廓然大悟―新宿誰何パスティシュ—


登場人物
黒星(ヘイシン)…殺人器。 『灰色の武器庫』
美藤羊子(びとう ようこ)…聖母。『愛人形(アイドル)』。
〼虚迷言(くちなし まよい)…メイド。『謎掛(なぞかけ)』。
一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)…□□。大学生。

「」(かぎ かつこ)…メイド。『秘密主義者』。
夜魔口吸血(やまぐち くがち)…ヤクザ。『夜の女王』。


case1/誰も知らない(ノーバディノウズ)
case2/新宿殺人同盟(シークレットサービス)
case3/惑わせるもの隠すもの(メイズメイカー)
case4/敗北を刻むもの(クロボシ)
case5/聖母(アイドル)
case6/**を知るもの(ノーバディノウズ)
case7/新宿誰何事件(グレイアーマリー)


case1/case1/誰も知らない(ノーバディノウズ)


 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の羽音が聞こえてくる。
 夏の終わり。今よりもっと、地面が自分の視点と近かったころ。

「イチマルカ・ツマルマル。いい名前じゃないか」

 自分は、本物の□□と、出会った。
 レザージャケットの下にカッターシャツ。ベージュのスラックス。
 燃えるような髪が目を惹く、颯爽とした人。

 なんで、こんな名前を、つけられたのだろう?

■■かつ■■。つまり、■■する■■でも■■していいって、そういうことさ」

 からかわれて泣いていた自分の『謎』を、その人は即座に解体してみせた。

「推理するまでもない。その名前は、■■なんか気にせず、君が■■でも■■■ようにって、祈りだろう。『■■■■■■■』ってヤツさね」

 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の羽音が聞こえてくる。

 夏の終わり。いつかの祝福。

「だから、君は、なりたいものに、なればいい。君の名は、それを祝福してる。この、世界一の迷■■が保証しよう」

 ああ、ならば、自分は、■■になりたいと。
 世界に満ちているの箱を開ける、あの人のようになりたいと。

 そう。箱だ。自分の周りには、無数の箱がある。

 ――どうして、自分は、■■に憧れたのか?
 ――どうして、『歪な共犯者』は殺人を誘発するのか?
 ――どうして、〼虚迷言さんは、自分を、ご主人様と呼ぶのか?
 ――どうして、「」さんは、自分を苛むのか?
 ――どうして、『迷宮入り』には自分以外の客がいないのか?
 ――どうして、迷言さんと「」さんは、同時に姿を見せないのか?

 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の羽音が聞こえてくる。

 乱雑に配置された、黒い箱。
 その中に、一つだけ紛れ込んでいる、白い箱。
 気がつけば、自分は、古い洋ホテルにあるようなラウンジ然とした空間にいた。

 部屋の真ん中には磨りガラス製のパーテーションが何重にも配置されている。
 そこから、ひょっこりと、一人のメイドさんが顔を出した。

「ははっお前、また、面倒なことを考えやがったな?」

 西洋人形のような、茶髪のメイドさん。
 自称『秘密主義者』の、「」(かぎ かつこ)さんだ。

 床に転がっていた白い箱を、「」さんは蹴り飛ばす。
 部屋の隅にうずたかく積まれた黒い箱の山の中に、白い箱は消えた。

 蕩けそうな笑顔のまま、「」さんは殴る。殴る。殴る。殴る。殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴殴。

 そのたびに、自分の視界からは、黒い箱が消えていく。

 苦痛に目を閉じると、嵐のような暴力は止まった。
 おそるおそる瞼を開くと、そこで微笑んでいるのは、

 もう一人のメイドさん。
 〼虚迷言(くちなし まよい)さん。
 黒髪の、白い肌の、薄い胸の、美しい、アイリーン・アドラーのような、妖しい、人。

 迷言さんは――快活な笑みを浮かべて、人差し指を、自分の口元に当てた。

「どうでも良いじゃないですか、そんなこと」
「でも、そこに」

 黒と白の、箱が。
 開けないと、いけないものが。

 たしかに、あったような、気が、していたのに。

「そこに何かあるんですか? 何もありませんよ」

 ——長い夢でも、見てたんじゃないですか。ご主人様。

 これは
 何が起きたというのだ。

「それは『謎』です」
「『謎』…」

「全部全部『謎』にして仕舞えば良いんですよ。『謎』にしてしまえば綺麗です。楽です。ね、お客様、ご主人様。ふふ」
「何も? ……何も」

「――何もありません、でした」
「ふふ。よく言えました」

 そして、迷言(まよい)さんは人差し指を、自分の口元から、彼女の口元へと持っていく。

 そうだ。
 何も、不思議なことはない。

 ——自分の能力は《歪な共犯者(ノーバディノウズ)
 ——身の回りで殺人事件が起こる。

 それは殺人嗜好に起因する魔人能力だ。
 自分は、迷言(まよい)さんを使って。迷言(まよい)さんは、自分を使って。
 端的に言って、皆殺しだ。

 東京中の殺人鬼を、全員殺す。殺すと言ったら殺すんです。
 生活に邪魔な存在じゃないですかそうですね。
 そのために邪魔な存在も全員殺す殺すと言ったら殺すんですねそうですねそうしましょうそれがいい。

 自分は心が急速に軽くなっていくのを感じた。

「これで事件は『迷宮入り』——」

 迷言さんは、嬉しそうに笑った。
 そんな彼女が、堪らなく好きだった。

 ――おまえは、なんだ?

 それでも。
 どこからか、虫の羽音が聞こえ続けている――。


 その、箱の中身を、未だ、誰も知らない。 



case2/新宿殺人同盟(シークレットサービス)


「……あんたは、なんだ?」

 新宿、歌舞伎町。

 裏路地から雑居ビルの地下へ降り、四層八階十六部屋の厳重な霊子施錠(ふういん)を超えた先に、この街の夜を支配する女王の、謁見の間が存在する。

 そこで、今、三人の女が円卓を囲んでいた。

「うちは、美藤羊子(びとう ようこ)。初めまして、かわいいお嬢さん」

 一人は、騙し絵のような美女だった。
 見る者があらゆる理想を投影できる、さながら見る角度によって輝きを変える宝石だ。

「殺人器。仇の話を聞かせてやった恩を、鉛弾で返すのか?」

 一人は、彫像のような美女だった。
 その存在によって人の美意識を塗り替えるような、圧倒的な存在感を放つ美の基準点だ。

「――無問題(どうでもいい)

 美藤羊子に銃を突き付ける最後の一人は、他の二人に対し、平凡な容姿の少女だった。

「私は、ただ、そこの大姨妈(クソババア)から、兄弟を、引き取りに、来ただけ。他の、殺人鬼と、慣れ合う気、ない」

 黒フードの少女は、そう言い切る。

 関東近県で最近名を馳せるようになった連続腹上殺人鬼『愛人形』美藤羊子。
 新宿の街を牛耳るヤクザのトップ、夜魔口吸血(やまぐち くがち)
 東日本各地で武器の闇取引を邪魔し続けている殺人器、黒星(ヘイシン)

 三者の間に、剣呑な空気が漂う。

 その張り詰めた雰囲気を救ったのは、夜魔口の執事が円卓に配した、一皿だった。

「――チョコミントアイスがお好きだと、伺いました」
「……緑色じゃ、ない?」
「失礼。着色した方がよろしかったですか。味は市販に負けぬと自負しております」
「……食べ終わるまで、話は、聞く」

 毒気を抜かれたように、黒フードの少女、黒星は椅子にかけなおした。
 その手からは、拳銃が忽然と消えていた。

「ふふ。かわいい。それじゃあ、始めていいかしら」
「……ぁ。好吃……」
「おい。殺人器。顔が、緩んでいるぞ?」
「……っ。無問題(つづけていい)

