東京都内、とある動物病院にて。

「川脇亜里沙さん、ですね?」

 待合室のベンチに座る女性に、一人の男がそう声をかけた。
 まだ朝早い時間だからだろう、待合室には他の人影はない。

「……はい、その、なんの用でしょうか……?」

 女性は自失呆然、心ここに有らずといった様子だったが、しかしなんとか俯いた顔を持ち上げて声の主の姿を見る。
 そこに立っていたのは……青い制服を着た、警察官だった。

「あっ……えっと、あの」
「私は警視庁の者なのですが……」

 相手の姿を一目見てぎょっとする亜里沙をよそに、警察官の男は言葉を続ける。

「……昨夜の件についていろいろと話を聞きたいと思いまして。御同行お願いできますか?」

 男は亜里沙に、まるで『張り付けたような』笑顔で、そう言った。




「……チッ」

 黒いセーラー服の少女、西条なつみは車窓の外に流れる景色を一瞥し、舌打ちをした。

 西条なつみは品行方正、才色兼備、どんな時でも余裕をもって良しとする非の打ちどころのない美少女という評価を周囲の人間からうけており、事実そのように日常生活を過ごしてきた。
 本来ならば、このように人前で舌打ちなどする人間ではない。
 だというのに現在彼女がそうした外面すら保てず、あまつさえ不機嫌な態度を表に出してしまっているのは、すべて彼女の隣に座り自動車を走らせている男のせいであった。

「どうしたー? やけに不機嫌じゃあないか?」

 ハンドルを握りながら、にやにやとした笑みを顔に浮かべ少女に声をかける男。
 彼の名は芦谷道満。東京都の治安を守る警視庁に務める警察官であり、

「せっかく彼氏とデートなんだぜ、ちょっとは笑って欲しいもんだけどな」
「……彼氏じゃない、元・彼氏だ」

 西条なつみの、かつての交際相手だった。

「私としてはとうの昔に別れたつもりだったんだが、もしかして別れの言葉が理解できないほど知能が低かったのかい?」
「ははは、その物の言い方、それでこそなつみって感じだ。懐かしいなあ!」

 心底忌々しいと言わんばかりに吐き出される少女のいらつきもどこ吹く風、道満はあっさり受け流す。
 チッ、となつみは再び舌打ちをした。これだからこの男は苦手だ。

 二人の馴れ初めはおよそ数ヶ月前。深夜の街を散歩していたなつみを、パトロール中だった道満が補導したのが始まりだった。
 夜の東京は殺人鬼だらけ、女子高生がうろつくにはあまりにも危険だ。道満は当然のように少女を厳しく注意し、なつみもその場では彼に粛々と従った。
 しかし、彼女の『夜の散歩』はその後も続いた。なぜならそれは彼女にとってただの散歩ではなく、獲物を捕らえるための『狩り』だったからだ。

 ……そして、夜の街に出る頻度が多くなればなるほど、当然道満と遭遇する機会も増えていった。彼は出歩く少女を目ざとく見つけては、何度でも彼女をしつこく注意したのだ。
 なつみが夜の街に繰り出すと、道満が見つけ出して補導する。そういったやりとりを何ヶ月と続けるうちに、互いに情が移ってしまったのか。気づいた時には二人は恋愛関係になっていた。
 それは当人たちも意識して始めたわけではなかったが、しかしある意味では自然な流れでもあった。

 だが、それも一カ月前までの話だ。

 一カ月前。別れはなつみの方から切り出したことだった。
 その理由は単純なことで、互いの時間が合わなくなったという理由だった。少し前から、道満は彼女となかなか会おうとしなくなったのだ。
 本人曰く「仕事が忙しくなったから」との事だったが、それにしても不自然なほどに彼は会う事を拒んだ。あれだけうるさく言っていたなつみの夜歩きすら注意しなくなった。

 少女は、明らかに男の意識が自分からそれていくのを感じてしまったのだ。だから道満から切り出される前に、彼と別れることにした。
 それは、少女の小さなプライドを守るための行動だったのだろうか。道満はそれを聞くと「そうか」とだけ告げて、彼女の元から去っていった。
 そうして、彼らの関係は終わった。

 ……そのはずだった。十数分前、道満が下校時刻の校門前にパトカーで乗り付けるまでは。

 彼は今まさに帰宅しようとするなつみの前に突然現れると、「デートしようぜ!」の一言と共に少女をやや強引に助手席に座らせて、そのまま車を発進させてしまったのだった。

「これって誘拐、もしくは拉致って言うんじゃないかと思うのだけど」
「まさか。俺みたいな善良な警察官がそんなことする訳ないだろ?」

 道満はまったく悪びれない。その態度は付き合っていた当時と何ら変わらないものだ。それが余計になつみの神経を逆なでする。

 なつみとて暇ではない。生徒会長としての責務を抜いても学生としてやるべきことは沢山あるし、それに昨晩手に入れた『食材』の片付けもある。元カレに構っている余裕はないのだ。

 ……だが、こうして強引に連れまわされることを喜んでいる自分が確かにいることも、彼女は自覚していた。

「……それで? 今日は一体何の用なのかな」

 胸の奥にかすかに感じる嬉しさを悟られないように、あくまで憮然とした態度で問う。

「うん? 言ったろ、デートしようって」

 少女のぶしつけな態度を意にも介さないように、道満はそう答えた。

「デートって……今から? この格好で?」
「駄目か?」
「駄目かって、それは……」

 普通に考えれば駄目だろう。
 女子高生と警察官の二人組は悪目立ちするに決まっているし、そもそも乗っている車はパトカーだ。ガソリン代はきっと税金から出ているのだから、私用に使っていいはずがない。
 ……だが。

「……まあ、駄目じゃない、かな……?」

 だが、今はあえてそれらの問題は無視することにした。
 それは目の前の男が「駄目」と言って止まるわけがないという諦観からであって、本当は自分もデートがしたいとかそういう理由では決してない。

 本当に、諦観しているだけなのだ。なつみは自分自身にそう言い聞かせ、元カレの提案を呑むことにしたのだった。

「よかったよかった、断られたらどうしようかと思ってたぜ」
「まったく、どの口で……それで、どこに行くつもり?」

 セリフとは裏腹にまるで計画通りといった雰囲気を醸し出す道満に呆れつつ、なつみは聞いた。誘拐まがいの行動をしてまで人を連れてきたのだ、目的地くらいはもう決まっているのだろう。
 彼はその問いを聞くと、にやりと笑ってこう答えた。

「決まってるだろ? デートと言えばもちろん……遊園地だ」




 日の暮れた東京の一角に、その場所はあった。
 そびえたつ巨大観覧車、ヘビのようにうねるジェットコースター、色とりどりの木馬が延々と回り続けるメリーゴーランド。
 多種多様な遊具が集まった、まさしくそこは遊園地だった。

 しかし現在、その場に遊びに来た人間など一人もいない。
 連日の殺人鬼騒ぎによって遊園地を訪れる客数は激減。昼間でも数えるほど、夜間ともなれば皆無といった状態だった。
 客が来なければ遊園地もなにもあったものではない。残された数少ないスタッフもみな命惜しさにサボタージュを決め込み、夜の遊園地は完全無人の建造物群と化していた。

 だが、何事にも例外がある。
 遊びに来た人間は確かに誰もいないが……そうではない者たちが、そこにいた。

「ちょっと待ってよー! すぐ終わるから! 本当に!」

 一人は少女。茶色のボブカットに黒いマフラー、燃えるような真紅の瞳を輝かせて無人の遊園地を疾走する。その左腕は力なく垂れ下がっているが、微塵も走行の妨げにはなっていない。
 彼女の名は紅眼莉音。『隻腕の真紅眼』の異名を持つ正義の味方であり、殺人鬼だ。

