寝静まった夜の静寂を突き破る渋谷から距離にして約2キロ。
ビルとビルの隙間を通り、路地へ入り、路地を抜け、路地を曲がり、路地に行き着いた。
その境界地帯は建ち並ぶ雑居ビル群に挟まれて、光や色彩とは無縁のつかの間の眠りにある。
隣接する大型デパートと併設された約300台を収容する設計の立体駐車場。
──────それがとある殺人鬼たちの待合室だ。
Get Some! Get Some!
灯りをつけてもなお暗く、心を蝕むような闇の中。
雲一つない冥い空に不吉極まりない悪月。
そして、血腥い殺人鬼たちが興す狂宴である。
渋谷の夜空を血の色に焦がして燃える景色は、もはや常人の認識の埒外にあった。
毎夜毎夜と都民は虐殺の憂き目に逢い、朝になるとその骸を晒す。
この大都市は神も悪魔も預かり知らぬ無法の世界と化してしまったのだった。
──────濡れたアスファルトに真っ黒でしなやかな姿が映る。
Get Some! Get Some!
犯るか、殺られるか。
欲望とは際限なくもなく成長する怪物。
何処からともなく血の匂いを嗅ぎつける殺人鬼たちの無軌道な欲求はとどまる所を知らない。
集うのは地獄の深淵に立った魔人。
当然だ。正気で立つ人間など既にこの場所には居ないのだから。
全員が最期の一人になるまで悦楽と死の双曲線を味わおうとしているのだから。
──────触手兵器“MIYAGI”。
──────使用済みコンドーム蒐集家“ケリー・オクタヴィアス”
──────陰茎剥製師“英田 菫”
──────ニンフォマニア。死姦愛好家。その他怱々たる変態性欲者‥‥。
Get Some! Get Some!
Get Some! Get Some!
Get Some! Get Some!
Get Some! Get Some!
──────皆、たちまちのうちに絶命した。
彼らは食物連鎖の頂点の口の中に飛びこんだのだ。
選り好みなどなく獲物を引きずりこみ、喰らう玩具箱。の中に‥‥。
そして、新たな影が運命のように音もなく、そっと近づいてくる。
──────見つけた。
──────黒猫が一匹、音もなく死体たちを飛び越えて。
◆◆◆◆
黒猫の名はヤット。この街での名は「慈愛のお迎え天使」。殺人鬼である。
──────ドコかな?
ヤットの地獄の底からこの世の全てを憎むかのような視線を闇の中に突き刺す。
ただの猫が能力覚醒するという、魔人の中でも稀有な存在であったヤットの狩猟動物特有の獣性から来る鼻のよさ。敏捷性。追跡能力。
そのどれもがそこいらの魔人ごときとは比べ物にならない。
──────居るのかな?
その特殊な視力は魔人たちを異能の光として視認し、なるほどねと感心した。
ここはまるで地の利を最大限応用した砦のように管制された殺意が張りついているのだ。
街灯で浮き立つ灰色の外観が汚れでさらに黒ずんでいる。それらは全て血だった。
──────ココかな?
パトカーのボンネットは大きく開き、ラジエーターの亀裂から蒸気が立ち昇り、焼け焦げたアスファルトには様々な破片の散乱していた。
鋭利な破片を踏まないように跳ぶ。ヤットの三角飛びは低い天井を垂直に駆けあがると、そのまま重力を無視して天井を歩いていく。
どうやらこの立体駐車場には自動消化装置のスプリンクラーは付いていない。いや、作動していないようだ。
その代わりに海外映画の壊れた消火栓と化し、鮮血を壁に吹きつける首なし死体が数人いる。
──────穢い。
ヤットは今は亡き主人を思い出すのでこの臭いが大嫌いだった。
次に見つけたのは料金窓口のゲートから鎖にくくられ吊り下げられたマン・ターゲットだ。鎖には“立ち入り禁止”の札がぶら下がっている。
黒猫のヤットは今度はそれを猫本来の好奇心で上下逆さまにそれを見つめる。
──────お肉屋の豚みたい。
世にも無惨な殺戮現場。まさに血濡れの火祭りだ。
ドロリとした人血に遮られた赤ランプがペカペカと明滅し、怒ったような光を淀んだ水面に投げかけていた。。
揺蕩った傾斜路に累々と横たわった殺人鬼たちはそこかしこに死と排泄機能の無様を訴える。
しかしその正体を知っているヤットにはびた一文、同情などできなった。
その奥から呻き声が漏れてくる。
──────居る。ここに居る。
「助けてくれ!」
「殺される!」
心悸の高めたニンゲンたちが出口の扉を叩きながらナニか喚いているらしいが、
Get Some! Get Some!
