「…これはこれは…驚いたな…!」

【ラブ・ファントム】、西条なつみが目を丸くする。視線の先には両足を切断され、両手の甲にフックを突き刺されて吊るされる巨体の男。
【新人類】(ニューエイジ)、黒房清十郎…だったもの。

「まさか舌を噛み切って自決するほどの体力を残していたなんてね!」

場は西条家邸宅地下。秘密裏に改造された拷問場。

「いや素晴らしい精神と肉体の持ち主だ!ひたすらに積み重ね、罪重ねたんだろう!そうでないと…」

ぐちゅりと腹部の傷口に指を突っ込み、肉を一塊えぐり出す。何の躊躇いもせず口に含む。

「~~!この芳醇な香り!鮮烈な甘みは説明できない!」

惜しいことをしたなぁと呟きながら、嬉々として黒房を食していく。
薄暗い地下室、吊り下げられた死体、という空間に似合わぬ爽やかな笑顔。
まるで部活帰りに買い食いでもするような涼やかさを放っていることがあまりにも異様だった。


ぎいと扉を開ける音が響き、その空間に入ってくる男がいた。
すぐにソレと分かる高級なスリーピースのスーツ。がっしりとした体つき。キッチリとしたオールバックに黒ぶちの眼鏡と口ひげ。
いかにも名家の旦那様でございますといった風情の男の名は、西条直影(さいじょうなおかげ)
西条なつみの父親である。

「…なあ、なつみ…もういいだろう?」

父親の問いかけに全く耳を貸さず、なつみは死体の前でケラケラと笑う。

「もう!もうやめてくれ!」

大声と共に、地に這いつくばり、なつみの足に縋りつく。床に散らばる血で高級スーツが汚れるのも気にしない。

そこまでしてやっと、なつみは父親の方に視線を向けた。
直影はなつみを見上げる。惨劇を作り出した根源を見上げる。


その直影の瞳にあるのは、“媚び”であった。


「もういいだろう!なつみ!そんな奴じゃなくてえ!私を食べてくれよう!ほら!さあ!」

「フフ、お父様、何度も言ったでしょう?私はお父様を愛していますから、そんなことはいたしません、と。」


西条なつみが好奇心で罪人の顔をかじり、罪の味と魔人能力に目覚めた日、父・直影も別世界の悦楽に目覚めた。
横領に手を染めた部下の顔面を喰らう娘を、今まで見せたことない満面の笑顔を見せる娘を、美しいと思った。
そして心底思った。「あんな幸せそうな美しい笑顔で食べられたい」と。
以来直影は西条家の権力、交友関係をフル活用し娘をサポート。必死で罪重ねている。


「西条家の当主として誰からも認められているお父様を敬愛しているのですから!それでも我慢できなくなるくらい罪深くなったら是非いただきたいですが!」

「おお!まだ足りないのかい!世間に認められる父と、どうしようもない罪人の両立はあまりにも難しい!」

「フフ、それでもお父様は目指してしまうのでしょう?」

「それは当然。西条家は強欲の血筋ゆえに。」

「「ハハハハハハハハハハ!!」」


――西条家は、静かに、完全に、狂っていた。


「――で、それだけを言いに来たわけじゃないでしょう?いかがなさったのですか?」

「ああそうだった、面白い情報があってね!」

直影は端末を取り出した。

「面白い情報…池袋壊滅の折に無敵のA級殺人鬼の遺体が見つかった件ですか?それとも新宿で夜魔口組の凶手が斃れた件?」

「相変わらずなつみには情報が集まるなあ!その情報は家政婦の妙子さんかい?シェフの小泉かい?」

西条家に仕える人間は全員、【ラブ・ファントム】の所業を知っている。
知ったうえで、その狂気と美麗に取り込まれ、積極的に共犯者として罪に加担している。
全員、いつか食われる日を求めて罪重ねているのだ。それぞれのネットワークを使い、罪人の情報を集めて西条なつみに捧げている。
余談だが、狂気に飲み込まれなかったごく一部の使用人はミンチとなって家庭菜園の肥料となっている。


「池袋の件とも新宿の件とも違うんだよな…これを見なさい。」

その端末には異常極まる光景が映し出されていた。
立体駐車場の防犯カメラの映像。なんらかの薬品でも扱っているのか、そういう能力なのか、爆風を繰り出す長身の男と…対峙する黒猫の死闘の様子。

「!人と戦う猫!?しかも、念じるだけで人を殺せるというのか!?」

「今の警視総監は二十年来の友人だからね。面白いネタは流してくれるのさ。しかもこの猫、ネットの書き込みを見る限り、としまえん遊園地に向かったらしい。」

「罪重ねた者は猫であっても味わい深いのかな…?フフ、興味がわいてきたね!」

「気に入ってくれたようで何よりだ!と、いうわけで私をさっと一口食べてみないかい?」

「それとこれはまた別の話ですよ、お父様。」

内容にさえ目をつぶれば、微笑ましい父子の会話。そこにさらにもう一人男が加わった。

「おや、直影様もこちらにいらしたのですか。なつみお嬢様に情報を持ってまいりました。」

警備主任の守下。拷問死した巨体を前にしても動じる様子がない。彼も狂気に取り込まれ、罪重ねる人間の一人である。

「警備会社時代の友人からの情報なのですがね、姫代学園で【隻腕の真紅眼】(ワンハンド・レッドアイ)が大暴れしたそうです。」

「例の、殺人の証拠は残っているけど、捕まえようとしても《何故か正義に感じてしまう》っていうアレかい?」

「ええ。学内の警備カメラの映像と、路上の防犯カメラがとらえた帰宅映像です。どうぞ。」

端末には、恐るべき風紀員である【悪の終着駅】、瑠璃千砂を真正面から打ちのめす紅眼莉音が、死ですらなかったことに(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)する『英雄呪縛』の無体さが映し出されていた。

「魔人相手にこういうのも今更だけど、無茶苦茶だなあ!この子は!」

「そうは言いますがお嬢様、目が輝いておりますよ?」

「…分かるかい?これまたとても魅力的な子だ!一緒に溶けあいたいなあ。」

それにしても、と西条なつみが呟く。

「昨日一晩でどれだけの殺人が起きたんだい?私が把握していないものも当然あるだろうから…」


中華街では大規模爆発。
立体駐車場では長谷川頑馬という元魔人警察官が遺体で発見された。
新宿では夜魔口組の殺し屋が射殺された。
東京タワーでは異形の遺体が見つかり、直近の居酒屋で元警視庁の石積彩花が死亡。
姫代学園では風紀委員の遺体が発見された。
極めつけには池袋で警察もさじを投げたA級殺人鬼が死んでいた。