「無視しないでよー! あなた悪人なんでしょー!!」
「イエスとも、ノーとも言えない、かな……ッ!?」

 少女の問いにあやふやな答えで応じたのは、彼女の目の前を走る一つの影。
 その姿は、細身の体に紺色のセーターと薄茶色のロングスカートを纏い、薄桃色のマフラーで顔の下半分を覆っていた。
 お世辞にも動きやすいとは言えない恰好だったが、それでもなんとかして少女との距離を保ち続けている。

 もしこの場に優れた観察力を持つ者がいれば、その動き方や声の調子に違和感を覚えたことだろう。
 そして気づいたはずだ。この人物の服装が、当人の性別とは真逆のものであることを。

 何を隠そう、『彼』こそはかつて霧の都ロンドンを恐怖に陥れた怪物。現代に蘇った伝説の殺人鬼、『元祖』ジャック・ザ・リッパ―その人なのである。

「もーっ! どっちなのかはっきりしてよお姉さん!」

 逃げるジャックを追いながら、莉音は叫ぶ。彼女はまだ目の前の人物の正体に気づいていない。
 彼女はこれまでほぼ一方的な決めつけによって悪人を選定し、裁いてきた。そのため相手の正体を見定める観察眼などちっとも成長していないのだ。

 そして、もうひとつ。少女が気づいていないものがあった。

(……)

 追いかけっこを続ける二人を、植え込みの陰から睨み付ける一対の蒼い目。

 黒い毛に包まれた小さな身体に、薄汚れた包帯が巻きつけられた姿。火傷の跡か、ところどころ毛が剥げている。
 それは一匹の猫だった。
 彼の名はヤット。またの名を『慈愛のお迎え天使』という、殺人鬼である。

(……)

 ヤットは物音ひとつ立てることなく、物陰から二人の人間を睨み続ける。
 その様子は、さながらサバンナの草原で獲物を狙うライオンのようでもあった。

「待ってってばぁー! なんで逃げるの! 悪人だから!?」
「ちが、ひーっ、なんで、こんなことに……!?」

 息を切らせながら、ジャックは逃走を続ける。

 そもそも何故こんな事になったのか。その理由は、五分ほど前にまでさかのぼる。

 五分前、ジャックは東京都に増え続けるジャック・ザ・リッパ―自称者を狩るという目的を同じくする相棒との待ち合わせのため、この遊園地を訪れた。女装姿で。
 そう、女装姿でである。「この服を着て来るように」と相棒から事前に渡された包みの中身は、女性用の服だったのだ。
 ジャックとしても着用にはかなりの葛藤があったが、ジャック増加の一因を担っている以上断るわけにもいかず、しぶしぶその服に着替えた上で指定された待ち合わせ場所である遊園地を訪れたのだ。

 相棒の話では、殺人鬼騒ぎのせいもあってこの時期の遊園地は無人、という事だったが……しかしジャックが到着した時、その場には先客がいた。
 それが彼女……『隻腕の真紅眼』、紅眼莉音だった。

「こんばんは、お姉さん。ひとつ質問させてもらっていいかな?」

 無人の遊園地に佇んでいた少女は、現れたジャックに問うた。

「あなたって、悪人?」
「……そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

 ジャックは即答した。

 普通の人間なら、その唐突過ぎる質問に混乱し、言葉が出せないうちに『悪人』判定を貰っていただろう。
 だが、彼にとってその質問は、彼の長い人生に常に付きまとってきた疑問そのものであり……そして既に結論が出ていたものだった。

 ジャックの人生は複雑だ。前半生は殺人鬼であったし、それよりもはるかに長い後半生は「貧民の父」であった。
 一言に悪人とも、善人とも言えない人生。だが、その末に彼は悟ったのだ。
 『人間はそんなに単純ではない』
 かつてロンドンにおいて善悪両方の立場で伝説となった男は、そう確信して永遠の眠りについたのだった。だから、少女の質問にも即答できた。

 その答えに混乱したのは、質問を投げかけた少女自身だった。
 少女、紅眼莉音にとって善悪の境界は絶対だ。善人でなければ悪人であり、悪人でなければ善人である。その二つが両立することなどあり得ない。
 だというのに、目の前の女は「悪人でもあり、善人でもある」という答えを示した。
 あり得るはずのない答え。その答えに直面した時、彼女のとった行動はひとつだった。

 すなわち、「とりあえず殴ってみる」という対応だった。

 だが、混乱したままの状態から放たれた拳は当然のように精彩を欠く。必要以上に大ぶりなパンチを、ジャックは苦もせずに回避した。
 もう一度パンチを放つ。避ける。さらにパンチ。また避ける。さらにさらにパンチ。またまた避ける。

「……なんで避けるの!!!?」
「えっ!?」
「じっとしててよ! うまく殴れないでしょ!!!」
「えっ、や、やだ!!!」

 当然、ジャックとしても意味も分からず殴られるのは嫌である。
 そういうわけで、ジャックは殴りかかる莉音から逃走し、そして莉音は逃げるジャックの追跡を開始したのだった。

 そして現在。

「待てっていってるでしょー!」
「そう言われても、待ったら殴るんだろう!?」
「もちろん!」
「ひー!」

 ふたりの追いかけっこはまだ続いていた。

 体力的には成人男性であるジャックが有利ではあるが、しかしなかなか莉音の追跡を振り切れずにいるのはその服装のせいである。
 履きなれないスカートが彼の動きを阻害し、もたつく隙にせっかく稼いだ莉音との距離が縮まってしまうのだ。
 この現状には、さすがのジャックもこの服を選んだ相棒を恨まずにはいられなかった。

「のわっ!?」

 意識をよそに向けた瞬間、ジャックが体勢を崩す。スカートのすそを踏んだのだ。
 前のめりに転倒する姿を見ると同時に、莉音は瞬時に距離を詰める。

「もらったーーーっ!!」

 走るスピードのまま前方に跳躍、落下と共に拳を振り下ろす!

 ばごん。

 固いものが砕ける音。
 叩きつけられた彼女の拳は、ジャックの体があった空間を通り過ぎ、その下のアスファルトを砕いた。

「えっ!?」

 驚愕する莉音。
 その周囲にジャックの姿はなく、代わりに白いもやが漂っていた。
 そして。

「ど、どこに……ガフッ!!?」

 少女が血を吐く。
 見れば目からだけではない、目からも、鼻からも血が流れ出ている。
 ジャックの魔人能力『倫敦紳士』によって猛毒の霧と化した彼自身を吸い込んだことによって、急激な体調不良に襲われたのだ。

 崩れ落ち、それでもなお膝をついて耐える莉音。
 その目の前で、周囲の霧が集まり出し、人の形へと変っていった。

「はあ……ごめんね、ちょっと手荒い方法だけど」

 霧化を解いたジャックは、少女を見下ろしつつそう言った。

 彼は少女と出会った時のことを思い出す。彼女は彼に、悪人かどうかを尋ねた。つまり悪人を探していると考えられる。
 見る限り少女からは悪党のような雰囲気は『感じられない』。つまり彼女は悪人を倒す自警団のようなものなのだろう。
 ある意味では同業とも言える。もしそうだとすれば、ここで会ったのは不運な事故だ。

「君に悪い感情はないけど……しばらく寝ていてもらうよ」

 俯く少女に歩み寄る。
 霧を吸った今、もはや動くことは不可能だろう。だが相手は年若い少女、放置しておくのも悪いので、せめてどこかの建物の中までは運んでおこうと思ったのだ。

