殺人鬼。
殺人鬼は人を殺す。人を殺せる。人を殺したい。当たり前だ。
殺人鬼は騎士ではない。武闘家ではない。
間違っても殺し合いたいわけじゃあない。
立派な戦いに殉じ、満足して死ぬなんてありえない。
殺人鬼は殺人鬼を知ろうとする。
容易く殺せる相手が欲しいからだ。自分が獲物になる可能性なんて限りなくゼロにしたいからだ。
故に。ここ数日東京で殺し合う化け物たちは。
殺人鬼から見ても異質にすぎた。
昨晩の惨劇は、殺人鬼業界に衝撃を与えた。
数十年殺しの世界の前線に居座り続ける伝説!殺人講師!暴走卿!
【殺る王】!榊原光太郎!死亡!
殺害者!人類の天敵!笑う徒花!樹海よりの使者!
【強欲の宿り木】!森本里美!
池袋を“あの”A級殺人鬼ごと壊滅させた!殺戮ミステリー!生きる災害!歩く殺人現場!
【謎掛】!一丸可詰丸!死亡!
最悪の性犯罪者のスピバポタキを逝き殺した!媚薬人間!SEXマシーン!
【愛人形】!美藤羊子!死亡!
殺害者!殺人器!新宿の殺戮機構!受け継ぎし者!
【黒星】!
殺人鬼の元祖にして至高!倫敦の霧の悪魔!シリアルキラーの祖!
【元祖 ジャック・ザ・リッパー】!死亡!
緊急特例害獣指定!魔人猟師による射殺許可済!死神!
【慈愛のお迎え天使】!黒猫ヤット!死亡!
絶対正義!英雄呪縛!アンダーヒーロー!
【隻腕の真紅眼】!紅眼莉音!死亡!
殺害者!罪重ねる殺人鬼!強欲なる狂人!
【ラブ・ファントム】!西条なつみ!
頂点!絶対者!最新最古の伝統!
【一八八八代目ジャック・ザ・リッパー】!波佐見・ペーパーストン!死亡!
殺害者!幽霊狩り!無差別防衛!フルメタルジャケット!
【針鼠】!金岡かがみ!
殺人鬼が殺人鬼を殺し、そしてまた別の殺人鬼に殺される。
殺しが殺しを呼び、被害が被害を呼ぶ。
この異常事態に、殺人鬼どもの間で噂が流れ始めた。
ひょっとすると、殺尽輝が生まれるかもしれないぞ、と。
◇ ◇ ◇
西条家当主、西条直影の携帯が鳴り響く。
それは二十年来の友人、警視総監からだった。
「…あ~、そのだな、直影、そのな、アレだ、伝えたいことがあってな。」
「回りくどい言い方はよしてくれ。…大体分かっているさ。やりすぎた、ってことだろう?」
「…話が早いな。まあまったくもってその通りだ。ここ数日の被害は大きすぎた。」
中華街、新宿、渋谷…東京のいたるところで大規模な殺し合いが行われた。
そして何より池袋の大量殺戮。警察が魔人に対し強行策を取るのも無理からぬことだった。
「僕は反対したんだよ?殺人鬼なんてのは群れ合わない生き物だ。警察が厳しい姿勢を取ることで、団結される方が割に合わないと思っている。」
ただねえ、とため息交じりに続ける。
「やっぱり池袋の件は世間様にも印象が悪すぎたよ。警察内でも殺人鬼排除派と殺人鬼コントロール派で真っ二つだ。」
「それで、【ラブ・ファントム】を排除する…そういうことかい?」
「…本当に話が早いなあ。君の娘は、警察関係の魔人を直近で二人も殺っちまった。いくら西条家とはいえ見逃せない、というのが排除派の主張だ。」
西条直影は沈黙し、警視総監の次の言葉を待つ。たったこれだけを伝えるためにわざわざ電話してくるとは思えなかったからだ。
「ただ、君たち西条家の力は強いから通常逮捕は難しい。かといって警察が直接手を下すのには難色を示す層が多い。」
「結論から言ってくれないか。」
「外部に秘密裏に依頼して西条家を潰す、そういうことだ。作戦が成功したらそれでよし。失敗したら外部の責任にして警察は関係なし、と。」
「…それはいつ」
「今晩。」
「規模は。」
「そこまでは知らないよ。ただ過激派の強行策だから、一回勝負だ。」
「今晩の襲撃をしのげば、問題なし。そういうことか?」
「これ以上は言わせないでくれ。僕にも立場がある。これくらいが限界だ。」
十分すぎるほどの情報だった。立場が危ういにもかかわらず伝えてくれた友人に直影は心からの感謝を告げる。
「なあ、直影。従ってくれるとは思えないけど、娘を差し出すつもりはないか?今なら間に合う。なつみちゃんの暴走、西条家は被害者、そういうストーリーも作れるんじゃないか?」
「ハハ、ありえないねえ。私も随分楽しんじゃったから、今更そんなことしないよ。」
「…はぁ、能力は最高で、人間的にも優れているのに、どうして君ら父娘はそうなんだい?」
「西条家は代々強欲の血筋だからねえ!表の楽しみも裏の楽しみも、貪りたくなっちゃったのさ。」
軽く言うが、直影の言葉は本心だ。今の立場を捨てるつもりは微塵もないし、娘のサポートをやめるつもりも全くない。
「強欲ついでに、君に一つ頼んでいいかい?ひとつ、準備してほしいことがあってね…」
◇ ◇ ◇
「西条先輩!お疲れさまでした!」
「生徒会長!今までありがとうございました!」
多数の生徒に感謝と称賛の声を浴びせられる生徒会長。【ラブ・ファントム】、西条なつみだ。
高校三年の彼女は生徒会の業務と演劇部部長の業務を次代に引き継いだ。
「ハハ、ありがとう!流石にそろそろ受験に集中しないとね…」
沢山の花束、ねぎらいの品を抱えながら帰途につく。
「せ、先輩!」
そんな西条なつみに、大柄な女生徒が意を決して話しかけてきた。
「おや、君は…この前クッキーを差し入れてくれた…」
「お、覚えていてくれたんですか!」
西条なつみはニッコリとほほ笑む。老若男女問わず蕩かす、100点満点の笑顔。
「当然じゃあないか!応援してくれる人を、私が忘れるとでも思ったのかい?」
女生徒は顔を真っ赤にし瞳を潤ませる。
「わ、私、先輩にお礼を言いたくて…先輩、この間言ってくれたじゃないですか、『人はいつだって変われる。君だって、すぐに私みたいになれるさ。』って。」
「確かに言ったね。でもそんな感謝されるようなことでは…」
「いえ!あれで!私は確かに変われたんです!…デカ女って言われるのが嫌でいつも猫背だったんですけど、先輩みたいになりたいって、背筋を伸ばすようにしたんです!」
女生徒は興奮して早口でまくし立てる。
「なんか!なんか景色が違って見えて!周りからもちょっと変わったねって!西条先輩くらいタッパあるんじゃない?って!デカ女とかいじられなくて!私!私!」
西条なつみは花束をいったん床に置き、興奮する女生徒を優しく抱き寄せた。
「やっぱりそれは感謝されるようなことじゃないよ。一歩を踏み出したのは君だ。世界を変えたのも君なんだ。」
とても昨夜まで道満を嬲り殺していた人物とは思えない優しい言葉。
血で汚れ切っているとはとても信じられぬ白く柔らかな腕。
「でも、それでも、君がそう思ってくれているなら素直に嬉しいな。」
「あ!ありがとうございます!私!来年は演劇部に入ります!」
「フフ、いつか君の演技を見れることを楽しみにしてるよ!」
何度でも言う。西条なつみは本心からこれを口にしている。
