0 体無きもの


 ――オギャア、オギャア。

 それは、産声。生誕の、再誕の祝福。
 ソレが、当代最強の『殺人鬼』への生まれ変わるための、幾度も繰り返した通過儀礼。

 かつて、一人の血に酔った吸血鬼がいた。
 彼女は認識した。

 自分は常に当代最強最悪の殺人鬼である。
 自分を殺した者がいるとすれば、自分よりも強い「最強最悪の殺人鬼」である。
 よって。自分を殺した者は「最強最悪の殺人鬼」なのだから、自分である。

 唯識が空たる世界に色を与え、即ち是を実と為す。

 ――魔人能力『無体』。

 自らを殺した者の精神に憑依し、支配する、肉体解脱の異能。

 かくて、彼女の精神は――魔人能力『無体』は、二千年近くの時を、幾多の殺人鬼の肉体を船として航海し続けてきた。

 無数の殺人鬼たちの精神と交じり合い、もはや、彼女の個としての性質は摩耗した。
 ただ、始まりの妄執、力への渇望だけが、彼女を駆動させている。

 ――オギャア、オギャア。

 その餓えのままに。起源のために。
『無体』は数百年周期で、『呪い子』たちを集めた『蠱毒』を行ってきた。

 あるときは、武術大会の名を借りて。
 あるときは、戦争の形を取って。
 あるときは、クーデターの煽動をして。
 100余年前は、イギリス、ホワイトチャペルで、劇場型の殺人劇を引き金にして。

 戦闘者異常者の殺し合いを誘発し、当代当国最強の肉体を、あまねく輝き尽くを殺す者を、己の身体としてきた。

 そして今、日本、東京、秋葉原にて、『無体』の『呪い子』による最新の『蠱毒』は華々しいクライマックスを迎えようとしている。

 血を注いだ魔樹の種子を宿した少女。
 秘薬として撒いた血にて蘇った屍人。
 己の血と肉とを喰らわせた、食人者。
 殺戮の戯れに活かしておいた復讐者。

 いずれも、素質としては十二分。
 誰が勝ち上がろうと。誰が誰を殺そうと。
 魔人能力『無体』は、正しく当代最強の殺人鬼の肉体を得る。

 ――オギャア、オギャア。

 響くその声を聞きながら、『無体』は夢想する。
 体無きこの身が、憩いうる悠久の里を得ることを。



 東京二十三区で続いた、連続殺人鬼殺人事件。
 この無体で無惨な騒動も、今宵、第三夜にして終わる。

 愚直に繁栄を求める人媒花。殺人樹、森本里実。――『強欲の宿り木』。
 個と絆とを己で断った無機。殺人機、金岡かがみ。――『針鼠』。
 罪という蜜を集める女王蜂。殺人姫、西条なつみ。――『ラブ・ファントム』。
 殺人こそ存在意義とする命。殺人器、黒星。――『   』。

 ――最悪にして不死、不滅の殺人鬼。無体。

 生き残るのは、最悪の一。
 紅く昏いその夜明けを仰ぎ見るのは、どの『サツジンキ』か――。




1 樹胎告知



「なぜ……そこまで……“生きる希望”に満ちておるんだ……」
「私、夢があるんです。世界中をお花畑にして、たくさんの家族と一緒に暮らしたいの」

 昨晩のやりとり。
 その言葉に、森本里実は改めて、決意を新たにした。

 有効な問いとは、投げかけられた相手の意志を明確にし、相手自身に『気づき』をもたらすものである。そう、心理カウンセラーは教えられる。
 先の殺り取りの中で『殺る王』が最期に投げかけた問いは、里実にとって間違いなく、『有効な問い』であった。

 まるで、生まれ変わったような気分だった。
 余計なものが削ぎ落され、身軽になったような気がする。
 特に、あの老人から鼻に一撃を受けたときの、あの熱量。

 思い出すだけで、胸が高なる。
 それは、植物のようにおとなしい、と言われ続けていた里実が、初めて感じた狂おしいほどの熱情だった。

 それが、『殺る気』――殺意であることを、彼女は知らない。
 そう教えられる前に、師となりうる男を、殺したからだ。

 だから、全ては偶然。
 目覚めたばかりの『殺る気』の明滅を制御できぬまま、そぞろに歩いた少女の行く先が、秋葉原であったことも。
 そこで、屈強そうな魔人警官が、『箱』を輸送していたことも。

 少女の『求婚』が身を結ばず、魔人警官たちが全滅したことも。
 少女が、彼らの運んでいた『箱』に触れてしまったことも。

 ――オギャア、オギャア。

 産声が、響く。
 それは、何の誕生を意味するものであるか。

 森本里実――『強欲の宿り木』は、理屈もなくただ理解する。

 目覚めたばかりのオーラ、『殺る気』の精神的の作用のままに。
 触れた『箱』から流れ込む、神話級、とまで言われた力のままに。
 純然たる善意と慕情のままに。

「ああ――ここが、私の、お花畑――」

 ――少女は、秋葉原の街を、樹海へと変えた。




2 アズ・ユー・ライク・イット



 その女には、三つの名前があった。

 一つは、『金岡かがみ』。
 一つは、『綿塚朱音』。
 一つは、『針鼠』。

 その全てがその女であり、そのそれぞれが、その女の精神の一部を示している。
 女は、雑に語るなら、二人の女の死体をツギハギして蘇生した、再生魔人だ。

 日本国の非登録治安部隊、通称『亡霊』の構成員『金岡かがみ』の首から下の肉体と。
 人喰いとしてB級殺人鬼に認定された少女の、ただ一人の姉『綿塚朱音』の頭部。
 この二つを繋ぎ合わせ、『針鼠』は、3年前に覚醒した。

 人は心のみで思うのにあらず。
 人は脳のみで考えるにあらず。

 肉をもって感情と情緒反応を司る『金岡かがみ』と。
 脳をもって理性と表層意識を司る『綿塚朱音』と。
 その両者を混ぜ合わせ、現実に適応させる人格として、今の『針鼠』がある。

 ツギハギで、アンバランスだったが、それでも、『針鼠』はこの三年間、『亡霊』として、この国を愛するもの、この国を守る者としての任務を遂行してきた。

 それも、『金岡かがみ』と『綿塚朱音』という、自らのうちにある矛盾要素を、認識していなかったからだ。
 だから、「自分は他人から見れば少しキレやすいらしい」という体で、自らの不安定な精神性を説明できていた。

 その均衡が、二日前、崩壊した。
 女は、『綿塚朱音』の妹と、出会ってしまった。
 その遺品から、自分の起源を、理解してしまった。
 そして、『金岡かがみ』の上司であり『綿塚朱音』を殺した者であり、『針鼠』の上司である女を、殺してしまった。

 そこからの転落は、剥落は、石が転がり落ちるようなものだった。
 彼女にはもう、後ろ盾などない。
 かつて所属していた『亡霊』たちは今や彼女を襲う刺客であり、また、当然その背後にいる防衛省――この国もまた、彼女の敵だ。

 今や、『針鼠』は、押しも押されぬ社会の敵(パブリックエネミー)なのだ。

 『金岡かがみ』の上司であった、『愛国者』石積彩花は暗殺した。
 『綿塚朱音』の妹であった、『口口(マウス・トゥー・マウス)』綿塚翠は斬殺した。
 『針鼠』のパートナーであった、『“一八八八代目”ジャック・ザ・リッパー』波佐見・ペーパーストンは刺殺した。

 もはや、彼女には、動機がない。
 もしも、殺人そのものを嗜癖する性質があればよかったのだろう。
 だが、不幸にも『針鼠』は、正常な人格を持つ職業殺人者だった。

 やりたいことは、失った。
 やるべきことは、投げ捨てた。
 できることは、殺すことだけ。

 情事の後のような気怠さの中、彼女に火を入れたのは、波佐見・ペーパーストンから託された、紙束。そこに書かれた、一節だった。

 その古新聞(アーティファクト)の名は、『献身的な新聞社(アズ・ユー・ライク・イット)』。

 持ち主が知りたいと望み――かつ、『発信者が伝えたかったこと』を記事として出力するもの。
 死者の、伝えられなかった言葉すら、無遠慮に『取材』してしまう魔具。

 そこにあったのは、『針鼠』が殺した三人の女達の遺言。
 妹。上司。パートナー。
 言葉こそ違えど、示す意図は同じ。

もう、お前の好きに生きろ(アズ・ユー・ライク・イット)』。

 奇しくもそのアーティファクトの冠する名と同じメッセージ。

 笑った。
 肩を震わせ、声を震わせ、涙を流し、鼻水を垂らし、女は笑った。

 ぐちゃぐちゃの顔を拭い、水筒のコーヒーを呷って、『針鼠』は、その『献身的な新聞社』の隅から隅までに目を通した。

 この馬鹿騒ぎの生き残りであるサツジンキたち。
 その性質。その能力。その目的。
 なぜ、彼ら彼女らは、この二日間で急に騒ぎ始めたのか。出会い始めたのか。

 なぜ、まだ首を突っ込むのか。『金岡かがみ』が疑問を呈する。
 もう、因縁は断ち切ったろう。『綿塚朱音』が諫めてくる。

 ――そんなことはもう、『針鼠』には関係ないことなのに。

 ああ、それは違いない。『針鼠』はそれらを肯定する。
 きっと、『針鼠』の物語は、もう終わった。
 北海道に高跳びして、蟹を食べ、コナン・ドイルでも読むのが正しい選択だ。

