らすだけだ。
 だが女はその反応を意に介する様子もなく話を続けていく。

「私がこの家を選んだのは、ただの気まぐれなんだ。別に深い理由があったわけじゃない。でも、そこで誕生日が祝われているだなんて、凄い偶然だとは思わないかい?」

 そこで女は一度言葉を止め、手を顎の下に当てて考える素振りを見せる。
 数秒の沈黙の後、女は「そうだ、良いことを思いついた。」と言った。

「せっかくの誕生日だ。お姉さんが君にプレゼントをあげよう。」

 ぷひぷひ。
 タクミは女を見たまま動かない。

「今から私と君でジャンケンをしよう。もしも君が勝ったら、このまま私は立ち去る。君は"一八八八代目"ジャック・ザ・リッパーからの唯一の生還者になる。どうかな?」

 ぷひぷひ。
 タクミは女を見たまま動かない。

「君が勝ったら、ママとパパと一緒に、ケーキを食べられるよ。」

 ぷひ。
 タクミの視線が揺れる。

「……まま、げんきになる?」
「うん。きっとね。」

「……やる。じゃんけん。」

 タクミは口を押さえていた手を離した。
 いつの間にか鼻水も垂れていたので、手と一緒に鼻水もびよーんと伸びた。

「うん。それじゃ勇気を出してくれた少年にさらにプレゼントだ。」

 女は拳を目の前に出す。

「私はグーを出す。嘘じゃないよ。だから君はパーを出せば勝てる。わかったかな?」
「わかった!」

 タクミが元気よく返事をする。
 聡明で、優しい子供だった。
 大好きな両親を助けられることがわかり、勇気を振り絞って行動することに決めたのだった。

「それじゃいくよ。じゃーんけーん。」
「じゃーんけーん!」

 ポン。

 掛け声と共に、女は約束通りグーを出した。

 ***

 朝。鈴木さんのおうち。

 “一八八八代目”ジャック・ザ・リッパーこと波佐見・ペーパーストンは、冷蔵庫に入っていた材料を使って朝食の用意を進めていた。
 今日の献立は炊きたてのホカホカご飯と、半熟目玉焼きのハムエッグ。付け合わせは小ぶりなサイズの冷奴と納豆に、わかめの味噌汁だ。
 ほぼ和食で統一されているのに、そこにハムエッグが入ることで一気に一般家庭の雰囲気が現れる。波佐見はこういった何気ない空気が大好きだった。

 だがこの日、波佐見の心は沈んでいた。
 白く艶めくお米も、トロトロに甘い半熟の目玉焼も彼女の心を癒やすことはない。

 原因はハッキリしている。
 一昨日、波佐見の住んでいたマンションを襲撃した、剣竹刀と名乗る男のせいだ。

『こうして俺を倒して、また逃げるのか! また闇へと帰るのか! それでジャック・ザ・リッパー? その名を? ははっ、笑わせる!』

 死の間際に竹刀が放った言葉が頭から離れない。
 呪いのように繰り返し繰り返し叫び続ける。

『逃げるのか、“一八八八代目”。……殺人鬼の頂点が、決まろうとしているぞ。その催しから背を向けるのか、ジャック・ザ・リッパー』

 かつてロンドンを震撼させた伝説の殺人鬼、ジャック・ザ・リッパー。

 波佐見は、自分が頂点を求めて戦う武人ではなく殺人鬼であると正しく理解していた。
 例えジャック・ザ・リッパーの名を冠していたとしても、自ら進んで強者と戦う気構えなど持っていない。

 だが、都内に無数の殺人鬼が集まる今の状況で"一八八八代目"ジャック・ザ・リッパーが今までどおり隠れ暮らしていたらどうなるだろうか。

『“一八八七代目”も、その前も、大したことのない人物だったのだろう。』

 竹刀の言葉どおりになってしまう。
 波佐見にとって、それだけはなんとしても避けなければならなかった。
 連綿と続いてきた伝説の殺人鬼としての名を、波佐見の代で貶めるわけにはいかないのだ。
 それが"一八八七代目"でもあり、敬愛する父を葬ってまでジャック・ザ・リッパーを受け継いだ波佐見の思いだった。

 あと、単純に竹刀のドヤ顔にムカついていた。


 波佐見はイスに座ると、砂糖たっぷりのコーヒーを一口飲んだ。
 甘党だったらしい鈴木ヒロシのおかげで、糖分が体に染み渡っていく。

「……やってやろうじゃないか。」

 テーブルの上に置かれていた新聞を手に取る。
 所有者の望む情報を与えてくれるアーティファクト『献身的な新聞社(アズユーライクイット)』だ。

 『献身的な新聞社(アズユーライクイット)』で情報を得るためには、その情報の所有者が、誰かに発信する意思を持つ必要がある。
 例えば鉢植えの下に隠した合鍵の存在も、隠した本人が『家族に教えよう』とするのであれば情報収集の対象となる。
 それに “一八八八代目”を倒そうとする者の殆どは誰かにそのことを知らしめたいと考えているため、波佐見はこの新聞を用いて新しい隠れ家を探したり、自らを狙う者から身を隠すために利用していた。

 だが、今回は違った。

「強欲の宿り木、黒い甲殻戦士、ラブ・ファントム……これは、想像以上の数だな……」

 紙面には“一八八八代目”ではない殺人鬼達の異名と、それに付随する凄惨な事件の数々が記載されていた。
 現在、東京都内で同時多発的に発生している事件の情報だ。
 普通の新聞やニュースで報道されるのは、事件の概要と、せいぜい『不用意に外を出歩かないようにしましょう。』といった注意喚起のみだ。当然、報道規制されている情報もあるだろう。
 そして、得てしてそういった情報を持つものは道徳心にしろ好奇心にしろ、誰かにそのことを知らしめたいと思うものであった。
 何らかの理由により──例えば警視庁などの公的組織に所属する魔人能力者によって──存在が完璧に秘匿されているわけでもなければ、『献身的な新聞社(アズユーライクイット)』で拾い集めることが可能だ。