 執事に自家製アイスクリームのおかわりを要求しながら、黒フードの少女は頷いた。

 美藤羊子の提案は簡潔だった。
 たった二晩で秋葉原と、池袋を壊滅させた、B級殺人鬼TT-126『謎掛』。
 それを殺すまで、夜魔口組と共同戦線を張りたいというものだ。

「秋葉原で1万人強。池袋で3万人強。都合、5万人。東京の人口の0.5%強と、警察も匙を投げたA級殺人鬼が、およそ一人によって、殺された。たった、二週間で。それが――『謎掛』」

 夜魔口組組長、夜魔口吸血にとっても、美藤羊子の提案は悪くないものだった。
 B級殺人鬼とは即ち「警察が逮捕、勾留、殺害などの対処を行うべき存在」として最上級の危険性を保有するとされるもの。

「通常であれば、この国における年間死者数は135万前後。死因一位の悪性新生物(ガン)の死者が、一年365日で30万人強。つまり、『謎掛』は単純に、ガンの4倍は危険な、人類の天敵というわけだな。五角形のお偉方からは、準EFB級魔人災害認定の上で、二十三区ごと核で焼けという話も出ているらしい」
「そんな映画があったわね。「Pentagonでは既にB83核弾頭の爆発規模選定と、有効な爆発高度設定のteamが動いているそうよ」って?」
「石原さとみの米国特使か。役者顔負けだな」
「演劇部だったの」
「ともあれ、事態はそういうレベルということだ。日本で最も有名な放射能巨大トカゲに近い評価を、すでに『謎掛』は得ているというわけだ」
「……殺人鬼一人に、大げさ」

 B級殺人鬼認定は、対象が「警察が逮捕、勾留、殺害などの対処を諦めた」A級殺人鬼よりも危険性が低いことを意味しない。
 A級殺人鬼は「手に負えないから」A級であると同時に「放置していても国の枠組みを揺るがさない」からこそ、公的機関が静観という判断を下せるという面もあるからだ。

「今日の昼から、新宿の各地で、ヤツの魔人能力の影響を受けた人間……これを夜魔口では『箱』人間と称しているが……が、複数件確認されている。昨日の夕方頃、池袋で起きたのと同じ兆候だ。おそらく、ヤツの次の狩場は、新宿だろうというのが、警察と夜魔口の共通見解だな」

 この点において、『謎掛』は、A級を超える危険性を孕むB級殺人鬼。
 即ち、「対応策はないが、対応しなければ国家が滅びる」レベルの殺人鬼なのだ。

「警察とは話が通っている。魔人犯罪対策室も躍起になっているが、ヤツは『消える』ことができるようでね。まさに、雲を掴むような捜査で殉職者は増えるばかりだと。ヤクザにSOSを出すんだ、奴らも相当追い詰められているってことだな」
「けど。昨日の夜明け。うちは『謎掛』が見えた。すれ違った。あれがそうだとわかった。なら、逝かせることもできる。助けは、欲しいけど」

 取り留めのない、美藤羊子の言葉に、黒星は首を傾げた。

「そういう、魔人能力?」
「半分、正解。『謎掛』が消えるのは、アレの能力。でも……うちにアレが見えるのは、多分……「血が、そう呼んだから」……みたいね? 組長さんから聞いた話だと」

 ――ど く ん。

 少女の鼓動が、大きく跳ねる。
 椅子を蹴り、黒星の身体が跳ねた。
 彼女の手の中に出現したのは、レミントンM870。
 世界で最も有名なポンプアクション式ショットガンの一つだった。

 美藤羊子から放たれる、奇妙な温い感覚にジャミングされて、気づかなかった。
 しかし、確かに、彼女からは、黒鬼に感じたのと同じ、敵愾心を誘う気配があった。

 即ち、美藤羊子もまた、『呪い子』。
 黒星と同じ。とある吸血鬼に噛まれ、呪詛を受け、殺人衝動と力を得た者。

「吸血鬼だなんて、知らなかったけど。血、吸ったことないし。でも、血と精液って、似たようなものみたいだし。そっちなら、いっぱい摂取してたけど」
「無体について聞こうとしても無駄だぞ。私が確認した。美藤羊子は、覚えていない」
「噛みついて逝くのが好きな子が何人かいたから、それかも。くらい」

 黒星は、無言でアクションを引き、イジェクションポートに、12ケージを装填する。
 銃口は、床に下げたまま。それはそのまま、黒フードの少女の逡巡を示していた。

「夜魔口と、そこの、大奶が同盟を結んでも。私には、関係ない」
「頭を冷やせよ、殺人器。美藤羊子(のろいご)に認識できて、魔人警官(ふつうじん)の網を潜り抜けた。なら、『謎掛』ってヤツは」

 ――『呪い子(どうるい)』。あるいは、『無体(ほんめい)』ということだろう。

 黒星。人を殺す殺人器。その機能を振るうことが目的。
 だが、それ以上の優先すべきものは「家を殺し、兄を腐らせた、殺人鬼に憑依する吸血鬼――『無体』の討伐」である。

 だからこそ、夜魔口吸血の言葉の効果は、絶大だった。

「なら、ここで一枚噛むのも、悪くないだろう? 黒鬼と同じ。おまえは夜魔口を利用し、夜魔口はお前を利用する。対等な関係さ」

 呼吸三つ分の沈黙。
 黒星の手元から、ショットガンが消え去った。
 そして、黒フードの少女は、もう一度、アイスクリームのおかわりを要求した。

「……同盟は、ジェノサイド野郎を、殺すまで」
「賢明な判断だ」
「喜んで。うちも、あなたに興味あるし」

 美藤羊子は嫣然と微笑み、黒星の頬に触れた。
 あまりに自然な動きに、黒星の反応が遅れ、細い指が黒フードの中の白い肌に触れる。

 びくん。

 瞬間、全身に溢れた感触に、黒星の身体が、跳ねた。

「……ッ? なに? を、した?」

 心底、怪訝な表情で、黒星は羊子を睨みつける。
 ぞくぞくとした歓喜、そして、義務感が、美藤羊子の背を駆け抜けた。

 美藤羊子の魔人能力は『ラムのラブジュース(ラブ・ポーション)
 電気信号を発し、対象の神経に任意の刺激を送り込む。
 快楽をこそ人体最高の機能であると認識する彼女はこれを、不可視の媚薬として用いる。

 今のはほんのからかい程度。
 甘やかな愛撫めいた刺激を、指先を通じて少女へ送り込んだだけだった。

 だが、まるで全身を雷に撃たれたような反応。
 間違いない。未絶頂。しかも、性的感覚に関して無知無関心。
 この少女は、今の刺激が、どんな意味を持つかすら、ろくに理解していない。

 少女の経歴は、夜魔口吸血から聞いている。
 そこからすれば、意外なほどに、性に対して白紙だった。

 どんなに繕おうとしても、脳の電気刺激に対する反応で、羊子は相手の「慣れ」を一目で看破する。これは、魔人能力というより、経験と本能に基づく第六感に近い。

 昂る。昂る。新雪を見つけたスキーヤーのように、心が踊る。
 性の喜びは生の喜びである。それを、この少女に、教えたい。刻みたい。
 自分を、武器であると任じる少女に、その血の通った肌の意味を、伝えたい。

 けれど、今は、『謎掛』を(ころ)さないと。
 だから、美藤羊子は我慢する。我慢できる。

 一昨日までの殺人鬼『愛人形』であれば、この湧き上がる愛おしさのまま、即座に目の前の少女の神経を、理解できぬほどの快楽で塗りつぶしていただろう。

 だが、今の彼女は、悟りに触れたもの。
 快楽を求め、快楽を奉じながら、万民にそれを施さんという母性を得たものである。
 たとえそれが、異形の魔人に植え付けられた精神性であったとしても。
 彼女は確かに、聖女に近いものへと変じ果てていた。

