――――“一八八八代目ジャック・ザ・リッパー”波佐見・ペーパーストンの魔人能力は、ジャンケンによる敗北の強制。
これを前にした者はその意志に関わらず、ジャンケンに敗北せざるを得ない。
しかし当然ジャンケンを行える生物でなければ効果はなく、“舌先三寸”椎江イドナの生み出す飴の虫には無力。
――――“舌先三寸”椎江イドナの魔人能力は、生体の分割をトリガーにした群体生物の生産。
自動的にイドナを守護する飴の虫は強烈に甘く、強烈に凶悪である。
しかし生態を分割する以上生成には限界が存在し、生み出す得物の数に限りの無い“殺人嬢”空亜緒には不利を取る。
――――“殺人嬢”空亜緒の魔人能力は、無尽無限自由自在なる刃の生成。
思うがままに生み出される刃は、変幻自在にして豪胆なる殺技を実現する。
しかし作られる物質が握って扱う得物である以上、相手の手の形を強制できる“一八八八代目ジャック・ザ・リッパー”波佐見・ペーパーストンにはフルスペックを発揮できない。
以上、三竦み。
だが、彼女の能力は――――
◆ ◆ ◆
『貴女のご来場を、心よりお待ちしております』
――――地獄より。
そう署名された手紙と同封された地図をくしゃくしゃに丸めてポケットに突っ込み、“殺人嬢”――――空亜緒は白い息を吐いた。
夜空の下、寒気に赤らんだ鼻を撫で、ぶるりとひと震え。
目の前にあるのは、大型ショッピングモール。
この手紙が正しければ、彼女の敵である者が潜む場所。
「……洒落たことする割に、お城は風情がないじゃないか。シンデレラが幻滅するぜ」
嘯いて、シニカルな笑み。
亜緒はショッピングモールの正面……を避け、ぐるりと外周を回っていく。
バカみたいに正面から突っ込む必要は無い。
なにせ相手は用意周到な――――実に用意周到で得体のしれない、計算高い敵であるはずなのだから。
空亜緒は、殺人鬼である。
己の殺人衝動の赴くままに、人を殺して生きてきた。
そこに意味もなく、目的も無い。
ただ、殺したくなった。
それだけの理由で人を殺し、裁かれることもなくのうのうと生きてきた。
当然、殺人鬼なのだから、『お待ちしております』などとキザな招待状を送られたからって付き合ってやる必要は無いのだ。
誇り高い戦士でも、正義に燃える英雄でもない。
彼女の殺人に意味はなく、挑戦を受ける理由が無い。
招待状などという洒落たものに興味はそそられたが、こんなどう考えても罠であるものに付き合ってなどやるものか――――そう、断じることができればよかったのだが。
彼女の魔人能力は強く、また特性上証拠を残さないから、警察も彼女を捕捉できていない。
空亜緒が“殺人嬢”と呼ばれる魔人殺人鬼であることを知る者は、亜緒自身を除けばこの世界にただのひとりとして存在しない。
だというのに――――この手紙は、亜緒の自宅に送られてきた。
知っているのだ。
知られているのだ。
わざわざ『親愛なる殺人嬢へ』などと前置きされたこの手紙の送り主は、亜緒の正体を知っている。
……ことここに至り、手紙を無視するという選択肢は失われた。
亜緒の正体を知っている。住んでいる家すら知っている。
これは即ち、殺そうと思えばいつでも亜緒を殺せるし、捕まえようと思えばいつでも殺人嬢を捕まえられるということに他ならない。
生殺与奪権を、完全に握られている。
だからこそ、罠とわかっていても亜緒は招待を受けざるを得ない。
手紙の送り主を殺害し、己の身の安全を守らなくてはならない。
「殺人鬼が身の安全とか、なに言ってんだって感じだけどな……」
本当に、悪い冗談のような状況だ。
苦笑いを隠せないまま、亜緒は『無刃増』で生み出したナイフを使い、壁を伝って登っていく。
二階。窓には鍵。慌てることなく極薄の刃を生み出し、隙間から差し込んで――――解錠。
音も無く窓を開け、ショッピングモール内部への侵入を果たす。
用心深く周囲を確認。
バックヤード。休憩室か。
普段ならば残業に励む店員がいそうな店内も、ここ最近の殺人鬼多発の影響かがらんと静かに広がっている。
……もちろん、それでも残業から逃れることができない人間というのも一定数いるはずだが……
「……もう始めてんのか。気が早いねぇ」
仄かに漂う、血と死の匂い。
始まっている。
既に。
ここは、地獄だ。
油断なく、音もなく、遠慮もなく、視界が暗闇に慣れるのを待ってから、亜緒は休憩室を出る。
鼻孔をくすぐるわけではない。
いわば、殺人鬼としてのカン。
そのカンが、既にこの空間が死に支配されていることを知らせている。
さぁいつ来るか。どこから来るか。
油断はならぬ。音を立ててはならぬ。遠慮などはする必要もなく。
バックヤードを出て、灯りひとつないフロアへ――――踏み入れた瞬間、視界を横切るもの。
人影、ではない。
それは小さく、素早い。暗さに慣れた視野は、それがプードルであることを即座に看破する。
プードル――――――――なぜ?