 あと一歩、という所まで近づく。
 その時、うつむいていた少女が、その顔を上げた。

「……あは」

 その表情は、笑顔。
 流れ出たはずの血は、綺麗に『無くなっていた』。

 正義は味方は決して、体調不良で膝をついたりしないのだ。

「なっ……!?」

 あまりの不自然な出来事にジャックは硬直する。
 その瞬間、莉音は彼に向かって飛び出した。膝をついていたのはやられたからではない、敵に飛び掛かるための準備動作なのだ。

 莉音の腕が、ジャックの腹部を貫通する。

 ……否。貫通していない。パンチが当たったはずのジャックの腹部は、そこだけが『霧化』していた。
 少女の拳がヒットする瞬間、ジャックが当たる部分だけを霧に変えたのだ。

「えっ、腕、当たっ……もがっ!!?」

 今度は莉音の方が硬直する番だった。
 そして動きの止まった少女をジャックはそのまま抱きしめると、体当たりの勢いのまま背後へ一回転。

 伝家の宝刀、パックドロップ。
 抱きかかえた少女を、コンクリートのマットに沈める……!

「こん、のおおおお!!!!!」

 だが莉音もこのままでは終わらない。貫通したままの腕を曲げ、ジャックの背中を殴る!
 振りかぶれない分、威力はさほどのものではない。だが、技を中断させるには十分すぎる衝撃だった。

「ぐお……っ!?」

 ジャックが体勢を崩す。
 抱きとめた少女とともに、地面へと倒れ込んだ。

「きゃあっ!!!」
「うげぇっ!!!」

 莉音の体当たりに加えてジャックの技の勢いまで合わさってはすぐに止まることなどできない。二人はもみくちゃになりながら、コンクリートの上をごろごろと転がる。
 五メートルほど転がっただろうかという所で、ようやく二人はその動きを止めた。

「あいたたた……背中ぶつけた……」

 先に起き上がったのは黒いマフラーの少女、莉音。
 片手をつき、しきりに頭を振っているが、特に大きな怪我を負った様子はない。

 一方のジャックはというと、

「うう、きゅう……」

 頭でも打ったのか、完全に伸びてしまっていた。
 そもそも成人男性と女子中学生では体格が違う。もつれあった状態になれば彼の方が多く地面に叩きつけられるのは当然の結果だった。

「あーもう、背中痛い……あっ、そうだ」

 背中をさすりながら立ち上がったところで、莉音は先ほどの事を思い出す。
 確かにこの手で、相手の腹をぶち抜いたはず。だというのに何の手ごたえもなかったのは、明らかに不自然。その上、技までかけようとしてきたのだ。
 通常であればあり得ない出来事に、彼女の好奇心がとてつもなく刺激された。

「なんでなのか、ちょっと気になるよね」

 そう呟き、倒れたままの相手に手を伸ばす。
 セーターをめくり、貫いたはずの腹部を観察する。

「……?」

 想像通り、そこには傷ひとつない。
 だが、何か違和感を感じる。
 なにか、そう……思っていたより、ごついような……?

「……」

 無言のまま、腕を動かす。今度はさらに下、スカートをめくる。

 そして彼女は見た。
 その人物の股の間に存在する、ひとつのふくらみを。

「!?!?!?」

 莉音の体が、まるで石になったかのように固まる。
 ぐらり、とバランスを崩す。そのまま後ろへ二歩下がって、どうにか倒れずに済んだ。

「へ、へ……」

 視界ががぐるぐると回転する。
 十五才の少女が直面するには、あまりにも強烈過ぎる現実に脳が処理落ちしかける。
 だがそれでもなんとかして、彼女は目の前の『それ』についての感情を、吐き出した。

「変態だーーーーーーーーーーっっっ!!!!!?」

(捉えた!)

 その時。
 植え込みの陰で、一対の蒼い瞳が輝いた。

 ばつん。

 莉音の耳に、破裂音が響いた。

「……あ、え?」

 血流が止まる。肺が収縮し、押し出された空気が意味をなさない言葉として吐き出される。
 脳が酸欠に陥り、視界が暗転する。膝から力が抜け、身体が崩れ落ちた。

 彼女の心臓は、完全に破壊されていた。

(……殺した)

 力なく倒れる少女を見ながら、黒猫ヤットは頭の中でそう呟いた。

 昨夜の戦いでもって人間との直接対決は危険が高いと学習した彼は、物陰から相手を狙う方法へとその殺人手法を変化させていたのだ。
 それはまさしく大型ネコ科動物が狩りに用いるそれであり、ある意味では彼本来の戦い方とも言えた。

 そして今夜も、また彼は殺人を犯した。
 もはや平穏な日常に戻ることなどできないと、ヤットは既に覚悟を決めている。だからこそ最初の目的、ご主人を殺した「殺人鬼」を殺すことだけは、果たしたいと思っていた。
 だが。

(……?)

 倒れかけた少女の体が、止まった。
 膝をつき、腕がぶらりと垂れ下がっているが、そこから倒れる気配はない。微妙なバランスを保ちながら、上体を起こしたまま停止していた。

 立ち往生、というものだろうか。ヤットはそう思った。
 強い人間は立ったまま死ぬことがあるらしい。この少女も、そういった人間のうちの一人だったのだろうか。

 ヤットがそんな事を一瞬考えた時。
 少女の首が、ぐるりと回った。

「みいつけた」

 振り向いたその顔は、張り付けたような笑顔。物陰のヤットと目が合った。

(……エ!?)

 確かに殺したはずの少女が、たしかにこちらを見て、笑った。
 彼がその事実に驚いた時には、すでに遅かった。

「ーーーッグゲ!!?」

 ヤットの小さい身体に、少女の蹴りがめり込んでいた。

 紅眼莉音は正義の味方である。
 正義の味方は、『心停止などしない』。

「ギャ、ゲゥッ!!?」

 蹴り上げられたヤットの体は五メートルほど上昇したところで落下を始め、コンクリートの上に叩きつけられると二度バウンドした。
 冷たい地面の上に、力なく横たわる。最初の蹴り一発で内臓が破裂し、落下の衝撃で何本も骨が折れていた。

「ア……グゥ、ギャ!!?」

 既に満身創痍、少しも動くことのできない状態のヤットの体を誰かが踏みつけた。
 その足の持ち主は『隻腕の真紅眼』、正義の味方・紅眼莉音だった。

「悪人のネコだなんて初めて見たなー。ちゃんと言うなら悪猫っていうのかな?」
「ギャ、ギュガ、ギャア……!?」

 莉音はなんてこのないといった口調のまま、ヤットの胴体をぐりぐりと踏み潰す。
 ぶちゅり、と嫌な音がして、ヤットの口からぐちゃぐちゃになった血肉が吐き出された。

「それじゃ……ばいばい、悪猫さん。正義はいつだって勝つんだよ」

 莉音が脚を振り上げる。狙いは頭。小さな頭蓋骨を、踏み砕く。

 しかし、その時。

「やめろ!!!!!」

 制止する声。

「?」

 莉音は足を持ちあげたまま、声のした方向を見る。

 その視界を、飛来する学生鞄の底が埋め尽くした。




「やめろ!!!!!」

 そう叫ぶと同時に、西条なつみは手にしていた鞄を相手の頭めがけて投擲していた。

 【命中力】を二倍にした鞄は狙いを外さずクリーンヒット、さらに二倍になった【重さ】によって相手の体を吹き飛ばした。

「ちょ、おい、なにやって……!?」

 後ろから着いてきていた男、芦谷道満が、驚いたような声を上げる。
 それも無理はない、同行者がいきなり叫ぶと同時に鞄を放り投げ、他人にぶつけたのだ。誰であっても驚くだろう。
 何故こんな事をしたのか。当然の問い、その答えは。

