姫代学園。
広大な敷地内に大学、中等部・高等部、初等部、幼稚園等が併設されたミッション系の学園都市である。
普段なら、学園内は多くの生徒でにぎわっているが、冬休みに入りほとんどの生徒は実家に帰っている。
すでに時刻は夜。
瑠璃千砂は寮の自室を出ると、学園内の中庭を歩いていた。
周囲を街灯が照らす中、学生たちが休憩するために並べられたベンチ。中央には噴水が見える。
色とりどりの花が植えられた花壇は目の正月に相応しいものだろう。
「ここでも先輩と一緒にお話をしたなぁ」
今でも昨日のことのように思い出せる。
これからの風紀委員会の事、好きな本の話。花壇の植物の花言葉の話etc.
全てが楽しかった思い出で。
あの時はずっと楽しい日々が続いていくと思っていたのに。
先輩はもういないのだ。
いつまでも想い出にふけっていても仕方がない。
いつものように殺人鬼たちを抹殺するために、学園の外へ出ようとした時だった。
「こんばんは、お姉さん。一つ質問させてもらってもいいかな!」
突然、中学生くらいの少女が彼女に話しかけてきた。
「誰?」
振り向いて、謎の少女に対峙する。
ぼろぼろの黒いマフラーをはじめ、衣服が黒ずんでいることを除けばどこにでもいるような普通の少女だ。
千砂の知り合いではない。
それに姫代学園の生徒は大半が出払っているはず。
そもそも、残っている生徒もこんな時間に出歩いたりはしないだろう。
なにせ街は殺人鬼が徘徊しているのだから。
つまり不審な侵入者であることは疑う余地がないだろう。
千砂は警戒を強める。
「あなたって、悪人?」
少女が首を傾ける。
笑顔ではあるが、眼が笑っていない。
燃えるような瞳とは真逆の冷たい目。
それどころか殺意を感じさせる。
このような人間を風紀委員として姫代学園でも何人か見てきた。
それは往々にしてまともな人間ではなかった。
「それが初対面の人間への態度なの?人に何かを尋ねるなら、まずは自分の素性を名乗るべきじゃないかしら?
それが礼儀よね。貴方のお父さんはそんなことも教えてくれなかったの?」
少女が首を横に振る。
「お父さんはちゃんと私に教育してくれたよ。お父さんのおかげで私は正義になれたんだから。
でも、確かにそうだよね。お姉さんの言う通り名前を名乗ってなかった。挨拶は大事だよね。
私は紅眼莉音。正義だよ」
「正義……ね」
「じゃあ改めて聞くけど、あなたって、悪人?」
「……そうね。私は善人で日夜正義のために活動しています、と答えたら貴方は満足するのかしら?その答えに何の意味があるの?」
「正義の執行には悪人かどうか確かめる必要があるよね」
「悪人が正直に答えるとでも。あまりにもナンセンスだわ」
常識的に考えて「私が悪人です」などと自分から言う悪人がどこにいるというのか。
いや、存在するかもしれないが、そんなやつには質問なんてするまでもないだろう。
千砂が悪人を探すなら、こんな質問をすることはまずない。
正義のために活動したいなら、適当なヤクザの事務所にでも突っ込んだ方がよっぽどマシだ。
「お姉さん、私が間違ってるって言いたいの?」
さきほどと同じように笑顔。だが、その眼はやはり全く笑っていない。
それどころか、先ほど以上に殺意が増幅されている。
千砂の答えによっては今にも襲い掛からんとばかりだ。
「ええ、そう思うわ。正義といったけど本気で正義を守る気があるのか怪しいって感じるぐらいに」
千砂が断言した。
一瞬の静寂。すぐに莉音が口を開いた。
「……そっか。じゃあ、お姉さんも悪人っていうことだね」
紅眼莉音は絶対正義である。
仮に質問が間違っているというのなら、これまで彼女がそれに基づいて行った正義の執行も間違いだったということになってしまう。
そんなはずがない。
正義は間違えない。正義は常に正しい。
