きい、と蛇口をひねる音。
 ほどなく、鈍色のシャワーノズルから吐き出された生暖かい水流が、傷一つない色白な肌に当たり水玉を散らす。蛇口をひねり、シャワーを浴びた女は、文字通り一息ついたと言うように、はぁ、と息を吐く。呼気は一瞬だけ白くなり、すぐに湯気に混じって分からなくなった。
 熱を帯びた体に気を良くしたのか、女は少しだけ表情を緩めると、長く伸ばした髪を背中に流す。多くを占める長髪と、左耳の近くの一部だけ刈り上げられた短髪のコントラストが、妙な色気を感じさせた。
 不思議な印象の女である。単に美女というには活動的な雰囲気が、ボーイッシュと言うには色気が、快活と呼ぶにはどこか暗い雰囲気が、それぞれ邪魔をする。そんな女。
 彼女が微笑みながら湯浴みをする、日常の一風景、そんな形容が相応しいだろう。

 床の大部分を染める、彼女から流れ落ちた誰かの血を無視すれば、の話だが。

 女の名は浦見栞(ウラミシオリ)
 彼女が如何にして、シャワーで血に塗れた自らの肢体を洗うに至ったのか語るには、3年の時を遡ると共に、ある忌み名について触れなければならない。



浦見栞プロローグ『裏原宿ストローヘッズ』



 裏原宿ストローヘッズ


 それは忌み名であり、悪名であり伝説であり、そして希望だった。

 彗星の如く現れたそのチームは表裏原宿統一抗争を皮切りに幾つもの衝突と、時には国家権力も巻き込む動乱を経て血と闘争に塗れた渋谷のストリートをわずか3年で平定した。

 そこは世間からも学園自治法からも見放された、行き場のない少年少女の安住の地でもあったという。

 血と暴力と犯罪で呼吸するそのチームの名は、聞くものが聞けば眉をひそめる忌み名であった。
 しかし、世間との関係を血と暴力でしか表せなかった子供たちにとっては、それは確かに希望でもあったのだ。




 原宿の空は今日もどんよりとした鈍色だった。



 曇り空の下の路地裏を、二組の集団が駆け抜けていく。
 一組は揃いのライダースーツに身を包んだ5人ばかりの集団、もう一組は、ストリートファッションの男女5人組。ストリートファッションの集団が、ライダースーツを追い回している構図になる。

絶彦(タツヒコ)、上! あいつが蜘蛛頭(クモガミ)だ!」
「っしゃおらァ!」

 路地裏に小気味の良い声が響き渡る。
 ライダースーツの集団から飛び出した――文字通り飛び出し、ビルの壁面を駆け上がったのだ――一つの人影を追って、絶彦と呼ばれたストリートファッションの青年が、追従するように飛び上がった。

「頭ァ俺が抑える! カズト、お前らは三下共をやりな!殺すなよ!」
「目立ちたがりめ! しくじったら指差して笑ってやるからな!」

 カズトと呼ばれた少年はからから笑いながら、自らの首領を見送った。
 長い付き合いだ。これが一番いいパターンだと、カズトも絶彦も互いにわかっている。
 絶彦の能力があれば、蜘蛛頭のガラは抑えたも同然だ。もちろん、ヘマをしなければ、だが。
 ストローヘッズのNo.2を自認するカズトは、自らが任された場をどう盛り上げてやろうかと舌なめずりした。
 どうせ勝つならカッコよく。それが彼の信条なのだ。



 UBER-Meets ――それが原宿を中心に渋谷区北部一帯を支配するチーム。そのヘッドを務める浦見絶彦の能力だ。
 対象と自分を不可視の“線”で結び、その線を通じて対象にモノを届ける。おおまかに言えばそんな能力である。

 能力の対象として捉えている限り“必ず届く”から飛び道具のたぐいは必ず当たるし、
 自分自身を届ければ逃げる相手にも必ず追いつく。

「――っぶねぇ!?」

 極めて強力である一方防御はからきしである。
 うかつに踏み込むと死ぬ。
 事実、追われながらも適宜牽制と反撃を行ってくる蜘蛛頭に、絶彦は攻めきれずに居る。
 眼前に飛んできた糸の刃をすんでのところで避けると、後ろのビル壁が豆腐のように切り裂かれた。

