登場人物
〼虚迷言…メイド。『謎掛』。
「」…メイド。『秘密主義者』。
一丸可詰丸…大学生。
翁名若菜…大学生。
嫉妬美…新米警察官。
目次
《歪な共犯者》
《人生の墓場》
《秘密隠匿》
《迷図謎掛》
《歪な共犯者》
どこからか虫の羽音が聞こえてくる。
近頃はどうも治安が悪く、平気で殺人の横行するようになった。
これは東京だけの出来事か。それとも日本全国、あるいは世界全体でこうなってしまったか。
兎に角、人はお互いを信じられなくなった。いつどこで誰に襲われるとも限らない。
反対に、いつどこで、誰を襲ってしまうとも限らない。
それこそ、道端に死体が転がっていたって、驚きはすれど、おかしくは無い。
どこからか虫の羽音が聞こえる。
しかし、幾ら見渡せども、通りには虫一匹見当たらなかった。
ならば、そこには何も無いのだろう。
暗い夕闇が影を落とす時刻になった。
自分は、もう10分以上も、店の扉を凝乎っと見つめ続けている。
自分、
私なのか。僕なのか。俺なのか。
画一した自己を持たないために、他人へ名乗る人称にすら躊躇する。そんな自分が、今や唯一安心できる場所——
——旧電気街も記憶の中。今や怪しげな近未来の風貌と成り果てた秋葉原。その実に現代的な様相の連なる只中に、突如として洋館のような綺麗な、古風な建築物が姿を現す。
清貧、優美、かつ大胆。豪壮、可憐。
派手さ以外の賛美を全て兼ね揃えた洋風の御殿だ。
何処からか虫の羽音が聞こえる。
アンティーク喫茶『迷宮入り』と、店の看板にはそう書かれていた。
さて、そう書かれてはいるものの、果たしてこれは本当に喫茶店なのか。そもそも店の営業はしているのか?それは分からなかった。
来訪者を拒む、耐え難いほど重厚な扉は凡そ飲食店とは思えないほど硬く大きい。
窓はなく、外から中の様子は分からない。
喫茶店と銘打っているものの、マスターの姿を見たことも無い。
店にいるのは、いつもメイドさんだ。
〼虚迷言さんという。
メイドさんがいるなら、『迷宮入り』はメイド喫茶と呼ぶべきだろうか?
もしメイド喫茶なら、マスターのいない『迷宮入り』も喫茶店と呼んで良いかもしれない。
しかし、迷言さんの言に寄れば、それは違うらしかった。
——「メイドが働いているだけで、メイド喫茶ではありませんよ、お客様」迷言さんは、確かそんなことを言ったように思う。
迷言さん。
彼女に会いたい。あんなことがあったせいで、随分と日があいてしまったけど。
彼女は『迷宮入り』で、まだ働いているだろうか。それを思うと、自然と足取りが重くなり、店の扉を開く手に力が入らなくなる。
彼女の人柄を表すなら、「清廉で快活」。
何も知らぬ若者が、その真っ直ぐな黒髪の長髪を見て幻想してしまいがちな、お淑やかなイメージとは少し違っている。
上品ではある。しかしなにより惹きつけて止まないのは、その屈託なく笑う姿だ。
——「簡単な『謎』です、お客様。私はメイドですけど、お客様に仕えるメイドではありません。ですから、ここが秋葉原で、何人メイドが働いても、お客様がいようといまいと、メイド喫茶には、到底なり得ませんよ」
彼女に会って、話をしたい。話を聞きたい。話を聞いてほしい。
あんなことがあったとは、口が裂けても言えないけど。
それでも会って、話をするだけで、心の整理にはなるだろうから。
——「それじゃあ一体、迷言さんは誰に仕えているんですか?」
——「あなたですよ、一丸可詰丸詰丸さん。ご主人様」無邪気な笑顔で、こちらを見つめた。
意味が分からなかった。
何で、そんなことを言うんですか。
——「それは『謎』です」
何でそんなことを言ったのか、会って話が聞きたい。謎が謎のままでは、もう心の整理がつかないから。
そんなこと逡巡しながら、10分以上扉の前で膠着していた。
時間が勿体無い。
何処からか虫の羽音が聞こえる。
ふと振り向く。
何も無い。死体も無い。
恰も
殺人鬼なんてこの世に居ないかのようだ。
何も無いのだ。そこには何も無い。
あるとすれば、夕闇に落ちる暗い影くらいだ。
だから自分は、『迷宮入り』の扉を開けた。
重厚な扉は古めかしい木製の音を掻き鳴らし、その先へと誘うかのように開いた。
暗い廊下が続いている。天井は高いが、幅は狭い。
明かりは無く、窓も無いので、まだ日没前なのにかなり暗かった。
誰もいない廊下を進むと、突き当たりに部屋があった。案内板も何も無いので中に入った直後では分かりづらいが、突き当たりを曲がると、扉がある。
その扉を開けば店内だ。
「こんにちは」
夕暮れ時には「こんばんは」というべきだろうか、それとも「こんにちは」でも通るのだろうか。その識別にさえ苦労する。
この世は見えない仕切りが多すぎやしないだろうか。それを思うと厭になる。
時間が惜しい。嗚呼、あと1時間もない。
流石にここまで来れば虫の羽音もしないようだ。
扉の向こうはアンティーク喫茶店と銘打った通り、古い洋ホテルにあるようなラウンジ然とした空間となっている。
アンティーク調の調度品がそこら中、無造作に置かれている。
部屋の片隅にはダンボール箱が積み上げられており、この部屋の主が決して過度に潔癖性なわけではないことを物語っているかのようだ。
そして、乱雑に配置された、黒い箱。
部屋の真ん中には磨りガラス製のパーテーションが何重にも配置されている。
その向こうは、どうやらスタッフルームということらしい。
パーテーションの向こうがどうなっているのか。過去に一度、迷言さんに聞いてみたが、「それは『謎』です」という通り一遍の答えしか返ってこなかった。
そして今。
パーテーションに目を見遣ると、磨りガラスの向こうで、話をする二人のメイドさんのシルエットが写っていた。
「へー、じゃあそいつ、ひと月半も姿を現さないんだ?」
「ええ。何やら事件に巻き込まれたのでは無いかと心配になります。このところ、何かと物騒になりましたしね」
二人は椅子に座り、向かい合うように談笑している。
そのうち向かって右側にいる人は、パーテーションの端から後ろ姿だけが見えてしまっている。
「近頃邪魔な奴らばかり増えやがる。掃除でもしないとなあ」
茶色の短髪。形のいい耳。
初めて見る人だ。〼虚迷言さんでは、ない。
誰だろう?
