『Cancer / kǽnsər / キャンサー』

 その一、癌、悪性腫瘍。

 その二、社会悪。

 その三、蟹座。

 誂えたようだ。この私を一言で言い表すに当たって、これ以上に的確な単語は世界中の言語から探したとしても見つけることができないだろう。

 そうだね、私は蟹と縁深い。

 今宵は少し昔の話から始めよう。波佐見・ペーパーストンは『渡蟹』という名で、『愛国者 石積彩花』の部下となり、ちょっとしたアルバイトをしていた。

 あの頃の私は、とても血気盛んだった。

 誰でも良いからとにかく殺して、人体の破壊方法をありとあらゆる角度で実践した。

 己が居場所を手に入れ、親しい人間に囲まれ、何不自由なく暮らせた。

 実に充足していた、故に飽きた。

 区切りが良いという理由だけで二十歳まで待ったが、一八八七代目ジャック・ザ・リッパーを殺すためには十分過ぎるほど経験値を貯めてしまったのだ。
 言うなれば、テレビゲームのRPGにおいて平均的にレベル50もあれば十分挑めるラスボスに、レベル上げ自体にハマってレベル100の状態まで上げてしまったという次第である。

 諸君らにも経験があると思うが、レベルがカンストした状態でラスボスと戦うのは全く楽しくない。

 そんなわけで、私は石積彩花の幽霊部隊へ辞表を出す間も無くフラフラと蒸発し、行き掛けの駄賃とばかりに先代ジャック・ザ・リッパーを殺害した。

 一八八八代目ジャック・ザ・リッパーを襲名した後はまぁ、多少退屈しなくなったけれど。

 シャーロキアン探偵クラブ、次代ジャック・ザ・リッパー志望者、石積彩花の亡霊部隊、そして各国警察組織、有名人の私はどこへ行っても追いかけられる。

 まるでこの人間社会そのものが私という『癌細胞』を追い出して殺したがっているとでも言わんばかりだ。

 皆一様に『ジャック・ザ・リッパー憎し』である。

 私はより上質な殺人を求めた、嗜好を凝らし、難易度を上げ、時に常人では実行不可能とされる様なものにも挑んだ。

 挑んで、成功して、飽きた。

 自分が悦と感じるあらゆる事柄に手を出し、飢えと渇きから逃げ続けて二十と三年、私は自身の欲求が底無しであることに気付いてしまった。

 この苦しみには終わりがない。

 故に、この東京に集った殺人鬼ならば私を完全に追い詰め得るのではないかと言う淡い期待がある。この私をあっと驚かせる素晴らしいフィナーレが待っているのではないかと。

 願わくば、その人生以上に優雅な死を。

 なんてね。



 やはり帰ろうか。

 と思った時には、日に一本しか出ていないバスから降りた後だった。山と聞いて予想しなかったわけではないが寒い、あのショッピングモールで上着も調達しておくべきだったかな。

 さて、待たせたね諸君。殺人鬼の波佐見・ペーパーストンだ。

 掲示板で威勢が良いのが一人居たもので、ついつい軽率に話に乗ったのが運の尽き。今回の件から得られた教訓は、ネットで知り合った人間の言葉は信じるな、だ。

 東京都郊外、地名に東京と付けるには余りに寂れた山村の一角に建つ洋館が今宵招かれた山荘なのだと『新聞』には記載されていた。
 金属製の厳かな扉を開けば、大柄で無愛想な主人が迎えてくれた。
 久しく他人様の住居を転々としていた身だからだろうか、当たり前のように対価を払って宿に泊まることがなんだが面白おかしい。

「ご宿泊ですか?」

「あぁ、今晩一泊と、それから夕食と朝食も頼む」

 人の様相が最も強く現れるのは本人以上に住居なのだと私は考える、故に私にとって他人の住居を物色することは当人の観察より重要なルーティーンであり、山荘のような宿泊施設であろうとその例外ではない。

 主人の粗雑そうな見た目に反してロビーの掃除は隅々まで行き届いており、きっちり収められた食器棚やバーカウンターの酒瓶を見るに、意外と几帳面な男なのだろう。
 私は部屋の準備が整うまでの時間を潰すべく、奥の喫煙室にある少し古びた一人がけのソファーへと腰を下ろし、現在時刻を確認する。

「おや」

 卓を挟んだ向かい側には、気怠げな目でこちらを見返す毛深い先客が寝転んでいた。

「セントバーナード種かな。君、名前はなんて言うんだい?」

 当然、返事が返って来るはずもないけれどね。

 犬は好きだ。

 猫と違って従順で、頭も良い。

 だから、あの家で飼われていたコーギー種の『犬丸』を殺すのは私の本意ではなかった、これは本当にね。

「ま、それはそれとして必要な儀式だ。ジャンケンをしようかMr.バーナード君、君の力が必要だ」

 振りかぶる、出すのはなんだって良いが何だっていいのならお気に入りを出したくなるのが人情であるからして私が出すのは当然『チョキ』である。

「じゃーんけーん……」

 見慣れぬ動きに首を傾げる彼はやはりジャンケンを知らないようだ。

 いや……そうでなくては。

 彼はジャンケンを知らない。しかし同時に学習により知ることもできる。だから良い。

「ぽん!」




「何をしているんです?」

 声をかけてきたのは十代中程の少女だった。整然とした黒の給仕服を見るに、ここの従業員だろうか。

「見ての通りジャンケンさ。お嬢さん、私はこれでも全日本ジャンケン選手権の王者なんだぜ?」

「それは素晴らしいですね、ごゆっくりどうぞ」

 十歳も離れていないメイドの少女に北極圏の如く冷たい大人の対応をされた私は一体どうすれば良いのだ。英国ではバカ受けだったというのに。

「さ、気を取り直して行こう。次は上手くやるさ」

 現在時刻は午後八時、私を招いた自称ジャック・ザ・リッパーは一体いつ現れるのだろうか。

 いや、もしくは既に私の目の前に現れているのか。

 『献身的な新聞社』 の午後四時の更新では自称ジャック・ザ・リッパーに関する話題や一八八八代目の私自身に関する話題で目ぼしい物は上がってきていない。
 とすれば、対象は先日の剣竹刀のような単騎で私を狙っている殺人鬼である可能性が高く、そしてそれは少なくとも警察やマフィアなどの組織として活動する者ではないと仮定できる。

