彼は気付いた。気付いてしまった。
仇を求め、彷徨い歩き、
輝きの灯火を、吹き消し続け、
何時しか、其れに愉しみを見出していたことに。
ヒトゴロシを完遂した瞬間に感じた、全身に染み渡る達成感。
巨大な敵が沈むとき、彼の心は躍っていた。
それは、紛れもない、邪悪な魂。「アイツ」と同じ、サツジンキ。
無軌道に暴走する冷たい蒼炎は、彼の小さな身体を、いずれ焼き尽くすだろう。
だが、その中で、胎動する新たな可能性。
それは、堕天使が抱く純蒼。ルシファーブルー。
———完全なる目覚めの刻は、近い。
◆◆◆◆scene5【惨劇の予兆】◆◆◆◆
警視庁捜査一課、第一取調室。
魔人犯罪対策室の刑事、本田晋市は、「慈愛のお迎え天使」事件の重要参考人、川脇亜里沙を白石動物病院で確保し、任意同行を求めた。亜里沙は抵抗する様子もなく、出頭に応じ、現在この第一取調室で、本田の事情聴取に応じている。
川脇亜里沙、30歳。会社員。東京都S区在住。
現在一人暮らし。夫、川脇大和は半月ほど前に起きた、未解決の殺人事件の犠牲者となり、飼い猫一匹も、その際行方不明となる。
過去の犯罪歴や補導歴は無し、また、魔人能力覚醒の経歴もなく、血縁者にも能力者の存在は確認されていない。
飼い猫の名前はヤット。雑種の黒猫だが、見た目には、父親であるボンベイ種の特徴が色濃く出ている。青系の瞳と、銀翼のチャームの首輪が大きな目印。「慈愛のお迎え天使」第六の事件現場で一時保護されるが、のちに逃亡。現在再び行方不明となる。件の連続殺人事件との関連性を、現在捜査中。
ヤットに関しては、一週間前に本庁、および周辺の警察署に「逸走届」が提出され、受理されていることを確認。また、彼女が地元の駅で情報提供のチラシを配っている様子が、近隣住民の複数証言から確認された。この事から、今回の第六事件現場での、ヤットとの再会は、偶発的なものである可能性が高い。
事情聴取に応じた亜里沙も、榎波と自分たちが、無関係だと、真っ先に主張した。
「刑事さん。私も、あの子も、あの男とは全く関係がないんです。昨日初めて出会って、私は殺されかけたんですよ!」
狼狽する亜里沙を、本田は嗜める。
「川脇さん、まずは落ち着いてください。とても大変な目にあったことは、お察ししております。思い出したくないことは、何も言わなくていい」
「…………」
「ただ、お恥ずかしながらこの事件、我々にとっても理解しがたいことが多すぎるのです。あなたを拉致した男と、貴方の飼い猫のヤット君。その二人が戦っているところを、防犯カメラのログで確認しました」
「…………!」
亜里沙の心臓が、早鐘を打つ。やはりヤットはあの男を、殺したのだろうか。
「ヤット君は、明確な意思を持って、あの男に襲い掛かっていました。最初から、あの男がターゲットだったのでしょう」
亜里沙は血の気が引く感覚を覚える。その顔色も、真っ白に染まる。
「ただ、あの男は、ヤット君が何かしたわけでもなく、戦いのさなかに突然倒れたのです」
「本当……ですか?」
「そう、突然倒れた。この事から我々は、あの男、榎波春朗を殺した犯人は、複数犯と見ています。ヤット君を操った何者かと、奴に止めを刺した何者か。最低でも二人以上の魔人が犯行に関与していると、我々は考えます」
そうだ。猫が人間を殺すなんて妄想、私は何で信じてしまったのだろうか。ましてや甘えん坊のヤットだ。人殺しなんて恐ろしい事が出来る筈がない。
それに、ヤットが操られていたとしたら、あの時異常に怯えながら、私の目の前から突然姿を消してしまったことにも納得がいく。
亜里沙は、榎波に拉致され、殺されかけたことで、自分がパニック状態に陥っていたことを自覚した。
「我々の目的は、今もその犯人にいいように使われているヤット君を、一刻も早く取り戻し、貴方のもとへと帰すことです。その為に是非、重ねてご協力をお願い申し上げます」
「はい……。微力ながら、私の知りうる限りの経緯を話します。その代わり、ヤットを助けて下さい。お願い……します」
◆◆◆◆
亜里沙の証言は、警察の見解と概ね一致し、その経緯を裏付けるようなHDDや、カメラ類を榎波所有のミニバンからも押収した。
これにより、亜里沙本人の自作自演の犯行の可能性が薄れ、彼女は一日経たずに警察から解放された。
警察を後にした亜里沙を見送ったあと、橋本は本田に問い掛けた。
「希望を持たせるような事を言って良かったんですか?先輩」
警察の見解は、ヤット単独犯説が大勢を占めていた。この現場に限らず、「慈愛のお迎え天使」事件の犯行現場周辺には、不審人物の目撃情報がなく、誰かが遠隔操作で動かすには、動きが緻密過ぎること、過去、魔人能力を持った動物関連の事件で、能力を身につけた動物が、覚醒時の身体能力向上により、人間並みの知能を獲得していた例が少なくないことが、大きな理由である。
「馬鹿野郎、川脇さんは旦那を殺されてまだ間もないんだ。更に追い討ちをかけるような無神経なことは言えんだろ」
「まあ、そうですけど、この先のことを考えると、少し気が重いっすね……」
ヤットは、既に人間のルールを大きく踏み越えていた。六人もの人間の命を奪った恐ろしい黒猫は、B級殺人鬼の認定を受け、発見次第即時射殺の対応も、許可が降りている。警察は、ヤットを「駆除すべき害獣」と定めていた。
「それはそうと、橋本。お前はこの事件からいったん外れろ。捜査本部が一時縮小されることになった」
「えっ?どういうことですか?先輩」
