無体のみぞ知る—nobody knows—
登場人物
黒星…『黒星』。殺人鬼。
無体…非存在。吸血鬼。
美藤羊子…『{愛人形}』。殺人鬼。
一丸可詰丸…大学生。殺人鬼。
「」…メイド。『秘密主義者』。殺人鬼。
〼虚迷言…メイド。『謎掛』。殺人鬼。
目次
《{ラムのラブジュース}》
《秘密隠匿》
《無体のみぞ知る》
《灰色の武器庫》
《{ラムのラブジュース}》
★ ★ ★
無体。
体が無い。
実体が、無い。
「つまり『無体』なんてモノは存在しないんですよ」
黒髪のメイドがそう言って笑いかける。
明朗に笑っている。
快活に笑っている。
仇。
「親」「子」。
私の世界。
『宿敵』。
組織を壊滅させ、私を『吸血鬼』にした張本人。
それが『無体』。
永久を生きる、不死者の姉妹。その妹。
『無体』。
私が私であり、
私が黒星である理由。
殺人器である動機。
それらに直結する存在。
そのはずだった。
だが——
——『無体』など存在しない?
私は口を引き結んだまま
何も言い返すことが出来ない。
「明白言って、どうでもいいんですよ。無敵の吸血鬼とか。どうでも良いじゃないですか。仮にそんなモノが存在したとして——貴女は一体、何に拘っているのです?」
嘲弄されている。
愚弄されている。
私の——全てが。
どうでもいい?
全て私の妄想に過ぎない?
無体など存在しない?
「そういうの、ただの妄執です。無体なんてのがいるとしたら、あなたの妄執の中だけですよ」
妄執。
私が無体に拘り続ける限り——私の頭の中にだけ、その吸血鬼とやらは存在する。
「言い換えれば、あなたの現実の中には、あるいは、そういうのもいるのでしょうね」
だが、私以外の人間はどうだ?
いない。いないのだ。
彼らの現実の中に、そんな便利な人物は登場しない。
「あなたの言う組織だったり、それが潰れてしまったことは、おそらく本当なんでしょう。でもですよ。果たして、全部が全部、あなたの言うことが真実でしょうか?あなたは組織が潰れた原因を、『無体』という都合のいい妄想のせいにしているだけでは?」
核心をつかれる。
答えられない。
「答えられないですか?」
だってそれは
「どうでもいい、んですものねぇ」
そうだ。
私はどんな理由があろうと、殺人器として存在するだけ。
存在を全うするだけ。
もう、そう決めたから。
だから、だから本当に『無体』が存在するのかは——
——どうでもいい。
でも私がソレに囚われ続けるのなら、
その妄執をこそ、無体と呼ぶのだろう。
私より暗い黒がこちらを見つめている。
夜闇よりも濃く、夜空よりも深い黒色。
肉眼では届かないくらい弱い光の、見えない星すらも飲み込んでしまう黒。
「さて、黒星さん。改めてあなたに謎掛です!」
黒色のメイドが笑いながら問いかける。
私はそれに答えられない。
「私——〼虚迷言は、あなたの言う『無体』でしょうかっ!?」
答えられない。
だってそれは
私は辛うじて口を開く。
「それは——」
「それは?」
「——それは、それは、『謎』…」
答えた。
答えさせられた。
私が答えると、黒髪のメイドは満足そうに笑って、右手の人差し指を口元に持っていった。
「おやおや、おやおや。では続いて第二問——」
そう言って黒髪のメイドが、
反対側の手で、写真を差し出す。
何処にしまっていたのか。
何処からともなく、手のひらから現れ出でた、写真。
そこには、
人間の顔。
「さて、彼女は——誰でしょう?」
知っている顔?
——でも、この顔は、
その顔を見て、私はある種の確信めいた予感で、その名を口にする。
「…夜魔口吸血……」
吸血鬼『無体』の、姉。
夜魔口吸血
夜の女王の名を。
黒髪のメイドの笑みが一層濃くなる。
どうでも良いのに、
私は答えに、近づいている。
◇ ◇ ◇
池袋が消失した翌朝。
自分は「」さんに連れられて、街中を散歩していた。
朝から「」さんは上機嫌で、
妙に上機嫌で——どれくらい上機嫌だったかというと、どこからか車椅子を調達してくれたほどだ。
——昨晩、自分は両手両足のうち、右手以外をすべて失った。
どういう原理なのか、両足の傷はすぐに塞がったのだが、しかし、そのままでは歩けない。
昨晩も、〼虚迷言さんに背負われてアンティーク喫茶『迷宮入り』に帰っている。本当に情けない。
流石に気分が塞ぎ込みそうになっていた折、「」さんが急に、散歩に出掛けようと言いだした。
そういう次第である。
——あの「」さんが気を遣ってくれている。
感激せざるをえなかった。
感激しないと害されるからだ。
彼女は機嫌が良いまま、往来を歩くときも、『秘密隠匿』の能力で、自分たちを隠すことすらしない。
衆目に晒されるがままだ。
やがて、何処なのかよくわからない道を歩いていると、聞いてもいない話を唐突に語り始めた。
——「殺人鬼同士の戦いとか笑い話だよな」
「笑い話、ですか?」
「笑い話だよ。ご主人様、一丸可詰丸様。殺人鬼ってさ、こう、ブシャーーーって、一方的に殺すじゃん。一方的に殺すのが、殺人鬼なんだよ」
「はあ、そうなんですね」
「そうなんですね、って!なんだよその返事は。まあいいや。だから、殺人鬼同士の争いってのは、それはたとえば武芸者同士の死合とは、違うって話だよ」
「なんでもいいから、人を殺せば殺人鬼じゃあ、ないですか?」
「そういう考えもある。だが、私に言わせりゃ——殺人鬼同士の戦いなんてのは、裏の掻き合いさ。どちらが一方的に殺すか、それしかない」
そういうものなのだろうか。
そう言われれば心当たりしかない。
だがしかし、「」さんが意気揚々と語り続ける姿とは裏腹に、自分の意識は、ややズレた方向を見つめていた。
車椅子を押す、その人を。
——「なあ——?」
と、「」さんは車椅子を押してくれている、親切な女性、艶やかな黒髪の女性に、意地悪な笑みで語りかけた。
「——美藤羊子、さん。美しいアンタには不躾すぎる話題だったかな?」
——美藤羊子。
その人は、困ったような、あるいは怪しい笑みをしていた。
何処となく色っぽさの漂う、それでいて一見親しみやすそうな雰囲気のある女性である。——しかし自分は、猜疑心を交えた目で見ていた。
「」さんは嫌に上機嫌だ。
「確かに、殺す殺さないなんて、矢鱈と物騒な話ですね」
慣れていない丁寧語。
妖艶な笑み。
黒い髪、白い肌、赤みがかった目。
そもそも美藤さんは、「」が車椅子とセットで連れてきた——よくわからない人だ。
曰く、
「ついさっき」、
「そこで」、
「ばったりと出会って」、——
——「意気投合した」のだと言う。
聞くだに、何から何まで怪しい話だ。
「」さんは、「この人が車椅子押すのを手伝ってくれんだとよ!良かったな!」などと言っていたが、二人の間に流れる奇妙な熱気に、自分は警戒していた。
「」さんの、何かに当てられたような、妙な上機嫌ぶり——何かがおかしいことは、明白だった。
——にも関わらず、それを止めようと思わない自分がいる。
「おいおい、敬語はやめてくれよ?美藤羊子さん。それとも生々しい話だったら、男女の仲の方が良いかい?」
なんて質問をするのか。と、思った。
いくら道端で意気投合したからと言って、セクハラめいた問いを投げかけて良いものではない。
茶髪の不敵なメイドさんの、あまりの厚顔ぶりに、自分は思わず赤面する。
それを気取ったか、美藤さんが苦笑する。
その苦笑の本意が自分には分からない。
「敬語——」
しかし、美藤さんは、はたと、気がついたように立ち止まる。
「そう、どうして——敬語なんて使ったのかしら。いいえ、でも、きっと偶々ね、」
「……?」
「そう、「」さんの質問に答えるなら、うちは、あなたたちとするなら、男女の別は問わないわ」
抑揚のない発音。
方言交じりの言葉。
いやいや、猥雑過ぎる。
「すみません美藤、さん?下品で淫らな方向性の冗談はちょっと…」
ていうか人前で何てこと言うんだ、この人は。倫理観のブレーキが無いのだろうか?