「ええ同感です。こうも迷惑な人たちばかりでは平穏な暮らしも遠のくというものです。誰かさんにも手伝っていただければ、助かるのですけど」
一方で、もう一人のメイドさん。
磨りガラスに隠れて影のようなシルエットしか見えないが、整った長髪だと分かる。
シルエットだけでも誰なのかわかった。
「ま、迷言さん…?」
「あら」
自分の声に反応して、茶髪のメイドさんがこちらを振り向いた。
「噂をすれば、だ」
切りそろえられた前髪。
西洋人形のような雰囲気の女性は、しかし顔立ちが驚くほどに迷言さんと酷似していた。
違うのは、髪の色と長さ。それと挑発的な表情。
「一丸可詰丸だろ、アンタ」
「は、はい」
「悪いな。迷言のやつならここには居ねえよ。急な仕事に、行っちまってな」
——「だから今は私しか居ねえ」と、その茶髪のメイドさんは立ちあがってそう言った。
パーテーションの向こうには、何も映っていない。迷言さんと思われた人影は居なくなっていた。
ただ一人、茶髪のメイドさんが、自分を見ていた。
「え?」
「だから迷言はここには居ねえって。何度もそう言ってるだろ。今ここに居るのは、私だけだ。だから私が相手してやるよ」
「でも、えっと、だって今さっきそこに居たじゃないですか」
「お前、初対面の人に対して不躾な奴だな。まあ礼儀なんて、どうでもいいんだけどな。ほら」
茶髪のメイドさんはムッとした表情で、パーテーションを引き倒す。倒れる。
パーテーションの倒れた向こうには、本当に誰もいなかった。
影も形もない。
迷言さんは、初めからいなかったかのように消えてしまった。
「そんな。これは一体どうなって」
「それは『秘密』だ」
茶髪のメイドさんはそう言って、人差し指を口元に当てた。
秘密。そうか。
そう言われて直感的に理解する。
間違いない。これは能力によるものだ。
「これは、あなたの能力ですか」
「おお、察しがいいな。察しがいい奴は嫌いじゃないぜ。如何にも私の《秘密隠匿》は指定した対象を誰にも『秘密』にする」
茶髪のメイドさんは、何かに気を良くしたのか、自分の能力について滔々と語り始めた。
「《秘密隠匿》で隠された『秘密』は誰にも認識できない。伝聞などの間接的な手段でしか接触出来なくなる。つまり私が〼虚迷言を『秘密』にした以上、直接会って話をすることは出来ないってことだ」
解釈するに、彼女の能力とは、誰にも会わなくさせる能力ということだろうか。
この場合、迷言さんが『秘密』になったことで「会えなくなった」。
さっきまで、すぐそこに居たのにも関わらず。
もう何処にいるのかさえ分からない。
これは迷言さんの『謎』に、よく似ていた。
「そういえば、まず名前を聞くのが先でしたね。失礼しました」
ここに〼虚迷言さんはいない。
ならば初めから、そこに彼女はいなかったのだろう。
迷言さんがいないならいないで、納得するしかない。
そうなると、目の前にいる女性は誰なのか、後はその疑問を解決するだけだ。
「ぶはっ!あのなぁ〜ご主人様よお、アンタ、もう少し人を疑うことを知ったほうがいいぜ。私が自分の能力について嘘を語ってる、なんて微塵も思わねえのかよ」
「そう言われると困りますけど、自分は貴方が迷言さんに危害を加えるような人ではないと思いますので」
嘘だ。本当は、自分にはもう人を疑う余裕がないからだ。時間的余裕もない。
多少強引にでも話を進めなければ、延々とやりとりが続くだろう。
「ふ〜ん。ま、そういう純朴そうなトコロも嫌いじゃないぜ。私の名前は「かつこ」。かぎ、かつこ、ってんだ」
「かつ子さんですか?それでかつこさん、迷言さんは何処へ」
「おいおいおいご主人様!私の名前は確かにかつこだが、字面は気にならないのかよ。私は自分の名前の字面が自慢なんだぜ?それをひとつ聞いてはくれねえか」
そう言って、かつこさんは挑戦的に笑う。むき出しの歯は白い。
「そう言われると…聞かなきゃいけない雰囲気じゃないですか。貴方の名前はどう書くんですか?」
「そんなに知りたけりゃ教えてやるよ、ご主人様。私は「」。"「"と書いてかぎ、"」"と書いてかつこって読むんだ。いい名前だろう?」
「良いかどうかはさて置いて、随分と常用漢字を逸脱したお名前ですね」
「かぶいてるだろ?」
「」。かぎ かつこ。
珍妙な名前もあったものだ。
そもそも名前なのかすら怪しい。
「ええ。よろしくお願いします。「」さん。それで、聞いて良いですか?「」さんは迷言さんとはその、双子の姉妹か何かですか?」
「はっ!馬鹿言っちゃいけねえよ、ご主人様。私が
『謎掛』と双子のわけねえだろ。迷言とはそうだな、姉妹みたいなもんだな。これには複雑にして怪奇な理由ってのがある」
「それで、迷言さんは今何処に」
「さあな、急な用事って言ったよな?お掃除みたいなもんさ。この辺もすっかり物騒になっちまったからなあ。まあ、そういうの、アンタが気にするようなことじゃねえよ。それよりさ、ご主人様」
——「アンタ、魔人能力に目覚めたんだろ?」彼女はそう言って、悪戯に笑った。
「ど、」
どうしてそれを、という言葉は出てこなかった。
「」さんは此方を見透かすような瞳を真っ直ぐに向けている。
口元を大きく歪ませて。
「おっ、図星か。勘ってやつも捨てたもんじゃねーな」
カマを掛けられたのか。
しかし一体、この人は何でそんなことを言ってきたのだろうか。
否、判断材料は多いか。
「大体ご主人様のご想像の通りだよ。アンタのことは迷言から聞いてるからな。こんな辺鄙な洋館の常連客である筈のアンタが、ひと月半、パッタリと来なくなった。アイツも心配してたんだぜぇ?何かあった、そう考えるのが普通だよなぁ?」
「……」
あまり答えたくはない。
特にあんなことがあったなどとは。
しかし、元はと言えば自分は、そのことを聞いて欲しくてやって来たのだ。
ただし、迷言さんに聞いて欲しくて、なのだが。
「そうそう、その顔だよ、ご主人様。アンタが五体満足で此処へまたノコノコとやって来た。しかし浮かない顔をしている。そこから予想できるのは色々あるけど、まあそこから一番ありえなさそうな予想を言ってみただけさ。なんせご主人様、アンタ」
——「ありえない事が起こったって顔してるんだぜ?」
「どうだい?ご主人様、ここはひとつ、悩みを私にブツけてくれねえか?『謎掛』ほどではねえが、『謎掛』の天敵、『秘密主義者』であるこの私は、こう見えて『秘密』を明かすのも解き明かすのも得意なんだぜ?」
「……」
意味はよくわからないが、なんだか凄そうな肩書きだ。