「一晩で起きるには…あまりにも多くの事件が起きてるね…“何か”が東京に起きている…?」

その“何か”の輪の中に自分も組み込まれていることを感じながら、西条なつみは今晩のための準備を始めた。その場にいる警備主任にいくつか指示を出す。


“何か”がたとえ起きていたとしても。【ラブ・ファントム】、西条なつみにとっては関係のない話だった。


◇  ◇  ◇


———夢を見た。

 在りし日の憧憬。変わらないはずだった日常。
 世界で一番優しい、綺麗なママとの散歩。

 冷たい朝の光に包まれた静かな公園が好きだった。
 ランチタイムの活気に満ち溢れた商店街が好きだった。
 夕焼けでオレンジに染まった坂道が好きだった。

 そしてなにより、優しいママと頼もしいご主人のいる世界が好きだった。

「ん~!ヤット~!パパ帰ってきたぞお!」

 ちょっと乱暴にガシガシと撫でられるのが好きだった。

 「そろそろご飯にしちゃおうか?ちょっと早いけど。」

温かな食事の気配と一緒に笑う二人が好きだった。
そんな二人のそばで僕は、目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らす。
こうして、三人で、いつまでも、いつまでも…


■■■ チガウダロ ■■■

 -ザーザςɤυνザςɤυνςɤυνςɤυν

 思考にノイズが入る。
 視界に砂嵐が混ざる。

 瞬間、映るのは血にまみれた世界。

昨日仕留めたはずの長身の浅黒い殺人鬼が、ハハハと笑い続けている。


「ソコはお前の世界じゃねえぞ?ご同類!」


(違う…僕はお前らと一緒じゃない…殺したくて殺してるわけじゃ…)


「違わねえよ化け猫!普通の猫だったらな!能力に目覚めても無差別かたき討ちなんてしねえよ!」

返す言葉がとっさに出てこない。

「普通だったらよ、あのシコいママさんのそばで静かにボディーガードしてるだろが」

否定する言葉が出てこない。

「さあ!殺せ!もっともっと殺せ!もうお前はこっち側だ!ハハハハハハ!」


ミ”ャ……ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァァア”!!!


間違えた。間違えた。僕は、間違えてしまった!この力はママを守るために授かったのに!
見知らぬ誰かを殺すために使ってしまった!!

僕はもう同じだ。「アイツ」と同じ燃えるような蒼い瞳だ。
ダメだ、もう戻れない。進むしかない。ここで止まったらこうなった意味がない。意味がないんだ!
例え何十何百の見知らぬ誰かを殺すことになったとしても、「アイツ」に辿り着くまで殺し続けなくては!
殺さなきゃ!殺さなきゃ!殺さなきゃ!


最悪の決意を固めた瞬間、黒猫ヤットの記憶の中のご主人の顔には砂嵐が入った。



◇  ◇  ◇


♪君が助けを求めれば
♪僕は必ず手を取ろう
♪世界の味方である前に
♪君の味方でいるために

♪夕日に輝く立ち姿
♪夜を切り裂くその姿
♪光弾闘士ジャスティッカー
♪輝く勇者ジャスティッカー


【隻腕の真紅眼】、紅眼莉音は、今日も『光弾闘士ジャスティッカー』のテーマ曲を自宅で聴く。

『光弾闘士ジャスティッカー』は白銀のマスクとメタリックなボディ、たなびく真紅のマフラーでお茶の間を席巻したスーパーヒーローだ。
莉音も当然のように幼少期にどっぷり染まり、変身ポーズから何からよく真似たものだ。

若い男にハマって母は家を出ていったが、ジャスティッカー放送当時は家族仲も円満で、幸せな家庭そのものだった。ジャスティッカーは莉音にとって幸せの象徴である。

そうして、母に出ていかれてから頭の線がおかしくなった父親は「善き事を為せ」「正義になれ」と莉音に刷り込むようになった。莉音にとっての正義はジャスティッカーだった。
故に、ジャスティッカーは父親の圧力と、正義の象徴でもある。憧れと、畏怖と、尊敬と、様々な感情が彼に対してはある。

どうしていまだにジャスティッカーのテーマ曲を聴いているかは、莉音本人にもよく分からない。ただ、この曲を聴くと自分の本質に帰ることが出来るような気がするのだ。
ジャスティッカーのテーマ曲を聴くことで莉音はリセットされ、絶対正義の行使者として動き出すことが出来るのだ。

(昨日の人は…強かったなあ)

莉音にしては珍しく、殺した相手を反芻する。絶対正義にとって倒した相手は全て過去。振り返る必要のない悪である。
しかし、自分に全く怯えず踏み込んできた相手は久々だった。純粋に良い戦いが出来たと感慨に浸る。

そんな莉音の耳に、チャイムの音が鳴り響く。この間頼んだ通販でも来たのだろうかと思い玄関に向かうと、宅配業者は一枚の招待状を手渡してきた。

「…?なんだろう?」

差出人の書かれていない招待状には、シンプルな文章が添えてあった。

《あなたの正義を見込んで力をお借りしたい。今晩、としまえん遊園地にお越し頂けないでしょうか》

あからさまに怪しい招待状。罠としか思えない文面。
しかし莉音は気にしなかった。莉音は正義であるから、罠があったとしても関係ない。勝つ。正義だから。英雄だから。負けないから英雄なのだから。


「遊園地、かあ。行くの久々だなあ!」



◇  ◇  ◇


不機嫌さを隠そうともせず、ガツガツと乱暴な足音を立てながら無精髭の刑事が署内を巡る。男の名は大悲川南兵衛。
【ドッペルぬらりひょん】、稚切バドーを使役し、「魔人は魔人同士で殺し合えばいい」と平然と言い放った悪徳刑事である。
ズカズカと交通課のフロアに踏み入る。ぎょろりと周囲を見渡し、お目当ての人物を見つけ近づく。

「おう、ちょっとツラ貸してくれ」

「ウェェ!?オレっすか?急になんすか?」

剣呑さをむき出しにしたベテラン刑事に突然捕まったチャラい若手巡査は目を白黒させる。

「うるせえ。いいからついてこい。」

「…ウィーっす…」

大悲川は若手巡査を強引に取調室に連れ込む。大悲川以外には誰もいない。大悲川が独断で巡査を連れ出しているのは明らかだった。

「ちょっと、マジでなんなんすかぁ!?」

若手の抗議を無視し、大悲川はどかりと椅子に座る。乱暴に煙草に火をつける。

「…くだらねえ演技はもういい。」

そして、紫煙と共にそんな言葉を吐き出した。言っている言葉の意味が分からないという顔をする若手に対して言葉を続ける。

「九九代目・芦谷道満…だろ?非魔人だからってデカなめんな。」

空気が一変する。そして、九九代目・芦谷道満と呼ばれた巡査の表情もがらりと変わる。

「ほう…?流石は【魔獣使い】大悲川刑事殿。想像以上の調査能力をお持ちのようで。」

「そういうてめえこそ俺の名前知ってるんじゃねえか。」

「そりゃあ、魔人の弱みと所在を握って、魔人狩りに利用しようなんて変わり者は知っていて当然だろう?…で、俺に何の用だ?」

演技をやめた九九代目・芦谷道満に対し、大悲川は続ける。

「知ってるかどうか知らねえが、昨日、渋谷で大作戦があった。【ガールズトーク】、【ウラハラシザーズ】、【新人類】を仕留めた。」

「ほう!有名どころの殺人鬼じゃないか。手駒の殺人鬼をうまく使ったのかな?」

「…ああそうだ。そういうことになっている(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)。俺の手駒の【ドッペルぬらりひょん】が尽力した、という事になっている。」

