■◆■

死は、”孤独”である。
それは決して、誰とも交わることがない。死後に活動を行うことで他人に影響を及ぼすことはできないし、他人から影響を受けることもない。幽霊、というものがよしんば存在したとして、それは精神的な活動の器を持っていることには違いないし、些細なものでも物理的な干渉を引き起こしたのならば、それは肉体という部位が麻痺、停止したに過ぎない。人々が恐れつつも待ち受けている死は、決して活動力を失っていないその時のことではない。

死は、”不平等”である。
概してそれを語ろうとすれば肉体的活動と精神的活動のことを示してそう呼ぶことはできる。それらを観察して死は平等と語る者もいよう。しかし、死の際の苦しみ、死が訪れる速度は平等とは言い難い。生と同じように、時にはそれ以上に異なる様相があるのが死だ。

死は、”無為”である。
生前のあらゆる積み重ね、能力も資産も、それに至った後で運用することはできない。死の瞬間というものは生きている他の人々に影響を与えるが、死んだ後には働きかけることが不可能である。死んでいるということには何の意味もなく、生者が気にかけるのは死んだ(当の瞬間)が現に存在することと、己が生きているという事実でしかない。

死は、”不意”である。
自殺を含んだ殺害を目的とした行為は可能である。しかし、それですらも絶対に成功するとは限らない。計画が中断されることもあれば、計画そのものに不備があるということも珍しくはない。高い所から落ちて「今から私は死ぬのだ」と考えても、それは覚悟を決めているに過ぎず、死という行為に及んでいるとは決して言われない。落下した彼が運よく命を拾ったとしても、死はまた予想の外で待ち構えていることに違いはない。

死は、”忘失”である。
決して向きを変えることのできない砂時計のように、不可逆のその時は迫る。そして、一旦その時を迎えたならば。生き続けていた間のように、他人に覚えられることすら叶わない。伝聞、物証、そのいずれも、当人がいなくなれば無際限な解釈を許し、真偽の証明も不可能となる。死のその時までにも、意識せず手放し、忘れ続けなくてはいけない。死者は生者を覚えず、無論死者自身を覚えることもない。生者は死者を覚えることができない。

■◆■

渋谷という地名の由来には諸説があるが、その中にこのようなものがある。昔、この地を流れていた川の水が鉄分を多く含んでおり、渋色をしていた。この川が後に渋谷川と呼ばれるようになり、流域の周辺を渋谷と呼ぶようになったのだと。かつて渋谷川と呼ばれたその川は、工事によって形を変え、今や暗渠と化した。
しかしながら、変わらずそれは流れ続けている。地上で流された血液がアスファルトに染み込み、赤黒い鉄を川に溶かしている。涸れることなく、むしろ勢いを増しさえしている。地上の彩りが時代と共に移り変わろうと、変わらない薄暗さがここにはある。
「ヂュウ」とネズミが鳴いた。
それは、ただ一匹の獣ではなく、群の喉を震わせる声だった。

■忘失■

あの惨劇から1カ月と少し、この街も少しは活気を取り戻しているものかと考えていたが、生気の無い人々が肩をぶつけながら歩いているばかりである。2019年10月28日未明から10月31日まで続いたハロウィーンの悲劇は記憶に新しい。大勢の死傷者と逮捕者を東京都心近くで数日間にわたって出し続けたというこの事件は、現在の殺人鬼騒動と全く関りがないとは言えない。このような異例と言われる事件が短期間で繰り返され、その果てに殺人鬼達の登場がある。
それだから、この混雑の中でも皆が考えている。どうせまた、何かが起きる。すぐ隣を歩いている奴が殺人鬼かもしれない。殺される前に殺すべきだとか、取り押さえれば名声を得られるだとか云々。その通り、殺人鬼ならここにいる。凶器も手元にあるのだと、つい口が動きそうになる。