思わず相談してしまう気持ちにすらなってしまう。
そして自分は滔々と話し始めた。
しかしこの日、自分は「」さんに詳細は話さなかった。元より、迷言さんがその場にいたとしても、全てを語るつもりはなかった。
そこまで口にすると、自分の何かが決定的に壊れてしまう気がしたから。
「」さんは「よし任せとけご主人様。アンタの悩みは私と迷言が何とかしてやる」なんて、言ってくれたけど。
話したのは、自分の能力だけだ。
——自分の能力は《歪な共犯者》
——身の回りで殺人事件が起こる。
《人生の墓場》
子供の頃から探偵に憧れていた。
次々と起こる殺人事件を鮮やかに解決するような人になりたかった。
とはいえ、それはどうでもいい。
本当にどうでもいい。
重要なのは、《歪な共犯者》は、自分の身の回りで殺人事件を引き起こすこと。
そして、自分には殺人事件を解決する実力なんてないということ。
あれから、僕の前では何度も殺人が起こった。
ただ人が死ぬだけではない。この能力は人に人を殺させる。
自分はその場に、必ず居合わせる。
なんでこんな能力に目覚めたのかは皆目見当が付かないが、能力が芽生えたのはつい最近のことだ。
ひと月半前のことである。
その日は同じサークル『殺人研究倶楽部』なる面妖な集まりに参加した帰りだった。
そこで自分は、翁名若菜なる女と出会った——
アンティーク喫茶『迷宮入り』である程度話し終えた後、用事があるから、と言い訳をしてその場を後にした。
「」さんは相変わらず挑戦的な笑みで「よしよしよく言った。後のことは私たちに任せておけ」などと言っていたが、詳しい事情を知らぬ彼女に何かができるとは思えない。
何かをしてもらうつもりも、ない。
自分がこの店に立ち寄ったのは、ただ心の整理をつけたかったからだ。
虫の羽音が聞こえる。
〼虚迷言さんはどこへ行ったのだろう。
もうすっかり遅い時間になってしまった。
早く戻らねば。5時38分までに戻らないと、約束の時間を過ぎてしまう。
自宅までは地下鉄に乗って20分ほどで戻れるだろうから、次の電車に間に合えば、十分予定時刻までに帰宅できる筈だ。
虫の羽音が聞こえる。
「ちょっとそこのあなた」
若い女性の声である。
迷言さんや「」さんよりも音程がやや高い。
自分は振り向いて驚いた。
「そうっス。そこのあなたっス。他にこの界隈を歩いている人なんていないっス」
そこにいたのは、警察官の服を着た、婦人警官だった。
20代前半くらいだろうか。見た目も口調も新米警官といった風情だ。
髪の毛は金髪に、左側のもみあげが明るいピンク色のメッシュになっている。サイドを刈り上げたベリーショートのツーブロック。
右頬には青色の星型がペイントされていた。爪は黒く、瞳は嫌に光が射し込んでいる。
その派手な風貌は、成る程、如何にも秋葉原にいる新米警官といった出で立ちだった。
「ウチはこの近辺を警備しているお巡りさんっス。あなた、こんな時間に外を出歩いていたら危ないっスよ。とても危険っス。冗談じゃなく殺人事件にでも巻き込まれるっス」
「はぁ。いえ、実は今から家に帰るところだったんですよ」
そう言って注意深く新米警官を見る。
急いでいるのもあるが、この人のいうことも一理ある。
こんなに遅い時間になってしまった。
殺人鬼達は日没ともに活動を開始する。
目の前の警官も、安全な人なのか、自分には判別がつかない。
「なんスか。その返事は。人の親切に対して否定で返すとか失礼っス。ありえないっス。ウチ傷つくっス。他人に対してデリカシーとかないんスか?それにその目はウチを疑っている眼っスよ。ウチはれっきとした新米警官なんスからね」
一気にまくしたてると、新米警官は胸ポケットからデコレートされた眩いばかりのビーズの塊を取り出した。どうやら警察手帳らしい。
「ウチは嫉妬美という名前っス。そねが苗字で、ねたみが下の名前っス。こんな意味不明な名前をつけた母ちゃんを恨んでるっス。あなたも名前を名乗れっス」
「えと…一丸可詰丸と言います。大学生です」
珍妙な名前の人もいたものである。
これは職質されているのだろうか?だとしたらまずい。
自分は5時38分までに家に戻らないといけない。
「へー。珍妙な名前の人もいたものっスねえ。心が僅かに軽くなるのを感じるっス。これがシンパシーという感情なんスかねえ。あなたはこの辺りの学生でスか?」
「いえ、そういうわけでは…」
「ふーん。ところでどうしてここにいるんスか?最近のオタクはどっちかっていうと池袋とかに多いと聞くっス。かくいう自分も池袋へは週5で通ってるっスよ」
いや、そんなこと言われても、自分はオタクではないので、知らない。
言い返そうとした思いをグッと堪えて、急いでいる雰囲気を醸し出すことに尽力する。
まあ実際に急いでいるのだが。態度に出せば向こうも解放してくれるのではないか、という打算もあった。
このまま彼女のペースに乗せられれば、話がズルズルと続いてしまう。
妬美さんは、そんな僕をよそに、腰に付けていたデザートイーグルを手に取った。
「本当にこの近辺はとても危険なので、ウチみたいなのにもこういう武器が支給されているっス」
「えっ…それは……」
「なんか強いめの銃らしいっス。それで、なんであなたはそんなに急いでいるっスか?さっきからとても怪しいっスよ」
ことも無げに、妬美さんはデザートイーグルの整備をしている。
本人に脅す意図はないのかもしれないが、こうもあからさまにされると、焦りが生まれてしまう。
それは、最早まごう事なき強いめの銃だ。撃たれたら多分、体は千切れ飛んでしまうだろう。アメリカの映画とかにも出てきそうな、パワー溢れる強力な銃だった。
なぜ、そんなものを持っているのか。
下手に態度に出したのが良くなかったのだろうか。それにしても警察官がデザートイーグルを扱うとはどういう了見だろうか。そんか人に出会ったのが運の尽きというやつなのか。
それは、とても困るのだが。
「いや、だってそれはこの辺は危険だし…それに、人と会う約束をしているので、どうしても遅れるわけにはいかないんです」
ここは変に嘘をつかず、部分部分は伏せつつも、正直に事実のみを語ることにした。
嫉妬美さんは何をするか分からない。銃器を扱うような人を刺激しないほうが身のためだ。
妬美さんはデザートイーグルを『迷宮入り』の壁に向けて撃った。
へぇ、発砲音ってこんな音するんだ、と思いながらも唖然とした。
「あぁっ暴発っス!」
「……」
本当に暴発か?
