夜の東京、その外れ。
冬休みである現在、その中に人影はない。寮に残っている生徒も、夜間外出は禁じられている。都の決定だ。本来学園にはそれを跳ね除ける権力があるとはいえ、無用な犠牲は避けたいのだろう。
そう、静寂にして閑静なる地。ここは何人たりとも動く者なき、夜の姫代学園。
……たった2人だけを除いて。

鋭い一閃が放たれる。
刀のひと凪ぎが空気を裂く。
少女が、紙一重でそれを跳ね除ける。

「わっ、と……危ないなー、人にいきなり切りかかっちゃいけないんだよ?」
「……避けたのね。即死かと思ったのに」

月光の差す教室。きらりと、一本の刀が光を反射する。
それを握るのは、鋭く伸びる刃に見合わぬ、可憐なる少女。
そして相対するは、黒いマフラーの紅眼少女。

「へぇ、日本刀かー。この学園の流行り?」
「……話し合いをする気はないわ。口を閉じて」

瑠璃千砂と、紅眼莉音。
悪の終着駅と、隻眼の真紅眼。
悪を殺す者が、二人。
――英雄は、一人。

「うんうん、いかにも悪人って感じ。ちょっと遠出しただけあったなぁ」
「口を閉じなさいと……何度言っても無駄かしら」

千砂が、刀を再び構える。その手に、ぎりりと力が込められる。
彼女の剣術は素人のそれと同等。剣術というよりもいわば喧嘩殺法も同然のものだ。本来であればまともに振り回すことすら出来ないそれを彼女が操れるのは、単に技術を身体スペックで補っているだけに過ぎない。
だからこそ、分かっていた。否、分かってしまっていた。
今相対している相手は、『己と同じ』存在だと。

「――魔人でしょう? あなたも」

見透かすように千砂が語りかける。
魔人。
千砂の高い身体スペックの理由であり、この姫代学園が大量に擁する――いわば、ヒトを超えた存在である。
千砂は理解している。いかに戦闘能力の高い自分といえど、同程度の魔人とであれば多少なりとも苦戦は避けられないことを。恐怖はせずとも、想定はしているのだ。
しかし、実際に『学校外の魔人と』立ち合うのは、想定よりも遥かに。
遥かに――

「強いじゃない、なかなか」
「そっかぁ。でもあんまり嬉しくないなぁ、悪人に褒められても」

ふらりと、莉音が姿勢を崩す。
隙――否。先程から、彼女はずっとこうだ。
まるで隙を見せたかのような動きをしながら、斬り込んだ全てを見切られる。
武術の類ではない。動きに無駄が多すぎる。
攻撃を誘っている、というわけでもない。先程から斬り込んでいるが、反撃は一度たりとも飛んできていない。
それどころか――殺意を、我を、感情を感じない。まるで、命のない無機物のように。

「……あなた、何者?」
「紅眼莉音ちゃん、この街の正義。あなたも知ってるはずだよね?」
「えぇ、そうね――そうだった、わ」

千砂は、ふと脳裏に浮かぶそれを思い出す。
――あぁ、そうだ。私は彼女を知っている。いくら姫代学園が外れ地といえど、噂は当然流れてくる。この東京の正義にして英雄、隻腕の真紅眼。紅眼莉音。幾多もの悪を倒した、正義なるもの。
いいや、おかしい。何故だ。『私は何故、それを知っている』?
『知りながら、彼女を殺そうとしている』のだ?
私が殺すのは殺人鬼だ。敬愛していた先輩を殺した、殺人鬼という概念すべてだ。
しかし、それなら何故、私は彼女を殺すのだ。そんな必要はない。彼女は、どちらかといえば『こちら側』の人間だろう。向こうがどうあれ、戦う必要などなかったはずだ。
なのに。
なのに、何故。
私は先刻、この少女を見るなり斬りかかったのだ(・・・・・・・・・・・・・・・・・)

「――ッ!?」

警戒。刀を構えたまま、千砂は後ろへ一歩飛び退く。
奇妙――なんだ、これは。驚愕か? 疑問か?
恐怖は、恐怖だけは、ない。瑠璃千砂とはそういう人間である。
だが……これは、何なのだ。『理路整然に考えればあり得ないことが、実際に起こっている』。
恐怖がないからこそ、ただ冷静に、『おかしい』という事実だけが脳に映る。
洗脳能力――ではない。この思考は侵されてはいない。この行動も、操られているわけではない。
ならば何だ。何が――

「隙ありっ」

かぁん、と何かが弾き飛ばされる。
はっと千砂が気づく――だが、遅い。
鮮烈な蹴撃が、千砂の腹部に直撃する。

「が――ッ!?」

吹き飛ばされる。壁に激突する。壁が半壊し、崩れる。
衝撃。痛み。起こったすべてが脳に届いてくる。
――距離を詰め、刀を弾いた上で、壁まで蹴り飛ばされた? ほんの、一瞬で?