 だから、これは完全な蛇足。
 目的は、八つ当たり。
 だって、仕方がないだろう。
 元より、『針鼠』はキレやすい女。

 これまでは、愛国者の真似事をするために律していた。
 けれど、そんな鎖は、もう噛みちぎってしまった。
 好きにやる。私はもう、好きに生きる。

 ならば、ムカついた元凶に殴りこみをかけることこそ、一番の選択だ。
 一番『最悪』の選択であろうとも。
 自分は、『針鼠』は、それを悔やむことはないだろう。

 シンプルで、笑ってしまいたくなるような結論だった。

 標的は定めた。

 目的地は、新宿。
 そして、秋葉原。
 今日も、電車の固いシートでの、短い睡眠になりそうだった。




3 女王蜂の号令(クイーンズオーダー)



 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:自己(1)。『説得力』倍化。

「私は、力も権力もないただの小娘ですが。それでも、皆さんがどれだけの研鑽と尽力を積み重ねているかは、理解しているつもりです」

 制服に身をまとった少女は、警官たちの前で切々と語る。
 東京では、この数日で次々と殺人事件が起こり、しかもその規模は、過去最大最悪の戦争めいた大規模殺戮(ジェノサイド)を含んでいる。
 そのことに、彼女はひどく心を痛めているようだった。

「何かが起きないことが当然。何か事件があれば、解決できなければ叩かれる。それは、不条理で、しかし、誰かがせねばならない、とてもとても大切な職務です」

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:自己(2)。『カリスマ』倍化。

 聡明な語り口だ。聞けば、彼女は有名財閥の一人娘だという。
 しかし、鼻持ちならないところがどこにもない。
 この狭い会議室に、階級問わず全員を集めたのも、直接声が届く距離、顔が見える距離で語り合いたいからだという。

「家族にすら、その任務の重圧を語れない。それでも、この国の中枢である東京という街のために戦う皆さまを、私は尊敬します。私は信頼します」

 本来なら民間人が立ち入ることのない作戦会議室に彼女が通されているのは、彼女がこれから行われる作戦の『切り札』――重要協力者だからである。

「だから。私の力を、皆さんに捧げます。私の命を、皆さんに預けます」

 少女は、作戦に協力する一人一人の手を、その冷たく小さな白い手で握り、祈るように頭を下げた。
 その姿は、宗教的な意識の低い日本人警察官たちをして、聖女という言葉を連想させた。

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:聴衆×15名。『西条なつみへの好感度』倍化。

「ですので――どうか。『私に、長谷村美樹彦を、食べさせてくださいね』」

 故に、彼らは気づかない。気づいても、逆らえない。
 その論理の飛躍に。少女が秘めた破綻に。歪んだ愛の幻想に。

 少女の武器は、卓越した演技力だ。彼女の喜びは、怒りは、哀しみは、楽しみは、全霊の本物に見える。
 しかしそれは全て真実でありながら全て幻想。
 この切り札は、直接戦闘よりも、こういった社会的画策でこそ輝く。

 警視庁の中枢に食い込み、自らの食欲を満たすためだけの作戦を決行させた女。
 彼女の名は、西条なつみ――殺人鬼『ラブ・ファントム』という。




「なつみ。ああ、なつみ。これで、これでいいのだろう?」
「上々です、お父様。お父様と警視総監殿の20年に渡る麗しい友情に、乾杯というところですね」

 会議室を足早に後にしながら、小声で親娘は囁き合う。
 西条直影。旧財閥西条家の当主にして、この国の経済界に大きな影響を及ぼすVIP。

 殺人鬼である娘、なつみの所業を理解し、支え、いつしかその罪深さ故に娘に『喰われる』ことを望む、歪んだ愛の持ち主である。

 彼は、その権力と交友関係を駆使し、娘のために次のような情報を得た。
 即ち『史上最高に罪深い殺人鬼』――A級殺人鬼KY-017の情報だ。

 警視庁は、一昨日、池袋で繰り広げられた、A級殺人鬼KY-017『長谷村美樹彦』と、B級殺人鬼TT-126『謎掛』による大虐殺――俗称『池袋消失事件』により、無力化されたA級殺人鬼KY-017の危険性が消えてはいないことを把握していた。

 力尽き、疲労と負傷、急性心停止した状態で、『謎掛』の作り出した『箱』に全身を封じられてなお。A級殺人鬼KY-017からは、神話級の呪詛の残滓が漂い続けていたのである。

 『謎掛』はA級殺人鬼KY-017を封じた『箱』を、洗脳した一般人――『箱』人間に運ばせ、秋葉原のアパートの焼け跡へ持ち帰った。

 その後24時間は、警察による遠隔監視下で、A級殺人鬼KY-017に能動的な動きは確認できず。このまま数日で対象は衰弱、死亡の後無害化するものと予測されていた。

 しかし、事態は、昨日未明に急転。
 A級殺人鬼KY-017を封じていた『謎掛』が、新宿御苑において、指定暴力団夜魔口組構成員との抗争で死亡。

 これと時をほぼ同じくして、秋葉原の『箱』に亀裂が入ったのである。
 同時に、子どもの産声めいた鳴き声が、音声データとして観測され。

 A級殺人鬼KY-017は、死んでいない。
 あるいは、別の『何か』に、産まれなおそうとしている――。

 そんな仮説が、立てられた。

 監視担当者は危険を押してA級殺人鬼KY-017の封じられた『箱』の確保を試みたが、間もなく通信途絶。

 ほどなくして、秋葉原は、生きる植物が人を襲う、『樹海』となった。

 この情報を得た西条なつみの決断は迅速だった。
 史上最悪の殺人鬼。
 この国が、対処を諦めた神話級の悪霊。
 その罪を。その蜜を。ぜひ、口にしたい。

 その一言を引き金に、西条一族及びその使用人、全員が動いた。
 それはまるで、女王のために蜜を集める働き蜂のようであった。

 かくて、一つのシナリオが出来上がる。

『秋葉原の樹海化は、A級殺人鬼KY-017の封印が緩んだことによるもの』

『このままでは、その影響は東京全土に広がりかねない』

『下手な致死性攻撃は、往時の『神話級自律反応呪殺』を誘発する可能性が高い』

『対応法は、迅速にA級殺人鬼KY-017衰弱死させること』

『そこで、警視総監を通じて信頼できる善意の協力者として、西条なつみを推薦させる』

『西条なつみには、A級殺人鬼KY-017の衰弱死にうってつけの魔人能力がある』

『その名は『倍喰い(バイ・クイーン)』。触れるだけで『倍』、摂食すると『倍の倍』、対象の特性を増強するもの。これにより、対象の消耗を『倍の倍』に加速させる』

『この作戦を実行するため、警視庁選りすぐりの魔人警官隊で西条なつみを護衛させ、秋葉原へ突入する』

 少なからず無理のある論法だが、そこは、西条の権力と警視総監とのコネクション、そして、なつみの魔人能力『バイ・クイーン』により説得力が増強された演技で強引に押し通した。
 かくて、先ほどの西条なつみの演説に繋がったというわけだ。

「ここからは、私の手助けできない領分だ。なつみ。どうか、どうか生きて帰って――」
「フフ。わかっているよ。お父様。今回の作戦は、ひどく罪深かった。20年来の信頼の裏切り。この国への背約。最悪の殺人鬼の後のデザートにはちょうどいい」
「ああ! ああああ!! なつみ!!」

 感極まったように、男は涙を溢れさせた。
 それを拭うこともしない、恥も外聞もない男泣きであった。

 遠目にそれを眺めていた警察官は後に語る。
 この国の危機に抗うためとはいえ、実の娘の命を危険に晒す。
 西条直影氏のその悲しみや、いかばかりか、と。

「ご安心を。私は――なつみは強欲の血、西条の子。必ず、帰って、いただきますから」

 二人の間にある意図は周囲の理解と全く違いながら。
 そこにあるのは、紛れもない、一つの家族愛ではあった。




4 D級殺人鬼、二人



 それは、樹海。
 あるいは呪界。

 殺人器を自称する少女、黒星(ヘイシン)が辿り着いたとき、秋葉原はすでに異界と化していた。
 日本一の電気街、あるいは、サブカルチャーの聖地と呼ばれていた姿は、見る影もない。

 立ち並ぶビルの周りを、太い樹の根が、幹が、枝が這いまわり、しかもそれらは、時折生き物のように脈動している。

 少女がこの街に来たのは、この先に、自らの血と共鳴する存在を感じ取ったからである。
 黒鬼、美藤羊子、『謎掛』といった、『呪い子』と似ていて、しかし、それより遥かに強い感覚。同調と共鳴。引かれるような、昂るような感覚。

 この先に、『無体』がいる。
 数千年の間、様々な殺人鬼の肉体を渡り歩いた、体無き吸血鬼『無体』。

 黒星の仇であり。
 黒星を人外にした者であり。
 おそらくは、この数日間の異常な『殺人鬼同士の殺し合い』の元凶である存在。

 少女の目的は、それを、滅ぼすことだ。
 なぜ?
 理由を問う意味はない。敵を撃ち抜くことこそ武器の存在意義だから。

 問うべきは眼前の障害の性質についてだ。

 行く手を阻むこの樹は、何か?
 吸血鬼『無体』の能力だろうか?