大悲川は一枚の写真を九九代目・芦谷道満の前に投げ出した。そこには清楚な雰囲気のある、凛とした女生徒が写っていた。

「だが実態は違う。【ドッペルぬらりひょん】を含め全員を皆殺しにした殺人鬼はこいつだ。【ラブ・ファントム】、西条なつみ…!!」

「分かっているなら何故逮捕しない?仕留めない?」

「…こいつは、西条家の一人娘だ。」

ほう、と芦谷道満の口から声が漏れる。旧財閥の一角、西条家。現警視総監とも縁が深く、広く権力に関わっている一族。上級国民であることは間違いなかった。

「それに、こいつは基本的には殺人鬼を優先的に殺している。とりあえずは放置、というのが上の判断だ。」

「ふむ、まあ納得できる結論だ。そうだというのに、お前は何故俺にそんな話をする?何故わざわざここに来た?」

大悲川はダン!と強く拳を机に叩きつける。

「納得いかねえからに決まってんだろ!俺たち警察の仕事は!こういうイカレ野郎から市民を守ることだ!ここで引いて胸張ってデカやれるかよ!」

それに、だ と大悲川は続ける。

「こっちは【ドッペルぬらりひょん】殺されてんだ…!落とし前はつける…!」

「確かにそうだな…。因果は巡る!やってきたことには報いが訪れるという事を、このお嬢様に教えてあげるとしよう!」

「ありがとよ。【ラブ・ファントム】の動きはこちらで押さえてある。てめえに連携するから、【元祖】使って仕留めてくれや。」

「…ジャックのことも知ってるのか。」

「だから、非魔人だから舐めるなっつてんだろ。知らなきゃ胡散臭い陰陽師の血筋なんて頼らねえよ。」

「ご挨拶だな。」

胡散臭い陰陽師、何百回と言われてきたことだが道満は気にしない。殺人鬼どもも、警察も、何もかも手のひらの上にあると実感している。
最後に勝つのは魔人能力などではなく、代々受け継いだ陰陽の技だと自負している。

(どいつもこいつも無能ばかりだ。【元祖】をうまく使って、俺は日本を綺麗にする。そのためになら貸しを作ってやるのも悪くないか。)


としまえん遊園地に修羅が集まり始めた。




◇  ◇  ◇


すべての悲しい夜のために


◇  ◇  ◇

としまえん。

その名が都市魔からきていることは東京に住んでいるものなら誰もが知っているだろう。
魔人が世に現れ混迷を極めた時、都民を守るべく立ち上がった一部の魔人たち。
その偉業を称えた碑が園内の真ん中に建てられている。

魔人差別が著しかった時代から、としまの地は魔人に対して門戸を開いてきた。
時には市場であったり学校であったりしたが、現在はとしまえん遊園地として多くの人々を楽しませている。

非差別の精神を受け継ぐとしまえんは、殺人鬼が跋扈するこのご時世であっても夜間営業を続けていた。それは殺人鬼であってもお客様、来るもの拒まずの精神の結晶であった。
園内には腕に覚えのある魔人警備員が常駐し、仮に殺人鬼が暴れたとしても対処できるように配慮されていた。


その園内を、一匹の黒猫が歩く。黒猫自身にもなぜここに来たかは理解していない。
既にこの世にはいないご主人とはるか昔にここに来たような気もするが、上手く思い出せない。


ザ…ザザ…

突然、ノイズ交じりのアナウンスが園内に響き渡った。


ゴ!バキン!ガタン!

何か物を壊すような、何かから身を守るような音。あまりに異質な音が放送されたことで、園内の人々はアナウンスに耳を澄ます。

「…はぁ…はぁ…皆さん、聞こえて、います…か…?スタッフの…近藤と申します…急な、アナウンス…申し訳ありません…」

途切れ途切れに、必死で言葉を紡いでいるといった印象の若い女性の声が流れる。

「皆さん…!逃げて!逃げてください!殺人鬼が!殺人鬼が園内に侵入しました…!勝てない…あれには勝てないよぉ…!」

殺人鬼が侵入した?人々の理解が始まる前にアナウンスが続ける。

「殺人鬼は!黒猫の姿をしています!銀翼の…!チャームが付いた…赤い首輪!誰か!誰かあの悪魔を止めて…!殺して!お願い!私は…もう…誰か…」

ガハ。一つ血を吐く音が聞こえる。そうして、もうアナウンスは聞こえなくなった。残酷な静寂が響く。
女性職員は、勇気をもって最後のアナウンスをしたのだと人々は思った。
そのあとの人々の行動は綺麗に分かれた。即ち、逃げるか、戦うか。

大半の客は逃げるを選択した。我先にと出口に向かっていく。
魔人警備員と、一部の腕に覚えのある者は殺人鬼を倒すことを選択した。その中には、漆黒のマフラーをつける絶対正義たるヒーローも混ざっていた。





――放送室。

「フフ、“説得力”を二倍にして園内アナウンスをしたけど、何人くらい黒猫狩りに動いてくれるかな?少なくとも私の招待したヒーローさんは動いてくれると思うけどね。」

勇気をもって最後のアナウンスをした女性職員など存在しない。放送室にて【ラブ・ファントム】、西条なつみは高みの見物を始めた。


◇  ◇  ◇


全ては一瞬の出来事だった。

魔人警備員が黒猫ヤットを発見し、応援を呼んで取り囲んだ。
彼らは一斉に襲い掛かり捕獲にかかった。
お客様を守ろうという意思をもって。殺人鬼を仕留めようとして。興奮して(・ ・ ・ ・)飛びかかった。


(捉えた)


心拍数が上昇した相手は【慈愛のお迎え天使】の敵ではない。
三秒。僅か三秒で魔人警備員たちの心臓は爆砕し崩れ落ちる。
究極の初見殺しが炸裂し、不吉の象徴たる黒猫の周りには穏やかな顔で眠る死体が大量に転がった。


(簡単だ。そうだ!サツジンキを殺すなんて簡単だ!「アイツ」に辿り着くまで殺し続ける!)


全ては一瞬の出来事だった。

勝ち誇るヤットの腹部に深々と右の手刀が突き刺さっていた。


(え…?何が…?)