「昨夜の池袋の大量消失事件、被害規模を確認するのにとても人手が足りないそうだ。こっちの事件は俺と湾岸署の担当者が合同で捜査を引き継ぐ。少数精鋭で当たれとのことだ」
「そりゃないっすよ先輩!ここだって人手が足りてないってのに、一体何考えてるんすか上は!?」
「あっちは既に自衛隊が動くほどの騒ぎになっているからな。警視庁側も、組織のメンツが掛かっている。全国規模で魔人警官に招集命令も出ている事態だ。うちでもお前と内裏君を選出した」
「うぇ~、あっちもこっちもエラいことになってますね。マジで勘弁して欲しいっす」
橋本がうなだれていると、その後ろから一人の男が姿を現した。
「お疲れ様です。本田さん」
「お、噂をすれば。橋本、この方が湾岸署の芦谷さんだ」
「あ、どうもお疲れ様です。捜査一課の、橋本ジュンと言います」
「どうも初めまして。湾岸署の、芦谷道満と言います。どうぞよろしくお願いいたします」
◆◆◆◆
東京湾を望む一大アミューズメントパーク、TOKYO LAGOON。港湾地域を一望する大観覧車と、史上初の海中トンネルジェットコースター、JETDIVEが人気を博し、その他25のアトラクションが脇を固める。都心からのアクセスも抜群で、休日ともなると、たくさんのカップルや親子連れでにぎわう人気スポットであったが、今冬の殺人鬼騒ぎで客足は鈍り、売り上げも伸び悩んでいた。
屋台通りの店舗の裏手、白黒モノトーンの小さな影がゆっくりと歩く。縮れた黒毛、肩から胴に巻かれた包帯は痛々しく、通り過ぎる人々は心配そうにそれを見つめる。しかし、怪我の影響を感じさせぬ軽やかな足取り、宝石のような蒼い目は、意志の力に満ちている。それは、気高き一匹の黒猫。
彼は雑踏を抜け、軽食屋の店舗の屋根に上り、正午の遊園地を望み見る。次の夜も、きっと戦いが始まる。彼にはそんな予感がしていた。ならば今は、ゆっくりと身体を休めよう。さらなる死線を、潜り抜けるために。
どうせ僕は、もう止まれない。差し伸べられた手も、拒んでしまった。
醜く恐ろしい、サツジンキ。僕の姿も、サツジンキ。
ならばそれらしく、せめてそれらしく。
「アイツ」をあの世に、突き落とすまで、蒼い炎を、燃え上がらせよう。
風もなく穏やかな冬晴れの空の下、透き通る日差しを浴びながら、彼は英気を養う為、静かに眠りについた。もう、夢は見ない……。
◆◆◆◆
自宅に戻るとすぐに、亜里沙の携帯が鳴り出した。見慣れない番号だったが、迷い猫のチラシにこの電話の番号を記載していた為、亜里沙は電話に出る。
「突然のお電話、失礼致します。こちら、TOKYO LAGOONの岸田と申します。川脇様の携帯電話で、宜しいでしょうか?」
「はい、川脇ですが......」
先日、ポスターを貼らせて頂いた遊園地からだった。ヤットが逃げた白石動物病院からも、あまり離れていない場所だ。
「只今お時間、大丈夫ですか?」
「はい。平気です」
「実は、弊施設内で、お宅の迷い猫、ヤットくんらしき猫を目撃したとの情報が、こちらに寄せられまして......」
「本当ですか?」
「お客様のお話では、包帯が巻かれていて、どうやら何処か怪我をしているらしいとのことですが......」
「ええ、間違いありません。それはうちのヤットです!」
「はい、そうですか。しかし、報告を聞いてうちの職員のほうでも、ヤット君を探しては見たのですが、まだ発見には至っておりません」
「分かりました。こちらも直ぐにそちらへお伺いさせて頂きます。お手数おかけして、申し訳ございません」
「分かりました。各職員のほうに、連絡を入れておきますので、お待ちしております」
電話を切った亜里沙は、強い決意で遊園地へと向かう。ヤットを、取り戻す。その想いを胸に、まだ見ぬ死地へと、歩みを進めることとなった。
◆◆◆◆
署内会議室、本田と芦谷がひどく険しい表情で、ノートパソコンのモニターを睨む。
37 : ラブ・ファントム 2020/●●/●● 19:54:42
書き込み?というのはココでよろしいのでしょうか?お嬢様からここにメッセージを残すよう言われております。
『夜の遊園地というのはとても素敵だ。キラキラしている。一人でというのも乙だけど、やはり素敵なデート相手が欲しいね。』
『中華街で大暴れした殺人鬼の方。刺激的な夜を過ごさないかい?振られないことを祈っているよ』
匿名掲示板に書かれたメッセージは、一見信憑性が無いの唯の落書き。しかし、芦谷はそうは見ていない。
「本田さん、この書き込みは多分ホンモノです。公にはなっていないのですが、昨日の深夜、中華街で、ウチと合同捜査をしている、公安の職員が殺人鬼に襲われ、止むなく殺害いたしました。この事件が外に漏れていること。それ自体が、問題なのですが......」
「その情報を何処かで仕入れた殺人鬼が、殺し合いの相手を指名か。悪趣味極まりない」
「しかも、HNがラブ・ファントム。これまた昨日、渋谷で大暴れしたと見られる殺人鬼と同じ二つ名だ」
「真偽はともかく、放置できない由々しき事態だな。芦谷さん、我々も急ごう」
そこへ、本田の携帯に着信が入る。携帯に出た本田が、二言、三言、言葉を交わすと、突然声を張り上げた。
「何ですって!?今ヤット君を遊園地で探しているって!?」
「本田さん、何ですって?」
芦谷も、遊園地の単語が出た途端、驚きの表情を見せる。
「川脇さん、そこから直ぐに離れて下さい!そこは危険です!あっ!?」