疑うような眼差しを向けると、嫉妬美さんは眠たそうな眼でこちらを見つめ返した。
「…何スか。自分も銃を撃ちたいんスか」
「いえ、そういうわけでは」
「その否定から入る態度、本当に止めた方がいいっスよ。疑われないものも疑われてしまうっス。相手がウチが良かったっスよ。本当に。ウチが銃を撃ったことは黙ってて欲しいから早く行くっス」
試されていたのだろうか。それとも本当に危険なおっちょこちょいなのだろうか。
それは謎だったが、兎に角、妬美さんもようやく自分を解放してくれる気になったようだ。
「えと…ひとつ聞いても良いですか?さっきから危険って言ってますけど、この店の前ってとても静かじゃないですか?」
自分が疑問をぶつけると、妬美さんは、信じられない、と言いたそうな眼でこちらを見た。
「だからっスよ。沢山酷いことの起きているこの界隈で、この店の前でだけ何も起きていないなんてあまりにも不自然っス」
嫉妬美さんは今度は咎めるような声色でそう言った。
虫の羽音が聞こえる。
自分はそそくさとその場を後にした。
不自然?
不自然だろうか。『迷宮入り』が?
そう、嫉妬美さんの言う通り、あそこは不自然なのだろう。
元より、それは分かっていた。
だからあそこに通っているだから。
しかし嫉妬美さんは、『迷宮入り』の楽しい時間を知らないだけなのだ。
まあ、警察官のことはどうでも良い。
今は家に帰ることだけを考えるべきだろう。
帰りの電車には、無事に間に合った。
すっかり心の乱された自分は、帰路の電車の中で、〼虚迷言さんとのやりとりを思い出していた。
——「お客様、こちらをご覧ください」
——差し出されたのは、手のひら大の、真っ黒な立方体だった。
——完全な漆黒とでも言えば良いのだろうか。影よりも黒いので、輪郭しか目に捉えられない。
——「これは?なんですか?」
——「それは『謎』です」
——迷言さんは、おきまりの文句を口にした。
——その人差し指を口に当てている。
そう言えば「」さんも同じ仕草をしていた。
二人は本当に双子では無いのだろうか。あまりにも顔が似通っている。
——「『謎』ですよ。お客様。当ててみてください」
——そう言って彼女は。屈託の無い笑顔をこちらに見せた。
——しばしば、彼女はこう言った遊びを好む。彼女の言葉では、こう言った意味の無い謎を愉しむ人間を『謎掛』と呼んでいるらしかった。
そう、
『謎掛』と『秘密主義者』。
二つの違いは、解き明かすことを愉しむか否かだ。
——「湯気が出てますね。この香りは紅茶ですか?」
——「ふふ。ぴんぽんぴんぽん、大正解、というやつですね。」
——彼女が口に当てていた人差し指を黒い立方体に当てると、立方体は氷解するように解け(たように見えた)、そこにはティーカップに注がれた紅茶が姿を現した。
——「ご覧のとおり、これが私の能力《迷図謎掛》です。こうやってシルエットクイズを出題するだけの、お遊びみたいな能力ですよ」
そんなことは無いだろう。
事実、その直後にも彼女は能力の応用を見せた。
——「ではお客様、第2問です。こんなのは如何ですか?」
——そう言って彼女が手元から出したのは(どこから出したのだろう?)、今度はマグカップのシルエットをした黒い塊だった。
——「こんな形にも出来るんですね」
——「では香りを嗅いでみてください」
——そう言われてマグカップを嗅いだが、何の匂いもしなかった。
——「これはただのマグカップ?中身は空ですか?」
——「ふふ。残念、不正解です」
——そして彼女が人差し指を当てると、マグカップだった黒いシルエットは解けて、先ほどと同じ形の
——ティーカップが姿を現した。紅茶が注がれており、湯気も香りも漂っている。
——「《迷図謎掛》で包み込んだ『謎』は、外に出す情報を操作できるんです。例えばシルエットの形は変えられますし、匂い、湯気なんかも遮断できるんですよ」
——虫の羽音が聞こえた。
嫉妬美さんの職質を逃げるように逃げ出し、電車に乗って十数分。
電車は何事もなく、目的の駅に到着した。
電車の中で席に座れたので、ついうとうとしてしまったが、駅を乗り過ごすこともなく、無事に自宅のぼろアパートまでたどり着くことが出来た。
現在時刻は5時28分。まだその時間ではない。
ならば彼女は
翁名若菜は、まだ自分の部屋の中に"いる"のだろうか。
否。いるんだ。絶対にいる。
前提として、自分が翁名若菜と半強制的な半同棲状態にあることは間違いない事実だ。
扉の前で1分経った。ずっとこうしている訳にもいかない。それこそ約束の時間を過ぎてしまう。
約束の時間を過ぎてしまう。
約束の時間を過ぎてしまう。
約束なんてしていない。相手が一方的に押し付けてきただけだ。した覚えなんて無い。
約束の時間を過ぎてしまう。
約束の時間を過ぎてしまう。
約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の時間を過ぎてしまう。約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束の約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束
約束、約束の約束の約束、時間。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜、翁名若菜、翁名若菜。
翁名若菜
約束メモリアルメイト約束約束
《人生の墓場》
スフィンクスは旅人に問題を出した。「朝は4本足。昼は2本足。夜は3本足。答えは何?」答えは人間。人の一生。ピラミッド。墓。死体。
シンデレラは12時までに自宅に帰らなければならなかった。なぜか?答えは魔法が解けるから。人の一生。魔法が解けるから。墓。《人生の墓場》。メモリアルメイト。
何で探偵の周りで殺人事件が起こるの?作者が犯人だから。メモリアルメイト。
墓守りの仕事。5時38分までのシンデレラ。自作自演の観客。メモリアルメイト。
約束の時間を過ぎてしまう。
いやだ。
「よし」
ダメだ。
私は僕は俺は、
自分は、自分の家の扉を開いた。
「ただいま」
翁名若菜は今日はどこにいるだろうか。狭い部屋だ。居場所は限られている。
最近は風呂場にいるいる。ずっといる。早く出て行って欲しい。