「けれど、逆に言えばその前提に辿り着くことはありふれている。私の持つ道具の特性を理解していれば、私がそのように考えることが容易に想像できる、そして対策は可能である、はず」

 少々情報不足だな。

 昨夜のショッピングモールでの戦闘の様に血気盛んな殺人鬼であれば、何も考えずただ戦って殺せば良かったのだけれど。今宵の自称ジャック・ザ・リッパーは私を呼び出すだけ呼び出して、いまだに尻尾を隠している。

 まぁ、それも午前四時になれば分かることだ。

「ご馳走様でした」

 現在時刻は午後十一時、遅めの夕食を取った私は紅茶を片手に本日の夕刊を眺めていた。『献身的な新聞社』の利点は、私が望む情報をこの世の理に背いて掻き集めて記載してくれる事だ。しかし逆に、私の意識が向いていない情報は記載しない。
 非常に初歩的な事だが、万能感に浸る人間ほど視野は狭くなる、故に俗世の新聞記事に目を通して、比較的どうでも良い記事に目を通すことは私の日課である。

「おや、早速私の悪行が新聞に載ってしまった様だね」

 私は思わずほくそ笑む。

 ショッピングモール女子高生二名惨殺事件、と大きく書かれた見出しの記事を綴った記者は、まさかその二人が筋金入りの殺人鬼だとは夢にも思わないことだろう。

「私の悪行、とは」

「む?」

 振り返ると、背後に立っていたのは件の北極メイド少女であった。しかし、その顔は三時間前の顔とはまるでワケが違う。

 非常に殺意に満ち溢れた、殺人鬼の顔だ。

「あなたが『渡蟹』ですね」

「昔そう呼ばれていた時期もあったかな」

「『山狐』と申します、お見知り置きを」

 私の杖が一瞬早かった。

 鳩尾を射抜いた先端を見返す間もなくソファーを蹴り倒す。連日、女児のお守りをさせられるとは思わなんだ。

「じゃんけんぽん!」

 思考停止の先制チョキ。彼女が怯んだ一瞬、仮に何か考えた末に行動を起こせたとしても、手を握る必要がある。

 人体とは、その様にできているからだ。

 案の定、ソファー共々蹴倒された彼女の手には良く砥がれたカランビットナイフとColt Python 2.5inchリボルバーが握られていた。

 否、それらを握ることができなかった。

 ひょいと身軽に跳躍した私の総重量は淑女の秘匿情報だが、成人女性の平均体重52±5kgだと仮定して跳躍による床との距離約85cmからの落下による衝撃を、第二次性徴期を経た少女の頸椎に一点から打ち込んだ場合どうなるか。

 仔細を省くと、即死である。

「易い殺人鬼だったね、お嬢さん」

 さて、山狐とやらを殺害したは良いが、少々厄介なことになってきた。結局、ジャック・ザ・リッパーが彼女なのかどうかを聞きそびれたままだ。
 このまま待つにしても、一旦この山荘を出た方が良いかもしれない。

 そんなことを考えていると、足元でカチリと何某かの作動音が聞こえた。

「覚えておいてください、山狐は九つの魂を持ちます」

「なるほど、それが君の能力か」

 条件付きの蘇生能力、だろうか。

 その自爆攻撃は回避不可能だった。

 爆弾という兵器の殺傷性など説明するまでもないが、破片手榴弾を真正面から浴びた私の肉体はおよそ見るも無残に損壊され、そして間も無く死亡する。

 唯一の心残りといえば、Mr.バーナード君とのジャンケンに決着がついていないことか。

 そうだ、私はジャンケンを開始して、勝利せずに一生を終えようとしている。

 だが、そんな事は起こり得ない。

「さ、気を取り直して行こう、次は上手くやるさ」




 あの最低な夜を終えて、私はその足で郊外の山荘へと向かった。
 最早、相手にしなければならないのは殺人鬼に留まらない。石積彩花を殺害したことが上に報告されれば幽霊部隊は遅かれ早かれ私の元へと辿り着くだろう。分かりきっていたことだが、私は狩る幽霊から狩られる幽霊へと格落ちしてしまった。

 ……分かっていたのなら、何故手を出してしまったのですか?