電話を切られた本田は、すぐにコートに袖を通す。芦谷も事態を察し、素早く準備に入る。
「芦谷さん、すぐに現場に急行だ!下手すると、お迎え天使もやって来る!渋谷の惨劇がまた起こるぞ!」
◆◆◆◆scene6【サツジンキのパレード】◆◆◆◆
日没後の大都会。東京湾を望む大遊園地、TOKYO LAGOON。施設の中央、巨大な観覧車の下に、漆黒の学生服を纏った殺人鬼が一人。渋谷の惨劇の生還者、ラブ・ファントムこと、西条なつみ。
彼女は次なる相手を求める捕食者だった。殺人鬼共を蹂躙し、喰らい、渋谷の食物連鎖の頂点に立った。そのプライドが、彼女を更なる惨劇の場へと誘った。
閉園まであと一時間。張り切って少し早く来すぎてしまった。
「フフ。私としたことが、少しはしたなかったようだ。まあ良い。色々仕掛けも打てたしね」
なつみは不敵に笑う。舌先から全身に染み渡る背徳的な罪の味、それを想像しただけで、彼女の胸は高鳴った。ディナータイムはもうすぐだ。
「ひょっとして、君がラブ・ファントムなのかい?」
大観覧車の向こう側の店舗の陰が揺らめき、形作られる。そこから歩き出して来たのは、大きなマフラーを巻いた、セーラー服の女子高生。否、女子高生の姿を借りた、一人の男だった。本田と芦谷に先立ち、既に現着したのは、『元祖』ジャック・ザ・リッパーこと、ジャック・スプレンジット。彼は、芦谷からの指示で、ラブ・ファントムの制圧を任されている。
「へぇ、中華街の殺人鬼。そんなキュートな姿だったんだね」
「......お褒めいただき光栄だね。折角のご指名だし、少し『おめかし』して来たのさ」
男は溜息をつきながら、皮肉混じりに応えた。どうやら、この姿は不服らしい。
「出来れば自称ジャック以外とは、穏便に済ませたかったのだがね。君は、それ以上に危険すぎる存在だ」
瞬く間に空気が凍る。男の瞳に殺気が篭る。しかし、ラブ・ファントムは余裕の表情をくずさない。
「おや、もう始めるのかい?私は良いが、まだ、少なからずお客が残っているじゃないか」
「大丈夫。すぐに終わらせるからね」
言うや否や、ジャックはスカートの内側からナイフを取り出し、なつみに迫る。
———疾い!
なつみも自らの頬を撫で、スピードを二倍にして対抗。突き出したナイフが空を切る。なつみの身体は伸びた右腕の更に右外側、カウンターの裏拳がジャックの顔面を捉える。寸分違わぬ完璧なタイミング。
しかしその拳も届かない。ジャックの頭が打点から掻き消えたからだ。
なつみの視界が霞む。「倫敦紳士」の毒霧がなつみを侵食し、不意に膝が落ちかける。ゴホゴホ咳込むと、なつみの口から血痰が吐き出される。
具現化したジャックは、その背後からなつみに向かって再びナイフを突き出す。ここでジャックは違和感を覚えた。
(余りにも、呆気なさすぎる......?)
遅かった。右腕が伸び切った時にはもう、なつみの中段蹴りがジャックの胴に深々と突き刺さっていた。
ジャックは勢いよく吹き飛ばされ、屋台脇のダストボックスに激突した。
なつみはジャックに向き直り、血の跡を拭きながら笑い掛けた。
「なかなか真に迫っていただろ?『血のり』を使った吐血シーン」
迂闊だった。相手は既にこちらの手札を知っている。その前提で動くべきだった。なつみの演技に引っかかったジャックは、体を起こしつつ猛省した。
「してやられたようだね......ッ。とは言え、ノールックで蹴りを合わせて来るとは。大したものだ」
「皮膚感覚を二倍にすれば、空気の流れで大体の君の位置は分かる。君の特技も、私には通じない」
「やっぱり君は危険だ。すぐに終わらせると言ったの、訂正するよ」
◆◆◆◆
悪の匂いを嗅ぎつけて、英雄が闊歩する。今宵の舞台は、ベイサイドの大遊園地。
動かぬ左腕をぶらぶらさせて、キラキラとしたイルミネーションに照らされる。
「ふふーん、やっぱり私の勘は冴えてるね。ここには悪人が、いっぱい居そう!」
正義の執行者、絶対的英雄である紅眼莉音は、討伐すべき悪を探して、遊園地内を散策していた。
ふと、その行手に一人の女性の姿。女性は、辺りをキョロキョロと見回りながら歩いていた。
「こんにちは!お姉さん!」
「あら、あなたは......?」
「紅眼莉音、この街の正義だよっ!」
隻腕の真紅眼、紅眼莉音。その名が東京全土に響き渡る、正義の英雄である。
「え......?ああ、貴方があの有名な......」
「ところでお姉さん、何かを探してるようだったけど、どうしたの?」
莉音は女性に尋ねる。どうやら彼女はこの遊園地に迷い込んだペットの猫を探しているようだった。蒼い瞳の黒猫で、怪我をして包帯を巻いているらしい。
「うーん、そんな子は、見かけなかったなあ。ごめんね、お姉さん」
「ううん、ありがとう。もし見かけたら、従業員さんの方に、教えてね」
「おっけー!でもお姉さん、ここにはあまり長居しない方がいいかもよ」
「......?」
「ここには、悪人がいるからね」
そう言って、莉音は悪の匂いが色濃い遊園地の奥へと歩き出した。
◆◆◆◆
魔人同士の戦闘が始まったことで、残りの客や従業員は散り散りに逃げ出していた。
大観覧車下の戦闘は、膠着しつつあった。ジャックの霧化は常時警戒され、熟練のナイフ格闘も、スピードや、反射神経を二倍にした「バイ・クイーン」で対応される。一方なつみ側も、演技力を駆使して相手の意表をつこうとするが、老獪な切り裂き魔には、そのどれもが悉く看破される。