表の幸せ、楽しみと、裏の楽しみ、幸せ。どちらも十全に楽しみ、味わい尽くす。
この強欲さこそが【ラブ・ファントム】を【ラブ・ファントム】たらしめているのだった。
◇ ◇ ◇
【強欲の宿り木】、森本里実がいつものように園芸部の活動を終え家に戻る。
今日も定時退社命令が下っていた父が出迎えてくれて。
優しい母は温かいポトフを作って待っていてくれた。
たっぷりのジャガイモが豚肉の脂を吸い柔らかい。これにマスタードをたっぷりつけるのが里美は好きだった。
「今日は寒かったからねえ!里美が好きなジャガも多めにしといたよ!」
「うわあ、お母さんありがとー。」
「お姉ちゃん最近遅いよー、先に食べちゃうとこだったよー。」
どこまでも温かい家族の食卓。
里美はこの空間が大好きだった。どこまでも優しくて、ふとした瞬間に泣きたくなるような。
父と、母と、妹に囲まれて。
(家族が増えたら、もっともっと幸せなのになあ)
完全に宿り木に思考を操作されながらも、表向きにはおっとりとした、家族思いの園芸部員のままであった。
「ああ母さん、最近物騒だからねえ、ちょっとニュースつけていいかい?」
「食事中にテレビなんて…って言いたいけどねえ。まあそういう理由なら全然いいわよ。」
付けたテレビでは、緊急の会見が行われていた。
その会見を、森本里美はぎらついた瞳で見ていた。
◇ ◇ ◇
「ハフ!ハフ!」
【針鼠】、金岡かがみはこじんまりとした居酒屋で茹でたての蟹にしゃぶりつく。
蟹は偉い。蟹は無敵だ。美味しいから偉い。
焼き蟹は殻の香ばしさがたまらない。
蟹のてんぷらは衣のさっくりした感触と溢れ出るジューシーな汁のギャップが好きだ。
刺身にしてねっとりした甘味を舌の上で遊ばせるのもいい。
そのどれもが日本酒とベストマッチ!ほんのわずかに感じる生臭さも日本酒の甘い香りと合わさると海の香りに早変わりだ。
でも、私は何より茹でたての蟹が一番だと思っている。
蟹自身の旨味、香り、絹のような舌触りを一番堪能できる食べ方だと確信している。
そうして蟹に夢中になりながら、波佐見・ペーパーストンの忘れ形見である『献身的な新聞社』に目を通す。
そこには昨日の山中での私と波佐見の死闘が記事になっていた。
そして、それ以外にも目を引く記事がちらほら。
(うお…【殺る王】死んだの?あと二十年は老害してそうだったのに…)
(【謎掛】死んだ!?新宿半壊!?オイオイ政府は何やってるんだよ…私が言う事じゃないけど。)
大量の有益な情報が飛び込んでくる。そして最後のページで金岡かがみの目は大きく見開かれた。
『としまえんで対象殺戮。【元祖ジャック・ザ・リッパー】死亡。【ラブ・ファントム】が二代目継承か!?』
首筋がチリチリと熱くなっていく感覚。
正直なことを言えば、金岡かがみにとってジャックの称号はたいして興味のあるものではなかった。
しかし、波佐見から受け継いだものを、こうもすぐさま無視されて、いい気分にはならなかった。
どうしてくれようか。そんなことを考えていると、居酒屋のテレビに緊急会見が大きく映し出された。
◇ ◇ ◇
「大姨妈、もう同盟は終わったはず。何故呼んだ。」
新宿、歌舞伎町。
裏路地から雑居ビルの地下へ降り、四層八階十六部屋の厳重な封印を施された謁見の間。
この街の夜を支配する女王、夜魔口吸血と再び対面するは【黒星】。
「フフ、おせっかいかもしれないけど、殺人器。これからの予定は決まっているのかい?」
「無問題。お前には関係のない話。」
「そっけないな。ではこちらも単刀直入に言おう。夜魔口に入って、【黒鬼】の後を継がないか?」
「断る。自分はなれ合う気、ない。」
その答えを予想していたのか、吸血は余裕を崩さない。
「『無体』の居場所を教えると言ったら?」
対して【黒星】は大きく動揺した。
「【黒鬼】の悲願でもあったから。夜魔口では独自に探っていた。その結果、かなり確度が高い情報が来てね。」
「…誰。どこに。」
「返事が先。」
「…了承。勿論いつまでもいる気はない。けど、今だけ、夜魔口に。」
にんまりと妖艶な笑みを吸血は返す。
「【黒鬼】の奴、『呪い子』にも居場所は必要っていつも言ってたのよ。気に食わなくなったら出てっていいからさ。」
そう言いながら、吸血は一枚の写真と資料を【黒星】に投げた。
そこには雌獅子を思わせる漆黒の女生徒が写っていた。
「【ラブ・ファントム】、西条なつみ…!こいつに『無体』が憑りついている可能性が非常に高い…!」
【黒星】は写真を穴が開くほど見つめる。こいつが、仇。『無体』の宿主…!
「早速だけど、【黒星】。兵は神速を貴ぶ。今日、こいつを潰すよ。」
「今日!?」
「西条家はやりすぎたのさ。運命ってのはあるもんだねえ。【謎掛】討伐成功の実績を買われて、西条家殲滅の依頼をお上がしてきたんだよ。」
ただしそれは今晩のみの電撃作戦。そこには警察内部の複雑な事情があるらしいが、道具たる【黒星】には関係なかった。
ただ道具としてあるがままに。殺人器として。『無体』を討つ。
そう決意を固めたところに、組員が入り込んできた。
「ボス!至急です!テレビをつけてください!」
言われるがままにテレビをつける。
そこには緊急会見が流されていた。
薄暗い閲覧の間で、【黒星】はその内容に釘付けになっていた。
◇ ◇ ◇
西条家地下。
使用人たちが集められる。
警備主任の守下、シェフの小泉、家政婦の妙子、その他SPの面々。
使用人たちを前に西条なつみは赤ワインをこくりと飲み込む。
「お嬢様、まだ未成年なのですから、アルコールはやめるようにと何度も…」
守下の忠告を軽く受け流す。
「フフ、その文句はお父様に頼むよ。これを教えたのはお父様なんだから。なに、海外なら18は合法さ。」
「いやいや、ここは日本です。そういう理屈は私には通じません。」
「チェッ、相変わらず堅物だなあお前は。…少し緊張してるんだ。一杯くらい許してくれよ。」
ぐいっとグラスのワインを飲み干す。軽く紅潮した頬はひたすらに艶やかだった。
「さてみんな、もう既に聞いたと思うが、今晩、西条家は襲撃を受ける。私の趣味を快く思わない方々からの襲撃だ。」
一つ間を開け、使用人たちの顔を見渡す。
「当然私は迎え撃つつもりだ。ただ…みんなは逃げてもいい。あくまで私の趣味だから。今なら間に合う。恥じなくていい。少しでも嫌なら逃げてくれ。」
誰も動かない。出ていく気配どころか、緊張感もない。軽い笑い声すら聞こえた。
「お嬢様、今更そんな話は無しでしょう」
「そうそう、俺たちとっくにイカれちまってますから!」
「お嬢様ほどじゃないけど、私たちも楽しかったんですよ?」
「それに何より、まだお嬢様に食べてもらってないんですよ!?」
警備主任の守下も口を開く。