「おかえりなさいませ、お客様」
しかし扉を開いて、目の前にいたのは——
——「迷言、さん」
翁名若菜ではなかった。
黒髪ロングの快活な笑みを浮かべた女性が、そこに正座していた。
《秘密隠匿》
怪しい女性が好みのタイプだ。
それこそ、アイリーン・アドラーくらい怪しい女性に惹かれる。
名探偵のように、翻弄されてみたいと思う。
〼虚迷言さんは、薄暗い部屋のリビングの真ん中で、正座しながら自分を待っていた。
大学生が住みがちな1Kの部屋だ。
自宅に戻ったときにメイドさんに出くわすという経験は、中々無いだろう。
つまり、普通そんなことは起こらないということだ。
迷言さんは、晴れ晴れとした笑顔をこちらに向けている。
迷言さんは、いつでも晴れ晴れと笑っている。
普通ではない状況でも、彼女は表情を崩さない。
「ふふ、お待ちしておりました、お客様。一丸可詰丸様」
迷言さんは立ち上がると、両手を広げ、こちらに歩み寄った。
自分は一歩後ずさる。
「ま、迷言さん。〼虚迷言さん」
「はい」
どうしてここに、という言葉は出てこなかった。自分は『迷宮入り』で「」さんが言っていたことを思い出す。
——「さあな、急な用事って言ったよな?お掃除みたいなもんさ。」
掃除。
ふと足元に目を見遣る。
迷言さんの足元には、自分のTシャツやズボンや七分袖のシャツなどが折りたたまれて置かれていた。
衣類が畳まれていた。
彼女が、畳んでくれたのか。
「迷言さん、畳み方汚いですね」
「ふふ、ごめんない。お掃除って苦手なんです。」
えっ苦手なんだ。苦手なの?
それにしても、衣服畳むの汚っ。
これは自分でやった方がはるかに綺麗に片付くわ。いや、真面目にやめて欲しい。
そんなことを考えていると、迷言さんはこちらに抱きついてきた。
これは誤魔化されているのだろうか。
「迷言さん、どうしてここにいるんですか」
自分は聞いた。迷言さんは笑顔で答える。
「私はメイドですので。メイドが仕える人の世話をするのは当然の話でしょう?」
否。それはおかしい。
だって迷言さんは、『迷宮入り』のメイドだから。
「ふふ。私たちメイドは、普段あの洋館に居ますが、あくまでも、ただあの洋館にいるに過ぎない、ということですよ。つまり店の従業員である前に、私はメイドである、ということです」
——「メイドなら、洋館以外でも仕事をします」迷言さんは、いつもの調子でそう言った。
「あの洋館は、喫茶店では無いんですか」
「ふふ、それは『謎』です」
人差し指を口元に持って行く。彼女おきまりの仕草だ。
近くで見ると、やはり魅力にあふれている。
距離が近い。彼女が両腕を伸ばした範囲内に自分がいる、という事実に、脳が痺れていくのを自覚した。
「あの洋館は、確かに私が働いている場所です。指示されれば紅茶でも淹れましょう。しかし、それはメイドの領分が往々にして広くなるというだけのこと。私は一丸可様のメイドですので。ご主人様」
「な、何でですか?何で、そんなことを言うんですか?」
自分が聞くと、迷言さんは黙って、それでも笑顔のまま、体をこちらに密着させてきた。
体が硬直する、動けない。
体が自然と猫背になるのがわかる。迷言さんの身長は思うほどに高くないから。
長袖に隠れた細い腕が首にまとわりつく。
虫の羽音が聞こえる。
彼女の小さい頭が自分の肩に乗るのがわかる。それに合わせて長い髪がまとわりつく。
その胸が…胸うっす。
うっす、いやうっすい。え?こういうの詳しくないけど、こういうもんなの?
あ、こういうもんなんだ。
良いな。胸うすいの、良いな…よくわからないけど。なんかグッとくる。
「どうして私が一丸可様に仕えるのか——それは『謎』です」
結局なんだかんだで、答えは誤魔化されてしまった。
でも、それで良かったのかもしれない。
自分はただ、話を聞いて欲しかっただけだから。
会って話をしたかっただけだから。
「でも、お客様。シャツの色全部同じですね」
「ごめんなさい」
そうである。自分は服の色は全部揃えるタイプだ。いつも同じ服を着る。
でも靴下の色はちょいちょい変えている。
「それに髪の毛もボサボサですね。肌にツヤもありません。髭も生えてる。このひと月半、まともな生活を送ってないんじゃないかったんですか?」
「いや。そんな」
そんなことは、ある。
「そうですね…ここはひとつ。私がお客様の身だしなみを整えてあげますよ」
そう言って迷言さんは、
自分を抱擁したまま、
万力のような力で、自分ごと洗面所まで歩き出した。
「迷言さっん…?アレっ?この力…」
「ふふ、私、こう見えて強さには自信があるんですよ」
強いどころの話ではない。
体が全く、動かない。
これではまるで大人と赤子だ。
洗面所まで——洗面所
虫の羽音が聞こえる。
洗面所まで。
洗面所で虫の羽音が聞こえる。
——ダメだ
自分は全力で迷言さんに抵抗する。
明日筋肉痛になってしまうだろう。
それでも全力で抵抗した。
「ダメだ!迷言さん!ダメだダメだダメだ!今は何時だ?5時35分じゃないか!!5時38分になってしまう!ああああああああ!!!!!迷言さん!迷言さん!自分の部屋を掃除してくれたんですよね!?風呂場は?風呂場は掃除しましたか!?」
「それは『謎』です」
「やめましょう!洗面所に行くのなんてやめませんか!?実は自分は洗面所が大の苦手なんです!!この世で一番憎いと言っても良い!それこそ親の仇のように憎んでいる!洗面所なんて——」
「ご主人様」
——「一体何をそんなに恐れていらっしゃるんですか?」迷言さんは、そう言った。
——何故って
——それは
——「スフィンクスは旅人に問題を出した。朝は4本足。昼は2本足。夜は3本足。答えは何?答えは人間。《人生の墓場》」
——そうだ。あのとき、
——あの女は——翁名若菜は——ただの住居侵入者の不審者の——身元不明の——勝手に人の部屋に上がり込んできた謎の女は——自分の質問にそう答えた。
——それで、死んだ。
「ああああああ」
——翁名若菜は、首から血を流して死んでいた。
——自分は手にナイフを持っていた。
——午後5時38分に死んで、午前10時49分に生き返る能力。《人生の墓場》メモリアルメイト。
——何度追い出しても、勝手に自分の部屋で死んでいる。
——その度に、自分は何故か翁名若菜を殺している。