疑問は、直後に増えた。
そのプードルはよく見れば尾を切断され、全身を軽く切り刻まれ、血を流している。
何かから逃げて来たのだ――――否、否、否。
亜緒は見た。
駆けるプードルの傷口から流れる血が、集合して凝固し――――黄色い球状の物体になったかと思えば、卵が孵化するように中から八本の足を生やした虫が生まれ出でた光景を。
生命の誕生。そう呼ぶには、あまりにもグロテスクなそれが、亜緒の目の前で繰り返し繰り返し上映される。
プードルの流した血は黄色い虫になり、虫は羽音を立てて飛び回る。
プードルはそれから逃げるように駆け、駆け回る傍から虫が生まれていく。
明らかな異常。
即ち明らかな、魔人能力による惨状。
遠くから、犬の吠え声が聞こえた。
あるいは、猫の絶叫が聞こえた。
……あるいは、男の悲鳴が聞こえた。
あちこちなのだ。
あちこちで、幾体もの生物を媒介に、これは行われているのだ。
虫はひとまず亜緒に襲い掛かることはなかったが、だからと言って警戒を解くようなことはできそうにもない。
軽く舌打ちし、亜緒は右手にあったスポーツ用品店に素早く移動した。
何もない廊下を進んでいては、いい的だ。
ランニングシューズやスポーツウェアが並ぶ棚の間を縫うように進み、そしてそれを見た。
それは成人男性であり、やはり全身をズタズタにされ、血を流す傍から虫を生産する苗床と化していた。
「ぁ……あぅぁ……ぁうえ……」
亜緒に気付いたそれは、縋るように手を……伸ばせない。
手足の健を切られている。
喘ぐ口内から覗く舌は、舌先三寸を切り落とされている。
これではまともに喋ることも、助けを求めることもできまい。
「ぁうぇ……! あぁぁぁ……!! ぁうえ、えぇ……!!」
それでも、声にならぬ声で男は叫ぶ。
助けてくれ、と心から。
亜緒はもう一度、舌打ちした。
「あー、悪いねお兄さん。同情はするが、俺も遊びで来てるわけじゃ……ああいや、遊びに来てるのか? ……まぁ、あんたと遊んでる場合じゃないんだ」
「ぁ……! ぃぅえ、ぁい、えぇ……!!」
男が叫ぶ。
――――だから、殺さなくてはならない。
亜緒は素早くナイフを生み出し、男の首に突き刺した。
「じゃあな」
それで、おしまい。
彼は死んだ。
……放っておけば彼は亜緒に助けを求めて叫び続け、ショッピングモールに潜む敵に亜緒の居場所を伝えてしまっただろう。
だから、殺した。
……こういう、必要に駆られた殺人は少し気分が悪かった。
あるいは、衝動に従う殺人よりも、遥かに。
習慣として男の小指を切り落とし、その時にふと気づく。
男の流す血から、虫が生まれていない……元々いた虫はそのまま存在するが、新たに生産がされていない。
「それが条件、ってことね……だから生かしてたわけか」
現在このショッピングモールを侵略している魔人の能力は、生きたままの生物を必要とするらしい。
多分、生き血から虫を生成するとか、そういった能力。
つまり、死体からは虫は生まれない……この虫がなにをする存在なのかはわからないが、それだけでもわかったのは朗報だろう。
見かけた動物は、できる限り殺しておくべきか。
思考を巡らせながら、スポーツ用品店を後にして隣の音楽用品店に向かい――――――――遭遇する。
「よっ」
なんて、気安い挨拶。
それはピンクと水色に塗り分けられた長髪をツインテールにした、女子高生。
……スカートを覆うように様々な凶器が並び――――その周囲には、女王に従うかのように黄金の虫が飛び回る。
亜緒が足を踏み入れた音楽洋品店で、視聴用のヘッドホンを指先で振り回しながら、棒付きキャンディを咥えながら、その殺人鬼はニタリと笑った。
「……よぉ。ゴキゲンな趣味してるじゃないか。なに聞いてたんだ?」
「ん。クリスマスソング。シーズンじゃん?」
「サンタさんは来てくれなさそうだけどな。俺にも、お前にも」
シニカルに笑みを返しながら、亜緒は間合いを測る。
奇しくも、互いに女子高生。
奇しくも、互いに殺人鬼。
この惨状を生み出したのがこの少女であることは、火を見るよりも明らかだ。
それから――――亜緒の意識は、ポケットの中の手紙に向いた。
「なんとなくだけどさ。あんた、俺に手紙くれた奴とは別人なんじゃないか?」
「手紙? あーーー…………そっちにも来てたんだ? あの『地獄より』とかなんとか書いてあったヤツ」
「やっぱりか。あんな凝った手紙書く感じには見えないもんな、あんた」
「ははっ! それ、もしかしてバカにしてんの? まー実際私もこんな洒落た手紙書けないけどさー。つーか手紙とか書かないしな」
「俺は書くぜ? 懸賞が趣味でね」
「へー。あれって当たんの?」
「からっきし」
「あっはっは! 胸張って言うことかよー!」
冗談を交わし、けれども視線は油断なく交わされる。
死線の探り合い。
猟犬と猟犬の舌なめずり。
隙を伺い、必殺を伺う構え。
ゆっくりと、亜緒は歩き出す。
距離を詰める。
周囲には無数の虫たちが飛び交っている。
まだ襲ってはこない。
今は、まだ。
「……ってことは、私らここに呼んだ奴が他にいるってことじゃんね?」
「じゃなかったら幽霊からの手紙ってことになる。もしくはどっちかが嘘つきか、だろ? そうでないことを祈るぜ」
「私ら潰し合わせようって? 腹立つわー。んな甘い話があるかっつーの。甘いのはお菓子だけで十分だよ、っつって!」
「同感だね。誰かの思惑通りにってのは、ガラじゃない」