新たな悲鳴、閃光。これにはヤットもビックリした。
爆発の激しいショックが駐車場全体を揺るがせ、噴煙が吐き出される。
噴煙とともにを千切れ飛んでくる殺人鬼。 ボロ人形のように内臓を剥き出しに死んでしまった。
袖の付いたままの腕があっちに、頸はそっち。
当然ピクリとも動かない。
気まぐれに子供遊んで四肢をもぎ取った人形の末路を思わせた。
──────ふぅん。僕以外にも命を欲しがってる輩はいるんだ。
ヤットは殺人鬼たちのかき抱くその一瞬の熱情、寒々しい不快感プラス殺意の火花には正直うんざりしていた。
──────異能の輝きはあと、三つ。
それでも、殺す。絶対殺す。
主人を奪った殺人鬼の命を手にいれるその日まで‥‥。
さぁ、始めようか。襲うべき敵はそこにいるんだから。
──────捉えたよ、ニンゲン。君の命は僕のモノだ。
最後に聴こえたのは人間のものならぬ猫の叫び声。
ある男の耳にはそれが苦痛に喘ぐ女の悲鳴にも、セックスの絶頂に達した女の絶叫にも聴こえた。
◆◆◆◆
──────悪は正義に勝つ。抗しがたい残酷な力で。
魔人犯罪対策室の橋本は視線を周囲に放ちながら、懐から超小型無線機を取り出し電源を入れた。
「本部、こちらD・T・S!大至急、救急車を!負傷者多数」
しかし、無線機の向こうの声はひび割れたノイズを吐き出すのみだ。どうやらトラブルはここだけの問題ではないらしい。
「本部応答を!?おい‥‥本部!?ええい!クソ‥‥」
こんな気持ちはどんなに清廉潔白な人の心にも、時々襲って来るものだ。
「野郎、ブッ殺してやる」
捜査一課のおこなった殺人鬼ファイトクラブを一網打尽にする突入作戦は思わぬ横槍が入る。
──────狩りをするのは我々だけではなかったのだ。
突入直前に起こった謎の毒ガス攻撃。予め設置されたと思われるブービートラップの数々。
所属不明の強襲、敵味方入り乱れる銃弾のカオス。
──────結果はご覧の有り様。残っているのは本田刑事と部下の橋本のみ。
「‥‥‥バカヤロー、橋本。何で逃げなかった?」
隣にいるのは本田警部は後輩刑事の橋本に担がれてもなお、厳しい口調で告げる。
特に本田警部はかなりの重傷だ。顔面に吹き付けられたマスタードガスによって顔を焼き爛れさせ、眼は白濁とさせ視力はないに等しかった。
橋本は辛うじて微笑み返す。
「置いて逃げるような教育は‥‥受けた覚えはありませんよ。本田さん‥‥‥ッ!」
盲目となった本田刑事の重い身体を担ぎ上げ、橋本は非常扉に体当たりし、転がり出ると共に一気に階段を駆け下りた。
「‥‥‥へっ」
猛々しかった本田はすぐに黙り、自分を律する為に息を吐き、顔を伏せた。彼は追われるの身を忘れ微笑んでしまう。
この地獄から脱出するには地下下水道管へと入り、マンホールから外に脱出するしかない。
ウンコや使用済みコンドームなんかが浮かぶ汚水に肩まで浸かることは感染症・性病の原因などから正直やりたくない。が、この状況では背に腹は代えられない。