なら間違っているのは千砂の方だ。
彼女が悪人だから、莉音を否定する。子供でも分かる簡単な理屈だ。
「じゃあね。名も知らない悪人さん」
先に動いたのは莉音だった。
「速っ……!?」
油断していたわけではないが、莉音の速度が千砂の想定よりも速かった。
まるで自動車のような
回避が間に合わない。
何とかガードはしたが、千砂は後方の樹に身体を叩きつけられた。
これまでに葬ってきた有象無象の殺人鬼とは実力が違う。
学園の特待生と同クラスの敵と判断する。
(まあ、対応できないほどじゃないけど)
あくまで想定より速かったというだけだ。
千砂は止めをさすために迫ってきた莉音に、周囲に落ちていた適当な石を投げつける。
莉音がそれを手で払い落した。
「ふーん。抵抗するんだ」
「当然でしょ」
投石は防がれたが、特に問題はない。体制を立て直すための時間稼ぎだからだ。
千砂は立ち上がると鞘から刀を抜いた。
「あと私は名も知らない悪人じゃなくて瑠璃千砂。この学校の風紀委員よ。まあ、貴女みたいに正義だなんていう気はないけどさ」
「ふーん」
莉音が興味がなさげに返答した。
これから殺す悪人の素性などどうでもよいといった態度だ。
「さて、じゃあ今度はこちらのターンと行きましょうか」
千砂が横薙ぎに剣を振るう。莉音が背後へ飛び、それを回避する。
「向かってきても無駄だよ?悪人が正義に勝てるわけがないんだから」
「……そんなことはないわよ。正義だって負ける時は負けるの。世の中なんてそんなものよ」
冷めた口調で淡々と千砂が言う。
「それは結局何かを間違えていたからだよ。私は絶対正義。絶対に間違えないし、絶対に負けない」
「じゃあ、試してみれば?」
「うん、当然そうするよー」
莉音が隣にあったベンチを片腕で持ち上げ、千砂の方に放り投げた。
千砂はそれを真っ二つに切断する。
そして、次の瞬間には莉音が接近し、千砂を押さえつけようとした。
それを強引に蹴り飛ばして、その場から離脱する。
(やっぱり、慣れない武器は反応が遅れちゃうか)
日本刀を用いた戦闘は彼女の本来のスタイルではない。
先輩の死を契機に始めた、先輩を模倣するだけの戦闘スタイル。素人剣法。
一定レベル以上の敵になれば厳しくなるのは当然なのだろう。
(だからといって、やめたりはしないんだけど)
――先輩の様になりたかった。
あの日、殺人鬼に襲われていた誰かを助けようとしたのだと警察には聞いた。
先輩は殺人鬼に向かっていったのだと。
それを聞いたとき、千砂は助けられた誰かの方が死ねばよかったと思ってしまった。
だから、自分は先輩のようになれないと自覚してしまった。
――それでも先輩の様になりたくて。
――だから、彼女は先輩の刀を握ったのだ。
その後も、一進一退の攻防が続いた。
お互い
莉音が周辺にあったベンチやゴミ箱等を武器として投げつけたり、振り回したりしたせいで、中庭はめちゃくちゃになっていた。
まるで台風が過ぎ去った後の様だ。
「好き放題やってくれるわね。うちの学校、こんなに壊されたら冬休み明けに困るんだけど」
おかげで先輩との思い出が無茶苦茶だ。
「正義のためだからしょうがないよ」
莉音には悪びれた様子はない。当然だ。
彼女の為すことはすべて正しい。
正義のために必要なことを為しただけなのだから、申し訳なく思う方がおかしいのだ。
「それにそんな心配いらないよ。だって、悪人のお姉さんはここで死ぬんだから」
片腕で手近な街灯を引き抜き、それを千砂に向かって振りおろした。
千砂は側転して回避。着地と同時に刀を振り下ろした。
莉音がそれを街灯で弾く。
莉音が片腕で街灯を振り下ろした。
千砂はそれを蹴り上げて、弾き飛ばす。
莉音に千砂が横薙ぎに刀を振るう。
傷口から鮮血が噴出した。
