夏の盛を終えて一気に冷え込んだ秋の、日差しが暖かいある日。

 次女のモミジを産んで1ヶ月が経ち、そろそろ外へ連れ出してもよいかと思い、モミジを公園デビューさせることにした。
 都会は冷たいだなんて言うけれど、そんなことはない。
 ママ同士の互助ネットワークがあり、ここ三ヶ月ほど、四才になる長女が外で遊ぶときに見てもらっている。
 都会は冷たくない。(あるいは練馬が都会じゃない)。

 サオリさんが来た。今日はユウちゃんは連れてないらしい。サクラがはしゃいで靴はいて、モミジは私の髪を頑張って口に含もうとしている。
 公園につくまでの短い間に、新しい子供の話をサオリさんに聞いてみた。
 以前サクラから聞いていた、新しい友達のこと。おっきくてつよい、という話しか聞いていない。たぶん男の子だろうけど、誰の子だろう。ママ友ネットワークに新しく参入したのだろうか。
 そのあたりを聞きたかったのだけれど、サオリさんは曖昧に笑って首をふった。

「いい子だよ」
「近所の子?」
「……さあ?」
「いくつくらい?」
「わからない」
「なんっていう名前なの? 男の子って聞いたけれど」
「なんだろうねえ」

 サオリさんは、なんにも答えてくれなかった。
 少しからかわれているようだ。
 なんでも鵜呑みにするな、ということだろうか。自分で判断しろってことなのかな。
 サオリさん、少しおせっかいなところがある人だから。

 まあ、それでも聞いちゃうのが私の悪い癖だ。

「その子、みんなと仲良くできそう?」

 サオリさんは一瞬、目を見開いた。そして自然な笑みを浮かべて、ぞっとするほど平坦な声で言った。

「もちろんよ」





「小1から着替えてない浮浪者かな」

 その存在を見たときに、思い浮かんだ言葉がこれだ。
 裂けた礼服に、金玉がはみでるようなベリー短パンを履いた巨漢の大男。
 大男だ。まごうことなき大男。
 脛には毛が生え、口には髭も生えている。それなのに格好だけは小学一年生の入学式のままなのだ。なんとも不気味で汚いのだろうか。
 そんなやつの元に、サクラが駆けていった。
 私は叫び声をあげた。サクラの腕をつかんで止めたかったが、モミジを抱いていたため、できなかった。
 大男はサクラを掴み、ゆうゆうと体を持ち上げ、抱きしめた。サクラが潰れるかと思うほど、力を込めているように見える。
 そして最悪なことに、大男の腰が前後しているのだ。サクラの姿は、大男の太い体に覆われ、だらりと下がった足しか見えない。

「なにしてんの!」

 私は駆け寄って、そいつの腕を掴む。岩のように硬いそれはピクリとも動かない。そいつの肩を殴る。私の肩が外れそうだ。
 そいつは私を見ると、まぎれもなく、笑った。

「欧米じゃハグは挨拶代わりなんだが?」

 大男がパッと手を広げると、サクラはぼとりと落ちた。
 全身の力が抜けきっていてまるで死--
 サクラが立ち上がって、飛び跳ねて、笑っている。

「あはは! ポタクくん、もう一回!」
「ももも、もう少し息を弾ませて言ってくれたら、その、うひひ、考えてやらんでもないぞい」
「ハァ…ハァ…ポタクくん? もう一回……!! ハァ…今のやつ!!!」
「なんだこのメス死ねよ汝自らの快楽に忠実すぎるだろ本能の塊かな愛してるぞ」
「キャッキャッ」

 またサクラが抱きしめられ、大男が力強く腰をピストンして、解放されたサクラがぐったりして、また……。
 私がいくら喚こうが叩こうが、この大男は一向にやめない。
 サクラは純粋に、ただ遊んでいるだけなのになにが悪いのか、といった表情をしている。私が必死だから、なんか悪いなあ、と思ってはいるようだけど、大男が抱きつくとすべて忘れ去ってしまうようだった。
 私はへたれこんだ。
 目の前で行われているすべてが信じられなかった。

 この大男は、明らかに子供ではない。
 そして普通人でもない。
 魔人だ。
 圧倒的膂力と異様な性質……。こんなやつを我が子に近づけてはならない。
 最近は魔人に対する差別をなくそうだとかなんとか、宗教じみた集団がいるが、こんなやつらは排他されて当然だ。歴史的に見ても正しい。
 差別でもなんでもない、区別だ。
 何も知らぬ愛娘にこいつを近づけてしまったことを申し訳なく思うと同時に、遠くに固まっているサオリさんたちママ友にも腹が立つ。憤慨する。許せない。
 自分らの子が同じ目にあったら、嫌だろうに。
 そう考えて今更気づいた。
 他ママたちの子は、だれひとり、公園には来ていない。
 子供は、サクラとモミジと、そいつしかいなかった。
 面食らってしまった。騙されたようなものだ。