「あいつ、猫を……!!」

 彼女が行動した理由は、地面に転がる猫だった。

 西条なつみは常日頃から自分を律して生きている。それは家でも学校でも、恋人の前でも変わらない。
 だが、そんな彼女でも、己の『趣味』に関しては冷静ではいられなくなる。

 現在の彼女のもっとも大きな趣味は他人には言えないものだが、それだけが西条なつみという人間を構成する要素ではない。他にも好むものがある。
 例えば好きな映画は『シザーハンズ』だし、好きな動物だってある。それらを侵害されれば、感情を抑えられなくなることは当然だ。

 要するに、彼女は猫が好きで……だからこそ、猫を害する少女の姿にキレてしまったのだ。

「あいてて……また悪人? 今日は多いなあ」

 鞄を当てられ吹っ飛んだ少女は、何事もなかったかのように立ち上がる。
 その瞳には、新たに現れた『悪人』が映っていた。

「悪人はみんな……殺さないと、ね!」

 少女……紅眼莉音は、跳んだ。
 なつみとの距離が、一気に縮まる。

「っ!?」

 その動きに、なつみは対応できない。【反応速度】を二倍にしていてもなお、莉音との間には覆しがたい運動能力の差があった。
 振り上げられた拳が、なつみの頭蓋を狙う。

 その圧倒的なまでの暴力がなつみを襲う、その瞬間。

「ぐ、うああっ!!!」
「えっ!?」

 道満が、二人の少女の間に割り込んでいた。

 振りぬかれた拳が、道満の背中に叩きつけられる。
 だが狙いよりも手前で当たったからだろうか。その腕は彼の体を貫通せず、その向こう側にいるなつみごと、彼の体を吹き飛ばした。

 二人の体が一塊になり、地面の上を数度跳ねながら飛ぶ。そして殴った少女から離れたところで、その動きを止めた。

「うう、何だあの動き……」

 なつみが体を起こす。
 その身体には目立った傷はない。その理由は、もう一人の方にあった。

「よう……無事か……?」

 彼女の身体の下で、道満が呻いた。その顔には軽薄な笑みを浮かべているが、しかしあちらこちらに傷を負っているようだった。
 彼は殴り飛ばされた瞬間なつみを抱きとめると、その身体をクッション代わりにして衝撃をすべて受けたのだ。それは、なつみを守るためにやったことだった。

「ああ、無事……でもどうして、私を庇ったんだ?」
「そんなの、決まってるだろ……?」

 怪訝な顔をするなつみに、満身創痍の彼は微笑みかける。

「俺は警察官だぜ……市民を守るのが、仕事なのさ」

 そう言い残し、道満は意識を失った。

 なつみは気絶した男を見下ろす。その表情は、陰になって見えない。
 背後に視線を向ける。黒いマフラーをした少女が、ゆっくりとした歩調で近づいてくる。

 彼女は倒れた道満の腰から、あるものを取り外した。
 黒く光る、鋼鉄の塊。それは警察官であれば持っていて当然のもの。道満に支給された、対魔人用の拳銃だった。

 今のなつみは学校から直接この場に来たため、いつも使っている武器や薬品を入れたバッグは持っていない。鞄の中にはいくらか武器になりそうなものが入っていたが、それも既に投げ捨ててしまっている。
 彼女にとって、今使える武器はこの拳銃だけだった。

 立ち上がり、接近してくる少女に向き直る。
 身体能力の差は歴然。完全に近づかれれば、今度こそ終わりだ。
 なつみは銃口を、彼女の敵へ向けた。

「ふーん、そっか。やっぱりあなた『悪人』なんだね」
「……どうして、そう思うんだい?」

 少女が、へらへらと笑いながら近づいてくる。
 なつみは狙いを定めたまま、言葉を投げかけた。

 確かに西条なつみという少女は悪人である。それは、自分自身が誰よりもよく分かっていることだ。最低最悪の悪人になることが彼女の生きる目的と言ってもいい。
 だがそうした本性を隠すことも、なつみにとっては日常茶飯事だ。ここに来てからの短い間で、その仮面を外したつもりは毛頭ない。

 で、あるならば。もしや自分は、仮面が役に立たないほど、隠そうと思っても隠せないほどに『悪人』としての本性が膨れ上がっているのではないか。
 もしそうなら、自分はさらに……『美味しく』なっているのではないか。そう思って、目の前の少女の意見を聞いておきたかった。

 だが、少女の答えは、なつみの期待していたものではなかった。

「だって、『正義の味方』の敵は、悪人に決まってるでしょ?」

 笑顔のまま、そう言い放つ。その瞳には、狂気の光。

「そうか……なるほど」

 なつみは納得した。
 目の前の少女は、狂っている。

 ぱん。

 軽い破裂音。彼女の手の中の拳銃が、鉛玉を吐き出した。

 同時に自称『正義の味方』……紅眼莉音が駆け出す。目標は彼女の敵、眼前の『悪人』だ。

 そして弾丸と少女がぶつかろうという瞬間、莉音が右腕をふるった。

「っ!? 嘘だろ!?」

 なつみは目を見開く。目の前の少女が、素手で弾丸を『防いだ』のだ。
 あり得ない話ではない。きわめて強力な魔人であれば、弾丸を弾くくらいはできるだろう。
 だが、それは武器や硬質化した肉体があればの話だ。対魔人用の弾丸を生身で受ければ、どれだけ強くとも無傷で済むはずがない。
 まして少女の得物は腕一本。その腕で銃弾を防いだところで、後がないはず。
 だというのに、莉音は迷わず腕で弾丸を受け止めた。その答えは、すぐそこにあった。

 莉音の腕。たしかに弾丸を受けたはずのその腕の傷が、綺麗さっぱり『なくなっていた』。

(再生能力、いや、傷自体を『なかったことにされた』のか!)

 ぱん。ぱん。ぱん。

 なつみはさらに銃を撃つ。
 だが、そのすべてが莉音の右腕によって受け止められ、そして『なかったこと』にされていく。

 二人の距離が縮まる。あと一秒もしないうちに莉音の腕はなつみを捉え、そして容赦なく惨殺するだろう。

 ぱん。

 しかし焦ることなく、なつみは撃った。おそらく、これが最後の一発になる。

 弾丸が飛ぶ。
 眼前に飛来したそれを、莉音はふたたび右手で防いだ。

 だが。

「……えっ!?」

 弾丸が、莉音の腕を『貫通』した。
 これまで何度も防ぎ、今回も確かに防げるはずのそれが、まるで先の弾丸とは別物の『威力』でもって、彼女の防御を貫いたのだ。

 弾丸は直進する。その行き先は、本来の狙いである莉音の眉間だった。

「がッッ!!?」

 頭の中心に銃弾を撃ち込まれ、少女の体は衝撃で真後ろへと吹っ飛んだ。

 なぜ最後の弾丸だけが彼女の防御を貫いたのか。それは、なつみの能力『バイ・クイーン』によるものだった。
 最後の一発、その弾丸だけ【貫通力】を二倍にした。その貫通力によって莉音の防御を文字どおり貫いて、彼女の眉間へと撃ち込んだのである。
 それまでの銃撃はいわばブラフだ。『自分は弾丸を十分に防げる』と錯覚させるためのおとり。闇雲に向かってくる少女は、その狙いに気づかずまんまと引っかかってくれた。