「…?なんか分かんねぇけど、すげぇ面白えこと言うなぁ!すげぇ美人が隣にいるから、なに言われても楽しいのかな!」
「」さんは美藤さんのドギツい返しに動揺することなく、というか、それがちょっとした意趣返しだと気づく様子すらない。それどころか、車椅子を押す彼女の肩に密着させるように、腕を回す。
「……」
「……?」
美藤さんは「」さんを見る。
「」さんもまた、妙な熱気を帯びた目で美藤さんを見る。
間違いなく、二人の視界から自分は消えている。
——そして、それを止めようとすら思わない自分がいる。
「ところで聞いても良い?お二人はどういう関係?」
「気になるか?気になるよなー。ところが、それは『秘密』ってやつだ。いくら美藤羊子といえども、こればっかりは、な」
ピクリ、と
美藤羊子が反応する。
「あら、意地悪ね。それとも、そういうのが好みなの?」
「んー、まあお気に入りにはチョッカイかけたくなるタイプだけど…お姉さんは美人だけど、ご主人様とはちょっと違うな」
「すみません、「」さん、誤解のかかる言い回しはやめて」
ご主人様とか言わないで。
しかし、自分が間に入ったところで、美藤さんはどうやら、言葉の意味を誤解してしまったようだ。
美藤さんは、熱気を帯びつつも、冷ややかな視線を自分に向けた。
そう、それは、真夏の太陽の下に突然かかった雨雲みたいな視線だった。
「ああ、つまり、そういう」
「いえ、違います。美藤さん。ご主人様と言っても、別に主従関係があるわけでは。その、」
「つまり私は、詰丸、ご主人様のことを『ご主人様』と呼ぶけど、だけどそれは、ご主人様のことを、本当はお客様だと思ってるからだ。サービスとしての敬称ってとこかな」
「」さんは、さらに誤解を招くような説明をした。
「『秘密』の主従関係ってこと?お客様とはアブノーマル、アブノーマルね…」
心なしか、美藤さんの自分に対する熱気がほんのり増した気がした。
なんなんだろう、この人。
「なら、うちも「」さんの——アブノーマルな輪の中に入っても良い?」
なに言ってんの!?この人!?
頭の中が快楽物質でパンパンなのか!?
分からない!最近の若者だけど、最近の若者の性嗜好が分からない!
だがしかし、彼女の熱はどうやら冗談でもなんでもなく、本気のようで、
視線も、
呼吸も、
言葉ひとつひとつすら、
全てが熱を纏い、ねっとりとして、いつの間にか、3人を取り囲んでいた。
——ことここに至って、未だに事態を止めようと思わない。
「参加?良いよ!」
「」さんは嬉しそうに答えた。
「良いの!?」
ダメでしょ!?
しかし、美藤さんは、嬉しそうに、「」さんと向かい合って身を寄せる。
さりげなく、それでいて大胆な仕草。
その胸が、「」さんの胸に当た…当た…ギリギリで当たらない。え?その距離で当たらないの?え?「」さん?
そっか…当たらないのか…うん、そうか……
あざとい。
あざといのに。
抵抗する気を奪われる。
——このままではいけない。
倫理観とか、道徳とか、そういう話ではない。
「」さんがいて、知らない女性がいる。
それで、なぜだろう話が、イケナイ方向に進んでいる。
あまりにも——危険すぎる——
気がつけば、周囲はやけに物騒な雰囲気の、怪しげな建物が乱立する区画に入っていた。
——全てが。危険すぎた。
「美藤羊子さん、そこの角を曲がってくれねえかな」
「あら、その先にはなにがあるのかしら」
「ふふ、それは『秘密』ってやつだ」
「」さんは、人差し指を口元に当て、妖艶な笑みを浮かべる。
すると、美藤さんも真似をするみたいに、人差し指を口元に当てる。
「そう、秘密、なのね——」
美藤さんは、身をかがめて、自分の耳元で、囁く。
「あなたも——」
——いえ、自分は遠慮します。
——どうぞ、ご二人で。——
——そう言いたいのに、
なにも言えない。
何故こんなにも——警戒心が出せないんだ!?
不味い。不味い。不味い。
不味い。不味い。不味い。
いくら見目麗しい女性二人の、距離感の近い絡みだからといって、この流れはあまりにも不自然だ。
不自然というよりも、美藤さんが怪しすぎる。ナンパとかではない。はっきり言って痴女、不審人物の類だ。
なのに——心は興奮して仕方がない。
今にも破裂してしまいそうだ。
——迷言さん。
——迷言さんのことを考えるんだ。
「あなたも中に——入りましょう?」
美藤さんが人気のない曲がり角を指し示す。
なにがあるかもわからないのに。
「」さんが嘲笑するように笑う。
ダメだ。
「さあ、曲がり角を曲がって、」
曲がり角を曲がる。
ダメだ。
曲がり角を曲がった先、
そこには、
「…ここは?」
美藤さんが、興味深そうに、好奇心に満ちた猫みたいに、質問する。
「」さんが笑う。
ニンマリと笑う。
「新宿、歌舞伎町、雑居ビル」
雑居ビル。
ダメだ。
「地下に降りるんだよ」
「地下に?」
ダメだ。
知識がないのか。
この区画は、
「四層、八階、十六部屋——」
白い肌。茶髪のメイドは、人差し指を口元に当てたまま、依然として笑みを浮かべる。
その目が煌めく。
「入れよ。アンティーク喫茶『迷宮入り』新宿店だ——」
知らないのか。
指定暴力団——
ここは夜魔口組の事務所じゃないか。
時刻はまだ昼前。
なのに、指定暴力団の巣窟の筈の区画には、人っ子ひとりの、影すら見当たらない。
熱気を帯びた目のまま、「」さんは力強く、美藤さんの手を掴んだ。
ダメだ。
——逃げるんだ、美藤羊子さん。
自分は妙な熱気に包まれて、興奮していたから、その警告が言えなかった。
《秘密隠匿》
★ ★ ★
もう日が暮れて、すでに久しいはずだ。
でも、窓一つないこの部屋からは、外の景色が見えない。
真っ暗な室内は、まともな光原が無いせいで、その全容すら把握しきれない。
私は呼吸を整える。
心臓が律動する。
世界に神経の幕を張るが如く、感覚を研ぎ澄ませる。
——女の笑み。
吸血鬼としての能力をフルに用いて、状況の把握に努める。
目の前で、黒髪メイドの女が笑っている。
吸血鬼としての能力。
私は吸血鬼。それは間違いない。
『無体』が実在しようとしまいと、私が吸血鬼であることに、何ら変わりはない。
——暗闇。
しかし、普段は闇すら見透すこの眼でも、捕らえきれないほどの黒色が、そこにある。
それは粗悪なビデオテープのザッピングみたいに、現実世界に突如として紛れ込んだ黒として、私の眼に映る。
単なる陰影ではない。光を遮断する、明らかに黒過ぎる黒色。
自然界の黒色では無い。
魔人能力によるもの。
集中力を研ぎ澄ませて分かること。
——ただでさえ暗い室内に、この女の能力と思しき『黒色』が撒き散らされている。
「夜魔口吸血——夜魔口組組長、新宿の夜を支配する。吸血鬼の女王の片割れ、ですね」
女が、〼虚迷言が言う。
手に持った写真を見て、また笑う。
「そうですか。この写真の女は、夜魔口吸血ですか。——本当に?あなたの答えはそれで良いのですか?」
「…待って。よく考えたら、そんなことはどうでも良い。私は」
暗い室内に混ざる能力による黒色。
あの内側に、何かがあるのか?