逃げる二人はこの東京が徐々に翳っていくの感じている。
三十七名もの優秀な捜査官たちが殺人鬼の醜悪な毒牙の餌食となり、その犠牲者の中にはなんと全ての事件を物理で解決するあの“徒士谷警部”が含まれていたのだから‥‥。
「先輩の知ってる“ジャック・ザ・リッパー”って、あんな奴なんですか?クソ、乳首がジクジクするぅ‥‥」
己の両乳首を消失している橋本警部は本来は乳輪があった血まみれの箇所を指で捏ねながら、辛いと訴える。
「いいや違うな。もっと厄介なヤマになっちまったなぁ、こりゃ。あの男は‥‥“猛毒”だ」
本田警部は大丈夫だ我慢しろ、と無視した。
「じゃあ、例のレッドノーティスの‥‥?」
「ああ、顔を替えているがたぶんな‥‥」
「大変だ。この事をみんなに教えないとまた──────」
次の瞬間、チャイムの音とともにエレベーターからまろび出た影の中の影。
その忽然と姿を現した生ぬるさに驚愕して橋本は目玉をひん剥いた。
「どうした!?‥‥‥逃げろッ!橋本!」
叫ぶ本田警部。
嘲笑うトール・ダーク・アンド・ハンサム。
──────“歩く劇薬”!橋本の乳首を奪ったあの男の微笑だった。
眼前の男の手に握られるのはその元凶、消音器付きのH&K P7 9ミリ。
『おーおーまだ生きてるよ。オッサン結構しぶといね』
“歩く劇薬”はメロディックに口笛を吹き鳴らし、挑戦的に唇を吊り上げる。
毒液が滴るようでそれでも耳に心地よい声。瞬間、
『さっさと死ねよ、ボケ』
本田刑事は、前へと飛び出した。
「橋本‥‥うぉぉぉぉっ!」
一瞬の閃きとともにブシュッ、という小さな発射音が漏れる。
小鳥のような声を漏らして本田の身体は跳びはねた。
眉間から頭蓋骨にポッカリと穴を開け、脳に弾丸を食いこませた本田警部は目玉を眼窩から飛び散らし絶命する。
「本田さん!!」
橋本の驚愕を無視して、リーサルドーズの左膝が跳ね上がった。
涎を垂らしていた橋本の顎を砕く。
尻餅をついた橋本は舌先を噛んで口を血だらけにしている。
「うげぇぇぇ‥‥」
橋本は赤黒い血とともに数本の前歯を地面に嘔吐した。
“歩く劇薬”は容赦なくブーツの先端で橋本の脇腹を蹴り続け、踵でペニスを踏みつけにする。
橋本の激痛とは裏腹に、ペニス自体が独立した生き物のようにその刺激を甘受する。
それにリーサルドーズは面白そうな顔はしなかった。
◆◆◆◆
『ひー、ふー、みー、よー、いー、むー、やー、なー、こー‥‥‥』
贋のジャック・ザ・リッパーの情報にまんまと誘き寄せられた、
馬鹿なジャック・ザ・リッパー志望者七名。
────全員落第。“本物”はもっと骨があったぞ。
オマケの魔人捜査官八名。普通警官二十五名。
────全員クビ。こいつらとおんなじ給料だったとか俺が死んじゃうぜ。
最初の罠で四人、二番目の罠で二人。俺が八人。同士撃ちで捜査官と殺人鬼が一人ずつ死んで、
立体駐車場に入らずで尻尾振って逃げた奴らは────────全滅。
──────だったらこの死体はなんだ?
──────どうしてだ?
