プロローグ『私の思考、うちの行動』

 ふわりと風に髪が舞って、私は甘い香りを吸い込んだ。

「どうしたの? 変な顔」

 彼女の名前は美藤羊子という。
 髪は長く、艶のある美しい黒が目にかかる。
 モノトーンかと見紛う白い肌は、赤面症の嫌いがあるのか赤みが差すことがままある。
 前髪に隠れる瞳は赤く、少し切れ長でどこか鋭さをたたえている。
 しかし、よく微笑みを浮かべているのでそれを包み込む柔らかさのようなものを感じられた。
 彼女は私と同じ大学に通っている女性だ。
 学部は違うがサークルは同じ、演劇を楽しむ者同士という関係。
 ……少なくともいま現在では。

「いや、何でもないよ……」
「本当に? うちの顔に何かついてたかしら」

 彼女に曰く「田舎の生まれ」とのことで、その証拠を示すように自分のことを「うち」と呼んでいる。
 だが私の仲間内でも彼女が彼女の生まれた土地の言葉で話しているところを見たことがないらしい。
 美藤さんは自分の生まれに劣等感ないし、抑圧するべきという感情を持っているのかもしれない。
 私はそれを深く追求せずにいた。
 そういった部分も含めて彼女は美藤羊子であり、そこに触れたりあまつさえ暴くということは、まるで完成した彫刻から一部分を切り取るようなことではないのだろうか。
 あるいは絵の上に乗った絵具を削り取ってしまうようなと言ってもいい。
 言葉遣いだけでなく、彼女の持ついくつかの謎めいた一面をのぞき見しようなどとは私は思えなかった。
 そうすることで魔法が解けてしまう気がしているのだ。
 美藤羊子という存在を何か小さなものに引きずり下ろしてしまうような気がする。

「本当に、なんでもないよ」
「そう、ならいいのだけど」

 そう言ってこちらに彼女が微笑む。
 髪の間からのぞいた瞳に射貫かれて、私の心臓は変拍子で跳ね上がる。
 規則的な鼓動は彼女によってあっさりと崩された。
 それはよくあることだが、いつまでたっても慣れないことなのだ。
 分かっている。
 私は彼女に己の心を奪われてしまっている。
 心臓を掴まれている。
 目を引かれている。
 こんなことは人生で初めてのことだ。
 身を燃やす激情とはこういうもののことを言うのだろうか。
 彼女の視線を感じるたびに、彼女の声を聞くたびに、彼女とふとした拍子に触れあうたびに、火の中に薪がくべられる。
 そのたびに私は燃え上がるのだ。
 彼女の事だけを好きでいる。
 彼女の事だけを考えている。

「本当に、変」

 そう告げて彼女が私に寄りそう。
 手を繋いでいるわけでも、腕を組んでいるわけでもないのに私の体は火を背負ったかのように熱を発している。
 もう日は落ちてしまっていて、夜の喧騒が街の中に広がっていっているのが分かる。
 今日はサークルの活動もない日で、私たちが一緒にいるのは普段の延長線上のことでもない。
 私は彼女に誘われた。
 何とはなしに、部室の中で彼女に声をかけられた。

『次の役、デートをするシーンがあるのだけれど……相手役をお願いしてもいいかしら?』

 は、と言葉が漏れた。
 それは心のひとかけら、彼女の熱でひび割れた硝子の胸の隙間からしみだした感情の雫。

『なんで、僕なんですか?』
『ごめんなさい、嫌だったかしら。私のような人間じゃあ……』
『い、いえ、そうじゃなくてですね……そういうことなら、本来の役者を連れ出せばいいじゃないですか。美藤さんに頼まれたらあいつも断りませんよ』