「さすがの魔人も、力の源である脳を破壊されればひとたまりもないだろう?」

 はあ、と安堵の息を漏らしながら、なつみはそう呟いた。
 西条なつみの最大の武器は、己の作戦を決して悟らせることのない『演技力』なのだ。

 そして彼女は背後を振り向くと、そこに倒れる人間に向かって言葉をかけた。

「……寝たふりはそこまでにしたらどうだ、道満?」
「……あー、なんだ。気づいてたのか」

 その人物……芦谷道満は、倒れたままなつみの声に応えた。

「気づくに決まっているだろ。演劇部部長を舐めないでほしいね」
「……ははは、まったく。かなわないな、お前には」
「デートって話も、最初から嘘だったんだろう?」
「……うん、まあ、そうかもな」

 道満は体を起こそうとするが、しかし全身の傷が痛んだので止めた。しかたなく目だけを動かし、なつみの方を見る。
 そこには……こちらに拳銃を向ける、少女の姿。

「……おいおい、危ないから、それを下ろしてくれないか」
「お断りだよ」

 ぱん。

 なつみは躊躇せず、撃った。

「グ、がッ!」

 ぱん。ぱん。

 さらに二発。弾丸はすべて、道満の胸に吸い込まれた。

「ご、ガ、グぁッ!!」

 道満の体が衝撃で魚のように跳ねる。
 その様を、西条なつみは冷ややかな目で見下ろしていた。

 傷口から血が流れ出る。赤いペンキをぶちまけたようなソレは、辺りに小さな池を作った。

「……あー、ゲボッ、クソ……いつからだ? いつから気づいてた」

 血を吐きながら、道満は問う。その顔に、恋人に向けていた親愛の情は欠片もない。

「最初からに決まっているだろう。君、『反吐が出る』って表情を隠せてなかったよ」

 なつみはそう答えた。

 西条なつみと芦谷道満が交際していたという事実は『ない』。
 深夜の出会いも、睦まじい思い出も、別れの記憶も……すべて嘘だ。

「ほう、だが俺だって観察眼はあるつもりだ……ガフッ、気づいていたなら見破れたと思うんだが」
「だろうね。だから私自身の【演技力】を二倍にした。自分自身すら騙せるほどにね」
「……なるほどな。まあ、そういう事なら……納得もできるか、ゴホッ」

 遡る事数時間前、芦谷道満にパトカーに連れ込まれた時点で、なつみは漂う『嘘』の空気に気づいていた。そして、自分自身の記憶への違和感も。
 だが、あえて彼女はその『嘘』に乗ることにしたのだ。
 相対したものの記憶すら操る相手には、更なる嘘でもって対応する。それが彼女の選択だった。
 そのために彼女は己の【演技力】を二倍にし、自分自身ですら『芦谷道満は元彼であり、以前彼と付き合っていた』という嘘を信じ込ませたのである。

「こりゃあ、一杯食わされたな……」

 やれやれ、と言った口調で道満は言葉をこぼした。
 もはやその命は風前の灯火。死は避けられないのは、誰の目にも明らかだった。

「それじゃあ、さよならだ。ドライブはそれなりに楽しかったよ」

 なつみは死にかけの男にそう言い捨て、その場を立ち去ろうとする。
 だが。

「待てよ……まだ、終わってないぜ……?」

 道満が、そう言った。
 その顔には、張り付けたような笑顔。震える手で、少女の背後を指し示す。

「……!」

 なつみは弾かれたように振り向いた。

 そこには。

「……正義はね、いつだって必ず勝つんだよ……?」

 黒いマフラーをたなびかせる、狂った少女が立っていた。

「……嘘だろ?」

 驚愕した様子のなつみを見て、道満が血塗れの顔で笑う。
 そしてその腕が、力なく崩れ落ちた。

 その時。

 立ち上がった正義の味方の、そのさらに後方にて。
 まるでそこに太陽が昇ったかのような、閃光が輝いた。




(うう、ここは一体……?)

 まばゆいばかりの光の中で、『元祖』ジャック・ザ・リッパ―は目を覚ました。

 否。実際のところ、彼は未だ気絶したままだ。これは意識を失ったジャックが見ている、一種の幻覚であろう。
 少しおかしいのは、その事実をジャック本人が自覚できている、ということだった。

『起きて……起きるのです……』

 困惑するジャックの脳裏に、何者かの声が響く。

『起きるのです……あなたは正義の使者……悪を滅ぼす戦士……』

 声はなにやら胡乱な事を言い出した。
 ジャックとしてはできるのなら無視したかったが、しかし脳に直接語り掛けられている以上そうもいかない。
 仕方ないので、ほんの少しだけその声に耳を傾けることにした。

『ああ、起きましたね……さあ、よく聞くのですよ』
(はあ)
『貴方は選ばれたのです。いえ、実は選ばれていませんが』

 どっちなのかはっきりして欲しい。

『とにかく、貴方は義務を負ったのです。その責任を果たさなければなりません』
(あの、詐欺ですか?)
『違います。貴方が覚えていないだけで、契約は既に果たされたのです』
(クーリングオフは)
『不可能です。やるしかありません』

 ひどい話である。

(それで、一体なにをしろと……?)
『よくぞ聞きました。貴方には……正義の味方になってもらいます』

 またしても胡乱な単語が出た。
 正義の味方。抽象的過ぎて詐欺の臭いしかしない。

(あのー、昔に貧民層の救済事業とかやったので、それで済んだということには)
『それは素晴らしい。弱者への思いやり、ますます適役ですね』
(言わなきゃよかった)

 どうやら先方は、なんとしてもジャックに『正義の味方』とやらをやらせたいらしい。
 もうこれは覚悟を決めるしかないかな。周囲で輝き続ける光のせいで正常な判断力を失いつつあるジャックは、うかつにもそんな事を考えた。考えてしまった。

『その思考、イエスのサインだと受け取りました』
(……えっ、いやちょっと待っ)
『さあ、受け取りなさい! 正義の使者、そのパワーを!!』

 輝く光の奔流が、ジャックの体に注ぎ込まれる!
 否、それは外からではなく、彼自身の内側から溢れ出てきたものだ!

(うわ、うわああああああああ!!!?)

 光の帯がジャックの体を包み込む。それらは体の各部に巻き付くと、その姿を身に纏う装束へと変換させる。

 きゅぴーん。きゅぴーん。きらきらしゅわーん!

 鳴り響くファンタジックな効果音、段階ごとに飛び散るティンクル・スター。
 やや演出過多ぎみなそれらが収まった時、事象の中心に、その姿はあった。

 真っ白なハイソックスに、ピンクの靴。腕にはシルクの長手袋。
 その身を包むのは、ふわふわピンクでふりふりフリルのロリータドレス(ミニスカ)。長く伸びたピンクの髪の毛は、頭の後ろでポニーテールにまとめられている。

 彼は手に持ったステッキを一回転させるとポーズを決めて、その名を高らかに叫んだ。

「魔技姫(マジカニック・プリンセス)ラクティ☆パルプ、ただいま参上っ☆」

 周囲の光が消える。

 そして……彼の前方、無人の遊園地内にただ二人だけ存在した少女たちと、目が合った。

「……」
「……」
「……」

 気まずい沈黙。

「…………」
「………………」
「……………………」
「…………………………えっと、あの」

 ジャックの頭が、冷静さを取り戻していく。
 そして、少女の内の一人、西条なつみが口を開いた。

「変態だーーーーーーーーーーっっっ!!!!!!!???」

 否定しようのない叫び。
 どこからどう見ても今のジャックの姿は、変態のそれだった。

「ち、違う!! 僕は変態じゃない!!!!!」

 だがジャックは否定する。否定しなければ、何かが終わる。そう直感しての行動だった。

「嘘つくな!!! その恰好、どうみても変態じゃないか!!!」
「こ、これには深いワケが……!」
「えっ、どんな理由が!?」
「それは……僕にも分からない。名状しがたいなにかが、胸の奥から湧き上がってきたんだ!」
「やっぱり変態だ!!!」

