「……以上が私達の持つ『口口(マウス・トゥー・マウス)』の情報だ。特に詰めておく点はあるか?」

 石積の言葉を聞いてか聞かずか、書類に目を落とした短髪の女――金岡 かがみは数秒の逡巡の後「否」と返した。

「事前情報としては充分だ。警視庁(そちら)がマークしている内では確かに……むぐ……与し易い相手ではあるな」

「加えて、サイバー課の協力を得て既に住所(ヤサ)は割れている……はむ。自己防衛意識の低さに少々拍子抜けしたが、あるいは――既に、こちらと本格的に事を構える決意を固めたのかもしれん」

 警視庁所属の石積と、防衛省より派遣された金岡。本来、公的に存在を認められていない私兵部隊と警察庁の間に繋がりは無く、またそうでなくとも大小デリケートな問題を抱える組織間で協力関係を結ぶことは極めて難しい。故に今回、石積は『個人的な繋がり』を以って、都内・某かに料理のチェーン店で金岡との情報提供の場を設けた。

「しかし、そちらも災難だったな。本来ならいつもの長期休暇の所、東京まで呼び戻されて……じゅる。……殺人鬼共の相手とは」

「はふ……そうでもないさ。そのおかげでこうしてお前と、旧交を温めることもできたのだから」

 答える金岡の眼は、怒気と殺気に満ち満ちていた。その言葉が皮肉であろうことは、事情を知らない第三者の目から見ても明らかだっただろう。二人の間の言葉は途切れ、店内に響く喧騒だけがその場に響く。

「今回私が任されたのは、今東京で起きている事態――殺人鬼大量発生――その沈静化だ」

 沈黙を解いたのは、金岡の方からだった。ジャック・ザ・リッパーの後継者を自称する殺人鬼共、殺人課が匙を投げた『A級』、出自不明の甲殻鎧を駆る少女戦士、コード『強欲の宿り木』、エトセトラ。

「その中で、『口口』への対応の優先度が高い事には同意する。放っておけば最も一般市民へ被害が拡大する可能性が高く、先程までの情報通り彼女の所在は把握済みで、こちらから仕掛けを打てば比較的与し易い敵の部類に入る」

 但し。間を空けずに金岡はまくし立てる。

「それには一つ、大前提が必要になる。奴を時間対殺害人数(キルパーセカンド)で上回り、所在が明確で、一度牙を剥けば止められる者はそう多くない――そういう殺人鬼がかつて存在し、今尚存在し続ける『可能性が在る』事を、私は知っている」

 鉄製の鍋底にぷつ、ぷつと穴が空き、カニ鍋の茹で汁が漏れ出す。じゅう、と火が音を立てて消えるのと、金岡が石積の喉元に鋭利な鉄針を突きつけたのは、ほぼ同時だった。

「返答次第では一足飛びに開戦となる。今のお前はどちらだ(・・・・)――石積 彩花」

 石積は動かない。目の前に迫る危機に抗うこともせず、能力を使う素振りも見せない。

「――返答は必要か?」

 石積は聞き返す。剛速球が交錯する、言葉のドッヂボール。

「冷静に見えてその苛烈さは相変わらずだな、『針鼠』。だが、今はそこで止めておけ」

 紙ナプキンで口を拭い、左腕の時計を一瞥する石積。右腕はそれがさも当然というかの様に鉄針をそっと払い、テーブル上で金岡の腕を軽く抑える。

「石積。お前の存在は警視庁――否、この国家に、濯げぬ汚点を残した。それを忘れるな」

 腕を払いのけ、金岡は椅子から立ち上がる。

「情報提供には感謝する。次はもう少しマシな席を用意してくれると嬉しいが」

「ここのカニは口に合わなかったか? この案件が片付いたら、新千歳行きのファーストクラスを用意しておこう」

「……何、ちょっと嬉しそうな顔して……え、お前も来んの?」

「国家の敵になり得る者を都心に残していては、落ち着いて心も身体も休まらないだろう? 『正義の味方』様」

 そう言って平然と〆のカニ雑炊に手をつける石積を横目に、金岡は大袈裟に溜息をつきながら、赤色のランドセルを背負い直す。

「まあ、こっちはこっちで好きにやるから。そっちはそっちで、好きにすれば」

「元より……もご……そのつもりだ」

「……やっぱ一人で食べるのが一番だわ、カニは」

 足元のトランクを引っ掴み、彼女はそのまま退店した。石積は、残された料理を平らげながら、次のプランを練る。

「宇佐木は――今回は使えんな。なら――」

 敵、味方の配置。地理的条件。頭の中にある部下・協力者の名簿から、条件に合う者をピックアップする。

(相手が口口なら、中途半端に人数はかけられない。そして現状、物量作戦は今の台所事情的に不可能。なら)