どうにも気分が悪いので、稚切バドーは大通りを外れた。不安が不安を呼び、敵意が敵意を呼ぶ。時刻はまだ4時30分を少しすぎた頃で、空の色は暮れ始めてはいるが、まだ夜と言われるような刻限ではない。大悲川に渡された資料によれば、この周辺には通称ガールズトークと呼称される殺人鬼が潜んでいる。他にも有名所の殺人鬼が多く出没していた渋谷区域であったが、ガールズトークの活動を受け、他殺人鬼は自粛を決めるようになった。自粛、それは活動中止を意味せず、より隠密に殺人を犯すようになっただけだ。失踪者、死体発見の頻度は変わっておらず、脅威に増減は無い。
バドーが引き受けることになったのは、殺人鬼達の発見と無力化である。しかし、戦闘に特化した魔人ならばいざ知らず、『ドッペルぬらりひょん』に過ぎない彼女に何ができるだろう。魔人能力を活かして戦えば基本的にどのような相手に対しても負けないことはできるが、それは逃げ切れる、或いは殺すことができる、ということだ。前者を達成した所で何もしていないに等しく、後者を行ってしまえば今度は自身が殺人鬼となるだけではないか。司法の側に大悲川がいるのであるから、一度犯罪者の烙印を押されたならば追われ続けることになるのは必定である。
だから、このように考えた。出会った殺人鬼に、殺人行為を一切止めさせる。これこそが彼女の取る道であるのだと。『象撫(アペラント・メ・パトレム)』、稚切バドーが修める魔人能力である。これは知覚した相手の記憶、知識、信念、感覚、世界観等をひっくるめた自己認識に干渉することができる能力であるが、バドーが特定の対象を認識してしまえば、彼女の抱く印象をその対象に押し付けてしまうことができる。もしも、昼の間に殺人鬼が外出して彷徨い歩いている所を発見することができたならば、その昼の間の人格を夜にも適用させてしまえば良い。
我ながらナイスアイディアだと考えて午前から渋谷へ向かったバドーであるが、自らの読みの甘さというものを思い知らされた。サバクトビバッタの群生相と同じように、都会人は荒んでいた。凄惨な事件が起きた跡地というものはもう少し喪に服していたり、厳粛な態度でいたりするものだと予想していたものの、そんなことは無かった。もしも殺人鬼が往来を一般人と同様のメンタルに作り替えても、いつ爆発するものかは知れない。
それでも一応何かの手を打つつもりで歩き回っていたが、既に夕方になってしまった。もうじき夜が来る。殺人鬼が来る。
自動販売機で缶のお汁粉を買い、どこか腰を掛けられる場所を探すことにした。人が溢れる場所で目隠しを外すことは滅多に無いというのに、収穫も無くて疲れている。駅前に行けば休める所があるはずなので、そこへ向かうことにした。その時に、彼女の名前を知っている人物が周囲にいることを、魔人能力に由来した超感覚が伝えていた。
その人物は、バドーの姿を右斜め前方に捉え、「稚切バドー」「ドッペルぬらりひょん」を連想していた。「稚切バドー」は「知り合い」と認定され、更に「ドーちゃん」などという呼称までが彼女に対する認識として付け加えられた。
バドーは、己を見つめているその人物を、見つめ返した。

■不意■

 黒色のセダンの後部ドアを開けると、暖房の優しい風とふわふわのシートが彼女達を迎え入れた。「友人」を先に席に座らせると、彼女もその後に車に乗り込み、ドアを閉めさせた。シートベルトを締め、寡黙な運転手が車を発進させると、「友人」が口を開いた。

「どうして私のことを覚えているのですか?」

「友人」、稚切バドーは困惑している様子だ。以前に会ったのは10年前だ。忘れられていてもおかしくないが、この娘は覚えていてくれたらしい。たった3日間の友人に過ぎなかった関係の、その相手を。
クスリと笑ってその目を見返してやる。