どうしてこいつは死んでいるだ?俺はまだ”何もやってない”のに‥‥。
横たわる全身無傷のピカピカな魔人小隊の隊員が一人。
開いたままのその口から飛び出しているのは、十センチほどの尻尾のようだ。尻尾は軒先の花のように揺れている。
蛇が卵を飲み込んだように膨れあがった魔人隊員の喉から、不気味な呻き声が洩れでている。
ソイツは引き裂くような音とともに出てくる‥‥。
液体が宙を飛び、リーサルドーズの横顔にもへばりついた。
約三十分間この立体駐車場に充満したサルファマスタードガスをコイツは一体どうやってやり過ごしたのか、はたして。
この冒涜的な光景が終えると同時に、魔人小隊の陣地へ正面から乗り込んだ大胆不適な男が、たった一匹のカワイイ動物の扱いに困惑した。
なんとも不気味な事にコイツはずっと隠れていたか‥‥死体の中に。
『‥‥猫‥‥だと?』
拳大の口から這い出てくるのはてっきり宇宙生物を想像していた。
口から転び出てきた猫と俺は正面から向き合うことになる。猫も俺を睨み返してくる。
大きな青眼が爛々と輝かせる
血のりにまみれた猫。重さも二キロとあるまい。
おそらく何人も屠ってきたであろうこの魔性の猫は、今この俺を葬ろうとしていた。
『お前は一体‥‥何なんだ‥‥?』
猫は耳を前に傾ける。
──────ヤット。
拳銃の先に付いた不気味な消音器の死の威嚇に傲然と尾を立てて歩いてくる。
『嘘だろ‥‥コイツ人語まで‥‥!?』
──────まあね。
なんて、猫は呟いた。
──────リーサルドーズの眼差しが遠くなる。
奴は俺に話しかけ、完全に俺の思考を読んでいた!
遠感能力。もはやこの猫にとって言葉は何の意味もない。
信じられないことだが、この猫は俺の思考を捉えて、それを自分に判る言語に翻訳している。まるでイソップの寓話や映画ドクター・ドリトルの世界だ。
──────動くな。
『──────ッ!』
出し抜けに胸に鈍い刺すような痛みに、俺の思考は中断された。
猫は唸りながら、その場を離れない。
猫はのどを鳴らし続けている。さながら不思議の国のチェシャ猫さながらに。
──────コレ、君が殺したの?。
猫はうずたかく積み重なった死体を前脚で、おかわいそうにという感じでポンポンと叩いた。
『‥‥あぁ、そうだ。悪いね』
──────全然、良かったよ。
猫は唸り声をあげながら、死体の顔に飛びついた。
──────僕にはコイツらを“こんな風”に殺したりは出来ないから‥‥。
『よくご存じで‥‥ハハハ』
リーサルドーズの死魚の眼から放つスマイルにヤットは口から血を滴らせて返した。
爪を剥き出しにすると、ヤットはその殺人鬼の死体の頭の肉を抉りはじめた。
──────やっと‥‥見つけた。コイツだ‥‥コイツが僕の主人を‥‥
──────死んだ!死んだ!死んだ!
爪は顔の肉をやすやすと切り裂き、頬肉を磨り潰した。地を這う小動物を捕らえる甲高い鳴き声は雷のようだ。
──────もっと苦しめばいいのに‥‥!