 誤解は一向に解ける気配がない。なつみの目は、完全に変質者を見るそれだった。

 ジャック自身にとっても、この状況はまったくの想定外であった。
 どうしてこんなことになったのか。考えても、なにひとつ答えは出ない。

 実のところ、そもそもの理由は彼の関知しない部分にある。
 ジャックがいきなり魔法少女の恰好になったのは、彼の内に眠っていた『魔法の力』が原因だ。
 もちろんソレは元々彼が持っていたものではない。昨晩ジャックが蘇生された時、その『生贄』となった少女が持っていた『力』だ。
 当の少女はその力の使い方を誤り、己を異形の怪物と変貌させていた。そして彼女が死ぬと同時に、そのエネルギーは『魔法の国(マジカニア)』へと還るはずだった。

 しかし、ここで問題が起こった。
 宿主の死と共に解放されるはずだった『力』は、少女の肉体と魂がジャック・ザ・リッパ―を構成する材料に変えられる中で、彼の中へ一緒に混ざり込んでしまったのだ。
 その結果、ジャックは知らず知らずのうちに己の中に『魔法少女の力』を取り込んでしまったのである。

 そして、そのままであれば目覚めることはなかったであろうソレが、蘇生術の使用者たる九九代目・芦谷道満の死によって目を覚ましてしまった。
 その結果が『魔技姫・ラクティ☆パルプ』参上であり、現在の惨状だった。

「……く、来るな、変態!」
「違う、僕は変態じゃない……もし変態だとしても、変態と言う名の紳士だよ!」
「黙れ変態紳士!」

 なつみは目の前の変態を威嚇しつつ、距離を取ろうとする。
 だが、いざ動こうとするとどちらに逃げればいいのかすら思い浮かばない。
 『ラブ・ファントム』と呼ばれ恐れられ、何人もの悪人を捕食してきた彼女にとっても、ここまでのド変態に対処するのは初めての経験なのだ。当然混乱してしまい、正常な判断を下せずにいるのである。

「ハッ、そうだ!」

 なつみは気づいた。そう、この場にはもう一人、変態ではない人間がいるではないか。

 藁にもすがるような思いでその人物、なつみと変態の間にいる少女に目を向ける。
 『正義の味方』を自称する少女は、その時。

「あ、あばばばば……」

 立ったまま、泡を吹いて痙攣していた。

 無理もない。少女、紅眼莉音はまだ中学生。世間的には子供と呼ばれる年齢なのだ。
 そんな年端もいかない少女にいきなりこんなショックを与えては、まともに意識を保っていられるはずがない。彼女は魔法少女姿のおっさんを目にした瞬間ひきつけを起こしてしまったのだった。

「くっ、こうなったら……!」

 最後の望みが絶たれた今、なつみは覚悟を決めた。
 こうなったら、己の手で目の前の変態を排除するしか、ない!

 なつみが腕が、弾かれたように動いた!
 右手に握られた拳銃の銃口を、ジャックに向けて持ち上げる。

 だが!

「なっ、うわっ!!?」

 ジャックが素っ頓狂な声を上げながら、なつみの動きよりも早くステッキを振りぬく!
 その動きは彼の意図したものではない。魔法装束が、危機を前に自動で反応したのだ。

 しゃららーん!

 ファンシーな効果音と共に、ステッキの先端、蟹爪の装飾が施されたそこから虹色の光線が発射された!
 放たれた怪光線は、異様な軌道でもってなつみへと飛来する!

「ーーくッ!?」

 なつみは銃撃を中断し、跳躍。
 だが光線は彼女をホーミングして軌道を変える。避けることは不可能。

 しかしそれも彼女にとっては想定内だ。跳んだのは回避のためではない、『陰に隠れる』ためなのだ。

「あばば……うぇ、わっ、きゃあああーーーーーっっっ!!!??」

 ばりばりばり!

 なつみへと直進した光線は、間に巻き込まれた莉音の体に直撃した。

 大仰なエフェクトを伴った衝撃が、哀れな女子中学生の少女を襲う。
 光と音が止まったと同時に、莉音はばたり、とその場に倒れた。

「くっ、なんてひどい事を……!」
「えっ今の僕のせいなの!?」
「そうに決まっているだろう、こんな小さな女の子を撃つなんて!」

 先ほど自分も少女の眉間に弾丸を撃ち込んだことなどすっかり棚に上げ、なつみはジャックを非難した。

「大丈夫か、君!?」

 なつみは倒れた少女の肩をゆさぶり声をかける。
 確かについ数分前まで命のやりとりをしていた相手だ。だが、自分の代わりにあんな変態の攻撃を受けたのは、流石に可哀想な気がしてきたのだ。
 それになにより、魔法少女コスプレの男の前でひとりになるのは絶対に嫌だった。

 二、三度ゆさぶると、少女は意識を取り戻す。彼女はその目蓋を開けて、なつみを見た。

「う、うう……うん、大丈夫……」
「ああ、よかった。無事だったか……!」
「大丈夫……全部分かったの。魔法少女は正義の味方なんだって」
「駄目だこれ!」

 少女は、完全に正気を失っていた。

「さては洗脳……! 卑劣な!」

 ジャックの持つ魔法少女ステッキから放たれた光線、その正体は『魔技姫☆改心ビーム』!
 対象の『心』を『改』造して無理やり善人に変える、自然と甲殻類にやさしい必殺技なのだ!

「どうかしたの? 魔法少女は正義なんだよ?」

 完全に正気を失った莉音が、うわごとのように繰り返す。
 その様子を見て、思わずなつみの目頭が熱くなった。さすがにこれは憐れすぎる。

「魔法少女は正義なの……だから」

 その時。
 少女を抱えていたなつみの腕から、重さが無くなった。

「お、グオ、ーーーッ!!?」

 突然、男の呻き声が響く。

 声がした方を見る。
 そこには……少女の拳が腹部にめり込んだジャックの姿が、あった。

 ジャックが倒れる。
 その身体を包む装束が光の粒子となり、空しく散る。服装が元の、比較的安全な女装に戻った。

 そしてその手から、莉音は流れるような動きでステッキを奪った。

「魔法少女が正義なら……絶対正義のわたしこそが、魔法少女だよね?」

 その表情は、一片の疑問を挟む余地のない、晴れ晴れとした笑顔。
 それを見て、なつみの背筋に凄まじい悪寒が走った。

 倒れ伏す男を後ろに、莉音がステッキを構える。
 そして、叫んだ。

「パルプ☆マジカニカ!」

 突如、周囲が閃光に包まれる。
 それは、先ほど男が現れた時のものよりも眩しく、そして強烈だった。

 光の帯が莉音の体を包み込む。それらは体の各部に巻き付くと、その姿を身に纏う装束へと変換させる。

 きゅぴーん。きゅぴーん。きらきらしゅわーん!