 だから、我慢する。我慢できる。

「『謎掛』を倒したら――」
「うん。同盟破棄。晴れて二人で――」

 かくて、最強のB級殺人鬼に対抗すべく、D級殺人鬼二人と指定暴力団の、一夜限りの同盟が結ばれた。

「「――(あい)しあいだ/ましょう」」

 たとえ彼女たちが敗れても、国の威信をかけて、『謎掛』は排除されるだろう。
 たとえこの国が敗れても、大国がその全てを投入して、世界から消すだろう。

 けれど、それはおそらく、この東京という都市と道連れの話。
 だから、当人たちに全く自覚はなかったとしても、この同盟は、この街と人とを守る、最後の守り手(シークレットサービス)であった。

 一人は、母性のため。
 一人は、私怨のため。
 一人は、責任のため。

 徹底的に利己的で救いようのない悪党達と。
 ただ平穏を求めるだけの、喫茶店の住人達の殺戮が始まる。

「話がまとまったところで、その殺人鬼の情報だ。日本人だったのが幸いしたな。経歴も含め、相当な詳細まで把握できている」

 吸血は、警察から提供された資料を円卓に広げる。
 そこには、どこからどうみても人畜無害にしか見えない、青年の写真が貼られていた。

「これが――『謎掛』だ」


case3/惑わせるもの隠すもの(メイズメイカー)



 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の羽音が聞こえてくる。

 視界の端に、無数の黒い箱がある。
 けれど、見ようとすると、それは消えてしまう。

 見えないものは、どうでもいいのだ。
 見えないものは、ないものだ。

 足首から先はもうないはずだ。けれど、黒い四角に包まれて、その傷口がどうなっているかは『謎』だ。
 歩けているのだから、どうでもいい。

 歩く。歩く。歩く。
 夜を歩く。
 池袋では、だめだった。
 たった一人しか、殺人鬼が来なかった。

「お客様。一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)様。ピクニックですね。夜の遠足。私、小さいころ山で迷子になったんです!」

 迷言さんに抱擁されながら、自分は、他に誰一人言葉を発しない道を歩く。
 すれ違う人もいない。

 誰もいないからではない。
「全員が、無言で、同じ方向へ歩いている」からだ。

 迷言さんと自分との睦言を邪魔する者なんていない。
 みんな、首から先が、黒い立方体で包まれているから。

 迷言さんの魔人能力《迷図謎掛(メイズメイカー)》は、包んだものの情報の出入りをコントロールする。
 きっと、この人たちは全員、自分や迷言さんが向かう方向へ赴く理由に足る情報を、脳に流し込まれているのだろう。

「夜は短し歩けよ乙女! 友達百人なんて小さいことは言いません。一千人のワクワクミッドナイトお散歩大会です!」

 楚々とした容姿と裏腹に、快活な迷言さん。
 抱擁する腕に力が入る。薄い胸がぎゅっと押し付けられて安心する。

 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の羽音が聞こえてくる。

 池袋を全て《迷図謎掛》に包み、東京中の殺人鬼を集めて皆殺しにする。
 その計画は、A級殺人鬼――長谷村さんの登場によって、台無しになってしまった。
 ただ一人を殺すためだけに、用意していたものを全て使い果たしてしまったのだ。

 だから、計画は、最初からやり直し。

 どう言えば、迷言さんが喜ぶか。
 どうすれば、迷言さんがやりたいようにできるのか。
 一生懸命頭を捻って、自分は提案した。

「場所も、池袋から、新宿へ変えて、心機一転やりましょう」
「ええ。良いですよ。お客様。詰丸(つまるまる)様」

 嗚呼。そしてまた、自分に決断をさせるのだ。この人は。
 人殺しとしての決断を。

 ――■■とは、矛盾する決断を。

 でも、仕方ない。

「自分は、短絡的で直感的で行動的で、理由のない殺人を行う犯罪者だから」

 遠い昔。あるいはつい最近。
 どこかの『秘密主義者』から強制された言葉を、自分は口にしていた。


case4/敗北を刻むもの(クロボシ)



『――秋葉原から、『謎掛』と思われる手勢が、水道橋、市ヶ谷を経由して進攻中』
『――その数、一千人以上です!』
「もう、見えてる」

 イヤホンから伝えられる情報に、黒星(ヘイシン)は溜息をついた。

 新宿駅から南西。ビル街のイメージと裏腹な緑の中を、少女は走る。
 新宿御苑。それが、黒星の選んだ戦場だった。

 無数の足音が、少女を追ってくる。
 数える気にもならないほどの、人。人。人。

「面倒臭い、数」
『謎は謎を呼ぶ、ってことね。うちも、一対一が好きなのだけど。乱交はほら、愛がないと思うから』

 夜魔口吸血を通じ、黒星と『愛人形』美藤羊子は、『謎掛』の情報を得ている。
 警視庁魔人犯罪対策室が、数万人の犠牲と数百人の殉職者の上で分析した結果だ。

  • 『謎掛』は、認識を制御する魔人能力である。
  • 魔人能力の発動条件は、仮称「マヨイサン」による、接触である。
  • 『謎掛』が触れたものは、『箱』に包まれる。『箱』の中身の情報は、外からは知覚できなくなる。あるいは、誤認した形で伝えられる。
  • 『箱』の中身が生物である場合、中にいるものは、外の状況を知覚できなくなる。あるいは『謎掛』が望むものを『箱』の外の情報であるかのように知覚させられる。
  • 頭部を『箱』に包まれたものは、『謎掛』にあらゆる認識を支配され、操作される。この状態の者を『箱』人間と仮称する。
  • 『箱』の大きさは、通常、成人の頭部程度。しかし、一定地域内に、『箱』人間が多数存在する場合、特定地域を包む、巨大な『箱』を形成できる。
  • 『箱』に触れた非魔人は、『箱』に包まれる。
  • 心身共に無力化されていない限り、魔人が『箱』人間にされることはない。

「……訂正。面倒臭い。数だけじゃない」
「愚痴るなよ、殺人器」
「うるさい、自称組長」
「なんだそれは」
「警察の記録、調べた。あんたは、ただの幹部で、組長じゃない。虚飾外表(みえっぱり)
「何を今更。公的な記録で永遠に組長が同じ名では、問題だろう。無駄に細かいところは、師弟そっくりだな」

 軽口を叩き合いながら、黒星の口元には微笑みが浮かんでいる。
 夜の静けさを、無数の足音が塗りつぶす。地を揺らす。
 東から迫りくるのは、群衆。否、軍勢。

 服装はばらばらだ。ただ、全員が、黒い立方体に頭部を覆われている。
 まるで、シュールレアリズムの絵画か、バッドトリップの幻覚めいた光景だった。
 全員が、『箱』人間。謎掛に支配された、眷属とでもいうべき手勢である。

 おそらく、『箱』に頭を覆われた人々は、新宿の方に、憎しみをかきたてるような何かを幻視させられているのだろう。

 魔捜研の資料曰く、『箱』人間は、接触するだけで非魔人に感染するのだという。
 出会った人々に接触し、犠牲者を増やし、手勢に変えていく。
 まるで、ねずみ算。こうして、『謎掛』の『箱』は加速度的に増加する。

 謎が謎を呼ぶ、とは、美藤羊子もよく言ったものだ。

 池袋の事件のときには、たった二時間足らずで、数万人の市民が『箱』人間にされ、それを核として、池袋全体が巨大な『箱』に覆われたという。
 これにより、警視庁も自衛隊もまともな対策がとれず、全てが『謎掛』の望むがままとなった。

 であれば、『謎掛』の勝利条件は、この街で、池袋の再演をすること。
 対して、『愛人形』、黒星、夜魔口組の目的は、新宿における『箱』の増加を防ぎながら、『謎掛』の本体を叩くことだ。