会話を長引かせながら、私は女の隙を窺う。
それに、今言ったことも本当だ。
どうであれ、私は道具だから、自分の役目を果たすだけ。
しかし。
女は嘲笑うように、此方を見て笑っている。
「どうでも良いわけ、ないですよ?」
「…どうでも、良いわけない?」
そこは重要なのか。
重要なのだろう、この女にとっては。
耳を傾けるな。
「だって、あなたはこの女に『私を殺すよう』言われて来たんでしょう?」
女は口元に人差し指を立てて笑う。
「つまり、私とあなたをこの抜き差しならない状況へと追い込んだ元凶の女ですよ?それが誰なのか分からないと、いつまで経っても、このままですよ」
私はまたしても沈黙する。
——そうだ。
認めざるを得ない。
私は写真の女に、話を持ちかけられた。
と言っても、直接顔を見たわけではない。
「…夜だったから、顔はちゃんと見ていない」
「へぇ?そんなに眼が見えるのに?…まぁ、良いでしょう。顔は見えなかった。そこは良いです。でも、分かるでしょう?この写真の女と、あなたと会話した女が、同じ人物だということが」
「この女は、夜魔口組と関係がある……と思う」
その顔立ち。輪郭、目鼻、その他印象。
それらが、似ている。
どことなく彷彿とさせる。
写真の女は、夜魔口組組長、夜の女王、『無体』の姉、夜魔口吸血を、彷彿とさせる。
——「私が誰なのかは重要じゃねえ」
女はそう言った。
——「あんたにとって重要なのは『無体』だろう?なら、『無体』を追いかけなきゃな。いるぜ?」
——「いるんだよ。『無体』は。とっくに気付いてるんだろ?昨夜まさに、池袋に『無体』はいたんだ」
なんだ。
いるんじゃないか。
『無体』は、やはり実在する。
——「いなきゃ。つまらない。だろ?」
どっちなんだ?
目の前の女を見る。
この女と
あの女、
「どちらが、本当のことを言ってるの?」
「おやおや?」
女が笑う。
付け入る隙がない。
依然、私も〼虚迷言も、動けない。
『無体』がいるのか、いないのか。
それはどっちでも良いはずなのに。
答えは分かっていても、結論が出ていないから、動けない。
「ふふ、あなたに私の排除を依頼した、この写真の女はですね、「」と、名乗っているんですよ——」
もし仮に『無体』がいるとして、〼虚迷言は、本当に『無体』なのか?
それは『謎』だった。
◇ ◇ ◇
地下四層、八階、十六部屋。
雑居ビルにしてはやたらと厳重極まる複雑な構造を抜けると、そこには広い空間が広がっていた。
和を基調とした威圧的な外装。
すごく高価そうな置物が整然と置かれている。
それは一言で言えば、指定暴力団の巣窟のような場所だった。
だが。
誰も、いない。
人っ子ひとり、姿が見当たらない。
「ようこそ!アンティーク喫茶『迷宮入り』新宿店へ!」
「」さんが楽しそうに声を出した。
その声は広い空間の中で虚しく響くだけだった。
「いやあ、親切な人たちもいてさあ!思い切って頼んでみたら、是非使ってくれって、この部屋を譲ってくれたんだよ!」
白々しい。
あまりにも——白々しい。
自分は呆気にとられて、恐々としていた。
瞬間、横にいる美藤羊子さんの、赤みがかった両眼が、僅かに煌めいたように見えた。
そして、
「」さんが何か説明しようとしたところで、彼女は唐突に動き出した。
いや。それは唐突ではなかったのかもしれない。思えば、予感はいくらでもあった。
兎に角、美藤羊子さんは「」さんにもたれかかった。
その頬は赤らんでいる。
待てないのか。
理性が溶けてしまっているのか。
もう、この場の全員が常軌を逸してしまっているのか。
それは自分や「」さんも例外ではなく、平衡感覚が奪われてしまったみたいに、「」さんは美藤さんに体重を掛けられるがまま、床に倒れ込んでしまった。
「どうでもいいわ、そんなこと」
美藤さんは「」さんに馬乗りになって、
上着のシャツを脱ぎ始めた。
ジャケットはいつの間にか、入り口近くに脱ぎ捨てられている。
——なんなんだ、この人は。
息遣いが荒々しい。
広い室内は淫らな熱気に包まれていた。
いや、違うか。
いつの間にか、自分たちの脳内が、淫らな快楽物質で満たされていたのか。
ならば、
これが、
これが、この女の魔人能力か。
有り体に言って「すごくムラムラする」。
——こうなってしまっても、自分は事態を止めようとは思わない。
——思うことが出来ない。
——誰か助けてくれ。
「私はここの組長の遠い親戚って奴でな。そのよしみで、無料で部屋を貸してもらえたんだ」
押し倒されても、余裕綽々といった態度で、「」さんは、話を止めない。
そこへ、美藤さんが人差し指を、「」さんの口元に押し付けて、黙らせた。
「もう、そんなどうでもいいこと、喋ら、ないで」
そう言って、人差し指を押し当てたまま——美藤さんは、唇を「」さんの額にくっつける。
しばらく時間が止まった。
おでこに口付けをしたままに見えたが、やがて美藤さんが荒い息遣いのまま、唇を「」の口へ移動させようとする。
「んっ」
しかし、「」さんが人差し指を立てて、美藤さんを咎めた。
「んんっ…はあっ……」
互いの人差し指を挟んで、唇と唇が吸い付きあい、反発する。
口付けは交わされてないから——これはまだ大丈夫なやつだ。
二人は互いに、もう片方の手で、相手の肩を掴む。
「ふうっ…んっ…ぱっ、ああっ」
「くうっん…」
美藤さんが、「」さんの肩から手を離して、横顔に触れる。
「」さんは——
——邪悪な笑みを浮かべていた。
「ん…んんっ?…ん?」
「」さんが、片方の手で美藤さんの首根っこを鷲掴みにする。
「ふふ」
二人はもんどり打って、転がり、やがて、今度は逆に「」さんが、美藤さんの上に跨る体勢になった。
「やっぱり、意地悪なのね——」
「なあ、」
「」さんは、嗜虐的にニヤついている。
しかし、それ以上に、あまり興奮していないのか?
いや、興奮しているはずなのだ。
なのに。
これは、きっと、そうだ。
彼女は——
「なに?」
「私の歳がまだ13歳で——そのうえ身体が性的にまだ未成熟だって言ったら、アンタ信じるか?」
「」さんも、〼虚迷言さんも、
一緒にいて、なんとなく分かることがある。
あの無邪気さも、恋愛経験の乏しさも、
アレは多分、子供であることを強要された子供の所作だ。
彼女たちの実年齢は、自分達が思ってるより、ずっと若い。
「そう、なら、大人の階段を登れるわね」
美藤さんが笑う。
「」さんは彼女の顔面を殴った。
顔面の骨が砕ける音がして、歯が粉砕される。
「無理」
もう一発。
頬骨が変形して、叫んでるような、笑っているような表情になる。
人間の顔とは、こんな粘土みたいに形が変わるものだったか?