 カバーに傷の目立つガラケーで短文のメールを打ち、送信する。送信欄には『稲葉』という名前が入れられていた。



「うぃ~~~~」

 一方の殺人鬼は、今日も今日とて呑んでいた。泥酔とまではいかないが、彼女の頬を赤らめ緩みきっただらしのない表情から、これから国家権力に喧嘩を売ろう等という大それた思想は全く感じ取れない。

「…………」

 目を細めて湯気の立つ鍋を見つめる店主は、これもまた先日と同じ顔だった。

「おっちゃん、おかわり~」

 前と同じく、素早い手つきで熱燗を差し出す。殺人鬼達が跋扈する東京の中で、ここだけは緩やかに時が流れていた。

「……嬢ちゃん。前に見たときより、その……でかくなってないかい?」

 但し、それは勿論、綿塚の成長・進化を停滞させるものではない。現在、彼女の上背は3mをゆうに超え、その巨体で長椅子に腰掛ける際に屋台の軒を軽々とぶち破っている。

「ん、まあ、女子三日会わざれば――何とやらというやつですよ」

 くぴ、とコップを傾ける。アルコールの摂取量に対して、つまみの消化はあまり進んでいないようだった。

「食欲、無いのかい」

 店主の問いに、意味深な笑いを浮かべる綿塚。口内に広がるアルコールには、鉄の味が混じっていた。

「いえいえ。そろそろ一軒目の消化も済んできたところだし、ぼちぼち頂くとしましょ」

「へい。何にしましょ」

「お前」

 一閃。背中の上部に生えた腕が、糸鋸を振りかぶる。積み重ねられたダメージにダメ押しの一撃が加えられ、遂に店主の城は横一文字に両断された。準備運動とばかりに背の腕を振り回す彼女の眼が、飛び退いた店主をぎろりと睨む。

「ねえ。石積さんに私の場所を密告したの、貴方だよね?」

 断定混じりの質問。事実から言ってしまえば、その答えはイエスである。あの日、屋台にやって来た殺人鬼を警察に売り渡したおでん屋の店主、もとい『情報屋』。

「……だったら、どうする?」

「んー。そりゃまあ、殺人鬼だし。やる事は一つでしょ」

「そりゃそうだ。なら、俺も取るべきは一つだな」

 一歩。綿塚の前進と、おでん屋の店主――『稲葉 ピー太』の後退の足音がリンクする。

「殺す」「逃げる」

 児戯では済まない、リアル鬼ごっこが始まった。



「いや本当勘弁して下さいよ石積の姉御ォ! もう完ッッッ全にあれで顔覚えられちゃったし、何と言われようと俺ぁ逃げますからね! 少なくとも都内よりも外側に!!」

『分かった。分かったが、お前にはもう一つだけ仕事を頼みたい』

 必死の形相の稲葉に対し、それに何の理解も示さない石積の冷酷な相槌が電話口から聞こえる。

『口口――綿塚は見た通り、欲望に忠実で単純な性格だ。自身を嵌めたお前の姿を見つければ、まず仕留めに掛かってくるだろう』

「いやだからさっさと逃げようって話をしてるんすよ!! そらまあ俺だって危ないお仕事色々やって来ましたけどね、これでも自分で線は引いてきたんすよ? 今の東京はマジでやばいんですってぇ!!」

『……状況は私も把握している。だからこれで最後だ、報酬もいつもの10倍出す』

 断れないのは分かっていた。公権力を振りかざされれば、一介の情報屋である稲葉に逆らう術は無い。それこそ物理的に、首に縄をかけてでも引っ張り出されるだろう。本当はいくら積まれても受けたくない仕事だが、これ以上の譲歩は期待できないのも事実。