 私はその相手役の男が嫌いだった。
 演技経験者だということを鼻にかけていてどうにもいけ好かない。
 そんなに自信があるのならば、もっと大きな場所で勝負をすればいいのだ。
 それこそ、この東京の地であれば好機というものがそれなりに転がっているはずである。
 大方どこかの劇団で子役をやっていたが、成長してからの成績はからっきしでどこの事務所からも声がかからなかったのだろう。
 腕があるのならばどこでだって行って勝負が出来るはずなのに、ヤツは一学生の役者に身を置いている。
 まったくもって好かない。
 しかし男の顔はそれなりに良く、そういった物事に慣れた雰囲気を持っていた。
 私がこの千載一遇の好機ともいえる機会を見過ごそうとしているのは、つまりは適材適所という観点からの指摘である。
 ……私の名誉のために言っておくが決して腰が引けているわけではない。
 ただ私はこの状況に適した最高の答えを提示しているのであって、それ以上の感情及び思考などはないのだ。
 そうである、私はただ彼女にとって

『あなただからいいのよ』

 思考が止まる。
 濁流のようにうねり、渦巻いていたはずの考えが一瞬の内に消えた。
 凪、といってもいい。
 彼女の言葉が理解できず、私は硬直していた。
 ふふ、と声がして口元に手をやりながら彼女が笑う。 
 綺麗な微笑みだった。

『強く役にのめり込めるほどの体験を皮膚感覚で味わいたいの』
『は、はい……』
『うちだって、相手を選ぶわ。だから他でもないあなたがいいのよ』

 まるで電流が走ったようであった。
 鼓膜の中から入り込んだものが脳に達し、脊髄をたどって全身に循環していく。
 私の手は震えていた。

『今度のお休み、空いてる?』
『も、勿論! 空いてなくても、空ける所存で……』
『じゃあその日にしましょう。それと、敬語はやめて頂戴ね』
『それは、ええっと、どうして、です……あ、いや……どうして、か、な?』
『あなたとうちは同い年じゃない。それに……今回の役だってそうなんだから』
『あぁ……なるほど……』

 台本は私も呼んでいるはずなのに失念していた。
 そうだ、私はあくまで台本上の役割をなぞればいい。
 ただそれだけで十分なのだ。

『それにそんな言葉の距離であなたと話したくないわ』

 ……役割から逸脱しそうだ。
 そんなこんなで私と彼女は夜の街を歩いている。
 不思議な一日だった。
 観光名所を見る訳でもなく、私と彼女は東京の街をただ散歩していた。
 書店に入ってみたり、雑貨屋に入ってみたり、食べ歩きをしてみたりして時間を使う。
 食事はどこにでもあるファミリーレストランだったが、彼女は満足してくれたらしい。
 私を先導するように歩きながら、時々振り返るように私に伺いを立てる。
 猫の散歩について行く錯覚すら覚えた。
 彼女は気まぐれに接近したり離れたりを繰り返す。
 それによって私の心が焼かれていくとも知らないで。

「……もう帰ろうか」

 私はそう言って今日の幕を引こうとする。
 今日という日があったのは本当に幸福なことだ。
 役作りの一環としての相手役だとしても、私は彼女と多くの時間を共有し、多くの体験を共にした。
 あのサークルの誰よりも、あのいけ好かない男よりも。
 彼女に恋人はいるのだろうか。
 いや、きっといるだろう、彼女なのだから。

「いや」

 彼女が私の手を取った。
 握り込まれた手が少し震えていた。
 電流が流されたように私の体は反応する。
 彼女の手を握り返す、彼女を抱きしめたい感覚に襲われるがすんでのところで理性がそれを防ぐ。
 間違えてはいけない。
 取り返しのつかないことになる前に離れて、深呼吸を―――――

「これ以上は……その、まずいと……ほら、台本だったら……」
「舞台のことなんて、言い訳と思って」
「美藤さん……」
「うちらは舞台の人間じゃないのだから」

 彼女の眼が私を見つめている。
 頬が赤くなっていた。
 その意味を私は図りかねる。
 頭の中にある事柄はただ一つ、『美藤羊子が欲しい』
 胸の高鳴り、血流が巡っていくのが分かる。
 彼女を奪いたい。
 自分のモノにしてしまいたい。
 揺るがない、揺るぎない関係と事実が欲しい。
 お互いに刻み付けたいのだ。