「ちょっとサオリさん、なんですかこの最悪は恥ずかしくないの」
「なにがかしら」
「あの異常者のことだよどう見ても。サクラたちを生贄にキグルを召喚すな」
「そうね。たしかにあなたにはそう見えるのかもね」

 サオリさんは、あいまいな表情を浮かべて他ママたちを見た。彼女らは薄く笑っていた。

「まあわからないのも無理ないかな」
「そりゃ、自分の子ぞ。ユウちゃんがあんなんに付きまとわれたら自殺でしょ?」
「そんなことないよ」
「いや。あえてユウちゃんを連れて来てないってことは、そうなんでしょ。みんなそうなんでしょ。私だけさあ、サクラだけさあ」

 サオリさんは初めて、悲しげに目線をおとした。

「ユウは……先に高みにのぼったよ」
「……?」
「地上人が死ぬと三界と呼ばれる神が作られた”本来”の濾過機にかけられるものだけれど、ユウの魂はそれらを必要としないほど澄んだ清らかさを持っていたの。だから天使さまにも見初められるほどだったの。ユウは人生で一度も苦しみを覚えたことがなかっから、私は幸福という名の猫と側にいて、その徳は測り知れず、ユウを育てた私も鼻が高いの。”太陽”の元に集えたら嬉しいのだけれども、現世の記憶を忘れた新神子として生きるのかもしれないわね。やっぱり大いなる流れがあるから」

 サオリさんの言葉に、他のママ友がうんうんと頷く。

「うちのカケルったら”魂の共鳴”は一日一クロノスって言ってるのに、全身の細胞が活性化する瞬間が永続的に続く幸福がほしいとかなんとかいって、非存在を顕現する力を器が壊れるまでやってしまうのよね……。やっぱり栄光と博愛のニューエイジはあんまり善行を好かないのかしら」
「元気があってよろしくありません? 使命持つ勇者は大地に抱かれているのですから」
「ええ。大地に抱かれてあれ……」

 奥様方はときにほほえみながら、ごく自然体に、やれ天国がどうたら、やれ人の世の裁きがどうたらとか、言っている。
 まったく面食らってしまった。

 私が世間と離れた三ヶ月で、全てが何もかも変わってしまったらしい。

 私の知る彼女らの子は、みな、この世にいないらしい。
 高みだとか幸せの国だとかもっとも深い川の底だとか、よくわからないがとにかく死んでいる。死んでいるっていうと否定されるけれど、とにかく死んでいる。
 ユウちゃんの死に方は悲惨だ。
 天の慈愛によって魂のアップグレードが行われ自身を書き換えることで高位存在としたらしい。ユウちゃんは--すでにこの名前は捨てたらしいが--自分のあるべき姿を好きなように変えることが出来るようになったため、一切の苦しみも悲しさもないのだという。
 ちなみに「天の慈愛」は「大男のレイプ」のことで「魂のアップグレード」は「子宮破裂によるショック死」のこと。
 娘が死んだ悲しみに耐えきれず、気が狂ってしまったのだろう。たぶんみんな。
 さっきまではサオリさんたちに怒りの目を向けていたが、いまは、憐れんでいる。

 それにしても分からないのは、悲しみを妄想でごまかすのは分かるが、なぜごまかすのだろうか。狂人から離れればよいのではないのだろうか。
 犯罪被害者の特別な心理は分からない……。

 そう考えたのは早計だった。

 私はこのあと、全てがわかった。

 この日、サクラの首の骨が「面白すぎて」折られ、モミジが叩かれて「醜く」肉と血を撒き散らした。

 意味があった。

 すべての事には計画があったのだ。
 救いの計画が。

 あの大男が私の体に抱きついて、モミジのように泣いて、乳を欲したとき、私は恐怖していた。

 けれども、全ては因果によるものだったのだ。

 モミジのために、我が娘のための私の母乳を、あの大男が飲む、その意味。

 私はちゃんと理解した。

 すべてを理解した。
 すべてを知っていることを思い出したのだ。




 ここは都会だ。
 冷たい都会であってもママ友ネットワークはある。
 福音の網の目は恢恢疎にして漏らさず遍くを見守っておられる。
 ときおり涙が流れるけれど、私の心はすでに答えを知っている。

「大地に抱かれてあれ……」
最終更新:2019年11月30日 20:58