 波佐見はそういった情報を狙った。
 自らの標的を探すために。
 そして、一人の殺人鬼を見つけた。

「殺人嬢……ジェーン・ザ・リッパー……」

 正体不明の殺人鬼。死体はすべて刃物によって激しく損壊しているが、必ず左手の小指が切り取られて無くなっているという。
 一部の目撃情報から女性だと推測されているその殺人鬼は、切り裂きジャックの名前にあやかってジェーン・ザ・リッパーと呼ばれている。

「ふむ……」

 ジャック・ザ・リッパー、またはそれに準ずる名で呼ばれる殺人鬼を殺す。
 それが波佐見の考えだった。

 当然、殺人嬢以外にもジャック・ザ・リッパーと呼ばれる、または自称する者は数多く居た。一説によると全都民の十人に一人くらいの割合でジャックザリッパーが存在するとも言われている。
 だが、それらほぼ全てはただの犯罪者であって、殺人鬼ではない。そんなものは放っておいても何も爪痕を残すこともできずに自然淘汰されて消えていくだろう、というのが波佐見の考えだった。

 しかし殺人嬢は違う。

 人間を真っ二つに切り裂いて殺すような残忍性。
 死体の小指を切り取って持ち去る異常癖。
 これだけの事件を起こしてもなお足取りを掴ませない隠密性。

 そういった性質は全て関係ない。

 殺人を異常だと感じていない異常性。

 それこそが、殺人鬼を殺人鬼たらしめているのである。

(こいつは、間違いなく同類だな……)

 波佐見はさらに詳しく記事を読み進めていく。

 殺人嬢の出没地域に規則性は無いと記されていた。
 今まで犯行が行われたのは合計で三十三回。その全てが別々の場所で起きたのだという。

 波佐見はイスから立ち上がり、鈴木ヒロシの部屋に置いてあったパソコンとプリンターを使い、この区域一体の地図を印刷した。
 そこに、殺人嬢が過去に出没した場所をペンで一つずつ記していく。

(犯行現場が全てバラバラなのであれば、当然次に現れる場所もまた別……)

 地図に記した場所を同士を線で結んでは書き直し、新たに地図を印刷してはまた書く、といった作業を幾度か繰り返していく。
 『献身的な新聞社』では単独で行動し、情報共有する意思の無い殺人鬼を追うことはできない。
 そのため、かつて探偵組織『シャーロキアン探偵クラブ』に所属していた波佐見の母より受け継がれた知識を総動員し、波佐見は殺人嬢の行動範囲を推理していった。

 やがて、波佐見は『ショッピングモール』と書かれた場所に大きく丸をかいた。

「……いいさ、忌々しいシャーロキアン探偵クラブの挑発に乗ってやろうじゃないか。私こそが殺人鬼、"一八八八代目"ジャック・ザ・リッパーだ。」

 波佐見は朝食と、冷蔵庫の中に入れておいたケーキをデザートに平らげると、イスの背もたれにかけておいたレザージャケットを身にまとう。

「お邪魔しました。ケーキ、とても美味しかったよ。」

 波佐見は静まり返った家に向かって会釈をし、鈴木さんのおうちを後にした。



 午後十一時。
 静まり返ったショッピングモールの中を一人で歩き回る男が居た。

「あー、さみぃ。先輩も一緒に来てくれりゃー少しは気が紛れんのによぉー。」

 男の名前は警備太郎。このショッピングモールの警備員である。

 殺人鬼騒動によってショッピングモールの人入りは激減していた。
 午後三時を過ぎれば殆どの客は居なくなり、午後五時には完全閉店する。
 それでも何があるかわからないので警備をしろというのがオーナーからの指示で、悪くない給料を貰えるということもあり、警備太郎は真面目に警備をしているのだった。

 館内は最低限の電灯のみを残して全て消えている。
 警備太郎はその中を右手に持った懐中電灯で照らしながら、そして左手には二粒のクルミを握りしめてコロコロと鳴らしながら歩いていく。

「しかし早いところ人増やしてくんねーかなー。いい加減キツいっつーの。」

 このショッピングモールは特別大きいというわけではないが、それでもエリアが三つにわかれており、多数の店が立ち並びながらそれが三階まで続いている程度の規模はある。
 そのため、本来であればもっとたくさんの警備員を配置していたのだが、殺人鬼に怯えて田舎に帰る警備員が続出した結果、人数が急激に減ってしまったのであった。
 今では警備員は警備太郎ともう一人。休憩所を兼ねた警備室に控える、警備太郎より二歳年上の女性社員しか居ないという有様だった。

「あーあ、なんとかして先輩と付き合えねぇかなー。」

 そう呟き、警備太郎が左手のクルミをコロコロと弄んだ時だった。

 バン、という何かが破裂したような音が聞こえたかと思うと、警備太郎の顔が突如として閃光に包まれた。

「なんだぁ!?」

 警備太郎は困惑した。
 なぜかショッピングモール内の電気が一斉に点灯したのである。

 こんな時間に電気を点ける予定など聞いていなかった。
 周囲を見渡しても人の姿は無い。
 某ゾンビ映画を参考に作ったというショッピングモールのテーマソングまで流れはじめ、それが一層不気味さを煽った。
 さらには騒ぎ立てるような犬や猫の鳴き声まで聞こえてくる。