 否。そう、黒星は結論づける。
 薄く気配は感じるが、この秋葉原樹海そのものは『無体』ではない。

 しかし、だからといって、中へ踏み込むのを容易に許すような存在にも見えなかった。
 少しずつその領域を広げている樹海の境界に、黒星は手ぶらのまま、一歩踏み込む。

 瞬間。
 鞭のように、四肢首腰を捉えんと、六方より枝がしなり、伸びて黒星を襲った。

 一の枝。右手に展開したナイフで一斬。
 二の枝。三の枝。左手に展開した小太刀で二閃。
 四の枝。左の刀身で受け、絡め取られるも手を離して虚空に『収納』。
 五の枝。蹴打で千切り飛ばし。
 六の枝。左に展開した棍で絡め取り捩じ切る。

 しかし、少女を襲う樹海は狡猾。
 一呼吸の間を違え、少女の背後から迂回させた枝が、少女の首を狙う――

 そして、その細いシルエットが――三つに断たれた。

 ――黒フードの少女のククリナイフと。
 ――赤ランドセルの女の、鉄槍によって。

 黒星の首を締めんとしていた枝は、引き裂かれていた。

「危ないところだったじゃあないか」
好多事(おせっかい)

 このタイミング。偶然ということはあるまい。
 尾行されていた。あるいは、居場所を誰かから聞いていたか。
 黒星の居場所を知っていそうな存在は――夜間口組の組長か。

「邪魔、するなら、殺す」

 ククリナイフを突き付け、黒星は相手を観察する。
 野生動物めいた獰猛さを隠しもしない、長身の女だった。

 夜魔口組の構成員ではない。
 身にまとっている細身のスーツに、背負った真紅のランドセルが不似合いだった。
 顔立ちは整っているのに、全体的にちぐはぐな印象だ。

「私は、『針鼠』。『黒星(ヘイシン)』。君と組みたい」
「断る」

 長身女――『針鼠』の提案を、『黒星』は一蹴した。
 あからさまに怪しい誘いである。こんな提案、頷く方がどうかしている。
 そもそも、『黒星』は今、誰かと組む気分ではなかった。

 ――あなたは――なに?

 美藤羊子の冷えていく乳房の感触が、最期の言葉が、脳裏に蘇り、消える。

 振り払うように、『黒星』は首を振った。
 自分は、武器である。
 戦い、殺す。そのためにあるものである。
 温もりも。柔らかさも。触れあいも。
 すべて、その目的には余分な、不純物である。

 だからこそ、一人でいい。一人がいい。
 露骨な否定。刃を、暴力を仄めかす拒絶。

「この樹海――『強欲の宿り木』と『ラブ・ファントム』率いる魔人警察部隊は手に余る。あの二人はもはや『戦略級(C級)』だが、私たちは所詮『戦術級(D級)』だ。私も、君も、ばらばらじゃあ『無体』には届かない」

 それでも、『針鼠』は揺るがない。

「私は、この馬鹿騒ぎの興行主を殴りたいだけ。だから、君とは手を組めると思った」

 ――この女は、『無体』に近づくための、私の知らない情報を持っている。
   ――そんな言い訳で、また、繋がりを求めるのか。

 ――私は、武器。敵を撃ち抜くためなら、何でも使う。それが今は、目の前の女というだけ。
   ――そうやって、また、あの男の代わりを、探すのか。

 ――うるさい。
   ――認めろよ。『メッキ(フルメタルジャケット)』は剥げた。おまえは一人に耐えられないだけの小娘だ。

 ――違う。私は、劣化など、していない。

 黒星はナイフを『収納』し、ポケットからチョコミント味のロリポップを取り出す。

「『無体』は、私が殺す」
「そこは、私も、譲れない」
「なら、手を組むのは、邪魔者を排除するまで」
「上等だね」

 針鼠は、笑みを深くすると、右の手を差し伸べてきた。
 空っぽな笑顔。収納するもののない棚のような、虚ろな表情。

 黒星は伸ばされた手を無視し、針鼠に背を向けた。

「状況はおいおい説明するとして――ここから先は、樹海そのものと、警官たちと、私たちの、三つ巴だ。お尋ね者の私たちは、本名で呼び合った方が安全だろう。私は――金岡、かがみ。日本人だ。君は?」
「……クロトワ・ボナンザ。キューバ人」

 明らかな嘘。
 針鼠は吹き出すと、こみ上げる笑いを噛み殺して頷いた。

Listo(了解)! チャイニーズじゃなかったか! よろしく頼むよ、Amigo」

 針鼠と、黒星。
 この無体な狂宴の中で、師と慕情とに幕引きをした女二人。
 八つ当たりと知りながら、彼女たちは、歩き出す。

 無数の命の煌めきを散らした悪夢のような日々。
 その裏で笑うバケモノに引導を渡す、そのために。




5 女王と蜜と蜂の群れ



「樹海は、秋葉原駅周辺――外神田、神田花岡街、神田練塀町、神田松永町、秋葉原を飲み込み、なおも拡大中!」

 秋葉原に突如発生した樹海。
 その消滅に向けて編成された、警視庁魔人犯罪対策室の特殊部隊は、作戦の核である少女、西条なつみを守るように、生きる木々の妨害の中で進み続けていた。

 その西条なつみこそ、警察が追う連続殺人鬼の一人『ラブ・ファントム』であるとも知らずに。

 航空偵察にて、樹海の中心部――A級殺人鬼KY-017の封じられている『箱』の現在位置は、外神田3丁目12−8、住友不動産秋葉原ビルであると想定されていた。

 作戦開始地点から、直線距離にして1km足らず。
 だが、それは、決して近いとはいえない距離だった。

 まず、足場が悪い。
 舗装されたアスファルトは今や、蔓延り蠢く根に覆われ、足を奪う。
 さらに、鬱蒼と茂る木々は、その全てが肉食植物のように、領域に踏み込んだ生命に枝を伸ばし、種子を植え付け、飲み込もうとする。

 この樹海全てが、一つの食虫植物――食人植物と化しているに等しい。

 ヘリコプターからの降下作戦も試されたが、種子の射出による滞空射撃により、ダミー用の人形は地面に落ちる前に迎撃を受け、一本の木となって樹海の中へと落下した。

 ミサイルでの攻撃は、A級殺人鬼KY-017の封印を解き、『神話級自律反応呪殺』を誘発する可能性があるため却下。

 結果として、装備を揃えた特殊部隊員による、多方面からの同時突入が敢行されたのである。

 すべて、『ラブ・ファントム』――西条なつみの目論見通りである。
 この方法が最適解ではないことなど、海千山千の警視庁魔人対策室の作戦担当は理解しているだろう。けれど、彼らも所詮は勤め人。幹部の意向には逆らえない。

「大丈夫ですか? 西条さん」
「休憩は?」
「ありがとうございます。私なら、大丈夫です。皆さんにばかり負担をおかけしてすみません」

 強張った、それでも相手に不安を与えないための笑顔で西条なつみは警官に答える。
 気丈に恐怖に耐える令嬢、という完璧な演技であった。

 演技。
 それは、西条なつみが、産声をあげた日から積み上げてきた技だった。

 西条の一族は、最上でなければならぬ。
 強欲の家系と陰口を叩かれながら、それを自ら誇りとして掲げる。

 少女が生を受けたのは、そんな家だった。
 生まれついての女王。人を従えるもの。
 そのために、他者を操るための最も基本的な手段、演技こそ、必要だった。

 今もこうして、若い警察官は彼女に好意的な感情を寄せている。

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:魔人警察官×10名。『西条なつみへの好感度』倍化。

 それが、能力によって誘発されたものであるとも知らず。

 しかし、これほど多くの、西条家と縁のない者を操ることは、彼女にとっても初めてであった。
 これまで殺人鬼『ラブ・ファントム』としての彼女は、基本的に単独での犯行を繰り返していた。

 それは、彼女の目的――『最高に罪深い(=美味な)自分』になるため、犯した罪を独り占めするためであったが――改めて、この状況に身を置いて、理解する。

 西条の血、この身に灯る強欲の衝動を満たすには、身一つでは足りない。
 自分は、女王。
 多くを従えることこそ、天分であると。

「前方に成人男性級の樹! 枝攻撃及び種子弾幕きます!」

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:特殊部隊用活動服×11。『強度』倍化。

 西条なつみは、自分を囲む警察官全員の装備に触れ、その機能を強化する。

 樹海の木々が射出する種子は一撃必殺。
 肉体内部に撃ち込まれたが最後、根が張るまでにえぐり出さなければ、ものの数分で養分を奪われ、死亡する。

 しかしそれも、肉体に根を張れなければ意味がない。
 西条なつみの魔人能力によって強化された特殊部隊用活動服と防護盾は、必殺の種子を尽く弾き返した。

 魔人能力『バイ・クイーン』が一つの物体に重ね掛けできる強化は2種まで。
 その効果は、西条なつみから10m以上離れると解除される。
 この2つの制約の限りにおいて、一度に能力を行使できる対象数に制限はない。

 即ち、殺人鬼『ラブ・ファントム』――西条なつみにとって、己の異能を最大限に行使する方策とは、できるだけ多くの兵隊を引き連れ、その全員及び装備の一つ一つに『倍化』を施し、『女王の近衛(クイーンズ・ガード)』を編成することに他ならない。

 まさに、女王の御業。彼女の出自に相応しい能力である。

 警察官たちの身体能力を、忠誠心を『倍化』。
 彼らの身を守る防具の強度を『倍化』。
 彼らが扱う銃器の精度を『倍化』。
 彼らの放つ弾丸の貫通力を『倍化』。

 強化された89式5.56mm小銃が火を噴き、枝を振るっていた『樹』の幹を穿つ。
 表皮が削られ、むき出しになった箇所に、警官の一人が駆け寄り、触れる。
 すると、抉られた痕が広がり、木は音を立てて折れ倒れた。
 触れたもののダメージを拡大する魔人警官。能力名は『傷口に塩(スウォーディング・ソルト)』だったか。
 万が一、西条なつみがA級殺人鬼KY-017を衰弱死させられなかった場合の、警視庁側の切り札らしかった。