——夜に死んで、朝に生き返る。
——人の家でそれを繰り返すだけの、
——ただそれだけの能力。
——自分が家にいなくても、時間になれば彼女を殺していた。
——どうやらそういう能力らしい。
——標的に定めた人間の家で、必ず5時38分に死ぬ。
——そして、標的に定められた人間は、どれだけ離れていようと、どれだけ因果関係がなかろうと、必ず5時38分に翁名若菜を殺している。
——それが《人生の墓場》。
——「警察にでも相談してみたら?」
——あの不法侵入の女は——翁名若菜は——そう言った。
——「そんなことしたら、一旦能力を解除するから。そしたら警察にも何も証拠は残らない。」
——警察が去ってから、帰ってくるね。
——「言っておくけど、この能力のアリバイを崩す方法は簡単だよ。5時38分になるまでに私を殺すか、10時49分までに私の死体を家から追い出せば良い。《人生の墓場》の論理が破綻すれば、私は永遠に生き返らない。そんなことをすれば、あなたは本当の殺人犯になるわけだけど。ほら、殺人事件だよ。解決して」
——彼女は焼死した。自分は手にガソリンタンクを持っていた。
——「そんなこと出来るか」
——自分はそう言った。
——そもそも翁名若菜とは
——何の面識もない。本当にただの不審者に過ぎない。
——ひと月半も前。自分は『殺人研究倶楽部』という大学生の面妖な集まりに参加した。
——その正体は、探偵小説を好む人間達の、熱苦しくもレベルの低い、ただの弁論大会、ファンの集まりである。
——往々にして、自分はこういう場には馴染めないのだけど。
——まあそれなりに親しい友人達もいたので、楽しんだわけだ。
——他校からも人が集まるので、全く関係のない人が紛れ込んでも、誰も気がつかないのである。
——おそらくすでにその時、翁名若菜はあの場にいて、自分に目をつけていたのだろう。
——あの場では、迷言さんのこととか、彼女がいないこととか、自宅に一人で寂しいなどと軽挙な発言をしてしまった。
——それが良くなかったのだろう。
——友人にした相談も聞かれたかもしれない。否、聞かれたに違いない。
——先日、自分は仕切りに「見たのか?見たのか?」と聞いてくる知らないおじさんに話しかけられて、嫌な気分になったこととか。
——それがキッカケで、《歪な共犯者》の能力に目覚めたこととか。
——だからいつ自分の周りで殺人事件が起きるかわからないこと。自分とは距離をおいたほうが良いこと。
——友人にはお別れを告げた。
——友人は承諾してくれた。
——多分全部、聞かれていたのだろう。
——家に帰ると、見知らぬ女性がいた。
——明るい茶色の髪を、首の付け根のあたりで硬く三つ編みにしている。実に中途半端な長さだ。長髪なのか短髪なのか、見ていて不安になる。
——女は「私は翁名若菜。同じサークルの先輩だよ」と言った。
——後で調べたけどそんな人はいなかった。
——「キミのこと気になるから付いてきちゃった。ねえ、シンデレラがどうして12時までに自宅に帰らなければいけなかったと思う?なぜか?答えは魔法が解けるから。」
——「キミの身の回りで殺人事件が起きるんでしょう?」と言ってきた。
——「キミを助けてあげる。《人生の墓場》」
——彼女は毒死した。
——彼女は失血死した。
——彼女は窒息死した。
——彼女は水死した。
——彼女は衰弱死した。
——彼女は爆死した。
——彼女は転落死した。
——彼女はショック死した。
——彼女は打撲死した。
——彼女は壊死した。
——彼女は焼死した。
——その度に彼女は生き返った。
——この女から逃れるためには、5時38分になるまでに殺せば良い。そうすれば、二度と生き返らない。
——ダメだ。そんなことできない。
——彼女は圧死した。
——5時38分までに殺すことが出来れば
——できない。そんなこと。
——彼女は病死した。
——5時38分までに
——彼女は縊死した。
——彼女は縊死した。
——彼女は縊死した。
——彼女は縊死した。
——彼女は縊死した。
約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束約束
——風呂場に行くのはダメだ。
——そんなことできない。
探偵なんてもうどうでも良い。
「すみませーん、ちょっと良いっスかぁーー!この扉を開けて欲しいっス!!」
「〜っ!!!!?」
驚いて振り向く。
玄関扉の向こうから、甲高い声が聞こえる。
この、やたらに高い声の人は
「ウチっス!一丸可詰丸さーん!!嫉妬美っす!やっぱりあなたのことが気になるから調べてみたっス」
な、なんでここに
玄関扉からはドンドンドンという異常な音と共に、嫉妬美さんの声が聞こえてくる。
体が
体が金縛りにあったように動かない。
〼虚迷言さんが、抱きついているからだ。
迷言さんは爽やかな笑みを浮かべて、無言のまま、口元に人差し指を当てた。
「お友達もご両親も随分心配してるっス。ここを開けて欲しいっス。中を見させて欲しいだけなんスから!!あなたを助けたいんス!」
「っ」
妬美さんの声と玄関扉を叩く音は次第に大きくなる。はっきり言って異常な音量だ。
玄関扉が少し曲がった。
「本当に開けて欲しいっス!!あなたはとても危険なことに巻き込まれている可能性があるんス!ウチを信じて欲しいっス!」
ダメだ。
嫉妬美さんを中に上げるわけにはいかない。
風呂場を見られるわけにはいかない。
轟音と共に玄関扉が縦に裂け、裂け目から剥き出しの刃が露出した。
「どうしても開けないなら、立ち入り捜査を強行するっス。いきますよ」
「っな」
ゴンガンギン、と、
異常な金属音が鳴り続ける。
直ぐに、嫉妬美さんはメチャメチャに破壊された玄関扉を蹴破って、自分の部屋の中に無理やり上がり込んだ。
片手にはデザートイーグル、もう片手には斧を持っている。
「邪魔するっス」
妬美さんは、抱き合う自分と〼虚迷言さんを見て、怪訝な顔をした。
「…何してるっスか」
「すみません。取り込み中です」
自分は精一杯の答えをした。
「出張サービスです」
迷言さんは僕の首元で顔を隠しながら言った。違う、そうじゃない。
妬美さんは汚い汚物でも見るかのように自分と迷言さんを見た。お前みたいな人間にだけはそんな目を向けられたくない。
「…お仕事お疲れ様っス」