「こんなに戦いにくい相手は、初めてだよ、お嬢さん」
「それはお互い様さ。私の攻撃が、全て見透かされてるような気分だよ」
何か一つ、きっかけがあれば。お互いがそう思い始めた時に、それは現れた。
「———ねぇ、あなた達って、悪い人?」
ジャックとなつみは、声のした方向に同時に振り向く。
茶色のボブカット、ぼろぼろの黒いマフラー、そして、燃えるような真紅の瞳。
ぶらぶら垂れ下がって動かせない片腕は、かつての死闘の名残である。
「まあ、こんなに派手な殺し合いを繰り広げている奴らが、いい人なわけがないか」
少女は、不気味な笑顔で二人を見据える。燃えるような赤い眼は、全く笑っていない。彼女が女子中学生という見た目に反した「バケモノ」であることは、誰の目にも明らかで、殺気を放つその佇まいは、一種異様な雰囲気であった。
「君は、何者だ……?」
ジャックが新たなる闖入者に警戒の色を滲ませ、問いただす。
「紅眼莉音ちゃん、絶対正義の執行者。もちろん知ってるはずだよね」
「ん?ああ、君が『英雄』として名を馳せた……」
初めて知った名前が、認識の改竄により、既知のものとなる。ジャックもなつみも、その違和感に気づくが、敵意をむき出しにした少女の前で、戸惑う様子を見せることは、しなかった。
「さて、おしゃべりもこれくらいにして、悪人に罰を与えないと」
紅眼莉音は、標的を定める。まずは、近い方の西条なつみ———
獲物を狙う猛禽の眼光を浴びたなつみは、涼やかにそれを無視し、
「ああ、そこは危ないよ。英雄さん」
あっけらかんと言い放つ。
轟音が頭上で響く。大観覧車の骨組みに仕掛けられた、セムテックス爆弾が起爆した。お父様のコネで知った裏マーケットの玩具の一つだ。折れた支柱の一部と二つのゴンドラが落下し、莉音の方へと降り注ぐ。
しかし、正義の執行者たるもの、その程度の攻撃では怯みはしない。ロケットの如き瞬発力で、スクラップの雪崩を躱し切る。莉音の背後で、ゴンドラが地面に激突し、瓦礫の山と化した。
西条なつみは、卓越した観察眼で紅眼莉音の一連の動きを注視する。
———爆発からの動き出しの反応が良い。初速はジャックと同等か、それ以上の速さ。だが、どちらも「バイ・クイーン」で対応可能な範囲。なつみは瞬時に判断する。
莉音は、スピードに乗った、そのままの体勢で、なつみに襲い掛かる。
「霧のお兄さん、手出しは無用だ。こいつを片付けた後、また遊ぼうか」
西条なつみには、捕食者としての、矜持があった。渋谷に於いて、二対一の戦いをも制してきたなつみにとっては、この程度の脅威は問題にならない。
対応を決めあぐねていたジャックに対し、なつみはしばしの停戦を持ち掛けた。敵方二人で潰し合ってくれるならそれもまた良し。ジャックは、一旦退き、二人の戦いの様子を見ることにした。
◆◆◆◆
黒猫ヤットは、屋台の店舗の屋根の上から、刃交叉る戦場の様子を伺っていた。今日もまた、サツジンキ同士が殺し合う。今日の標的は、あの三人。しかし、こちらの存在に気づかれれば、まず命はない。心臓を「捉える」間合いの中に、気付かれずに事を運ぶ「物陰」が必要だ。開けた空間の大観覧車の下には、それが無い。昨日のダメージもかなり残っている。一人殺せば、二人相手に逃げ切ることは適わないだろう。
敵同士、コロシ合って減ってくれるのを待つしかない。不本意ながら、ヤットは戦いの様子を見守る事にした。そんな折———
遠くから微かに声が聞こえる。それは、誰よりも聞き慣れたママの声。
(!?)
最初は耳を疑った。けれどもそれは本物で。
(……まさか、信じられない)
僕を呼んでいる。僕を探している。
(ママに、あんな態度をとったのに)
声がだんだんハッキリとしていく。
(こんな場所まで、探しに来てくれた)
ダメだ!こちらに来たら、ママは確実に殺される!
ヤットは駆け出す。声のする方向へ。今はヤツラから一刻も早く、ママを遠ざけないといけない。帰る場所は失ったけど、ママの命まで失ったら、僕はもう生きてはいけない!
ヤットは駆ける。黒い風となって。ヤットは駆ける。ママを救うために!
声がますます近づいている。その姿も見えてきた。闇の中でもハッキリ分かる。とても綺麗な、いつものママだ。
———そして、ヤットと亜里沙は再び対峙する。
◆◆◆◆scene7【蒼炎の魔眼】◆◆◆◆
LEDの街灯に照らされて、黒猫と女が向かい合う。
亜里沙は胸に熱いものがこみ上げる。
宝石の様な蒼い眼と、首元に輝く銀翼のチャーム。身体を包む白い包帯が、とても痛々しい。間違いなく、愛する我が子のヤットだった。
ヤットは、亜里沙の注意をこちらに向けるため、激しく威嚇する。
亜里沙が近づこうとすると、それに応じて後ずさる。そう言えば、本田さんが言っていた。ヤットは、誰かに操られているかもしれないと。
「誰かいたら顔を見せなさい!私のヤットを返して!」
しかし、反応はない。周辺に、人の気配もなかった。ヤットは依然、警戒の色を解かないまま、蒼く燃える炎の瞳でこちらを睨む。
「ヤット、ヤット!お願いだから、ママのところに帰ってきて!」
ヤットは突然駆けだした。亜里沙の脇をすり抜け、現れた方から逆方向へと向かう。
「待って!ヤット!」
ヤットは走り続けた。ママに追いつかれぬように、ママが僕を見失わぬように。立ち止まりたい衝動を幾度も抑え、あふれる思いを胸に秘めて。