「目標、無力化!」
「西条さんのおかげです」
「いいえ。どれほど武器を強化しようと、扱う人がいなければ無力です」

 精悍な顔つきの魔人警官。
 もしも西条なつみが年相応の感性の持ち主であれば、恋に落ちていたかもしれない。

 けれど、『ラブ・ファントム』からすれば、あまりにも味気なく、魅力のない男だ。名前すら覚える価値もない。

 殺人鬼『ラブ・ファントム』は、罪こそを蜜として味わう。
 名誉も栄光も求めない無欲な法の守り手など、塩辛くて口にする気もおきなかった。 

 だが、餌としてでなく、兵隊としてならば、彼らは極上だ。
 西条なつみという女王蜂に、罪の蜜を運ぶ働き蜂。

 そういえば、と『ラブ・ファントム』西条なつみは思い出す。
 彼女の二つ名の元となったユニットの名前の由来について。

 語感で選んだという説。
 AからZまでとしたかったが、「エイズ」では響きが悪いとしてBからZとしたという説。
 その中で、妙に記憶に残った説。

 ――『蜂の群れ(ビーズ)』。

 ジグソーパズルのピースがはまる。

 これだ。

 自分が、彼らの歌に惹かれたのも。
 自分が、この能力に目覚めたのも。
 自分が、この異名で呼ばれるのも。

 全てが噛み合った。
 万能感に、歌い出しそうになる。

 風のない海のような退屈な日々も。
 あらゆる花が色あせていた時間も。
 全ては終わり。

 なぜならこの身は女王蜂。
 あらゆる罪を、蜜を収奪するため、この森の中を、飛び回りましょう――。




6 罪木崩し



 花と、自然と、家族。
 森本 里実は、そんなものが好きな、穏やかな少女だった。

 警察が彼女につけた、殺人鬼としての二つ名――『強欲の宿り木』とは、彼女の精神性からすれば対極の命名である。

 彼女は、ただ、幸せになりたいだけだった。
 大金を求めたわけでもない。他人を踏みにじることを望んだわけでもない。

 ただ。そのあり方が。
 致命的に、人類と、相容れないものであっただけのこと。

 ――オギャア、オギャア。

 けれど今、彼女の手の中には、一抱えほどの『箱』がある。
 これは、卵だ。
 ひびが入り、今まさに芽吹こうとしている、大樹の種子だ。

 愛おしげにその黒い『箱』を少女は枝で撫でる。

 ここから産まれてくるものならば、自分の家族になれる。
 そんな確信が、里実にはあった。

 いや、彼女に宿った『種子』の確信というべきか。

 今や、『強欲の宿り木』の目的優先度は、切り替わっていた。

 無差別な『婚活』から、羽化まで目の前のこの『箱』を温め、守ることへと。

 ――ああ、例の殺人鬼騒動でな、定時退社命令が下ってる。お前もあまり遅くまで出歩くんじゃないぞ?
 ――お姉ちゃん、はやくはやくー!
 ――さあ、みんな揃ったし、食べるわよ。

 いつかの家族の団らんを思い出し、里実は拳を握る。
 守り合い、助け合うことこそ、家族。
 この子が無防備な間は、私がこの子を、守らないと。

 この黒い『箱』に触れているだけで、力が湧き上がるのを感じる。
 昔見た教育番組で、子を守る母熊は、普段の何倍も獰猛になるといっていた気がする。

 家族を守ろうとするとき、女の子は、強くなるのだ。
 そう、里実は納得した。
 意識を、足元の根を通じて広がったこの秋葉原樹海全体へと、拡張する。

 東西南北、四方八方から、12班の特殊部隊が樹海に踏み込んでいる。
 一昨日のお巡りさんといい、なぜ、警察は自分を追うのだろう。
 心底、里実には理解できなかった。

 それが理解できないことが、『種子』に精神まで浸食されている証であることに、彼女は気付かない。

(銃を持ってる人なんて、この子に近づけちゃいけないよね。きっと、怖がっちゃうもん)

 素朴な感性でもって、里実はそう判断する。
 近づけない=殺すということへの論理飛躍が矛盾していることにも、気付かない。

 12の侵入チームは、いずれもそれなりに優秀な警官たちであるらしい。
 植物たちの『本能』に基づく迎撃だけでは足りない。

(うー。焼いたり、撃ったりして。ひどい。せっかく、綺麗な花畑が、できるのに)

 侵入者それぞれの戦いぶりを『眺め』ながら、『強欲の宿り木』はまず潰すべき相手を見定めようとして――

(――?)

 かすかな違和感――否、同和感を、覚えた。

 共鳴するような。同調するような。
 とても、親近感が、わくような。

 反応は、3つ。
 弱いものが2つと、強いものが1つ。

 樹海拡散させていた知覚を、森本里実の肉体ではなく、違和感の元であった地点の『樹』に収束。視覚情報と聴覚情報を接続。

 まずは、弱い反応2つを確認する。

 そこにいたのは、警察とは似ても似つかない恰好の、女たちだった。

 一人は、黒フードの少女。
 顔はよく見えないが、背格好からして、年の頃は里実と同じくらいか。
 どこからともなく無数の武器を取り出し、死角からの攻撃を難なくいなし続けている。

 一人は、黒スーツに赤ランドセルの女性。
 獰猛な犬のような顔で、手にした鉄の棒を変形させて枝を、幹を、刈り続けている。

 強い。他の警察部隊のような安定性はないけれど、どんな不意打ちにも即時に反応する。

 けれど、それ以上に気になるのは、自分と似た気配。
 枝もなく根もなく、幹もないけれど。

 同じ、匂いがする。

(もしかして、この人たちも、家族?)

 その疑問は、別所で戦っているもう1つの『違和感』を見た時に、確信に変わった。

 警察官の中心で周囲を鼓舞して回る、長い黒髪の少女。
 楚々たる気配だが、たまに漏れる口元の笑みと、鋭い眼光。

 他の警察の連携とは違う。
 彼女の指揮、号令一つで、一糸乱れぬ統率が取られている。
 まるで、個にして全、全にして個。さながら虫の群体のようだ。

 これは――『同類』だ。
 間違いない。この『箱』の子と同じ。
 私の家族になれる人だ。

「やる気、でてきたなあ!」

 満面の笑みで、里実は『箱』を抱きしめる。

 ――オギャア、オギャア。

 答えるように、『箱』が震える。
 森本 里実は気付かない。
 善意と愛とを積み木のように積んできたはずの彼女の人生が、どこで致命的に崩れてしまったのか。

 救いがあるとすれば。
 彼女には、その崩れてしまった世界こそが、暖かな楽園であることだった。




7 愛の幻想



「第2部隊、第7部隊、後退!」
「樹海の迎撃パターンが変わった!?」

 秋葉原樹海を進む西条なつみ――『ラブ・ファントム』を護衛する警官たちの間に動揺が走る。
 どうやら、並行して突入している部隊が次々と致命傷を受け後退しているらしい。

 よくない兆候だ。
 警察の分析によれば、この樹海はD級殺人鬼『強欲の宿り木』が、A級殺人鬼KY-017と接触したことで能力を暴発させている状態。即ち、「一人の脳が起点となっている」ものだ。

 よって、同時に対応すべき事象が多いほど、個々への対応は手数になると推測されていた。
 事実、事前に一部隊が斥候に向かったときと比べ、複数部隊が同時に突入した今は、樹海の反応は比較的単調なものとなっていた。

 だが、今、西条なつみの部隊は順調に目的地へ歩を進めている一方で、他の部隊が一つ一つ壊滅的な打撃を受けている。
 この意味することは一つ。

 この『樹海』が、迎撃に割く処理リソースの選択の集中を行い出したということ。
 森全体を守るのではなく、侵入したチーム一つ一つを全力で順番に潰す手段を取り出したということ。

 この森には、明確な知性と戦略がある。

「落ち着け! 他部隊の救出には『東海道(さいきょう)』と『TDL(さいあく)』が当たる! 俺達は目の前に集中するぞ!」

 全体に走る動揺を落ち着けるように、リーダー格の警官が声をあげた。

「皆さんほどの実力者の他に『最強』『最悪』がいるなんて、警視庁は層が厚いのですね」
「無論、俺達もずっとあの人たちの背中ばかり見ているつもりはありませんが。それでも、優秀な人間が味方なのは、心強いですよ」

 西条なつみは内心舌打ちをする。
 どうやら、警視庁の最強戦力の取り込みには失敗したらしい。
 理想はその『最強』『最悪』とやらを、この近衛に組み込むことだったのだが。

「……ともあれ『樹海』が他部隊の迎撃を優先しているのは幸運です。速度を上げましょう」

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:魔人警官×10+西条なつみ(1)。『脚力』倍化。

 第1部隊、第4部隊、第12部隊、高濃度非選択系除草剤で反応低下を確認。根による水分奪取を受け活動不能の隊員が出たため撤退。
 第11部隊、アンノウンによる襲撃で装備を奪われ、撤退。
 第9部隊、第5部隊、『種子』による攻撃を受けた隊員が出たため、撤退して処置。
 第3部隊、枝での攻撃に対し発火系魔人能力で迎撃するも、超速再生で無効化さる。

 次々と通信で撤退報告が寄せられる。
 だが、それは必ずしも警察側――『ラブ・ファントム』が追い詰められていることを意味しない。

 彼らはただ敗走するのではない。
 敵の手の内、取りうる戦術を晒させ、その隠し玉を一つ一つ暴いて撤退している。
 これこそが警視庁魔人犯罪対策室の強さである。

 魔人同士の戦闘とは、情報の暴き合いだ。
 一人一人が勝てずとも、組織として相手の手札を暴き、丸裸にして、勝てる戦術を作り出す。

 攻撃手段は枝による物理攻撃。種子による寄生射撃。根による脱水攻撃。
 火炎には耐性あり。銃撃は有効。幹を折ることで無効化できる。高濃度非選択系除草剤による牽制は有効。

「第11部隊を襲ったというアンノウンは、気になりますが」
「……『樹海』の守り手か、あるいは、考え難いですが、警察とは別にこの異変を止めようとする自称『正義の味方』か……」
「このご時世だと、まだ、『フリーの殺人鬼』の方がありえそうなのが、悲しいですね」
「まったく、笑えない話です」

 秋葉原駅を通過。
 ここまで、『樹海』による妨害は最低限のものだ。
 やはり、人数の少ないチーム、戦力の整っていないチームから各個撃破している。

(あるいは――私を、誘いこんでいるのか? 『強欲の宿り木』が、『ラブ・ファントム』を?)