「……ペットショップからか? 電気にビビったのか……いや……」

 何かが変だ、と警備太郎は考えた。
 もちろん電気が点灯したこと自体も変ではあるのだが、電気系統のトラブルという可能性もある。

 だが動物達は、ショッピングモールの閉店後にペットショップの奥にある専用のケージに収容される。それこそ誰かが動物をケージから出してもしない限り、警備太郎のいる場所まで声など聞こえてこないはずだった。
 現に先ほどまで一度もそのような鳴き声など聞こえていない。

「……チッ、マジかよ。」

 そこまで考え至った時点で、警備太郎は腰に下げていた無線機に手を伸ばす。

「先輩、聞こえますか! 不審者が入り込んでいる可能性があります! すぐに応援をお願いします!」

 何度か呼びかけるが返事はない。
 嫌な汗が警備太郎の背中を伝う。

(先輩ならきっと大丈夫だ……! とにかく俺は魔人警察に連絡を──)

 瞬間、警備太郎は背後から風を切る音を聞いた。

「っ!!」

 警備太郎が音のした方向に左手を振ると、小型のナイフが拳にあたり弾き飛んだ。

 警備太郎の魔人能力『ウォルナックル』は、クルミを握り込んだ拳が絶対に破壊されなくなるというものだ。拳で殴り抜けば、ナイフどころか対戦車ミサイルであろうと彼の拳を砕くことはできない。

 そう、あくまで拳で殴ることができれば。

「隙だらけだぜー、おっさん!」

 少女の軽快な声。

 警備太郎の胸を、背後から刀が貫いていた。
 ナイフに気を取られている内に背後から忍び寄っていたのだった。

「こ、の……!」
「っとと!」

 声に向かって警備太郎が再び拳を振るうが、刀による攻撃は正確に心臓を貫いていた。致命傷だ。勢いを失った拳は悪あがきにしかならず、難なく避けられてしまう。

「やあっ!!!!」

 声と共に影が翻る。
 肉を断ち切る音と共に、警備太郎の右足が宙を舞った。

 バランスを崩し倒れゆく警備太郎の瞳に、斧を手に持った少女の姿が映った。
 男物の黒いジャンパーに、黒いスカート。それとは対称的な病的なまでに白い肌が、幼さの残る顔立ちと合わせて異質さを感じさせる。

 死神。

 警備太郎の少女に対する印象はそれだった。

「がっ……ぶっ……」

 警備太郎が口から血を吐く。

(ぐっ、声が出ねえ……だが、もう少し……もう少しだけ時間を稼げば、きっと先輩が来てくれる筈だっ! 先輩はめちゃくちゃ美人だし最強だ! せめて、コイツの得物だけでもなんとかしてカッコいいところを……!)

 斧が警備太郎の頭めがけて振り下ろされる。

 警備太郎はクルミを握りしめた拳を斧に向かって振り上げた。

 ウォルナックルの拳。
 絶対不壊のそれが斧を破壊せんと迎え撃つ。

 しかし、

 拳は、

 自らの意思に反して突然その手を大きく開いた。


 警備太郎は何が起きたのか理解する間もなく、その手の平ごと頭を叩き割られた。

「ふぅ、一丁上がりっと!」

 巷で殺人嬢と呼称されている少女、空 亜緒(ちのうえ あお)は今まさに人を殺したとは思えないほど明るい声でそう言い、ぐいーんと大きく背伸びをした。

「んー、コイツ最後に何しようとしたんだろ……まぁわかんないよな。よいしょ……」

 亜緒が警備太郎の頭から斧を引き抜こうとするが、思ったよりも深く食い込んでおり一緒に頭が浮き上がってしまった。

「あーもー! こんにゃろ!」

 足で無理やり頭を引き抜くと、ドチャリという音と共に警備太郎の頭が床に叩きつけられ、ピンク色の塊が周囲に飛び散った。顔面は大きく変形しており、もはや生前に何を想っていたか判別することはできない。

 そのまま亜緒は斧を使い、殆どちぎれかかっていた左手から小指だけを切り落としてポケットへとしまった。

 直後、まるで亜緒の仕事が一段落するのを待っていたかのようなタイミングで、パチパチと手を叩く音が聞こえてきた。

「やあ、見事な手腕だね。」

 亜緒が周囲を見渡すと、すぐ近くに置かれていたイスに赤茶色の髪の女性が座っていることに気がついた。

「そりゃどうも。アンタは? 初めて会うよな?」
「あぁ、これは失礼。私は"一八八八代目ジャック・ザ・リッパー"と呼ばれているよ。はじめまして、殺人嬢くん。」

 "一八八八代目"ジャックザリッパー、波佐見・ペーパーストンは穏やかな口調でそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。

「へぇ……私のことを知ってるんなら、ここに来たのは偶然じゃ無いんだよな。正面から堂々と姿を見せるなんて、ずいぶん真面目じゃないか。」

 二人の距離は約十メートル。
 亜緒は持っていた斧を肩にかつぐと、いつでも動けるように意識を集中させた。

「不意打ちは主義に反するんだ。君みたいに闇に乗じて……とかね。」
「ケッ、やっぱり電気点けたのはアンタか。おかげでナイフで陽動しなきゃいけなかったんだからな!」
「はは、すまない。こちらも別の警備員と対峙していてね。やむにやまれぬ状況だったのさ。でもその分先程の君の戦いはよく見えたよ。そのおかげで──」