「お嬢様、悪いことの楽しさ、それを教えといて、今更好きにしろとは、無責任というものかと。
金で動く兵隊を何人も呼び寄せました。派手にやりましょうよ。勿論、死ぬ気はないですが。」
「…ありがとう。私は果報者だよ…。じゃあみんなに見て欲しいものがある。テレビをつけてくれ」
◇ ◇ ◇
【緊急会見!西条家に殺人鬼との癒着疑惑!】
「あの西条家当主が、最近巷を騒がせている殺人鬼騒動に関わっているとの情報が各種報道機関に送られてまいりました!」
「信頼度の低い情報だったのですが、直後西条家当主、西条直影氏より記者会見を開くとの連絡が!」
「まさか本当に関わっているのでしょうか!?関わっているとすればどれに!?」
「それが池袋であろうと新宿であろうととしまえんであろうと、民間への被害は甚大です!」
「あ!直影氏が出てまいりました!氏は何を語るのでしょうか!」
騒然とする報道陣を前に、西条直影がゆっくりと語りだす。
「皆様お集まりいただきありがとうございます。本日集まっていただきましたのは、潔白を証明するためです。」
「潔白とは!?どういうことなのですか!?」
「数日前より我が家に、殺人鬼と関わっているという根も葉もない中傷がされるようになっておりました…。
無視をするつもりでしたが、独自のルートから、その中傷が報道各位にも行われると知ったのです。
痛くない腹を探られるくらいならば、こうして表に出て、全くの与太話であると言いたかったのです。」
「関わっていないという証拠はあるのですか?中傷してきたものに心当たりは?」
続々と出てくる質問に対し、いったん落ち着くように直影はジェスチャーする。
そうして、まず言いたいことがあるといい、カメラを自分の真正面に持ってきた。
「殺人鬼に告げる。私は二代目だ。秋葉原で待つ。以上だ。」
――それは、全国電波を使った、殺人鬼たちへのメッセージだった。
◇ ◇ ◇
「二代目?よく分からないわねえ」
「まあまあ母さん、偉い人の考えることなんて私たちには分からないよ。里美もそう思うだろ?」
「…うん、ソウダネ。」
――秋葉原。そこなら家族が。
「二代目…!随分大胆に喧嘩売ってくれるじゃないの…!」
金岡かがみが席を立つ。
「大将、ご馳走様!」
会計が終わった後、急に金岡かがみは大将に話しかけた。
「大将!じゃんけんポン!」
そう言って、さっきまで食べていた蟹の鋏をみせた。
「え?なんですかい?」
困惑しながらも大将の繰り出したのはグー。
(チェッ、あの子みたいにはいかないね。…秋葉原、か。)
「…西条家、当主の方も頭がぶっ飛んでるねえ。こんな大胆な宣戦布告するなんて。」
「秋葉原…そこに!『無体』が!」
「うちの組員連れて行きな。【黒鬼】の分まで暴れておいで。」
「言われるまでもない」
秋葉原が、戦場となる。
◇ ◇ ◇
夜の秋葉原。
【黒星】が夜魔口組を引き連れて進む。
冬の空はどこまでも澄み渡り、深く、青く、殺人鬼どもを見下ろしていた。
月はひたすらに白く、煌々と電子の街を照らし上げる。
どうやら夜魔口吸血の情報は確かだったようだ。酷く“ざわつく”。
肌が、精神が、今まで培ってきた勘が、“当たり”だと告げている。
厳戒態勢につき無人の大通りを真っすぐ突き進む。
どこまでも静かな世界。
その世界を、普段は街の情報を伝えたり、何か警戒事項があった時に使われるスピーカーが突き壊した。
突然、音楽が鳴り始めたのだ。オペラヴォーカルと、特徴的なストリングスが響き渡る。
澄み切った静けさと、これから何か始まるという高揚感に満ちた前奏。
【黒星】は音楽に詳しくはないからこの曲が何かよく分からない。
しかしなんとなく好きな曲だな、とは思った。
有名な曲なのだろうか、組員たちは次々と流れる音楽に反応し始めた。
そうこうするうちに、前奏が終わりをつげ、英語の台詞が流れ始めた。
それは、この上もなく明快な、宣戦布告であった。
You must know what I am.
I must tell you what I've been loving.
I'm nothing, lifeless, soulless.
Cause I'm "Love Phantom".
『LOVE PHANTOM』
B’z
金属的なハイトーンボイスのボーカルをバックに、【ラブ・ファントム】、西条なつみの一団が現れた。
互いに向かい合う。
ひりひりと、血が冷たくなるような緊張感が走る。
「最初に、聞く。」
口火を切ったのは【黒星】。
「お前、『無体』か?」
必要最低限の簡素な問いかけ。しかしその問いにはすべての感情が込められていた。
「『無体』というのは知らないけど…三か月くらい前かな?悪い人を美味しくいただいた時についてきたやつのことかな?」
何でもないことのように、西条なつみは肯定する。
「フフ、これがついてから少し冴えていてね、なんとなくだけど先が見えるようになったんだ。」
吸血鬼の呪いは宿主になんらかの影響を与える。西条なつみに対しては、ごく低確率で起こる未来視であった。
これがあったからこそ、不確定要素の多い乱戦であった渋谷と遊園地をほぼ無傷で勝ち上がってきたのだ。
勿論本人の素養も大きい。元来の冷静さ、残虐さと『無体』はこの上なくしっかりと噛み合っていた。
「好、話が早い。一応言っておく、こっちの組員は魔人じゃないけどプロ。そっちに勝ち目は薄い。それでもやる?」
「やっぱり降参します、って言ったら聞いてくれるのかい?」
小さな笑い声が両陣営から漏れた。
今更。今更この場まで来ておいて、怖気づくようなものはいない。
「――上等。殺人器。【黒星】。道具は道具として。ただ殺す。」
そこに正義はなく。そこに快楽はなく。そこに倫理はなく。
「そうあれかし」と定められた使命のために。
「殺人鬼。【ラブ・ファントム】。西条なつみ。自分自身のため、裏も表も味わうため。君をいただく。」
そこに正義はなく。そこに理性はなく。そこに倫理はなく。
「ただこうしたい」という正直すぎる欲求に従って。
撓み切った板がはじけ飛ぶ寸前のような極低温の世界。
そこに。
「園芸部員。【強欲の宿り木】…って呼ばれています。森本里美。世界中をお花畑にして、たくさんの家族と一緒に暮らすため。」
もう一つの災厄が投げ込まれた。
◇ ◇ ◇
家族、家族、家族!なんて素敵な響き!
家族がいれば幸せ、一人より二人、二人より三人、三人より四人。
そしてなんてことでしょう!世界は家族候補に満ちている!
何てキラキラした世界!素晴らしい世界!
さあ、家族になりましょう!いっしょにお花を育てて!どこまでも平和な世界にしましょう!!
既に、森本里美の脳髄にはしっかりと寄生樹の根が張り巡らされていた。
思考にはバグが混ざり、快楽中枢を刺激されて常時トリップ状態。
麻薬も真っ青な快楽物質垂れ流し。
家族を。ただ家族を!