 退き際を見極めた稲葉は、渋々といった体で返事をする。

「……へいへい、分かりましたよ。で、俺は何をすりゃいいんすか」

『いつも通りだ。逃げて、すかして、こちらの指定する場所まで連れ出してくれ。お前の魔人能力『太陽への逃走(ダットサン)』でな』



 日本刀での袈裟斬り、ナイフの突き、逆水平チョップ。綿塚の放った右腕三本での一人時間差攻撃は、全て空を切る。

(聞いてるよりパターン増えてるなァ。だけど)

 彼女の攻撃の射程は、99%至近~近接範囲に収まると、石積から前情報は得ている。認識できる攻撃ならまず――そして、その外側からの攻撃であろうと、稲葉の能力を破りその身を捉える事はほぼ不可能だ。

 彼の能力『太陽への逃走』は、『自身に恐怖を与える対象と自身の間に斥力を発生させる能力』である。彼へ向けられる害意はすべからく、彼に届く事は無い。明確な殺意を以って事を為す殺人鬼という種族に対する絶対的なメタカード、それが彼の持つ能力だ。

(しかし、それにしたって単調……いやいや、緊張切らすんじゃねえぞー、まともに受けたら死ぬ。死ぬ。死ぬ)

 勿論それは、稲葉自身に恐怖心があればこそ。少しでも慢心があれば、隠蔽された殺意に反応できない。例えばこの一撃のように。

「その脚よこせえぇぇぇ!!」

 半身を転回させ、綿塚の背腕で握った肉切り包丁が斜めに肉を打つ――寸前で、稲葉の下半身がふざけた様な動きで、不自然に歪むようにその軌道から逃れた。勢いそのまま、伸身宙返りのような動きからどうにか着地の恰好をつけて、彼は逃避行動を再開する。

(ヤバイヤバイヤバイ。今のは明らかに他の打撃より速かったぞ……ソコが本命か?)

 舌なめずりをしながら、追走を続ける綿塚。彼女が稲葉を追う理由は、三つあった。一つは石積達の予想通り、稲葉へのお礼参り。そして二つ目は、彼女に足りないパーツの収集。

(んん……やっぱ近くで見ても、いい脚をしてる。好みとしては、筋肉モリモリって感じのはあまり食感とか好きになれないんだけど……)

 その魔人能力を抜きにしても、稲葉の健脚具合を綿塚は初見で察していた。ここ数日、食人のペースを上げ肉体のパンプアップと機能の増加へ努めてきたが、そこで問題になってきたのが体を支える脚部である。

 新たなパーツを増やせばバランスは崩れ、それを支えるベースが必要になる。かといって、闇雲に脚の数だけを増やせば良いというものでもない――それで重心がずれてしまえば本末転倒だし、単純に総重量(現在およそ178kg)が増せば動作は鈍重になる。

 それに対する明確な一つの解として、彼女は上質な脚部を求めていた。

(勘弁してくれよォ……狙いどころは分かったから、ガードはし易くなったけどさぁ)

 身を震わせながら、稲葉と綿塚の追いかけっこは続く。石積に示された目的地――芝公園まで、残り500メートル。



「いくつか確認しておきたい。『口口』の能力についてだ」

 注文したカニのコース料理が来るのを待つ間に、金岡が石積に尋ねた。

「食った人体をコピーし、己の物とする……そして、それを好きな場所に生やし、生前と同様に機能を行使する。ここまでは間違いないか」

「ああ」

 石積は頷いた。返答を確認し、質問を続ける。

「一つ。能力行使対象は、心臓、肺、大腸小腸腎臓盲腸――循環器系や内臓も含まれるか? 含まれる場合、それをコピーした際の振る舞いは?」

「含まれる。コピーされた臓器は概ね既存の臓器と並行に取り込まれ、可能な場合は身体機能の底上げ、あるいはスペア的に運用されるようだ」

 ふん、と鼻を鳴らし、金岡は石積の義手を見やる。澱みの無い、想定された受け答え……つまりは、そういうことだ。

「急所を打ち貫いた筈だった。実際、一度はこの手で奴の心臓を握り潰したのだから」

 それでも綿塚は、平然と石積の右腕に噛み付いた。

「点での攻撃は致命傷に届き難い、か……二つ。自分自身の肉体を食べた場合は?」

 続けての問いに、石積は少し考えた後返答した。

「――他の人体と同じ――だ。思い出した、初戦で私が叩き折った歯を食って、生やし直していたのを」

「実質的な再生機能もあり、と」

 同じタイミングで、互いに水へ口を付ける。喉奥へ流し込みながら、金岡は自分の口内に歯が生えてくる感触を想像し、少しげんなりした。落ちそうになった気分をごまかすように、彼女は口を動かす。