 両者に因縁はない。少なくとも、『ラブ・ファントム』には思い当たる節がない。

(けれど。だとすれば、好都合だ。『強欲の宿り木』がA級殺人鬼KY-017を守っているなら、最高のメインディッシュの前菜にするだけさ)

 第3部隊。全方位からの蔓による拘束攻撃を受ける。閃光手榴弾により攪乱を図るも影響軽微。若干の妨害にはなるが、視覚聴覚以外の手段による知覚も持ち合わせている様子。撤退。
 第10部隊。加熱能力者による高熱斬撃が有効であることを確認。超速回復は、光及び二酸化炭素をトリガーとしているものと思われる。光合成の拡大解釈? 広範囲に渡る伐採を行ったが、木が高熱に反応して発生させた煙に幻覚物質が含まれていたため酩酊状態で任務続行が困難に。撤退。

「毒ガスですか。なんでもありですね」
「ジメチルトリプタミンやハルミンあたりは植物に含まれていてもおかしくはありませんが。およそ『植物という概念』全体を包括するバケモノなのでしょう。この『樹海』は」
「どうしますか?」
「都合よく専用のフィルターなんてないからな。元より防毒マスクは意味がない。有効だとしても、高熱による攻撃はできるだけ避けるべきだな」
「うえ、私の魔人能力あんまり意味なくなるじゃないですか。燃やせば超回復、炎を出さずに焼き切っても毒ガスとか、メタきつくないですか?」

 やはり、警視庁を味方につけたのは正解だった。
 軽口を叩きあう周囲の様子に、西条なつみは確信した。

 この状況でなお、彼らには余裕がある。
 油断でも奢りでもない。ほどよい緊張と、適度な弛緩が最大のパフォーマンスを生むことを知っている、プロの姿勢だ。

 第6部隊。魔人と一体化している可能性から、対人用の麻酔弾を試用。効果薄。撤退。

 突撃した12部隊中、11部隊、撤退。
 その報を受けたとき、『ラブ・ファントム』率いる部隊の前には、目的としていたガラス張りのビルがあった。

 第8部隊―― 住友不動産秋葉原ビル、現着。



 そのビルの入り口に立っていたのは、温厚な笑顔を浮かべる少女だった。
 西条なつみのような、見る者全てがはっとするような強い印象を持つ美女ではない。
 目立たず控え目な、だからこそ男女問わず慕う者の多い、そんな、庶民的な魅力の持ち主。

 それが。
 この『樹海』の主であると、全員が『理解』した。
 その小柄な体からにじみ出す、人ならざるものの気配。

「あの、はじめまして。私、森本 里実っていいます」

 銃を構える警官たちを前に、ぺこり、と少女は頭を下げた。

「あの、その女性の方……その、私と、似てる木がして、その……」

 発している言葉は、日本語だ。
 意味は理解できる。意志疎通も、一見可能に思える。
 だが、それこそ罠。食虫植物は、虫にとって最も魅力的に見える姿を偽装する。

 それと同じ。本人の意図によらず、森本里実という人間が善良であるほど。
 この『樹海』にとっては好都合な『囮』なのだから。

「――私の、『家族』に、なってください」

 種子、射出。

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:西条なつみ(2)。『反応速度』倍化。

 飛来する、森本里実の種子礫と、身を捻り回避する西条なつみ。

 その攻防が、『強欲の宿り木』と『ラブ・ファントム』の決戦の嚆矢となった。

 もはや、事ここに至り、演技は不要。
 西条なつみ――『ラブ・ファントム』は地の口調で問いかける。

「……森本里実! A級殺人鬼は――『箱』はどうしたのかな!」
「あの子には……怖い思いは、させられませんから。ナイショ、です。家族になってくれれば、教えてあげますよ?」

 地面が揺らぐ。
 その瞬間、『ラブ・ファントム』は両の手を足元のコンクリートに手をついた。

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:コンクリート舗装表層(1)。『耐久度』倍化。
 ――対象:コンクリート舗装表層(2)。『柔軟性』倍化。

 地面を突き破り、地下から警官たちを襲おうとしていた根が、強化された舗装に阻まれる。

「根は封じた! 視界の範囲の攻撃を警戒!」

 警官たちの動きは迅速だった。
 残る手段は、全方位からの枝、蔓による物理攻撃。種子による射出。
 うち、種子による射出は『バイ・クイーン』で強化された防護服で防げることは確認済み。剥き出しになった部位のみ警戒すればよい。

 西条なつみ――『ラブ・ファントム』を中心とした円形展開。
 四方を警戒しつつ、『強欲の宿り木』に火力を集中する。
 89式5.56mm小銃の3点バーストが『強欲の宿り木』の展開する樹の壁を削っていく。

 『樹海』の防衛反応は続く。枝が。幹が。純粋な質量が押し寄せる。

 鉄と木とのぶつかり合い。

 それは、文字通り人類と自然の対立の縮図。
 ギルガメッシュ叙事詩に描かれた杉の防人フンババとウルク王の対立から連面と続く、鉄と鋼により森を切り拓いてきた人類種の業の具現。

 であれば、結末は見えている。
 森は開拓され、削られ、薪と炭にされることこそ、歴史の流れなのだから。

 押し寄せる幹が、枝が、銃弾を撃ち込まれた直後、魔人警官の『傷口に塩(スウォーディング・ソルト)』によって弾痕を広げられ、へし折られる。

 5.56mmNATO弾が、『強欲の宿り木』本体を守る樹の壁を抉り、貫く。
 鉄の雨が、無防備になった少女の体を襲う。

「痛い――どうして――どうして、みんな――私を、殺そうとするんですか――」

 苦悶の声。可憐な声。憐れみを誘う声。
 だが。こみ上げる憐憫を飲み下せるからの、プロフェッショナル。
 弾丸は、止まない。

「――私を、拒絶、するんですか」

 森本里美の声のトーンが、沈んだ。
 保護欲を誘うような声から、地面から沁みだす、怨嗟の響きへ。

 森本里実の脳裏に浮かんだのは、昨夜出会った老人のこと。
 体から溢れるオーラを自在に操って戦う武道家。
 あの人はたしか、それを『殺る気』と呼んでいた。
 そして、自分にもそれが出せるのだ、『殺る気』を出せ、と言い続けた。

 あの時は、よく理解できなかった。
 だが、あの『箱』に触れた、今ならわかる。
 それは、誰の内にもあるもの。

 自分の願いは、家族を得ることだけど。
 それを邪魔するものならば、殺してしまえばいい。

 守るための、殺意。
 それならば許せる。それならば使える。

「――『殺る気』――でろー!」

 そして、少女は、自らの鼻先に、強く、拳を叩きつけた。

 瞬間。『樹海』すべてを、強烈な『殺る気(さつい)』が、覆いつくした。

「な――!?」

 第8部隊の反応が、一瞬遅れる。
 こんな反応は、報告にない。予測もしていない。
 一瞬で、部隊の半数以上が、倒れ伏していた。

 何が起きた?
 西条なつみ――『ラブ・ファントム』は思考を回転させる。

「――殺る気、枝ミサイル」

 森本里実は、そう口にした。

 殺る気? この、『樹海』全体を覆う、禍々しくも淡い輝きのことか?
 まるで花火が瞬くような、魂そのものを輝かせるような、このオーラのことか?