「なに、私だって魔人になったからさ」

彼女、西条なつみは得意気に言って見せた。それがバドーの聞きたい答えであるとは思っていないが、なつみは既に「友人」の能力について聞き及んでいたし、勝手に頭の中を覗き込まれるということも承知していた。構わない。彼女の『バイ・クイーン』は既に西条なつみの洞察力と情報処理能力を強化している。能力対象の急激な認識能力の上昇と変化に『象撫』が対応するまでにはタイムラグがあることは、バドーを思い出すことができたという事実で明確になっている。それならば強化した洞察力が警戒の必要性をつげていない以上は気にする必要は無い。

「所で君からも今は何をしてるのか聞かせてくれないかな? いや、どうせ今も妖怪みたいなことをしているのは分かっているけども、どうして渋谷を歩き回っていたのか、とかさ。君と違って私には感情や記憶を読み取る能力なんてないから、話してもらわないと分からないよ」
「はい、話します。でもその前に一つ、直接なつみさん、なっちゃんの口から聞きたいことがあるんです」
「何だい? 気になることがあるなら言ってくれ。ふふ、なっちゃん、懐かしいあだ名だね」
「あなたはラブ・ファントムなんですか?」
「名乗った覚えはないけどまあ、多分私の事なんだろうね。人を閉じ込めたり食べたりしてるのは事実だよ」
「……分かりました、今はもう聞きません。私のことを話します」

 バドーが言うことには、彼女は警察の非公式的な補佐をさせられているということ、そしてラブ・ファントムは殺人鬼としてマークされてはいないということだった。どちらかというと都市伝説扱いだそうだ。「ドッペルぬらりひょんとお揃いですね」と言われても嬉しいとか恥ずかしいとか当然そういったものはない。

「さっきも言ったけれど私も魔人になったからさ、ちょっとはドーちゃんの役に立てるよ」
「見返りにラブ・ファントムとしての標的探しを手伝って欲しいと」

 口に出さずとも思いが伝わる、というのはしてみると恋人のことをポエミィに綴っているかのようだが、それが実際に起きてみると、快適であることに気が付いた。稚切バドーは風聞や言説自体に惑わされることも時にはあるが、面と向かった相手に対しては警戒することなく受け止めようとしてくれる。なつみは嬉しかった。人を殺す、人を食べる、どちらか一つ取っただけでも、普通の人間は拒絶する。行為にどのような理由があろうと、犯したのがどのような人間であろうとお構いなく、理解そのものを拒む。だからこそ、絶対にこの禁忌を漏洩させる訳には行かないのだが、今は安心することができた。ともすれば、『象撫』の対象になることができない大悲川という男は、ある意味では不幸なのかもしれないとすら感じる。
 セダンは駐車場で停車した。街灯が点され、人の姿は殆どなくなっている。他の車も路上から次々と姿を消していく。殺人鬼の時間が始まったのだ。

「お嬢様、どうかご無事で」
「うん、ありがとう」

 運転手がドアを開けて2人を送り出した。なつみは彼に小さく手を振り、バドーを先導するようにした。

「今の運転手見たでしょ、前職が何か分かるかな?」
「ええ、はい見ましたけども、暗かったのと車の乗り降りの時しか姿を見ていないので彼のことはよく分かりませんでした」
「やっぱり? 実はあれがラブ・ファントムの名付け主よ。分からなかっただろ? 私だって浮浪罪程度で殺しちゃうようなことはしたくないからさ。住処と仕事を与えて黙ってもらってる。ドーちゃんがそれに気が付かなかったのは多分、彼の運転手としての経験年数を2倍にしたからだね」
「ちゃんと向き合っていれば分かった筈ですよ?」
「それは期待できるね。この先には凶悪な奴が正体を隠してるからさ」

 2人が歩いていく先には、工事中と表示された看板が立てられている。看板の先には、大きく地面を穿ち抜く穴とその周辺、双翅類ならば手を擦り唾液も止まらなくなるような芳醇な香り漂うゴミ袋(ごちそう)。端が破れて中身が零れ出しているものもあった。

「冬場で外に放置されていてこれだけしっかり腐ってるのを見ると、工事はしばらく進められてない」

 なつみは鼻を塞ぎもせずに、平然と近づいていく。

「ビンゴ、新しいゴミも結構混じってる。習慣的にここまで犯人は来ているね。わざわざ遠くから来てゴミを捨てるならば、穴の中に落とすはず。そうしないのは恐らく、穴の中から外に捨てているからだ」