「(んー…よくねぇな、こりゃ)」

 蜘蛛頭アズサ――カズトの情報によると多種多様な糸を作り出す魔人、だったか。
 本来はこの原宿との縁は薄く、吉祥寺のあたりのチームのヘッドであったはずだ。今はフルフェイスのヘルメットを被っていてわからないが、SNSの写真を見る限り結構美人だった。胸もある。

「なあ、おい、蜘蛛頭サンよぅ」

 付かず離れずの距離を保ちながら、言葉を向ける。語り口は静かだが、声を“届けて”いるのだ。聞き漏らすことはないだろう。

「吉祥寺じゃいま大変なんだって? 同情するぜ、なあ、おい」

 聞けば吉祥寺でも、海外マフィアの介入を背景とした大規模な抗争が始まっているということだ。蜘蛛頭のチームは大した規模ではないから、身の振り方には苦心するだろう。

「――――」

 蜘蛛頭は応えない。
 手指を振るって手繰られる糸を器用に操り、ビルの屋上を、壁面を、器用に逃げ回るだけだ。

「けどよ、横紙破りはいけねえな」

 絶彦の視線は、蜘蛛頭の抱えるアタッシュケースに注がれる。

俺の街(原宿)でクスリは御法度。知らねえたあ言わせねえぜ?」
「……ああ、そうだな」
「お、案外かわいい声してるじゃないの」
「――」

 からりと笑う絶彦に対して、蜘蛛頭は再び押し黙る。おっと、いけねえいけねえ。
 そう。この小康状態の間に、少しばかり情報がほしいのだ。

 抗争に焼け出されてホームを出るというのは分かる。
 再起のために資金がいるというのも分かる。
 そのために安易にドラッグを取り扱うというのも胸糞は悪いがまあ、わかる。
 だが――

「ちょいとお粗末すぎやしねえか――なあ!」
「……っ!」

 放った指弾が、蜘蛛頭の膝を捉え、大きくバランスを崩す。
 そう。“お粗末”なのだ。
 密売にせよ密輸にせよ、彼女らの仕事はすぐにストローヘッズの知るところとなり、この追跡劇となった。

「そいつを置いて原宿を出な。相棒が今頃あんたの部下もノしてるだろうが――ま、悪いようには……」

 傾いだ蜘蛛頭の腕からアタッシュケースが離れ、ビルの屋上を転がる。
 落下の拍子にか、ケースが開き、中身が晒されるが――

「―――?」

 “からっぽ”だった。
 その事実に、一時虚を突かれるが――

「(罠! 狙いは()か――!)」

 既に仕込まれていた蜘蛛の巣が八方より迫り、

「う、おおおおっ…!?」

 次の瞬間には、絶彦は縛り上げられてしまう。
 その段に至ってようやく、誘い込まれたのだと理解した。


「…………悪く、思うなよ」

 右脚を引きずった蜘蛛頭が、息を荒げながら歩み寄ってくる。
 がんじがらめにされた絶彦は、少しだけもがいたあとに無駄と悟ったのか。右腕の周りに多少の可動域(・・・・・・・・・・・・)を確保したら、あとはだらりと脱力してビルの縁に吊られるに任せる。

「いやあ、生け捕りたあ案外優しいなとは思うが」
「……」

 ヘルメットを外した蜘蛛頭が、飄々とした態度を崩さない絶彦を睨む。
 その面差しを見て、絶彦は少し顔を曇らせた。蜘蛛頭は美人だったが、写真よりは細面――平たく言えばやつれている。顔色は悪く目の下には濃い隈が浮かび、瞳の奥には諦観とも猜疑心ともつかない暗い光が宿っていた。