 それをまとった瞬間、攻撃の速度が、威力が、飛躍的に跳ね上がり、反応しきれぬ隊員が6名倒れ、3名が負傷した。
 原理はわからない。だが、それよりも、今重要なことは――

「まずい! 種子が! 『倍化』を貫通するぞ!!」

 敵の、必殺の攻撃が、有効になったということ。

「ねえ、私の、家族に――」

 地獄の種が、蒔かれる。

「西条さん――!!!」

 森本里実の指先から放たれた種子を、二人の警官が身を挺して庇う。

「西条さん。逃げましょう。作成続行は不可能です」

 名前も覚えていない、『傷口に塩(スウォーディング・ソルト)』の魔人警官が、西条なつみ――『ラブ・ファントム』と、『強欲の宿り木』の間に立った。
 第8部隊で無事な警官は、もはや彼一人だ。

「あなたが死ねば、西条直影氏が悲しむ」
「西条の人間は強欲でね。一度決めたことは貫くものだ。お父様も承知済みさ」
「気丈な女性だ。素のあなたの方が、俺には好ましい」
「ろくに知りもしない相手に言う台詞じゃないな。たとえば私は――」

 その言葉に、警官は、悪戯っぽい笑顔で答えた。

「――東京を騒がせる殺人鬼の一人かもしれない、から?」

 襲い来る『殺る気』を帯びた攻撃は不規則だ。
 枝から垂直にオーラの刃が伸びる、空中で射出して枝や種の軌道を変えると、何でもありだ。

 それを、魔人警官は、西条なつみを背負いながら、掻い潜る。

「いつから?」
「首都東京の守り手を舐めないでいただきたい」
「ならなぜ?」
「敵に塩を送れ、が我が家の家訓でして」

 溜息を一つ。
『ラブ・ファントム』は、警官に行使していた『バイ・クイーン』の効力を切り替える。

 魔人能力『バイ・クイーン』解除。
 ――対象:魔人警官。『西条なつみへの好感度』倍化解除。
 ――対象:魔人警官。『脚力』倍化解除。

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:魔人警官。『反応速度』倍化。
 ――対象:魔人警官。『膂力』倍化。

 西条なつみは殺人鬼である。
 その認識が、この警官の個人的な印象か警視庁の判断かはわからないが、少なくともこの男は、たとえ殺人鬼と手を組んででも、この樹海を止めることに有効だと判断してこの作戦に応じたことになる。

「けれど、この猛攻を、逃げ切れるとでも?」
「もちろん、と言いたいところですが……確かに、厳しいですね」

 謎のオーラ『殺る気』をまとったことで、攻撃の密度は遥かに増した。
 進むも地獄。退くも地獄。
 動けるのは、ただ二人。

 その絶対絶命の状況を、

 ――巨大な車輪が引き潰した。

 それは、パンジャンドラムと呼ばれる、イギリス産の失敗兵器だ。
 本来は命中と同時に爆発する、自走式地雷であったはずだが、今はその爆発機能は外されているらしい。

 シンプルな質量による蹂躙で、殺る気を帯びた枝や幹を薙ぎ払い、『強欲の宿り木』を襲う。

「殺る気――種マシンガン――!」

 少女の手のひらから生まれたオーラを帯びた種子が、車輪の接地部分で弾け、その軌道を逸らす。

 わずかに『強欲の宿り木』を逸れ、パンジャンドラムが少女の横を行き過ぎる瞬間、その形が、ぐにゃりと変形した。
 巨大な車輪から――少女の足を捕らえる、足輪と重りへと。

「――西条なつみ! 『消耗』を『倍』に!」

 知らない女の声が樹海に響く。
『ラブ・ファントム』でも、『強欲の宿り木』でもない、第三の女が、この森にいて、この戦いを、観察している。

 やられた。
 周囲を操って望むものを手に入れようとして、結局、自分は、利用される側だったということか。

 だが、今、できることは、これしかない。
 警察官と目くばせをすると、『ラブ・ファントム』は地面に降り立ち、

 魔人能力『バイ・クイーン』解除。
 ――対象:コンクリート舗装表層(1)。『耐久度』倍化解除。
 ――対象:コンクリート舗装表層(2)。『柔軟性』倍化解除。

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:西条なつみ(1)。『跳躍力』倍化。
 ――対象:西条なつみ(2)。『反応速度』倍化。

 跳んだ。
 同時に、警察官が足元のアスファルトに銃を乱射し、亀裂を入れ、

 ――魔人能力『傷口に塩(スウォーディング・ソルト)』発動。

 アスファルトの亀裂が崩壊し、拡大し、深くなり……地割れを引き起こす。
 それは一直線に、『強欲の宿り木』の足元へと繋がり、体勢を崩すが――
 空中を跳ぶ『ラブ・ファントム』には、空を行く女王蜂の道行きには、その亀裂は害を為さない。

 この数時間行動を共にしただけの、利害が一致しただけの警官と殺人鬼による即興の連携。

 それが、秋葉原樹海の主、『強欲の宿り木』への、致命の一撃を生み出した。

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:『強欲の宿り木』(1)。『消耗』倍化。
 ――対象:『強欲の宿り木』(2)。『死にやすさ』倍化。

 かくて、女王蜂の一刺しが、西条なつみの指先が、森本里実に、触れ。

 『強欲の宿り木』が、自らの『殺る気』に全生命力を奪われるのと。
 『ラブ・ファントム』と警官が、『強欲の宿り木』の種子を心臓に撃ち込まれるのと。

「――いい、殺手鐗(きりふだ)、だった」

 樹海の奥で潜んでいた二人の狙撃手が、動きを止めた『強欲の宿り木』の全身を満遍なく撃ち貫き、狙撃跡から変形した鉄の『箱』に封じるのと。

 すべてが、一呼吸にも満たない間の出来事だった。

「――嗚呼、残念。最高のご馳走を前にして。もう一つの食材も、まだ熟成しきっていないのに」

 殺人鬼『ラブ・ファントム』は力無く笑った。
 彼女の心臓には『強欲の宿り木』の『種子』が撃ち込まれた。

 放置すれば種子が芽吹き、『ラブ・ファントム』の体から養分を吸い上げ、彼女は死ぬ。
 根を張る前に心臓ごと種を抉り出せば、当然の生体反応として、彼女は死ぬ。

 これが、殺人鬼『ラブ・ファントム』の詰み。積み重ねてきた罪集めの果て。
 樹海に潜んでいたアンノウンが何であったのか、彼女にはわからない。
 いいように使われた悔しさはある。成し遂げることができなかった心残りはある。

 だが、彼女はそれでも笑っていた。
 自分は悪党で、異常者で、だから、いつこんな日が来てもいいと思っていた。
 今まで自分の手によってみじめに死んでいったモノたちと同じような、あるいは、それ以上の最悪も想定していた。
 それよりは、今は、遥かに良い。

「それじゃあ、答え合わせと行こうじゃないか。街一つ喰らった『強欲の宿り木』と。国一つ意のままに仕掛けた『ラブ・ファントム』二人の罪が、蜜が、どれだけ深いものか!」

 魔人能力『バイ・クイーン』発動。
 ――対象:自己(1)。『死ににくさ』倍化。
 ――対象:自己(2)。『膂力』倍化。

 己の異能による、身体強化。
 その直後、『ラブ・ファントム』――西条なつみは、己の胸に手を突き立てた。

 そして、――自身の心臓を、抉り出す。

「ああ――これが、私の――(ツミ)

 脈打つそれを、『ラブ・ファントム』は至高の果実であるかのように掲げる。

 古代エジプトの『死者の書』によれば、咎人は冥界の神アヌビスに自らの心臓を差出し、罪の重さを天秤にて測られ、魂の処遇を定められるという。

 だが、『ラブ・ファントム』はその裁定を己で行う。

 罪深きものを喰うことで罪を負い続け、美味の熟成を重ねてきた、己の臓腑。
 それに、西条なつみは、満面の笑みで噛り付いた。

 ――甘い。

 狂った彼女の味覚はそれを、確かに最高の美味と知覚した。
 例えようのない深い香味。甘味だけではない。ほどよい酸味と苦味。
 一噛みごとに全く異なる味が口腔内を満たし、しかし散らかった印象を与えない。

 嗚呼。これこそ、女王蜂の望んできた、最高の蜜。最期の晩餐。

 肉片の一つとして残さず、その『果実』を喰らい、塗れた指の血すら舐めとり、『ラブ・ファントム』は、天を仰いだ。

 絶頂。満ち足りた幸福。
 薄れゆく意識の中で、最期に西条なつみの脳裏をよぎったのは、

 ――そういえば。お父様、食べて、あげられなかったな――。

 なつみは、涙した。
 娘に喰われることを望み、しかしそれが永遠に叶わない父のことを想い、幸福の笑顔のまま清流の如き涙を流した。
 それは、食人鬼である彼女に、満腹と致命傷で生まれた気の迷いかもしれない。
 あるいは、単に、喰い足りないという彼女の強欲によるものかもしれない。

 しかし、この瞬間、父を想う気持ち、流れ出る涙は、紛れもない本物であった。
 そう。そこにあるのは、紛れもない、一つの家族愛ではあった。

 たとえ一時のまぼろしであろうとも。その愛を、涙を笑うものは、この樹海には存在しなかった。




8 モウニングコーヒー



 ごり、ごり、ごり。
 夜の秋葉原に、静かな摩擦音が響く。

 住友不動産秋葉原ビル、屋上。
 黒の『箱』から、およそ16m。
 黒星、針鼠、双方の能力の範囲外。

 そこで、二人は地面に座り込み、携帯用コンロをはさんで向かい合っていた。

 提案したのは、針鼠。
 未だA級殺人鬼KY-017を封じた『箱』のひびが広がらないのを確認し、それを争奪する前に休憩を申し出たのだ。

 黒星にとっても、疲労の回復は願ってもいないことだった。
 数日、まともに休みを取れていない。
 吸血鬼の体は夜にはよく動くが、精神的な消耗はまた別の話だったからだ。

 針鼠が握っているのは、コーヒー豆を削る手挽きミルだった。

「手慣れてる」
「昔の知り合いが、コーヒー好きでね。覚えたのさ」

 旨いコーヒーを淹れるにはそれなりの時間が必要だ。
 訥々と、二人はとりとめのないことを話した。

 双方饒舌ではなかったが、それでも、会話は、途切れなかった。
 互いに相手の情報を探ろうとしていたからという意味もあったろうが、それ以上に、黒星と針鼠という人間に、似た部分が多かったからだろう。

 性質として殺人を好むわけではないこと。
 技巧としての殺人には長けてしまっていること。

 正常な人格を持つ職業殺人者(じぶんとおなじ)