「答えは簡単、私が綿塚朱音としての側面を取り戻しつつあるからだ」

 殺人鬼口口の残した『荷物』には彼女のこれまでの経緯や旅をした記録、そして私の過去にまつわる情報が事細かに記されていた。

 奇跡的に私の蘇生に成功した際、記憶を失っていても取り戻すことができるように。そして、それはまるで綿塚翠が生存していない場合を仮定したような書き口で。

 あなたは一見芯が強いようですけれど、誰かの正義を代行するばかりでは、いつか身を滅ぼしますよ

「……でも、私は何であれ綿塚翠を殺害せざるを得なかったよ。あの子を許してしまったら、私はもう誰も殺せないし、誰も守れない」

 ですか。

 さておき、悠長してる間に第二夜は迫りつつある。どうせ元の生活には戻れないのだから、いっその事中断された北海道旅行へでも行こうかとも考えた。

 だが、小笠原沖での仕事の事を思い出して欲しい。あの時船に乗り合わせていた始末対象こそ他の誰でもない『一八八八代目ジャック・ザ・リッパー』もしくは『渡蟹』こと波佐見・ペーパーストンだ。
 あの女は派手好きの気取り屋だから、事件現場は見つかってナンボ、魅せてナンボ程度に考えている。故に事が起こればその足取りはすぐに分かる。

 請け負った仕事には自分で蹴りをつけるべきだ。

 件の匿名掲示板にジャック・ザ・リッパーの名で書き込むと、彼女はすぐに食いついた。相手が決まったのなら後は有利な拠点、それから特殊能力や技能を潰す動きを行い、出来るだけ優位な状態で戦闘を開始する。

 仕事だろうがプライベートだろうがやる事は変わらない。

 彼女の『不竦』や『献身的な新聞社』についても当然折り込み済みである。
 情報に関して圧倒的アドバンテージを誇る彼女は、しかし私を追う事ができない。今回ばかりは昨夜の一件で失った組織のネットワークは有利に働くのだから。
 加えて、銃や刀剣類の殆どを口口戦で消耗してしまったが、彼女と事を構える際には得物を所持している事自体がディスアドバンテージとなる。彼女が基本的に武器を持ち歩かないのは拘りではなく、単純に『手に入るから』というのを語れば自ずと理解できるだろう。

 後は……継いで縫ったばかりの身体がどこまで頑張ってくれるか次第、ですか。

「そんなところかな、今夜はもう少し丁寧な扱いを心がけるよ」

 夜明け前に辿り着いた山荘で熱い紅茶を飲みつつ『渡蟹狩り』の作戦を立て始める。山荘の主人は元幽霊部隊の隊員で顔見知りであったから、協力を仰ぐ事自体は難しくないだろう。

 私は新聞が更新される午後四時を過ぎるのを待って仕事を始めた。




「……ジャンケンをしようかMr.バーナード君、君の力が必要だ」

 振りかぶる、出すのはなんだって良いが何だっていいのならお気に入りを出したくなるのが人情であるからして私が出すのは当然『チョキ』である。

「じゃんけんぽん!」

 首を傾げる彼を確認、更新完了。

 さて、待たせたね諸君。殺人鬼の波佐見・ペーパーストンだ。現在時刻は午後八時、丁度三時間前の時刻かな。
 引っかかる些細な事は気にしない方が良い、ここは謎と奇跡に溢れた素晴らしい世界というだけのこと。差し当たって考えるべきなのは……

「何をしているんです?」

「ただのお遊びさ、だのに彼は全く構ってくれる様子が無い……どうだいお嬢さん、ちょっと座ってお喋りでもしていかないかい、チップは弾むよ」

「……三十分後に休憩に入りますが、その時でもよろしいでしょうか」

「あぁ、楽しみに待ってるよ」

 ひとまず北極メイド少女こと山狐とのフラグを立てる事に成功したので、後は頃合いを見て死ぬまで殺す。然るに、私が三十分の間に行うべきは洋館の探索と、私の昔の名前を山狐に教えた協力者を発見することだろう。
 一周目の襲撃が就寝中ではなく喫煙室で寛いでいた十一時だった事を鑑みても、今回の相手は少なくとも私の『献身的な新聞社』の制約を理解しているものと考えて良い。午後四時以降から行動を開始し、諸々の準備が整い私を襲撃するために動いたのが七時間後、筋は通っている。

 では、協力者が一体どこの組織の所属なのか。新聞に関連するのならば、最有力はシャーロキアン探偵クラブ。『動物の和名を暗号名に用いる組織』で思い当たる点で石積彩花の幽霊部隊。そしてどちらも新聞について知識があってもおかしくはない連中ではある。

 最も、一度の国外逃亡より先は追ってこなかった幽霊部隊が、今更私に目をつけて最優先で殺そうと考えてるなどとは考え難いが。

 今や東京は殺人鬼とそれを狩る狩人で溢れかえっている、私一人に手を回してる余裕など無いはず。

「しかし断定は宜しくないな、きちんと精査して決めよう」

 石積彩花、それから幽霊部隊から発信された情報、断片的なそれらの文字列から読み取れる情報を継ぎ合わせ、私が日本に入国してからのあらゆる情報を洗った。何人かの隊員が防衛省からの指令で送り込まれ、彼らが殺した殺人鬼の情報、それから殺されたり負傷した隊員の情報。

 今現在の彼らの動きから、手掛かりとなる何かを……

「……うん?」

 She is died.

 She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died. She is died.

 幽霊部隊から上がってきた情報のほとんどがそれで埋め尽くされていた。彼女、石積彩花は午前四時の段階で死亡が確認され、犯人は依然逃走中。

 石積彩花が殺された?

 ますますワケが分からなくなってきた。理由は不明だがあの女が殺されて、新聞を知る何者かが私を山荘に呼び出して、その上で幽霊部隊の1人をけしかけてきて……

「あなたが『渡蟹』ですね」

 現在時刻は午後八時半。背後に立っていたのは一周目と同じく、殺人鬼の顔となった北極メイド少女。

 何が起きた?

 何故襲撃のタイミングが早まった?