「三つ。……この能力で魔人を食った場合、魔人能力をコピーする事は可能か?」

 金岡としては、これが本命の質問だった。この後の石積の返答次第で、口口の脅威度・対策方針が、大きく変わってくる。

「……断言はできない。これから私が話す内容は、推測混じりの仮説になる」

 そしてそれは、言わずとも石積側に伝わっていた。言葉を選びながら、少しずつ結論を導き出そうとする。

「奴とは過去に二回、ぶつかった。そのいずれでも、奴が自分の持つ魔人能力以外のそれを行使した記憶は無い」

 金岡は思案する。石積からの主観的な意見をそのまま呑むのは尚早だが、しかし。

 『できる』のなら『やる』だろう――魔人なら。私なら、そうする。

「結論は『できない』、か?」

 石積は頭を振った。

「結果的にはそうだ。だが、正確には――私は『できるが、やらない』のだと考えている」

 予想をしていない返答に、今度は金岡が首を捻った。

「どういう意味だ?」

「金岡。全ての魔人能力の原則――異能発現プロセスの第一、については知っているな」

 殺人鬼の話題から、話が急に飛躍した。いぶかしげに思いながらも、とりあえず返答しようとする金岡。

「ん、あー。あれだ……『自己認識の強制』ってやつか?」

「そうだ。全ての異能は、魔人本人の『妄想』をベースに、現実を書き換えると言われている」

 石積は、自身の頭を人差し指で二度小突いた。

「例えば、掌からビームが出る異能があったとする。口口がその腕を食らい、その魔人と同じ腕を生やしたとしても、同様の異能は発現できないだろう」

「めちゃくちゃ脚が速くなる異能も、その脚を食っただけでは発現しない……そういうことか?」

 石積の例えを聞きながら、金岡の側も言いたい事は何となく分かってきた。

「今の結論と、結びつくデータがある。口口が残した、数少ない被害者の遺体――それでも十数体はあったが。もてあそぶ様に齧られ、刻まれ、食い千切られたそれらの中で、どの遺体も唯一手を付けられていない部位があった」

「お待たせしましたー」

 場の空気を一切読まず、店員が料理を並べ出すのを横目に、石積は結論を述べた。

「正確な理由は分からないが――脳だけは、奴の捕食対象では無かった。先程『できるが、やらない』と言ったのは、こういう事だ」

 脳を食べれば、異能のコピー自体は可能。彼女は、そう考えていた。

「……しかし、そうなると、だ――」

 情報の整理を終え、熟考する金岡の脳内で、一つの絵が描き出される。



(ここでいいんだよなぁ……?)

 オフィスビルが立ち並ぶ区域から少し離れると、広大な芝生広場を有する公園が現れる。綿塚と一定の距離を保持しながら、稲葉は周囲を忙しなく確認した。夜も更けてきていたが、一定間隔で設置された外灯と、ライトアップされた東京タワーで視界状況は悪くない。

「そろそろ、いいんじゃない?」

 肩を上下させ、はっはっと酸素を複数の口で取り込む綿塚が、稲葉に向かって言葉を投げた。

「……ああ、お疲れさん。ここがゴールだ」

 綿塚が稲葉の追いかけっこに乗った、三つ目の理由。奇しくもそれは、国家権力側と同じであった。誘い出すのが石積の目的、誘い出されるのが――綿塚の目的。

「貴方が相手――じゃあないよね。石積さんも違う。あの人なら、前みたいに直接来るでしょ」

「んむ。それなんだが、実は俺も聞いてないんだよ」

 ともあれ、稲葉の当初の目的は達成されたと言っていい。あとは流れで御退散――といきたい所だったが、そのマッチアップの相手が現れない事には、おそらく殺人鬼は帰してくれないだろう。

 それに加えて、彼の首筋には何故か、ちりちりと弾けるような電気信号が流れていた。彼の能力のベース部分となる、研ぎ澄まされた第六感。それが、新たな殺意の襲来を告げている。