そう言うと、嫉妬美さんは洗面所へ直行した。
「ちょっちょっと!」
「なんかこの辺が怪しい気がするっスよ。ウチの勘は2割の確率で当たるっス」
勝率低いな。二択のくせに。
「っそうじゃなくて、ダメだ!そこにはまだ」
「まだ?何スか?」
嫉妬美さんは面倒くさそうに洗面所に入る。風呂場へは洗面所から入ることができる。
迷言さんは依然、人差し指を口元に当てて、笑っていた。
「ふふ。これは『謎』です」
ダメだ。
ダメだダメだダメだダメだダメだ。
開けちゃダメだ。
虫の羽音が聞こえる。
ああ。もう5時38分を過ぎている。
もう彼女が死んでしまう時間だ。
だから開けちゃダメだ。
——彼女は縊死した。彼女は縊死した。
——来る日も狂る日も彼女は縊死してました。
——誰ですか?こんなところにこんなもの置いたのは。
——彼女は縊死してました。
——彼女は腐乱死してました。
——彼女はいつ目が覚めますか。
——この自作自演女め。お前の書いた探偵小説には飽き飽きだ。狂る日も狂る日も探偵を殺人事件に巻き込みやがって。そこで反省しろ。
開けちゃダメだ。
嫉妬美さんは躊躇なく風呂場の扉を開けた。
「——ちょっと他の部屋も見せてもらうっス」
「——え?」
まるで何もなかったかのように、嫉妬美さんは1Kの自分の室内を物色する。
40分ほど経っただろうか。
嫉妬美さんは、自分に平謝りしてきた。
「これ、玄関扉の修理代の200万円っス。勘だけで捜査を強行してマジで申し訳なかったっス」
どうやら嫉妬美さんは、(ただの異常者で)——警官ではあるのだが、本当にただの勘だけで、自分の室内を物色したらしかった。
あと、ポケットからポンと札束が出てくるのはどういうことなんだろうか。実家が太いのだろうか。
200万円はお札の通し番号が全部綺麗に並んでいたけど、自分はそれを気にしないことにした。
「本当に申し訳なかったっス。彼女さんにも申し訳なかったっス」
「いえ、私はメイドですので」
「ふーん、ところで差し支えなければあなたのご尊顔を拝したいっス」
妬美さんは、愛想笑いもせずに言った。
迷言さんはゆっくりと、自分の肩にもたれ掛かるようにように隠していた頭を上げた。
楽しそうに、笑っている。
もう日は沈んでいるのに、太陽のように明るい。
お淑やかそうな見た目とは裏腹である。
その口元はあどけなくも朗らかだ。
妬美さんは、マジマジとその顔を見つめた。
「ほー。これは抱きしめたくなるのもわかる美人さんでスね」
「いえいえ、どういたしまして」
——「でも見ない顔っスね」そう言うと、嫉妬美さんは踵を返して、破壊され尽くした玄関扉から出て行ってしまった。
解放された、のだろうか?
玄関の外を見れば、肩を落とした嫉妬美さんが溜め息を吐きながらトボトボと去って行く様子を見れた。
斧は玄関に放置されていた。
これ持って帰って欲しいんですけど。
「珍しいお客様もいらっしゃるんですねえ」
などと暢気な事を言う迷言さんの声が聞こえる。
「そうだ!それどころじゃないですよ、迷言さん。風呂場。風呂場は一体どうなって、」
——だってあそこには
風呂場を見られて、
——警官が見逃すはずがない
迷言さんは、〼虚迷言さんは、いつの間にやら自分から離れて、一歩後ろに下がった位置にいる。
自分が風呂場へ向かうと、迷言さんも付いて来る。
「なんで、どうして、」
洗面所に上がり、開け放しになったままの風呂場のドアに手を掛ける。
——風呂場から虫の羽音が聞こえる。
翁名若菜。《人生の墓場》。
助けてくれ。
自分は誰も助けられない。誰か彼女を、
助けてくれ。
「お客様。ドアを開けてみては?」
「そう、ですね」
ドアが開く。
6時3分。
ドアの向こうには——
「——どうして」
——風呂場には、何もなかった。
とても綺麗な風呂場だ。シャワーと浴槽は白く眩しい。壁面には白熊のお風呂ポスターが貼られている。剥がして浴槽のお湯に被せて保温もできる便利な奴だ。
風呂場には何もなかった。
「これは…」
《秘密隠匿》
《迷図謎掛》
自分は振り返って迷言さんを見る。
迷言さんは——快活な笑みを浮かべて、
人差し指を、自分の口元に当てた。
「どうでも良いじゃないですか、そんなこと」
否
「だって、そこに」
「そこに何かあるんですか?何もありませんよ」
——長い夢でも、見てたんじゃないですか。ご主人様。
これは
何が起きたというのだ。
「それは『謎』です」
「『謎』…」
「全部全部『謎』にして仕舞えば良いんですよ。『謎』にしてしまえば綺麗です。楽です。ね、お客様、ご主人様。ふふ」
「何も」
「何も?」
「何もありません、でした」
「ふふ。よく言えました」
そして、迷言さんは人差し指を、自分の口元から、彼女の口元へと持っていく。
そうだ。
いない。翁名若菜などという人間は
だってサークルの人も誰も知らなかったし
アレだって、
自分の弱い心が生んだ——妄想だったのか。
初めからいない。
自分は心が急速に軽くなっていくのを感じた。
「これで事件は『迷宮入り』——」
迷言さんは、嬉しそうに笑った。
そんな彼女が、堪らなく好きだった。
「お客様、どうして私が一丸可さまに仕えるのか、いつか本当の理由を話しますから、だから、私の味方で居てくれますか?」
急に彼女はそんなことを言った。
彼女が自分のことをご主人様と呼ぶ理由、
そんなことはもうどうでも良かったが、彼女のために、頷いたのだった。
《迷図謎掛》
翌日、すっかり軽くなった足取りで、意気揚々と、アンティーク喫茶『迷宮入り』へ向かった。
そこには、黒い立方体と黒い直方体をいくつも組み合わせた、出来の悪い人間の形をした黒い人形のようなものが、アンティーク調の椅子に座っていた。
テーブルの上には、いくつもの細長い立方体が沢山置かれている。
「あ、一丸可様、ご主人様待ってたっスよー」
明朗快活な表情で、〼虚迷言さんが自分に対して挨拶する。
警察官の制帽を被ってオシャレして、ビーズにまみれた塊のようなものを、手で弄んでいるようだ。
黒い人形は小刻みに震えていた。どうやら椅子に縛り付けられているらしい。
「ま、迷言、さん?」
「ご主人様。どうして私が一丸可様に仕えるのか——理由を話しますね。私の道具になって欲しいんです。」
——道具として、働いて欲しいんです。ね、ご主人様?