 鳴り響くファンタジックな効果音、段階ごとに飛び散るティンクル・スター。
 やや演出過多ぎみなそれらが収まった時、事象の中心に、その姿はあった。

 真っ白なハイソックスに、ピンクの靴。腕にはシルクの長手袋。
 その身を包むのは、ふわふわピンクでふりふりフリルのロリータドレス(ミニスカ)。長く伸びたピンクの髪の毛は、頭の後ろでポニーテールにまとめられている。

 彼女は手に持ったステッキを一回転させるとポーズを決めて、その名を高らかに叫んだ。

「魔技姫(マジカニック・プリンセス)ラクティ☆パルプ、ただいま参上っ☆」

 今度こそ女装ではない、本当の意味での魔法少女が、ここに爆誕した。

 もちろん、紅眼莉音はつい先ほどまで魔法少女ではなかった。
 『魔法の国(マジカニア)』とのつながりなど無かったし、魔法の力を受け取ったこともない。魔法少女として目覚めるはずのない一少女だった。

 だが、彼女が『魔技姫☆改心ビーム』を受けたことで、その前提が変わった。
 『魔法少女は正義』という心理に目覚めた莉音にとって魔法少女は絶対正義の象徴であり、そして絶対正義とは彼女自身を指し示す。
 であるならば、当然、紅眼莉音は魔法少女のはずなのだ。なぜならそれが正義の形なのだから。そう彼女が『認識』した瞬間、過去が『変わった』。

 『紅眼莉音は魔法の力を受け継いだ魔法少女である』……そういうことになったのだ。
 だからこそ、彼女は何のためらいもなく変身の魔法を叫ぶことが出来た。それは今日初めて唱えられたものではない、彼女にとっては言い慣れたフレーズなのだ。

 そして魔法の力の継承者が莉音だったことになったため、ジャックの体内からは力が消え去り、元の女装姿に戻ったのである。

「さあ、今日もいっぱい悪人をやっつけちゃうゾっ☆」
「キャラ変わってないか!?」

 目の前の異様な光景にめまいを覚えつつも、なつみはなんとかその意識を保った。

 現実が異常すぎる。考えるだけでも頭が痛い。できればこの場から逃げ出したい。
 だが、目の前の魔法少女は、なつみを見逃してくれそうもなかった。

「じゃあ、いっくよーっ☆」
「ま、待って! 待ってくれ!」

 なつみは両手を前に出し、必死で制止する。
 今度は盾にできるものは無いのだ。あの光線を撃たれたらもろに食らってしまう。
 だからといって攻勢に出ても結果は知れている。純粋な格闘戦では勝ち目はない。

 だからこそ、なつみは最後の手段に出る事にした。

「もう改心した! しました! だから撃たないで!」

 命乞いである。

「えー、ほんとに?」
「本当だとも! この目を見てくれ、改心しているはずだ!」

 【演技力】を二倍にする。
 彼女の瞳が、きらきらと輝いた。

 これで駄目ならばもはや策はない。洗脳されて終わりだ。
 なつみは内心、覚悟を決めた。

 だが。

「うん、わかった! 改心してくれたんだね!」

 魔法少女は、あっさりと騙された。

 それはなつみの卓越した演技力によるもの……だけではない。
 魔法少女化した際に、猜疑心と言ったネガティブな感情は切り捨てられているのだ。自身への洗脳によって、今の彼女は他人を疑うことを知らない。
 ゆえに彼女は、なつみの嘘をコロッと信じてしまったのだった。

「よ、よかった……分かってくれたのか」
「うん☆ だからお姉さんも悪いことしたらメッ!だよ☆」

 可愛らしくポーズを決める莉音。その様子には、先ほどまでの暴力性は欠片もない。
 これが魔法少女になるということなのか。なつみは戦慄した。

「それじゃ、わたし行くね☆」

 莉音はその場でくるりと回ると、そんな事を言い出した。

「い、行くって、どこに?」

 なつみは尋ねる。出来れば行き先を確かめておきたい。
 行き先さえわかればその方面へ行くことを避けられる。夜中にばったり遭遇、などという事態はこれっきりにしたかった。

 そんな彼女の内心を知ってか知らずか、莉音は当然のように答えた。

「どこって、マジカニアだよ? 魔法少女は、魔法の国に帰るんだ☆」

 聞くんじゃなかった。頭痛がさらにひどくなる。

「ほら、お迎えが来たよ!」

 頭を抱えるなつみを後目に、莉音が空を指差す。
 指の先で、空を覆う分厚い雲が一点だけ晴れ、そこから光が差し込んだ。

 人影が降りてくる。薄桃色の衣をまとった、長い髪の女性。
 それは間違いなく、魔法の国マジカニアからの使者だった。

『おめでとう、アナタを迎えに来ました』

 女性がその手を差し出す。莉音は彼女に向かって、己の両手を伸ばした。

 その光景を見て、なつみは内心安堵していた。
 よかった、これで異常者とはおさらばできる。それしか考えられないほどに、彼女は疲弊していた。

 だが、その時。

「伏せろ!!」

 男の声。

 声のした方向を見る。
 そこには、意識を取り戻したジャックが、地面へ向かって跳び伏せる姿。

「……え?」

 その行動の意味を考えようとした瞬間。魔法少女と使者の手が重なった。

 莉音の体が、爆発した。




 魔法の国『マジカニア』は、その名の通り魔法少女の国である。
 太古の昔から魔法少女を輩出し、世界を平和へと導いてきた。

 そして、その所在地は、現実の世界ではない。
 マジカニアは精神世界なのだ。
 魂(ソウル)と精神(スピリット)だけが存在する、永劫平和の精霊たちの理想郷(スピリチュアル・ワールド)。それが魔法の国の正体である。

 ゆえに……そこへ帰るためには、現実における肉体が邪魔なのだ。
 そのため、魔法少女を迎えるための使者の体は『反物質』でできている。
 物質である少女の体と接触することで肉体を完全に消滅させ、精神と魂だけを迎え入れるというものが『使者』システムの実態なのである。

 この事実は魔法少女として世に出た瞬間に脳内にインストールされ、そしてほとんど洗脳のようなかたちで了承を得るため、人間界ではあまり知られることがない。

 そういうワケで、魔法少女となった紅眼莉音の肉体は反物質と接触するとその存在を完全に消失させ、同時に発生する衝撃によって遊園地を跡形もなく吹き飛ばしたのだった。




 東京某所に存在する遊園地。
 そこは現在、巨大なクレーターと化していた。

 そびえたつ巨大観覧車も、ヘビのようにうねるジェットコースターも、色とりどりの木馬が延々と回り続けるメリーゴーランドも、いまはその影すらない。瓦礫の山だ。

 だがその中に、動くものが、あった。

「ああ……なんて、酷い日だ……」

 それは、西条なつみだった。
 その半身は爆炎によって火傷を負い、左腕はポッキリと折れて垂れ下がっている。その足取りはふらふらとして頼りない。
 だが、彼女は確かに生きていた。

 彼女は爆発の瞬間、身体の【耐久力】を二倍にして衝撃を耐えきったのだ。
 しかしそれでも、その身体は限界に近かった。

 そして、もうひとつ。その場には、生きている人間がいた。

 なつみの前で、地面に伏せてうずくまる男。
 『元祖』ジャック・ザ・リッパ―だ。彼は魔法の国の真実をあらかじめ知ることが出来たため、爆発の直前に回避行動をとることができたのである。
 だが、それでも彼の背中側はほとんど黒く焼け焦げ、伏せたままの顔を上げる気配はない。

「……まったく、とんだ『デート』だ」

 なつみは既にこの世に居ない男を思い出しながらぼやく。その手には、男の遺品たる拳銃がまだ握られていた。
 その銃口を上げ、うずくまるジャックの頭に狙いを定める。

「でも、まあ……これで終わりだ」

 そして、拳銃の引き金をひいた。

 かちり。

 銃弾は、発射されなかった。弾切れだったのだ。
 彼の持っていた銃の相談数は八発。莉音に五発、道満に三発撃った時点で、もう銃弾は残されていなかった。

 見れば、銃のスライドが完全に落ち切っている。弾切れなのはどう見ても明らか。
 だが、それならば……なぜ、なつみはそれに気づかなかったのか。

 手から力が抜け、銃を取り落とす。
 そして、彼女は見た。拳銃のグリップと彼女自身の掌の間にべったりと張り付く、紙の札を。
 そこには一文字、『騙』と書かれていた。