亜里沙も走り続けた。二度とヤットを見失うものか。ヤットを捕まえて、そして抱きしめたら、直ぐにこの街を出よう。ここは、悲しい思い出が増えすぎてしまった。
夜の遊園地を駆け抜ける、大きな影と小さな影。愛しているから追いかける。アイしているから逃げ続ける。想いは同じ筈なのに、二人の距離は縮まらない。
遊園地の出口が見える。そこを駆け抜け、サツジンキの手の届かない場所まで走り続けよう。そんなヤットの想いは、影とともにその場に縫い付けられた。
ヤットは驚愕する。身体が硬直し、動かない。ふと見ると、自分の影が、人型の「紙」とともに、ナイフによって縫い付けられている。陰陽師、九十九代目芦谷道満愛用のナイフだった。
「ヤット!!」
亜里沙が咄嗟にヤットへ駆け寄る。
「近づくな!!」
芦谷が亜里沙を一喝する。亜里沙はびくりと動揺し、芦谷のほうへと顔を向けた。見ると本田もその場に来ている。
「その猫は危険です。それ以上近づいてはいけません!」
芦谷が亜里沙に警告する。その表情には、鬼気迫るものを感じる。
「待ってください、何かの間違いじゃないですか?この子は、うちの子なんです!」
亜里沙が抗議をするが、芦谷は構わずに、ホルスターから銃を抜いた。
「何をするんです!?」
「連続殺人鬼、『慈愛のお迎え天使』を処分します。」
「芦谷さん!待て、川脇さんの前では止めるんだ!」
本田も芦谷に対して、自制を求める。しかし、その銃口はヤットに向けられる。
「何を言っているんですか!この子は、ヤットは誰かに操られているだけなんですよ!」
亜里沙が涙ながらに叫ぶ。しかし芦谷は冷酷な事実を告げる。
「その可能性は限りなく低いです。この猫が関わったとみられる事件現場周辺に、そのような不審な人影は見られませんでした。この猫は、自分の意志で殺人を続けています」
「!?」
本田がうなだれる。よりにもよって、最悪のタイミングで、亜里沙が事実を知ってしまったことに。
「合計六人。『慈愛のお迎え天使』の犠牲者の数です。いずれも犯罪者ですが、その牙がいつこちらに向けられるかも分からないのです」
「ヤットは……優しい子なんです……。貴方に何が分かるんですか……!お願い、止めて……っ」
ヤットが亜里沙を心配そうに見つめる。身体を動かそうとしても無理だったので、にゃあにゃあ鳴きながら、亜里沙を慰めようとしていた。その姿は、とても健気だった。
芦谷はもう何も言わず、冷酷にトリガーを引き絞る。そして、放たれる弾丸———
直径9ミリの鉛の礫は、黒猫の脇腹に命中し、貫通した。
黒猫は、断末魔の叫びをあげ、その場に倒れ伏した。
◆◆◆◆
「ヤット!!」
亜里沙は、なりふり構わずヤットに駆け寄る。白い包帯が、みるみる赤に染まる。黒く小さな身体を、亜里沙は抱きしめる。ヤットはもう、虫の息で、それでもママの心配をしていた。
ヤット、ごめんね!一人にして、ごめんね!貴方の悲しみを受け止められなくて、ごめんね!貴方を助けられなくて、ごめんね!嗚呼!ヤット、ヤット、ヤット!
亜里沙の嗚咽の声が、夜の闇に響き渡る。芦谷と本田が、ゆっくりと歩きだし、亜里沙のもとへと向かう。
すると、亜里沙の体が突然光りだした。暖かい緑色の光が、一人と一匹を優しく包む。黒猫の傷口から、語るすべを持たぬ彼の想いが、一斉にあふれ出す。亜里沙は、それを余さず受け止める。亜里沙に抱かれたヤットが、薄目を開く。目の前に見えるのはママの顔。ヤットもまた、ママの想いの全てをその小さな黒い身体に浴びていた。二人の想いは共有され、更に痛みも共有された。
不思議な力で燃え散る赤い包帯。ヤットの傷が塞がっていく。それと共に亜里沙は見えない傷を負う。二人の命が融けあって、新しい命として、形作られていく。
「これは……!魔人に覚醒したのか……?」
それは、一人と一匹の命を共有する魔人能力、「命脈狂融」。ヤットと亜里沙は、二つの体と意志を持った、一つの新たな生命体となった。
「ヤット。すごいね。大和のために、ずっと一匹で戦ってきたんだね」
亜里沙がヤットを労う。けれどヤットは伏し目がちに俯く。
(でも、僕はママと一緒に居られないんだ。サツジンキに、なってしまったから)
「そんなこと、ないわ。ママとヤットは、ずっと一緒よ」
亜里沙はヤットを抱いたまま立ち上がる。そして、無機質な微笑を浮かべ、芦谷の目の前に迫った。
「川脇さん……?」
本田が、不安げに声をかける。何か嫌な予感がする。
亜里沙は、懐から素早く改造スタンガンを取り出し、芦谷の胸に押し付けた。それは、亜里沙がミニバンからこっそりと持ち出した、榎波春雄のスタンガンだった。
「ぐあっ!」
「川脇さん!!」
本田が亜里沙を取り押さえようとすべく動き出した。魔人能力「明光掌」発動!本田は予め溜め込んで置いた周囲の光を、左手から一気に開放しようとする。しかし、その直前。急に視界が暗くぼやけ、全身が痺れだす。血の巡りが悪くなり、意識をつなぐのが精一杯になる。
「ヤット、押さえつけておくだけでいいわ。そのまま」
黒猫ヤットは、亜里沙の魔人能力の影響を受け、自らの能力も完成させていた。
魔人能力「蒼炎の魔眼」。命の根源である心臓の動きを、燃える蒼い眼で「捉えて」その拍動を自在にコントロールする能力。異能を使う者達の命の根源を、完全な形で視る事ができるようになったヤットは、本田の心臓を死なない程度に締め上げる。
高圧電流をその身に浴び、痙攣しながら悶絶する芦谷。取り落した銃を、亜里沙は拾う。そして、その銃口を、芦谷に向けた。