「……誰の差し金だ?」
「さあな」

 事実、こうしてにべもない。

「金のため?」
「…」
「ヤクのためか?」
「…」
「それとも人質でも――」
「黙れ」

 声音に険が宿ったのを感じ取り、ああ、当たりだなと察する。絶彦にとっては、それがわかれば十分だった。蜘蛛糸に絡め取られたまま、身を捩る。

「ほいっ」
「――…!?」

 絶彦の能力は“届ける力”だ。放った指弾を確実に届ける。語った声を確実に届ける。
 あるいは――振るった拳の、その暴力や衝撃だけを、届けることだってできる。知らなければ――あるいは知っていても相性次第じゃ防げない、シンプルだが強力な能力行使だ。
 緊張と弛緩を経て、不意に顎元に衝撃を受けた蜘蛛頭は、意識ごと刈り取られて崩れ落ちた。



「じゃ、喧嘩終わり」
「は?」

 意識を取り戻した蜘蛛頭に向けられた第一声が、それだった。馬鹿なんだろうか。

「うるせえなあ。負けたんだから洗いざらい事情を吐いていけや」

 拘束されてすらいない自分に、缶コーラが投げ渡される。炭酸を投げるな。

「………どういうつもりだ」
「どうもこうもねえよ。言った通り。人質取られて無理やりなんてやつ向こうに回すの、俺嫌いだし」

 あっけらかんと原宿の首領は肩をすくめる。

「ヤるなら人質助けに行く方が原宿(おれたち)らしい」

 どうにも本気で言っているらしい。
 根を伸ばしてきている北海道マフィアが相手だと聞いても、この男はやるのだろう。そう思わせる空気を、浦見絶彦は纏っていた。

 どうして、そこまでするというのか。
 降り掛かった火の粉ではあるが、それ以上の関係はないだろうに。

「そらお前、ここでやりあった以上、こいつは原宿の事件だ」



「この街で俺に“関係のないこと”なんてねーのさ」




「もう、兄さんたらまた」

 こうしてまたぞろ生傷をこさえて帰ってきたいい年の悪童ども、その首魁に対して彼女──浦見栞は困ったように眉根を寄せた。なんでか出てったときより人数まで増えている。それは彼らにとってはいつもの事であったし、理解をしていれば諦めもしているが、しかし小言の一つを言う権利ぐらいはあるだろうとも思っている。

「ハハハ、まあそう言うなよ。 な、な?」

 ヤクザも警察も魔人公安もものともせず。東京に怖いものなしと豪語する絶彦だったが、妹のこの困り顔にはどうにも弱い。愛想笑いを浮かべて機嫌を伺う首領(ヘッドオブヘッズ)を、仲間たちはけらけらと笑って眺めた。
 竹下通りからキャットストリートに抜けるいくつかの道筋の、中でも一等日の当たらない細道の途上にある雑居ビルが、彼らのねぐらだ。そこに時折増減を繰り返しながら、20人からなる男女が、雑に寝泊まりをしている。

「晩飯は?」
「カレー」
「牛!」
「鶏よ」
「むね肉!」
「もも肉」
「ももかぁ」
「文句言わないっ」

 キッチンから漂ってくるスパイスの香りを背景に、彼らは思い思いに益体もない話に花を咲かせ、そのうち栞に追い立てられて洗面所へと放り込まれる。さっさと手を洗ってきなさい。
 追い立てられるその背中は河原で喧嘩とエロ本探しに明け暮れていた頃と何ら変わらぬ悪がきっぷりで、栞はなんだかおかしくなってしまう。今となってはストローヘッズは、ヤクザも警察も無視のできない一端のチームであるというのに!



「高校?」
「おお」

 鶏もも肉のカレー(おかわり三度目)を突きながら切り出した兄の言葉に、栞は怪訝そうに首を傾げた。

「お前もさ、そういう歳だろ。 考えなきゃいけないなって、兄ちゃん思ってるわけよ」
「えぇ……」

 珍しく真面目に唇を結んで、絶彦はそう続ける。
 口の端にカレールーがついていなければ、絵になる美男子ぶりだ。

「いいよ、今更。あたし中学だって行ってないのに」

 対する栞は気乗りのしない様子で、口をへの字に曲げる。
 家を出たのは栞が10歳を数える頃であったから、彼女の学歴は小学校中退だ。それでもどうにかやってきたのが、なんで今さら。といった所だった。