 作戦はシンプル。
 最も面制圧力の高い『黒星』が派手に戦い、本体を呼び寄せ、その間に、夜魔口の手勢が『箱』の増加を防ぐ。
 単体相手の殺戮と索敵に特化した『愛人形』は、遊撃と斥候。

 つまり、黒フードの少女に与えられた指示は一つ。「好きにやれ(アズ・ユー・ライク・イット)」。
 悪くないオーダーだった。
 いけ好かないヤクザからでなかったら、口笛の一つでも吹いていたところだった。

「――さあ。満身鮮血(ブラッドバス)だよ。兄弟」

 場所は平地。押し寄せてくる『箱』人間の群れ。
 狙いは不要。撃てば当たる。
 ああ、なんというおあつらえ向きの舞台。

 ここであれば、兄弟を活躍させてやれる。
 武器として生まれながら、出来損ないとして、世界中で笑いものにされたもの。

 武器として生まれたなら、武器として活躍できるように。
 祈りを込めて、黒星は、それを展開した。

 収納していた武器を亜空間から展開する、黒星の魔人能力『灰色の武器庫』。
 それによって、『箱』人間たちの前に現れたのは、個人携帯用の火器ではない。

 あまりにも大きく。無骨で。不安定なものだった。
 最も近いものを挙げるなら、糸巻車。あるいは、ミシンに使う、ボビンというパーツ。
 巨大な車輪。それが、ロケットモーターによって、動き出す。

 その武器――兵器の名は、パンジャンドラム。
 第二次世界大戦期に、イギリスが開発した、ロケット推進式自走陸上地雷である。

 大量の炸薬を直径3mの車輪にに積載。
 搭載したロケットモーターにより敵陣へ射出し、その質量と炸薬の爆発によって、防壁塔を破壊する、ノルマンディー上陸作戦の切り札……のはずだった。

 しかし、地面の凹凸や摩擦による転倒、誘導性がないことによる迷走、ロケットモーターと炸薬を小さな躯体に詰め込むことによる暴発などが相次ぎ、「世界で最も滑稽な失敗兵器」との烙印を押された。

 だが。黒星は、これを、武器であると認識した。
 武器として作られながら、武器として使われず、打ち捨てられた、見捨てがたい兄弟だと思った。

 手を加え、炸薬を追加し。車輪の安定性を増し。姿勢制御のための機能を強化した。
 かくて、50年以上の時を超えて、実用兵器として、「滑稽な車輪」が、謎に支配された軍勢に対し、牙を剥く――。

 火を噴き、転がる巨大な鉄車輪。

 轢殺。轢殺。轢殺。轢殺。轢殺。轢殺。
 肉の壁が、肉の群れが、「滑稽な車輪(パンジャンドラム)」によって、一直線に蹴散らされる。かつて、大西洋の壁を穿つはずだった遺産が、ここに新宿の街を疾駆する。

 『箱』人間たちはやがておしくらまんじゅうめいて密集すると、車輪を押しとどめた。何人もの圧死を『箱』人間たちは気にしない。まるで、蟻の行進のように無感情な行軍。

 しかし、この兵器は、『地雷』である。轢殺だけが機能ではない――。

 爆炎。爆音。爆風。

 車輪を止めるために集まった者たちをまとめて、闇に爆ぜた光が薙ぎ払った。

 密集して止めるのは悪手。しかし、『箱』人間たちはそんなことを理解することはできない。なぜなら、彼らは、『箱』によって、自分たちを襲うものがなんであるのか、理解できていないから。

 これが、『謎掛』による支配の限界。
 自由意志を操るのではなく、『認識誤認』の弊害だった。

 この惨状を『箱』はどう偽造して見せているのか。
 混乱し、或いは、散らばる死骸に足を取られ、『箱』人間たちの足並みが乱れる。
 そこを、黒星のUZIが、9x19mmパラベラム弾が毎秒10発の速度で薙ぎ払った。

 『箱』人間たちは、『謎掛』の能力によって操作されているだけの、被害者である。
 もしも黒星が正義の味方、あるいは、官憲に属するものであれば、手段を選び、さらなる苦戦をしていただろう。

 しかし、黒星は、殺人器である。
 人を殺す機能を持って作られ、その機能を振るうことに躊躇のないものである。
 だから、殺す。殺す。殺す。

 手榴弾。自走式地雷。軽機関銃。ロケット弾。
 およそ人類が開発してきた、無数の殺意によって、『箱』を物理的に粉砕する。
 自らの意志で動いていない有象無象など、近代兵器の前には、ボウリングのピンに等しい。

 そんな、奢りを。

「――いけません。『謎』を解くなら、もっとスマートにしないと」
「っ!?」

 虚空から伸びた、白く細い指が、否定する。
 黒星の腕に触れた、その指先から。空間が捻じれ。歪み。そして。

 ――黒い立方体が、黒星の左手から先を、包み込んだ。

 痛みはない。嫌悪感もない。危機感すら感じない。
 いや。それどころか。「そこにあるはずの手」の存在すら、感じ取れない。

 謎。迷宮入り。故に。その部位は、用を為さない。
 あるはずだという前提で、動かすことすらできない。

 油断した。
『謎掛』の能力は、認識に干渉するもの。
 だから、強固な認識によって世界を改変するほどの自我を持つ魔人ならば、無力化されないのだと、そう思っていた。
 事実、『箱』人間にされることはないのだろう。

 だが、だからといって、『謎掛』の脅威が及ばないわけではない。

 手であったから、まだよかった。
 これが、足であったならば。

 落ち着け。
 かつて、師から教わった呼吸法で心臓を押さえつけ、黒星は自分に言い聞かせる。

 自分は武器である。
 黒星は武器である。

 自分の『灰色の武器庫』は、武器を収納する亜空間能力である。

 そんなはずはない、という、脳の当然の反論を否定する。
 武器は心臓を動かすのか、という、肉体の当然の反論を棄却する。

 自分は武器である。
 黒星は武器である。

 自分の『灰色の武器庫』は、武器を収納する亜空間能力である。

 故に。

 心臓を動かさず。
 その身に血すら流さない限りにおいて、自らの生命活動を否定することによって、黒星は、『灰色の武器庫』に収納されうる資格を持つ。

 ――『灰色の武器庫』。

 瞬間、その世界から、黒星という存在は、武器として承認された。

 それは、魔人能力を行使した敗走。
 黒鬼の時とは違う。初戦は、間違いのない完敗だった。

 しかし、それを黒星(ヘイシン)は悔やまない。
 もとより、敗北など、とうに名前に刻んでいるのだから。



「――ふふふ。消えてしまいました。これは、『謎』ですね」

 虚空から顔を出した黒髪のメイドさん――〼虚迷言(くちなし まよい)は、空を掴んだ自らの手を、愛おしむように口元に寄せた。

 人差し指を立て、桜色の唇に触れる。

「あなたも、(どうぐ)の匂い。ああ、楽しい夜にいたしましょう。ね? 一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)。ご主人様」

 メイドの振り返った先には、彼女と同じ、クラシックなメイド服に身を包んだ、白髪まじりの青年が佇んでいた。


case5/聖母(アイドル)



(うちは、何なのかしらね)

 走りながら、美藤羊子は自問する。

『愛人形』美藤羊子は、魔人である。
 性欲によって世界を認識し、世界律を変容させる、淫魔人という存在だ。

 それが今、新宿夜間人口30万人を守るために、夜の街を走っている。
 それが、おかしくてしかたなかった。

 すべては、昨晩。
 とある殺人鬼との、殺し合いがきっかけだ。

 どこまでも醜く、救いようのない、悲しい男。
 容姿が、ではない。ただのその在り方が醜悪で、そして、だからこそ、愛おしい子。

 認識錯誤。あるいは、洗脳。
 おそらくは、そういう魔人能力であったのだろう。
 あの戦いの中で、美藤羊子の心には、悟りにも似た母性が生じていた。

 魔人能力は、使用者が死亡した際、二つの結末のうちいずれかをたどる。
 一つは、単純に効果が消滅する場合。
 一つは、残留し、さらに強まって効果を及ぼし続ける場合。