「マジで無理」
さらに一発。
悲鳴すら上げられない。
多分、彼女の意識はもう飛んでいるだろう。
どんな能力だろうが、こうなってしまえば、単純暴力の前に屈してしまう、脆弱な能力だったということになる。
「そういうの無理なんだ。ごめんな。そうなっててさ。簡単に言うと——性行為をすると、自殺するように訓練されてる。肉体の問題じゃないんだよ。どうしても無理なんだ。今もすごい吐きそうだ」
——訓練された子供。
しかし、美藤さんは、
それでも、笑っていた。
それでも、性行為を果たそうとしていた。
法律とか、倫理観とか、義務感とか、関係なく。
ただ己の欲望に導かれるがままのごとく、立ち上がる。
赤い眼が煌々と光る。
そう、まるで脳の快楽物質が電気信号で溢れかえって、室内を満たしてしまうような——
「やっぱり、」
ダメだ。
「意地悪なのが好きなんじゃない」
ダメだ。興奮するな。
「良いのよ?あなたも、こちらに来なさい…?」
彼女の体から電流が迸る。
馬鹿な。
なんだこれは。
頭の中が多幸感に満ちてゆく。
性的快感の高まりとともに、理性がドロドロに溶けてなくなっていく。
電流が自分を包みこむ。
「あっぐっ!」
衝撃。
衝動。
肉欲の高まりとともに、性的興奮が刺激され、栗の花が咲いた。
全身の血液が増進し、視界は、薄ぼんやりと、一人の女を見る。
肉欲。
ダメだ。
自分は一人の女を思い浮かべる。
ダメだ。
迷言さ——
——翁名若菜。
自分の記憶の中に、忘れかけていた一人の女が浚うように現れる。
出自不明の女。
自分が
「あっ」
自分が初体験殺した女。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
私は立ち上がる。
迫って、走って、押し倒して、
両手で、翁名若菜の首を絞めた。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
《歪な共犯者》、目の前で殺人事件が起きる能力。
殺人事件の遭遇確率を高める能力。
その場にいるだけで、人の死ぬ確率が跳ね上がる。
夜魔の大国に、卑なる二人の巫女あり。
ノーバディノウズ。
ノーバディ、
ノーバディノウズ。
無体のみぞ知る。
『無体』とは。
自分を殺した人間の精神に取り憑き、やがて完全に心を乗っ取ってしまう、無敵の吸血鬼だ。
翁名若菜の指先から電撃が爆ぜる。
肉の焼け焦げる臭いがして、縺れ合う。
回転。炸裂。恍惚。
恍惚。恍惚。恍惚。恍惚。恍惚。
「あっ、あーあ……美藤さん。詰丸、ご主人様の方も当てちゃったか」
「」さんの、咎めるような声が聞こえる。
「」さん???
「美藤さんさあ…人を見る目無いよねぇ。誰かれ誘惑して良いってもんでも無いでしょ?自分では取捨選択出来てるつもりだろうけど、特にご主人様のトラウマは、女性関係については折り紙付きだよ?…もう聞こえてないか?」
「」は、何処からともなくスタンガンを出現させて、翁名若菜の首筋に押し当てる。
「ゲッッッギャッ」
「聞こえてんじゃねーか!良ーい喘ぎ声出せんなあ!さっきまでのエンストみたいな甘色吐息はやっぱ演技かぁ〜〜?」
翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
身元不明の、不審人物。
翁名若菜は、誰だったんだ?
誰か助けてくれ。
常に殺される側の被害者でいることで、絶対の優位を確保する。
自分を殺した人間の精神に取り憑くことで、次世代に自分自身の魂を遺し続ける、永久の装置。
誰だ?
誰の話をしている?
床に穴が空いた。
空洞から、翁名若菜が出てくる。
翁名若菜は手に銃を握っている。
銃口が「」さんに向けられている。
翁名若菜には私が——見えてないのか?
次の瞬間、女の子の握っていた銃が消失する。
女の子は何かを目で追う——ような仕草をして、即座に穴の中に潜る。
隠れてしまう。
「」さんは、笑う。
部屋が暗転する。
銃撃。金属音。打撃音。
破壊音。何かが壊れる音。
室内のボルテージが上昇を続ける。
爆発音。
何も起こらない。
何も起こらない。
話し声が聞こえる。
会話している。
話し声がする。
会話している。
いったいどのくらい時間が経っただろうか。
不意に——もみ合うような音が何度かした。
室内の温度が上昇している。
喘ぎ声。叫び声。
沈黙。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
翁名若菜。翁名若菜。翁名若菜。
ずっと、そこに。いたのか。
「お客様」
——迷言さん。
——〼虚迷言さん。
「お客様、一丸可詰丸様。終わりましたよ」
知らぬ間に——
——迷言さんが、自分を抱擁していた。
自分は安心する。
「良かった…どうやら、一時的に心神喪失されていたようですね。本当に良かった。でも、もう大丈夫ですよ。もう、終わりましたから」
幻覚でも見ていたのだろうか?
だが、
目の前には、
「終わったんですよ。これで全ては『迷宮入り』です——」
女性が二人死んでいる。
自分が正気に戻ったときには、すべてが終わっていた。
《無体のみぞ知る》
★ ★ ★
「」?
「かぎ、かつこ。鉤括弧を書いて、「」と読むんですよ。それが彼女の名前」
ふざけているのか?
「この女は、私と同じ、アンティーク喫茶『迷宮入り』のメイドなんですが、私との関係は、単純にして明快でしてね。まあ本人に言わせれば『複雑にして怪奇』なのでしょうが——どちらでも良いでしょう」
「知っている奴なの?」
私は聞く。
時間を稼ぐために。
隙を窺うために。
「ええ。だからこうして話してるんじゃあ、ないですか?兎に角、あなたに私への襲撃を指図したのは、この女で間違いないでしょう」
この女は、何を聞きたいんだ?
「とはいえ、「」というのも偽名でして。まあ、どう考えても偽名なんですが、あなたが彼女の正体を知っていれば、それはそれで面白いと思ったのですが——」
——「そうですか。知らない人なのですね」と、〼虚迷言はそう言った。
「こんなものですか。まあ、良いでしょう。一問目の質問で、あなたが動機に関わらず私と戦うと答えてくれてよかった。」
黒髪のメイドは、拳を構える。
「さっさと再開しましょうか?第三問『あなたが生きてここを出られるか』?——」
「待って。この女は、あなたの同僚?なら、どうしてあなたを殺そうと——」
——不意打ち。
——私は質問の途中で、両手を構える。
——瞬間、両手の座標位相から正確に現れ出でる、短機関銃。
——半グレ団体から強制的に徴収した模造品だが、使えされすれば何も問題ない。
現実とは異なる仮想空間に武器類を貯蔵し、出し入れする。私の魔人能力《灰色の武器庫》。
——昨晩、吸血鬼同士の殺し合いを制して、その能力が強化された。それは、何も吸血鬼としての身体能力に限ったことではない。
——魔人能力もまた、正確性、その他向上した。
「——しているの?」
私が質問を終える頃には、私自身の指は、模造短機関銃の引き金を引いていた。
——引いていたつもりだ。
だが、発砲音が鳴らない。
引き金を引く直前で、トリガーの重み、短機関銃の重みが消失する。
気がつけば、私が能力で出現させた短機関銃は、消えてしまっている。
感覚を集中させ、周辺に目を泳がす。
あった。
メイドと私の間。その間に、黒い影のような染みが一つ増えている。
——また、これだ。
ほんの一瞬。私は心の中で舌打ちする。
武器を取り出す。それが消失して黒い染みになる。
その繰り返し。
先ほどから、この繰り返し。
実際は手元に銃が残ったままなのは、室内の気流や温度などから分かる。
だが、銃の消失という、どうしても慣れない怪現象を前に、私という殺人器の精密動作性は脆くも崩れ去る。
ほんの一瞬、その隙を、〼虚迷言は逃さない。
私は引き金を引いた。引いたかのように指を動かす。
しかし、次の瞬間、メイドはほんのすこしだけ身を屈ませる。
それだけだ。
それだけで"点"攻撃の銃の当たる確率は激減する。
横に薙ぎ払うように連射する短機関銃ならばどうかと思ったが、それも、ただ屈まれるだけで外れてしまう。
すべての銃弾は背後の壁へと虚しく突き刺さってゆく。
触れている感覚もない。音も聞こえない。姿も見えない。臭いもない武器で、正確無比な射撃をするなど不可能だ。
銃による中近接距離の戦いは不利——ならば、打撃斬撃による近接格闘、ないしは遠距離からの射撃はどうか?