「話わかるじゃん。じゃあ一時休戦、ボス探してブッ殺して解散って感じでおっけー?」
「だな。話が早くて助かるよ。俺も無駄な体力は使いたくないし――――」
一歩、二歩。
和やかに会話し、共通の敵を共有し、同盟を取りつけ。
「――――なっ!」
――――――――生成したナイフを、投擲する。
同時に亜緒は踏み込んだ。
無からナイフを生み出し、投擲し、生まれた隙に急所を裂く。
多くの場合、これで相手は死んだ。
単純だが、それ故に必殺である技。
幾度となく繰り返し、幾度となく殺してきた流れ。
宙を裂いて飛ぶナイフは――――瞬時に集合して障壁となった黄金の虫に阻まれる。
想定内。防御は当然。
その下を掻い潜るように、右手に握るナイフで突き込み――――これもまた、虫の障壁に阻まれる。
がきん、と硬い感触。舌打ち。
反撃が来るよりも早く、亜緒は後ろに飛び退いた。
「ひっでーの。結局攻撃してくんじゃん。嘘つきは閻魔様に舌引っこ抜かれるよ?」
「無駄な体力を使いたくないのは嘘じゃない。このまま殺されてくれれば証明できるんだが――――」
即座に、虫の群れが追撃に入る。
無数。いちいち数えるのも面倒な数。
それを次々と、生み出したナイフで迎撃する。
手応えは硬く、しかし非力な亜緒でも破壊できる程度には脆い。
まるで飴細工のよう――――問題は、やはり数か。
そして数が問題であるのなら、問題ない。
亜緒の『無刃増』はその名の通りに無尽蔵。
ナイフを振るい、あるいは体表から突き出させ、攻め立てる虫を潰していく。
「ひゅー、すげーなそれ」
「お褒めにあずかり、光栄、だねっ! 喋る暇をくれるともっと嬉しいんだが!」
「あー、ごめんごめん。それできねーんだわ。その子たち、私の命令とか聞かないんだよね。親と思ってんのか私のこと守ってくれるけど、そんだけでさー」
言っている間にも、続々と虫たちが集まってくる。
一体どれほどの虫がこのショッピングモールに存在するのか。
恐らく、想像を絶するというのが答えだろう。
徐々にあとずさり、亜緒は壁を背にした。
四方八方から襲い掛かってくる虫に対処するならば、壁を背にして方向を限定した方がいい。
変幻自在に振るわれるナイフが、着実に虫の数を減らしていく。
「しっかしバカだなオメー。攻撃してこなきゃ、殺すのは後にしてやってもよかったんだけどな」
のんびりと間延びした物言いに、亜緒は思わず苦笑した。
ああ、確かに――――冷静に考えればまずは自分たちをここに招待した何者かを始末するべきで、今ここで戦端を開く必要なんてなかった。
どうせ、殺すつもりだった。
そういう気分だった。
だったら一手で殺せれば確かに手間は無かろうが、それが不可能だと予測することは難しくはなかった。
相手は魔人で、周辺には相手の配下と思しき虫が群れをなしていた。
これで簡単に殺せると考える方が難しい。
そんなこと、誰にだってわかる。
それでも、ナイフを突きつけてしまったのは――――嗚呼、きっと、難しい理由なんかない。
「冷めたこと言うなよ――――損得で殺すなら、殺人鬼なんて呼ばれないだろ?」
ただ、それだけのこと。
なんとなく殺したかったから以上の理由なんて無いし、必要もない。
それでいいのだ。それがいいのだ。
それでこそ、この身は殺人嬢。
意味もなく人を殺す、悪党だ。
「……ま、それもそっか。で、オメーのスタミナはどんぐらいもつの?」
「あんたのかわいいペットがいなくなるまで、かな!」
果たして、勝負の天秤はそこにあった。
刃は無尽蔵でも、担い手の体力はそうは行かない。
その体力と集中が、どこまで持続するか。どこで切れるか。
亜緒が音を上げるのが先か、虫の品切れが先か。
虫自体はさほど強いわけでもないが、続々と集まってくるその総数がどれほどか。
今のところ本体は様子見に徹しているが、どこかのタイミングで動き出すタイミングは十分にある。
両の手でナイフを握りしめ、空亜緒はシニカルに笑う。
冗談じゃねーぞと悪態をつきながら、いずれかの死に向けて刃を振るう。
「私は“舌先三寸”。とか呼ばれてる。そっちは?」
「ハッ……笑うなよ? 人呼んで“殺人嬢”さ」
「あっはっは! そりゃスゲー名前だな! 笑うなってのは無理っしょ!」
名乗り――――――――――――そして、水を差すように。
『あー、あー、テス、テス。……ようこそおいでくださいました、親愛なる殺人鬼のお二方』
館内放送。
スピーカーから流れる、女の声。
『ごきげんよう。お初にお目に……お目にはかかってないな。ともあれ、そう――――私が“一八八八代目ジャック・ザ・リッパー”だ』
地獄より――――かつて“初代”も文面に用いたというその二単語を、最も使うに相応しい異名。
連綿と代を重ねてきた、最も恐るべき殺人鬼。
誰もがその名を知っている。
知っているからこそ、亜緒の犯行を知る者はその名を重ね合わせて呼んだ。
ロンドンの切り裂き魔、娼婦殺し、ホワイト・チャペルの悪夢、永遠の正体不明。
切り裂きジャック――――その名が、淡々と告げられる。
『早速お二人で始めているみたいだけれど、蚊帳の外は少し寂しくてね。私も一枚噛ませてもらおうかな、と』
放送中も、虫たちはお構いなしに襲い掛かってくる。
それを迎撃しながら、亜緒は放送に耳を傾けた。
自分たちをこのショッピングモールに呼び寄せた犯人。
亜緒の秘密を握る者。
即ち、殺さなくてはならない者。
『というわけで――――じゃん』
なんでもないように、それは言葉を発する。
どこで放送をしている?