「ふっふん、余所事考えてたよね。そうでしょ?」

はらり、ひらりと莉音が舞う。先程と同じ、隙だらけの構え。
一つだけ違うのは、その右足に見える真紅の返り血だけ。

「痛いよね? 痛いよね、血が出てるんだもん」

莉音が嬉々として跳ねる。
動かない左腕とバランスを取りながら、器用に、嬉しそうに。

「でも、当たり前だよね。悪人には罰を、正義の執行を。私が正義なんだから」

莉音の目が、月明かりを受けて真紅に輝く。
笑みが見える。少女の、屈託のない笑みが。
ぎりり、と千砂が歯を軋ませる。
――何が、楽しいというんだ。

「……何が楽しい。何が可笑しい。何が、何が……!」

怒りが、湧いてくる。
先程までの困惑が、驚愕が、疑問が吹き飛んでいく。
こいつは、正義ではない。正しい人間でもなければ、生きていていい人間でもない。
人を殺して笑う(・・・・・・・)人間が、正義であってなるものか。
こいつは、殺人鬼だ。私の殺すべき対象だ。
先程までは不可解だったが、今なら理解できる。私が斬りかかったのは、正しい判断だった。きっと、そうだ。理由はともかく、こいつはここで殺さなければいけない。
お前のような人間がいるから。お前のような殺人鬼がいるから。
お前のような奴がいなければ。先輩は――

「――何って? 簡単だよ。正義、正しいことをする。だって私は正義なんだから」

憎しみの篭った眼で睨まれながらも、莉音はあっけらかんと言い放つ。
だって、私は正義で、絶対で、正しい。英雄なんだから。
私が間違っているわけがない。そう言いたげな表情で。

「正義は正しい、正義は絶対、みんなに褒められる。だから楽しい。だから――」
「黙りなさい」

莉音の言葉を千砂が遮る。

「確かに私は正義じゃない。正義でもなければ、正義の味方でもない。わかってる、それはずっと事実だから」

ゆっくりと、千砂が立ち上がる。
腹には先程の蹴りで出来た傷穴があるが――もはや、そんなものは関係ない。

「……でも、それでもっ!」

千砂が、がしりと構える。
その手に日本刀はない。だが、それで良い。
――私は、こちらの方が得意なのだから。

「私は――あなたを正義とは認めない!」

千砂がタン、と地を蹴る。
莉音の視界から、千砂の姿が消える。
寸刻――殺気。

「っ――!?」

莉音が、とっさに後ろに仰け反る。
だが。

「……それを待ってた!」

こぅん、と
莉音の視界が、ぐるりと反転する。
足払い。姿勢を崩す技。
それを魔人の身体能力で行ったならば。

「空中なら――避けられない!」

掌底が、莉音の胸部を捉える。
ごしゃり、と何かが潰れる音が響く。
莉音が、地面に叩きつけられる。

「ぅ、ぁ――ぐ!?」

追撃とばかりに2発目が腹にぶち当たる。
骨が砕ける。莉音が血を吐く。

「これで――」

3発目――は、当たらない。
莉音が、すんでのところで射程から転がり出る。

「はぁ、はぁ……がは、っ……」

ゆらりと立ち上がりながら、何度も血を吐く莉音。
なんとか気力で立ってはいるが、既に骨も内臓も崩壊しかかってさえいる。

「負けちゃいけないんだよ、正義は……英雄は!」
「そう……なら何度でも言いましょう。私はあなたを正義とは認めない。絶対に」

ぎり、と千砂が苦い顔をする。
何故、彼女はここまで己を盲信する? 享楽殺人の言い訳にしては、明らかに異常なほど『正義』に拘っているのは何故?
まあいい、殺せば関係ないのだから。
トドメをさそう。殴る蹴るでは何度でも立たれる。魔人とは、そういう生き物だ。
あの刀で。先輩の遺志で、彼女の命を絶たなければ。

「私は正義なの、正義じゃなきゃいけないの。ずっと、そう言われてきたんだから」

千砂が、刀を拾い上げる。

「だって、だって、私は、私は」

莉音の声が、堰を切ったように溢れていく。
千砂が、そんな莉音を見つめて呟く。

「……呪縛かしらね、あなたのそれは」

呪縛。
彼女が狂ってしまったのは、きっとそういうことなのだろう。
私と同じ。きっと、何かの歯車が、己を殺人鬼にしてしまった。
ただ、ボタンを掛け違えた。私と彼女の差は、そういうものだったんだろう。
千砂が、刀を大きく振りかぶる。
莉音は――動かない。