狭い室内——遠距離射撃は不可。
打撃斬撃による近接格闘——これも難しい。
「「」さんが私を狙う理由?」
〼虚迷言は、私の質問を返しながら、右脚で蹴りを放つ。
これをマトモに受ける手は無い。
轟音、破壊音。
瞬間的に反射神経を研ぎ澄まして、ギリギリで蹴りを避ける。
床面が壊れて、靴跡が残るほどの威力。
異常暴力。単純暴力。
こんなものを相手に——近接戦をしろと?笑い話だ。
私は飛び退き、再び異空間からRPGロケット弾を出現させる。
私自身へのダメージを無視した爆撃ならば。
しかし、〼虚迷言の姿が揺らいだかと思うと、すぐ前面に真っ黒い壁が形成される。
また、『能力』による壁——彼女の『能力』自体が物理世界に干渉することは、ない。それは確認済み。
ならば、この黒い壁はブラフか?
——否。
壁から〼虚迷言の拳が飛び出す。
十分距離を取っていたはずなのに、その拳は今や私の眼前にあった。
——離れた距離。
——〼虚迷言が、自分自身を覆うように『能力』の壁を展開。
——同時に、私の眼前に、もう一枚の壁を展開!
——二枚の黒い壁で、私の距離感を惑わせたのか!
対応しきれない。
私は攻撃を避ける選択を捨て、ダメージコントロールに全力を尽くす。
防御体制すら間に合わない。
せいぜい出来るのは、右手を突き出すくらいのみ——
——拳が当たる。手のひらが中指と人差し指の間から裂けて、裂傷はそのまま上腕にまで到達する。
——ダメージコントロール。神経を集中させたときとは真逆に、右腕の神経をすべて遮断するイメージ。私の右腕は右腕ではなくなり、右腕の痛みは私の痛みではなくなる。
破壊された右腕——だけど、吸血鬼の右腕は、破壊されても動く。
既に再生を開始している指が、メイドの袖を掴む。
投げの体制に入る。
まるで岩山を掴んでいるかのような違和感。だが、これでいい。
投げはブラフ。体重移動により、胸を軸に両脚を持ち上げる。回転。
持ち上がった全身でメイドの腕から首にかけて巻きつく。
拘束技。
持久戦による時間稼ぎ。
「知りたいですか?「」さんが〼虚迷言を狙う理由を??」
〼虚迷言は腕を振りかぶり——私ごと腕を壁に叩きつける。
「…!!」
《灰色の武器庫》。
壁面に異空間への入り口を形成。
〼虚迷言に見えない角度で、私は私をほんのすこしだけ、異空間へと沈ませる。
情報還元による存在定義の揺らぎ——肉体が分裂しそうな酩酊感を覚える。
だが、〼虚迷言による物理攻撃よりマシだ。
瞬間——〼虚迷言の背後に、異空間への入り口、否、出口が展開。
出口からは、今しがた異空間へ沈み込んだままの、私の背中。
私と〼虚迷言の背中が接触する。
情報還元による異空間への武器貯蔵。通常、異空間へ収納された物体は、速度、実体が無くなる。
だが、それは異空間に武器が入りきったならばの話だ。
まだ収納しきれてない物体なら?速度、威力、実体は、そのまま。
つまり、背中だけを異空間へ潜り込ませ、そのまま〼虚迷言の背後から背中だけを出す。簡略ワープ。
私は自分の上体へと無距離打撃。
瞬間——衝撃。
「ガッグッッッ」
回転。衝撃。打撃。
回転。回転。回転。
「ぐっ…ふっ……!!」
ワープした背中伝いに、メイドに打撃をお見舞いした。
〼虚迷言の口から唾液が飛び出す。
この程度ではまだまだ。
だが、隙は生まれた。
致命的な——隙が
池袋が消失したと聞いた時から、準備を進めていた。
大規模攻撃。この建物を吹き飛ばす、火薬のスイッチを!
灰色の武器庫内にある、ありったけの爆発物で、この夜魔口組事務所の地下室ごと吹き飛ばす!
スイッチ——
——銃声がした。
〼虚迷言が銃を構えている。
銃を?
私の腹部に弾痕。
こんなもの、吸血鬼には致命傷たりえない。でも。
メイドが構えているのは、845gの殺人の道具。
安全装置のない、どんな過酷な環境でも人を殺せる、そのためだけのもの。
生産国、中国。使用弾丸、7.62×25mm。
シングルアクション、ショートリコイル。
その拳銃の名は——
「黒星。そんなに「」さんが〼虚迷言を狙う理由を知りたいですか?」
動きが止まる。
なぜその銃を——このメイドが持っている?