 波佐見の体が揺れる。
 間髪入れずに亜緒が波佐見に向かってナイフを投げつけた。その数は五本。寸分の狂いもなく波佐見に向かって飛んでいく。

 だが、ナイフは全て波佐見に届くことなく、反対側から同じ軌道で飛んできた別のナイフによって全て撃ち落とされた。

「はぁ!? うそだろっ!?」

 亜緒は自らの投げナイフの技術に自信を持っていた。
 それがまるで曲芸のような方法であっさりと対応された。その衝撃が一瞬とは言え亜緒の反応を遅らせた。

 気がついたときには波佐見がすぐ目の前に居た。
 腰を落とし、身長の低い亜緒よりも更に低い位置に潜り込む。

「──おかげで、私が負けることは無いというのがハッキリとわかったよ。殺人嬢くん。」
「ちょ、ま……」

 言い終わる間も無く腹部への強打。無から一瞬で最高速度に達する移動術に加えて、魔人の膂力によるバリツの一撃だ。
 亜緒の体はそのままくの字に折れ曲がり吹き飛ばされる。飛んだ先にはモコモコした服が人気のファッションブランド『ソルベ・ピケ』の店舗があり、展示用のマネキンやらなんやらは全てなぎ倒された。

(完璧なタイミングでのバリツ。並の魔人なら今の一撃で死んだはずだが……)

 波佐見は警戒を解かずに店の前まで近づいていく。

(……あれは、骨を砕いた感触じゃなかった……攻撃が当たる瞬間に自ら後ろに飛んで勢いを殺したのか……?)

 次の瞬間、店の奥から斧が回転しながら波佐見の頭部めがけて飛んできた。
 間髪入れずに亜緒も飛び出してくる。

「っらぁぁぁぁぁあ!! 今度はこっちの番だぁっ!!」

 波佐見は飛んできた斧を横に躱す。
 すかさず亜緒が手に持った長剣で切りかかった。

「おらっ! てめぇ! 避けんじゃ! ねぇっっ!!!」
「ぐっ……!」

 体から無尽無数の刃物を生み出す魔人能力『無刃増』は、亜緒のイメージ次第でどのような武器でも瞬時に、いくらでも生み出すことができる。
 二撃、三撃と、亜緒は攻撃を躱される度に手に持った武器を投げ捨て、その都度別の種類、別の長さの武器に持ち替えていた。
 それによって生まれるのは無限に続く新たな一撃。
 波佐見は一回の攻撃ごとに、瞬時に新たな攻撃を見切る必要がある。
 それは到底対応できるものではない。

 亜緒はそう思っていた。

「なんでっ! 当たんないんだっ! よぉ!!」

 亜緒の攻撃は全て躱されていた。
 斧も、剣も、槍も、波佐見の体に当たることはない。

 適当に夜の街を闊歩して無差別に獲物を狙う亜緒と違い、波佐見の敵対者はいつだって彼女の命を狙いに来ていた。
 数々の魔人との戦いによる、絶対的な経験の差。それは波佐見と亜緒の実力を大きく引き離していたのだった。

 だが、一方で波佐見にとっても今の状況は想定外だった。

(攻撃が止まらないな……隙が生まれない……)

 亜緒の攻撃は我流である。
 攻撃は全て振り下ろすか、薙ぎ払うか、だ。どこかで見たような動きをするだけ。しかも重心も安定していない。
 それでも亜緒の攻撃は止まることがない。
 一見無理な姿勢からでも予想外の動きで即座に攻撃を繰り出してくる。

 空亜緒がもって生まれた天性のセンス。強靭な体幹とバネ。それらをもってして、彼女は殺人嬢として今まで得物を殺してきたのだった。

 しかし、それでも波佐見にとって、亜緒の戦闘力は予想の範囲内に収まっていた。


 やがて、二名の殺人鬼はショッピングモール中間エリアに移動していた。
 円形に大きく開けたエリア。ここからショッピングモール内の色々な場所に移動できる、セントラルホールである。

「くっそムカついたぁぁぁ!!!」

 亜緒はそう叫ぶと大上段に構える。
 生成するのは超巨大な破壊の剣──巨人の小刀──だ。

 その重量故に、亜緒は巨人の小刀を自由に振るうことができない。
 重力に従い真っ直ぐに振り下される巨人の小刀の動きは、当然のように波佐見には躱される。そのまま剣は叩きつけられ、床は大きくひび割れる。

「おぉらぁぁぁぁぁ!!」

 合間に別の攻撃を挟みつつ、何度も巨人の小刀を振り下ろす。そのたびに轟音と共に床がひび割れ、砕けていく。


 そして、ついにその時が訪れた。

「む……!」

 波佐見の足が、隆起した床の隙間に捕らわれて隙が生じたのである。

 動きを止めたのはほんの一秒ほど。

 それで充分だった。

「っしゃああああ!!! 殺す!!」

 亜緒は柱にナイフを突き立て、そこを足場に大きく跳び上がる。

 亜緒に油断はなかった。

 警備太郎を殺す直前の不可解な動き。当然亜緒はそれが波佐見の魔人能力による可能性を考えていた。
 あえて能力の一部を見せることで亜緒を警戒させ、動きを制限することが目的なのだと。

 だから、亜緒はあえて単調な攻撃に従事した。
 そうして再び波佐見が能力を使用するかどうかを見極めていたのだった。

 何十にも及ぶ試行の末に、亜緒は波佐見の能力に何らかの使用制限があるのだと結論づけた。

 しかし、それ以上の情報を引き出すことはできなかった。
 戦闘力の差が歴然としていることは、亜緒も理解している。
 そのまま単調な攻撃を重ね続ければ、近い内に敗北することはわかっていた。