場所を指定された時点で、内装はある程度調べてある。
『けん』
虫を切り裂く。
砕けた虫の破片が足元にうず高く積もっている。
本体の意識がどこに向こうと勝手に襲い掛かってくるのだから、実際攻撃したのは失敗だったと――――ジャンケン?
聞こえた台詞に疑問を浮かべ、
『チョキっ!』
亜緒の右手がパーに開き、ナイフを取り落とした。
「――――――――ッ!?」
なんらかの魔人能力。
ナイフは再び生成できる。
だが、今放とうとしていた斬撃は空しく宙を斬り――――虫を取り逃がした。
つまり、すり抜ける。
ナイフの生成。
間に合わない。飛来する虫。肩。貫き――――鋭い痛み。
「ぐぅっ……!」
深い負傷ではない。かすり傷と言っていい。
即座に肩に食らいついた虫を払い落とす。
痛みが走る。なぜ今自分の手は勝手に開いた?
見れば、舌先三寸もまた己の手をまじまじと見ている。あちらも勝手に利き手が平手に開いたらしい。
ジャンケンに勝つ能力……あるいは遊びに勝つ能力?
肉体を自在に操作する能力、ならわざわざこんなチャチなことはしないだろう。
なにか条件があるか、限定的か、どちらかなのは間違いない。
思考し、判断し、亜緒は駆け出した。
「あっ、おい!」
舌先三寸が叫んだ。関係は無かった。
また同じような妨害をされても面倒だし――――亜緒はそもそも、あちらを殺しに来たのだ。
地面を蹴る瞬間、足の裏から刃を生み出す。
足裏から伸びた刃は亜緒の体を押し上げ、その反動に乗って加速する。
脚にバネでもついてるみたいに、加速した亜緒が跳びはねる。バネ足、と亜緒は呼んでいる。
吹き抜けに飛び出し、壁にナイフを突き立てて猿の如く駆けあがる。
三階をひと足跳びに、四階まで。
館内放送――――恐らく敵のいる位置は、迷子センター。ホビー売り場のある四階だ。
職員側の放送設備は一階にあり、戦いとは基本的に上を取った方が有利。
となれば四階の迷子センター、迷子呼び出し用の放送室にいる可能性が高い。
移動の間も襲い来る虫を切り払い、道中見かけた“虫を生み出しながら駆け回る小動物”にナイフを投げて始末する。
死によって虫の生産が止まることがわかっているのだから、数を減らしておくに越したことはない。
目につく全てを切り裂きながら、駆け、駆け、駆け――――見えた!
「おっじゃましまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁす!!!!!」
駆ける勢いそのまま、足から伸ばした分厚い刃を跳び蹴りの構えで放送室の扉に突き立て、刺し貫く。
非力と言えど、魔人は魔人。
勢いと質量を乗せた一撃は、扉を破壊して余りある。
がぎゃんと派手な音を立てて吹き飛ばされた扉の向こう。
狭い放送室に――――人影は、無い。
無人。
マイクの前にスマートフォン。
音声入力用のスイッチは――――テープで固定されている。押しっぱなし。
椅子の上に物体。
「――――――――――――――――――しまっ」
爆発。
暗転。
◆ ◆ ◆
あるいは、正直に白状するならば。
波佐見・ペーパーストンは、いささか興奮していた。
嗚呼、なにせ――――本当に、久しぶりだったのだ。
三年ぶりだ。三年ぶりなのだ。
魔人を返り討ちにしたことは何度もあったが――――自分から魔人を殺しに行くなんて、実に三年ぶりのことだ。
三年前、父と母を殺害して名を受け継いで以来のことだ。
だから波佐見・ペーパーストンはいささか興奮していたし……興奮しすぎていたのかもしれないと、今になって彼女は思う。
情報を集めて、招待状まで作って、罠を張って……冷静に考えれば、ちょっと恥ずかしいぐらいだ。修学旅行に浮かれる学生もかくやの興奮ぶりである。
けど、それでよかったのだとも思う。
手を抜いてするべきことではない。
人を殺すということは――――とりわけ、魔人を殺すということは。
普段は自分が迎え撃つ側だから、なおさらにそう思う。
だから『献身的な新聞社』で入念に情報を調べた。
『献身的な新聞社』の誌面に乗る条件は、“所有者が求める情報を持つ人間が発信の意図を持っていること”であり――――そうである以上、殺人鬼の情報を得るのは容易い。
なぜなら、被害者たちが雄弁に語るからだ。
朝の四時から夕方四時。
夕方四時から朝の四時。
この期間に殺された被害者たちは、誰もが思う。
『この殺人鬼を、誰かが裁いてくれ』
その祈りを、この新聞は拾い上げる。
加害者の情報をつぶさに、語れる限りに掲載する。
しかるに、波佐見自身の論理的思考力を掛け合わせ――――既に彼女は、この東京で活動する殺人鬼の情報の大半を手中に収めていた。
能力を解き明かし、人物を読み明かし、活動範囲を照らし合わせた。
誌面だけではわからない部分も、断片的な犯行記録などから推理することは十分に可能であった。
片手間で暴いた密売ルートから拝借した爆弾は、見事に“殺人嬢”空亜緒を罠にかけた。
殺人計画は順調に進んでいる。
現代を生きる霧の街の恐怖は、上機嫌にほくそ笑む。
ほくそ笑んで――――姿を現した。
「やぁ――――息せき切って、どこにご用事かな?」
止まったエスカレーターを駆けあがり、三階までやってきた殺人鬼――――“舌先三寸”椎江イドナの目の前に。
なんてこともないように、たまたま通りがかったみたいに、値札のついたハンチングを目深にかぶり、値札のついたステッキで床を叩いて、現れる。
「……騒音被害で苦情でもだそっかなーってね。爆弾はうるせーって」
「そりゃ失敬。派手な催しはお好みじゃなかったか」
イドナの周囲には、いくらか数を減らしつつも『ペイン飴』の飴虫たちが侍っている。
今はまだ、波佐見を敵とは認識していない。今は、まだ。
「で? オメーが私をここに呼んだジャックさん?」
「いかにも。一八八八代目の、ね。招待を受けてくれてありがとう、椎江イドナさん」
「……どこで知ったのか知らねーけど、あんま気持ちいいもんじゃないね、こーいうの」
「一方的に情報を握られていることが?」
「逆にそれが楽しいってことないっしょ」
「まあ、そうだろうとも。人のプロフィールを詮索したがるのは、性分でね。探偵だった母の影響かな」
イドナはニタニタと笑い、波佐見も穏やかに笑った。
濃密な殺気を隠しもせず、そうした。
「人間の“造形”というのは、とても興味深いと思わないかい? どうやって生まれ、どのように生活し、なにを考えていたのか……メスを入れて“解体”し、“推理”するだけの価値がある。私はそう思うよ」
「あ、そ。私はどーでもいいわ。あま~いお菓子があればそれで……」
「――――――――――――――――春原ユリは、甘かったかい?」
「…………………………へぇ」
一瞬、イドナの笑みが消えた。
ニタニタと笑うのは、波佐見の番だった。
波佐見は続けた。楽しげに。
「キミが被害者に語り聞かせるお決まりの文句として、春原ユリ氏との関係についての話があるね。それは当時交際関係にあった彼女がきっかけで己の殺人癖及び魔人能力に覚醒した話であったり、あるいは既に魔人になっていたキミがどれほど辛抱して彼女と交際していたかの話であったり、話の大筋が毎度違うものだからいくらかは虚言と断じていいのだろうけれど――――」
イドナが再度笑った。嗤った。
踏み出す。
素早く腰に提げた金槌を手に取り、波佐見の頭部目がけて振り下ろす。
「おっと」
波佐見はステッキのひと振りでそれを弾き、生まれた隙に返しの一撃――――これを、飴虫たちが集合して障壁となって防御する。
「話の途中なんだけどなぁ」
「ちんたら話してたら賞味期限切れちゃいそうじゃん、ねっ!」
再度金槌を振り下ろす。
これも弾かれ、しかし反撃は飴虫が防ぐ。
飴虫は波佐見を敵だと認識した。
こうなるともう、イドナは防御を気にする必要が無い。
飴虫たちはイドナを自動的に守り、自動的に攻撃する。
それに紛れてイドナ本人が攻撃し、ダメージが入ればさらに虫が増える。