確かに心臓を捉え、爆砕したはずの相手が。
魔人警備員と一緒に爆砕したはずの相手が。
黒いマフラーをたなびかせる、真紅の瞳の魔人が。紅眼莉音が。
平然と立ち上がり、完全に油断しきっていたヤットに無慈悲な一撃を加えた。

初見殺しには初見殺し。『英雄呪縛』は過去を書き換える。《正義は絶対に勝つ》という大前提に基づいて、《英雄の死さえも塗り替える》。
確かに心臓は爆砕した。ただそれがなかったことになっただけだ。
完全に殺したはずの相手からの一撃を警戒できるものなど存在しない。

莉音は全く躊躇せずに、大きく振りかぶり、ヤットを無造作に施設の壁にぶん投げた。
猛烈な速度で投げられたヤットの体はまるで砲弾のように壁を突き破り、ぐちゃりと残酷な音を立てた。
【慈愛のお迎え天使】と【隻腕の真紅眼】(ワンハンド・レッドアイ)の勝負は、それだけで終わった。


◇  ◇  ◇


(何が…何が起こったの?)

全身の骨がバキバキに砕けている。柔らかい腹部からはでろりと腸がはみ出ていた。
魔人能力に目覚めたおかげだろうか、通常の猫よりもはるかにタフになっていたヤットは、本来ならとっくに死んでいるはずの怪我でも、辛うじて意識を保っていた。

(まだ…まだ動ける…)

ずるずると、赤い血の線を床に描きながら必死で這う。間もなく命が尽きることは間違いないが、だからと言って諦めるという選択肢はない。必死で進む。

そのヤットの真正面に、黒猫が現れた。

「フギャァァアアアア!!」

突然現れた黒猫に威嚇の雄たけびをぶつける。すると正面の黒猫も同じように雄たけびをぶつけてきた。よく見ると相手の黒猫の喉元に銀翼のチョーカーが光っている。

(確かこれは、鏡とかいうやつ?)

野生生物であれば鏡に映ったものが、自分自身であると認識することは難しい。しかしヤットは家猫だ。生活の中に鏡があった関係で、目の前の黒猫が自分だと理解できた。

ほっとして横を見ると、またしても黒猫がいた。

「フギャァァアアアア!!」

横の黒猫もまた威嚇を返す。これも鏡。
後ろを見る。黒猫がいる。これも鏡。鏡、鏡、鏡!


ヤットが叩き込まれた施設は、ミラーハウスであった。


(何!?何なのコレ!?)


人間であっても、ミラーハウスは困惑させられる。全方位に、様々な角度から見た自分がいるという異次元。自分のはずなのに自分ではないかのように錯覚させられる構図。
ましてやヤットはミラーハウスというものを知らない。サツジンキの攻撃を受けていると思い込み混乱する。

「フギャァァアアアア!!フギャァァアアアア!!」

必死に威嚇し吠え回る。

(これは鏡じゃない?こんなにいっぱい僕がいるわけない!消えろ!偽物!)

しかしヤットの想いもむなしく、鏡像は消えない。ヤットと同じように威嚇してくるだけだ。
そして、その鏡像は、呪いを宿した、蒼い炎の双眸をたたえていた。
「アイツ」と同じ、ろくでなしの、道を外れたものの、サツジンキの瞳が、ヤットを全方向から睨みつけていた。


(違う!違う!僕はそんな目をしてない!僕は帰るんだ!ママのところに帰るんだ!)


必死に否定しても、鏡像は変わらない。冷たく燃える瞳、血にまみれた漆黒の体、殺意にまみれた体。


あの日の、陽だまりの中でご主人とママと穏やかに過ごしていた優しい猫はもうどこにもいない。
殺人に殺人で応じてしまった、殺しの螺旋に自ら飛び込んでしまった畜生がいるだけ。


(違う!違う!コレは僕じゃない!僕じゃない!消えろ!消えろ!)


見たくない自分に囲まれて、ヤットは半狂乱で悶え転がる。
ヤットは賢い猫だ。必死に否定し、鏡に映る殺人猫が自分ではないと思い込もうとしても、キラリと光る銀翼のチョーカーがそれを否定していることくらい理解できた。


(違う!違う!僕は!僕は!)


ミ”ャ……ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァァア”!!!


ミラーハウスにヤットの慟哭が響き渡る。蒼い炎の光を放つ瞳から、血の涙が溢れ出る。
その涙さえも、鏡は正しく映す。
泣いて、鳴いて、啼いて、哭き尽くしても、同じように鏡たちが泣いている。


(違う!違う!この涙は!悲しさは!僕だけのものだ!真似するな!真似するな!真似するなアあぁぁぁ!!!)


無茶苦茶に暴れ回る。鏡に飛びかかってはじき返される。
必死に爪を突き立てても、意味がない。べろりとあっけなく剥がれるだけだった。

フギャオオオオ!フギャ!フギャ!フギニャアアアア!

どうしようもなく、がむしゃらに暴れるうちに、赤い首輪が外れた。銀翼のチョーカーが地に落ちる。
当然、ヤットを取り囲む鏡像たちのチョーカーも地に落ちた。


(やった!やっぱりそうだ!こいつらは偽物だ!チョーカーがないじゃないか!薄汚れた殺人猫め(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)!死ね!死ね!)


ヤットは瞬時に鏡像の心臓を「捉えた」。その行為が、何を意味するかも考えなかった。

「アイツ」を追わなければよかった。
【歩く劇薬】と戦った後、ママのそばにいればよかった。
チョーカーを外さなければよかった。


どれか、どれか一つでもなければ、ヤットは黒猫ヤットとして死ぬことが出来た。
しかし、地に落ちたチョーカーに見向きもせず、鏡像に攻撃を仕掛けた時点で、ヤットはもうヤットではなくなった。

警察にマークされた、最悪の殺人猫、【慈愛のお迎え天使】としてヤットは死んだ。
自慢の黒毛はすっかり白くなり、変わり果てた姿で死んだ。


少しの痛みも感じずに逝けたことだけが。
ひとかけらの救いと言えるだろう。


◇  ◇  ◇



「莉音ちゃん、大勝利!悪を撃破!正義はなされた!」

堂々と勝ち名乗りを上げる。黒猫が悪とは流石に予想外だったが、正義の前では関係ない。確実に死に至る深手を負わせた感触が、右手にしっかり残っている。

(さあ、あとは残っている悪を掃除して、帰るかな!)

周囲には先ほどの黒猫に何かされた警備員の死体が転がっている。しかし死んだという事は正義ではなかったのだろう。正義ではないという事は悪だったのだろう。
単純極まる論理をもって、莉音は思考を完結させる。


その莉音を前に、雌獅子を思わせる黒い女生徒が現れた。

「いやはや、本当に強いね。私は…」

【ラブ・ファントム】、西条なつみが何か話す前に莉音は飛び出して拳を振るっていた。

(こいつは紛れもなく悪!久々にとびきり!すぐ分かった!)

