かつて、一人の男がいた。

 霧の都ロンドンにおいて殺人を繰り返し、民衆を恐怖のどん底に突き落とした男。

 正体を隠しすべてを翻弄し、民衆を好奇心のるつぼに引きずり込んだ男。

 その名は『ジャック・ザ・リッパ―(切り裂きジャック)』。世界一有名な殺人鬼である。

 彼の真名ならざる名は人々の記憶に深い傷を残し、そして彼らの社会に多大なる影響の残すに至った。

 そしてその影響は時代を超え、国境さえも超えて、はるか遠く極東の国にて大爆発を起こそうとしていた……。


 深夜の東京。人の気配も絶えた闇夜の中で、一つの影が走っていた。
 その服装は白いセーラー服にピンクのカーディガン。寒さ対策か首には大きめのマフラーが巻かれ、短めのスカートの下の脚は真っ黒のタイツで覆われている。
 女子高生であろうか、走る影は肩にかけたカバンを揺らし、息を切らせながら暗い夜道を突き進む。

「ハア……ハア……っ、あっ……!?」

 走るさなか、歩道に敷かれたタイルのちょっとした段差に足を取られ、転びそうになる。
 幸い転びはしなかったものの、カバンの開いた口から中身が零れ落ちた。それは地面に落ちるといとも簡単にひしゃげ、その中身をまき散らす。茶色の濁った液と、光沢をもった黒い粒。今流行りのベストインスタ映えドリンク、タピオカミルクティーだ。
 何を隠そう、その飲料はつい先ほど購入されたばかりのもの。落とし主はこれを買うために、わざわざこんな遅くに外出していたのである。

 だが、それは間違いだったのだろう。

「ヘヘェ……待てよォ、お嬢ちゃんン……!!」

 ぐちゃり、と音を立てて地面の上のタピオカが踏み潰される。
 その足の主は、ハイソな街・東京に似合わぬ、しかし闇夜の中にはこれ以上ないほどに馴染んだ姿の男。
 全身をどす黒いレザーで覆った、肥満体型の巨漢。しかし、彼はただの変質者ではない。

「……っ!?、いやっ!来ないでっ!!」

 女子高生は走りながら、おびえたように叫ぶ。その声は恐怖のためか掠れていた。
 だが咄嗟に出したのだろうその声も、男にとっては己を興奮させる要素にしかならない。脂ぎったその顔にニタニタとした笑みを浮かべながらも、決してその足を止めることはない。

 そうしているうちにも、二人の距離はどんどん近づいていく。
 かたや荷物を持った女子高生、かたや手ぶらの成人男性である。その体力差、走行速度の差は歴然だ。なにも起こらなければ、数分もしないうちに追いつかれてしまうだろう。

 だが、変化とは常に起こりうるものである。彼らの進行方向、その先にひとつの曲がり角が現れたのだ。

「ハアッ……ハアッ……っ!!」

 彼女は走る速度を緩めず、滑り込むように曲がった。
 その先に何があるか知っているわけではない。ただ、このまま追いかけっこを続けても捕まるのは時間の問題、ならば少しでも変化を期待して飛び込むしかない。そう考えたのだ。

 しかし。

「……っ!?えっ、そんな……っ!!?」
「残念だったなァ、お嬢ちゃんン……ヘヘエヘェ……!!」

 少女が見た道の先、そこは、行き止まりだった。

「わざわざこんな所に入るなんてェ、つまりそういうコトだよなァ……へヘヘェ!!!」

 男はさらにニタニタ笑いを強め、両手を広げながらジリジリと自らの獲物を追い込む。その口の端からはヨダレが垂れ胸元を汚したが、気にする素振りすら見せない。

「っ!!?やめて!!近づかないでよ……っ!!!」

 少女はなおも叫ぶ。否、もはや退路はなく、叫ぶことしかできない。
 震える手でマフラーを掴み、顔を隠すように引き上げる。まるでそれが精いっぱいの抵抗のように。だが、その行為も男の手にかかればものの数秒で無に帰すだろう。

「いいじゃないかァ……抱かせてくれよォ……エヘヘェ!!!」

 なおも近づく男。もはや彼我の距離は2メートルもない。飛び掛かればすぐにでも押し倒せる距離だ。

「なんなの……一体なんなのよ、貴方は……っ!!?」

 もはや掠れて麗しさを失った声、その声で女子高生は問うた。ここまで自分を追い続けた男の名前を。闇から這い出た恐怖の正体を。
 その問いを受け、男はニチャリと口を開いた。
 そして、己が異名を声高に名乗るのだった。

「オレは殺人鬼ィ……殺人鬼『池袋のジャック・ザ・リッパ―』様だァァァ!!!!!」

 瞬間、上半身のレザーがはじけ飛ぶ!
 そしてその下、ぶよぶよに膨らんだ肥満の肉体から、無数の鋭い牙が飛び出した!