だが、莉音は再び構える。
「私は……正義なんだから……負ける訳が……」
苦痛に顔をゆがめながら、莉音が言う。
「だから言ってるじゃない。正義なんて絶対の物じゃないって」
――そうだ。
正義は必ず勝つ。などということはない。
だって、そうだとしたら先輩が正義ではなかったということになってしまうではないか。
先輩は千砂にとって憧れの存在で、
先輩は彼女の名である竜胆の花言葉の様に千砂にとって正義の象徴で、
先輩は千砂にとって大切な存在で、
先輩は困ってる人がいたら見過ごせない人で、
――だから先輩は死んだのだ。
「まだやるの?もう勝負はついてる気がするけど」
間違いなく手ごたえがあった。致命傷は避けたとはいえ、相当な深手だ。
立っているのがやっとのほどの。
「うる……さいよ!!私は正義なんだ!!悪人に……情けをかけられる理由はない」
「……そう」
ここまで正義にこだわるのなら、それまた賞賛に値するのかと千砂は思った。
紅眼莉音は絶対的正義でなければならない。
紅眼莉音は絶対的英雄でなければならない。
紅眼莉音は何も間違えない。彼女がが行うすべてのことは正義であり、彼女は間違うことなど決してないのだ。
だから、紅眼莉音に逃げるなどという選択肢は存在しない。彼女が悪と認定した以上、瑠璃千砂は悪であり、千砂から逃げることも英雄として正しいことではない。
英雄呪縛は世界が彼女を英雄にする呪縛そのものである。
それは他ならぬ彼女自身も例外ではない。
◆◆◆◆
紅眼莉音の父はかつて英雄だった。
多くの人間から慕われ、多くの人間から崇められる英雄。
それが紅眼莉音の父であった。
莉音の父は「善き事を為せ」「正義になれ」と莉音を教育してきた。
彼女に暴虐非道、凶猛で独善的な暴君として振る舞った。
正しくない振る舞いは一切許されなかった。
それは苛烈で明確に虐待といえるほどの物だったが、莉音はそれを正しいものと疑わなかった。
彼女の父は皆が認める素晴らしい英雄なのだ。間違えるはずがない。
だから、間違っているのは彼女の方なのだ。
あの日、紅眼莉音は信じられないものを見た。
彼女の父親が汚職に手を染める現場だった。
莉音の父親は本当は英雄などではなく。
彼女の父親は悪人だったのだ。
莉音はその事実が許せなくて、父親を殺した。
彼女にとって一番の死闘だった。
彼女の片腕は動かなくなった
そして父親が悪人だった事実が認められなくて、英雄呪縛に目覚めた。
その後、彼女が殺した人間に悪人など一人もいない。
彼女の犠牲者は父親を除き善人だった。
この事実を知れば、莉音の父親もまた彼女に無辜の善人だったと判断するだろう。
つまり、英雄呪縛とは、本来は彼女の真実が明らかになった時、父親が本当は悪人ではなかったと思わせるための能力なのだ。
だが、父のために善を殺す人間は正義ではない。
だから、英雄呪縛は彼女の認識を書き換えた。
紅眼莉音は絶対正義をなす絶対的英雄であると。
英雄呪縛とは世界が彼女を英雄にする魔人能力であり、世界が彼女に英雄であることを強いる呪縛そのもの。
全ては絶対的英雄となるために莉音自身も忘れてしまった過去の話だ。
◆◆◆
満身創痍の莉音が千砂に襲い掛かろうとした。
だが、大きな傷を負ったせいか、先ほどと比べて動きが鈍い。
千砂は前へ踏み出して、胸元から袈裟切りにする。
傷口から大量の血を噴出しながら、莉音の身体が崩れ落ちた。
そして彼女の胸ポケットから血に濡れた眼鏡が零れ落ちた。
莉音はそれに手を伸ばし、
「お父さん……私、上手くやれてたでしょ?」
弱弱しくそうつぶやいた後、紅眼莉音は動かなくなった。
「……知らないわよ。私は正義の味方じゃないし、あなたのお父さんでもないもの」
千砂は莉音の死体を一瞥した後、寮の方へ足を踏み出した。