 それが、黒星に対する、針鼠の評価だった。
 そして、正常な人格を持つ職業殺人者というのは、往々にして愛欲に飢えているものだ。

 それを、この黒フードの少女は『殺人器』という自己定義で律しているようだが。
 痛々しいあり方だな、と、針鼠は思った。

 ごり、ごり、ごり。

「なんで、針鼠?」
「見ただろう。私の能力。鉄の針からさ」
「ヤマアラシでも、ウニでもいいのに」
「ウニっておまえ。美味か。ヤマアラシはあれだ。なんたらのジレンマみたいなのが気に食わない」

 ごり、ごり、ごり。

「君こそ、なんで、クワトロ・ボナンザ(よっつのこううん)なんだい。まさか本当にキューバ人じゃないだろう」
「……クロトワ。なんか、血は、めちゃくちゃ。クウォーターとか、なんか。あと、4つは、適当。思い出せる、よかったこと」

 組織に拾われたこと。
 师傅(せんせい)に師事したこと。
 师傅(せんせい)に再会したこと。
 ――『無体』を殺せること。

「クワトロじゃなくて、クロトワなのは?」
(クロ)は、师傅(せんせい)と、お揃い、だから」
「……そっか」

 なんて幼い、拙いこだわり。
 けれど、針鼠にも、そんな些細なことを大切にする部分があった。

 たとえば、読み終えたら繋がりが途絶えてしまいそうで開けなかった、推理小説とか。
 もう一生食べることがないだろうと誓った、屋台のおでんだとか。

 結局のところ、生き残った殺人者は、どちらも、救いようのないロマンチストであった。

 ごり。ごり。ごり。

「やっぱり、君は、人だろう。武器にはそんなセンチメンタルな感情なんてない」
「……私は、武器」
「本当に、そう、思えているかい?」

 挽き終えた粉をフィルターに入れ、携帯用コンロで沸かした湯を上から回しかける。
 こぽり。こぽり。
 香ばしい湯気が漂う。

「――姐姐、みたい」
「じぇじぇ? あまちゃん?」
「……なんでもない」

 一滴、一滴と、褐色の液体が落ちる。

「珈琲、そう、作るんだ」
「帰れたら試してみるといい。心も落ち着くし、いいものだよ」

 一杯分溜まったそれを、針鼠はまず、金属カップで黒星に勧めた。
 黒フードの少女はそれにおそるおそる舌先をつけ、露骨に顔をしかめて吐き出す。

「苦い。酸っぱい」
「……大概な子ども舌だな。ほれ」

 針鼠は、手元のプラスチックケースから小型の瓶を取り出すと、そこから白い粉をほんの少しだけ、カップのコーヒーに溶かした。

 勧められたコーヒーを、黒星は再度舐める。

「ぁ。少し、まし」
「サバイバル用の塩を入れた。抑制作用で苦味と酸味のカドが取れる。エチオピアじゃポピュラーな飲み方なんだと」

 針鼠は気付いていた。
 黒星が、その液体を、一滴たりとも飲み込んでいないことを。

 黒星は気付いていたのだろう。
 針鼠が、その珈琲に、鉄粉を仕込んでいたことを。

 飲んだだけでは死に至らない。
 だが、針鼠には魔人能力『鉄導徹毗(テツドウテツビ)』――鉄を操る能力がある。

 鉄粉の摂取者の胃を突き破り、血中の鉄分を吸収して肺へと侵入。
 肺や心臓を胃液で浸すパイプとなって、犠牲者の体内を侵食する。

 この国有数の守り手、石積彩花を殺した手法であった。
 好意的に黒星に近づいたのも、良き相棒を演じたのも、目的を前に無駄な休憩を持ちかけたのも、全てはこの殺し方のためだった。

 それを、目の前の少女は、看破しながら、穏やかにコーヒー入りのカップで手を温めていた。
 彼女にとってまだ『同盟』は有効なのだ。
 この温い時間を、一方的に破棄しようとしたのは、針鼠の方であったのに。

 針鼠は手元のコーヒーを呷ると、鉄製のカップを指抜き手甲へと変化させた。

「――茶番に付き合ってくれて感謝するよ」
「私も、暇つぶし、できた」

 双方、地面を蹴り、距離を取る。
 その踏み込みの風圧で、二人の安息を演出していたコンロの火が吹き消えた。

 針鼠が構えたBenelli M3 Shorty。
 黒星が構えたレミントンM870。

 12ゲージの散弾が交錯する。

 だが、黒星を襲う弾丸は虚空に『収納』され、
 そして針鼠を襲う弾丸は滞空中に鉄分の変形で軌道を捻じ曲げられる。

 二発目を撃つことなく、二人は散弾銃を手放した。
 針鼠は弾丸が無為であることを理解して。
 黒星は、次は銃身の暴発という形で能力が使われることを予測して。

 二人は射撃を捨てた。

 袖に仕込んでいた手裏剣を、針鼠は投擲する。
 相手に接触した瞬間、鉄粉、そして針と化して相手を穿つ、空間ごと相手を擦り潰す鑢。

 それを、黒星は、虚空に『収納』する。
 やはり、武器の射撃投擲は無効。であれば。

 ――魔人能力『鉄導徹毗(テツドウテツビ)』発動。

 手にした手裏剣を招き猫の形に成型し、投擲する。
 針鼠にしてみれば、形にこだわりはない。
 黒星の眼前まで手裏剣としての形を保って直進してくれさえすればそれで十分なのだ。

 黒星の魔人能力『灰色の武器庫』は、武器だと彼女が認識したものだけを『収納』可能。
 つまり、見た目が武器でないものであれば、『収納』はできないはず――

 その予測は、虚空に消え去る招き猫という結果によって、否定された。

「鉄が、あなたの、武器、でしょ」
「まあ、そうだよね」

 針鼠は、獰猛に笑った。


 ☆  ☆  ☆


『……だが黒星。”殺人器(おれたち)”が手にする以上、全てが、武器だろう』

 いつかの恩師の言葉が、黒星を救った。
 針鼠は、優秀な戦士だった。
 数日前の黒星ならば、為す術もなく敗北していたことだろう。

『あなたは――なに?』

 自分は殺人器。
 武器であり、武器に共感するものであり、武器を十全に使うものである。

 そんな思い込みから、黒星は解放されつつあった。
 自然と、武器に定義も広く認識できるようになった。

 ただし、昨日までのように、武器の声は幻聴(きこえ)えなくなった。
 武器との一体感は失われた。もしかしたら、武器を扱う腕は落ちたかもしれない。

 だが、鼓動が聞こえる。
 だが、血流が聞こえる。
 だが、呼吸が聞こえる。

 武器であるために余分と断じていたものが、手を取るように感じられる。
 そう。自分に、血と肉があるのは、そう生まれたから、そう作られたから当然。

 それすらも。認めて、武器として行使してこその、殺人器。

 針鼠が操る鉄の動きは変幻自在。
 筋肉の動きから読むことはではない。
 だが。それを使うのが人である以上、鼓動が、血流が、呼吸が、次の動きを告げている。

全て(10)かつ皆無(00)
『ならば、殺人鬼で、探偵であることに、何の不整合もありはしない。』

 弾丸が『謎掛』を穿った瞬間に共鳴した思考を思い出す。

 武器(クロ)か、人間(シロ)か。
 そんな悩みなど、元より、些細な問題だった。

 武器(クロ)かつ人間(シロ)
 答えは、灰色でいい。
 だからこそ、この身が抱える魔人能力は『灰色の武器庫』の名を冠するのである。

 後付けだ。偶然だ。思い込みだ。強弁だ。
 だが、この世界は、認識が、確信が世界律へ干渉する世界。

『やっぱり、君は、人だろう。武器にはそんなセンチメンタルな感情なんてない』

 コーヒーを淹れながら、針鼠が口にした言葉を思い出す。
 あれは7割方、黒星の認識を揺らし、『灰色の武器庫』への退避を封じる意図だったのだろう。 

 だが、3割には、心の底からの憐れみを感じた。
 それが、黒星には嬉しかった。だから、毒とわかっているコーヒーにも、舌はつけた。

「謝謝」

 だから、感謝を。
 拳を握り、調息。
 意識の全てを、次の一瞬の移動に賭ける。

 鉄を操る針鼠は、防御にも鉄を使える。
 鎧にするだけならばまだいい。黒鬼から教わった技の一つ、内家拳には、守りを徹す拳打がある。

 だが、彼女が、その二つ名通り、鋭い鉄針で身を包んだら。
 白兵戦闘しか相手を傷つける手段を持たない黒星には致命的なカウンターとなる。

 ならば銃か。それも困難。銃を持っているところを認識されれば、良くて弾詰まり、最悪暴発で自らが傷を負う。
 撃つところを見られずとも、弾丸が視認されればその組成を操られ、軌道を逸らされる。

 ならば、取りうる手段は一つ。

 ――魔人能力『灰色の武器庫』励起。

 自分は武器(にんげん)である。
 黒星は武器(にんげん)である。

 自分の『灰色の武器庫』は、武器を収納する亜空間能力である。

 そんなはずはない、という、脳の当然の反論を否定する。
 武器は心臓を動かすのか、という、肉体の当然の反論を棄却する。

 自分は武器(にんげん)である。
 黒星は武器(にんげん)である。

 自分の『灰色の武器庫』は、武器を収納する亜空間能力である。

 故に。

 心臓を動かさず。
 その身に血すら流さない限りにおいて、自らの生命活動を否定することによって、黒星は、『灰色の武器庫』に収納されうる資格を持つ。

 たとえ自らの武器という定義と人間という定義を合一しようとも。
 この一点は、修正し得なかった。
 おそらく、一生をかけて深層心理に至るまでその概念を合一せねば、黒星が生命のままこの武器庫を出入りすることはできないのだろう。

 だがいい。今は、それで十分。むしろそれこそが、好都合。

 ――魔人能力『灰色の武器庫』発動。

 瞬間、その世界から、黒星という存在は、武器として承認された。 

 亜空間を移動する。
 止まった心臓が、供給されなくなった酸素が、途絶した血流か、
 思考を鈍くしていく。許されるのは、数秒間の移動。

 上下左右10m内の、亜空間を経由した転移。
 ならば、どこに移動する?