これが、“舌先三寸”椎江イドナの本来の戦闘スタイル。
先ほどは様子見に徹していたが、飴虫がいる限りイドナは無敵なのだ。
「ぽんっ」
波佐見が片手でチョキを繰り出した。
イドナの右手が勝手に開き、金槌を取り落とす。
バールを握る。
「ぽんっ」
また落とす。
ディッシャー。
「ぽんっ」
また落とす。
「あぁぁぁもう! なんだよそれ! ジャンケンで勝つ能力!?」
「ジャンケンで負かす能力さ。ほっ」
言いながらも、彼女の振るうステッキは正確に飴虫を打ち落としている。
戦闘型魔人を相手取るには、飴虫はいささか非力なのだ。
そして長期戦になれば、やがて弾が切れる。
イドナは内心で舌打ちしながら、仕方なく徒手格闘に移行した。
「ユリかぁ! ユリは甘かったなぁ~! キラキラ宝石みたいな目ェしてて、指の先まで脳みそ溶けるぐらいに甘くてさぁ!」
「パターンC。今回は春原ユリを食べたルートか。続けて?」
「オメー、性格悪いって言われねぇ?」
「よく言われる。実に遺憾だよ」
拳を払い、蹴りを払い、虫を払い。
そのステッキ捌きは実に流麗であり――――それは彼女が武術を納め、その上で実戦で磨き上げてきたのだということを如実に語っていた。
手数の問題で全てを打ち落とせているわけではないが、ダメージは最小限に抑えられている。
「いや実際――――キミのその話は実に興味深く思っているんだ。まずもって、春原ユリは実在したのか?」
「あっは、バレた? もちろんぜーんぶ嘘っぱちで」
「実在はしていたし、キミの同級生だったことも裏は取れているんだけどね」
「やっぱ性格悪ィよオメー!」
イドナが織り交ぜるように腰のナイフを突き出し、波佐見は軽く身をよじった後に刃を繰り出す。ナイフを落とす。
落ちたナイフを波佐見が蹴り上げた。飴虫がこれを遮断する。
波佐見はステップで距離を空けた。
虫が殺到し、またこれを打ち払う。
「確かなのは、キミが春原ユリに好意を抱いていたこと。これはどのパターンでも共通する部分だ。大筋が違うからこそ、共通する部分には意味がある」
やめろ。
賢らに私を解体するな。
そう言わんばかりに、あるいは口よりも雄弁に、イドナの瞳に苛立ちの色が混じる。
「だが、逆はどうだろう? ――――――――春原ユリは、キミに好意を抱いていたのか?」
イドナの笑顔が消える。
また嗤う。笑顔を張り直す。
さっきから、何度も何度もそうしている。努めて意識して嗤っている。
「そんなのは」
「これも裏が取れていてね。キミたちの同級生を当たってみたんだが……聞けば彼女、男性とお付き合いしていたそうじゃないか」
「うるせーなぁ!!!!!」
飴虫の数が徐々に減ってきている。
あらかじめペットショップで切り刻んで放流しておいた動物たちや、居合わせた従業員や警備員たちが飴虫を供給してくれているはずだが……死んだか? すぐには死なないように加減はしたはず。
「キミが春原ユリと交際していた、というのはキミの語りにおいて常に共通する点だ。春原ユリではなく、その美しい瞳に惚れ込んでいたというのもそうだね。これはむしろ、キミが春原ユリへ抱いていた執着の裏返しとみるべきだろう。とすると、春原ユリ殺人事件の真相は――――」
「黙れっつってんだよ、テメェ!!!!」
イドナが、もうひと振りのナイフを手に取った。
波佐見にジャンケンを挑まれて取り落とす、よりも早く切る。
切る。
イドナ自身の手首を、すっぱりと。
「いっ、」
ナイフは切れ味鋭く、手首を完全に切り離し――――鮮血と左手が、波佐見へと飛んでいく。
「ってぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇええええええええ!!!!!」
哄笑。
嘲笑。
狂笑。
鮮血と手は、イドナの魔人能力『ペイン飴』によって即座に飴虫へと変化する。
問題は、範囲と質量。
広範囲にブチ撒けられたそれは、この一瞬に限ればこれまでの波状攻撃の比ではない。
そして同時に左手という巨大なパーツは、甲殻類にも似た奇怪な飴虫に変じていた。
大きく、強い。
それだけ攻撃性も強い、と判断するのが妥当。
一瞬の思考。
ステッキの一撃が、左手虫を叩き落とし――――代償に、鮮血虫の大群が波佐見に襲い掛かる。
この刹那、ナイフを突き込めば勝敗は決する。
溢れ出るアドレナリンで激痛を無視し、椎江イドナは踏み出した。
一歩、二歩、距離を詰める。
必殺。期して。
残り七歩、六歩、距離を詰める。
波佐見は飴虫の浸食から体を庇っていて、対応できていない。
必勝。確信。
踏み込んで――――――――――――転んだ。
「――――――――は」
転んだ。
何かに引っかかった。
ワイヤー?
足元。
いつの間に?
最初から?
暗くて見えなかった。
意識が波佐見に集中していた。
立たなくては。
顔を上げて――――波佐見が笑っている。嗤っている。
気配。
上?
「ちょいと、シャクだが」
見上げる。
全身に火傷を負った、空亜緒。
生きていた。
生き延びていた。
あの爆発に、耐えていた。
四階から、飛び降りるように。真っ直ぐに。
振り上げる。
腕――――生成された、巨大な刃。
「冥土の土産だ。地獄より――――巨人の小刀」
大きく、分厚く。
振り下ろされる。
それしかできない。シンプルな質量兵器。
この戦場において、最も破壊力に優れる切り札。
自動的に、飴虫たちがカバーに入る。
砕かれる。
砕かれる傍から虫が集合していく。
傘のように、虫の障壁がイドナの頭上にできていく。
耐えられない。
耐えきれるか?