「いきなりかい!?フフ、怖い怖い…」

“回避能力”と“逃走能力”を二倍にし、攻撃をかわしてから脱兎のごとく駆ける。
その背を、いささかの躊躇いもせず直線的に莉音は追う。

ひとしきり走った後、西条なつみはイベント会場に逃げ込んだ。
会場に入る直前、入り口のイベント告知の看板を西条なつみはひっくり返したが、莉音はそれに気が付かず真っすぐに追いかける。



ここが、正義を終わらせるための狩場であると知らないままに。



紅眼莉音は絶対正義である。
彼女が定義付けした自身の正義性は、何者にも揺るがすことができない。

「ちょこまかと!」

剛腕を西条なつみがひらりと躱す。“回避能力”を倍にし、猛撃に対処する。
代わりにたまの息抜きにと来園していて、逃げ遅れた高校教師の体が爆ぜた。

何の罪を犯したかはわからないが、私に爆散させられるということは悪だったんだろう。
その証拠にほら!言い返してこない!無罪を主張しない!

主婦の頭蓋がぐちゃりと潰れる。莉音ちゃん、大勝利!こいつは悪!
老婆の背がバキリとへし折れ、後頭部と尻が密着する。莉音ちゃん、大勝利!こいつは悪!
清掃員の頭がポンと軽い音とともに空を飛ぶ。莉音ちゃん、大勝利!こいつも悪!
サラリーマンの両手足が吹き飛び、芋虫のように地を這う。莉音ちゃん、大勝利!こいつも悪!

逃げに徹する西条なつみの代わりに周囲の無辜の人々が巻き込まれるが紅眼莉音は気にしない。


悪!悪!悪!


紅眼莉音の行いは紛れもなく虐殺であり大蛮行なのだが、不思議と周囲の誰も彼女をとがめない。否定しない。
何故なら彼女は正義だから。絶対正義だから。
正義が倒したのならそれは悪に決まっているという極端な善悪二元論を周囲の脳髄に押し付ける。
正義に対峙するものはまた別の正義、などという発想は欠片もない。
正義に対峙するは悪。悪に対峙するは正義。
思考放棄の正義の味方は自分の信じたい道だけを突き進む。


魔人能力とは自己の認識を世界に押し付け改変する力。
そういう意味で紅眼莉音は非常に強大な能力者であった。


しかし忘れてはならない。
あくまで彼女の能力は“絶対正義”の付与である。
正義である彼女と対峙し、敗れるからこそ相手は悪となる。――悪属性は後付けなのだ。
決して、“絶対悪”を付与する能力ではない。


紅眼莉音は躊躇わない。相手が障碍者だろうが、神父だろうが、妊婦であろうが、赤子であろうが関係ない。
自分は正義。ならば対峙している相手は悪なのだろう。なら粉みじんにしよう!

紅眼莉音は迷わない。相手が同級生だろうが、恩師だろうが、先輩であろうが、実の父親であろうが関係ない。
自分は正義。ならば今目の前にいるのは悪なのだろう。私以外は悪なのだろう。ならば消し飛ばそう!

「ママぁ~!どこ行ったのママぁ~!」

周囲の騒乱に巻き込まれて押し倒されたのだろうか、膝小僧に擦り傷を作った少年が泣きわめいている。

思考をそぎ落とし、迷いを削り、躊躇いを捨て去るからこそ可能などこまでも真っすぐでどこまでも歪んだ拳。
その狂拳が、泣き顔でへたり込む少年に向けて振るわれた。
女子供の区別なく。絶対正義は執行される。


――ピタリ。


止まるはずのない、今まで止まることのなかった拳が突如動きを止めた。


少年の前に、男が身を投げ出してかばっていたのだ。
その男は、特に魔人能力があるというわけではなかった。腕に覚えがあるわけでもなかった。
どこにでもいる普通の大学生だ。少し夢見がちで、ちょっぴりお人好しで。
足をがたがたと震わせながら、体を大の字に広げて、少年をかばう。

普通じゃないとしたら、その格好だ。彼はバイトの途中だった。

頭には白銀のマスク。ボディにはメタリックなタイツ。風にたなびく深紅のマフラー。
その立ち姿は夕日に輝き、その駆ける姿は夜を切り裂く。光弾闘士ジャスティッカー!

西条なつみがひっくり返したイベント会場の看板が風で元に戻る。

《光弾闘士ジャスティッカーがやってくる!としまえんで俺と握手だ!》

彼は、ヒーローショーに出演するアクターをしていたのだ。



(…あれ?私は、何故拳を止めているの?)



今まで散々に無辜の人々を殺め、無垢なる願いも悪と断じて踏みつぶしてきた紅眼莉音が、拳を振り抜けない。
女を、子供を、善良なる市民も悪逆たる徒も、絶対正義の前では等しく悪としてきた紅眼莉音が。


子供の前で、足を震わせながら立ちはだかる青年を、悪と断ずることができない。
中身が本当のヒーローじゃないことなんて分かっている。
どこぞの役者見習のアルバイトだろうことは、とっくに分かっている。


しかし。


それでも。


だとしても。


死を厭わず、勇気を振り絞り、見ず知らずの少年のために立ち上がった青年を。
遠い遠い昔、まだ優しかった父と、まだ家にいた母とともに応援した英雄の似姿を。


悪と呼ぶことがどうしても出来なかった。
憧れを切り捨てることができなかった。


勿論目の前に立ちはだかる青年が正義の化身なんて思っちゃいない。
ただ、「悪と呼ぶこと」に少し戸惑っただけだ。

そして、その戸惑い一つは、絶対正義 英雄呪縛 紅眼莉音を崩壊させるには十分すぎた。

ボタリ。ボタリ。莉音の額から血があふれる。

「……え?」

自分でも何が起きたかわからないが、そんな莉音にお構いなしに血はあふれ続ける。
《正義に対峙するは悪。悪に対峙するは正義。》
その単純な二元論が牙をむく。
《相手が悪でないかもしれない》ならば《対峙しているものは正義でないかもしれない》のだ。

《正義でないかもしれない》という心の奥深くに一瞬だけ浮かんでしまった疑念。
因果を捻じ曲げ、善悪の彼岸を超え、生死の揺らぎすら改変せしめる『英雄呪縛』は、根底に己の正義への絶対なる信頼がなくては成立しない。

《英雄は死なない》。《英雄は勝利する》。《何故なら、それは正義だからだ》。
『英雄呪縛』を支える根幹である、正義が揺らぐ。その結果。

花屋の無害な老婆を装っていたテロリストを撲殺したとき、怒りに燃える孫娘に刺された傷が。
集団下校の子供たちに扮した強盗団を爆殺したとき、半狂乱になった女教師に割られた傷が。
花嫁に変装した殺し屋を縊り殺した時、血の涙を流した花婿に撃たれた傷が。
敬愛する先輩のために殺人鬼狩りを続けていた風紀委員に切られた傷が。