黒い人形の足元に、ビーズまみれの警察手帳が投げ捨てられた。
警察手帳には嫉妬美さんの写真と名前が記載されていた。
「ああああああああああ」
「つーかまーえたっ」
つかまった。
文字通り言葉を失う。
言葉を失うとはこういう感覚なのだろう。
〼虚迷言さんは、いきなり、自分の背中に飛び付いてきた。
「ほら、あの黒い人形はなんだと思います?シルエットクイズですよ!シルエットクイズ!お客様の大好きな私との時間です」
万力のような力で、自分を締め付けながら、迷言さんは片手で出来の悪い黒い人形を指差した。
黒い人形は、小刻みに震えているようだ。
実際それも、本当に震えているのか分からない。
あまりにも黒いから、シルエットしか見えない。
匂いも音も、何も漏れ出してこない。
——「《迷図謎掛》で包み込んだ『謎』は、外に出す情報を操作できるんです。例えばシルエットの形は変えられますし、匂い、湯気なんかも遮断できるんですよ」
声も
「ほらほら、お客様。当ててみてください」
「……」
言葉が出てこない。
本当に、ショックで何も話せないのだ。
迷言さんは、僕の左手の親指の付け根を折った。
「イィイッ—————」
「答えは『謎』です。『謎』だからどうでも良いんですよ」
迷言さんは、折れた自分の左手首を、労わるように両手で撫でてくれる。
「ふふ、痛いの痛いの飛んでけ」
なんて優しい人なんだ。と、そう思った。
迷言さんはその優しい手で、
自分の両手を掴んで
テーブルの上に整然と並べられた、いくつもの黒い直方体達の一つを手に取らせた。
「じゃじゃーん、箱の中身はなんでしょうかクイズ〜ぱちぱちぱち、というやつです」
黒い直方体は、端っこがケーブルで繋がっていて、コンセントに挿し込まれていた。
「お客様、今から一つずつこの道具達を使って、人形に刺し込んでいきましょう。人形の中身が誰なのか分かったら、大正解ですよ」
「い、」
「あ、持ち手を変えちゃ危ないですよ。高圧電流が流れてますから」
自分の手は
迷言さんの細長い手を添えられて
その高圧電流の流れているらしい、黒い直方体の中へと吸い込まれている。
迷言さんは、自分に持たせたその黒い直方体を、椅子に縛り付けられた黒い人形へと持って行った。
やめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめてやめて
やめなかった。
黒い『謎』同士が衝突する。
黒い人形は、これはもうシルエットだけでもわかるくらい、座ったまま大きく跳ねて、倒れてビクビクと痙攣するみたいにして、そして困ったことに動かなくなった。
「あっ、あー…まあ良いでしょう。次行きましょう、お客様」
「え、あう」
「今の答えは自家製の高圧スタンガンでした」
結果から述べると、
2問目の答えは日本刀。
3問目の答えはサブマシンガン。
4問目の答えは小型の電動ノコギリ。
5問目の答えはデザートイーグル。
6問目の答えは斧。
7問目の答えはハサミだった。
「ふふ、そうなんですよ。最近とても物騒じゃないですか。そういうの、とても困るんです。平穏無事な日常こそ、私や一丸可様、ご主人様の求めるものじゃないですか?」
「そう——ですね」
「往来で殺人するなんて、騒ぎになったら困るんです。騒がれるだけで巻き込まれて、私たちの平穏な生活は無くなってしまう。だからこっちからお掃除してしまおうと思って」
「そう——なんですか」
「そうなんですよ。平穏な生活のためには、空気を読まずに騒ぐ人たちは邪魔で溜まりません。」
「それで——自分が」
「はい。ご主人様は私たちが責任を持って鍛えてあげますから。だから矢面に立って、邪魔な人たちを、全員お掃除して欲しいんです」
「わかりました」
わかりました
「良かった。私、頼れる人が欲しかったんですよ」
迷言さんは、自分の右手小指と彼女の右手小指を重ねた。
7番目の答えはハサミだった。
「ゆーびきーり、げーんまーん、」
「うそついたら」
「「はーりせーんぼーん、のーまーすっ」」
指切った
指きりで約束した後は、黒い人形をバラバラにして、一緒にお片づけした。
それで、今度は自分が黒い人形の座っていた椅子に縛り付けられ、「」さんに殴られていた。
「ははっご存知の通り、『秘密主義者』であるこの私は理性的で理知的だが、反対に、
『謎掛』である〼虚迷言は、ああ見えて短絡的で直感的なんだぜ。行動的ですらある」
「はい」
「お前、短絡的で直感的で行動的な奴に目をつけられたなあ。だからこうして私が相手してるんだけどな」
「はい」
「それで?短絡的で直感的で行動的な、理性の介在しない犯行をした感想は?ご主人様」
「全部。全部自分の妄想です」
「」さんは自分を殴った。
「違う違う!翁名若菜を何故殺した?」
「彼女の能力で」
「」さんは自分を殴った。
「違うだろ!?ご主人様が殺したかったからだ!」
「はい。私がやりました」
「じゃあなんで殺した!?動機は?」
「殺したかったからです。動機なんてない」
それを聞くと、「」さんは悪戯な笑みを浮かべた。
「そうだ!ご主人様は短絡的で直感的で行動的で、理由のない殺人を行う犯罪者だ!」
「はい」
「だから、他の人には、そういう風に説明するんだぞ、一丸可詰丸様、お客様」
「〼虚迷言さんに会わせてください」
自分が懇願すると——「」さんは部屋の奥に引っ込み、すぐに〼虚迷言さんが姿を現した。
椅子に縛り付けられられた縄を解いてくれた。
「お客様、髪の毛を梳かしてあげますね」
迷言さんは自分を抱擁してくれた。
迷言さんが大好きだ。
最終更新:2019年11月30日 17:09