 針鼠は、虚空に消えた黒星を見て、全周囲に鉄針を展開しているだろう。
 頭上? 右? 左? 背後?
 否。否。相手が『針鼠』であれば、体を丸めて待ち構えるのであれば。
 狙うべきは一点――

 肉体が限界を迎えるその直前で、世界が、色を取り戻す。
 黒星は、現実世界へと、その身を翻す。
 目の前に、針鼠はいない。

 当然だ。黒星が出現したのは、ビルの最上階。
 屋上の針鼠が立っている、その、真下である。
 丸まった針鼠の死角は、針の途切れ目は、足元にしかない。

 そして、当然、認識できない方向からの銃弾を変化させることは、『認識』を起点にする彼女の能力には、不可能である。

 ――『灰色の武器庫』。

 ありったけの重火器を取り出すと、黒星は、真上へ向けて、無数の銃弾を撃ち込んだ。

 ぽっかりと天井に穴が開き。
 どう、と音を立て、屋上から、無数の針をまとった針鼠が、落下した。
 足から下半身にかけては、もはやずたずたの肉塊と化して、見る影もない。
 致命傷であった。

「……お見事」

 どこか清々とした様子で、針鼠は呟いた。

「何か、言い残す、ことは?」
「ないよ。今夜の戦いは私の蛇足だ」
「そう」
「ああ、でも。頼む。どうか――」

 針鼠は、自らの魔人能力で、無理やりに上半身を起こす。

「――私の首を、刎ねてくれ。元は別々だったんだ。最期くらい、正しい形がいい」
「そう」

 黒星は、『灰色の武器庫』から、古い打刀を取り出す。
 かつて、罪人の胴で試し切りをしたという、三つ胴切りの業物だった。

「おやすみ、姐姐(おねえちゃん)
「おやすみ、みどり」

 その言い間違えごと、針鼠の首を、黒星は一閃した。

 二つの命。『金岡かがみ』と『綿塚朱音』を繋ぐ、歪な繋がりを、断ち切った。




9 灰色の棺



 ――オギャア、オギャア。

 それは、産声。生誕の、再誕の祝福。
 全ての『呪い子』の輝きが、その業が、たった一人へと、集約された。

 そのことを『無体』は感じ取る。

 今代の宿主であるA級殺人鬼KY-017――長谷村美樹彦も。
 先代以前の殺人鬼たちも。
 いずれも優秀な殺人鬼ではあったが、ここまでの『呪い子』の業を束ねたものではなかった。

 黒フードの少女が、A級殺人鬼KY-017――『無体』を封じた箱に、巨大な口径の火器を突き付ける。

 さあ、小娘よ。『呪い子』の昏い輝き尽くを殺した者よ。
 撃つがいい。殺すがいい。

 そうすれば、貴様は、この二千年重ねた罪の継承者となる。
 私の――『無体』の一部となる。

 ただの連続殺人者ですら、この『無体』を宿せば、神話級の呪詛を得る。
 ただの樹の種子すら、触れただけで街一つを樹海に変える魔性を得る。

 なれば、元より『無体』の血により器として調整され、この蠱毒を生き延びた者が『無体』を正しく受け入れれば、どれほどの力を得られるものか。

「知道了」

 躊躇いなく、少女は、トリガーを引いた。
 銃声。

 ――魔人能力『無体』発動。

 自らを殺した者の肉体に精神を憑依させる能力は、幾度繰り返したかわからない変わらぬ精度でもって、『無体』を、黒星という少女の中へと転写し――。

「憑依、直後は、まだ私の自由、だったね」

 黒星は、己の両の足を躊躇なく7.62×25mmトカレフ弾で撃ち抜くと――

 なぜ?

 ――魔人能力『灰色の武器庫』発動。

「あんたには、高い、棺だけど」

 自らを、生命活動の一切を許さぬ亜空間へと放り込んだ。

 なぜ?

 まだ、この肉体に根を張り切れていない『無体』は、その自殺行為を止められない。

 なぜ?
 永遠に近い時を生きた『無体』には理解できない。

 この狂宴を勝ち抜き、あらゆる殺人鬼の中で、最も邪悪な殺人鬼が生き延びたはず。
 であれば、この無体な力を、概念的な永遠を、望みこそすれ、否定し、自死を選ぶなど、ありえないというのに。

「おやすみ。娃娃」

 ――オギャア、オギャア。

 もはや、『無体』には、赤子のように泣くことしかできない。
 黒星はあやすように自らの体を抱きしめ、『灰色の武器庫』のもたらす生命への弾劾を受け入れた。




10 殺尽輝



 夜明け前は、最も闇が深いとされる刻。

 秋葉原樹海の中心部の闇から、沁みだすように、一つの影が人の形を取った。
 夜魔口吸血(やまぐち くがち)
 二千年の時を超え、この国の夜を生きる、化生である。

「――新宿から出るのは、『協定』違反だろう。組長」

 その首元に、仕込み刀の切っ先が突き付けられる。

「ええ。酔っぱらっていても、それは見逃せないわねぇ」

 後頭部に当てられたのは、拳銃の銃口か。
 警視庁の『最強』と『最悪』が、前後から『夜の女王』を牽制していた。

「逸るなよ、公僕。私は、身内の恥を雪ぎに来たのさ。渡世人(ヤクザ)として、当然だろう?」

 それだけではない。樹海の木々の影には、無数の退魔魔人が潜んでいる。

「”吸血鬼の呪い”を受けた者は、他の”兄弟”の血を啜ることで、力を奪い合う。知っているな?」

 夜魔口吸血(やまぐち くがち)が指を弾くと、その足元に、黒フードの少女が現れた。
 地面に倒れたまま、呼吸すらしていない。
 死体であるようにしか見えない、無惨な姿だった。

「ならば、姉妹である以上、私が血を吸えば、『無体』の力をこの小娘から奪えることも、道理であろう。少なくとも、今回のような馬鹿騒ぎは起きなくなる。悪い話ではあるまい?」

 警視庁の『最強』と『最悪』は、手元のマイクで状況を報告し――数分後、無言で武器を引いた。
 鷹揚に頷き、夜魔口吸血(やまぐち くがち)は、少女のフードを脱がすと、その白い首筋に、牙を突き立てる。

 元より、これが、夜魔口吸血の描いた幕引きだった。
 万全な『無体』と夜魔口吸血が戦っては、この国全体を危険に晒す。
 何より、封印の外で力を振るえば、『協定』違反として、人との共存が不可能になる。

 ならば、『無体』の力を望むような殺人鬼が全て消えた後、自らの息のかかった『呪い子』に『無体』を継承させ、その支配が及ばぬうちに無力化して血を啜る。
 果たして、目論見通り。『黒星』はその名と自称のとおり、正しく有効な武器として、『無体』を殺すに至ったのである。

 慈しむように。憐れむように、夜魔口吸血は血を啜る。
 殺人鬼としてはあまりにも善良で、殺人器としてはあまりに人間らしかった少女と。
 始まりの想いを忘れ、摩耗して、ただの概念となり果てた妹とを、悼むように。

「二千年の彷徨もこれで終わりだ。愚妹め。――せめて、私の血と生きろ」

 尽輝収奪。
 ここに姉妹の『吸血鬼の呪い』は一つとなり、吸血鬼『無体』は死ぬだろう。

「――『無体』は消えた。だが、この体の持ち主は、どうなる?」
「これは、『屍体』だ。あるいは、ただの、壊れた『武器』だ。埋葬の必要もあるまい?」

 そう言って、『夜の女王』は笑った。























 夜が明ける。
 頬を焼く薄明りに、少女は、まぶたを開いた。

「――大姨妈(クソババア)

 いつの間に体にかけられていた黒コートを羽織る。
 一昨日断ち切ったはずの腐臭と、香水の匂いに包まれて、サツジンキは、立ち上がる。

「私も、死にのびた、みたい。どうしよっか、师傅(せんせい)――」

 くるる、と、腹が情けない音を立てた。

 黒星は、笑った。
 何が、殺人器だ。

「……アイス、食べたいなあ」

 自分は救いようのない人殺し。そんな風にハードボイルドを気取ろうとしても、命は貪欲で、呆れるほどに生きようとしている。 
 この生き汚さは『無体』だって笑えないだろう。


 ☆  ☆  ☆


 かくて、黒き星は紅昏(かわたれ)の闇へ溶けていく。
 因縁の戦いを終えても、少女の在り様は変わらない。
 人を傷つけ、殺す。その存在理由を貫くだろう。

 数多の欲望と殺意の煌めきを、尽く殺した。
 その先にあったかもしれない、物語を断絶した。
 人であれ道具であれその罪を、この身は負うべきだ。
 いつか、抱えた罪に耐え切れず、殺人鬼らしく惨めったらしく野垂れ死ぬ日まで。

 それこそが、彼女という殺尽輝(サツジンキ)の動機。

 正義などない。
 快楽などない。
 倫理などない。

 これからはただ、そう生きると決めたものが、その意地を張り通そうとするだけの物語が紡がれることだろう――。







最終更新:2020年07月03日 21:05