「そりゃないよぉ。ここまでの追いかけっこでお腹もすっかりペコちゃんだってのに」

 幸い、都会のオアシスとして作られた公園だけあり、追いかけっこを続ける広さは充分にある。身を隠す茂みもいくらか見えるし、稲葉の異能は追跡者に対して遅れをとってはいない。

(もっとも、いよいよ本気を出されるってぇなら……ヤバイかもな。誘い出される前提なら、まだ使ってない奥の手があんだろ)

 じりじりと歩行で距離をつめる綿塚に、稲葉はその周囲を回るように移動する。どういう位置取りで打ち合わせているのかは知らないが、とりあえずは動き回って安全マージンをとりつつ、適当なタイミングで助っ人が介入してくれる事を祈るしかない。

 動きながら、周囲の様子をつぶさに観察する。木陰、草むら、一面の芝生。増上寺、遠目に見えるビル街、東京タワー

 光。衝撃。音。スナイパーの一撃が、綿塚を挟んで稲葉とタワーが直線上に並んだ瞬間、放たれた。

(ッッッッ!!)

 流れ弾を避けられたのは、稲葉の能力故――とはいえ、流石に長距離狙撃への対応となれば、その反応は正に生死を分ける紙一重だった。うつ伏せになった体勢から跳ね起き、全速力で公園から離脱する。

(……やったのか?)

 弾の軌道から見れば、その弾丸は綿塚の脳天を直撃し即死に至らしめる筈だった。勿論、わざわざ稲葉はそれを確かめる事はしない――そんな暇があれば、1mでも遠く、この場から、この街から離れたい。

 明日昇る太陽を拝む為に、稲葉は夜の街を跳ね続ける。



 口口の身体において、唯一つしか無く、増やす事のできない器官。点で仕留められるウィークポイント。それが脳、即ち頭部。

 そして、異能が人体の模倣に過ぎない以上、どうやっても介入不可能な超長距離のアウトレンジ攻撃。

(これが、最適解だ)

 東京タワー、そのメインデッキのやや上に陣取った金岡が、引鉄に指を添える。石積の部下、あるいは協力者と見られる男と、ターゲットをスコープから目視で確認した。

(勝手にやらせてもらう――か。よく言う)

 それはこの場に居ない石積に向けたものか、それとも自分自身か。奴と相容れる事は今までも、そしてこれからも無いだろうが、この場においての結論だけは、多く言葉を交わさずとも寸分違わず共有できてしまっていた。

「ひゅ」

 呼吸を止める。芝生広場の真ん中で、男の方がポジションを移動し始めた。働きとしては上々だ――後は綿塚が最も無防備な体勢を晒す瞬間を狙い、指を一本曲げるだけ。それでかたがつく。

 もう少し右。左。あと少し。……そこ。

 いつも通りに、彼女は引鉄を引く。狙撃銃のマズルフラッシュと銃声が、いつもより閑散とした夜の街に伝播する。狙いは違えていない。

「……ち」

 スコープを覗いたまま、金岡は舌打ちをする。その先には、三本の脚で身体を支えた、未だ倒れぬ異形の姿があった。

 そのうなじの眼が、狙撃手の視線を捉える。



「みーつけた」

 綿塚はすぐさま物陰へと隠れ、タワーへのルートを肉眼で確認する。次の彼女の追いかけっこの相手は、タワー上部に構えるスナイパー。

(結局、対策はあんま意味無かったか……まあ、多少の運は呼び込めたかな?)

 綿塚自身も、己のウィークポイントは当然把握している。頭部へのダメージを抑える対策として今回彼女がとったのは、肉で受けるより骨を重ねて衝撃を吸収する、という手立てだった。頭蓋骨の部分に、およそ6人分の同様部位の骨を食って取り込み、脳を重点的にガードするといった具合だ。強度の不足は否めなかったが、身体バランスを考えればこの程度の対策が限界だった。

 勿論、あくまでそれは場当たり的な方策である事は自身でも承知している。今回のように一点破壊の武装を持ち込まれては、本来の役割は望むべくも無い。銃弾は簡単に重なった頭蓋を貫通し、彼女を絶命に至らしめる筈だった。

 幸運だったのは、その対策の過程で、脳の位置が見た目上やや下部にずれ込んだという点だ。目鼻の位置も微調整していたためぱっと見は気づき難いが、彼女の顔面積も数日前と比べれば相当に広がっている。それが夜の街であれば、気づかれる事もそうは無い――というか、まず3mの巨女というインパクトの有り過ぎる絵面が、結果的にその印象を薄めているというのが本当のところである。