バドーの手を引き、穴の底に繋がる梯子へと、向かっていく。

「今更だけどごめんね、ドーちゃん。私の趣味に付き合わせることになって」
「いえ、随分久しぶりに、心細い気持ちを体験していたものだから、古い友達に会えたのは僥倖ですよ」
「そうか。ありがとう」

 暗い深みに足を伸ばす。底は見えない。獣と血と腐敗が、外套に、肌に沁みこむ。

「帰ってこられますよね」

頭上から心細い妖怪の声が響いた。

■無為■

 少し冒険してショッピングをしていたら、遅い時間になってしまった。出口を抜けたばかりのショップが閉店準備を始めている。周りの店も既にシャッターを下ろしている所がいくつかあった。普段はわざわざ寄り付きもしないが、渋谷というのも悪くない街だと思えた。それでは何故これまで近場であっても足を運ばなかったのかと理由を探ってみれば、思い出すしかなかった。
 渋谷のチームは、裏原宿ストローヘッズとあまり和やかな関係では無かったのだ。表立って対立することは無くても、常に水面下で火花を散らせ、小規模の喧嘩は頭領の目の届かない所でも結構な頻度で行われていたようだ。浦見栞は、3年前までストローヘッズの頭領であったカズトを殺した。カズト殺害と自分が結びつく証拠はできる限り消すようにしたが、そのために頭領の女、あるいは前頭領の肉親という立場は依然自分以外の人間にとっては保たれていたのだ。
 栞のことを魔人だと知っている者は基本的にいない。肉体的関係を持ったカズトですら、死の直前にそれを知ったのだ。非魔人の女だと思われているからこそ、手出しはされなかったということが多分にあったようだ。目を伏せながら周囲を見回すと、あまり遠くない場所から続く糸が栞の身体から伸びていた。監視の目との繋がり、栞は一息にそれらを全て断ち切った。
 混乱して走り回るいかにも不良といった者達をやり過ごし、渋谷地下街を抜けて副都心線方面へと小走りで向かう。今日の本来の目的が、この先にある。懐に入れていた金属片から伸びた真っ赤な糸の先、兄の絶彦を殺した凶器と強く関係している人間は、この向こうにいる。
 交通系ICカードをかざして改札を抜け、ホームまで行く。電車の乗り降りが発生し、乗車口付近に人と注目が集まる瞬間を見計らって線路に降りると、彼女は思い切り走って明治神宮駅へと続く道を行った。途中に線路の続かない分岐があり、糸の導きのままにその先へと進む。コンクリートの天井、コンクリートの壁、コンクリートの床。電車が通る道ではなく、資材や建機を置くための空間である。この道には光がない。カズトを問い詰めた末に発見した槍の欠片から出た糸は、下方向に続いていた。額の無い栞でも分かることだった、この先にいる人物は、地下にいるのだ。渋谷が谷あり山ありの凸凹した地形だから場合によっては地上にいるかもしれない、とは考えなかったが、直感は当たっていた。
 行く先が分かっているならば、対策ができる。昼の間に購入しておいたLED懐中電灯の電源を入れ、眩い白光が前方を照らすようにした。

「ピカー……」

 何やらおかしな声がすると思いきや、まるまると太ったネズミの群れが、わんさかと現れた。懐中電灯の光を反射する目が、工機や資材の陰からも覗いている。金色の毛艶を持ったネズミたちは忽ち敵意を孕んだ声を上げ、どこにそんな数が潜んでいたのかという陣形で栞を取り囲んだ。