「しかし私の杖が一瞬早い!!」

 早くなかった。

 彼女は素早く伏せると喫煙室から離脱、ロビーの方へと逃げてゆく。

「社長!やはり渡蟹でした!!」

「了解、後ろで控えてろ」

 轟音、火薬、硝煙、容赦無く鉛の雨を降らせるのはBrowningM2重機関銃。しかし忘れてもらっては困る、手を使う得物は基本的に私の前では無力。

「ジャンケンチョキ!!」

 ジャンケンによる指先の固定が発生した一瞬で喫煙室からロビーへの廊下を走り抜ける、山荘の主人を最優先、山狐は離脱後に追ってきたら迎撃。それで行く。

「なぁ〜にぃ〜〜!?」

 撃ってきた。

 手のひらは確かにパーで固定されたままだが、腕の動作だけで引き金を引けるように細工された即席の延長装置のような金属部品によって。
 固定三脚を上から押さえつけている状態から無理やり引き金を引いているので命中力が皆無だったのが唯一の救いか。私は山荘の主人の殺害を諦め、廊下から繋がる共用便所の窓からの逃走を試みる。

「ジャンケンの対策も万全ってわけね、了解了解」

 月明かりも厚い雲に隠された暗闇の山林、深く雪の降り積もった極寒の山肌を駆け下りてゆく。この周回で倒しきるのはどうやら無理らしい、ひとまず人気の無い場所で午前四時を待ち、更新された情報を得てからリセットして三周目に移ろう。

「しかし暗くてなぁ〜〜んも見えん!!」

 暗くて何も見えないが、山を少し降りれば近隣の村にたどり着くはずだ。納屋かどこかに潜伏して時間まで逃げ切る事はさほど難しくないはず。
 ドッサドッサと優雅さのかけらも無い歩き方でラッセルを行い雪山を進む。ラッセルとは雪の積もった場所を踏み固めて進む行為だが、誰に聞いたのだったか。まぁどうでも良い情報とて、たまには役に立つものだ。

「冷たい冷たい!!」

 革靴とスラックスの隙間から雪が入り込み、体温で溶けて服を濡らす。濡れた衣服は固体の雪以上の速度で体温を奪い、徐々に足先の感覚が無くなってゆく。
 しかし数分も走れば徐々に身体が温まってきた、雪で濡れた上着を脱ぎ捨てて更に走る、今夜ばかりは人類が恒温動物で本当に良かったと思うね。

「ははは!暑い暑い!ジャック・ザ・リッパーが寒さ程度耐えられずにどうする!ロンドンの冬はもっと寒いぜ!!!」

 なんだか頭がフワフワしてきたが、全く問題ないだろう。泥と雪が混じって歩きにくくなった革靴を捨てて裸足で歩みを進める。なんだなんだ、裸足の方が山は歩きやすいじゃあないか、昔の日本人は靴底の薄い足袋を履いて旅をしたというが、なるほど裸足は正解だ。

「タビだけにな、あっはっはっは!」

 なんだか童心に帰った気分だった、脳が楽しくて楽しくて堪らない、もっと走って楽しくなれると命じている気がした。楽しい!

「あは!あははは!!!」

 楽しい楽しい!

「あは……」

 暑い。

「はっ……」

 寒い。



 ビュウと鈴鳴りがしてトロリと赤い水溜まりが足元を吹き抜ける。私は次の瞬間には全身の力が抜けて、雪に埋まれた鏡餅でした。

「……なんだろう、相手の能力かな?」

 遠くで御犬の遠吠えがする、本当は近くだったかもしれです。
 駆け寄るモフモフは可愛らしいバーナード、甘酒の芳しい樽の香りと温もりが脳を濡らして耳に垂れる桜の色を頬擦りするとウフフと怒って鋭角の感情が脚に突き刺さり引き込まれる細胞と体液は赤青黄色でとても甘くて深かったです。
 とうとうお父様が目の前に現れ人生の終末を括るスタッフロールはとてもプライベートで鋼を帯びた紅茶とランドセルが煌びやかに唸って塞ぎ込まれた眼球に反射するは一万年と二千年前の例のアレが義経公も遺憾であり見覚えのある鼠いいえそれは針鼠で渡蟹は潰れゆく運命と引き換えに三百六十五日の永久とインターネットにほぐれた缶詰のようでした。
 塩とポルカドットがとても辛辣な地球を覆い尽くすと熱を着た瞳と瞳と口と口が交互に午前四時と午後四時を警笛してぶるると騒いだ黄金色の微睡が左の人生を毟り取りとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろとろ……

「……異能でもなんでもない、典型的な低体温症とそれに伴う矛盾脱衣だ、覚えておきなよ波佐見・ペーパーストン」

「次の周回で君を殺す」

 とろ。




 正常な人格を持つ職業殺人者の多くは愛欲に飢えている。

 凡例に洩れず、私もその一人であった。

 真に殺人者向きの人間というのは波佐見・ペーパーストンのように他者への共感性が著しく欠如した者や、石積彩花のように自己を徹底的に押し殺して生きられる機械のような人間のどちらかだ。

 綿塚朱音の人格のみならまだしも、私達は金岡かがみとしての側面も少なからず含んでいる。かつて石積彩花が『向いていない』と評したように、私は繋がりに依存することで己を保っていた。

 殺人者として生きる以上、その苦悩や思想を共有できるのは必然的に殺人者同士でなければならないのだから、あの頃出会った二人がそうなってしまうのも当然の帰結と言える。

 三年前、仕事で知り合った私と波佐見は『そういう関係』にあった。

 波佐見のヒヤリと冷たい指先が好きだった。意地の悪い顔で笑う姿、耳をくすぐりかかる吐息、熱を帯びた内腿の触れ合う感触、時折突き立てられる歯と唾液と、脳に響く甘い潮騒。