「兄さんと一緒にいるほうがいい」

「そうは言うけどな、あー……色々あんじゃん。将来とか、そういう。高校ぐらい出といたほうが良いって」
「兄さんだって高校行ってない」
「俺は……いんだよ。俺だし」
「なにそれ」
「高校には行ってないけどアレだよ、こう……学校では積めない“経験”?みたいな?」
「じゃ、私もそれ」
「だーめ」
「なんで!」

 ぷう、と、年相応の少女の面差しで、栞は頬をふくらませる。
 絶彦は栞のわがまま――大抵はささやかなものであったが――を概ね聞き入れて来たが、今回は頑なだった。
 栞としては、兄と、チームがすべてで。それ以外のものが特に必要だとも思っていない。
 けれど、兄はそうではない様子だった。
 自分が見ていないものを見ている。
 ずっと一緒だったはずの兄の様子が、少し、悲しい。



 はじめ、5年前には絶彦と栞の二人だけであった。
 魔人に覚醒した絶彦を、彼を取り巻く世界──つまりは親と、学校だ──は受け入れなかった。排斥の累は妹にまで及び、追い詰められていた絶彦は妹の手を取って家を飛び出すという、ひどく幼い決断を下すこととなった。

 あの日妹の手を取らなければどうなっていただろう。
 ──絶彦はそんなことを、時折考える。
 生家は決して健全な環境ではなかったが、魔人である自分だけが居なくなれば、少なくとも衣食住と、通学ぐらいは保障されたはずだ。対して自分は一人で飛び出していたなら、とっくにどこかで野垂れ死ぬか、運が良ければお縄になるか、最高でもどこかの組の鉄砲玉だろう。
 しかし現実はそうはならず――妹を思えば無茶はできず、非道もできず。折り合いをつけながら喧嘩と日雇い仕事と憂さ晴らしと人助けを繰り返していくうちに、自分は傘下のチームの魔人・非魔人合わせて300人からの顔役なんかを努めている。
 誰も彼もがあの日の自分や妹と同じ顔をした、自分にとっての家族だ。
 守る者も面倒も、苦楽を分かち合う相手も随分と増えた。腹の底から笑う日が来るなど、家を飛び出したときには思いもしなかったのだ。
 あの日の決断と、今日までの妹の存在が、自分を救ったのだ。

 そして自分が救われるばかりで、妹の人生には影ばかりを落としてきたのではないか。
 そんな負い目が、絶彦にはあった。

 裏原宿ストローヘッズ、そう名乗るようになってからは3年が経ち、絶彦は今年で21歳、栞も15歳になった。
 家も街も学校も、どこにも居場所がなかった少年魔人たちが肩身を寄せ合う──そんな牧歌的な所帯も今は遠く。この大きな家族の行くべき先を、絶彦は学がないなりにぼんやりと考えていたのだ。チームで過ごした日々は閃光のように煌めいていて、しかしだからこそ、永遠ではない。

 この3年で、チームを抜けたものもいる。
 行く先はカタギであったり裏社会であったり様々だったが――彼らの近況を聞くにつけ、やはり学ぐらいはつけておいたほうがいんじゃないだろうか。
 ―――そんな思考を経て、妹には進学を勧めたのだが。



「じゃあ」

 高校に行くの行かないのと、どちらも引かずにわあわあと言い合う。
 そのうち一緒に暮らすチームの者らも集まってことの成り行きを見守り、時には野次なんかも飛ばし始める。栞はそのうち目に涙まで浮かべ始めるし、そうなると絶彦の旗色はとたんに悪くなってくる。ちょっと男子栞ちゃん泣いてるじゃないのよといった所だ。理屈ではない。

「兄さんも一緒ならいく……」
「えええぇ……」

 そんな空気の中で述べられた妹の妥協?案に、絶彦はひどく困り顔をしてみせた。

「いや、俺はほら……いい年だし…仕事とかもあるし……」
「夜学とかあるもん」
「うっ」

 夜間主、定時制。
 そんなシステムがすっと出てくるあたり、栞もあるいは進学について興味はあったのではないだろうかと勘繰りたくなる。裏原宿を統べる男として流れを読む力に長けた絶彦は、決して口には出さなかったが。