 それならば、自らが最も信頼する技で。
 どんな強固な肉体であろうとも切り伏せる剣で。
 確実に相手の息の根を止めにかかったのである。


 亜緒は大上段に構えた巨人の小刀を、重力に乗せてまっすぐに波佐見の頭へと振り──

「──ぽんっ。」

 場にそぐわない間抜けな言葉。
 波佐見がチョキの手を突き出していた。

「あ……?」

 ただそれだけで、亜緒は自らの意思とは関係なく巨人の小刀を握りしめていた手を離していた。
 中途半端な位置で手から離された巨人の小刀は、そのままあらぬ方向へ吹き飛び、二階にあるペットショップへと突っ込んだ。
 破壊された店の中から大量の犬や猫が鳴きながら走って逃げ出ていく。

「必殺の一撃って、外した時に大きな隙ができるんだよね。」
「しまっ──」

 亜緒が次の武器を生成する間もなく、同じ高さまで跳び上がってきた波佐見によって床に勢い良く蹴り落とされた。

「がっはっ……!」

 仰向けに倒れ咳き込む亜緒の首元に剣が突きつけられる。
 亜緒が度重なる攻撃によって床の上に投げ捨てていた武器の一つだ。

「チェックメイト。私が負けることは無いって言っただろう?」

 穏やかな口調とは裏腹に、亜緒を見下ろす波佐見の目には油断がない。
 手負いの獣は、死の間際にこそ思いがけない力を発揮することを知っているからだ。

(私の……負け……? 嫌だ……足りない……! 殺し足りない……!!)

 亜緒は言うことを聞かない体を動かそうと必死に歯を食いしばるが、できたのは床を手で掻きむしることだけだった。
 しかし体内から湧き上がる堪えようの無い殺意だけは、ふつふつと燃え上がる。

(嫌だ……嫌だ嫌だ! 殺すんだ! 私は、これからも……!!

「では、さようなら。殺人嬢くん。」

(殺す……! 殺す殺す殺す!! こいつは、絶対に!!!!)

 波佐見が手に力を込める。

(絶対にぶっ殺す!!!!!)

 食いしばり続けた亜緒の歯が砕け、口から血が吹き出す。

 そして。


 二人の殺人鬼の背後に、大きな影がそびえ立った。



 長身の波佐見の、さらに二倍ほどの大きさだった。
 親指大ほどの黄色がかった球体がいくつも連なった表面はボコボコと波打ち、蠢き、絶え間なく動き回っている。
 一見するとまるで巨大なプリンのようにも見えるそれは、グチグチと気味の悪い音を立てている。

「なんだこいつは……!」

 常に冷静な波佐見ですら呆然とした。
 それほどまでに、この塊はおぞましい存在感を放っていた。

(殺人嬢の魔人能力か……! いや、そっちは多数の武器を生み出す能力のはず……だとすれば別の……?)

 不意に、巨大プリンが大きく膨らむ。

 そして次の瞬間、その巨体から何本もの触手が伸び広がると波佐見に向かって襲いかかった。

「……ッ! ぽんっ!!」

 即座に波佐見はチョキの手を出す。
 すると今まさに波佐見の体に掴みかかろうとしていた巨大プリンが、触手もろとも体を大きく広げた。

 パーだった。

(こいつはマズいな……)

 すかさず波佐見はその場から離れ、エスカレーターを駆け上がり二階へと上がった。

「……まるで悪夢のような造形だな……」

 二階の手すり越しに下を覗き込み、波佐見はそう呟く。
 巨大プリンは波佐見を追っては来ないようで、さきほどまで殺人嬢が倒れていた場所でグチグチと音を立てて揺れていた。

「いったいアレはなんだ……誰かの魔人能力には違いないだろうが……」
「その疑問には私がお答えしますニャ!」
「っ……!」

 背後からの声。
 振り向きざまに波佐見は声の主に殴りかかろうとし、直前で拳を止めた。

「ギニャー! ビックリしたニャ! 何するニャ! やんのかコラニャ!」
「……」

 波佐見は無言のまま大きく飛び退いて距離を取った。

 そこに居たのは猫だった。
 茶色と灰色の毛をもふもふとさせた猫が、空中に浮かびながら肉球がぷにぷにしている手をブンブンと振って威嚇している。
 そのすぐ後ろには猫を両手で顔の前に持ち上げている少女が立っていた。高校の制服を着ている。女子高生だ。
 当然のことだが、猫の手を動かし、語尾にニャをつけて喋っているのはこの少女である。

「おやおや、そんなに離れてどうしたのニャ?」
「……こんな時間に無人のショッピングモールで平然としている相手に警戒するなとでも? それでなくても、君の腰に下げられているソレを見れば誰だって反応するさ。」
「腰? いつもどおりのフカフカぼでーだニャ?」
「……猫じゃなくて後ろの君の方だ。」

 後ろ?なんのことかニャー? と喋る少女のスカート周りにはバール、ナイフ、バールのようなもの、包丁、中には何に使うのかわからないようなものまで、様々な武器が吊り下げられていた。
 目の前の少女には油断してはならない、と波佐見は緊張したまま言葉を続ける。

「……君は一体誰だ。なんでこんな所に?」
「おおっ! 良い質問だニャ! でも敵に名前を尋ねる時はまず味方から騙せって言うニャ? あれ、なんか違う?」
「確かに、これは失礼した。私は"一八八八代目"ジャック・ザ・リッパー。故あって別の殺人鬼の命を頂戴に来たのさ。」
「ほっほー、ビッグネームだニャー! ニャーはネコネコ王国の六十二代目皇女、ユリだニャ! でもネズミ八傑の一匹、チュー納言の魔の手によって人間界に──」
「そう言うのは良い。」
「あ、そう?」