 私の充足はそこにあって、彼女だけで十分だった。

 けれど、彼女の内包する底無しの渇きは徐々に不満を募らせていく。どうすることもできない断絶が心を覆い、とある夜のこと。

 彼女は私に自身の『未来視』について語った。曰く六六六回の試行を経て、明日起こる事件を解決する際に私は必ず死んでしまうのだと。そしてそれを解決するためには、前提として波佐見・ペーパーストン一人が問題の解決に当たる必要があるのだと。

「これまで何度も別の世界の君の死体を見送ったけれど、今回ばっかりは本当にダメだったという結果だけ報告しにきた」

 論理性に欠ける、そんな戯言信じられるか。

「だから、会うのは今日で最後だ」

 やめてくれ、そんな風に私を気遣った事なんて今までなかったろ。私の命なんていざという時の盾程度にしか思ってないくせに。

「この秘密は他言無用で頼むよ」

 話されたくない秘密は最後まで守れ、肉体関係があるというだけの同業者に簡単に喋るなよ。

「そしていつか来る波佐見・ペーパーストンという舞台の幕引きは、是非君に頼む」

 ……そう言い残して、私の元を去った。石積彩花の幽霊部隊からも無断で脱隊し、翌日の彼女の二十歳の誕生日には一八八八代目ジャック・ザ・リッパーを襲名したという噂が裏界隈を駆け巡った。

 山荘での作戦を開始して数時間。双眼鏡越しに波佐見を見ていると、かつての感情が私の決意を曇らせる。
 私はいつだって、素晴らしい舞台の上で踊る波佐見・ペーパーストンを観客席から眺めることしか出来ずにいる。そして夜明けが来ればそれすらも叶わなくなるだろう。

 しかしそれが最後の望みだというのなら、私がやる他にあるまい。

 眠れない夜に無い物ねだりをする事もなくなる。





「とろっ……じゃない、ジャンケンポン!」

 さて、待たせたね諸君。殺人鬼の波佐見・ペーパーストンだ。現在時刻は午後八時、丁度……何時間あの山を彷徨っていたんだったか、どうにも上着を脱ぎ始めた辺りからの記憶が曖昧だ。
 全く酷い目にあった。いくらリセット可能とは言え、雪山歩きなんて慣れないことに挑むものではないな。

「何をしているんです?」

 反省会をしてる間に北極メイド少女、今回は早めに仕留めておこう。

「ただのお遊びさ、だのに彼は全く構ってくれる様子が無い……どうだいお嬢さん、ちょっと座ってお喋りでもしていかないかい、チップは弾むよ」

「……三十分後に休憩に入りますが、その時でもよろしいでしょうか」

「あー、チップをこの倍払うから今からお喋りしないかい? 今が良いんだ、ほんの数分で構わない」

「……? まぁ良いでしょう、社長にはご内密にお願いしますよ」

「よしよしよし、ありがとうお嬢さん」

 ひとまず北極メイド少女こと山狐とのフラグを立てる事に成功したので、後は頃合いを見て死ぬまで殺す。次にあの機関銃の破壊と山荘の主人の殺害、それから手引きしたであろう自称ジャック・ザ・リッパーを……

「その必要は無いよ、波佐見」

 犬を押し除けて対面のソファーに腰を下ろしたのは、狼のように鋭い眼をした長身の女。男性のような短髪、少しだけ伸びた後ろ髪を小さく結んで、フォーマルな黒のスーツ、背中にはまるで似合っていないピカピカの赤ランドセル。

「あぁ……金岡かがみか」

  やりかけの数式にいきなり解を突きつけられた気分だった。納得いかない部分はあるが、合点はいく。
 そう言えばこの女には数日前に密漁船までストーキングされていたし、今回私が参加しているとなれば追ってきても全くおかしくはない人物だ。

「そう言えば君ィ、よくも私の可愛いシャオ君を殺してくれたな」

「躾がなってないんだよ、分かっててスケープゴートにした癖に文句を言うな」

「人殺しはいけないんだぞ」

「……」

 その気の抜けた顔。あぁそうだったな。

 そういえば、昔の私は、君のその顔が好きだった。

「……私達が殺人鬼じゃなかったら、今日はとても素晴らしい再会の日になったかもしれないのにな」

「三年も前の女を引きずるのはやめたまえよ金岡かがみ。君のそういう『重い女』的な部分を押し付けられても困る」

「あっそ」

 露骨に不機嫌になった彼女は、相も変わらずキレっぽい性格で顔に出やすい。変わった事といえば、昔より濁りや迷いが無くなったようにも見える。私の知り得ぬところで、何か良い出会いでもあったのだろうか。