 できるだけ視界を切るルートを選択し、タワーへと近づく綿塚。まだこの距離なら、常に動き回っていればそうそう致命打を受けることも無い。数分も経たないうちに、彼女はタワーの入り口まで来ていた。

「ん、しょと」

 備え付けの階段を途中で飛び降り、躊躇無くタワー中央の骨組みから登塔を開始する。ここまで来れば状況は互角だ。相手方の能力は未だ割れていなかったが、ともあれこのジャングルジムめいた鉄骨組みの巣ならば、多数の腕と眼が活きる。全身を伸びやかに使い、重量からは想像し得ないスピードで彼女はタワーを登って行く。

(追撃が来ないね。私のこと、待っててくれてんのかな?)

 陣取っていた位置から算出し、相手が狙いをつけ辛いルートを選んではいたが、こうも上手くいくと逆に不安になる。あるいは、何か罠を仕込まれているか。

「ま、それなら早く行った方がお得だよね~」

 かといって、考えこんで足を止める時間も惜しい。警戒は解かず、スピードを緩めないまま彼女はメインデッキの上部へと向かった。

「よいしょ――うわ」

 少しだけ頭をのぞかせ、それから一気に鉄骨へ脚を踏み掛け、着地する。地上からおよそ150メートル、吹きすさぶ冷たい風を遮るものは何も無い。

 そこに、スーツ姿の女性は佇んでいた。石積より年は若く見えたが、雰囲気というか、匂いは同質のように綿塚には思えた。短く刈られた髪が、ざわざわとその闘志を示すかのように揺れる。

「『口口』だな」

「そーだよ。あなたはどちら様? 運の無い狙撃手さん」

「――私は、」

 答える前にずぶり、と、綿塚の右足が沈んだ。すぐさま気づき、それに対処しようとする綿塚だったが、金岡も態々それを待つほど優しくは無い。握った複数本の棒手裏剣を投擲し、次善の策を練る。

(うわ……そういうやつ!?)

 当然のように頭部を狙うそれらを、綿塚は4本の腕を肉のカーテンに見立てて受けた。残り2本の腕で体勢を立て直し、三歩分だけ後退する。沈んだ脚には、鉄粉と見られる粉状の物質が付着していた。

「……鉄使い、かな? 少し似てるね、石積さんの能力と」

 その言葉に金岡は少し眉を動かしたが、口では答えず距離を詰めて来る。綿塚は背の腕で糸鋸を構え、左腕のうち一本の掌を金岡へかざした。

「ふっ!」

 そこに備え付けられた口――から放たれるのは、含み針。石積へ敗北を喫した日から、彼女が最も多く増やしたパーツが、この口だった。その二つ名に示される通り、かつて戦闘そのものを生業にしていた頃――石積と初めて、殺人鬼と警察側として向き合った頃――には、今以上の口の数を備えていた。

「それは、割れてる」

 綿塚にしてみれば隠し技のつもりだったが、数日前に戦った相手と繋がっているとあればさもありなん。動作から危険を察知し身体を傾けて、回避と共にさらに綿塚へ近づく。

(……インファイト? 能力に射程があるのはおそらく確定だけど、私のデータを握った上で、それでも仕掛けてくるのなら)

 こちらの動きを誘われているか、あるいは自身にそれ以上の勝算があるのか。出ばなと同じ手を食わないよう、足を小刻みに動かしながら綿塚も前へと向かう。

「ううぅうらっしゃああ!!」

 先攻は綿塚。隙だらけに見えるドロップキックで、一足飛びに距離を詰め攻撃へ移行する。それに対し、金岡はクロスガードで受ける――但し、生身ではなく、鉄に覆われた両腕で。

「予定は狂ったがな。元より私が、接近戦が不得手な訳じゃない」

 反発力を利用し、逆立ちをするような着地で再び距離を離す綿塚に、今度は金岡側から追撃が入る。全身が黒色の鉄で覆われつつあるその身体は、俊敏さを失うこと無く綿塚へ襲い掛かった。