 美藤羊子にかけられた能力は、使用者である殺人鬼『スピリチュアル・バフバブ・オタク』が死して、なおも彼女の行動に影響を与えていた。

 元の彼女は「自分の快楽のために」、対象を性的絶頂の上で殺していた。

 人の喜ぶ顔を見て、自分の暖かい気持ちになる。
 そんな気持ちの延長線上として、「人が快楽のまま死ぬ」「それ以降、快楽以外を味合わずにすむ」ということをもって、自らの快楽としていたのである。

 その意識、哲学は、今、悟りによってより高い位置、あるいは低い位置へと移動していった。
 即ち、誰であろうとこの滅びから逃がしはしない、という妄執めいたものへ。

 その意識からすれば、池袋の3万人殺しである『謎掛』は、彼女にとって許しがたいものだった。

 ――なんと、もったいない。

 聞けば、『謎掛』は、被害者全員の感覚を遮断し、無抵抗な人々を別の殺人鬼に縊り殺させたという。

 そんな死に、どんな快楽があろう。
 たしかに、絞殺鬼は絶頂のまま死んだかもしれないが、それでは、3万人はどうなるのか。
 自分だったら、その3万人、全てを、絶頂のうちに殺すことができたというのに。

 だから、『愛人形』美藤羊子は走る。
 新宿の30万の命を守り。そして、しかる後に、全員に、この手で絶頂と死を与えるため。

 全身から、微弱な電気を放射する。
 魔人能力『ラムのラブジュース(ラブ・ポーション)』は、対象に快楽を始めとした刺激を電子信号を介して送り込むものだ。

 しかし、どのような信号が快楽に繋がるかは、個人によって異なる。
 この差異を弁別するため、彼女の能力は副次的に、対象の感情や位置といったものを知覚することにも使用できる。

 効果範囲は半径50m程度。
 知的生命体の感情を知覚するレーダーのようなものだ。

 その能力を使い、千人を超える『箱』人間と、数百人の夜魔口組の組員、そして、数人の魔人殺人鬼が跋扈する夜の新宿の戦況を、美藤羊子は的確に把握していた。

『箱』人間は、身体能力自体は普通人だ。
 触れられれば一般組合は『箱』人間にされるが、近寄られる前に膝を撃ち抜けばいい。

 不意打ちで崩れている戦線もあるが、夜魔口組の組員はよく持ちこたえていた。
 おそらくは、『謎掛』も疑問に思っている頃だろう。
 池袋と比べて、『箱』の増殖が遅すぎる、と。

 当然だ。
 今、この街には、本来30万人いるはずの無力な市民、そのほとんどが、区外へと退避させられている。

 この街は、夜魔口吸血の支配領域。
 領民を一時的な催眠状態にし、移動させておくなど、造作もない。

 平時であれば、古種吸血鬼の大規模な能力行使は人類種への攻撃と見做され、退魔魔人組織の精鋭が新宿に送り込まれるところだが、今回は『新宿を守るため』という大義名分により、政府からのお目こぼしかあったらしい。

(時間の問題。けど、前戯には十二分)

『箱』人間から感じられる感情は、恐慌、そして、憎しみだ。
 それが、美藤羊子には、悲しかった。

 試しに一人を絶頂させたが、快楽刺激が脳に到達する前に遮断されているようで、射精しながら脳には苦痛しかないという、ひどくつまらない結果に終わった。

 やはり、『謎掛』を殺すしかない。

 爆発音と赤い光、続いて、銃撃音が響く。
 御苑で、黒星が暴れているらしい。

『箱』人間では、戦闘型魔人には役者不足。
 しばらく暴れていれば、『謎掛』本体が仕掛けてくれるだろう。

 周囲を伺いながら、『箱』人間を避けながら、美藤羊子は御苑へと踏み込む。

 と。

 突然、背後に、敵愾心の感情が、出現した。

「!」

 次の瞬間、
 超高濃度の絶頂信号を纏った美藤羊子の指先と、
 研ぎ澄まされた、黒星(ヘイシン)のセラミックナイフが、互いの首筋の直前で止められていた。

「あら。どうしたの?」
「――一敗。何が、『血が呼んだ』だ。全然、気配も、わからなかった。『無体』でもない。『呪い子』の気配も、なんだか、薄い気が、した」
「そう? 処女にはわからない、みたいな制約があるのかしら」
「……共倒れ、狙ったな?」

 少女の片手首から先は、切り落とされ、パーカーの切れ端で止血されていた。
 どうやら『謎掛』に、手ひどくやられたらしい。

 逃げる際に、何らかの無理をしたのだろう。
 黒フードの少女、黒星からは、鉄の匂いがした。
 唇を舐めればきっと血の味がするだろう。

「まさか。うちは、あなたを愛してるわ」
「……気持ち、悪い。離れろ」

 かさかさに乾いた黒星の飾り気のない口元を見て、羊子は舌なめずりをした。

「で? 『謎掛』は?」
「おびき寄せた。半径100m以内に、本体がいる。今度は、仕留める」
「OK。気持ちよく、フィニッシュと、逝きましょう」
「2分待って。補給、する」

 黒星は、ポケットから一枚の紙を開くと、藪の中にしゃがみこんだ。
 しばらくごそごそと周囲を探し回った彼女の手には、手榴弾と、短機関銃があった。

「……新宿は物騒ね」
「どこかの、運び屋の、置き忘れ。街中にある。せいぜい、有効活用」

 黒星の言葉に、羊子はどこか悼むような響きを知覚した。
 そのことを指摘しない程度には、そして、周囲を歩き回る『箱』人間たちと同程度には、確かに『愛人形』は黒フードの少女を確かに愛していた。

 これも、昨日まではなかったことだ。
 もっと、美藤羊子の愛は利己的で、限定的で、だからこそ燃えるようなものだったはず。
 それが今は、広く、薄く、暖かいものへと変わりつつあった。

「何か?」
「別に」

 黒星が、銃を構える。
 美藤羊子の指先に、電気が走る。

 そして、二人は、それぞれ。
 互いの背後に迫っていた『箱』人間を、無力化していた。

「気づかれたわね」
「無問題。あとは、手筈通りに」

 黒星が再び飛び出す。
 鉄と硝煙をまとい、夜に踊る少女は、まさに「武器」を名乗るに相応しい。

 けれど、歪つだ、と、美藤羊子の母性が告げている。

 アイスクリームに感激し。
 初めての快楽刺激に戸惑って。
 大切な誰かの遺品を、愛おしむように握りしめる。  

 そんな少女が、人ではなく、武器であると、自分を規定するなんて。
 もったいない。あまりにももったいない。

 拳銃、弾切れ(アウトオブアモ)
 軽機関銃、弾切れ(アウトオブアモ)
 アサルトライフル、弾切れ(アウトオブアモ)

 放たれる鉛弾は無尽蔵。
 『箱』人間たちは、一国の武器庫を相手にしているようなものだ。

 美藤羊子は知らない。
 黒星の『灰色の武器庫』の格納容量は無限ではない。
 そう見えるのは、この街の各所に隠し置かれた、昨日までの新宿の守り手、『ブラックボックス』黒鬼の残した装備の在処を、少女が引き継いだからである。