「……針鼠、私はどうしますか」

「山狐は社長と共に銃器を回収して撤退。後の処理は私に任せて」

「承知しました」

 喫煙室に残されたのは渡蟹、針鼠、そして犬が一匹。鼠と呼ぶには些か大柄で、余りある殺気を大きなため息と共に吐き出す彼女は、淡々と確認作業を始める。

「今何周目だ」

「それがなぁ、百万周したけど毎回君に負けてしまうんだよなぁ」

「三周目ってところだろ、山狐と社長の敵対には気づいて、私にはあと一歩……ってところか」

「意地悪だなぁ〜〜分かってるなら聞くなよ」

 どうにも状況は傾きつつある。

 疑問その一、針鼠は私と同じく時間跳躍により記憶の引き継ぎをしているのか否か。

 疑問その二、次の周回で殺すと宣言した根拠は何か、それはブラフであるか。

「君が抱いている疑問の一つへの解答を示そう」

 彼女はそう言い放つと、部屋の隅で寛いでいるMr.バーナード君へと歩み寄ると首輪を変形させ、彼を殺した。
 それはもう一瞬のうちに、何の躊躇いもなく。







 さて、私が賭けたのはここからだ。

「あぁ、可哀想にMr.バーナード君」

「出会って数分の犬を、ずいぶん親しげな名前で呼ぶじゃあないか」

「長い付き合いなのさ、君には知り得ないだろうがね」

 多分、この反応は私の勝ち。

 私は彼女の能力の『仕組み』を大まかに理解しているだけで、彼女の『未来視』に関する詳細なロジックや、この山荘で起こる未来の出来事を知り得るわけではない。

 だから彼女を観察することに徹した。

 犬に勝手に名前をつけていることも、山狐への積極的な接触を図ったことも、私が近い未来に起こそうとした行動を体験したことによるリアクションと見ていいはず。
 そして導き出される未来視の起点、それは先ほど殺した犬とのジャンケンと見て間違いないだろう。

 ジャンケンに必ず勝てるという極単純な能力と未来視の関連性。そして何故犬がその起点となるのか。

 仮定その一、自身の能力の範疇である。

 仮定その二、異能に関する道具を使用しない。

 仮定その三、厳密には『未来視』ではない。

 数日前の都内のとあるマンションでの殺人事件、昨日のショッピングモールでの殺人事件、もっと遡ればその多くの殺人現場には『犬の死骸』が存在する。

 合理的で芸術的な殺害を信条とする彼女の蛇足。

 自称犬好きで、見掛ければ『ジャンケン』をするなどして戯れる彼女が無関係な犬を殺す理由。

 仮説、その能力はある条件を満たすことで未来からある一点の過去へ戻る能力である。

 彼女の異能『不竦』はこの世の理に介入する稀有な能力である。三つに枝分かれする世界線から、物理法則を無視して『ジャンケンに勝利する世界線』を選び取る。『不竦』の能力発動下において、ジャンケンの敗北は絶対的にあり得ない。

 では、ここに矛盾が発生した場合。

 ジャンケンを知らない相手とジャンケンを開始してしまい決着がつかなかった場合、通常は不発となって終了する。
 しかし、その状態のまま能力者である彼女が死亡して、ジャンケンに事実上の敗北が決定してしまった場合。

 どうなるか。

 『不竦』はジャンケンで絶対に勝利する能力である。それは呪いにも似た世界の書き換えであり、ジャンケンへの勝利を達成するためには死亡した事実すら改変する。
 生存した状態の彼女と対戦相手が存在する『不竦』が不発となった瞬間へ、意識は跳躍する。

 タイムリープが成立する。

 そしてそのタイムリープの果てに目標を望む形で達成したのなら、新たな楔を打ち込むために古い楔を取り払う。犬はその時に殺す。

 一八八八代目ジャック・ザ・リッパーが三年間その称号を守り抜く最強の殺人鬼であった理由。彼女があらゆる戦場であれほどに鮮やかに、汗一つかくこと無く殺害を遂行し続けられた根源。それは、このタイムリープを誰にも知られることなく殺害を完了していたからだ。

 彼女は何度殺されようと、勝つまで挑み続ける。

 故に彼女は齢二十にして、最強と謳われた先代ジャック・ザ・リッパーを討ち得た。彼女はこの世に存在するどの殺人者よりも、文字通り『場数が違う』のだから。

「……チェックメイトだ、ジャック・ザ・リッパー」

 それでも尚、彼女は不敵に笑ってみせる。

「ははは、確かに結構追い詰められたよ。タダでさえ能力バレしてる君に、時間跳躍の仕組みまでバレて潰されたのは想定外だったし、今の私は殺されればそのまま死んでしまうね」

「だが、そんなのはただの長い前奏だ。非常に膨大な労力を要して追い詰め、ありとあらゆる手段を以って私を『詰ませた』君を、観客の誰もが予想し得ない圧倒的に美しい解答を以って、終幕に導くためのね」

「だからそう、今宵はまだ何も始まってないんだよ」

「さぁ、紳士淑女ら諸君! 銀世界の山荘へ集うは殺人鬼二人! お待ちかねの血に濡れた異能力活劇をしようじゃあないか!!」

 彼女は揺るがなかった。

 何故なら彼女が史上最強の切り裂き魔であるから。

 そして高らかに名乗りを上げる。

「その人生以上に優雅な死を君に、私の名は一八八八代目ジャック・ザ・リッパー」

「私は針鼠、私情を清算するために君を殺す」

 開始の合図は、換気扇が逆回転した瞬間だった。

 なんて事はない、密閉された室内で仕事をする際にはよく使っていた手口だ。ダクトに鉄粉の山を設置して、それを換気扇を経由して室内に流し込む。相手は当然それを全身に浴びる、鼻や口から吸い込む。そうなればもう勝負は決したに等しい。

「だが、そんな大掛かりな物は未来を認知するまでもなく折込済みだ、金岡かがみ」

 ……不味い、この女の手癖の悪さを忘れていた。

 その手に握られていたのは、私が後の作戦で山狐に使わせる予定だった電話爆弾の起爆スイッチ。一体いつ盗まれたのか。銃や刀剣は山荘の外へ隠してきたが、起爆スイッチは万が一のために自分で持っていたことが仇となった。