「っ、はあっ!」

 流石に頭部への一本調子の攻撃では通らないと悟ったか、次は的の大きい身体へと狙いをつける。体格にしておよそ2倍近くの差があったが、鉄の城と化した彼女にとっては大きな問題ではない。金岡の直突きは、ガードした綿塚の腕を吹き飛ばした――文字通りの意味で。

「い……ってえー!!」

 千切れ飛んだ2本の腕を追い、空中でキャッチ、そのまま着地前に複数の口で捕食。数秒後には、元在った場所に同じ腕が生えている。

(ふざけた再生速度だが――脆い)

 綿塚の純粋な身体能力補正は、実のところ魔人全体で見れば決して高くはない。複数の武器を用いることで攻撃面ではカバーが効くが、受け側になるとその弱さが垣間見える。

「このまま押す」

「んーならぁ……今度は!」

 攻撃態勢に入った金岡を、今度は綿塚もカウンターで迎え撃つ。低く構えた姿勢から、背腕に握られた糸鋸を振り被る。

「そんなもので、どうにかなると」

「思ってんだよなぁぁぁ!!」

 鉄腕と糸鋸がぶつかり合う。そこで初めて、綿塚のの獲物が不自然に震えている事に金岡は気づいた。二つが触れたその部分から火花が吹き出す――さながらチェーンソーの如く。

「超振動、ってやつ」

 糸鋸を握る腕には、他の腕と同じ様に掌へ口が付いている。ただし、この口には、捕食や吐出の用途以外にも特別な役割があった。

「超音波を発する声ってさあ、普通の人間の中にも居るんだよね。そいつを上手いこと転用してやれば……手持ちの武器に、自前で振動機能が加えてやれる」

 材質的に切れないものが切れるようになるわけではないが、切れるものならその切断力は数段上昇する。先程屋台を両断した斬撃も然り。

「だから、あなたの鉄もこの通り……この、通り……?」

「……超鉄鋼、という言葉を知っているか?」

 火花は変わらず散り続けているが、よくよく見ればその本体をすり減らしているのは、むしろ糸鋸の方だ。

「態々解説してくれた礼に、こちらも一つ教えてやろう。私の魔人能力『鉄導徹毗(テツドウテツビ)は、察しの通り周囲の鉄を操作する能力だが、その能力研究の過程で一つの事実が分かった」

 曰く、現在のこの国が保有する技術では大量生産が困難な物質――鉄を超える鉄、超鉄鋼を作り出す事ができるということ。それは強度と柔軟性を併せ持ち、各種耐性にも優れる代物らしい。

「この鉄は、私の能力の作り出す一点モノ――つまり、だ。お前の付け焼刃では、私の能力には勝てない」

 ぴん、と人差し指で弾くと、糸鋸の刃ははあっけなく切れた。刃の無くなった持ち手を放り投げ、口惜しげな表情で綿塚は下がる。

(所詮はこけおどしの小細工。とはいえ、今のを先出ししてくれたのは有難い。流れはこちらにあるか)

 金岡は一旦、身体を覆う鉄を解除する。もし彼女が言う通り、超振動を自在に操ることができると言うなら、一繋ぎの金属体を纏わせるのはやや危険かもしれない。全身を覆う鎧ほど、刀や矢に対しての耐性は高いが、衝撃に対しては素通ししてしまう事がある。

(……あ。札切る順番、間違ったかなあ)

 彼女の反応を見て、綿塚も己の失策に気づく。

(ちょっと裏目ってるなぁ。どーしよ)

 鼻と十数の口から酸素を取り込み、頭を回す。……よくよく考えてみれば、結果的にあちらから鎧を剥ぎ取ることができたのだから、これはこれで構わない筈だ。奇襲のチャンスは潰えたが、勝負を掛けられるポイントは未だ有る。

「……よぉーし!」

 気を取り直し、綿塚は腕にありったけの武器を握る。それらを振り回しながら、隙ができれば噛み付き、体を奪う。まだ、自分の身体は動く。

(……ん)

 前進と後退を挟みながら、二人は獲物を打ち合う。手数で勝るのは綿塚だが、対する金岡は一撃の鋭さ・重さ・有効射程で勝り、その威力を以って即時決着を狙っている。こうなれば駆け引きによる有利不利よりも、単純に地力で勝る金岡が有利だ。

 打開策を考えながら、今までの戦いを振り返る。そこで綿塚は、一つの場面を頭の中から切り出した。

(……これ、使えるかなあ?)