私の銃は——そう思って、異空間内の粗悪銃、黒星を探す。
あった。ある。私の黒星が、〼虚迷言に奪われたわけではない。
ならばアレは——奴自身の持ち物だ。
「なぜアナタがその銃を」
「私の能力は《迷図謎掛》。分かりにくいってよく勘違いされるんですが、『謎』のヴェールで覆い、物を隠す能力です——」
——「ほら、こんな風に」と、〼虚迷言の持つ粗悪銃が、黒い幕——『謎』で覆われる。
「『謎』で覆うと、音、気配、臭い、触覚、温度、味、視覚、痛み——ありとあらゆる知覚情報を、遮断することができます。その内、一部の情報だけを残すことも出来る」
粗悪銃を覆う『謎』が、変形して丸みを帯びていく。
彼女の手元には、実物の粗悪銃よりもひと回り小さい黒い球体が浮かんでいた。
「ただこれだけの能力なんです。情報操作。実際には、その場に有るのですよ。私が隠した物体は。知覚できなくなるだけで、存在しなくなるわけではないんです 」
私は返事が出来ない。
呼吸が整わないから。
「一方で、「」さんの能力は《秘密隠匿》。まあ簡単に言うと、《迷図謎掛》の、『謎』のないバージョンです。何も残りません。『秘密』しか残らない」
〼虚迷言の手に浮かぶ黒い球体が——
——だんだん、小さくなっていく。
——だんだん、小さくなっていく。
——だんだん、小さくなっていく。
手のひら大の大きさから、スーパーボールほどに、さらに豆粒ほどに、
そして——『謎』が消滅した。
「この状態が『秘密』」
〼虚迷言、否、メイドの女は——不敵に笑っている。
——「全問不正解ですね。黒星さん」
カチリ、と。音がする。
メイドの女が、ウィッグを外した音だ。
黒い長髪のウィッグが床面に落ちる。
女は——邪悪な笑みを浮かべていた。
「第一問。私は『無体』ではありません。第二問。写真の女は私です」
目の前の女は——『無体』でもなく、夜魔口吸血でもない女は——
——ましてや、「」でもなく、〼虚迷言ですらなかった、この、女は——
「『謎』も、『秘密』ってやつも、同じなんだよ。てめえはマンマと私の時間稼ぎに騙されたって、訳、です」
「あなたは——」
「〼虚迷言と「」は同一人物なんだよ。組織に作られた道具。本名なんかない。お前なんかとは違って、人間らしさを求めている、なあ。お姉ちゃん?」
《灰色の武器庫》
★ ★ ★
——組織に所属していたからといって、別に組織でのことを全て覚えているわけではない。
——特に鉄砲玉たちのことはいちいち覚えていないし、そもそも名前も知らなかった。
——というより、名前に拘っている方が、例外だったのかもしれない。
——「この銃の名前は黒星。だから、私の名前も黒星。」
——数ヶ月後輩の少女に、そう指導したことがある。
——少女は中途半端な長さの髪の、煤けて何色なのか分からない髪色の、目立たず地味な幼児だった。
——「馬鹿じゃないです?」
——「仕事中に仲間が名前を呼ぶかもしれない道具と、自分の名前を同じにしたら、仲間が混乱しちゃうじゃないですか???私より歳上っぽいのに頭悪いんです?」
——「本当に真面目に命かけてるんですかぁ?」と、その生意気な少女は言った。
——ムカついたので、顔面を殴ったら、泣き出した。
——「請給我手枪 」そう言ってやった。
それだけだ。
その子のことは、それしか覚えていない。
どうしてこうなってしまったのか。
だが、このメイド服の女について、一つだけ分かることがある。
この女は、私が爆発物を使うことだけは避けている。
★ ★ ★
そもそも、私が遠距離狙撃を断念し、ノコノコと夜魔口組の地下事務所でメイドの女と対峙せざるをえなくなった経緯
始まりは、今朝、日が昇った頃にまで遡る。
己の道具としての矜持のため、かつての師を手にかけた直後のことだ。
突如として感じた、異常な存在感。
ここより北。そう遠くない場所で、異常なまでに濃い、『無体』の存在感を感じ取った。
血が呼んでいる。
吸血鬼としての感覚が半強制的な不随意運動を耳目に強いる。
私の感覚は必然的に——北、池袋の方へと向けられる。
——何も感じない。
——違う。何も感じないことがおかしいのだ。
まるで、池袋という街自体が無くなってしまったみたいな——
——いる。
——あそこに、『無体』が。
そう思っていると、いつの魔にか、何者かに背後を取られていた。
「よお。吸血鬼」
振り向こうとする。
でも、出来なかった。
「おっと、振り向くな。私が誰なのかは重要じゃねえ」
女はそう言った。
「あんたにとって重要なのは『無体』だろう?なら、『無体』を追いかけなきゃな。いるぜ?」
何者?だが、その疑問は即座に搔き消え、私の意識は、仇、『無体』へ向けられる。
「いるんだよ。『無体』は。とっくに気付いてるんだろ?昨夜まさに、池袋に『無体』はいたんだ。いなきゃ。つまらない。だろ?」
振り向く。
しかし、茶髪がチラリと見えただけで——そこにいたはずの女は、姿が消えてしまった。
「〼虚迷言という女を探せ。黒髪ロングの、メイドの女だ。奴は一丸可詰丸という大学生と一緒にいる。もしかしたら、もう一人くらい連れてるかもな。」
声だけが、路地裏に響いた。
何者なのかは分からなかった。
だが、そこに『無体』がいるなら、
私は動くだけだ。
師の肉を食べ、吸血鬼の血を強めた私の感覚は、広い新宿内にいる、〼虚迷言をいとも容易く見つけることができた。
黒い長髪のメイドが、一丸可詰丸と思しき男性と、新宿の街を歩いている。
一丸可は車椅子に乗っており、それを押しているのは、もう一人、別の女性だ。
言われた通りだ。尺になるくらい。
3人が雑談しながら道を行く姿を、私は固定倍率10倍のM3スコープで追う。
気になるのは、〼虚迷言以外の2人だ。
例えば、黒髪メイドの長髪が顔に掛かったり、口に巻き込んだりしても——一向に気にする気配がない。
——まるで、そこに髪などないみたいに。
とはいえ、ここからでは判断材料があまりにも少ない。
3人のうち、吸血鬼であることが確定次第、頭部を撃ち抜く。そのつもりだった。
不意に、3人が狭い路地の中に入る。
急いで追跡する。
ビルの屋上から、スコープ越しに様子を覗く。
そこには、あるビルの地下に入ろうとしている3人の姿。
そのビルは、夜魔口組の地下事務所に他ならなかった。
何故?という疑問は、すぐに搔き消える。
未だ吸血鬼の気配はない。
だが、夜魔口組の組長は、吸血鬼『無体』の姉とも言われる、夜魔口吸血。
状況証拠により、3人の頭部を狙撃する事を決断した。
その直後、スコープに、有り得ないものが映った。
——〼虚迷言が、こちらを見て、笑っている。
人差し指を口元に当てて、笑っている。
そして、ほんの一瞬、チラリとこちらを見た。
もう1人の女性も、〼虚迷言を真似して、人差し指を口元に当てて笑う。こちらを見ていない。
瞬間——構えていたはずの、レミントンアームズ社製狙撃銃 M24SWSの重みが、両手から消えた。
ついさっきまであったはずの狙撃銃が、忽然と姿を消したのだ。
だが、落ち着いてよく確認すると、手元に一点だけ、ほんの小さな黒点があった。
触れても何の感覚もない。
正体不明だが、敵は物質を黒点に変換できる?そう判断した。
不意の攻撃に困惑していると、ターゲットの3人は、ビルの地下へと降りて行ってしまった。
追いかけるべきか?追いかけるべきだ。
だが、どうやって?
3人が入って行ったのが、よりにも寄って夜魔口組の地下事務所とは——敵の狙いは抗争?
私がノコノコと夜魔口組に乗り込めば、それはきっと不味い事態になる。
夜魔口吸血とて、強力な吸血鬼の一人だ。出来れば敵に回したくない。
敵に気付かれずに潜入する方法はある。あるのだが、それを今使うと、手の内を晒したことになる。それに、昨夜、吸血鬼として強化されて得た力だ。練度においてあまり信頼出来るものではない。
使える道具は使うべきだが、しかし、使えない道具は使いようだ。
逡巡する程に追跡を継続出来る可能性は低くなる。ここで断念する手はない。
——すると、いきなり吸血鬼の存在感が濃くなった。
——いる!
今、ちょっとの時間だけ、『無体』の気配がした!
何故かすぐに消えてしまったが、あの3人の中に『無体』がいる!
もはや迷うという選択肢はない。
私は自分の足元に、《灰色の武器庫》の入口を展開する。
吸血鬼の権能が強化され、新たに得た力。
それは、"ゆっくり収納する"力。
瞬時に収納するのではない。
武器を少しずつ、灰色の武器庫の異空間へと収納してゆく。
武器が完全に武器庫の中に入った時点で、武器は異空間の情報へと還元される。
それまでは、瞬時に情報化され、速度、質量の失われていた武器たちも、収納が完了するまでは、異空間でも物質として存在出来る。
これによって何が出来るか。
簡単に言うと、異空間を通して、速度、質量を保ったまま、ワープ攻撃が出来る。
そして、灰色の武器庫に収納可能な武器には、私自身も含まれる。
武器庫への入口を展開しまま、もう一つの出口を展開させる。
出口はアスファルトの隙間の中を潜行し、一路、地下を目指す。決して速度が速いわけではない。永遠を生きる吸血鬼の時間感覚。だが、確実にビル地下の事務所を目指す。
目指す。目指す。
目指す。
あった!