顔の皮は剥がれて真っ赤な筋組織がむきだしになっても猫は青白い光沢を帯びた瞳は憎悪に満ちていた。
『‥‥たいした飼い主様だな』
鮮血のしずくが眼に入ってきた。片手が上がりそれで血を拭う。リーサルドーズは、鋭い音をたてて息をのんだ。
──────うん♥️
黒猫は頷いて、口元をほころばせた。
──────僕の大のお気に入りだったんだ。
リーサルドーズはこういう眼をキラキラさせて、戦場灯りにやってくる手あいには前にも会ったことがある。
──────どれもこれも愛の破滅願望な最も危険な種類の相手だった。
その後も甘ったるい馬鹿げた言葉を連発して、俺を唖然とさせた。
元々猫は独立不羈の生き物だ。人間の魔人とは別の存在感を持っている。
もはや、この世界とは絶対に相容れない存在のように思える。
人間と猫は紀元前何千年もの間、不和と協調の矛盾に満ちた関係を築いてきた。
ネイティブ・アメリカンにとって、猫は魂のない唯一の動物で邪神の化身に他ならない。
唐を渡った金華猫も有名な話だろう。映画にもなった。
他にも悪魔の密偵。旧神の一柱‥‥。
穏やかな郷愁も、血を凍らせる恐怖も、善良ではないが、邪悪でもない。
──────そう、猫は神だ。少しも奇妙ではない。
ペットから神話の妖精並みの変身、あまりのその変貌ぶりはまさに麻布の大妖怪や、ウェールズの怪物の再来であった。
H&K P7(二列装弾十三発の九ミリ弾は、たとえ一発でも猫は殺せる‥‥たとえ神でも。今ならまだ間に合う。
変貌を遂げつつある猫のふくみ笑いが届く。
──────ありがとう。じゃあ、永年にさようなら。
──────殺せる。
──────生きていくのに不安はないの?その身体で?
魔性の猫の超常を体験しながらも、自信に満ちた笑みは消えていない。
『負けた時の事は、考えてない‥‥!』
霊的衝撃と銃声が交錯した。
死ね 捉えた
不動の直線を引いた弾道が逃げる猫を捉えられたのは、視覚よりも鼻だった。
猫の方は、この俺の反撃に予期していなかったらしい。
発砲した九ミリ弾が見事胴体にめり込み、猫から苦痛が滲み出た。
ヤットからみるみる鮮血に溢れ出でた。
──────心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ心臓停まれ!
力強くリズムカルにヤットはリーサルドーズを天国に運びながらも、勝負は一瞬に決する。
一斉に糸を断たれた操り人形のように、リーサルドーズはその場にへたり込んだ。
黒猫ヤットの最期の断末魔の呪いは彼の身体をそのまま満足するまで蹂躙する。
最も純粋で危険な念が、リーサルドーズの全身を突っ走る。
『うがああぁぁぁぁぁあぁ──────っ‥‥クソ』
このまま心臓麻痺につながる気もしたが、恐怖するのも億却である。
リーサルドーズは肌身離さず持ち歩く注射器を懐から取り出すと、カートリッジ式アンプルを装填して、首の静脈へと押し当てる。
意識が切れる──────はたして俺は生きて朝を迎えられるのか?
『“深愛を抱く蒼”──────』
固く閉じた目蓋から涙が滲み出し、頬に筋を引いた。
全身がびくびくと痙攣する。手には血管が走り、筋肉が盛り上がる。
『‥‥‥ぁ‥‥‥』
呻き声をたて、血と泥にまみれた顔ごと仰向けになり、地面に爪をたてて弱々しい呻いた。
リーサルドーズは硬直した手足を数度痙攣させたきり動かなくなる。
『──────コメット』
──────魔人能力によって精製されたニトログリセリンの静脈注射による心肺蘇生法。
──────脳の酸欠死まで残り九十秒。
その一分足らずな心臓の再起動までの時間は彼にとっては途轍もなく永い時間であった。
◇◇◇◇
目映い十二月の曙光。月曜日の早朝。
東京の初雪は街を白い砂糖菓子に変え、晴れ渡った空はまるで邪悪などこの世に存在したことがないと言いたげだ。
今日の朝刊、Twitter・ネットニュースは相変わらず殺人鬼の凶行を報じている。
渋谷の惨劇。新宿での激しい銃撃戦。ショッピングモールの大乱闘。
真贋の見分けはつかないが“倫敦の悪魔”という名前も一部報じられていた。
もちろん、それらの記事の中に“歩く劇薬”という俺の殺人鬼は一切登場しない。
それが俺には大変喜ばしいことだった。
俺の背後からけたたましいサイレンたちが渋谷方面へと向かって集結していくのが喧しく聞こえる。
それを無視し、行き交う男と女の息。それらは混じり合いながら、冷たい朝の空気の中を湯気となって流れた。
晴れた日の朝は寒い。
地を這う寒風が渦巻き、アクアスキュータムのトレンチ・コートの裾が風に煽られる。
今日は手袋も持ってくれば良かったなぁと俺は思いつつ、すれ違い驀進するパトカー、消防車、救急車、装甲車の群れに邪視を贈った。
(赤坂の方向。横田の車。アメリカ軍‥‥?)