「や……止めるんだ……。川脇さん!」
本田が膝をついたまま、亜里沙を止めようとする。しかし身体は言うことを聞かない。
『本当にいいの?ママ』
亜里沙が突然、口を開いた。それは、亜里沙の口を借りた、ヤットの台詞だった。
「ええ、ずっと一緒だって、言ったでしょ」
『でも、僕のせいで、ママまでサツジンキになっちゃうなんて』
「良いのよ。ママも、大和を殺したやつを許せないから。一緒に仇討ち、ね」
『うん、一緒にカタキウチ、だね』
狂った一人芝居のように、亜里沙はヤットと会話する。常軌を逸した光景に、本田は震えが止まらない。亜里沙は芦谷がしたように、無慈悲な表情でトリガーをゆっくりと引き絞る。そして———
再びの発砲音。芦谷はこめかみを貫かれ、声ひとつ上げることもできずに即死した。血溜まりがみるみる広がっていく。それは、人の道を外れ、最愛の黒猫と共に歩む為の、亜里沙の覚悟の証明であった。
「これでママも殺人鬼、なのかしら」
『うん、立派なサツジンキだ』
二人は一人の体で、クスクスと笑う。
「さあ、行きましょう。中で暴れている奴らを、まずは静かにさせようね」
『うん!ママ!』
亜里沙とヤットは、殺人鬼が跳梁跋扈する遊園地の奥へと消えていった。本田は、その後ろ姿を眺めながら、倒れ込んで気を失った。
◆◆◆◆scene8【断頭台の上で】◆◆◆◆
亜里沙は、自分の命が確実に削られているのを感じている。ヤットの受けた銃のダメージは、お互いで共有しただけであって、消えたわけではない。ただこの夜を越えるだけならば、ひとまずこの場は退くべきだ。
しかし、歩みを止めることはしなかった。これから彼と一緒に戦えることが、何よりも嬉しかった。殺人鬼を一人ずつ殺すことで、ヤットとの絆も深まっていく気がした。その感情が、ヤットにも完全な形で伝わっていく。ヤットもまた、ママとずっと一緒に居られると思うと、その小さな身体から無限に勇気が湧いてきた。
喜びも、痛みも、共に分かち合おう。ふたりでひとりの、サツジンキとして。
◆◆◆◆
西条なつみは、焦りの色を隠せなかった。紅眼莉音の戦い方は、フィジカルに頼り切った術理の無いケンカ殺法。確かに速い。確かに強いが、大振りで隙だらけのモーションを崩し、致命打を与えるのは容易い。筈だった。
命を刈り取れる決定的な場面で、必ず走る悪寒。あと一歩踏み込めば、破滅が待っていると言う直感。第六感を二倍にしていなければ、事実四度は死んでいただろう。
なつみは一旦距離を取る。この状況は良くない。場所を変えて、少し作戦を練り直そう。得体の知れないものを相手取り、無策で突撃の愚行は冒さない。西条なつみの強さは、そのような部分にもある。
「あれ?もうお終い?なーんかちまちまとした攻撃ばっかりで、期待外れかも」
くるくると笑う紅眼莉音は、自らの能力の真の姿を知らない。向こうがこちらを警戒するのは、絶対的な正義の前に、恐れを抱き、怯んでいるせいだと、本気で信じている。
なつみは莉音から目を離さずに、少しずつ距離を離す。しかし今回ばかりは、その慎重さが命取りになった。前方に注意を払い過ぎて、徐々に侵食を始める後方の脅威に、最後まで気付けなかった。
ゆっくりと暗くなる視界。手足の先が凍りつき、じわじわ痺れ出す。傾く目線。膝から崩れ落ちていく身体。気付けば、全身の自由が効かなくなっていた。
「え......あれ......?なに......こ......れ......」
渋谷の食物連鎖の頂点、西条なつみ。その矜持も虚しく、彼女は今夜ここで朽ち果てる。その残虐性、凶悪性を十全に発揮する暇もなく。そして、彼女が最期に思ったこと。
———お腹が空いてる。そういえば、今日は夕飯、まだだったな。
「おにく......、たべたいなあ......」
なつみの意識は、闇に沈んだ。それきりだった。
突然倒れ、動かなくなったなつみの姿を見て、残りの二人が警戒の色を強める。彼女が倒れたその奥から、一人の女と、一匹の黒猫。
黒猫は、なつみの死顔を確認する。やっぱり「アイツ」では無い。
『コイツも違うね、ママ』
「そう、まあいいでしょう」
女が会話のような独り言を呟く。今一つ焦点が合っていないような瞳が、一際その不気味さを際立てた。
「どうせ、全員、消してしまうしね」
ジャックは、新手の殺人鬼の登場にたじろぐ。蒼い瞳の黒猫。芦谷の言っていた念で人を殺す、「慈愛のお迎え天使」。猫の殺人鬼か。
敵は、あの惨劇の渋谷を生き残った「ラブ・ファントム」を、いとも容易く屠った。「別格」とでも言いたいのか?
紅眼莉音は、そんな危機感とは無縁な様子で、肉食獣のような目つきで笑う。
「なーんだ。結局お姉さんも悪い人だったんだ。それともその猫に感化されたのかな?」
莉音は動かない左腕を揺らして、くるりとターン。新たな脅威に向き直った。
「ヤット、ダメージは私が受け持つわ。存分に戦って!」
亜里沙は、生命維持に支障を来さないギリギリのラインまで、共有されたダメージを自分に移す。全身に激痛が走る。血が滲み、嫌な汗が吹き出し、吐く息が荒くなる。思わず膝をつきそうになるが、敵の目の前でそれはしたく無かった。
紅い眼をギラつかせ、莉音が駆け出す。私こそが正義。私こそが英雄。悪を滅ぼし、正義の御旗を掲げる。紅眼莉音には、その義務がある!
蒼い眼を煌めかせ、ヤットが駆け出す。僕はサツジンキ。醜く恐ろしいサツジンキ。アイツを殺すその日まで、邪魔なヤツラも吹き散らす!