それはただの繁殖欲求なのだが、里美にはそれと愛の区別がもうつかない。
だから当然のように、あの路地裏でしたように、周囲のビルの間に、根を張り巡らせた。
「引けーーーー!!」
「一時撤退!!コイツから離れる!」
西条なつみと【黒星】の叫びが響き渡る。
瞬間、組員と西条家は散り散りに逃げた。
複雑な電子の街秋葉原。
ダンジョンでも作成するかのように張り巡らされた植物たち。
散らばった各種構成員。
ゲリラ戦が、始まる。
◇ ◇ ◇
「こっちにいたぞ!撃て撃て!」
「狭いとこ行くな!樹に不意打ちされたらたまったもんじゃねえぞ!」
夜魔口組員が走る。
新宿を守るため。自身の居場所を確保するため。矜持を示すため。
国家なんて枠組みのために走狗になるのは癪だが、西条家を打破して大切なものが守れるなら悪くはない。貸しを作れるのなら上々だ。
そう感じて夜の秋葉原をただ走る。【強欲の宿り木】から身を躱しながら、西条家の人間に狙いを定める。
そんな組員の目の前に、まさに標的たる西条なつみが転がり込んできた。
夜に溶け込む漆黒のセーラー服。黒のストッキング。切れ長の瞳に雌獅子を思わせる凛とした空気。
急に現れた標的に対し、驚きながらも冷静に銃を構える。魔人の格闘能力、身体能力倍化による強襲、それを恐れながらも銃を構える。
しかし、予想とは裏腹に、西条なつみは襲い掛かってこなかった。それどころか、弱弱しく地面に崩れ落ちたのだ。
それは魔人とは思えない脆さ。脆弱さ。まるでただの女子高生のようであった。
「あ…やめて…撃たないで…違うの…私は…違うの…」
控えめに紡ぎ出される言葉。潤んだ瞳。こんなにも儚い存在に問答無用に銃弾を撃ち込むことはできない。
夜魔口組の組員は、一定以上の常識、誠意を持ち合わせていた。
「お願い…!信じて…!私は悪くないの…!別の人に騙されたの…!」
そんなはずはないと否定しようとしても、西条なつみの言葉が心地よく脳髄に染みわたる。
“演技力”と“説得力”を『バイ・クイーン』により二倍に。
普通であれば信じない言葉が、夜魔口組組員の精神に突き刺さるように入り込んでいく。
「ああ!優しい人がいてよかった!…貴方は正しい人…!か弱い人を切り捨てない人…!」
その通りであると、脳が認識を強める。西条なつみの心地よい言葉に、従ってしまえと脳髄が指令を下す。
そうではないと、こいつは夜魔口組の敵だと思い込もうとする組員の手を、西条なつみはしっかりと握る。
「【黒星】が何をしてくれたの?信じていいの?命をかけていいの?アレは正しいの?…私を信じてよ…!」
潤んだ瞳。湿った唇。紅潮した頬。全てが組員の心を蕩かす。
「人を信じることは素晴らしい・・・!それこそが人の正しさ…!そう思うでしょう!?」
組員の手を握ったまま、“人を信じる誠実な気持ち”を二倍にする。西条なつみの言葉が急速に夜魔口組組員の心身に広がっていく。
組員は、気が付いたら西条なつみの手を握り返していた。華奢で、震えている白い手。
こんなにも弱弱しい存在が、国家が打破すべき相手?夜魔口組の敵? ――馬鹿げている。
「…自分を、殺人器だって、道具だって自称している人の言う事を聞いていいの?あの【謎掛】をどうにかしちゃうような兵器に従うの…?」
ああそうだ。考えてみれば、どうして俺たちは余所者の命令に従っているんだ?
いくら姐さんの指示とはいえ、【黒星】の兄貴をぶっ殺した化け物と、何故仲良しこよしをしなくてはいけない?
ぶっ殺すべき相手は誰だ?
「見せて!貴方が正しいと!私に見せて!お願い!」
西条なつみの言葉を受け、組員は走り出した。雄たけびを上げ、勇敢に走り出した。
「アアアアアアァァァァァ!!」
「おいお前、どうした?西条家のやつらは…ギャブ!」
そして、別の組員を滅茶苦茶に撃ち始めた。
「お!俺が!俺があの子を守るんだああああぁぁぁ!!俺が!ただ一人!守れるんだああああぁぁぁ!!」
残念ながら、それは大いなる勘違い。こうして篭絡された組員はすでに十人目。
ただ一人のナイトどころか、使い捨てのその他大勢としてまた一人組員が命を散らしていく。
“特性を倍にする”
言葉にするとシンプル極まるが、“倍”というのは倍にする対象によって効果が大きく変わってくる。
例えば120キロの重りを持ち上げられる者が、240キロの重りを持ち上げられるようになったら?
確かに凄いは凄いが、現実の範疇の強化だ。
しかし、100mを12秒で走る者が、6秒で走れるようになったら?
それはもう魔人以外では誰も追いつけない。
ならば元々トップレベルであった“演技力”が倍になったら?“説得力”が倍になったら?
それはもはや麻薬、洗脳の領域だ。人間に表現できる限界を超越している。
魔人ならいざ知らず、一般人に抗える術などない。
◇ ◇ ◇
「奇怪的…。数でも質でも上回っているはず。何故膠着?」
【黒星】の疑問の通り、人数も質も上回っているはずの夜魔口組が、押し切れていない。
西条なつみの暗躍と突然襲来した【強欲の宿り木】のことを差し引いても、西条家の者の動きが良すぎるのだ。
(吸血からもらった資料では、『バイ・クイーン』の能力範囲は10m…。全員の戦力増強は不可!)
【黒星】は気が付いていなかった。西条家全員の耳に、ワイヤレスのイヤホンが装着されていることを。
ラジオ会館。明治26年創業の西東書房を前身とする秋葉原のシンボルタワー。
そこの地下三階には千代田区秋葉原防犯センターがある。
秋葉原駅周辺の防犯カメラを一手に管理する施設である。
旧ビル解体に合わせて新たに設置された最新の設備は、非常に広範囲の映像を鮮明に拾い上げる。
その管理センターに、西条直影はいた。
「だ、旦那!直影の旦那!…ハッキングして、カメラの操作権限ゲットしたけど…聞いてねえ!こんな!ヤバい殺し合いに関わるなんて聞いてねえ!」
「ハハ、ちょっと考えればわかるだろう。ただハッキングするだけで、あれだけの大金はおかしいって。」
「イカれてる!あんたら全員!イカれてる!」
直影に金で釣られた技術屋の男はギャーギャーと叫ぶ。
「ふむ。じゃあ仕方ない。」
無造作に拳銃を取り出して、直影は技術屋の顔面に弾丸を三発ぶち込んだ。
「危ない橋だとすら理解できていなかったか。まず間違いなく警察に駆け込むタイプだ。」
少しも慌てず、直影は防犯カメラを操作する。
秋葉原の、戦場の把握は完全になされた。
「守下、そっち進むと樹が待ち構えてるぞ!回れ右だ!」
「妙子さん、右手に組員。ちょいしたら飛び出して一撃!」
「小泉!そっちは危な…ああ!間に合わなかった!」
「なつみ、二ブロック先に孤立した組員。篭絡しよう。」
淡々と、確実に、正確な指示を出していく。
こうして、両陣営の戦力は均衡した。
――つまり、あとは消耗戦という事だ。
開始から一時間。両陣営の戦力はともに三分の一程度になっていた。
◇ ◇ ◇
「他媽的!邪魔!」
自分の戦い方をさせてもらえないことにいら立ちながら、【黒星】は弾丸を目の前の大男にぶち込む。
警備主任の守下は善戦したが、それでも相手にならず。
顔面を柘榴のように砕かれ絶命した。
(どこだ…?『無体』はどこだ!?)
その時、背に猛烈な、ぞわっとするような圧力を感じた。
(『無体』!?)