 つれないニャー、と言いながら少女は猫を自分の方向に向けて、頭をグニグニと撫でくりまわす。
 むにー、と迷惑そうな声で猫が鳴いた。

「おい、あんまりふざけてると──」
「わかってるって。アイツの正体っしょ? あれ、私の魔人能力。」

 猫を胸の前まで降ろして抱きかかえた少女──殺人鬼・舌先三寸こと椎江イドナは、こともなげにそう言い放った。

「やはり、魔人か。目的は何だ。」
「いや、つーか先にここに居たの私なんですけど?」

 イドナが親指で店の方向を指し示す。
 そこは先ほど殺人嬢の巨人の小刀が突っ込んだペットショップだった。

「せっかくあそこで気持ちよく寝てたのに、後から来てドッカンドッカンうるさいったらねーっての。マジで。」
「……それはすまなかった。お詫びと言ってはなんだが、今すぐあの巨大な化け物を消してくれれば、君のことは見逃してあげてもいい。」
「あー、それは無理ニャ。」

 イドナが猫の手をフリフリと横に振る。

「アイツさー……あ、『ペイン飴』って言うの。かわいい名前でしょ? ホントは小さい飴なんだけど、固まるとあんな感じ。んで、アイツら私の言うこと全く聞かないんだよねー。なので能力の解除とかも無理無理。あっはは。」
「それを信じろとでも?」
「信じなくてもいいよ? どーせ全部嘘だしー。」
「なっ……」

 変わらず猫と笑顔で戯れるイドナを見て、波佐見はため息をつく。

「……君と会話していても無駄だということが良くわかったよ。私は先を急ぐので失礼させていただく。」

 波佐見はそう言い残し、イドナに背を向けて歩き出した。

「うぃー、頑張ってねー。」

 イドナはそう答えると同時に腰に下げていたバールのようなものを握りしめ、波佐見の後頭部めがけて殴りかかった。

 ***

 一方、殺人嬢・空亜緒はショッピングモール奥部の柱の脇に隠れていた。
 陰から周辺の様子を伺うが、動いているものは居ない。

 そこまで確認し、ようやく亜緒は一息つくことができた。

(ヤバかった……マジでヤバかった!!)

 ペイン飴の襲撃によって波佐見が視線をそらした隙に、亜緒はその場から逃げることに成功していた。

「あーーーー、くそーーーーッッ!!!」

 亜緒が叫ぶ。
 もしもペイン飴による襲撃が無ければ亜緒は間違いなく殺されていた。その事実が痛いほど彼女の胸を突き刺す。
 今まで亜緒は負けたことが無かった。危ないことは何度かあったが、それでも最後には亜緒の刃が敵の命を刈り取った。

「くそっ……絶対ぶっ殺す!! 絶対ぶっ殺してやる!!!」

 時間が経って冷静になった今でも、亜緒の中で燃え上がった殺意は衰えない。

「このまま負けっぱなしだと思うなよ……"一八八八代目"ジャック・ザ・リッパー……!」

 近頃、亜緒の殺人衝動は日に日に大きくなってきていた。
 昼間は全く問題ない。だが一度太陽が沈むと、誰かを殺したくて殺したくてたまらなくなるのだ。

 亜緒はそのうち自分の両親も殺してしまうのだろうと予期している。
 そこに意味はない。
 意味が無いからこそ、止める術も無い。

 身を焦がすような殺意こそ、彼女を彼女たらしめている唯一の感情であった。

 ただ殺意の荒ぶるままに、空亜緒……殺人嬢は刃を振るうのである。

「……ん?」

 ふと、首筋に違和感を感じた。 

 手をやると、そこには大豆ほどの大きさの球体がへばりついていた。
 黄色みがかった球体はよく見ると何本か足が生えており、わさわさと動いている。

「虫……? 天井かどっかに巣でもあんのかね。」

 そう言って、何気なく天井を見上げる。

 グチグチと音を鳴らしながら、ペイン飴の塊がすぐそこにへばりついていた。

「…………あ……?」

 亜緒の視界が黄色く染まった。



 ガン、という鈍い音。
 グシャリ、という骨の砕ける音。
 ネチョリ、という肉と血が混ざる音。

 硬い鉄の塊が人体を破壊する音が──聞こえなかった。

「はー? ちょっとー、後ろに目でも付いてんの?」

 椎江イドナの振るったバールのようなもの。波佐見はそれを回避した。

「単に気を許していなかっただけさ。まったく、どうして殺人鬼っていうのは好戦的な奴ばかりなんだ。」

 波佐見は回避したそのままの流れでイドナに接近すると、未だ腕で抱えられている猫のお腹ごと貫くように、ガラ空きとなった腹目掛けて回し蹴りを繰り出す。
 その瞬間、横から飛び出してくる黒い影。ペイン飴だ。一階に居るペイン飴よりも一回り小さなそれが、いつの間にか忍び寄ってきていた。
 ペイン飴は見た目の鈍重さからは想像のつかない速度で本体から細い触手のようなものを伸ばすと、波佐見とイドナの間に割り込ませた。

「くっ、気色悪いから来ないでくれないかなっ……!」

 波佐見の蹴りは防がれ、さらにそのまま触手は形を変えて波佐見の足を飲み込もうとする。

「ぽんっ!!」

 チョキを出す。たちまちペイン飴は大きくパーの形に拡散し、波佐見はその間に再び距離を取った。

「命令は聞かないんじゃ……あぁいや、嘘なんだったね。」
「ん? この子は私の言うことなんて聞かないよ? ただ私のことは守ってくれるってだけ。」

 イドナは近くにへばり付いているペイン飴に近づき、右手に持ったバールのようなものを黄色くうごめく体に突き刺した。
 そのままペイン飴の一体を指でちぎって口の中に放り込む。