「あー……まあ、その」

 周囲ではチームの者らがにやにやとことの成り行きを見守っている。
 くそ。後で覚えとけよお前ら。

「考えとく……」

 なんとも煮え切らない返事に、妹も野次馬も、たまらず吹き出した。




妹が笑っている。
野次馬(あいつら)が笑っている。
あの恥ずかしくも暖かい風景が遠くなっていく。

どうしてだ。
おれたちは未来に向かっていたはずだ。
そのはずだ。
そのはずだった。

なのに、どうして。
お前は、嘲笑(わら)ってやがる……。



「……やっとかよ」

 絶彦にカズトと呼ばれた少年はそうつぶやくと、口角をわずかに上げた。
 嘲笑(わら)ったと言えば聞こえはいいが、口元が痙攣したと言った方が実情に近いかもしれない。
 陽の光一つない真夜中において、暗闇を一切駆逐する程の高出力の照明に照らされた、何もなく平べったい広場……公称何某スポーツ公園のあちこちに立つのは、彼を含めた幾人かの人影。
 そしてその中心には、彼が首領(ヘッド)と仰いだ青年……絶彦が、倒れ伏している。

「あんたが悪いんだ、絶彦……あんたが、やりすぎたから」

 カズトの言葉に、絶彦がピクリと反応する。上体を起こしてカズトを睨むその眼光は常と変わらぬ……いや、常以上に鋭いものであったが、しかしそれだけだ。巨大な槍で虫の如く地面に縫い留められていては、動くこともままなるまい。
 浦見絶彦の能力は攻めに回れば極めて強力である一方、守りは脆い……本人も自認していた通りである。

「今のままじゃ、俺たちはもたない。いずれ警察か、ヤクザか、もっとやばい連中が出てきて俺たちはみんな死ぬ。俺も、あんたも……みんなも」

 カズトは元々よく喋る男だったが、この日はいつにも増して饒舌だった。勝ったという安堵からか、身内を殺す後ろめたさからか、正確には本人にも与り知らぬところであったが。

「……だから、死んでくれ、絶彦。俺たちのために、原宿のために……栞のために」

 絶彦の目が見開かれる。ぱくぱくと口が開くが、ひゅう、ひゅうと呼気のような音が漏れるばかりで、言葉は出ない。
 言葉は出ないが、その意図をカズトは痛いほど感じ取っていた。

「……死んでくれ、首領(ヘッド)



 ――こうして、裏原宿ストローヘッズは滅びた。浦見絶彦の死は、たしかにそれと同義だったのだ。
 奇跡のような男と、奇跡のようなチームは。閃光のように駆け抜けて、誰にも顧みられずに死んでいった。

「………ああするしか、なかったンだ」

 そんな弁解が口をつく。
 絶彦は原宿における台風の目だったが、しかし敵を作りすぎた。
 野心で、嫉妬で、あるいは欲望によって。俺が手をくださなければ、いずれもっと凄惨な終わりを迎えていただろうというのは、当時のストローヘッズの幹部らの共通見解だ。

 それでも絶彦の死後の原宿は、酷いものだった。
 ヤクザをバックにつけた半グレが跋扈し、丁寧に潰したはずの麻薬のルートはあっという間に根を張る。押さえつけられていた無秩序な暴力がそこかしこに吹き荒れ、警察の大規模な浄化作戦が実行されるまでの2年間は、暗黒時代の再来と言っても良いざまだった。

 ―――それでも。
 原宿の王の空位が、周りの勢力が予見するずっと前に訪れたことにより齎された時間は、カズトと旧ストローヘッズにとっては値千金であった。
 逃がすべきものを逃し、守るべきものを守る時間となったのだ。

「ン……どうしたの」
「ああ、悪い、起こしたか」

 背後の寝台の衣擦れの気配に、思考を中断して意識をそちらに向ける。
 あのときの自分が、守るべきであったもの。自らが手にかけた男が、なんとしても守りたかったもの。
 そして今は、自分の手で、何が何でも守らなければいけない女だ。