絶対正義の名のもとに、なかったことにして消し去っていた(つみ)が。
再び莉音にあらわれ始めたのだ。

「…え、え!?コレはコレは何!?痛い…!痛い!」

この痛みをどうすれば消し去れるか。その答えはもう分かっている。
目の前の青年を撲殺し、いつものように「莉音ちゃん、大勝利!こいつも悪!」と叫べばいい。
一瞬の気の迷いを消し去り、私が絶対の正義だと、「こいつの正義は偽りだ」とあざ笑えばいい。

それができない。ほんの少し躊躇う。躊躇いがさらに傷を開く。戸惑いが更に正義を揺るがす。

絶対正義が反転する。英雄呪縛は正しく呪縛であった。
呪縛から解き放たれると同時に、
テロリスト成敗がただの老婆殺害に。
強盗団成敗がただの児童相手の無差別テロに。
殺し屋成敗がただの花嫁殺害に。
やってきたことの価値観が世界ごとぐるうりと(・ ・ ・ ・ ・)回った。


「うわああああぁぁぁぁあああ!!!」


莉音の体中から傷口が開く。ドバドバと血があふれ出し、一瞬で莉音の体が朱に染まる。急激に全身を襲う激痛に、思わず膝をつく。
痛い、痛い。痛い!成す術もなく痛みに襲われる莉音は、一瞬で心を折られた。
自身を支える絶対正義にひびが入った今、真っすぐに立つことすらできなかった。
何をしていいかもわからず、虚空に向かってただ手を伸ばす。


その手を。青年は握った。


何故そうしたかは青年にも分からない。ただそうしなくては、目の前の少女はバラバラになって飛んでいってしまう気がしたのだ。
どうしようもなく救われない、奈落の底に突き落とされてしまう気がしたのだ。


♪君が助けを求めれば
♪僕は必ず手を取ろう
♪世界の味方である前に
♪君の味方でいるために


(あ…暖かい…)


青年の、ジャスティッカーのぬくもりを感じた時、莉音は相対的に自分の冷たさを理解した。自身の歪みを、今更ながらに理解した。
純朴なる救いの手を前に、英雄でいようと意識すること自体の過ちに気が付いた。


「どうして…どうして、もう少し早く来てくれなかったの?なんで…なんで今更…だ、だって…!だって私…!」


うわごとのように呟く莉音を容赦なく痛みが襲う。過去が苛む。本当は悪ではなかった人々の嘆きが、莉音を責め立てる。


「ごめんなさい」


思わず口を出る言葉。シンプルすぎる謝罪の言葉。


「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめ、ごめんなさい!」


あまりにも遅すぎる謝罪。悪ではなかった被害者に対し、小学生のようにごめんなさいを連呼する。


「ご!ごめ、ごめんなざい!ごべんなざい!ごめんなじゃいぃぃいいい!!」


凛々しかった面影はなく。勇ましかった気配はなく。
それでも過去(つみ)は彼女を許さない。全身のありとあらゆる場所から傷が開き、血が噴き出し、体がぐずぐずにほどけていく。


「ごめんなさい…ごめ…ご・・ごめんな・・・さい」


謝る相手はもうこの世にいないのに。もはや何に対して謝っているかもわからず。
顔面を血と涙と鼻水に歪ませて、醜く、最後の最期まで侘びの言葉を口にする。




「…あ…あ…私…正義になって何がしたかったんだっけ…?(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)




完全に呪縛が解けた時。そこに残っていたのは精いっぱいの背伸びを続けてしまった少女の亡骸だけだった。
今までどれだけの人々を正義の名のもとに踏みにじり、なかったことにしてきたのだろうか。
体中に刻まれた傷で、顔の判別がつかないほどであった。
特徴的なマフラーだけが、寂しく風に飛んで行った。

「許して」とは言わなかったことだけが、彼女に殺された人々にとって救いだったかもしれない。


◇  ◇  ◇



「…おい、道満…どうなっているんだ?【ラブ・ファントム】が来る前に待機して、準備するはずじゃなかったのか!?なんでもう戦闘が始まってるんだ!?」

黒猫ヤットと警備兵たちの争い、紅眼莉音の蛮行でとしまえん遊園地は騒然としていた。異常事態に、【元祖ジャック・ザ・リッパー】は道満に携帯で怒鳴りつける。

「…俺が聞きたいくらいだ!大悲川から入ってくる情報も錯綜してやがる!【ラブ・ファントム】はどうした?大悲川の部下が尾行しているはずじゃなかったのか!?」

「クソ!いつも通り現場のアドリブか?ああもう!英国紳士らしからぬ言葉を使ってしまった!」

軽口をたたきながらも、ジャックは油断せず周囲を確認する。争いがあってから少し時間が経ったのだろうか、園内の客は大半が死ぬか逃げるかしたようだ。

血の匂いが濃く漂う方に、慎重に歩みを進める。


イベント会場、ステージ上に、ソレはいた。人の皮を被った災厄、罪重ねる狂人、強欲なる殺人鬼。【ラブ・ファントム】、西条なつみである。

恍惚とした表情で、ズタズタになった紅眼莉音の肉をつまみ喰っていた。

「…嗚呼、もう少し、もう少し楽しみたかったんだけどねえ。来てしまったなら仕方ない。キラキラした夜を、最後に彩ってくれるかい?」

(完全にいかれているぞコイツは!まともに会話しない方がいい!即潰す!)

ジャックは瞬時に体を毒霧に変え、一気に弱体化させようとする。その動きを見た西条なつみは、にいと一つ笑い、ポーチからガスマスクを取り出して装着した。

(…!?対策している!?)

「フフ、驚いているのかい?君は自分の名前を甘く見過ぎだよ。全ての殺人鬼が憧れる、最高の存在、元祖ジャックのことを、殺人鬼が知らないはずないじゃないか!」

コシューコシューとガスマスクから呼吸音が漏れる。

「対策だってするさ!当然だろう!今、夜を歩くもので!ジャックのことを考えない殺人鬼なんていやしない!」

言うが早いか、西条なつみは背を向けて走り出した。

(な!?)

瞬時に逃げを選択したことに少々困惑しながらも、ジャックはその背を追う。毒霧は開けた空間では効果を発揮しきれない。
より【ラブ・ファントム】に有利な空間に誘っているのかもしれない、罠かもしれない。しかしここでコイツを野放しにすることは出来ないと判断し、ジャックは追うことにした。


少しの鬼ごっこの後、西条なつみは園の中心、都市魔の碑のある広場で動きを止めた。周囲に障害物はなく、換気も抜群。毒霧が効力を発揮しにくい場所だった。


「ここで、決着をつけようというのかい?」

ゆらりと、上半身を実体化させて問いかける。
その問いに答える代わりに、西条なつみはナイフを真っすぐに構える。

緊迫した空気が流れる。とても遊園地とは思えない静寂の空間。
その静けさを打ち破ったのは、他ならぬ西条なつみの悲鳴だった。

「ウグァァァ!?」

がくりと膝をつく。足からダラダラと血が流れ出る。


ジャックにとって毒霧は副次的な効果に過ぎない。『倫敦紳士』(ミスター・ロンドン)の本領は、体を延長できることにこそある。
霧化した腕をぐるりと視界の外から回り込ませ、西条なつみのアキレス腱を切断したのだ。