全ての虫が集まってくる。
時は稼げる。
この隙に、起き上がって避ければいい。
「じゃん」
左手、は無い。
「けん」
右手で地面に手をついて、右足で踏み出すように、
「ぽん!」
足が、
肩幅程度の広さに開いて、動かない。
顔を上げる。
波佐見。笑顔。
彼女の足は、前後に交差して――――
「――――キミの通っていた小学校で足ジャンケンが行われていたのは、調査済みだよ」
足ジャンケン。
の、パー。
「……はっ」
渇いた笑いが漏れた。
飴虫は、まだ耐えている。
とにかく転がってでも、この場を離れて、
「――――――――――――四枚刃だ、持ってきなッ!」
追加で突き立てられた三本の巨人の小刀が飴虫の傘を破壊して、イドナを解体した。
「あぁ――――――――」
胸から上、腕、腰、脚。
バラバラになったイドナの肉体が宙を舞い――――ポケットから、透明な袋が零れた。
宝石みたいな飴玉が入った、透明な袋。
手を伸ばす。
ことがもう、イドナにはできなくて。
飴玉とイドナの体が、地面に叩きつけられる。
落ちた衝撃で、飴玉が砕けた。
嗚呼、嗚呼、嗚呼――――
――――――――――――どれぐらい、甘かったのかな。
声ももう、出なかった。
◆ ◆ ◆
「……どこまであんたの計画の内なんだ?」
着地して、空亜緒は敵を睨んだ。
足元に転がる椎江イドナだったものを一瞥して、それっきり。
それ以上の注意を払う余裕は、無い。
「この女の能力は自動的だ。先に始末しないことには後が無かった。だからノってやったわけだが……なぁ、どこまで見通してたんだい?」
自覚があった。
この女の掌の上だという、自覚。
この女は今、亜緒が巨大な刃を盾に爆発を凌ぐことまで読み切っていた。
波佐見・ペーパーストンは――――当代ジャック・ザ・リッパーは、クッと口角を持ち上げた。
「全部」
……そう言い切られては、亜緒も苦笑するほかない。
全部、と言うからには全部なのだろう。
波佐見は全身を虫に食いつかれていたが、それも僅かな時間のこと。
かすり傷が全身にあるというだけで、まったくもって軽傷と言っていい。
翻って亜緒は、身の丈ほどの刃を盾にしたとはいえ爆風をもろに浴びている。
飛んできた瓦礫による負傷もあり、ベストコンディションとはとても言い難い。
不確定要素であるイドナは死に、飴虫は血と肉辺に戻って辺りに散らばっている。
順当に戦えば――――結果は見えていた。
「ああ、椎江イドナがペットショップの動物をタネに能力を使うことはわかっていたから、ペットショップの餌に遅効性の毒を混ぜてみたりもしたが……これはいらなかったかもしれないな」
「……ちなみに、目的は?」
「東京にいる全ての殺人鬼を殺して、私こそが最強の殺人鬼だと証明してみようかな、と」
「は……そいつは、ゴキゲンだね」
それでも、亜緒は構えた。
お互いに手の内はある程度割れている。
手から直接ナイフを生やす。
これでは投擲はできないが、手の形を強制的に変えさせる波佐見の前で手に握るわけにもいかない。
まず警戒すべきは、足。
先ほど見せた足ジャンケン。相手は自在に移動を制限できるということ。
それが接近戦において、どれほどのアドバンテージになるか……ふざけた能力だ。笑えて来た。
「じゃあ、俺があんたを殺して最強だ。一八八九代目をいただくよ、ジャック」
「それは不可能だよ、ジェーン。キミでは私には勝てない」
「証明して見せるさ。名探偵みたいにね!」
それでも、亜緒は駆け出した。
バネ足で加速して、ひと足跳びに懐へ。
右のナイフを振るう。ステッキで防がれる。
左。軽くかわされた。
ラッシュ、ラッシュ、攻め立てる。
「ぽん」
亜緒の足が急に閉じた。
足ジャンケンのグー。波佐見の足は肩幅に。
舌打ち。
転倒しそうになるのを、脛から刃を伸ばしてつっかえにして――――腹部に、拳が叩き込まれる。
「か、っは……!」
「ほら。キミは……キミも、だね。椎江イドナも空亜緒も、優れて強い魔人であることは認めよう。能力だけを比較するならば、私が一番弱いだろうし」
もんどりうって転がって、口の端から零れる血を手で拭う。
内臓をやられたか。重い一撃。
「――――でも、この場で一番強いのは私だった。なぜだかわかるかい?」
「……さぁて。どうにも学がないもんで、ねっ!」
ここで、亜緒は投擲を選択する。
ただの投擲ではない。それでは意味がない。
手首とナイフの柄を結ぶように、鋼線を巻きつけた上での投擲。
これなら手の形は関係ない。鋭く刃が宙を裂き、
「初歩的なことだよ」
それを、鋼線を巻き取るようにステッキで受けられる。
ステッキに巻き付く鋼線。マズい。
引き寄せられる前に、手首から刃を生み出して鋼線を切断した。
クス、と波佐見が笑う。
「経験と純度――――――――それだけが、キミと私との差だ」
「はっ、はっ……また、煙に巻くようなこと、言ってくれる」
「なるほどキミの体術も、ナイフ捌きも素晴らしい。常人では相手にならないだろうし、並の魔人でも圧倒できるだろう」
波佐見は余裕たっぷりに、ステッキに巻き付いた鋼糸とナイフを指先で弄んだ。
「二十年だ。私は二十年、最強の魔人殺人鬼である父を殺すために鍛錬を積んできた。人間を殺すために最適化されたキミの技術とは、前提が違うんだよ」
「……それじゃあ、純度ってのは?」
「だってキミ――――――――罪悪感を覚えているだろう?」
当然のことを告げるように、小首を傾げて。
思わず、亜緒はポケットの上から小指を撫でた。
自分のものでない、小指を。
「キミが被害者の小指を切断して持ち帰っているのは、負い目を感じているからだ。殺人衝動のままに人を殺してはいるが、その罪深さとどうしようもなさを自覚してもいる。どこかで枷をハメているんだよ、キミは」
「……見透かすねぇ。性格悪いって人に言われないか?」
「今日は三度目だ。実に遺憾だよ。まぁつまり――――」
嗚呼、確かに――――空亜緒は、己の殺人衝動に負い目を感じている。
自分の無意味な趣味趣向で人の人生を終わらせることを、罪深く思っている。
罪深く思っていて、けれど気にしてはいない。
耐えられなければ自首なり自殺なりするだけの話だ。
罪深い殺人鬼であることを自覚し、受け入れている――――それが、どうしたというのか?