すぐさま圧力の中心に飛び込んでいく。しかしそれはハズレであった。
中心地にいたのは、【強欲の宿り木】、森本里美。
眼は既に虚ろで、何を考えているか分からない。
「うふふ、家族。家族。家族!」
「お前の相手、してる暇ない。…すぐ決める。」
その宣言の通り。数多の殺人鬼を殺してきた殺人鬼同士の殺し合いは、一瞬で決着がついた。
【強欲の宿り木】が樹木を鞭のようにしならせ、【黒星】を打ち据えにかかる。
それを、『灰色の武器庫』は無効化する。
思い込みによって自身の肉体すら武器と認識できる【黒星】である。
樹の鞭を、樹の槍を、種の弾を、武器と認識するのは容易であった。
つまり、【強欲の宿り木】の攻撃は、全て『灰色の武器庫』の前には無力化される。
片っ端から攻撃を武器庫に放り込み、あっという間に里美のそばに近づいた。
熟練の手並みで撃ち込まれるのは水銀弾。人体内部で爆散し、毒性を散らす殺傷性の高い特殊弾。
脳髄、心臓、肝臓に一発ずつぶち込まれる。
しかしこの必殺の三点撃ちも、【強欲の宿り木】には通じない。
【殺る王】との戦いでは、貫かれた心臓に代わり血液を送り込んだ。
今度はそれの逆をやるだけ。毒性を吸い出す。それだけ。
それだけのはずだった。
森本里美は、自らの意志で、寄生樹を切り離した。
全体を広く覆うように根を展開していたせいで、里美内部の根は大分少なくなっていた。
故に切り離せた。故に残り少ない体内の樹木は水銀弾で死滅した。
故に。森本里美は。絶命した。
それは自殺ではない。里美にとっては自然なことだった。
足元に花が咲いていたら、踏まないように避けるように。
風で倒れている草花があったら、これ以上ダメージが無いよう支えてあげるように。
園芸部員として、植物を愛するものとして、当然の判断。
(このまま毒を吸い上げたら、私の周りの植物さんたちが傷ついちゃうなあ。)
それだけの素朴な気持ち。
特に何も考えず、寄生樹を守るため切り離し、そのまま息絶えたのだ。
秋葉原を覆う寄生樹がざわめく。
里美にとって寄生樹は紛れもなく家族であった。
では寄生樹にとって、里美はどうであったのか。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ
秋葉原全体を振動音が響き渡る。
寄生樹は宿主が亡くなったことにより、シュルシュルと縮んでいった。
新たな宿主を求め、残りの生命力を使えば生き残る確率はあったかもしれない。
しかし寄生樹はそれをしなかった。
オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ
その振動音は、宿主への、家族へのレクイエムだったのかもしれない。
慟哭だったのかもしれない。
【黒星】には分からなかったし、興味もなかった。
◇ ◇ ◇
『なつみ!【強欲の宿り木】は、【黒星】が仕留めた!』
西条なつみのイヤホンに、父親からの指示と連絡が入る。
『ただ、もう相手もこちらも戦力は僅かだ。守下も散った。』
「…ありがとうございます。お父様。【黒星】は負傷を?」
何かを言い出したいのをぐっとこらえて言葉を紡ぐ。
『いや、ほぼノーダメージであの化け物を下した。とんでもないぞアレは。正直、こちらでアレの相手が出来るのはなつみだけだろう。』
「分かりました。では対策として…」
ゴン!ガン!
会話を遮る破壊音。
「…お父様?」
『なつみ…信じて欲しい。本当に、本当に楽しかったんだ。…愛してるよ。ギャブ!!』
あまりにも不穏な空気と共に通信が途切れた。
「お父様?お父様!?」
叫んでも返ってくるのは沈黙のみ。西条なつみは、それが悪手だと薄々感じつつもラジオ会館に駆けだした。
地下三階の防犯センターに向かうまでもなく、何が起きたかは明らかになった。
ラジオ会館入り口。仁王立ちする赤ランドセルの女。
【針鼠】、金岡かがみだ。
「…漁夫の利、しようと思って見てたらさぁ、あからさまに西条家の方が動きいいんだよね。どう考えても情報得てる。」
コキリコキリと首を鳴らす。
「防犯センターは知ってたから、そこにお前いるかなって思ったけど、ハズレだったわ。」
無造作に、西条直影の頭をなつみの足元に転がした。
「あのカメラ設備凄いな!『ダークナイト』かって感じだ!」
一瞬、ほんの一瞬だけ西条なつみの瞳に憤怒の影がちらついたが、すぐに鎮火した。
自身を御すること、それが【ラブ・ファントム】の強みであり、それが出来なくなった時が敗北の時だと西条なつみは自覚していた。
だからこそ、逆にゆっくりと笑う。にいと笑う。
金岡かがみを真っすぐ見つめて、西条なつみは、ゆっくりとVサインを作って見せた。
そのVサインをくるりと回し、手の甲を見せつける。そのまま中指と人差し指をクイックイッと軽く曲げた。
(私が二代目だ)
(かかってこい)
言葉にするよりもはるかに雄弁なジェスチャー。これでもかというほどの挑発。
「…!上等…!」
ここに、ジャックを受け継ぐものを賭けた死闘の幕が切って落とされた。
◇ ◇ ◇
開戦と同時に、西条なつみは逃げ出した。
逃走力を倍にして、一気に駆けていく。
「んな!いきなりかよ!」
一瞬で『鉄導徹毗』の能力範囲外へと飛び出した。
追おうとする金岡かがみに対し、小箱が投げられる。
『バイ・クイーン』の能力は西条なつみから10m以上離れれば強制解除される。
箱の能力が解除され、大量の唐辛子の粉が巻き散らされた。
「うお!痛!クソ!少し目に入った!」
少しひるんだすきに一気に距離を取る。
そうして向かった先は、駅近くの総合ショップ、ビッグカメラであった。
「多分罠、だよな。だけどよぉ~、家電に囲まれた空間に逃げるってのは、下策だぜ!」
鉄に囲まれた密閉空間。それは【針鼠】の土俵なのだから。
「ウオラアアアアア!!」
豪快に、壁を、エスカレーターを、家電製品を、内部の鉄分を作り変えて崩壊させていく。
必死に逃げる西条なつみを、どんどんと追い詰める。
この有利に感じさせることが罠かもしれないと疑ったが、その疑念を金岡かがみは削ぎ落した。
何故なら『バイ・クイーン』は単純な力押しに分が悪い。
波佐見・ペーパーストンの忘れ形見、『献身的な新聞社』にはここ数日の殺人鬼同士の争いについて記載があった。
当然、殺人鬼五つ巴などという渋谷の大激戦を制した西条なつみについての記載もあったのだ。
(何かをする前に潰す!それが最適解!)
逃げ場を無くした西条なつみは、袋小路の駐車場に飛び込んだ。
(そこはもうデッドエンドだぜ…!?)
何か、を疑いたくなる猜疑心を振り払い駐車場に踏み込む。
車のジャングルに囲まれた駐車場はまさに金岡かがみのフィールド。
となれば、無暗に車を破壊し、煙や炎など視界を遮るものを生まない方がいい。
西条なつみを目視次第全力攻撃。
そう決意した金岡かがみは、駐車場の奥で目に飛び込んできた光景に、ヒュッと一つ息をのんだ。
追って追って追いついたその先で、【ラブ・ファントム】西条なつみは、命乞いの土下座をしていた。
惨めに、無様に。地面に額をこすりつけ、手は祈りの形。完璧なまでの命乞いだった。
「おね、お願いします…私では貴方に勝てまぜん…お願いだから…殺さないで…やめ、やめて…」
酷くか細い声がフロアに響き渡る。その声にはひとかけらの矜持もない。
泣いているのか、鼻声で繰り出される命乞いは不明瞭で聞き取りにくかった。
地面に額をこすりつけているので表情までは読めなかったが、その顔面は涙と鼻水で醜く濡れているのだろう。
そう確信できる、ひたすらに惨めな命乞いだった。
「わた、私、本当に何も、何もしていないんです…。お願いですから、助けて…」
どの口で!と言いたいところだが、その言葉は妙に深く金岡かがみの心に突き刺さる。
こんなにもちっぽけで、弱弱しい存在を、わざわざ潰さなくてもいいのではないか、そんな気持ちが沸き起こる。
ぐらりぐらりと心が揺らぐ。見逃してやれと耳元で声がする。
(なるほど、これがコイツの厄介なところか。演技力や説得力を倍化しているのか?)
しかし、その心の揺らぎすらも、金岡かがみは制してみせた。
『献身的な新聞社』に記載されていた『バイ・クイーン』の能力を思い出す。
『バイ・クイーン』で倍化できるものは数値化できるものばかりでないという事は既に把握している。
(確かに変幻自在で恐ろしい能力だが…種が割れていれば大したことはない…!)
確かに目の前の土下座を続ける少女は無力な一般人に見える。
同情心をかき乱される。だがそれがどうしたというのだ?