「残念だよ、殺人鬼の後輩さん。もう少し何かするかと思っていたけど、毒霧くらいしか能力を知らなかったのか?対策が甘すぎるぞ。」

「残念なのは…こちらだよ…ガスマスクなんて普段から持ち歩くと思うかい?ジャックと出会うと知っている(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)とは考えなかったのかい?」

「何を…」

瞬間。ジャックの胸に強烈な痛みが走る。肉体的な痛みではない。概念的な痛みが突き刺さる。霧化が瞬時に解け去り、手足があっという間に塵となっていく。

「当然、貴方の秘密だって知っているってことさ。」

「道満…!やられたのか!?」

「そういうこと。私にも何人か自由にできる手駒がいてね。自分が狙われるなんて欠片も思っていない陰陽師を無力化して、召喚の触媒を壊すくらいは出来るのさ。」

確かに道満は最近増長していた。それを感じながらも、わざわざ口にすることではあるまいと放置したツケが最悪のタイミングで回ってきてしまったようだ。

「園内を見渡せる、観覧車の中にいるとは予想外だったよ。おかげで時間がかかって攻撃を受けてしまった。」

「…ふう、こんな方法で負けるなんてな。無理やり呼び出されてやっていた仕事だけど、半端で終わるのはやはり残念だ。」

さばさばとした物言いで、消えようとするジャックを、西条なつみが怒鳴りつける。

「…残念は!こっちの台詞だ!」

急にあらわにされる感情に、ジャックは目を丸くする。

「貴方は!ジャック・ザ・リッパーなんだぞ!世界で一番高名で、偉大な殺人鬼なんだぞ!そのジャックが!生前あれだけ馬鹿にした警察の狗になって!」

すうと一つ大きく息を吸う。

「信念も矜持も誇りも何もない殺しに駆けずり回って!挙句似合いもしない女装をさせられて!それでいいの!?あの、ロンドンを震撼させた!ジャック・ザ・リッパーが!!!」

「…ああ、確かにそうだな。そうだったな…。殺しに情熱を無くし、責任感なんかで動いていた時点で、俺は殺人鬼どもの争いから降りるべきだったんだろうな。ついぞ気が付けなかった。まだ現役の気分だった。」

寂しそうに笑うジャックに、西条なつみが畳みかける。

「貴方が生前のままだったら…あまりにも罪深い偉大な殺人鬼のままなら、殺されたって良かったのに…!」

「ハハ、そいつは無理だ!あんた、俺が殺したくなるような、ビッチな空気だけど、ちょっと若すぎる!知ってるだろ?ジャックはとしまの(・ ・ ・ ・)売春婦をぶち殺したいんだ!」

最後だけ、凶悪な、品のない、生前の笑いと共にジャックは霧に消え去っていった。

「最後に…後輩さん…俺の名…あんたにやるよ…」



こうして、としまえん遊園地での死闘は終わった。
西条なつみは“治癒力”を二倍にし、戦場を後にする。


誰も乗る者のいない回転木馬が、静かにいなないた。


◇  ◇  ◇



「…うう…ここは…?」

道満が目を覚ました時、両手足を椅子に縛り付けられていた。

「何が、何が起きている?」

少しずつ記憶がよみがえる。

「そうだ、確かジャックと一緒にとしまえんに向かって…狙撃されたのか?気が付いたら意識を失って…」

「やあ!目が覚めたかい?九十九代目・芦谷道満、でいいんだよね?」

話しかけるは【ラブ・ファントム】。ここは西条家地下、拷問場。

「【ラブ・ファントム】…!何故、何故俺を知っている…?どうして何もかも見通せた…?」

混乱の極みにあっても、何とか道満は聞くべき質問を繰り出した。

「フフ、多分、私が何か言うよりも、こうした方が早いかな?」

その言葉を合図に、一人の男が拷問場に入ってきた。


――大悲川南兵衛。【ラブ・ファントム】の情報を道満に伝えた張本人が、平然とした顔でそこにいた。


「な…!お前…!裏切っていたのか…!?」

「それが何か?というか、そこに考えが及ばないとか間抜けすぎるぜ。てめえ、非魔人のデカを舐めすぎなんだよ。だからこういうことになる。」

「何を言っているんだ!?警察の仕事はイカレ野郎から市民を守ることだと言っていたのはお前だろう!?なんで俺を嵌める!?」

道満の怒声もどこ吹く風。ゆっくりと煙草を吸い、ゆうゆうと語る。

「勿論あの言葉は本心さ。だけど物事には優先順位ってやつがある。てめえさあ、自分の手を(・ ・ ・ ・ ・)汚しただろ?」

それがなんだというのだ?殺し殺されの仁義なき世界において、甘いことを言う大悲川を、道満は怪訝な目で見る。

「魔人同士を殺し合わせたってかまわない。汚いこと、卑怯なことをやったっていい。だけどな、警官は、市民の味方は、直接手を汚すことだけはしちゃいけねえんだ。」

紫煙と共に言葉を吐き出す。

「その一線を越えちまったら、俺たちは市民の味方でいられなくなる…。ま、これは俺独自の正義観さ。早い話、身内にてめえみたいなのがいるのは我慢できねえ、ってこと。」

「~!何を!何を言う!正義観?お前みたいな悪徳刑事が!何をぬかす!」

「悪いな、てめえと議論する気はないんだわ。許されるつもりなんて最初からねえんだから。」

そういうと、大悲川は一枚の写真を取り出した。
そこには、満面の笑みを浮かべ自撮りをする少女と不機嫌そうにそれに付き合う少女。ぎこちなく、それでいて仲睦まじく肩を寄せ合う姿が写っていた。

「糸引の旦那の待ち受けに残っていた写真だ。記憶操作すれば糸引の旦那はお前を忘れ去ると思ったか?甘い、甘すぎるんだよ!」

ペッ!と唾を吐きかける。

「携帯にはいくつも写真が残っていた!日記にも少女について書かれていた!防犯カメラには糸引の旦那が少女の犯行を必死で止めようという姿が残っていた!」

我慢できないという風に感情をむき出しにして大悲川が叫ぶ。

「デカ舐めんな!非魔人だからって舐めんな!これだけ材料がありゃあなあ!てめえが黒い甲殻戦士の少女に何したかなんて、糸引の旦那には透けて見えるんだよ!」


一発、思い切り顔面を殴りつける。鼻血が無様に吹き出る。

「糸引の旦那から伝言だ!『忘れてはいけないものを忘れさせたお前を許さない』だとよ!しっかり頭に刻んでおけ!」

言いたいことを吐き出した大悲川は拷問場を後にする。西条なつみに「優先順位の問題だ。いつかてめえにもワッパをかける」という台詞を残して。


◇  ◇  ◇


「いやあ、熱い刑事さんだね。今時あんなのがいるなんて、警察も捨てたもんじゃないね。」

「う・・・ぐ…俺をどうするつもりだ…」

「そうだそうだ、忘れるところだった。君に是非お願いしたいことがあるんだ。ジャックを蘇らせたみたいにさ、陰陽の技で一人蘇らせてほしい人がいるんだよ。【ガールズトーク】っていうんだけど。」

