「おめでとう、長さん! 本当におめでとう。ささ、もう一杯、もう一杯!」
「ありがとうございます。あ、でも、私はこの辺で……妻から、あまり飲むなと言われておりまして」
薄汚れた作業着姿の初老の男ーー、長谷村美樹彦は頬を赤く染めながら、差し出された徳利を固くなに辞した。中年の刑事、井野上義昭は笑顔で徳利を引っ込みながらも、「何を言ってるんだ、こいつは」と内心では思っている。
*
居酒屋から出た二人は、人気の少ない夜の裏道を千鳥足で進んだ。井野上は長谷村の袖を引っ張って、もう一軒行こうと赤ら顔で誘う。
「いいじゃん、いいじゃん。今日はお上の奢りだよ、税金で酒が飲めるチャンスだよ?」
「いやいや、本当に勘弁して下さい」
「生活保護の承認が下りた記念じゃん」
「井野上さんには本当にお世話になってますが……。すいません、妻から、暴飲は控えろと強く言われてまして」
「そっかあ。奥さんにそこまで言われてるんじゃ、しょうがないよねえ」
長谷村美樹彦の妻、長谷村夏菜子のことを井野上は当然知っている。だから、刑事は笑顔を浮かべながらも「何を言ってるんだ、こいつは」と内心思っている。「その女はお前が三十年前に縊り殺したんだろうが」と。
二人は連れ立って駅へと向かう。だが、途上で、長谷村の足取りがぴたりと止まった。真っ直ぐに棒立ちしたまま、呆けたような表情で何かを見ている。彼の視線の先を追った井野上は、ハッと息を飲み、「マズいな」と直感する。長谷村の袖を彼は慌てて引っ張った。
「長さん、帰ろ。な、帰ろ!」
視線の先にあったのは、四人の女子高生たちだ。人気のない裏道に佇む少女たち。そのうちの一人、黒髪の地味な少女が地面に這いつくばり、リーダー格と思しき金髪の少女から煙草を額に押し付けられている。取り巻きの残り二人の少女はそんな様を愉快げに見下ろしながら、ニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
ーーいじめ? 制裁? 抗争?
様々な可能性が井野上の脳裏をよぎる。しかし、そんなことはどうでも良い。
「な、長さん、帰ろう! 生活保護だよ、生活保護!」
長谷村が井野上の手を振り払う。進み出す。通り掛かったスクーターの坊主が長谷村の姿を見るや否やスクーターを横転させて、嘔吐しながら必死に這いずり逃げていく。「生活保護! 生活保護! 生活保護っ!」 井野上は呪文のように必死にその言葉を投げ掛けるが、長谷村の歩みは止まらない。
「なんだ、オッサン」
ガラの悪い金髪の女子高生が長谷村の接近に気付き、威嚇するかのような甲高い声を出した。取り巻きの二人の少女も、鋭い目つきで牽制するが、長谷村は無機質な表情のまま歩み寄り、取り巻きのうちの一人、茶髪の少女の首にそっと両掌を伸ばした。
「ちょ、長さん、やめろ! 生活保護……っ」
長谷村は些かも止まらずそのまま少女の首を絞める。ゆっくりと彼女を地面に押し倒し、その上に座って馬乗りとなり、さらなる力を込める。両手両足をバタつかせながら顔を青くしていく少女の首を、無機質な表情のまま絞め続ける。突然の展開に呆然としていた二人の少女が慌てて突っかかった。
「お、おいッ、てめェ!」
「は、離せよ! チカから離れろ!」
金髪の少女は、男を押しのけようと慌てて手を伸ばしたが、届かない。伸ばした先から彼女の両腕はあらぬ方向に曲がっていったからだ。
「は?」
肘上から先が逆方向へと折りたたまれ、血まみれの上腕骨が露出していた。だが、彼女が己の姿に困惑を覚えた時間はそう長くはなかった。次の瞬間には彼女の背骨が音を立てながら折れ曲がり始め、へその辺りから逆側に二つに折り畳まれたからだ。少女は数分も苦しむことなく絶命した。だが、それよりも幸運だったのはもう一人の取り巻きの少女で、彼女がいた場所には赤黒い血溜まりが広がるのみだ。原型を留めぬ肉片、骨片、腸、汚物が体液と共に放射状に広がり、車両に轢かれた蛙のような姿へと変わっていた。彼女は、おそらく数秒も苦しんでいないだろう。