「うん、なんだか目、冴えちゃった」
「俺もだ」

 一糸まとわぬ姿の体温が、背中と、胸前に回された腕から伝わってくる。

「少し、昔のことを思い出していた」
「兄さんのこと?」
「………ああ」

 伝わってくる栞の鼓動が、幾分か早くなった気がする。
 忘れ得ぬ出来事ではあっても、カズトにとっては過去のことだ。栞は、きっと違うのだろう。まだ、あの日の慟哭の中にいる。

「(それも、もうすぐ終わる)」

 明日には、朱門会との和睦が成立する。
 原宿――いや、東京一帯に、つかの間と言えども平和が訪れるだろう。
 その時には改めて、栞の―――二人の、未来を見据えようと思う。

 ―――街も仲間も、あいつが本当に守りたかったものは、俺が守ってみせる。

 偽りのない本心だ、そして

「(俺は、もうお前のナンバー2じゃあない)」

 そんな、益体もない思いがあることも否定できなかった。
 胸にわだかまる栞の指に、自分のそれを絡める。

「ねえ、カズト」
「ん」

 二人分の指が、胸の前で踊る。

「どうして――」

 ふわりと視界を、赤いものが踊った。

「どうして、兄さんを殺したの?(・・・・・・・・・)

 指だ。
 戯れていたはずの指が、眼前まで舞い上がり、そして重力に負けてカーペットに吸い込まれていく。

「あ――え…?」

 ありえないはずの光景と、あり得ないはずの言葉に、幾ばくか呆けてしまう。

 知らないはずだ。
 それだけは、それだけは栞に知られないように、本当に本当に細心の注意を払ったのだ。
 絶彦以外の幾人かの口を封じ(・・・・)ることだってした。
 知っているはずが、ないのだ。

「―――っ!」

 混乱する思考とは裏腹に、血濡れたストリートを駆け抜けたヘッドとしての本能が身体を突き動かした。身を翻し、栞の身体を突き飛ばす。

「きゃっ…!?」

 小さく上がる悲鳴は、よく知った控えめな少女のそれだ。
 そして同時に、彼女が小さく舌なめずりをしたのを、カズトは見逃さない。演技、なのだろう。

「(ああ、畜生――!)」

 したたかに、明確な意思を持って。栞は自らを害しに来ている!
 どうしようもなく、それを察することができてしまった。

 ひどく狼狽する胸中とは裏腹に、また別個の思考が半ば本能としてカズトの脳裏を駆け抜ける。つまりは、“懐に入り込んできた敵魔人への対処”だ。
 得物は鋏――あれが能力だろうか。自らの指を切り落としたのは間違いない。わずかに距離は取ったが白兵戦の間合い。苦手ではないが、何をしてくるのかわからないのは不気味だ。一旦引―――

「畜生っ――!」

 否。
 引けない。退けるはずもない。
 それは立場であり、生き様でもある。
 カズトはとっくに、そんな事ができる場所にはいないのだ。

「畜生、ちくしょうッ―――!」

 最初の一撃で殺さなかったのは、それができなかったからだ――能力の条件であれ、心理的な理由であれ――と断じ、体制を整える暇を与えずに攻めかかることを選択する。
 魔人同士の戦いは一撃必殺。
 その好機を逃すつもりも、与えるつもりもない。
 いま、速やかに、確実に。
 無力化しなければならない。

「(無力化――?)」

 いま、たしかに自分は、殺すという判断を避けた。

「(馬鹿かよ)」

 殺すなよ、と。
 かつて己のヘッドだった男が抗争のたびに口うるさく指図してきたことを思い出す。
 カズトは自嘲し―――決して全力ではない速度で、腕を振り抜いた。


 最も。結論から言えばこの逡巡に意味はなかったのだが。


「―――っ!?」


 カズトは、悪魔と契約している。
 自らをそれに変じたり、悪魔の持つ様々な権能を行使する――そういう能力だ。
 この時も、左腕を悪魔に変じ、栞の土手腹を貫いた。 その、筈だ。