他にも考えうる政府機関は半ダースほどはあるが、どれも理由は推測できるし、理解することも容易であった。
唇は挑むように不適な微笑にゆがんだ。
俺は人波で雑沓するイチョウの並木通り抜けてを姫代学園へと急ぐ。
学園は冬休み‥‥だが、学生は休みでも教師に休みなどあるわけがない。
昨夜の事件もあり一様の生徒たち全員の安否確認。また、通知表の作成。年明けのテスト問題の作成。授業の教材準備。あと実験室の廃液ドラム缶の中にある死体の始末がある。仕事は山積みだった。
(あーあ。もっと人殺してぇ、あと女‥‥)
内なる破壊欲の燻りは火を吐く。
それを表面に現すほど、馬鹿ではないが、
自分の時間をカモフラージュの為の偽装工作に割くのが苦痛の極みに達していた。
(教師やめてテキトーに女の家に転がりこむか‥‥でも、売りは辞めたしなぁ)
実のところ被っている“羊の仮面”は一つだけではない。
姫代学園の教職に立つ“榎波春朗”という名前も職業上の偽名の一つに過ぎないのだ。
13歳で魔人に目覚めてから日本を離れ、俺は上海、アテネ、オーストラリア、シンガポール、ニュージーランド、ロサンゼルスを転々とし、この世界の深淵を垣間見た。
生きるため、仕事をやり遂げるためにはどんな手段を使うことをいとわなかった。
十八ヵ国の国籍と偽の名前、特殊技能、殺しのスキル。
入神の演技でどんな役もこなし、どのような人間にだって化けてみせる。
各国の政府高官はそんな俺を重宝して、国益を損なう恐れのある害虫どもの駆除を任せたのだ。
裏の世界では、いつからか俺は“歩く劇薬”と呼ばれるようになった。
千を越える死者を曳きずって生きる放蕩無頼。
諜報局破壊工作員。
不可能を可能にする“猛毒”と──────。
「ちょっと、やだぁ‥‥。カワイソー」
『────?』
チラリと視線を泳がせると、前を歩く人の流れが滞っている。
隣にいたサラリーマンも、物陰に顔を向けると数秒間制止し、眉に険を刻み、立ち去ってゆく。
裏路地が開く黒い口を黄色テープの規制が円かと囲まれていた。
俺は散らばる奇怪な薔薇の花の模様に流し目を送る。
目を凝らし、観察して初めてああ血かと判る程度の血痕だった。
まじまじと観察する視線の先にそれは四肢を大きく突きだし、静かに横たわって死んでいる。
あんぐりと口を空けた黒猫だった。
皎い歯をきらめかせ無言の絶叫を放っていた。
既に二羽の鴉たちが死骸の両目を食べ終えて、その嘴は凶暴な昆虫のように腸を暴きにかかっている。
この寒さだ。せめて蛆が湧くことのないことが気休めだろう。
すると何処からか現れた防護スーツで武装した警察隊と消防署員たちが滑るように死体に近づく。途端、鴉はひと啼きして、何処かへ飛び去っていった。
隊員はすっかり冷たくなった肩や背中を引っ掻くようにして愛撫する。
触れた毛は自らの出血で糊付けされたようにゴワゴワと固まっていた。
輪郭をなぞる五指は優しく、黒猫の下顎にかかった。
隊員が引っ付かんで拾い上げると、俺は何処かで見覚えのあるような銀翼のチャームの付いた首輪を垣間見る。
‥‥それを見届けた俺は何事もなかったようにこの場を離れた。