「……ああ、これは」

 息を呑む。
 男の、張り付けたような笑顔を思い出した。最初からあの男の手のひらの上だったわけか。

 ばつん。

 なつみの耳に、破裂音が響いた。

 体から、力が抜ける。
 立っていられない。バランスを崩し、後ろへと倒れる。
 急速に光を失っていく中で、彼女は見た。

 顔を上げたジャックの、その身体の下で輝く一対の蒼い瞳を。




 黒猫ヤットが遊園地と呼ばれる場所に来たのは、偶然ではない。

 彼は動物病院を飛び出した後、行くあてもなく街を彷徨っていた。
 人込みを避け、路地裏を進む。ふらふらとした足取りであちこちに体をぶつけ、そのたびに体に巻かれた包帯は薄汚れていく。

 もはや帰る場所はない。『サツジンキ』である彼に、安息の地など無いのだ。
 そしてもう、敵討ちなどということを考える余裕もなかった。憎むべき復讐相手だった『サツジンキ』は、今となっては彼自身と同義だった。その姿を思い出そうとしても、出てくるのは鏡に映った己の姿だけ。
 完全に、彼の心は折れてしまっていた。

 だが、それでも……守りたいものはある。

 彼は彷徨った果てに、警察官の男と一緒に歩く『ママ』の姿を見た。
 そして、彼は決めた。復讐すら果たせなくなったとしてもママだけは、彼女だけは絶対に守り通すと。

『男の子は、いざという時は、女の子を守ってあげなきゃダメだぞ』

 そうだ。それこそがご主人の願いだったではないか。たとえ彼女と二度と触れ合えないとしても、それだけは守り通したい。
 彼はその言葉を胸に、守るべき『ママ』の後を追った。

 彼女はしばらくすると警察官と別れ、ひとり歩き続けた。
 その行き先は……遊園地だった。

 それからは、誰もが知る通りだ。
 彼は死力を尽くし、『ママ』を襲う敵を忌まわしき『サツジンキ』の力で排除する。
 多少失敗し、手ひどい傷を負ってしまったが……だが、最後にはふたたび敵の心臓を『捉えた』。

 ヤットは、自分の上に覆いかぶさる人物の、その服の匂いを嗅いだ。
 ああ、安心する。懐かしい『ママ』の匂いだ。

 彼女を守れた。その事実に安堵しつつ、彼は永遠の眠りについた。




「な、なにが起こったんだ……?」

 うずくまる男、『元祖』ジャック・ザ・リッパ―は、目の前で絶命した少女を困惑の目で見た。
 彼女は弾切れの銃を構え、それを落とし、なにか呟いたかと思った瞬間に突然死んだ。それは不可解な現象だった。
 爆発の衝撃が強すぎたのか? だが……。考えても、答えは出ない。

「……?」

 そして今度は、己の身体の下を見る。

 そこでは……一匹の黒猫が、死んでいた。
 爆発の一瞬前に倒れていたのを見つけ、咄嗟に覆いかぶさるようにして庇ったが……やはり駄目だったのか。その身体は、既に冷たくなっていた。
 ただひとつ、ショックで死んだにしては穏やかな死に顔だけが、救いだった。

 よろめきながら、立ち上がる。
 炭化した背中側の服が、ボロボロと剥がれ落ちた。

「ああ、しまった……借りた服が駄目になってしまった。これは怒られるかな」

 ジャックはそんなことを心配した。
 この服は元々、彼の相棒である九九代目・芦谷道満から貸与されたものだ。彼に渡されたその場で着替え、『他にも用事がある』という彼と別れて、待ち合わせ場所であるこの遊園地までひとりで歩いてきたのだ。

 しかし、この惨状ではもう待ち合わせどころの問題ではない。
 なにしろ場所自体が消し飛んでしまったのだ。これでは来る人間も来ないだろう。

「……帰ろう」

 ジャックは死んだ少女と、そして猫を見る。
 彼らは偶然居合わせたのだろう。可哀想に、巻き込まれて死んでしまったのだ。
 だからこそ、彼らのことをジャックは記憶に刻み付ける。罪もない彼らの死を無駄にしないために。

 横たわる彼らに数秒の黙祷を捧げると、『元祖』ジャック・ザ・リッパ―は霧となってその場から立ち去った。




 遊園地が消滅する十数時間前。

「いやあ、ご協力ありがとうございました」

 川脇亜里沙は、自宅の玄関で警察官の男に頭を下げられていた。

「いえ、その……大したことではないですし」

 恐縮したように、亜里沙はぶんぶんと手を振って応える。

 彼女のした『協力』。それは……来ていた服を警官に渡す、というものだった。
 なぜ警察が彼女の服を欲しがるのか。それは彼女が昨日の夜にあった被害に原因がある。

 昨晩、亜里沙は見ず知らずの男に誘拐され、暴行を働かされそうになった。
 紆余曲折あり彼女自身はその場の危機を脱することが出来たが、しかし誘拐現場を偶然見ていた通行人から、警察へと通報があったのだという。
 警察は捜査員を総動員し、誘拐された亜里沙を捜索した。そして今朝になって、彼女の姿を動物病院にて発見したのだ。

 彼女自身には目立った被害がなかったため、事件としては軽いものとなった。だが警察は誘拐犯を捉えるために、彼女の協力を仰いだのである。
 そのため彼女はちょっとした事情聴取をうけ……そして犯人の手がかりを掴むため、証拠となる衣服の提出をお願いされたのだ。

「でもその、服なんかでなにか分かるんですか……?」

 亜里沙は当然の疑問を口にする。
 それを聞くと、警官の男はすこし考えた後に答えた。

「いえ、俺も詳しくは知らないんですが、科学捜査?というのでいろいろと分かるらしいですよ」
「はあ、カガクソウサ……」
「ええ、繊維一本からでも同じ服かどうか分かるとか。鑑識さん曰く、もし犯人にあなたの服と同じ繊維がくっついていたらそれが確実な証拠になるらしいです」

 まあ専門外なのでよく分かってないんですけどね、と警官は笑って付け加えた。

「ええ、でも……分かりました。ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。本当にご協力ありがとうごさいました」

 そう告げて、警官は立ち去ろうとする。
 その後ろ姿になにか不穏なものを感じ、亜里沙は声をかけた。

「あの……」
「……ああ、そうだ奥さん。飼い猫が行方不明だそうですね?」

 猫。その言葉に、亜里沙の肩がびくりと震える。

 昨夜のことは、悪い夢だと思いたかった。
 だが、もしそうではなかったとしたら……そしてそれを追求されてしまったら、その時彼女はどうするべきなのだろうか。

 嫌な想像が膨らむ。

 ……しかし、現実はそうはならなかった。
 振り返った警官の表情は、先ほどと変らぬ笑顔。

「猫、早く見つかるといいですね」

 そんな、なんてことのない言葉。
 それを聞いた瞬間、彼女のなかの懸念は『悪い夢』となって消え去った。

「え、ええ。はい」
「それでは」

 警官……九九代目・芦谷道満が会釈して、その場を立ち去る。
 その様子を、亜里沙は立ち尽くしたまま、ずっと眺めていた。



<了>
最終更新:2020年07月03日 21:02