忘れてはならない。金岡かがみは殺人鬼なのだ。
グチャリと軽い音とともに、鉄槍が土下座を続ける西条なつみを背中から一気に貫いた。
血が勢い良く溢れ、ビチャビチャという音とともに床を深紅に染め上げる。
まるで銛を用いる漁師が魚に対してするように、ぐいとそのまま吊り上げる。
あばら骨が自重でベキベキとへし折れる。肺に血が入ったのか、ガボガボと汚らしい音を立てて口から血の泡が出る。
そして、ズルリと何かが床に落ちた。
――それは、黒いロングヘア―のウィッグだった。
金岡かがみの目前に吊り上げられた女生徒は、見知らぬ誰かであった。
「…!??…な!?」
瞬間、首筋にプツリと冷たいものが走る。
「命乞いを続ける女生徒を殺害?あれほど泣いて許しを請う女性を?いけないなあ、君は実に悪い人だ。」
「…お…が…」
【新人類】すら一瞬で地に伏すほどの強烈な筋弛緩剤。
金岡かがみは一切抗えず、重力に負ける形でぐしゃりと倒れ込んだ。
同時に、身代わりにされた女生徒も床に投げ出された。
夜祭の路上に転がる金魚すくいの金魚のように口をパクパクとさせる。
「セ…センパイ…ど…して…」
それは、西条なつみに憧れていた、大柄な女生徒であった。
「ああ、秋葉原は流石だね。質のいいウィッグが揃っている。あとは君の“西条なつみらしさ”を倍にすれば出来上がりという寸法さ。」
「これ…撮影だって…本物みたいで怖かったけど…途中で止めてくれるって…」
「ああ、それは嘘だよ。ここぞの切り札に君を連れてきていたんだ。信じてくれてありがとう。言いつけ通りに待機してくれたのも完璧だ。」
何でもないことのように、それは嘘だとあっさり述べた。
敵対する組員ですら一瞬で篭絡する西条なつみにとって、自分を慕う者を操るなど朝飯前だ。
にもかかわらず西条なつみは、心の底から、信じてくれてありがとうと言った。
「いや、でも全てが嘘じゃあないんだ。最初に会った時に言っただろう?
『人はいつだって変われる。君だって、すぐに私みたいになれるさ。』
ってね。ホラ!さっきまで私みたいだったじゃあないか!」
夜の秋葉原に西条なつみの高笑いが響く。
(ああ、チクショウ…!確かにコイツは、私と出会ってから、一言も喋っていなかった…声、全然違うじゃねえか!!)
血中の鉄分を操作することでなんとか解毒を試みようとするが、とても間に合わない。
能力を行使しようとしてもまるで集中しきれない。
そもそもどんな薬物が注入されたか把握していないのだから、間に合うはずもない。
なんとか言葉を紡げる程度に緩和するのが精いっぱいだった。
「視力を…弱めてきたのも…これ狙い…細かな違いに気が付かないように…」
「ご名答!…もう喋れるのかい?いやはや、凄いね、凄い人とばかり出会う。素敵な夜だ。」
軽口をたたきながらしゅらりとナイフを取り出す。
「どう考えても私より強い相手には、こういう手で一撃決着が一番さ。本当は君とも色々したいんだけど…嗚呼、らしくないな。うまく言葉が出てこない。」
ふう、と一つ息をする。
瞬間、西条なつみの瞳がギラリと光った。その光は紛れもない、燃えるような怒りの光。
演技の仮面を外し、純粋な激情をもって金岡かがみにとどめを刺そうとする。
「久々に、殺したいから殺す。ただ君が憎い。さっさと死ね。お父様のところに送ってやる。」
「…ハハハハ!カニバリスト抱えたイカレ家族が人並みに愛を語ってんじゃねえよ!」
「どうとでも言え。西条家は強欲の血筋。表の楽しみも裏の楽しみも享受する。そして何より。
――私には、穏やかで、優しい父だった。」
もはや会話は不要とばかりに、西条なつみから表情が消える。
一切の遊びなく、金岡かがみの命を刈り取りにかかる。
この状況からの逆転はありえない。それを理解しながらも、金岡かがみは力を振り絞る。
最後の、渾身の作業が、無意味だなんて分かっている。
それでも残った力を右手に込める。
金岡かがみには、仕留めるために近づいてくる左の手のひらが、やけにスローモーションに見えた。
「じゃんけんぽん!」
手のひらが見える状態。つまり西条なつみの手はパー。
当然繰り出したのはチョキ。全身全霊のチョキ。勝利のVサイン。
西条なつみの、整った顔が怪訝そうに歪む。
何をしたいか分からないという困惑が一瞬浮かぶ。
私にだってなんでこんなこと意味があるなんて思っちゃいない。
それでも、これで“私たち”の勝ちの気がするんだよ。“二代目”さん。
ざまあみろ。
白い綺麗な手が金岡かがみの口を抑える。
次の瞬間にはナイフが喉元に深く突き刺さり灼熱の痛みが走る。ランドセルと同じ鮮やかな赤が周囲を染めた。
(いやいや、こっち来るの早すぎでしょ。)
黄金色の微睡。その続きを見れるのが、案外早く来たことに自分でも思いのほか満足していた。
◇ ◇ ◇
よぉ、金岡かがみだ。愛国者でもなければ一八八九代目でもなくなった方の金岡かがみだ。
こだわりってのは厄介なもんだな、知っての通りケジメをつけにいった東京で私の人生はご破算だ。
あの子が存在した証であるジャックの称号なんて、私には無価値だったから二代目なんて無視すりゃあよかったのにな。
残念ながら、無価値だけど無意味ではなかったんでね。
妹との件に決着をつけて、石積さんに落とし前つけて、そこで殺し合いの螺旋から抜けていれば、今頃静かにベッドで寝てたのかな?
仕方ないだろ。一度武器を握った人間にとって、この世界は酷く狭くなってしまうものなのだから。
これ以外の生き方なんてできなかった。その上で力不足だった。それだけさ。
『それじゃあ、次があったら別のページで待っててくれよ。』
…なんて言葉でお別れしたかったんだけどな。どうやら私に“次”はないみたいだ。
それでも、それでもさ。“私”はこう言って別れたいんだ。完全な自己満足だって分かってるよ。
ほんの数秒だ、悪いけど付き合ってくれ。
それじゃあ、いつかまたどこかで。おやすみ。
金岡かがみにして綿塚朱音。【針鼠】。
◇ ◇ ◇
静かな、静かな夜だった。
とてもここで凄惨極まる殺し合いがあったとは思えぬ、奇麗な夜だった。
やってきた夜魔口組の組員は皆死に果てた。
篭絡され、樹木に吸われ、素人に殴られ、皆皆死んでいった。
西条家の関係者も死に果てた。
当主も、SPも、警備主任も、コックも、運転手も、金で雇われた荒くれも。
皆皆死んでいった。
もはやこの秋葉原に立っているのは二人だけ。
【黒星】
【ラブ・ファントム】
数多の死体を踏みつけて、正義も倫理も何もなく、殺し合うために、大通りで向かい合った。
「嗚呼、本当に、本当に嫌なんだけどね…」
西条なつみは両手のひらを合わせた。それは、まるで祈りの形。
「真っ向勝負といこうじゃあないか…!『バイ・クイーン』!」
能力全開。世界への認識を操作。私は出来ると強く念じる。
西条なつみは、倍化能力を倍にした。
「これが私の切り札…!身体能力…四倍…!!!」
瞬間、疾風のごとき速さで【黒星】の懐に飛び込んだ。
「…!速…!」
【黒星】の『灰色の武器庫』は武器ならば無造作にノータイムで収納してしまう。
その圧倒的な防御性能を打ち破るには、武器を用いない徒手空拳がシンプルだ。
勿論、格闘技術という点で西条なつみは【黒星】に圧倒的に劣る。
所詮は運動神経が多少良い程度の女子高生。魔人であることを差し引いてもプロの殺手には及ぶべくもない。
そんな当たり前の摂理を、四倍という暴力的なまでの補助がひっくり返す。
元々体格は優れていない【黒星】を体格と膂力で打ち崩しにかかる。
「シィッ!!」
上から叩きつけるような猛烈なローキック。【黒星】は一つ飛び跳ねてギリギリで躱すが、それは悪手だった。
「空中では!躱せないだろう!」
それでも通常ならば問題なかった避け方であろうが、何せ西条なつみは四倍の速度を保っているのだ。
自らの失態に気が付いた【黒星】は瞬時に意識を切り替え、空中で銃を乱射する。
しかし銃弾が通る先は虚空。【黒星】の想定以上のスピードで躱し切り、いまだ空中にいる痩躯に、力任せに拳をぶち込んだ。
「ウッッッッダラアアァァァァ!!」
【黒星】のど真ん中を拳が貫く。
青百合高校の生徒が今の西条なつみを見たら目を丸くするだろう。
普段の優雅さ、余裕はかけらもなく、汗と埃と血にまみれ、我武者羅に拳を振るう。
「渋谷だろうが!遊園地だろうが!秋葉原だろうが!勝つのは!最後に立っているのは!この私だああぁぁぁ!!」
吹き飛んだところに追撃。上背を活かして降り注がれる嵐のような拳。
(他媽的!想像より大分強い!重い!距離を…取らなくては!)