「んーーー、あまっ! あっまぁぁぁぁぁーい!! ひゃーーー!!」
「むにー!」

 イドナは足をバタバタさせ、抱えている猫をグリグリと撫でくりまわす。

「………っはぁーーー、つーかさー、こんな可愛いユリちゃんごとさっき攻撃してきたよね。マジひどくねー?」
「あいにく、そういった対象には特に愛着は持てないものでね。」
「ないわー。アンタどうせあれでしょ、ちっさい頃から裏庭で動物とか殺して遊んでたんじゃねーの?」
「……否定はしないさ。」

 イドナの示した意とは違うことは理解しつつ、波佐見はそう答えた。
 一八八七代目……先代のジャックザリッパーでもある父の元に生まれた波佐見は、幼少期よりあらゆる殺人術を叩き込まれていた。
 その練習相手として、リューキューエゾヒグマやカナダサツジンタイガーを相手取ったこともある。
 無論生死をかけた戦いだ。敵対した者の命は全て奪う。
 殺人鬼として産み落とされた波佐見にとって、それが常だった。

(あの厄介な塊……ペイン飴、か。不竦(スクマズ)で動きを止められるのはせいぜい二秒程度……)

 波佐見は腰を深く落とし、バリツの構えをとる。

(余裕だな。)

 イドナに向かって走り出す。
 すかさず敵意を感知したペイン飴が両者の間に躍り出た。

「ぽんっ!!」

 波佐見が繰り出した手は、グー。すなわち相手は強制的にチョキを出すことになる。

 不定形のペイン飴はウゾウゾと蠢くとたちまち人間の手の形に変形し、人差し指と中指を立てたいわゆるVサインの形に変形した。これがチョキだ。

「ちょっとそれずるくねーっ!?」
「今さら後悔しても遅いさ。」

 波佐見はペイン飴の人差し指と中指の間を飛び越え、そのついでに突き刺さっていたバールのようなものを引き抜くと、その先に立つつイドナめがけて駆け抜けた。

「はぁ!!」

 着地と同時にバールのようなもの先端をまっすぐとイドナに向かって突き出す。
 狙いは心臓。殺傷力は抜群。
 波佐見はこの一撃で勝負を決めるつもりだった。

「ちょ、タンマタンマ! ユリちゃん助けてー!!」

 イドナが慌てて猫を抱えた腕を前方に突き出した。
 だが波佐見に躊躇はない。そのまま猫ごとイドナを貫くだけだった。

 むにゃーん。

 猫の悲鳴。

 バールのようなものが柔らかな猫の腹部を突き破り、多量の血が飛び散る。
 骨を砕き、柔らかな内蔵を貫き、そのまま背中に達する。
 あとはそのままイドナの体に突き刺されば、それで終わりだ。

 そのはずだった。

「なんだとっ……」

 バールのようなものはイドナの体に達する直前で止まった。

 猫の腹部に空いた傷口から飛び散った血液が──否、正確には血液から変化したペイン飴がバールのようなものに絡みつき動きを止めていた。

「……だーからさぁ、こんなに可愛いんだからイジメんなって言ったじゃん。」

 椎江イドナの魔人能力『ペイン飴』は、彼女の意思によって生体が分割された際に自然発生する。
 イドナの意思により矢面に立たされた猫は、波佐見に体を貫かれた際に血液が飛散。
 能力の発動条件を満たしたのだった。

「ほーんと、可愛そうなユリちゃんだニャー。」
「む、むにー……」

 イドナはまだ息のある猫の首をナイフで切り裂いた。
 温かな鮮血が飛び散り波佐見の右腕に降り掛かると、それも瞬く間にペイン飴へと変貌していく。

 おびただしい量のミニペイン飴が、一斉に波佐見の右腕を食べ始めた。

「く、ああああっ……!」

 二秒が経過。
 背後の巨大なペイン飴も再び動き出す。

(くっ、どっちだ。どっちに不竦を……)

 右腕を捨てるべきか、活かすべきか。その逡巡に時間を割いた僅かな時間。

「あ、これめっちゃ甘いから食ってみ?」

 イドナが波佐見の口にペイン飴を一つ放り込んだ。

「ーーーー!!!???」

 その瞬間、腕を食われる激痛よりも、口に異物を放り込まれた嫌悪感よりも、全てを超越する激烈な甘みが波佐見の脳を支配した。



 口内のペイン飴は体内目指して進む。
 巨大なペイン飴は左半身を飲み込み始める。
 ミニペイン飴は今まさに右腕を食い尽くし、肩から心臓をを目指して動き始める。

 そんな中、波佐見は小さく笑い出した。

「お、そんなに美味かった? 特別にもいっこあげよっか?」
「くく……おめ、でとう……これで、君が"一八八九代目"のジャック・ザ・リッパーだ……」

 先代ジャック・ザ・リッパーである父から言われたのと同じように、波佐見・ペーパーストンは全霊の経緯を込めてそう言った。
 しかし、イドナは困惑した表情を浮かべる。

「あー、なんかそんなこと言ってたねー……私、別にそーゆーのいらねーんだけど……」

 そういった反応をされるであろうことは、波佐見も理解していた。
 だからこそ、彼女は嗤った。

(三年もビクビクと隠れ……いざこちらから動いた結果がコレか……ほんと、嗤えるな……)

 がぶりと、波佐見は口から血を吐く。ペイン飴がいよいよ内臓にまで到達した。
 あとはそのまま命が尽きるのを待つべく、波佐見は目を閉じる。

 そこに、イドナの声が聞こえた。

「あー、まぁさ。なんつーの。」

 波佐見が顔をあげると、イドナはバツが悪そうな顔で言葉を続けた。

「いらねーけど、でもこうやって仲良く喋ったわけだしさ。その一八八九代目っての? 仕方ねーからツツシんで、ハイリョーさせてもらうわ。」
「……いいのか? たくさんの敵から命を狙われるよ?」
「まー、別にそれはそれっしょ。つーわけで、代わりに私のお願いも一個聞いてよね。」
「……この状態で可能なら、どうぞ。」