長谷村に首を絞め続けられる茶髪の少女は、今や顔面は真紫に変わっており、口から汚らしい泡を吹き出している。長谷村は無機質な表情で静かに力を込め続ける。状況を把握しているのかいないのか、額に焦げ跡を残す黒髪の少女が、へたり込みながらも必死に手を伸ばした。
「や、止めて……チカちゃんを……離して」
力なく呟いたその口が、見えない力により縦に大きくガバリと開かれた。
「ぃ……ギィ」
大きく開かれた口から力ない叫びが漏れる。少女の口はさらに力任せにこじ開けられていく。両手で必死に己の顎を繋ぎ止めようとするが、不可視の暴虐は止まらず、有り得べからざる大きさにまで口は開け放たれ、顎関節はメキメキと音を立てて破壊される。たまらずに仰け反った少女の額の焦げ跡がアスファルトに接地すると、見えない力は今度は彼女の額を箒代わりに使う。少女の尻を支点にして、上半身が右へ左へと半円形を描き、地面を掃き清めるかの如くに彼女の額の肉と骨がアスファルトにより摩り下ろされていく。少女の掛けていた眼鏡がへしゃげて、小さな口から恐怖に満ちた嗚咽が絞り出される。時間をかけて少女の前頭葉はゆっくりと破壊されていく……。
その光景を前にした刑事、井野上義明は立ちすくみ、そこから一歩も動かなかった。彼は震える手でスマホを取り出し、己の所属する殺人課へとコールする。
「だ、駄目だ。長さんが……やりやがった。ガイシャは四人。目撃者なし。すぐに一帯の封鎖を……」
戦慄すべき情景、少女の悲鳴を耳にしながらも、刑事は一歩も動かない。止めに入れば死ぬからだ。理屈は分からない。だが、とにかく死ぬ。長谷村の殺しを邪魔したり、長谷村に害意を抱いた者は不可解な力により惨殺される。拘束、逮捕に乗り出した警官たちは皆死んだ。遠距離からの狙撃は引き金を引く寸前に狙撃手が死んだ。飯に毒を盛ろうとした時は、毒薬を取り出す寸前に刑事が死んだ。
彼ら警察は長谷村から何も奪うことができない。ただ、与えることはできる。連日、酒宴に連れ出して、アルコールの力でじわりと殺そうとしたこともあった。だが、その作戦は、長谷村が言うところの「妻から止められた」という不可解な理由でご破産となった。そして、万策尽きた警察側の最終作戦が「生活保護と引き換えに長谷村に殺しを控えるようお願いする」という、身も蓋もないものであった。しかし、井野上はこの作戦には一縷の望みがあるとも考えていた。
長谷村は紳士である。
殺人鬼とは思えない程に温厚で話も十分に通じる。ルックスもくたびれてはいるが整っており清潔感がある。職場の評判も上々で、勤勉かつ人当たりが良く仕事は丁寧だ。厳しい肉体労働や単純労働、安い賃金にも不満は漏らさない。ただ、女は殺す。その度に職場をクビになる。だから生活に困っていた。そのまま放置するという選択肢は警察側にはなかった。長谷村が餓死しかけた時に何が起こるのか、誰にも想像できなかったからだ。生活保護ごときでこの殺人鬼に首輪が付けられるのなら安いものだったが……。
このざまである。井野上は最初、長谷村は黒髪の少女の首を絞めるものだとばかり思っていた。嗜虐性を掻き立てる情景が長谷村のスイッチを入れる傾向がある。長年の付き合いから井野上はそれを知っていたが、今回、長谷村が選んだのは取り巻きの茶髪の少女であった。この辺りの選択基準などは未だに意味不明である。
ガリゴリと嫌な音を立てて少女の脳髄が削られていく。首を絞められた少女の足先が痙攣している。井野上は諦念に満ちた溜息を吐いた。これでもう警察が打てる手は何もなくなった。殺人課はB級のファイル棚から長谷村のファイルを移動させるだろう。おめでとう、長谷村美樹彦。これでお前も明日からA級殺人鬼だ。俺たち警察は今後一切、お前を逮捕、拘束、殺害しようとする意志を放棄する。俺たちにできることは、後はもう祈ることだけだ。
ーー長谷村よりも危険な殺人鬼が現れて、あわよくば両者共倒れで死んでくれることを……。
最終更新:2019年11月29日 19:56