「――――キミに恐怖の名は相応しくないということさ、ジェーン。さぁ立つといい。決着をつけよう」
「……その名前、他称なんだけどな」
ゆっくりと、空亜緒は――――殺人嬢は立ち上がった。
よろよろと、けれどしっかりと。
ナイフを構える。
もう無理だ、と冷静な部分が告げている。
それでも、と冷静でない部分が主張した。
「……もうちょっと、付き合えよ」
向かい合う。
「もちろん。喜んで」
いざ――――――――先手を取ったのは、波佐見・ペーパーストン。
鋼線の巻き付いたステッキを、今度は逆に投擲する。
舌打ち。ナイフで迎撃。重い。
引き戻し、再度投擲。紙一重で避けて踏み込む。
波佐見が鋼線を手放した。
徒手――――否、かぶっていたハンチング帽を投げる。
亜緒の顔にめがけて。目くらまし。
どうする? とっさの判断。
「ぽん!」
声。
しまった。ジャンケン。あちらが早い。
どこだ?
どこの形を強制された?
自分の体に意識を向ける。
右手。正常。
左手。正常。
右足。正常。
左足。正常。
「しまっ」
「声だけさ」
囁く距離。
波佐見が蹴りの構えを取った。
狙いは胸部――――反射的に、亜緒が胸部に刃を多重生成する。
刃の鎧。その上に剣山。
それを――――――――――――すべて砕いて、バリツの蹴りが亜緒を穿つ。
「っ、は」
吐血。
純粋な体術と、身体能力と……消耗した状態で、勝てる相手ではなかった。
どう、と亜緒が倒れ伏す。
再度吐血。
完全に内臓をやられている。
もう、死ぬだろう。
こひゅう、こひゅうと息が漏れる。
それがおかしくて、血を吐きながら苦笑した。
「………………なぁ、ジャックさんよ」
「ん?」
近寄る波佐見の手には、キャンプ用品店から拝借してきたらしきサバイバルナイフが握られていた。
殺すために、近寄っている。
……死ぬ前に、聞きたいことがあった。
「なんで――――俺とあいつ、だったんだ?」
クス、と。
波佐見・ペーパーストンは、穏やかに微笑んだ。
「初歩的な質問だね、ジェーン」
出来の悪い生徒に諭すように、ごく自然に。
「キミたちの家が近かったからだよ。まとめて始末する方が、手間が無いだろう?」
本当に、なんてことのないようにそう告げて。
亜緒はそれを聞いて苦笑して――――ふと、窓の外を見た。
外には綺麗な月が浮かんでいた。
まぁ、それでいいかなと思った。
◆ ◆ ◆
――――“一八八八代目ジャック・ザ・リッパー”波佐見・ペーパーストンの魔人能力は、ジャンケンによる敗北の強制。
これを前にした者はその意志に関わらず、ジャンケンに敗北せざるを得ない。
しかし当然ジャンケンを行える生物でなければ効果はなく、“舌先三寸”椎江イドナの生み出す飴の虫には無力。
――――“舌先三寸”椎江イドナの魔人能力は、生体の分割をトリガーにした群体生物の生産。
自動的にイドナを守護する飴の虫は強烈に甘く、強烈に凶悪である。
しかし生態を分割する以上生成には限界が存在し、生み出す得物の数に限りの無い“殺人嬢”空亜緒には不利を取る。
――――“殺人嬢”空亜緒の魔人能力は、無尽無限自由自在なる刃の生成。
思うがままに生み出される刃は、変幻自在にして豪胆なる殺技を実現する。
しかし作られる物質が握って扱う得物である以上、相手の手の形を強制できる“一八八八代目ジャック・ザ・リッパー”波佐見・ペーパーストンにはフルスペックを発揮できない。
以上、三竦み。
だが、彼女の能力は――――
「――――――――以て、『不竦』。私の勝ちだ」
……悪夢はまだ、終わらない。