 乱戦。
 血と火薬と鉄が、御苑の緑を汚していく。

 その中で、美藤羊子は、魔人能力による感覚を、ぎりぎりまで研ぎ澄ます。
 見渡す限り、この場には、黒星と自分、そして、『箱』人間しかいない。

 しかし、黒星がやられたということは、ここに『謎掛』は潜んでいる。
 おそらくは、自らの頭部に『箱』を仕掛け、ただの無害な『箱』人間であると擬態し、紛れ込んでいるのだろう。

 であれば、黒星ではわからない。
 おそらく、光学的な観察では看破できない。

 けれど、美藤羊子は、その見た目ではなく「感情」を、その源泉たる電気信号を知覚する。
 頭部だけの信号ではない。脳の信号を『箱』で隠しても意味がない。
 人は、身体でも思考し、身体でも情動する。それを、淫魔人である美藤羊子は誰より理解している。

 故に、『箱』人間の見た目でありながら。
 均一な理不尽への恐れと、混乱を感じているもの以外を――『謎掛』本体を、看破する。

 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。苦痛。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。
 恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。恐怖。

 見つけた。
 一人だけ。凄まじい、苦痛に、苦しんでいる人。
 なんで。殺しているのに。
 殺人鬼なのに。気持ちいいはずの、殺しの場で、こんなに苦しんでいるのか。

 殺しているから苦しいのか。苦しいから殺しているのか。

 思い出す、フラッシュバックする、蘇る。
 いつかの初体験。
 台風が通った時のような、力によって巻き起こる、あの日の昼下がり。
 閉ざされた村での思い出。
 母から繋がれた宿命と血統に込められた痛みの歴史。

 美藤羊子の母性が、そして、叛逆心が、疼いた。

(――苦しいから、価値があるなんて)

 その、苦しみからの解放を。

(――うちは、そんなことを、認めない――!)

 この身体は。この認識は。この異能は。
 全ての苦痛を否定し快楽を肯定するために目覚めたのだから――。

 自家発電による、充電。充填。
 弾けそうな電気刺激を、指先と両の足に収束する。

 チャンスは一回。
 息を殺し、その機を待つ。

 そして。

『箱』人間を蹂躙する黒星の背後に、黒髪の美しいメイド少女が、現れた。

 殺人鬼『謎掛』を相手にする上で、最も危険な存在。
 A級殺人鬼KY-017における、長谷村佳夏子に相当するモノ。

 それが、黒星を排除するために動いたということは。即ち。
 『謎掛(・・)の本体は(・・・・)、無防備であるということ――。

 美藤羊子は、己の能力を最大出力で稼働する。
 黒髪のメイド――〼虚迷言(くちなし まよい)に、ではない。

 自分自身を、対象に。

 ――『ラムのラブジュース(ラブ・ポーション)』。

 自らの全身を巡る、電気信号を、加速する。
 快楽と、動機の加速。そして、『世界が遅くなる』。

 これこそ、彼女の切り札。
 自らの体内を巡る電気信号を純粋に加速し、思考よりも速く反応、意識よりも疾く筋肉を駆動させる。

 ただ、この瞬間だけは、

(うちが、誰より一番――、一番、疾い――!)

 走る。走る。
 ただ一人、苦痛の感情に全身を苛まれ続けている者、『謎掛』の本体へと。

 標的の反応が、一瞬遅れる。

 美藤羊子は知らない。
 標的には、片目がない。標的には、両の足先がない。
 昨日、A級殺人鬼KY-017との戦いの負傷だ。

 死角の多い視界。不自由な足。
 そのような状態で、美藤羊子の高速移動に、標的である青年が、反応できるはずがない。

 〼虚迷言(くちなし まよい)が、振り返る。
 凄まじい勢いで、美藤羊子の標的との間に割り込もうとする。

「……そいつが、今夜の、殺手鐗(きりふだ)

 黒星の銃弾がメイドの足を貫いた。それでも走り続ける執念は賞賛に値する。

 だが、遅い。

 痛みは快楽で和らげる。
 より強い快感によって上書きする美藤流の鎮痛剤。
 美藤羊子の、『愛人形』の、最大出力の快楽刺激が、

「ぁ――」

 メイド服をまとった、白髪の青年――一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)の、股間に、流し込まれる。
 青年を苛み続けた苦痛を、ほんの一時、上書きした。

 魔人能力の、二度の最大出力行使。
 体力も、精神力も、この一瞬で、全て使い果たした。

 次の瞬間には、美藤羊子は、〼虚迷言に触れられ、『箱』人間にされるだろう。

「気持ちいいままで終われて良かったわね」

 それでも、聖母めいた微笑みで、『愛人形』は、勝利を宣言した。

「――救われた、と、うちは思うわ」



case6/**を知るもの(ノーバディノウズ)



 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の羽音が聞こえてくる。

 意識が、輪郭を取り戻す。
 「」さんに与えられた苦痛と。
 迷言さんに与えられた抱擁と。

 鉄が急速な加熱と冷却を繰り返すことで劣化するように、曖昧になっていた意識が鮮明になっていく。

 ――ああ、射精、したのだな。

 漠然と、自分は理解した。
 随分と、久しぶりの感覚であったような気がする。

 ずっと、自由を奪われていたから。
 自由なときには、迷言さんと一緒であったから。

 だから、そんな、自分の中の当然の欲求すら、忘れていた。

 賢者タイム、と人は言う。
 射精後の、穏やかな意識のこと、あらゆる欲から解放されたような錯覚を指す言葉。

 自宅のベッドの上であれば、ただ寝転がってしまいたくなるような、それだけの感覚が、今。自分の意識を大きく塗り替えていた。

 苦痛がない。恐怖がない。支配がない。
 停止していた、あらゆる手段で縛られていた思考が、正常に回転を始める。
 ただ、それだけで、一気に、これまで見ないようにしていた、疑問が湧き上がる。

 そう。それは、黒い『箱』、立方体の形をしていた。
 自分は、思考を回転させる。

 きっとこれは、ほんの一瞬だけ与えられた、チャンス。
 自分が、愛している、〼虚迷言(くちなし まよい)さんを。

 あの、異常女を止める、最初で最後の機会だ。
 漠然と、自分はそう理解した。

 意識を自らの裡へ。
 認識するのは、はじまりの場所。

 意識の中に、彼女たちとの居場所を――アンティーク喫茶『迷宮入り』を創造する。

 できないはずがない。
 全てが明晰になった今だからわかる。

 だって。最初から、『迷宮入り』は、秋葉原になど、なかった。
 最初から、あの喫茶店は、自分の心の中、心象の具現であったのだから。

 乱雑に配置された、黒い箱。
 その中に、一つだけ紛れ込んでいる、白い箱。
 気がつけば、自分は、古い洋ホテルにあるようなラウンジ然とした空間にいた。

 部屋の真ん中には磨りガラス製のパーテーションが何重にも配置されている。
 そこから、ひょっこりと、一人のメイドさんが顔を出した。

「……意識的に、ここに来られるようになったか」

 「」(かぎ かつこ)さんは、笑った。消えてしまいそうな顔だった。

「ここの黒い『(なぞ)』を全て暴こうってことかい? 迷言が……『謎掛』が、許すと思うか?」
「白い『(ひみつ)』を、ください」

 「」さんの微笑みが、消えた。

 ――どうして、自分は、■■に憧れたのか?