「関係、ないわ」

 果たして、そうはならなかった。
 悪魔に変ずる筈の腕は人と変わらない肉と皮のまま切り裂かれ、返り血で栞の裸体を染め上げる。カズトは最初の不意打ちで殺されなかったのはそれができなかったからだと断じたが、それは違う。あのとき、既に決着がついていたのだ。

「あ、あぁ…!」

 今度こそ色を失い、カズトは後ずさる。
 契約している十二体の悪魔、その尽くが、“応えない”

「切った、のか…! 俺の能力、いや、契約を…!」

 鋏、という手段からの連想に過ぎなかったが、その推論は正鵠を射ていた。
 栞はベッドの中で見せていたようにとろりとした笑みのまま、続けざまに鋏を駆る。

 喉と声を、足の腱を、肺と呼吸を、内臓を。

 一気呵成の機会を与えてしまった魔人同士の戦いに、逆転の機はない。





 兄のことが大好きだった。

 愛という意味で、恋という意味で、性という意味で。

 大好きな兄が魔人だからという理由で遠ざけられるのはひどく悲しかったし
 家を飛び出す兄が、自分の手を取ってくれたのは嬉しかった。
 きっとこのまま結婚するのだと、心の底から信じていた。

 チームのことだって好きだった。
 二人きりでも良かったが友人ができたのは嬉しかったし、誰かのために戦う兄の優しも好きだった。何より、笑顔でいることが増えたのだ。こんなにも嬉しいことはない。

「本当は、兄さんが死んだって聞いて、私も死のうと思った」

 血まみれのカズトを見下ろしながら、浦見栞は静かに語る。

「でも、兄さんはそんなこと望まないし」
「兄さんを殺した奴らも、許せないでしょう」

 ―――だから。
 力をひた隠し、静かに牙を研ぎ、機会を待った。
 この男が、失うものが最も多くなる。そんな時を。

「ねえ、教えて?」

 血まみれの肉塊に覆いかぶさり、耳元でささやく。

「他にもいるんでしょう、兄さんを殺すのに協力をした奴ら。
 兄さんの影に隠れてばっかりだったおまえが、一人で勝てるわけないもんね?」

 決着がついてこちら、胡乱な反応しか示さない肉塊に成り下がっていたカズトが、漸く反応らしい反応をみせる。うごめくその姿に、くつくつと笑みをこぼす。

「……めろ」
「ン?」

 絞り出すように声を上げた肉塊に、小首をかしげて続きを促す。

「ゃ、めろ ……オ、れが、しねば。 はら、宿は…とうきょ、うは」

 息も絶え絶えに語る内容に、栞はため息とともに首をふるった。

「ま、タ…地獄になる、ぞ……おれが、おさえていたヤツ、らも、うごきだす……。
 たつひこ、が、まもろう、と、した、ーーー」

 勢力図が、
 バランスが、
 チームが、魔人任侠が、学園勢力が、今のこの街を象っている。
 このタイミングで、原宿の抑えが失われる影響は、都内全域に波及するだろう。
 寝物語に、何度となくこの男が語ったことだ。

「んー」

 語るべきを語らず、下手な命乞いをするカズトに、形ばかりの思案顔で返す。

「ごめんね。私、そんな難しい話はわからないの」

 そうして鋏を振り上げて

「中学だって行ってないんだもん」

 男性器に向けて振り下ろした。





 朝方。
 夜通しの尋問を経て、カズトは息絶えた。
 遺骸を放置し、シャワーだけを浴びてマンションを出る。今日はなんとかという大事な会合だという話だから、あの男の部下がきっと見つけ、この街は大きく揺れるのだろう。

 これはきっと、誰かの掌の上の出来事だ。

 自分を魔人にしたあいつの絵図なのだろう。
 カズトの所業を密告したあいつの計画なのかもしれない。

「―――関係ないわ」

 兄の居ないこの街と、私は関係ない。
 濡れた髪が発する、トリートメントの香りだけを残して。
 浦見栞はその場を振り返ることなく立ち去る。

 原宿の空は、今日もどんよりとした鈍色だった。


■陰謀進行中
■復讐継続中
 山乃端(ヤマノハタ)一人(カズト) ―――死亡
最終更新:2019年11月30日 23:03