「ヂュウー……」

 小さな齧歯共の足元に、半袖に帽子姿の男性が倒れているのが分かった。服装が明らかに夏物だ。肉の一部は齧り取られて、こめかみや頬の骨がライトの光を受けて湿った色を見せた。怯む栞に一瞬の隙を見たのか、そいつらは一斉に飛び掛かった。
 浦見栞の目に見えている世界は、張り巡らされた糸の織り成すテキスタイルが大部分を占める。『因果嘲』は関係性ごとに糸の色が変わったり、繋がったもの同士の結びつきの強さ、物理的な距離に従って糸の太さが変わったりする。
見えているものは全て事実である。ネズミたちと栞の間で張り巡らされた糸も、全てが事実だ。
だから、糸を引っ張ればネズミも引っ張られるし、糸を掴んで振り回せば、その先のネズミも振り回される。一匹一匹が軽い小動物相手ならば、次々と投げつけ、地面に叩きつけることは苦もない。飛び掛かって来た奴らは身体をスピンさせれば遠心力で吹っ飛んでいく。

「ヂュワー……!!」

ネズミたちは最初に攻撃を仕掛けた者達が返り討ちに遭ったと分かると、一目散に、闇の奥へと逃げ出していった。

「あっ、コラ、待って!!」

槍の示す方向と一緒だ。直感に従いネズミに対する『因果嘲』を強めると、胸元の金属片から伸びるのと全く同じ、血のような色の糸が、同じ方向へと繋がっていた。

 ■不平等■

まずは過去について、人格の成り立ちについて語ろう。彼の家は母子家庭で、女手一つで育てられた彼は、非常に純粋な人間だった。家庭を顧みず出ていった父親が刃離鬱怒(ハリウッド)で働いていると母親から聞いた時も彼は素直にそれを信じた。毛の色、目の色、体格、彼の全てが周囲の友達とは違っていたし、異国の血が混じっているというのは疑う根拠も無かった。
中学生の頃、試験期間で普段よりも早く帰宅した彼が見たものは、同級生のアニキ(日サロ通いの金髪チャラ男)が母親と濃厚な交接を行っている所だった。母親のパート先と同じ飲食店で働いていると聞いたことは有ったが、まさかそこまでの関係に至っていたとは。しかし、かれはとても素直で母親が本当にその男性を愛しているならば、同級生が叔父になろうと祝福しようと瞬時に考えていた。
反復運動を繰り返していた母親は、戸を開いた彼に気が付き、優しい言葉をかけるのだった。

「あなたのお父さんが帰って来たのよ。あなたに似て男前でしょう? 貴方に似てオチンチンも立派ヨ!」
「ちゃーっす、お、セージューロー君、弟がいつもお世話になっております。僕の息子のお世話はお母さんが進んでしてくれているのですが、とんだアバズレで最高ですね、ハハハ」
「アナタ、イクッ! イッちゃウ!!! あの子の妹か弟を頂戴! おかえりなさい! アタシの○○にオカエリナサイッ!!!!!」
「ゲヘへへへへへへ!!! 気持ちいいいいいいいいいですうううううう!!!!!!!!」
「アアアアアアアアアアアアアアアアァアァァァァァ!!!!!!!!!!!!!!!」

