「死ね」

 ありふれた常套句へようこそ!
 私はこいつが大嫌い。

 こいつって誰かって? こいつはこいつ。名前を呼ぶにも値しない。
 だってこいつは「殺人鬼」。

 腕が二本に足も二本、首一つ。
 五体満足なただの人間よ。それ以上は語るのもいや。
 人を殺しただけで単なる人間が鬼になろうなんて本当におこがましいと思うわ。

 「死ねばいいのに」

 やつは、冬の街を歩いているの。次の獲物を物色しようと探してる。
 私にもわかる。今はあちらこちらで殺人事件が起こっている。だからいらだって る、次の獲物が見つからないから。
 私は知ってる。連中の顔はいくらかは覚えたから。あいつらもおんなじような顔をしてた。

 だから私はこう言うの。
 「死ね」「みんな死ね」 
 死ねばいいんだと私はいつだってこいつに向けて囁いている。こいつらに向かって叫んでる。
 なんびゃくまんかい言っても物足りないわ、ああだってこいつはまだ死んでいないんだもの!

 「死ね」「死ね」
 私はこいつから目を離せない。
 だけど、何も離れられないわけじゃないの。それなのに! 考えのすべてをこいつに握られているようで腹が立つ。

 「死ね」
 ことばだけじゃあ、どうにも止まらない。首を振って無理にでも私の言葉を振り払おうとするこいつのことがさらに憎い。

 「じゃあ、これならどうだろう」

 透明なからだをもっともっと透き通らせて、風に乗る。鉄骨も、セラミックも、私の前では何のさえぎりにはならないわ。ここはあいつの家の中。
 お風呂場の窓は開け放たれていて。そこから流れてくる冬の風は、この小さな、人並みの家を通り抜けていくの。

 びゅうごうと風は音を立てて吹き抜ける。閉じた扉に風はぶつかった。
 笛の音になる前の純粋な空気がそこにとどまっているとして、本当なら進むのにどこか重さを感じていたのだろうけど。私は何も感じない。寒気は感じない。
 痛みも、何も感じない。ここは、台所。あいつの、母親がいた。

 「あいつは死ねばいいんだ、むごたらしく誰よりもずっとずっと――」
 リズミカルに鳴らされる包丁の音が、私の言葉も刻むみたいでいやになった。
 まな板の上でさいの目になっていく玉ねぎに私の手を重ねてみた。痛みは感じない、何の変化もない。

 「なにもできない」
 私は、きっと世界に何もいい影響なんて与えられないんだ。そうやって絶望してる。いら立つ。びゅん、びゅん、と滅茶苦茶に手足を振り回す。地団駄を踏む。

 「なにもできない」
 きっと、母親は何も聞こえないだろう。
 だってこの人は何の罪も犯していないから。

 誰かに見えて、誰かに聞こえる。それ以外の誰にも見えないし、聞こえない。
そんなルールが私にとっては支配的だ。幽霊なんかじゃない、そんなやつらに会ったことはない。
 だから私は幽霊じゃない。幽霊なんて見たことない、人が死ぬところに出くわしても出てこない。

 だから、これは恨みなんかじゃ絶対に、ないんだ。 
 それでもたったのひとつ言えることがあるんだ。
 あいつらが、あんたが憎い。わけもわからなく憎いんだ。

 「死にたい、いいや死ね!」

 歩みを合わせてしまえば、きっとそうなんだろう。
 スリッパのパタパタという音より、私のはだしがフローリングの床をたたく音のほうが大きい。
 姿も上書きされる。物を持ち上げたり、投げたりといった干渉はできなくてもそこに見えるすがただけは優先させてもらえるらしい。
 それも私が発見したルールのひとつだ。もちろん声だって通る。

 「おかえりなさい」
 母親はきっとそういったんだろう。私が同時にまくし立てたから想像でしかないのだけど。

 「死ね、消えろ、お前なんかこの世から消えていなくなれ。なんでお前なんかこの世に生まれてきたんだ。ゴミみたいに死んでくれ。大嫌い大嫌い、人殺しなんて大っ嫌い! 死――」

 母親の最期の声は世界のどこからも失われる。
 嫌がらせのつもりだったのに。

 ――一瞬だ。まな板の上に置かれた包丁を取って刺す。
 動きはそれだけだったのに。
 息が不自然に切れる音がした。喉から赤い血が溢れ出る音がした。
 何もわからないという顔をして、母親は倒れた。明らかに致命傷だ。

 こぽこぼと泡が混じって、血が流れる。床に広がってく。母親かいのちが失われていく音が聞こえる。
 あっ、洗わなきゃって場違いな感想が漏れそうになって。あわてて口を押さえる。喉元も、傷はない、血は流れない、痛みもない。

 「死ねーっ!」
 だって、結局私はこれだけしか言えないんだから。こんなことになるなんて。叫んで逃げだす。

 刺したあんたはぼうっとして、何もしないらしい。振り返ると包丁を置くところが見えた。
 いたたまれなくなって私は姿を消す。

 冬の冷気はどこか青色に似ている気がして、お気に入りだった気がする。
 もちろん、今は何も感じない。春も夏も秋冬も、みんなおなじ。



 剥き出しのコンクリート、打ったばかりのリベット。
 どこかのマイホームの建築現場、私はそこにいた。一度行った場所ならいつだってすぐに行ける、それも私の数あるルールのひとつ。

 男が驚いている。足元には女の子が倒れている。
 ああ。こいつも人殺しか。なんでこんなにタイミングがいいんだろう。
 早速この場所にいられないなんて、本当に間が悪かった。

 少しずつ出来上がっていく家をなんとなく、ずっと見つめているのは嫌いじゃなかったのに。
 人殺しなんて嫌い。一歩踏み込む、顔が近くなる。じゃあ挨拶だ。

 「死ね」
 目の前の、恐怖にゆがむそいつの瞳には倒れている女の子とおんなじ顔が映ってた。

 「ああそっかー、後悔するくらいなら殺さなきゃいいのに」
 わけのわからないことを言いながら掴みかかってくるそいつが、私のからだをすり抜ける。

 「人殺しに意味があると言うの?」
 私は興味がない。でも、憎い。へたり込むそいつを見下して私は消えた。



 戻ってくると、そいつは手を洗っていた。母親は死体になって転がってる。
 あんたは水道から水を流してじゃぶじゃぶと、ごしごしと手を洗ってた。

 「死ね」

 私はあんたのことなんか知らない。
 世間で言われている魔人がどうとか興味がない。
 あんたが私を無視するように、私があんたに興味がなくてもおあいこだろう。

 「死ね」

 私はあんたに殺されたわけじゃないから。
 幽霊だとか、悪霊だとか、そんなはた迷惑なものに思えて仕方がないんだろう。

 でも、憎い。ただただ憎い。
 人殺しが憎い。
 だから私は言うだろう。なんびゃくまんかい言っても物足りないその言葉を言うだろう。

 「あんたは死ね」
 大嫌い。 
最終更新:2019年11月30日 10:04