 自分の心の中では、様々な記憶が、黒い『箱』に消されて、『謎』にされていた。
 しかし、一つだけ。特定の概念だけは、白い『箱』――『秘密』だった。

 それは、「」さんの領分。
 ゲームのように隠して、解かれてもいいと思っている迷言さんではなく。
 絶対に、それが存在した事実すら隠蔽する、遊びのない「」さんの仕業だ。

「他の『箱』は開けてもいい。けれど、こいつはダメだ。解かれるべき『謎』じゃない。今となっては、誰にも知られちゃいけない……お前にだけは、知られちゃいけない『秘密』だ」
「――「」さん。ありがとう」

 カギ・カツコ。
 白の『箱』を隠そうとする、その『(なぞ)』を、解体する。

 「」。それは、中身のない、輪郭だ。

 であれば、その中に込められた言葉は、彼女の紡ぐ言葉は。
 すべて、自分が、言わせたものだ。自分が、自分を言い聞かせるための言葉だ。

 自分を律するために。かくあるべしという枠を壊さぬために。
 彼女は、決して触れてはならないものから遠ざけるために、拳を振るい続けたのだ。

「でも、もう、大丈夫、だから」

 つまり。「」とは。
 一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)の、超自我(りせい)に他ならない。

「……もう、『秘密』にしなくて、いいんだな」
「うん。そうじゃないと。僕は、迷言さんの前に立つ資格はないから」

 そう。迷言さんの横ではなく。
 前に立つために。

 迷言さんと戦うためではなく。
 迷言さんと戦うために。

「わかったよ。……ほら」

 「」さんは、自分の手に、手を重ねた。
 そこに、白い箱が、生み出される。

「これが――『秘密』だ」

 箱を開く。
 白の輝きが、いつかの記憶を、再生した。


 ?   ?   ?


 幼いころ。自分は、本物の探偵と、出会った。
 レザージャケットの下にカッターシャツ。ベージュのスラックス。
 燃えるような髪が目を惹く、颯爽とした人。

10(すべて)かつ00(かいむ)。つまり、矛盾する属性でも併存していいって、そういうことさ」

 なんで、こんな名前を、つけられたのだろう?
 からかわれて泣いていた自分の『謎』を、その人は即座に解体してみせた。

「推理するまでもない。その名前は、矛盾なんか気にせず、君が何にでもなれるようにって、祈りだろう。『お気に召すまま(アズ・ユー・ライク・イット)』ってヤツさね」

 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の声が聞こえてくる。
 夏の終わり。いつかの祝福。

「だから、君は、なりたいものに、なればいい。君の名は、それを祝福してる。この、世界一の迷探偵が保証しよう」

 ああ、ならば、自分は、探偵になりたいと。

 世界に満ちている謎の箱を開ける、彼女のようになりたいと。

 それが、白い箱――『秘密主義者』によって隠された、自分の始まり。
 昨日、池袋で、無数の人々を殺すと決めたときに、耐えきれずに隠してしまった祈り。
 殺人鬼となった自分に、それを目指す資格などないと、諦めた願い。

 けれど。

 自分は――一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)

 全て(10)かつ皆無(00)

 元より矛盾だらけの名前を刻んだ身。
 ならば、殺人鬼で、探偵であることに、何の不整合もありはしない。


 ?   ?   ?


 いつの間にか、自分の身を包む服装は、メイド服ではなくなっていた。
 当然だ。魔人は、認識により、世界律を改変するもの。
 それが心象風景の中であればなおのこと。自己認識は自己定義を模倣する。

 インバネスコートに、鹿撃帽。指の欠けた手には、パイプ。
 その衣装が意味するものは、ただ一つ。

「――お客様。一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)
「迷言さん」

 無数の黒の立方体を率いて、忽然と姿を現した迷言さんが微笑む。
 アイリーン・アドラーのような笑顔で。

「箱を、開けるのですか?」
「ああ」
「どうでも良いじゃないですか、そんなこと」
「でも、そこに」

 黒と白の、箱が、あるから。
 開けないと、いけないものが、

「『謎』が、あるから」
「全部全部『謎』のままにして仕舞えば良いんですよ。『謎』にしてしまえば綺麗です。楽です。ね、お客様、ご主人様」

 ああ。その、謎めいた表情が、自分は好きだった。

「全て事件は『迷宮入り』――」

 けれど。だからこそ。自分は、その箱を、暴かないと。

「違うよ。違うんだ。迷言さん。だって――」

 ホームズは、ホームズであったからこそ、アイリーン・アドラーと釣り合うのだから。

 ――おまえは、なんだ?

 どこからか、虫の声が聞こえてくる。
 一人目の翁名若菜を殺したときから響いていた音。
 きっと、これは、忘れないでくれという、白い箱の中身からのSOSだった。

一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)は、君の主人じゃない。客でもない。『謎掛』を解く――『探偵』だ」

 だから、自分は、探偵だ。そう、厚かましくも言い張ろう。
 偽物(パスティシュ)であっても。探偵であると願った者であると。

 白い箱が、形を変え、バールへと変わる。
 自分は当然のようにそれを構えると、手近な黒の箱へと突き立てた。

 ――どうして、『歪な共犯者』は殺人を誘発するのか?

 その『(なぞ)』を、こじ開ける。

 そもそも、『歪な共犯者』なんて、魔人能力は、ない。
 自分の周囲で殺人が起きるのは、自分が――あるいは自分に準ずるモノが、殺人を犯していて、自分が、それを自覚していなかっただけのこと。
 『歪な共犯者』とは、真犯人が、自分の罪悪感をごまかすためだけの言い訳である。

 ――どうして、〼虚迷言さんは、自分を、ご主人様と呼ぶのか?

 文字通りの意味である。
 〼虚迷言さんは、真実、自分の願ったことしかしない。

「できない」と言い換えてもいい。

 秋葉原のメイドの決まり文句としてではなく、真に、〼虚迷言さんにとっての一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)は、『主人』なのである。

 自分は、黒の箱を、手にした白のバールでこじ開け続ける。
 そのたびに、手に、腕に、傷が増えていく。

 痛い、苦しい、もうやめてしまえ。
 そう、世界が訴えかける。そこから導き出される答えは、暴かれた謎は、取り返しのつかないことを引き起こすと。

 けれど。
 その『(なぞ)』を、こじ開ける。

 ――どうして、「」さんは、自分を苛むのか?

 自分から正しい思考能力を奪うため。
 正気になってしまったら。自らの本能に根ざした殺人衝動と、理性に根ざした探偵願望が、分裂してしまうと危惧していたから。

 ――どうして、『迷宮入り』には自分以外の客がいないのか?

 ここは、物理的に存在しない空間だから。
 「」さんと迷言さん以外、自分の犠牲者だけが、自分の裡に踏み込んだものだけが、自分の心象領域に踏み込めるから。

 ――どうして、迷言さんと「」さんは、同時に姿を見せないのか?

 魔人能力の限界。
 自分の認識では、リアルタイムで、人と同等の存在をリアルタイムで認識、演算できるのは、一人が限界であるから。

 『箱』を開ける。
 『箱』を開ける。
 『箱』を開ける。
 『箱』を開ける。
 『箱』を開ける。

 片端から、黒の『箱』を開き続ける。

 白のバールはやがて灰色に汚れ、しかし、そうなればなるほどに、自分の思考は加速していく。
 一つの結論へと、論理が収束していく。
 当然だ。灰色とは、謎解きの色。その色をした脳細胞は、真実を探求するものだ。

 苦痛と疲労と重圧で、白くなってしまった自分の髪が、赤の輝きを帯びる。
 あの日、僕の『謎掛』を解いてくれた、迷探偵のように。

「秋葉原循環殺人事件。被害者6万人。池袋消失トリック。被害者3万名その犯人は――『謎掛』、〼虚迷言(くちなし まよい)さん。あなた、ではない」

 この『箱』が、最後の一つ。

「犯人は――」

 わかりきっていた、当然のような、けれど、致命の『箱』。

「犯人は――自分。一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)だ」

 迷言さんも。
 「」さんも。

 すべて、『認識を操作する』という、一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)の魔人能力の産物。

 迷言さんが懐かしげに語っていた、山で迷子になったことも、大好きなシャープペンシルをなくしてしまったことも、全て、一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)の記憶だった。