 黒房清十郎は、家を飛び出していた。

 子供が1人で生きていくのは難しい。家出した彼が死にかけている所を救ったのが、浦見絶彦とその仲間達。裏原宿ストローヘッズの面々である。
飢えていた清十郎にカレーを振舞ったのは浦見栞、金を稼ぎ、生き残るための方法を教えてくれたのは、山ノ端一人だった。当初魔人では無かった彼も、恵まれた体格と威圧能力を買われて抗争について行くことが少なくなかった。原宿というのはとにかくゴチャゴチャと入り組んでいて、慣れていなければすぐ迷い、敵を見失う。慣れていても平地のように移動し、戦うということがまず不可能で、高低差や崩れやすい足場を常に気にかけなければ、抗争とは別に大怪我を追う羽目になる。
この戦場で魔人に覚醒したからこそ、『マーダー・エントリー』という地形を一定以上無視した戦闘を可能にする能力と、発声を用いた長射程エコーロケーションが身に付いたのだ。清十郎が魔人となったことで、ストローヘッズは裏原宿を完全なホームとすることが可能となり、防衛においては無敗という当時の伝説を築き上げたのだ。
しかし、その伝説もある日幕切れが訪れた。清十郎が事務所のスカウトを受けたのだ。事務所と言っても暴力団ではなくて、芸能の方であるというのは彼の名誉のために付け加えておかねばなるまい。芸能、当時のアメリカで少しずつ人気を増し日本でも一部受け入れられていた、殺人鬼という職業を彼は目指すことにしたのだ。理由の一つは万が一の可能性、父親がそこにいるのであれば探そうという考えによって、もう一つは、殺人鬼としてデビューした後、ドキュメンタリーで彼の第2の故郷、裏原宿のストリートチルドレン達に世間の注目を集めるためであった。自分から家を飛び出した清十郎はまだ良い方で、浦見絶彦のように不当な魔人差別によって家を追い出される子供は少なくなかったし、学が無い彼らが金を稼ぐには、時に法に触れなくてはいけないこともあった。それが一層魔人差別を生むことになり、負のスパイラルを作り上げていたのだ。
清十郎の決意を、チームのメンバーは涙を流して喜んだ。職業殺人鬼が一体何なのかは誰も知らなかったが、それでも彼が世界へ羽ばたくことを夢見て、優しく送り出したのだ。

「なのに、どうして無くなってしまったんだ! 裏原宿ストローヘッズ!!」

 海外での活躍も視野に入れた殺人鬼として、国内での仕事に精を出していた。ニュースではそのような事件は取り上げられないし、ストリートチルドレンの怪死に世間も警察も興味を示さなかったので、そもそも事件として処理されることもなかった。
 浦見絶彦、病気になって出歩いた時に転んで全身骨折、助けを呼ぶことができずに死亡。山ノ端一人、ベッドと壁の隙間に挟まって死亡、その他構成員、拾い食いして食中毒で死亡。

 いつだって、仲間たちのことを忘れるようなことは無かった。彼らのことを考えれば何も苦では無かった。それなのに、何年間も彼らの死に気が付かず、のんきに殺人鬼していただなんて。清十郎は傷だらけの顔をグチャグチャに歪めた。

 清十郎が現在走っているのは、渋谷地下にある大貯水槽完成予定地である。そこに、裏原宿ストローヘッズを潰した黒幕がいるということを、彼は執念で突き止めた。一人達が絶彦を、栞が一人や他構成員たちを殺しているのは周辺情報を集めている内に何となく分かった。誰が悪いとか、もはやそのような話ではない。大事なタイミングで抜けた自分がチームのパワーバランスを変化させ、絶彦と他メンバーの確執を強めてしまったことも分かっているのだから、他人を責める資格が彼にはなかった。だからこそ、ケジメは付けなくてはいけない。
 彼は吠えた。大音響は、地下大空間で鳴り響き、大きく揺らしただけではなく、貯水槽に隣接する渋谷川に巣食う、邪悪なネズミの半分以上破裂させた。返ってきた反響を受けて、彼は動いた。彼をじっと待ち構える人影に向かって。

  ■孤独■

 「他人の痛みが分かる人間になりなさい」

 両親の言葉の意味を、小津なつみはよく理解していなかった。それでも、他人によくしてあげることは当然であったし、他人の負担はできるならば引き受けるものであったからだ。それは疑問に思うまでもなく、普通の人間として行うべき行動であったし、行うべき行動は為されるしかなかった。だから、彼女は初めて殺人鬼に邂逅した時には驚いたものだった。他人を喜んで傷つける人間というものを、それまでに彼女は知らなかったのだ。自分の言葉に表すことができない感情を何とか他人に表現しようと苦心して、結果他人が傷つくという場面は何度も見たことがあったが、傷つけることが目的になっているなんて知らなかった。そのような想像の外にいる人々がいることを知り、小津なつみは喜んだ。自らの命が危機に晒されている瞬間にまで、殺人鬼という人種を観察し、彼らのことを理解しようと努めた。
 しかし、命を落とす直前で気が付いた。死んだら彼のことを理解できない。
もう一つついでに気が付いた。自分が殺人鬼になれば、より深く長く、この面白い人種を探求することができるのだと。