 彼こそは最近の池袋を騒がす連続殺人鬼『池袋のジャック・ザ・リッパ―』!
 その犯行手口は、鋭利な杭のようなもので全身を何度も刺すという残虐なもの。そしてその実態とは、大量の牙の生えた体で力いっぱい抱きしめし、そのまま被害者をずたずたに刺し貫く抱擁殺人鬼なのだ!

「へへヘヘェ!!!お前もォ、抱きしめてやるぜェェェ!!!!!!」

 『池袋』が跳ぶ!
 狙うは目の前の女子高生ただひとり。このままジャンピングハグを決めて一気に穴あきチーズにする腹積もりだ!

 迫る肉塊。突き刺さる牙。もはや彼女に抵抗するすべは無い!

 だが。

「なるほど、『やはり』か」

 殺人鬼の腕は、少女を捕らえることなく、空を切った。

「あれェ……!?」

 『池袋』が狼狽える。
 だがそれも仕方がないことだ。なにしろ、あり得ないことが起こったのだから。

「どこォ、行ったんだよォ……?」

 女子高生が、その腕にかき抱くはずのその身体が、完全に『霧散』したのである

 あり得るはずのない人体消失。その事実が殺人鬼を混乱させ、パニックに陥った脳は酸素を求め呼吸を荒くさせる。

 普通、人間が突然いなくなるはずがない。となれば、『普通ではないこと』が起こったのだ。だが、それは……?
 必死に考えを巡らせる。彼とて『ジャック・ザ・リッパ―』を名乗る殺人鬼、その辺の有象無象とはわけが違うのだ。いつまでも混乱し続けることはない。
 そして、その頭脳がひとつの結論をはじき出した。

「魔人ン、かァ……!?」
「ご名答、だがもう遅い」

 『池袋』の問いに応える声。
 だが、それは、彼の『体内』から響いた。

「おッ、ごオオオォッッッ!!?」

 急激な眩暈、そして異常な吐き気が殺人鬼を襲う。
 反射的に口を押さえると、手のひらが真っ赤に染まった。

「なン、だ……ァ!?」

 絞り出すような声と共に、ごぼり、と大量の血液が零れ落ちる。
 口からだけではない。鼻からも、目からも、耳からすらも血が流出する。
 急に足から力が抜け、彼はその場に仰向けに倒れた。

「いやあ、もしかしたら『ジャック』ではない、無名の殺人鬼なんじゃないかとヒヤヒヤしたよ」

 体内から響く声は『池袋』の惨状を気にも留めないかの如く、軽い口調でそう続けた。

「いやまあ『ジャック』以外を殺しちゃダメってわけじゃないんだけどね、ホラ、無益な殺生は良くないと思うし」

 さらに声は続く。異常な体調不良から来る幻聴ではない。何者かの意思がある。
 『池袋』は腕を動かそうとする。彼もまた殺人鬼だ。相手がいるなら殺せる、そう思い殺意を漲らせる。

「ああ、動かなくてもいいよ。もう終わらせるから」

 だが、腕はピクリともしない。代わりに、背筋に耐えがたい悪寒が走った。

「さらばだ『ジャック・ザ・リッパ―』。地獄で会おう」

 そして、殺人鬼の胸、その内側から『ナイフを持った腕』が、生えた。


「ああーーー……もう、最悪だ……」

 深夜の東京。人の気配も絶えた闇夜の中で、一つの影がしゃがみ込んでいた。
 その服装は白いセーラー服にピンクのカーディガン。寒さ対策か首には大きめのマフラーが巻かれ、短めのスカートの下の脚は真っ黒のタイツで覆われている。
女子高生であろうか、座る影は手に血に濡れたナイフを持ち、地面に落ちた何かを惜しそうに見つめていた。