出口が夜魔口組の事務所へ到達する!
私は銃を手にして、入口へと飛び込んだ!
異空間を通して、私は事務所内部へと飛ぶ。
新たなる力で、運動能力を保ったまま、出口から即座に攻撃が可能。
私は出口から、夜魔口組の事務所に入った。
そこには——
——〼虚迷言だけがいた。
——手にはスタンガン。
銃口を向ける。
と、次の瞬間、私の握っていた銃が消失する。
目で追う——また銃が黒点に変化している。
即座に穴の中に潜る。
初撃に失敗。
今度は穴を移動させ、〼虚迷言の背後から再度出現。
部屋が暗転する。
銃撃を放つ。金属音がする。何かに当たった音。
即座に打撃が返ってくる。
メイドの蹴りは私ごと壁面にめり込む。破壊音。
戦闘による高揚感を覚える。
私は武器庫から手榴弾を取り出す。と、即座に〼虚迷言が手榴弾を真上に蹴り上げる。
爆発音。
破片が落ちてこない。
私は銃を取り出す。
——即座に銃が消滅する。
私は銃を取り出す。
——即座に銃が消滅する。
その繰り返し。
「……待ってましたよ。黒星さん」
やがて、黒髪のメイドが口を開く。
「『奴』はどこ?」
私は短く問い詰める。
「さて、誰のことでしょうか?」
「ふざけないで——」
——「『無体』のこと」と私は言った。
「『無体』?誰のことでしょう?」
「ふざけないで」
銃を取り出す——消滅する。
「誰ですか?その、『無体』とは?」
「あなたも分かるはず。」
「自分勝手ですねえ。あなたの現実が、そのまま私の現実になるわけないじゃないですか。私はそんなもの知りませんよ?」
「ふざけないで」
「どうやらお互いの認識に齟齬があるみたいですねえ。『無体』?良いでしょう。ゲームをしませんか?あなたの現実と私の現実、どちらが正しいかのゲームですよ」
女は人差し指を口元に当てて——笑った。
★ ★ ★
日はとっくに暮れている。
互いの現実を掛けたクイズ。
結果——
第一問——〼虚迷言は『無体』ではない。
第二問——私に〼虚迷言殺害を依頼し、私をここまで追い詰めた女は、〼虚迷言本人。
そして、〼虚迷言は〼虚迷言ですら無かった。
茶髪のショートヘアの女。彼女は私と同じ道具だった。
「一緒にすんなカス」
彼女が嘲笑いながら言う。
「ふふっお姉ちゃん、すっかり美人になったね。でも、お姉ちゃんの言う『無体』なんて存在しない。お姉ちゃんは、ただの吸血鬼。そこに原因なんて存在しない」
「それ、どうやってるの?」
私は素朴な疑問をぶつける。
私のすべての傷はもう再生を完了しつつある。
「それ、とは?」
「その口調が交互に入れ替わるやつ。何?二重人格?」
「二重ぅ、人格ぅ?ぶはっ!」
彼女が噴き出す。同時に、間合いを詰めて私の顔面を掴む。
「二重人格ぅ?なんでそんな意味不明で非効率的な真似をわざわざしなきゃなんねぇの?これは、ただの演じ分け、ですよ?ふふっ可愛らしい。だって、その方が——楽しいじゃないですか」
「そう」
私は、異空間に繋がったコードのスイッチを、
爆発物のスイッチを入れようとする。
「楽しくなきゃ——生きていけないね。そうだろ?お姉ちゃんも」
「あなたと私は、ただの仕事仲間。お姉ちゃんなんて呼ばないで」
「ヒッデェ!見えてあんたのこと、結構見てたんだぜ?アンタは私のこと、全然、視界にすら入ってなかったけどな。写真を見ても思い出さねえ——言うに事欠いてヤクザの親分だと?笑えるぜ」
そう言って、彼女は私からスイッチを取り上げる。
私はされるがままになって——何故?
「あなたは爆発物を恐れてる。何故?」
「……」
ついに、彼女が黙る。
彼女は私を優しく床に押し倒す——何故?
——何故?
「あなたはこの部屋の中に、爆発に巻き込みたくない人がいるんじゃないの?」
「……だったら?」
「一丸可詰丸、彼が——あなたの大切な人、『無体』なんでしょ?」
「だったら!どうすんだよ!」
「このまま部屋を爆破する」
私は反対側の手で握った——もう一つのスイッチを取り出した。
「あなたが取り上げたのはブラフ」
彼女の額に冷や汗が流れた。
そう言って私はスイッチを放り出し——彼女の唇に接吻した。
何故?
——いや、何故???
——何故?
「んっ……ちゅ、ぷ、ぁっ……くむっ……んっんっ」
「ぶっ……ふぅんっ…くぅんっ……ん、ぢゅ」
舌が絡み合う。何故?
抱きしめ合う。何故?
何故、私は上着を脱いでいるの?
室内の温度が上昇している。
——意味がわからない。何故、こんなにも——ムラムラするの?