【黒星】は自己認識を始めた。
自分は武器である。
【黒星】は武器である。
自分の『灰色の武器庫』は、武器を収納する亜空間能力である。
そんなはずはない、という、脳の当然の反論を否定する。
武器は心臓を動かすのか、という、肉体の当然の反論を棄却する。
自分は武器である。
【黒星】は武器である。
何度も自己認識を繰り返す。
自分の『灰色の武器庫』は、武器を収納する亜空間能力である。
故に。
黒星は、『灰色の武器庫』に収納されうる資格を持つ。
そうして、亜空間に逃げ込もうとした【黒星】の頬を、西条なつみが撫でる。
「“性感”四倍…!」
「うぁ!?」
性的刺激に未熟な【黒星】を甘い刺激が襲う。
下腹部がずくんと熱を持ち、粘ついた液体が下着を穢した。
頬が紅潮し、冬の秋葉原に白く熱い吐息がほうと漏れた。
当然西条なつみは【黒星】が性的な事柄に初心だなんて知らない。
ただ、自身を道具と思い込もうとしているなら、生物としての本能を呼び起こしてやろうとしたのだ。
“子を産むための欲求”など道具にはありえない感情だ。
道具としての自己認識が乱れた結果、亜空間への逃亡は不発に終わった。
「う・・・うぐああああぁぁぁぁぁぁぁ!!」
半端に亜空間に入り込んでしまっていた代償。
【黒星】の右腕だけ、亜空間に取り残された。ミチミチと嫌な音を立てた後、ぶちりと軽い音と共に右腕は消失した。
「う・・・あ…はぐぅうう…」
「はぁ…はぁ…これで、詰みのよう、だね…」
血に倒れ、悶絶する【黒星】を息を荒げ西条なつみが見下ろす。身体能力四倍は負担が大きかったのか、派手に肩で息をする。
「…まだだ!」
『灰色の武器庫』発動。亜空間の入り口が開き、様々な武器が襲い掛かる。
しかし、捉えきれない。【黒星】が至近にいる関係で使える武器は限られている。
そうした制限がある中で身体能力を四倍にした魔人を仕留めるのは至難であった。
弓を躱す。銃弾を躱す。短刀を躱す。
四倍化した身体能力があれば、不意に現れる武器であっても対応できる。
それは所詮遠隔操作。応用力に欠けた直線的攻撃に過ぎない。
――そう思っていたのは奢りだったのか。
ぬらりと、中空に現れたモノに西条なつみは目を丸くする。
亜空間から出てきたのは、紛れもない【黒星】の右腕であった。
完全に予想外であったものの出現に、西条なつみは一瞬混乱した。
そして、その一瞬を見逃すほど【黒星】は甘くない。
現れた右腕は瞬時に西条なつみに掴みかかった。
「な…!?馬鹿な!君の能力では武器しか収納できないはず…!」
「孤注一掷。上手くいった。よく見ろ。」
掴みかかってきている【黒星】の右腕。そこからはチキチキと機械音が響き、ポタリと赤黒いオイルが垂れていた。
「…義手!!」
「师傅に奪われた右腕。本来なら無いのが道理。在るべき姿。大姨妈に頼んで代えてもらっていた。」
西条なつみは知る由もないが、それは【黒星】の見せた細やかな人間らしい感情。
【黒鬼】から受けた負傷を、吸血の力で“なかったことに”したくはなかったのだ。
殺人器を、道具を自称する少女の、微かな人間らしさが、数多の乱戦を制した怪人、【ラブ・ファントム】を討つ…!
「――不要先出示殺手鐗」
カチリという軽い音とともに、西条なつみに掴みかかっていた義手が爆発をした。
◇ ◇ ◇
もうもうとした爆風が晴れた時、路上には左半身が爆散した西条なつみが大の字で転がっていた。
美しかった白い肌は焼けただれ、胸元の穴からヒューヒューと呼吸音が漏れていた。
「あ…おぇ…!うぁあ…」
ビクリビクリと痙攣をする。目に光は失せ、焦点があっていない。
「終わりだ。『無体』。これから宿主を殺す。私に憑依したあとの方法は準備してある。何年この時を待ったか…!」
「ま…待って…最後に…ひ、ひとつ…お願いがあるんだ…聞いて…くれないかい?」
完全な致命傷を負いながら、西条なつみがなんとか言葉を絞り出す。
「…言うだけ言ってみろ。」
「…私を…一口でいいから食べてくれないかい…?」
常人ならば到底飲めない要求だったが、【黒鬼】と【愛人形】を喰らってきた【黒星】には容易な要求だった。
更に言えば、あくまで【黒星】の仇は『無体』であって、宿主になった西条なつみには格別の恨みがあるわけではない。
もはや放っておいても死に逝く命の最期の願い。処刑人のごとき慈悲の心で、【黒星】は目の前の少女を喰らうことに決めた。
比較的綺麗な状態の右半身に噛り付こうと、西条なつみに近づく。
もし何か企んでいたとしても、ここまでの負傷で出来ることは限られている。
素人ならともかく、新宿屈指の殺手である【黒鬼】を打破している【黒星】には苦し紛れの悪あがきは通じない。
それは奢りではなく、紛れもない事実であった。
だから、ソレに気が付くことが出来たのは、【黒星】の今まで培ってきた経験と天性のためであった。
噛り付く直前に、ピタリと動きが止まる。
(妙だ…何か、何かがおかしい?何がというわけではなく、何か、何かが間違っている!)
もうコンマ何秒か早くその違和に気が付いていれば結果は違ったかもしれない。
「嗚呼、本当に凄いな君は。何か、に気が付けたのかい?」
西条なつみの白い腕が、後ろからぬるりと【黒星】の首に回された。
そうして、一切の躊躇なしに四倍の膂力で締めあげた。
ガードのために瞬時に左腕を間に挟ませたが無意味だった。
グギギィという嫌な音とともに、左腕諸共に頚椎がへし潰された。
「ア!ガ!」
ガードはほんの少し、ほんの少しだけ命を長らえさせる効果しかなかった。
(…!?な、何が?何が起きている!?)
確かに爆散したはずの西条なつみが、首が異常な角度に曲がった【黒星】を見下ろす。
西条なつみの左腕は焼けただれ、だらりとぶら下がっている。左目も爆風か破片でやられたのか潰れている。
それでも、先ほどまでの無残な状況と比べれば遥かに軽傷と言えよう。
(何故?何故だ?)