「……さようなら、『私』だったかもしれない人」

日本刀が、愛宮竜胆の遺志が、紅眼莉音の首を捉える。
――瞬断。
マフラーが、真っ二つに切り裂かれる。
紅眼莉音の首が、落ちる。

そして――暗転。



≡≡≡≡≡≡≡≡≡



――恐怖を失った人間の顛末がどうなるか、御存知だろうか。
停止装置なき殺人マシーン――否。
何者にも立ち向かえる戦士――否。
死さえ恐れぬ、最強の存在――断じて否。
逆だ。逆なのだ。
人の恐怖とは何か。
恐怖とは――いわば、第六感である。
人は、恐怖があるからこそ無謀を行わない。
人は、恐怖があるからこそ「あり得ない可能性」を想定する。
人は、恐怖があるからこそ。生き続けることが出来るのだ。
ノーフィアー。狼を見た人はいつも大きく報告する。
あぁ、確かにそれは正しい。正しいのだ。結果だけ見たならば(・・・・・・・・・)
何故、人は狼を大きく報告する? 何故、人は恐怖などという『必要ない機能』を持っている?
答えは――簡単なことだ。

「ぅァ……何が……っ!?」

瑠璃千砂の腹部を、紅眼莉音の左腕(・・)が貫く。
内臓が抉られる。千砂が血を吐く。
紅眼莉音が、笑みを浮かべる。

――恐怖は、想定外を想定する。
誰もが感じる、「わからないもの」に対しての恐怖。それが存在する理由は何か、考えたことがある者もいるだろう。そして、その思考にたどりついた誰もが、こう結論づけるに違いない。
『恐怖とは、己の埒外と戦うための手段なのだ』と。
――恐怖は、己の想定の外に警戒を持つためのものなのである。
故に。
故に――瑠璃千砂は、思考の外への警戒がない。
『紅眼莉音に対して最も警戒すべき』、思考外からの攻撃に警戒できなかった。
普通の殺人鬼の行わないような、例外的攻撃に対処できなかったのだ。
普通の人間なら、恐怖していただろう。
急に動きを止めた少女に。
堰を切ったように意味のわからない言葉を連呼しだした少女に。
正義の狂信者に。
だが、彼女はそうしなかった――否、できなかったのだ。
恐怖を持たぬからこそ、気づけなかったのだ。彼女の能力の発動に。

「正義は、勝つんだよ?」

過去を書き換える(・・・・・・・・)
事実を捻じ曲げ、無から過去を生み出し、己を正義とあらしめる。
それが英雄として生まれ、正義たるべく育った者の、唯一持つ能力。
能力にして、呪縛。
英雄呪縛(ヒーローギアス)
それは、『紅眼莉音が悪を倒す』という事実を作る。
それは、『紅眼莉音が何かをした』という過去を生み出す。
そしてそれは――『英雄の死さえ塗り替える』。
正義の敗北は許されない。
事故死。病死。殺害。自害。
それらを含む全てにおいて、彼女の死は許されない。
『紅眼莉音は正義で、英雄でなければならない』。
『英雄は死なない』。『英雄は勝利する』。『何故なら、それは正義だからだ』。
呪縛。彼女の根幹でありながら、彼女の在り方全てを縛るもの。
それが、彼女の能力なのだ。
――左腕が動かなかった過去と、首を斬り落とされた過去が消滅した。
今回起こったことは、それだけだ。
たった、2つの事象が『起こらなかった』だけなのだ。

瑠璃千砂の身体が、どたりと地面に倒れ込む。
血溜まりが大きくなっていく。
千砂の目の前に、刀が転がっている。
先輩の、先輩の刀。たった一つ、残ったもの。
まだ。まだ、私は。
千砂が、手を伸ばす。刀に――否、己の意地に。
まだ――私は――
手が、刀に届く――

――その手を、血濡れの少女は踏み折った。



≡≡≡≡≡≡≡≡≡



「ふふふーん、ぶいっ」

瑠璃千砂、『だったもの』を踏み付けながら、紅眼莉音はくるくる笑う。
千砂を貫いた血濡れの左腕は、もう、動いていない。
必要なくなった過去は、何度でも書き換わる。
だが、現在は変わらない。
これが、彼女の呪縛。
『過去が変わり続ける』が、『現在に干渉できない』。
英雄呪縛とは、そういうものなのだ。
彼女は知らない。
己の過去が書き換わっていることを。
己が、消失した過去と作られた幻想の上の正義だということを。
それでも。
それでも、彼女が為すことは一つ。
正義。
たった一つの、正義。
それが――紅眼莉音という少女なのだから。
最終更新:2020年07月03日 20:44