「…渋谷でお前が殺した殺人鬼か。」

「流石!情報が早いね。正確には私が殺したわけじゃ…いや、私が殺したのかな?そこらへんは少し複雑でね。」

言いながら、ピンクのリボンを取り出す。【ガールズトーク】、小津夏美が身につけていたものだ。

「いやあ、やはり彼女と溶け合えなかったのは惜しくて!媒介?があればいいのかな?ぜひともお願いしたいんだ。」

誰がやるか、と道満は内心で唾を吐く。誇り高き陰陽の技を、薄汚い殺人鬼のために使うつもりなんてさらさらなかった。そしてなにより。

「悪いが、情報が少なすぎる。それっぽちの媒介と情報じゃ、とても蘇らせられない。」

「ふむ、でもとりあえずやってみてくれないかい?」

「断る。誰が薄汚い殺人鬼のために陰陽の技を使うか!」

我慢しきれず本心をぶつける道満。しかし西条なつみはそれも予想通りといった顔で、道満に近づく。

「フフ、君はここがどういう部屋か知らないのかな?それとも知っててそんな台詞を吐く胆力があるのかな?」



にっこりと笑い、大きめの鋏を取り出す。その鋏を大きく広げ、片方の刃を右のむこうずねに深く深く突き刺した。



「アギャ!うぐぁあああああああ!」

道満の悲鳴に一切耳を貸さず、そのまま下に勢いよく下ろす。脛骨が、アジの開きのようにパカリと中身を広げた。

「アッギャアアアアアア!!!アウ!アウ!」

言葉にならない叫び。ブクブクと泡状になった唾が道満の口に満ちるが、不思議と喉の奥は乾いていく気がした。

中身があらわになったところに、容赦なく指を突っ込む。ピーナッツバターを掬うかのような気軽さで、髄をえぐり取る。

「待って!まっでまでまっで!やる!やるから!頑張るから!」

想像を絶する痛みの前に、道満はプライドを投げ去り西条なつみの提案を飲んだ。
その言葉を無視し、開いた脛骨に金串を突き刺す。

「ひぎゃあぁア!ア!ア!」

手際よく次々と突き刺していく。あっという間に道満の右脛はサボテンのようになった。その金串をバーナーであぶる。骨の内部から、文字通り刺すような熱さが広がった。

「アアアアアアァァァァァ!!やべ!やめ!ひあぅあ!」

「うん、良い声だ。手を抜かれたりしたら二度手間だからね。本気、出してくれよ?」

(ヤバい、ヤバい、ヤバい!なんだこいつは!なんなんだよコイツは!)

今迄傀儡を用いて裏で事を運んできた道満は、真の意味で殺人鬼の怖さを理解していなかった。今夜、初めて本物の狂気に触れたのだ。

(やらなきゃ!うまくやらなきゃ!)

必死に印を結ぶ。

「リン、ピョー、トー、シャ、カイ、ジン、レツ、ザイ、ゼン!」

頼むから蘇ってくれと、全身全霊を込める。

「覇ァァ!!」

裂帛の気合と共に、気を吐き出す。豪と風が吹き、拷問場に煙がすさぶ。

しかし残酷にも、その場に現れたのはただの肉人形。五歳児ほどの大きさの人間未満の出来損ない。

「アギ…アギギ…」

言葉もまともに発せないようだ。

「すまない…うまくいかなかったようだ…」

「…ま、しょうがない!私もダメもとで頼んだわけだしね!」

失敗したら苛烈な拷問を受けると思っていた道満は拍子抜けしたかのような、ほっとしたかのような複雑な表情を見せる。

「じゃあ、アレは、責任をもって君が片付けてくれるかい?」

「…え?どうやって…?」

「フフ、決まってるじゃないか。私がいつもやるように、食べて片付けてよ(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

一瞬で空気が凍った。何でもないことのように、本心から西条なつみはソレを提案している。会話が少しでも通じると、殺人鬼相手に思うのが、道満の過ちであった。

「むむむ無理です!そんなことできません!」

「確かに少し量が多いね。大丈夫。手伝ってあげるから!」

そういう意味じゃないと言おうとする道満を、警備主任の守下が押さえつける。

「守下、口を大きく広げてあげて。」

忠実な部下である守下は、すぐさま道満の顎に手をかけ、無理矢理上を向かせたうえで力づくで広げ始めた。口の端の皮が裂け、顎関節が悲鳴を上げる。

「ちょっとまだ小さいね、顎の可動域を倍にしてあげるよ。」

その瞬間、常人ではありえない程に、ぽっかりと、道満の口が開いた。そこに肉人形を流し込んでいく。

(うあ!あが!あ~~~~!ぐあ!)

言葉一つ発せられないところに、確かに生きている物体が、そのまま流し込まれていく。圧倒的嫌悪感。気持ちの悪さ。嘔吐感。

「小食かな?胃の容量も倍にしてあげるね。」

たっぷり一時間かけて、道満は人間もどきを胃袋に収めた。収めさせられた。


「偉い偉い!さ、じゃあ続きをしようか!君の罪を教えてくれ!出来るだけしっかりとね!」

自分の胃袋の中で人間もどきの命が消えるのを感じた時、道満は完全に心が折れた。エグエグと、子供のように泣きながら西条なつみに問いかける。


「なんで…どうして…こんなことを…」


「プ…アハハハハハハハハハ!そんなこともまだ分かってなかったのかい?」


ひとしきり笑い、目元に涙まで浮かべて、【ラブ・ファントム】、西条なつみはハッキリと告げた。


「決まっているじゃあないか。もちろん、君が『悪い奴』だからだ。」


それは、他ならぬ道満がマジカニジェクトに最後にぶつけた言葉。


(因果は巡る!やってきたことには報いが訪れるという事を、このお嬢様に教えてあげるとしよう!)


つい今朝、自分で言った言葉がぐるぐると道満の脳内を駆け巡った。



「いやだ…いやだ!いやだぁぁぁ!俺は!こんなところで死んでいい存在じゃない!誰か!誰か助けてぇぇぇぇ!」


その叫びを聞くものは、どこにもいなかった。




【ラブ・ファントム】 西条なつみ:生存。二代目ジャック・ザ・リッパー襲名

【慈愛のお迎え天使】 黒猫ヤット:死亡。
【隻腕の真紅眼】(ワンハンド・レッドアイ) 紅眼莉音:死亡。
【元祖ジャック・ザ・リッパー】 ジャック・スプレンジット:消滅。


九十九代目・芦谷道満 :死亡予定・無し
最終更新:2020年07月03日 21:03