「ねぇ、うちを連れ去って」

 気付けば私は彼女を抱きしめていた。
 舞台は変わる、シーンが変わる。
 街中から暗がりへ、こみ上げる熱量を押し込んで彼女の手を引く。
 私の部屋まであと少し。
 コマ落ちの映像のように景色が飛び飛びに映る。

「ねぇ、そんなもの使わないで」
「なんで?」
「ゴムは苦手なの」

 私はこの瞬間だけ理性という枷を捨て去ろう。
 恋などという綺麗事は言わない、これは欲だ。

「それに、ハジメテがそれじゃあかわいそう」

 あくなきまでの渇望。
 三大欲求の一角。
 欲しい、繋がりたい、奪いたい、欲しい、好意があふれる。
 私は、彼女は―――――――――

「んっ……ふ、ぁ……」

 むせ返るほどの熱気と匂いが部屋に満ちていた。

「……いい、わ……あっ……い……」

 暗がりの中で動くものがあって、二つが一つの塊になっていた。

「……いくっ……いく、しぬ……しんじゃっ……!」

 午前三時、頂点に上り詰める呼吸。

「こわれ……ひっ、う……いく……いく……」

 だから

「逝く」

 だから『男は死ぬ』

「――――ひゅ」

 聞こえたのはちょうどそんな音だった。
 どくりと流れ込む生命のかけら。
 切れ込みの入った首から流れ出る生命のかけら。
 二つとも別々、しかし生命に変わりはなく。
 白と赤が黒髪の乙女に放たれる。
 徐々に青ざめる男、しかし不思議と筋肉は硬直したままだった。
 女の中に未だ潜り込んでいるソレもそのままでいる。

「ふふふ……」

 体の中の白、顔や体を濡らす赤、どちらも愛おしい様子で女は笑う。
 枕の下に滑り込ませて隠していたカッターナイフを手放し、男の首を抱き寄せる。
 真一文字の切り口に舌を這わせ、口づけた。
 それからもう生気のようなものが消えうせた唇へと口づけ。
 血がグロスのように赤い痕を残す。
 両の手で支えて眺める男の顔は絶頂の快感の色を残していた。
 女はそれで満足だった。
 ずるりとソレを引き抜いて、男をベッドの上に転がす。

「シャワー、借りるわね……その前に」

 スマートフォンを起動、タップされるレンズのマーク。
 立ち上がったカメラで男の顔を切り取る。
 何枚か撮って、アルバムから確認して一枚だけ残す。
 アルバムの中に残る人々の顔はそこに寝ている男と似ていた。
 歳や性別の違いこそはあれ、みんな快楽の中にいた。

「気持ちいいままで終われて良かったわね。救われた、とうちは思うわ」

 足を伝うものも気にせず微笑みを浮かべたままで歩き始める。

「うちより先に逝っちゃったわね」

 かつて閉ざされた田舎町に少女がいた。
 愛人形、美藤羊子の原点。
 快楽の果てに逝きつく場所へ心を連れて行く。
 東京に着て、あの男で何人目だろうか。
 確かに好みの男だったけど、ど真ん中というわけでもない。
 それでも幸福な死を与えたいと思うほどには、美藤にとって男は好ましい人物であった。

「次はどんな出遭いがあるかしら」

 心は玩具。
 体は武器。
 黒い髪、赤い瞳、白い肌。
 破滅と快楽の二重奏。
 媚薬じみた電気信号の送信。
 能力名『ラムのラブジュース(ラブ・ポーション)』
 愛人形、ラブドールではなくアイドルのルビ。
 殺人鬼、美藤羊子。

「楽しみね」

 彼女はいま、東京で生きている。
最終更新:2019年11月28日 00:35