 最初から、殺人鬼は、一人。
 ただ、あまりにもその理性と本能に乖離が生じていて、それを誤魔化すことのできる異能があったから。
 だから、混乱した、混沌とした、悪夢のような日々に見えていただけのこと。

 いつの間にか、自分は、迷言さんの首に手をかけていた。
 きっと、「トドメを刺す」という行為の象徴が、自分にとっては、それだったから。

 迷言さんは、まっすぐにこちらを見上げると、囁いた。

「……私を許してくれますか?」
「いいえ」
「……私を愛してくれますか?」
「当然でしょう。だって――」

 その唇に、人差し指を当て、自分は断言した。

「世界で、探偵(じぶん)ほど、『(あなた)』を愛している人間なんて、いないんですから」

 〼虚迷言さん。
 美しい黒い髪も。薄い胸も。全て、認識の錯誤が生み出した、身体の無い麗人。

 つまり。〼虚迷言とは。
 一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)が、心の井戸(イド)に深く沈めた、殺戮衝動(ほんのう)に他ならない。

 これは、自分の殺人衝動と魔人能力の道具となった、滑稽な男の物語だった。

 でも、そんなことは、知っていた。
 彼女に、身体などないことを、わかっていた。

 だから、自分は、ありもしない魔人能力に、「無体を知るもの(ノーバディノウズ)」などと名づけたのだろう。

 迷言さんを、愛している。

 愛しているから。
 この異常女(じんせい)を、止め(おわらせ)よう。


case7/新宿誰何事件(グレイアーマリー)



 新宿が、揺れた。
 そう錯覚するような、異変だった。

 街のそこかしこで暴れまわっていた、『箱』人間が、糸が切れたように全て、地面に倒れ込んだのだ。

 池袋と秋葉原で5万人を殺した殺人鬼『謎掛』――一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)は、『愛人形』による絶頂刺激と、その直後に叩き込まれた、黒星の7.62x25mm トカレフ弾によって、絶命した。

 しかし、『箱』は消えない。
 死してなお残留する魔人能力。
 その『箱』の中身は、『迷宮入り』ということなのだろう。

 即ち、『箱』人間は癒えることなく。
 四肢に『箱』を植え付けられたものは、それをなかったものとする他ない。

「達磨とか。壁尻とか。そういうのは……苦手なのだけど」

 四肢を黒い立方体に包まれた状態で、美藤羊子は微笑んだ。
 〼虚迷言は、美藤羊子を『箱』人間にはしなかった。

 ただ、消える前に、栗毛の少女へと姿を変え、八つ当たりめいた渾身の拳打を叩き込んだ。
 あまりにも熟練した、数万、数億と繰り返されたかのようなその一撃は、紛れもない致命傷を、美藤羊子に刻んでいた。

「同盟は、終わりだ」
「知ってる」
「『呪い子』同士は、殺し合って、血を啜り合うものだ」
「らしいわね」

 確認するように口にする少女を、美藤羊子は幼子のように愛おしく感じた。
 殺人鬼なら、そんなことを確認しない。
 黒星のいう『殺人器』――器械であれば、そんなことを、躊躇わない。

 そんな、無駄が、矛盾が、たまらなく愛おしい。
 手足が動いたとしたら。存分に愛でて、昂らせ、自らの身体の機能を、神経の電気信号が生み出す快楽の理由と価値を刻み込み、しかる後に、殺しただろう。

 けれど、悔やむ気持ちは不思議と存在しなかった。

 母性とは、継承を是とする精神である。
 自らの個としての快のみならず、外在化投影化した自己――子という概念の快をしてよしとする精神性の発露である。

 少なくとも、美藤羊子は、そうであってほしいと願っていた。
 それは、彼女自身が、母親から欲しがっていたもので、最後まで受け取れなかったものだから。

 だから。
 スピリチュアル・バブバブ・オタク。
 その狂気の魔人能力で目覚めた「理想的な母性」は、「そういうもの」だった。
 それが、今、美藤羊子の精神的な麻酔となっていた。

「一つ、お願い」
「なんだ?」
「血を吸うなら、ここから」

 美藤羊子の囁きに、黒星は、露骨に顔をしかめた。

 溜息を一つ。黒フードの少女は、倒れ込んでいる美藤羊子のセーターをたくし上げ、驚くほど飾り気のないブラジャーのホックを外し、寒空に、その豊満な乳房を露わにした。

 そして、乳首ではなく、白い乳房そのものに、黒星は牙を突き立てる。
 まるで、子に乳を与えるように、美藤羊子は、自らから血を啜る少女を、愛おし気に見つめていた。

 最後の力を振り絞り、少女に、快楽を、送り込む。
 微弱な、撫でるような、むずがゆいほどの、幼い刺激を。

 黒星は両の足を擦り合わせ、むずがるようにそれに耐えながら、最後まで、『呪い』を吸い尽くした。

 尽輝収奪。
 ここに二人の『吸血鬼の呪い』は一つとなり、女は朝を待たずして、人として死ぬだろう。

「ねえ。――うちの身体、よかったでしょう?」

 だから、これは、女の、最後のいやがらせ。
 世界を快楽で埋め尽くせなかったことへの、八つ当たりの呪詛だった。

「……そんなことを、感じちゃう身体を持つ、いけないあなたは――なに?」

 ―― 本当に、『殺人器』?

 黒星は立ち上がり、『愛人形』に背を向けた。
 失ったはずの片手は再生を始め、夜の端は少しずつ紫色へと染まっていた。
 いつまでも、黒のままでいられない夜の定めを、少女に知らしめるように。

「私は、何だ? か――」


  ☆  ☆  ☆


 かくて、新宿を襲った殺人鬼『謎掛』の襲撃は、死者、行方不明者総計で、数千名に留まった。甚大ではあるが、池袋、秋葉原と比較すれば、遥かに少ない数字でもある。

 仮に、美藤羊子が、スピリチュアル・バブバブ・オタクの魔人能力で悟りめいた聖母性に目覚めていなかったとしたら。

 仮に、『謎掛』――――一丸可詰丸(いちまるか つまるまる)が、A級殺人鬼KY-017によって、片目と足を失っていなかったとしたら。

 仮に、黒鬼が新宿各地に残していた武器を、黒星が使うことができなかったとしたら。

 また、結果は違っていただろう。
 だが、人々は知らない。
 救いようのない殺人鬼たちの利己的な殺し合いによって、この街の平和が、偶然にも保たれたということを。

 自分は、何か。
 そう問い続けた殺人鬼たちの、末路のことを。


  ☆  ☆  ☆


 かくて、黒き星は再び、紅昏(かわたれ)の闇へ溶けていく。

 自分の異能の道具となった青年。
 少女の道具としての生き方に罅を入れた女。

 二人の殺人鬼との戦いを経ても、それでも、少女の在り様は変わらない。
 人を傷つけ、殺す。その存在理由を貫くだろう。
 ただ、撃ち抜くべき仇を一人、見定めただけのこと。

 使われない武器には、何の意味もない。
 作り出された以上、道具は目的のために使われるべきだ。

 それこそが、彼女という殺人器(サツジンキ)の動機。

 正義などない。
 快楽などない。
 倫理などない。

 これはただ、そう作られたものが、その意義を張り通そうとするだけの物語である――。




被害について
新宿…被害甚大。殺人鬼同士が対決。文京区、台東区、千代田区住民を中心に、死者、行方不明者、怪我人多数。新宿区では、警察官及び指定暴力団夜魔口組の構成員の被害が多くを占めた。建造物は新宿御苑付近を中心に多く損壊。事故多数。被害額計測不能。発狂した人々の救出が待たれる。しかし、新宿区内に限って言えば、なぜか市民の死者行方不明者は極めて少数であった。
最終更新:2020年07月03日 21:01