ヤットの能力圏内に、莉音が踏み込む。二連戦でその心臓の鼓動は速い。ハッキリと見える命の根源を捉える。緩慢な足蹴りが迫って来るが、その程度のスピードでは、ヤットには届かない。その脚を躱し、背後に回る。背中に掴みかかり、時間切れを待つ。2・1・0。
ばちゅっ、と水風船が弾けたような音と共に、紅眼莉音の心臓は、異常心拍によって破壊された。
———しかし、正義の敗北は許されない。
「紅眼莉音は正義で、英雄でなければならない」。「英雄は死なない」。「英雄は勝利する」。「何故なら、それは正義だからだ」
幼子が胸に抱くようなヒロイズム。しかし、その想いを魔人能力にまで昇華させた紅眼莉音は、「英雄呪縛」によって、「心臓を破壊された」過去を消滅させる。そして、「ヤットの首から上をを蹴散らした」過去を捏造した。
———筈だった。
それでも莉音の蹴りは空を切る。ここで、莉音は決定的な間違いに気付いてしまった。
『紅眼莉音では、黒猫ヤットの疾さに敵わない』
書き換えた過去に齟齬が生まれてしまうほど、両者のスピード差は歴然だった。いくら過去を書き換えようとも、ヤットは余裕を持ってその蹴りを躱すスペックを持つ。そして、同じことが繰り返され、心臓は破壊される。
莉音の無意識下で、「英雄呪縛」は過去を何度も書き換える。しかし、蹴り飛ばしても、掴みかかっても、脚を払っても、踵を落としても、全身でのしかかっても、膝を合わせても、踏み潰しても、そして、左腕を振り下ろしても、黒猫のスピードを捉えることが出来ない。そして、その先には、約束された死の運命。
人が目前に迫った銃弾を掴むことができないのと同様に、莉音の運命は閉ざされていた。
それでも「英雄呪縛」は、過去を破り続ける。何故なら、正義に敗北は許されないからだ。
仮にこの局面の手前、「亜里沙がヤットのダメージを請負った」過去を破って書き換えれば、まだ莉音に勝ちの目は残っていただろう。しかし、それをしてしまえば、「十全のヤットには、敵わない」と、自ら認めてしまう事となる。それは敗北と同義だ。
結局莉音は、ヤットと全力ですれ違い、彼の射程距離から外れることで、辛うじて一瞬だけ、死のループから抜け出した。まだ負けてはいない。イーブンだ。
しかし莉音は、たった一度の交錯で、膝が震え、大量の汗が吹き出し、戦意を喪失しかけた。だけど正義は悪に立ち向かわなければいけない。正義は負けない。英雄に逃げは許されない。呪縛は莉音を離さない。
そこへ無慈悲なセリフが放たれた。
「莉音ちゃん、貴方……もう終わりね……」
英雄はそれを否定する。
「誰が……!終わりだって……?」
「顔色が……悪いわよ。気付いてしまったんでしょう……。私のヤットに、勝てないことに」
突きつけられる現実。しかし莉音は怯まない。何故なら正義だから。
「正義は負けない!負けないんだよっ!!」
「ええ……、確かに正義は負けないかも……しれない。でも、英雄は死して名を残すものよ」
「違う違う!そんな……そんな筈はっ!」
そして亜里沙は、残酷で痛烈な甘言を吐いた。
「稀代の英雄、隻腕の真紅眼。貴方の死によって、正義の意志は失墜する?いいえ、逆よ。偉大なる英雄の死こそが、正義の結束を、より固めることになるわ。そして、その時こそ、正義のために戦い抜いた貴方が、真の英雄として祀られ、最も輝く瞬間なのよ」
パキリ。
———折れた。紅眼莉音の中で、何か決定的なものが折れた。
「え……英雄は……っ!!」
涙が溢れ、後から後からこぼれ出す。今すぐその場に座り込みたい気分だったが、ひとかけらだけ残った英雄としての誇りが、それを拒んだ。
「負けないんだよぉぉぉっ!!!!」
亜里沙に突撃する莉音。しかし立ちふさがるは黒猫ヤット、既に彼の射程内。莉音は、駆けだした勢いのまま、黒猫を蹴り飛ばそうとする、しかし、それも無駄な抵抗だった。
莉音の蹴りを、難なく躱し、背中にまとわりつく。そして、再び繰り返される破局。
「英雄呪縛」は過去を破る。しかし———
破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても破っても
———死の運命を、覆す事は出来ず。
だから、縋ってしまった。
死して正義の為の、礎となる道に……。
◆◆◆◆
心臓を破壊された絶対正義の英雄は、涙を流しながら散っていった。
『バカなやつ』
ヤットが、その姿を一笑に付す。
隻腕の真紅眼も倒された。やはりあの黒猫に近づいてはいけない。ジャックはそう結論付ける。芦谷の情報で、彼は心臓を狙ってくると聞いている。ならばまだ何とかなる。霧と化した心臓に干渉することは出来ないからだ。
そして、女の方の顔色が青い。何故だか分からないが、相当消耗している。彼女が猫を操っているのならば、まずはそれを抑えたほうがいいだろう。
ジャックは後退し、大観覧車を登り始める。フレーム伝いに上へと跳び、ヤットもそれを追う。最後の殺人鬼との決着をつけるため。
身の軽さなら黒猫が上。ヤットはジャックとの距離を下からどんどん詰める。しかし、ジャックは首に巻いたマフラーを拡げ、ヤットの視界を遮るように覆い被せる。そしてその裏から、銀のナイフを投擲した。ヤットは鋭爪でマフラーを引き裂くが、その先のナイフの対応が一拍遅れた。ヤットは左肩を裂かれ、赤い血の花が咲く。
「それは私が......引き受ける!」
亜里沙は、ヤットの怪我を自分に移す。ヤットの傷が癒えると同時に、鋭い痛みが、亜里沙の身体に奔る。
「足を奪ったと思ったが......別の能力か?」
やはり一筋縄では行かないようだ。ジャックは観覧車を更に駆け上がり、九時方向のゴンドラに到達した。
「君とまともにやるつもりは無いよ。悔しいが僕では荷が重そうだ」
ヤットがゴンドラ上のジャックに襲いかかる。しかし、彼の身体は倫敦の朝霧のように形を暈かす。ヤットは咄嗟に息を止め、霧の範囲から離脱した。ここは、榎波春雄との戦いの経験が生きた。
霧と化したジャックは、そのままの高度を保ったまま、観覧車から離れて行く。地を走る足場がなければ、流石のヤットも追い切れない。
(このまま逃げる気なのか......?それとも......)
ジャックの逃げる方向を確認する。そこで、ヤットは観覧車に登った事が間違いだと気付いた。
ジャックが再び具現化した場所、そこは、亜里沙の立つちょうど真上。ジャックはそのまま落下し、亜里沙のすぐ目の前に降り立った。そして即座にナイフを向ける。
「これで詰みだ。手荒な真似はしたくない。彼を引っ込めてくれたら、痛み分けということで、退いてあげてもいい」
公僕としてはまずい台詞だが、僕の標的はあくまでジャック・ザ・リッパー。そしてラブ・ファントムも死んだ。仮に二人を逃しても一応の言い訳は立つだろう。
ヤットは観覧車を駆け降りて、猛スピードでジャックに差し迫る。
「止まりたまえ!黒猫くん!状況は分かっているだろう!」
ヤットは足を止め、尻尾を立ててジャックを威嚇する。
「さっさと殺せば......?私をやれば......あの子が止まる......かも知れない......わよ」
「更に暴走するかも知れない」
やはり息も絶え絶えだ。相当無理をして立っている。ジャックは心を痛めた。成り行きとは言え、今にも倒れ込みそうな女性に向かって、僕はナイフを向けている。彼女も殺人鬼ではあるが、果たしてこうする事が正しいのか?