「ぷあっ!」
お互いに肩を抱き合ったまま、唇を離す。
彼女が、完全に発情しきった眼で、私を嘲笑う。
「へへっ、はぁっ!へっ!ザマアミロ!私たちは性行為が出来ないように刷り込まれてる!アンタもそうだよな!」
「…!!それが、狙いか!うぷっ、」
「そ、そう!無理矢理性行為を強要されたら、自殺する!うぉえっ!」
「「ぅぅぼええええぇぇぇ」」
私と彼女は——精神への圧迫感と、刷り込まれたトラウマに耐えられなくなり、口から吐瀉物を出した。
——私は思い出す。
——「いいか?人間は感覚がある」
——「中でも性行為には快感が伴うことが多い。だが、道具に過ぎないお前たちにそういうのは無い。即ち、そういう行為を許してはいけない」
——黒色の大男が狭い室内で私たちを指導する。
——「心から道具として徹することで、お前たちのルーティーンを矯正し、能力を底上げさせる訓練をする」
——「今からこの暗い室内に、男たちが30人くらい入ってくる。全員、君たちくらいの年齢の子が大好きで、とても酷いことをしてくる。だから、君たちは今日初めて人を殺す」
——「一人当たりにつき一人殺せ。でなければ死ぬより酷いことをされるぞ」
——翌日、大男が、また薄暗いコンテナの中に入ってくる。
——「銃器の扱いも知らないのに、みんなよく殺せたな。おや——」
——「——1人だけ、失敗した奴がいるな。随分と酷いことをされたな」
——「お前たち全員に選択肢は提示したはずだ。人を殺すか、人と性行為をするか」
——「きみたち全員、前者を選択したはずだな?なのに、君一人だけ、酷いことをされた。君が選択した未来は閉ざされた。君一人だけ、これから人を殺さず、死ぬよりも酷いことをされ続ける。さあ、どうする?」
——失敗したその子は、自分の黒星を手に取り、自分に向ける。
——「違うな。お腹に向けると苦しむだけだ。額だ。額を狙え。そうだ…そう、ちゃんと死ねたな。良くできた」
——そう言って、大男はその子の頭を撫でようとしたが、もうその子に頭はなかったから——近くにいた私の頭を撫でた。
——ぶっきらぼうな手つきだが、現実を直視して、目を背けない、確かな強さがあると感じた。
——だから、『性行為を許すな』
彼女は——吐瀉物にまみれながら、悪態をついている。
「おぼろろろろぉぉええええ!!!!ああっ!クソったれ!!あんのクソ男!クソ野郎!死ね!私たちの心に、一生消えないトラウマを刻み込みやがって!!あの時死んだ子が、今でもたまに夢に出てくるんだよ!!アレは!!私かもしれなかった!!アンタかも!!」
「あの人を悪く言わないで」
「ウルセェ!死ね!!何であんたは人の死に無関心でいられんだ!?生まれながらのサイコパス女!!私の青春はこれからなんだぞ!私は何が何でもごく普通の青春を謳歌してみせる!お前たちみたいに、人を殺した夜でもマインドセットしなくて無事なわけじゃねえんだよ!」
「多分サイコパスなのはあなたの方だと思うけど、そう…そうか。あなたは、あの一丸可詰丸——『無体』を、愛している?」
彼女の顔から、笑みが消える。
今までずっと笑っていた彼女が。
「——は?何言ってんだ、お前」
「あなたは吸血鬼。多分、そうじゃ無いと、身体能力や、組織瓦解後に生きていることに説明がつかない。あなたは初め、吸血鬼として——『無体』になりつつある一丸可詰丸に近づいた。でも、あなたは彼個人を愛し始めている。だから私が部屋を爆破しようとすると、邪魔をする。この部屋には、彼がいるから。違う?」
「全然違う。最初は面白がって近づいただけだ。だが、そのうち人として愛着が湧いて——段々、人として、ずっと一緒にいたり、痛ぶったり、抱きしめあったり、一緒に踊ったり、楽しんだり——ずっとご主人様に、楽しんで欲しくなっただけだ。人として、愛の告白もされたんだぜ?」
「やっぱりサイコパスね。そういうのは——人として愛しているの」
私は初めて、目の前の女を嘲笑った。
私と彼女は、再び抱きしめあって、接吻をする。
この正体不明の攻撃を、何とかしなければ。性行為を続ければ、やがて二人共、精神の負荷に耐えきれなくなり——自殺する。
「あなたは、偶然『無体』を殺して、『無体』になりつつあった一丸可を守りたいだけ。だから、『無体』を否定する」
「ふふっふ、そんなことは、どうでも良い、です。さあ、ここにいるのは私たちだけじゃ無い。ここにいるのは——」
すると、さっきまで何もなかった空間から、半裸の女が一人現れた。
「——美藤羊子さんだ。彼女の能力は快楽物質を電気に変換して、他人を発情させたり、電気ショックで攻撃したりする」
私たち3人は——性行為をする体勢に入った。
「さあ!始めましょう!性行為をしたら終わりの!命がけの性行為バトルを!」
彼女が、私の胸を鷲掴みにする。
私は胸部を灰色の武器庫内に収納して——彼女の胸を揉み返す。
掴めない。先天的肉体の形質によるものか。
彼女が、美藤の顔面を殴る。
美藤は、私の両脚を掴む。私は両脚を灰色の武器庫に収納する。
私は美藤の唇に自分の唇を重ねる。
彼女の手が私の下腹部に触れる。
ダメだ。
耐えられない。
快楽と嫌悪感を同時に感じながら、今にも自殺しそうになる頭で必死に考える。
私は右手を灰色の武器庫の中へ。
異空間の出口を、美藤の首筋へ。
首筋へと手刀。美藤の目が赤く光り輝き、彼女の左手に持っていたカッターナイフを見落としてしまう。
カッターナイフは武器では無い。武器庫の中へと収納できない。
カッターナイフが私の首を縫う。鮮血が迸る。
だが、この程度ならば吸血鬼として致命傷には——
いつの間にか、
彼女が——〼虚迷言がいなくなっている!!
私は半裸のまま首筋を抑えて、周囲に神経を張る。
目の前には、血塗れの美藤。
私の——血に塗れた——
「お前の体は武器だから」
——不味い。
美藤羊子の体が宙を浮く。
「こうして、血に塗れたこの女も、武器になるんだろ?」
私は、全身を異空間へと移動させようとする。これ以上、自分を情報化させることは肉体の定義書き換えによる崩壊の危機を招くが——背に腹は代えられない。
だが、私の血を纏った美藤羊子の体は——灰色の武器庫内まで、侵入してきた。
不味い。
「楽し、かった、わ、あなたも、こちらへ」
逃げなければ
即座に異空間から脱出しようとする。
私の頭部と、美藤の頭部が激突する。
私は異空間の出口から外に出る。
だが、勢いは止まらない。
〼虚迷言の蹴りが、美藤の頭部を経由して、私を室内の壁に押し付ける。
「最期に、第三問——あなたは生きてここを出られるか?答えは」
頭が
アタ、マ
「ハズレでした!」
私と美藤の頭部が同時に破裂する。壁が粉砕する。
何だ。よく考えたら、〼虚迷言は「」でもある。
ならば、初めから自分を『秘密』にして——堂々と暗殺すれば良いだけの話ではないか。
遊ばれていたのだ。初めから。
彼女の全ての行為は、遊びか。
嘘か。私に語った心情も。
私は頭部が破壊されて、露出してしまった眼球で、彼女を見る。
彼女は——〼虚迷言は、実に愛おしそうに、安心した表情で、一丸可詰丸を抱きしめていた。
——何だ。
——全部が全部、嘘なわけではないのか。
——よかった。
——これでこの女も。地獄に落ちてくれる。
——死—
◇ ◇ ◇
不審人物による強制発情能力によって、自分は女性関係のトラウマをほじくり返され——一時、心神喪失してしまったらしい。
だが。それも解決したので、『迷宮入り』なのだそうだ。
頭に残る妙なフレーズ、『無体』という言葉が、何なのかはわからない。
「どうでも良いじゃあないですか。そんなこと」
〼虚迷言さんは、自分を車椅子で押しながら言う。
「あの能力には私も、 かなりの痴態を晒してしまいましたので。その、どうでも良いんです」
「そうですか。そうですよね。ところで迷言さん。『無体』って知ってます?」
「さあ——何のことでしょう?」
知らないのか。どうでもいいか。
そんなこと。
「私も——そう思いますよ?迷言さん」
「そんなことよりお客様!見てくださいな!私、こんなことも出来るんですよ」
そう言うと、彼女は《迷図謎掛》を目蓋や口元に貼り付け、あたかも別人になりすますメイクのように、顔の印象を変化させた。
「誰です?それ?」
「この人は、ヤクザの怖い親分さんです!ついでに言っておくと、人間の発する気配みたいな奴も、頑張ったら隠せるんですよ!」
「そうですか。そうですよね」
『無体』などどうでもいいか。
だってこの先、その怖いヤクザの親分なる人、夜魔口組の組長は——忽然と姿を消してしまったのだから。
この痛みだけが自分を自分たらしめてくれる。
●登場人物
【】
謎の人物。〼虚迷言の偽名を名乗る。
【黒星】
死亡。〼虚迷言が地下室に放火したため、死体は確認できず。
【美藤羊子】
死亡。〼虚迷言が地下室に放火したため、死体は確認できず。目が赤いが、吸血鬼だったかは不明。
●設定
【設定『宿敵』】
全ての設定は『謎』へと放り込まれた。
どうでもいい。
そんな設定、すべてどうでもいい。
【設定『人外』】
一丸可詰丸が既に『無体』なのか、それは『謎』となった。