「ピザの配達を頼むよ、お嬢さん」

 奥の給湯室に隠された爆弾は外壁と従業員用の鍵付き扉を吹き飛ばし、暖房の効いた屋内の空気は極寒の屋外に向かって放出される。

 当然、空気中に散布した鉄粉も一緒に。

「ッ……!」

 息を整える。

 焦るなよ。

 ここから先の一挙手一投足に全てが掛かっている。

 絶対に討ち漏らすな。

「波佐見ッ!!!」

 呼びかけで注意を引いた後、両手へ同時に鉄製武器を発生させる、前に突き出した右手に握られたのはいつかと同じ無骨な剣鉈。

「じゃんけんチョキ!」

 想定通りのパーの強制。当然、剣鉈を握る手は解かれて空手となる。しかし裏に隠した左手に握られたのは元より開かれたままに構えが成立する武器。

 円月型手裏剣、チャクラム。

「じゃんけんッ……!」

「遅いッ!」

 ジャンケンによる手の変形は一度につき一種類であり、同時に二種類の手の形を捌く事は不可能。そして二回目のジャンケンが始まるまでには投擲の動作が終了する。
 飛来する直径15cmの円盤は、しかし当然の如く射線を塞ぐ杖によって弾かれようとしていた。勿論この手裏剣一枚によって与えられるダメージなどはなから期待していないが。
 仕様上、擬化に要する時間より圧倒的に速く昇華が可能である。彼女の眼前まで手裏剣としての形を保って直進してくれさえすればそれで十分なのだ。

 そして杖に触れる寸前、手裏剣は粉微塵と成り彼女の顔面へ降り注ぐ。

「……ポン!!!」

 肩幅に開かれた足ジャンケンのパー。私の下半身は強制的にぴったりと閉じられ、歩行を封じられる。追撃を恐れるなら、この判断は正しい。

 これはただの目眩しだ。

 手で払い落とせば何の問題もない。

 それらはごく当たり前の判断であるが、この場合それが致命傷となる。

「……やってくれたな、金岡かがみ」

 吹き付けられた鉄粉は着弾と同時に細く短い針へと変換され、彼女はそれを自身の手で素手で顔面に擦り付けた。

 怒り心頭、興奮により毛細血管から溢れた血液がじわりと滲み紅に染まるその顔にいつもの飄々とした軽薄さは微塵も無かった。

 そうだ、それで良い、そう来なくては。

「どうしたよ、柄にも無く怒ってるようだが」

「自分の顔面を故意に傷物にされて、怒らない女は居ない」

「残念だよ、良い女だったのに」

 会話を遮る様に間合いを詰める切り裂き魔は、私が知る他のどの武術家より速かった。目測九歩、脳が行動への対応を開始したのが二歩目、降り積もった鉄粉の残りが撒菱へと変換され始めたのが三歩目、彼女の足へ明確にダメージを与えられたのは七歩目がやっと。

「踊ろうぜ、波佐見」

「もちろん、そのつもりさ」

 一閃、杖の鋭い突きが下腹部へと繰り出される。半身を引くのが間に合わずに軽く撫でられたが、まだ十分動ける。

「じゃーんけーん!」

 間合いに入った刹那、杖を握る左手を跳ね上げる。

「グー!」

 そしてガラ空きの肋骨へ、手の変形が発生することを前提とした掌底からの発勁。付け焼き刃だとしてもこの場で撃つには十分…………

「あっち向いて〜〜」

「………………あ?」

「ほい」

 脳がフリーズする。その想定外の言葉に意識を奪われた次の瞬間、私は天井を見上げていた。

 めくら撃ちにも等しい発勁が当たるはずもなく、それは空を切った。

 あっち向いてホイ……?

「知っているだろう、ジャンケンのバリエーションの一つさ」

 伸び切った私の左腕は取られる。引き、捻り、関節の可動域一杯のところへ下から打ち込む膝蹴り。人体を破壊するために効率化された一連の動作は彼女の身体に強く染み付いた『技』だ。

 私の発勁とはわけが違う。

 前回の負傷もあり、継いだばかりの腕は容易に砕けた。折れて、砕けて、縫った皮は千切れて。

 だが奪われたその左腕が、今回の私の切り札だ。

「盗っ人に天誅」

「おっと」

 表皮を突き破りトゲ達磨となった左腕に血や肉は通っていない。肘から先は自分の肉の皮をかぶせた即席の鉄製義手。

 能力を見せた上でも、空手の腕を突き出されればそれは『人間の肉体の一部』と認識せざるを得ない。流血による視界不良、そして武術の心得があるのなら尚更これまでの感覚や経験則に基づき行動を決定する。

 昨夜はそんな思い込みで痛い目を何度か見た。

「じゃーんけーん!」

 彼女は止まらない、風穴だらけで血塗れになった握れないはずの手が動く。

「ブスッと行くぞ、大捕物だ!!」

 半身を引いて体を捻り、ランドセルの側面を前面に構えた。私の両の目は体の正中線を捉える、距離およそ4メートル、回避は絶対的に不可能。

「ぽん!!」

 繰り出されたのは足ジャンケンのチョキ、私の足は肩幅にピンと開き、狙いを定めた対軸に僅かなブレが生じ始める。

 意地で体幹を戻す。

 問題無い、命中は確定している。

「あっち向いて……」

「……ッ!」

 二度目、それも戦闘の最中に急に増えた選択肢であるから、自分の今の姿勢を客観的に捉えることができていなかった。
 この半身を引いて上半身に捻りを加えている状態で、更に背中を突き出す無理な姿勢。当然そこから正面の相手を見るとなれば、首は横への可動域を一杯に使わなくてはならない。