「おい、大丈夫か?本当に顔色が悪いぞ」
迷ってしまった。思わず手を差し伸べてしまった。故にここでジャックの命運は尽きた。
「自分の心配を......したらどう!」
亜里沙が隠し持ったスタンガンを、真っ直ぐに突き出した。ジャックは反射的にバックステップで躱す。同時に背後からヤットが急発進で迫り来る。狙うは首筋、鋭く尖った爪で、頸動脈を掻き切らんとする。
ジャックは再び霧となる。ほぼ同時に黒い疾風が、真一文字にそれを霧裂いた。
危なかった。かなり際どいタイミングだった。黒猫の疾さを先に見ておいて良かった。ジャックは安堵したが、その直後、自分を形取る霧が、瞬く間に拡散し、四方八方に消えて行く。
(何だこれは。能力のコントロールが効かない?)
ジャックは慌てて具現化をする。そして、霧が散った理由を、すぐさま理解した。
ジャックの頸動脈は、一瞬速く烈断され、傷口から大出血をしていた。セーラー服が肩口からみるみる血に染まる。脳に酸素が届かなくなり、急激に風景が暗転する。
「アレが......トップスピードじゃ......無かった、のか......」
あの瞬間、ヤットは自らの心臓を「捉えて」、破裂の一歩手前まで心拍数を上げた。血流を上げ、筋肉組織を活性化させ、限界を超えた神速で、ジャックの命を、見事に切り裂いて見せた。
「いやはや......、参ったね......。君も、ジャック・ザ・リッパー、だった......とは」
前のめりに倒れるジャックの身体は、輪郭を失い、文字通り霧散した。
———遊園地を静寂が支配する。「慈愛のお迎え天使」は、この場の全ての殺人鬼を「処刑」した。
◆◆◆◆
痛みで蹲る亜里沙の側、ヤットは心配そうに寄り添う。
『早く、早く僕にダメージを戻して!』
「これくらい......平気よ、ヤット」
『ダメだよ!一緒にカタキウチ、するんでしょ!』
亜里沙とヤットが、ひとつの口で会話する。
「でも、ヤットに痛い思い......させたく、ないの」
『大丈夫だよ!僕は男の子だし!』
ヤットは自分の口からも、にゃあにゃあと抗議する。
『このままじゃ、ママが逃げられなくなっちゃうよ!』
それは困る。せっかくヤットと一緒になったのに。もう二度と、離れ離れになるのは御免だ。
「分かったわ。ゴメンね、ヤット。少し痛いけど、我慢してね」
亜里沙は能力を発動し、そのダメージを、ヤットに分け与える。ヤットの身体に激しい痛みが戻るが、ママから貰ったものは、何であろうと嬉しかった。
『さあ、早く行こう。ここにはもう、用は無い』
「ええ、行きましょうか」
そこへ、意識を回復し、ようやく身体の自由を取り戻した本田が駆け付けた。
「なんて事だ......こんな......」
完全に霧散したジャックを除く、二体の少女の亡骸。TOKYO LAGOONの象徴である大観覧車も、一部が破壊され、落ちたゴンドラが瓦礫と化している。この場で、凄惨な殺戮劇が起こったのは、一目瞭然だった。
亜里沙は、本田にゆっくりと近づき、語りかける。
「本田さん、貴方が私の為を思って、嘘をついてくれた事は分かります。それに、警察署内でも、とても誠実に対応してくれました。そして、紆余曲折ありましたが、こうしてヤットを取り戻す事が、できました」
本田は震える両手で、亜里沙に銃を向ける。しかし亜里沙は、無機質な笑みを本田に向けて、
「だから今夜は、見逃してあげますね」
そう言って、この場を去っていく。
亜里沙はもう、本田の方には振り返らずに、
「けれど、もしこの先、私/僕達の前に立ち塞がるのならば』
「殺すよ』
ひとつの口から、二人揃って警告した。
遂に十人目の犠牲者を生んだ、連続殺人鬼「慈愛のお迎え天使」は、踵を返し、ゆっくりと、闇夜に溶けて行った。
本田は、惨劇を止められ無かった無力さと、自分自身への怒りを噛みしめ、暗天に向かって烈火の如く吠えた。
「クソっ!クソっ!クソっ!チクショォォォっ!!!!」
———その号哭は、虚しく響くだけだった。
◆◆◆◆
「慈愛のお迎え天使」
川脇亜里沙、黒猫ヤット。一人と一匹の、バディ殺人鬼。
TOKYO LAGOON施設内に於いて、警官二人を含む、計四人を殺害し、現在も逃走中。これにより、一連の連続殺人事件の犠牲者は、十人に届いた。
川脇亜里沙
魔人能力名:命脈狂融(セラフィックグリーン)
他者と生命力を共有する魔人能力。生命力を共有する事により、一方が受けたダメージを、もう一方が請け負う事ができる。請け負うダメージの比率は、能力者が任意に決められる。
また、能力者と共有対象者は、命そのものが半融合しているような状態なので、お互いの感情や思念を、完全に理解することができる。
なお、能力者、共有対象者のどちらかが死ぬと、もう一方も死ぬ。
ヤット
魔人能力名:蒼炎の魔眼(ルシファーブルー)
命の根源である心臓の動きを蒼い眼で「捉えて」、その拍動を自在にコントロールする能力。射程は能力者から半径10m。能力を完全に制御した影響で、発動は自動から任意となる。また平常時の心拍数も、下げることが出来るようになった。(平常時の心拍数を上昇させる事は不可能)
また、低下及び上昇時の心拍数のキープも可能となり、自らの心拍数を上昇させて、運動能力を上げることも可能になった。
依然、魔人能力者以外には効果は及ばない。