「はぁ、はぁ…無警戒の状態でコレをくらって、あんなに早く違和に気が付ける…それに敬意を表すよ。」
そう言って西条なつみは胸元から小箱を取り出した。
「何が起きたか?これが答えさ!『バイ・クイーン』!解除!」
バチバチバチ!と何箱分もの能力が解除され、小箱の中のモノが明らかになる。
出てきたものは両手足を落とされ、皮をはがれ、無残極まる責め苦を受けた人間。
眼球は既に抉り出され、脳髄はむき出しになり、そこに長い針が何本も突き刺さっている。
イケヒャイケヒャと奇声を上げてガクガクと震えている。
「紹介しよう!ドウマン君だ!」
そう!それは九十九代目芦谷道満!
西条なつみは脳髄に突き刺さった針をぐりぐりと動かす。
「アギ!アギギギ!」
涎を垂らし痙攣を続ける。
「昨日、たっぷり色々したおかげでね、操作方法は大分把握していた…それでも一発勝負だった!陰陽術による認識の操作と誤認!」
(コイツ…『無体』とか関係なしに…イカレてやがる…)
「――不要先出示殺手鐗。よく言ったものだよ。」
そう言うと、“ドウマン君”を地に放り投げた。ぐしゃりと踏みつぶし、路上の染みにする。
「こうしてやる約束だったからね。殊勲者には報酬を、さ。ハハハハハハハハハハハ!」
大きな、よく響く笑いが冷たい夜に響き渡る。
「『無体』?憑りつかれている?関係ない!関係ないんだよ!この痛みも!この衝動も!喜びも何もかも!私のものだ!私だけのものだ!」
どこまでも強欲。どこまでも自分の好きなように。
道具として生きてきた【黒星】にはそれがほんの少しうらやましかった。
そして、『無体』が好き放題にやれていない事実に、軽い笑いが漏れた。
それが最期だった。
【強欲の宿り木】 森本里美:死亡
【針鼠】 金岡かがみ:死亡
【黒星】 :死亡
【ラブ・ファントム】 西条なつみ:生存
◇ ◇ ◇
こんなにも青い夜の下で
◇ ◇ ◇
ボロボロになりながらも、西条なつみは家に戻ろうとする。
過激派の襲撃を退けたはいいが、西条家が大打撃を受けたことに変わりはない。
これからやらなくてはならないことが山ほどある。
マスコミ対策、自身の負傷の治療、父亡き後の運営…
「しかし…まずはシャワーでも浴びて…ゆっくり寝たいな…」
渋谷、遊園地の混戦を制して見せた西条なつみであっても、今晩の激戦は心身共に消耗するものだった。
視界がぼやけ、足元がふらつく。ゆっくりとではあるが確実に進み、秋葉原駅までたどり着いた。
瞬間、ドンという衝撃が全身を揺さぶった。
少し遅れて、痛烈極まる熱さが腹部に走る。
「…え?」
何者かが包丁を握りしめ、西条なつみに体ごと飛び込んだのだ。
消耗しきっていた結果、成す術もなくその刃を受け入れた。
肝臓深くまで包丁がねじ込まれ、ぐりぐりと中身をかき回す。
その痛みをどこか他人事のように感じながら、西条なつみは凶行の主を確認した。
「ヤットの!ヤットの仇…!死ね!化け物!!」
それは、川脇亜里沙。【慈愛のお迎え天使】、黒猫ヤットの飼い主である。
彼女は夫が死に、もう一人の家族であるヤットが無残に死んだことで完全におかしくなってしまった。
【慈愛のお迎え天使】の事件を担当していた本田刑事に話を聞き、自身も執念深く情報を探ることで犯人に行きついたのだ。
「く…!」
ナイフで川脇亜里沙の首を掻き切る。鮮やかな血が吹き出てあっという間に絶命したが、その顔は満足げだった。
(ヤット…あなた…すぐに…そっちにいきますから…)
「…クソ…誰だこいつは?」
殺人鬼の情報を調べ上げていた西条なつみ。一般人について調べたことなどなかった。
それは、一般人には負けはしないという奢りでもあった。
普段であれば傷にならない奢りが、この極限下で牙をむいたのだった。
「コレは…もう助からないな…」
ただでさえ左腕は焼けただれ使い物にならず。
四倍化による消耗は激しく。
そこに肝臓まで達する深い刺し傷。
秋葉原駅の駅舎の壁に背を持たれかけ、大きく息を吐く。
『バイ・クイーン』で治癒能力や耐久力を上げたとしても、自身から命が流れ出る速度の方が早い。
自分自身のことだからこそ、もう完全に助かるすべがないことを西条なつみは冷静に理解した。
「ここで、とは予想外だったけど…最期ならば…するしかないね…」
ぜえぜえと息を荒げながら、西条なつみはナイフの切れ味を二倍にし、使い物にならなくなった左腕を切り落とした。
そして、ぷっくりとした艶やかな二の腕に噛り付いた。これまで散々罪重ねた体を喰らった。
それは、西条なつみの理論からすれば、最上な罪の味がするはずだった。
――沈黙。彼女以外誰もいなくなった秋葉原に、冷たい静けさが広がる。
「フフフ!
『同じくらい罪深い人と出会って、互いに一つになって喰らい合う』?
『互いに最高の素材を差し出し合って最高の最期の晩餐にする』?
ハハ!ハハハハハハハハハハハ!!!」
爆発的な、狂ったような笑い声が響く。
「間違っていた!私が間違っていました!お父様!私は!私はなんて愚かな願望を持っていたのでしょう!」
言うが早いか、再び左腕に噛り付いた。シャグリと心地の良い音が響き渡る。
「こんな!こんな!こんな素晴らしいものを他人に分け与えるなんて!出来るはずがない!」
つるりと白い皮下脂肪は、噛み締めるほどに馥郁たる香りが鼻を通り抜ける。
二の腕にスラリとついた上腕三頭筋は、ジャックリとした素敵な歯ごたえをもって楽しませる。
濃厚でありながら爽やかな血のソースが、肉の脂で甘ったるくなった舌を心地よく洗う。
「ああ!美味しい!美味しい!最高だ!」
あっという間に左腕が骨だけになる。
骨周りの軟骨の甘美さ!髄液の暴力的なまでの旨味!
「次!次だ!」
血をどんどんと失っていき、元から白かった顔はさらに蒼白になっていくが止まらない。
左足を切り落として太ももに噛り付く。
「…!…!…~~!!!」
もはや言葉を出す時間すら惜しみ、ひたすらに喰らっていく。
永遠とも思える恍惚たる時間。至福の食事。
――しかし、それにも終わりは来る。
『バイ・クイーン』を用いて生きながらえてはいたが、既に致死量をはるかに超える出血。
腹も満腹が近くなっていた。
壁に背を預け、【ラブ・ファントム】、西条なつみは空を見上げる。
どこまでも青い夜空には、鮮やかな月がしっかりと浮かび煌々と照り付けていた。
「嗚呼…良い月だ。夜風も涼しい。最高の食事、絶景。これ以上のものが…あるかい…?」
誰に言うでもなく呟く。
「これで、赤ワインでもあれば完璧だったんだけどな…太ももの部分には最高にマッチしただろうに…」
それを、口にした、瞬間。
西条なつみは死にたくなくなった。赤ワインと太ももを合わせたくなった。
まだ肝臓を味わっていない!目玉も味わっていない!そういえばお父様を食べてあげていない!
「ハハ…我ながら!嫌になるくらい浅ましい!強欲だ!ハハハ!死にたくない!死にたくないな!まだまだ味わいたいなあ!!」
死にたくない死にたくないと呟きながらも、西条なつみは自らの心の臓を抉り出した。
最後の最期、鮮やかなピンク色の心臓に齧り付いた。
ぬめっとした表面に反した豊かな弾力、贅沢な血のソース、喉を通った瞬間の快感。
その美味に打ち震えながら西条なつみは息絶えた。
ただ、それでも、
(心臓には白ワインが欲しかったなあ)
と思うことはやめられなかった。
終