 事前の仕込みの無い、単なる思い付き。だからこそ、試してみたくなった。位置調整のため、先程までと同じく一進一退の攻防を続けるふりをしながら、徐々に後掛りへ距離をずらしていく。

(もどかしいな。半端な傷では逃げて回復されるだけだし、あからさまな頭部狙いはもう読み切られている。変化が欲しい)

 金岡も打ち合いに付き合いながら、打開策を探していた。常に有利をとりながら、最後の一歩が詰め切れない。彼女に気を抜いた意識は無かっただろう……思考リソースを僅かに割き、手なりで膠着した状況を捌く。



 ――戦場に『流れ』が在るというのなら、ここが綿塚にとって、最後に流れを掴んだ瞬間だったのかもしれない。



 戦略・戦術・戦力・戦法。ことごとく先を行かれる金岡に、唯一先を取った判断の早さ。それが稚拙な思いつきであっても、実行に移したタイミングはかちりと嵌った。

「ねえ、金岡さん」

 金属バットの先を金岡に向け、挑発するように小さく回す。

 二人の立つ場所は、開戦時に綿塚が位置取っていた場所。

「粉塵爆発、って知ってる?」

 綿塚の股下から、粉状の物体――初手で崩れた鉄粉が、背後に生えた足で払われ金岡の眼前に撒き散らされる。

「――ふぁいあー!!」

 胸部の下あたりへ位置する口から、炎が噴かれた。火は鉄粉に燃え移り、二人の周囲を広範囲に渡り火花が覆う。

(――いや、それアリか!?)

 視界を殺されながら、金岡は訝しんだ。超音波はギリギリ分かる、何なら自分もいつかのテレビでそんな声優を見た気がする。しかし、炎を噴くのはそれこそ魔人か、そうでなければヨガの達人でもないと無理では? いや違うか。

「あっは」

 上手くいった。嵌め手に嵌め手で返してやるのは中々気分がいい。視界は体内に仕込んだ眼も含めてあらかじめ火花からガード済み。金岡が無防備なこの状態から、四肢を含めたどこかを齧れば大幅にこちらの有利になる。相手方の能力のラグは、これまでの様子から見ればまだ一秒以上はかかる筈――受けには間に合わない。

「いっただきまーす」

 今夜最初の食事――金岡の右脇腹から腿にかけての肉に――綿塚は、漸くありついた。



 食事を終え、喰い残した死体をデッキから蹴落とし、塔の下を見る。其れは何度か鉄骨に跳ね返りながら、最後は小さく水音を響かせて地面へと落ちた。

「……ふぅ」

 口元の血を拭い、小さくげっぷをする綿塚。腹は満たされたが、味は正直良いとは言い難かった。能力の特性故なのか、それとも個人的な特徴か――ただただ、鉄錆をこしたような後味だけが、口に入れ、喉奥に通す最中にまで拡がり続けていた。

「ああ。そういや、魔人喰ったのは久しぶりかも」

 石積のは確かに美味かったのだが。その肉は瑞々しく、血にも他とは比較にならない甘みがあった。もしかすると、能力に応じた味の振れ具合等で、魔人と常人ではその成分が違うのかもしれない。

「ちょっと興味出てきたよねえ。ん」

 死体を置いた側に、その懐から落ちたのだろうか。一枚の写真がある。遠目で見るに、一人の人物が映った写真のようだが。

「わ、ぷ」

 綿塚は拾おうとしたが、強風に煽られて思わず目を伏せる。次に見たとき、それは空を舞い、風に流されて手の届かない場所へと浮かんでいた。

「……さて。帰る場所は無くなっちゃったし、暫く風来坊かなあ」

 今の目立ちすぎる風貌で、どこかを根城にする事自体が危険極まりないことは彼女も理解している。石積へのリベンジを考えないことも無かったが、選択肢として再び都内を離れるか、高飛びを考えておいてもいいかもしれないと、人食いの酔いから覚めながら彼女は思っていた。

 何にせよ、夜が明ける前に離れないと厄介だ。小休止を挟み、殺人鬼は丑三つ時の街をひた走る。これからおよそ半日以上は、警察官との鬼ごっこだ。

 ――もっとも、警察の側に『鬼』たり得る者が居れば、の話だが。
最終更新:2020年07月03日 20:44