 イドナが腰に下げていたソレを手に取る。

「はい、口あけてー。」

 波佐見は言われるがままにおとなしく口を開き、自分の名前と同じ器具が舌先を切り取るのを見届けた後、静かに笑った。

 数十秒後。
 波佐見の立っていた場所には一体にまとまったペイン飴だけが残っていた。


 イドナが波佐見の舌から作られたペイン飴を口に頬張る。

「うぅぅぅぅんっっはぁぁぁぁあああーーまーーーーいぃぃぃ~~~~!!!!!!!!!」

 脳が溶けるような格別の快楽に身を捩る。
 口の中で波佐見の舌を転がす度に、甘みが波のように全身を駆け巡った。



 午前三時。
 ひとしきり甘味を堪能したイドナは、おやつの時間ということで再びペットショップへと戻ってきていた。

「あー、ちくしょ。やっぱりあの騒ぎでみんな居なくなっちゃってんなー。」

 店の奥に置かれたケージを確認し、残念そうな声をあげる。
 すぐ近くには二メートル以上はありそうな大剣が転がっている。巨人の小刀だ。
 この刀によってケージがめちゃくちゃに破壊されたのだった。

 ペットショップの床は赤黒い液体で満たされ、イドナが歩くたびにニチャニチャと粘着質な音を立てる。更に至る所に動物の毛や、内蔵や、手足、頭部の欠片が散乱していた。
 ただし、この中に巨人の小刀による犠牲者は居ない。すべてイドナが魔人能力を使い食した残骸である。

「モフモフの毛とか綿飴みたいになって美味しかったのになー。せっかく新発見だったのにー……うん?」

 ぐちるぐちる、と音が鳴る。
 一体のペイン飴がペットショップの入り口からイドナの元にやってきた。

「へいへーい! どうしたの、元気無いじゃんー?」

 ペシペシとペイン飴の肩?を叩く。
 当然イドナにはペイン飴の体調などわからないし、なんとなくノリで言ってみただけだ。
 はじめは叩かれるままにプルプルと揺れるペイン飴だったが、段々とその揺れが大きくなっていく。

 そして、突如としてペイン飴に銀色の刃が生えた。

「おお?」

 刃がペイン飴の体を切り裂いていく。

「……ろす……」

 ずるり、と、塊が床に落ちる。
 亜緒だった。

 ペイン飴に囚われ、身体を食われながらも彼女の内から湧き上がる殺意が尽きることは無かった。
 ただ"一八八八代目"ジャック・ザ・リッパーを殺したい。その一心で亜緒は生きながらえていた。
 『無刃増』による刃を作り出し、自らの生命を繋ぐギリギリのラインでペイン飴から身を守っていたのだった。

「ころ、す……ごろすぅぅ……」

 両足は既に失われ、左腕もすでに肘から先が無い。
 右手の爪は全て剥がれ落ち、指も折れているか、または食われている。

 もはや目の前に誰が居るのか区別などついていなかった。


 床を這いずりながら必死に近づく亜緒の姿を見たイドナは、


 コンビニでお気に入りのお菓子を見つけた時と同じ満面の笑みで、彼女を出迎えた。



リザルト

 鈴木 ヒロシ。
 家を訪れた"一八八八代目ジャック・ザ・リッパー"によって首の骨を折られ死亡。
 何が起きたかわからないまま逝くことができた代わりに、家族を守ることも、最後にその姿を思い浮かべることもできなかった。

 鈴木 ヨウコ。
 家を訪れた"一八八八代目ジャック・ザ・リッパー"によって首の骨を折られ死亡。
 ヒロシの死を悟った瞬間、息子のタクミだけは守ろうとするも叶わなかった。

 鈴木 タクミ。
 家を訪れた"一八八八代目ジャック・ザ・リッパー"によって首の骨を折られ死亡。
 大好きな両親を助けるために果敢に"一八八八代目"とのじゃんけん勝負に挑むも、なぜか「パー」を出すことができなかったことに驚き、絶望のまま死んだ。

 警備 太郎。
 殺人嬢に斧で頭を叩き割られ死亡。
 同じ職場の先輩に好意を抱いており、最後まで先輩ならば不審者を撃退してくれると信じていたが、その時点ですでに先輩は死んでいた。

 先輩 花子。
 ショッピングモールに忍び込んだ"一八八八代目"のバリツによって全身の骨を砕かれ死亡。
 警備太郎が好意を寄せていることには気づいており、今度のクリスマスにデートにでも誘ってみようと思っていた。

 猫。
 "一八八八代目"にバールのようなもので腹部を貫かれた後、イドナに首を切り裂かれて死亡。
 最後まで何が起きているのかよくわかっていなかったが、イドナに体を撫でてもらうのはまんざらでもなかった。 



"一八八八代目"ジャック・ザ・リッパー。
 全身をペイン飴に食われ死亡。
 なお、今後イドナはこの後"一八八九代目"を名乗ることなど一度も無く、伝説の殺人鬼の名は"一八八八代目"を最後として人々の記憶から忘れ去られることとなる。



 殺人嬢。
 夜が明けるまでの三時間。イドナによって生かされながら残った可食部位をペイン飴にされ続け、その後に死亡。
 死の直前、一瞬だけ正気に戻った彼女は"一八八八代目"が既に死んでいることを知った。



 FIN
最終更新:2020年07月03日 20:50