こうして彼女は目覚めた。そして、今眼前に海外の有名所にに匹敵する、the・殺人鬼が彼女を狙い殺意を投げかけているのだ。ゾクゾクと背筋に快い刺激が走る。素晴らしい。
 元々は依頼を受けたのだった。自分がよく殺人鬼ボランティアをしている渋谷地区で、ある男に。彼は護衛を殺人鬼たる彼女に任せ、地下の奥深くへと潜っていった。頼まれたならば彼女は断らない。彼のために、ここ1週間ほどを地下生活に費やしていた。

 傷顔の殺人鬼、確か新人類と言った男は、暗闇にも関わらず、なつみの位置が分かっていた。最初に発した大音響がその空間認識能力と関係しているようだ。なつみが1週間かけて慣らした夜目以上に精度が良い。しかし、殆ど破れ掛けて物音を聞き取りづらくなったなつみの鼓膜は、新人類の耳の中にも全く同程度の痛みを齎した。『クラック・クラック』。大男が怯んだ所で、持っていたレーザーポインターを彼の眼球に突きつける。
「いてえええええええええ!!!!!」 

視神経が焼かれる痛みが伝わってくる。殺人鬼でも、痛いものは痛くて、辛いものは辛い。それならば、何が非・殺人鬼とは異なるのだろうか。それがなつみの今の研究課題だ。この依頼を終えたならば、地上で非・殺人鬼の人々から教えてもらおう。そう決意して、熊避けのワサビスプレーを鼻先から引っ掛ける。

「ああああああああ!!!!!!??????」

大男はたまらず、Uターンし、背後の空間へと逃げていった。しかしそちらに逃げ道は無い。大きな壁があるだけだ。なつみは彼が壁に衝突してスっ転び、もがいている所をにぶっかけようと硫酸の準備を始めた、が、大男は消えた。痛みは未だ受信できているので、死んだわけではない。しかしどうやら壁の向こうへ行ってしまったようだ。ゲームのバグのようなものが生じたのでなければ、それは間違いなく魔人能力。そのような男を追うのは骨が折れる。
 どうせならば、これから訪れる客人達をもてなす方がずっと良い。


 ■忘失2■

 迷路のような暗闇を迷い続け、電気ネズミ火ネズミ針ネズミ天才ネズミ等を倒し続けていたら、開けた空間に出た。『象撫』が、バドーを認識している者の存在を告げる。歩き疲れたというバドーの辛さを受信している。そいつは殺意ではなく、研究用モルモットかマウスを見る目で彼女らを見ている。よくは見えないが、姿はぼんやりと捉えられる。ガールズトークだ。

「あいつがガールズトーク?」
「そうです。なっちゃんの標的はその後ろ、更に潜った空間にいます」
「ドーちゃん、ガールズトークは任せた!」

 暗視能力を強化した西条の方のなつみは得物の潜むねぐらへと突っ込んでいく、

「させないけど……?」

 ガールズトークに近づき、バドーは彼女の記憶、知識、信念を自分のコピーへと書き換える。『クラック・クラック』のおかげで、互いの認識が暗闇でもスムーズで、その上情報量が多い。

 バドーは、ガールズトークの感じ取る全てを逆に取り込み始めた。シンクロが起こっている。
壁の向こう、新人類は、ウラハラシザーズと衝突したらしいが、壁を通って急に現れたウラハラシザーズは重症、感覚という感覚を失った新人類は気が付かずにひき逃げ。その正体に気が付かず、ウラハラシザーズは反射的に新人類の頸動脈をカウンターで切り裂いていた。

全ての痛みが流れ込む。

西条なつみは、裏原の黒幕を見事打倒したが、彼の操っていたネズミがコントロールを失い彼女を食い尽くす。

全ての痛みが。

流れ込む。

バドーは、逃げ出していた。

咄嗟にガールズトークとのリンクは切断したが、渋谷の苦痛が彼の女に流れ込み、やがて死ぬことは間違いない。
最終更新:2020年07月03日 20:54