「おい、そんなところで何をやってる」

 そんな彼女に声をかける一人の男。見ればその恰好は警官のそれだ。

「終わったのか?どうなんだ」
「終わったよお、うう……そこの路地裏だよ……」

 そう言われ、男は少し離れた路地の裏を覗きこむ。
 そこには、仰向けに倒れ、胸に大きな穴のあいた巨漢の死体。

「『ジャック・ザ・リッパ―』か?」
「『池袋の』らしいよ……うう」
「おい、さっきからなに呻いてるんだ」

 警官は突然の死体にもたいした反応を見せず、そのまま『女子高生』の足元を見る。
 そこには、道路に広がる茶色の液体と、潰れた黒い粒。

「タピオカ?」
「そう、タピオカ……せっかく買ったのに……」
「なんだそんな事か」

 はあー、と心底どうでもいいといったため息をつく男。実際、彼にはどうでもいい事だった。
 だが当人にはどうでもよくない事であるのは明白だった。ましてや女子高生相手ならば、少しは理解を示してあげても良かっただろう。

「そんな事、ってのはひどくないか!?人が落ち込んでいるんだぞ!」
「そんな事で落ち込むんじゃないよ!アンタもいい年だろうが!!」
「ぐぬ……っ!?」

 本当に『女子高生』ならば、だが。

「いい年こいたおっさんがタピオカミルクティーひとつで……女子高生の恰好までして、まったく」
「いいじゃないかいい年こいたおっさんがタピオカミルクティーひとつで騒いでも!!」

 そう、彼女、否、彼は女子高生ではない。肉体年齢30代のおっさんである。

「それに女子高生の恰好は君がさせてるんだろう!!?」

 女子高生の恰好をしてタピオカミルクティーひとつに騒ぐおっさん、何を隠そう、彼こそは現代に蘇った殺人鬼、『元祖』ジャック・ザ・リッパ―その人なのだ。

「そりゃあそうだ、『ジャック』の被害者は女子高生が多いからな、おびき出す餌にはもってこいだ」

 そしてその相手をする警官、彼こそが『元祖』を現世に呼び出し、あまつさえ女子高生の恰好をさせている刑事にして陰陽師、99代目・芦谷道満である。

「その理由はもっともだけど、他にも方法が」
「そもそも、女狙いが多いのは『元祖』のアンタの影響だろが」
「うっ、反論できない……」

 ことの顛末はこうだ。21世紀になって十数年、東京都は増え続ける殺人鬼、その中でも『ジャック・ザ・リッパ―』を名乗る犯罪者に悩まされてきた。
 彼らは捕まえても捕まえても雨後の筍のごとく無尽蔵に数を増やし、ついには全都民の10分の1が『ジャック・ザ・リッパ―』となってしまう事態を招いてしまったのである。それだけ『ジャック』の名前には魅力があったのだ。
 事態を重く見た警視庁上層部はたまたま警察に就職していた99代目・芦谷道満に命令を下した。「なんでもいいから『ジャック・ザ・リッパ―』を減らせ」と。
 その命をうけた道満は、代々伝わる陰陽術によりかつてロンドンを恐怖のどん底に陥れた『元祖』ジャックを呼び出し、それに粗悪フォロワーたる『ジャック』共を片付けさせることを思いつき、上層部の許可を得たうえでその計画を実行に移したのだった。
 そして召喚された『元祖』は改心済みだったため仕事を快諾。今に至る。

 そんなわけで、殺人鬼と陰陽師、彼らふたりはタッグを組み、こうして日夜『ジャック・ザ・リッパ―』自称者を狩り、夜の東京の治安を守っているのだ。

 ……しかし、女装に関しては未だ納得していないのも事実ではあるのだが。

「まあ、半分くらいは俺の趣味だけどな、女装」
「えっ!?えっ、ちょ、なんだって!?!?」
「いやだから、まあ、割とクるものがあるよな、おっさんの女子高生姿」
「へ、HENTAI!!知ってるぞ、そういうのHENTAIって言うんだろう!?」
「まあまあ、似合ってるんだからいいじゃないの」
「よくなーーーい!!!」

 そんなこんなで騒ぎつつ、いつも通りに夜は過ぎていく。
 だが、これで終わりではない。彼らの戦いは、まだ始まったばかりなのだ。

 たたかえ!『元祖』ジャック・ザ・リッパ―!東京都民の安心のために!
 はしれ!『元祖』ジャック・ザ・リッパ―!パンチラはあんまりうれしくないぞ!



<了>
最終更新:2019年11月20日 21:14