 私の首は当然、右に目一杯曲げられている。

 故に。

 彼女の指し示す指の方向が更に右を指し示せば、首はねじ切れる。

「右っ!!」

 必殺必中の大技と自分の命、天秤にかけるまでも無かった。

 明後日の方向へと伸びる鉄槍は1.5メートルほどの長さで停止し、その先端は自重で落下を始める。

 私は、引いた左足を前へと踏み込ませる。

「じゃーん……」

 来る、足ジャンケンによる下半身の固定。

 強く、強く踏め。

 全て踏み潰して身体を前へ押し出せ。

「けーん……」

 果たして、跳躍は間に合った。

 徐々に勢いと高度を失い落下を始める身体はしかし、その切っ先を確かに下腹部へと届かせ。

「ポン!」

 波佐見の身体を鋼の塊で以って、深く穿った。






「……痛った」

 滴る血の勢いは止め処なく、その子宮は切り裂き魔の血液が満たしていた。吹きつける粉雪混じりの風が、徐々に興奮を冷めさせていく。

 ようやく幕引きか。

「……ごめん、首か心臓狙って即死させるつもりだったんだけど、上手く当てられなかった」

「良いよ、君は快楽殺人畑の人間じゃあないんだから、殺しに完璧さを求めなくても」

「……あっそ」

「あぁそうだ、忘れないうちに聞いときたかったんだけれど、石積のオババを殺したの君だろ」

「うん」

「最後になんて言ってた?」

「聞き取れなかった」

「だろうな、私の新聞にその内容が載ってるから、ついでに持っていって良いよ」

「まぁ、言われなくても死体漁って持って行くつもりだったけど」

「あっそ」

「……波佐見・ペーパーストン、何か言い残すことは」

「あぁ、そうだね、例の奴ね。私は君にシャーロックホームズ全集を何冊か貸したはずなんだが、アレ読んでいないだろ」

「読んでないけど」

「君はまるで私が独りよがりで傍若無人に振る舞った挙句に君をこっ酷く捨てた様に人に流布しているだろうから釘を刺しておくがね、君のそういうところだぞ」

「……うるせーよ、馬鹿」




「……それでは、先に地獄で待ってるよ」



 うつらうつらと流れ出る紅色の砂時計が、もうそろそろ最後の一粒を間近に控えている気がした。凝固した血が目蓋を、口を、耳を、鼻を、塞いでいく。

 あと、もう一つくらい言おうと思って声を出したけれど、声は出なかったので諦めた。

 金岡かがみ。

 やっぱり君のこと、好きだったとは思うんだよ。

 それほど愛してはいなかったけれど。

 でも最後くらい、ちゃんと君の顔を見ておきたかったかな。




「あっつぅ!!」

 茹でたてを焦って頬張れば誰だってそうなろうに、彼女は相変わらずせっかちである。

 全く馬鹿だな君は、タレで一旦身を休ませれば良いんだよ、タレでな。

「波佐見、私は蟹の素のままの味が好きなんだ、それは断固として拒否する」

 そうかい。

 出張ついでに寄った海沿いの田舎町の民泊で、いつだったか一緒に蟹を食べたことがあった。彼女はそれ以来祝い事といえば事あるごとに蟹、蟹、蟹の蟹三昧である。

 君は蟹を食い過ぎだ。そのうち蟹になるぞ。

「そうなったら楽しいね」

 楽しいものか、石積のオババに私はどの面を下げて報告しにゆけば良いのだ。

「『任務の遂行が可能であれば問題無い、持ち場に戻れ』って言ってスルーされるよ」

 あながち否定できないところが辛い。

「波佐見、二十歳の誕生日がもうそろそろだったっけか」

 そうだよ。

「じゃあ、酒を買ってお祝いですなぁ」

 いいよ別に、酒はそんなに好きじゃない。

「祝わせてくれよぉ、もうアラサーになるとね、若い子に貢ぐくらいしか楽しみが無いんだってさマジで」

 …….あっそ。

「あははは」

 その笑い声が途絶えると、私はまた茹でたての蟹を頬張って火傷する彼女を見ている。

 ずっと、永久に、終わることなく。

 ここはこれまでとこれからが無くなった、この世で最も幸せな存在しない世界。

 最も都合の良い、黄金色の微睡。

 いつか記憶の断片すら擦り切れて、何も思い出せなくなってしまう本当の終わりの日まで、私はここで夢を見続ける。

 おやすみまたね。

 それじゃあまたね。

 そのうちまたね。






『もう、お前の好きに生きろ』だとさ。

 自分で人の人生をぐちゃぐちゃにしておいて今更どの口で言っているんだ、全く石積彩花と言う女はどこまで傲慢であれば気が済むのか。

 ま、さておき。

 よぉ、金岡かがみだ。愛国者でも無ければ雇われ殺人者でも無くなった方の金岡かがみだ。

 巡り合わせってのは全くままならないもんだな、知っての通り東京で過ごした時間は今宵も憂鬱だったよ。
 山荘での一八八八代目ジャック・ザ・リッパー戦は他でも無い私自身が仕掛け人で、それは目論見通りに達成された。
 けれどそんなのは最適解とは程遠く、生きている限り心の飢えと渇きにもがき続けるあの子を、どうしてやるのが正解だったのか。

 出会っていたのが私でなければ……あるいは。

 彼女が渡蟹だった頃から、私はその疑問にぶつかっては先送りにする人生だった。

 だから結局、自分で答えに辿り着く力の無い私は、このとても美しくない解答に納得せざるを得ないのだろうよ。
 まぁ、踏ん切りをつけて切り替えるのは得意な方だ。目の前のやるべきことをやり続けてれば、いつか報われる日も来るさ。
 当面はそうだな、あの子に借りた本を少しずつ読み進めることから始めることにするよ。

 最強の殺人鬼が死際にまで推したんだ、きっと面白いに違いない。

 それじゃあ、次があったら別のページで待っててくれよ。




 金岡かがみ







最終更新:2020年07月03日 20:59