そこは、殺害現場と言うには似つかわしくない、何の変哲も無い路地の一角だった。ちらつきの目立つ街灯の下、スーツ姿の男女が、一帯を往復しながら忙しなく動き回っている。
「はー。相変わらずきちっと掃除してくれちゃってますね、『口口』」
「今月に入って3件目か。ペースは以前とそう変わらんが……やはり、奴が」
僅かに残された血痕、被害者のものと思われる暖色のマフラー、そしてラメパーツで装飾された数枚の付け爪。監視カメラで姿を捉えたそれらの持ち主は、昨夜を境に足取りを途絶えさせている。
「しっかし、何で今になってまた帰って来たんですかねえ? 東京に」
細目の若い男は壁に背を預け、上司らしい女に尋ねた。黒髪をアップにまとめた年かさの女は現場検証をしながら、屈んだ体勢のまま答える。
「分からんな。ほとぼりが冷めるのを待っていたか、あるいは他に此処へ戻る理由があるのか」
殺人鬼『口口』。数年前に都内を騒がせた、神出鬼没のシリアルキラーである。それの犯行の特徴的な所は――この手の殺人者であれば、殺害現場に何らかの符丁を残す事はよくあるパターンだが、その逆――現場に何も残さない……死体さえも。
「人口だけなら世界1位のトーキョー・シティ――こんだけ人が居りゃイカれた奴も定期的に出てきますが、あん時期はまあまあ異常でしたね。犯行期間およそ1ヶ月に対し、最終的な殺害人数は13人――殺人鬼としちゃ凡百ですが、同時期に行方不明届けが出された人数は例年比較でおよそ200人弱のプラス」
「そしてそのプラス分の人数はそっくりそのまま、今に至るまで足取り不明」
言わずもがな、その中には彼らの元同僚――警視庁の捜査員も含まれている。
「……あ。となると、直接奴の姿を見たのは、今んとこ石積さんだけになるんすね」
石積と呼ばれた女性は、現場に残された血痕へ視線を落とした。かつて数々の殺人鬼達と対峙した中で、その相手は石積にとっても、また殺人鬼の側にとっても因縁の深い相手だった。
「ああ。稀代のシリアルキラーのご尊顔――拝観料は高くついたがな」
そう言って、彼女はスーツの上から、体温の無い右腕をなぞる。男はうへ、と呻き、ばつの悪そうな表情を浮かべた。
「これ以上は何も見つけられなさそうですね。戻りますか」
「――いや、宇佐木は一人で戻ってくれ。私は少し寄る所がある」
うぃっく、と低音のしゃっくりが、おでん屋台の店主と女性との二人だけの空間に響く。ショートカットの女性は重ね着したワンピースとジャケット、トータルでシンプルなゆるふわコーデに身を包み……といえば聞こえはいいが、女の身体のサイズから察するに、凝った装飾のものはそのサイズ帯には存在しないのだろう。そもそもゆるふわコーデにおでん屋台で一人酒というのも中々に珍しい話である。
「おっちゃん、熱燗ー」
言うが早いか、店主は熱燗を慣れた手つきで摘み上げ、彼女の元へ差し出す。
「うぃー。やっぱ一仕事終えた後の一杯は、格別ですわー」
唇をつけ、ちびりちびりと濡らすようにそれを味わう女性。時折、思い出したように箸で大根をつついたり、つるつると白滝をすすってみてはふにゃんとした笑みを零す。表情だけ見れば愛嬌があったが、そのあどけない笑顔に反して2m近くの巨躯を彼女が頬杖をついて揺らす度、年季の入った屋台はぎしぎしと不穏な音をたててきしんだ。
屋台の強度を意に介さず、晩酌を愉しむ女の背後から、アスファルトを削るが如き足音が近づいて来る。
「らっしゃい」
愛想の無い声でのれんをくぐった女は、ハスキーボイスの女を半ば押しのけるように木製の長椅子へ座る。
「熱燗出汁割り。玉子、大根、牛スジ……は無いか。したら、ちくわぶ」
「……あいよ」
程なく、具の盛られた皿とコップが差し出された。その間、ものの十数秒ではあるが、二人の女性の間には刺し合うような緊張感が漂っていた。
「久しぶり。3年ぶりだね、石積さん」
「……もう3年、と言うべきかな。綿塚よ」
綿塚と呼ばれたハスキーボイスの女性は、気の抜けた笑みで返す。
「へへ。見ない間に、随分イカす右腕が生えてんじゃん。それ見る度に、私の事思い出してくれてたん?」
夜闇の暗がりに紛れれば、通常の人体と見分けはつかなかった右腕だが、こうして灯りの下に出ればその義手――ぎらぎらと光る特注のそれが、僅かに見える手首のみでも存在感を放つ。まして、元から生えていた腕を奪った張本人から見れば、なおさら印象的に映るだろう。
「忘れる筈も無い。今日はその貸しを取り立てに来た」
石積はコップを垂直に立て、一気に中身を飲み干す。彼女の静かな怒りに呼応し、義手がきちきちと音を立てた。
「……そうだね。貴方には一杯借りがある。つまんない日常を、家族を、貴方は全部ぶち壊してくれた」
斜陽に照らされる両親の死体。ダイニングテーブルの上で煙草を燻らす女。
「貴方を追って食人者に為り、貴方を追い抜き殺人鬼に為った」
人の血の味。肉の味。魔人への覚醒。
「あなたへの借り、返してあげるよ――私なりのやり方で」
綿塚もコップの酒をあおり、そして一気にゲロった。吐瀉物は咄嗟の判断で屋台を避けたものの、アスファルト敷きの道路に彼女の胃の中身がぶちまけられる。
その中には、石積が先ほど見たばかりの付け爪もあった。
「……へ、へ。最近消化が悪くってさあ。以前は服だって少しくらいは一緒に食べても、だいじょぶ、だったのに、うぷ」
綿塚 翠――もとい『口口』。
「綿塚――少し、跳ね過ぎたな。今までのように、私達の管轄外で細々と生きていくのであれば見逃してやったものを」
「おあいにく様、元々逃げるつもりなんて無かったよ。たまたま数年前、動画サイトの海外ドキュメンタリー見てから興が乗って、世界中の人種を食べに行って、それに飽きたから帰って来た」
基本的に、彼女は牛・豚・鳥肉等の食肉を避けるベジタリアンである。動物性タンパク質の摂取方法なら、わざわざ肉を食べなくとも、今の時代であればいくらでもそれらを補う手段はある――故に、栄養的な問題はそこまで深刻ではない。
だから彼女の行う殺人行為の根本的な目的――食人は、むしろ趣味的な部分に因るところが大きい。
「ねえ、今度はさぁ、反対側の腕も頂戴よぉ。日本の裏側まで探したけど、あの日食べた石積さんの肉に並ぶのは、数える程しかいなかったなぁ――」
綿塚の喉がごくり、と鳴る。半開きの口からは、興奮に伴って過剰に分泌された唾液が滴り落ちていた。
「それは光栄だな。なら折角だ、この新しい右腕も味わっていけ!!!」
ヴン、と振動音が鳴り響き、石積の右腕が爆ぜた。スーツとシャツの右腕部が破け、同時に衝撃で派手に吹っ飛ぶ綿塚。それを尻目に、石積は逆の手で万札を店主へ渡す。不穏なやりとりから事前に状況の変化を察していたか、代金を受け取った店主は熟練の手捌きでその場を撤収し、すっ飛んでいった。
「ったた。ああ、只の義手じゃないと思ってたけど、そういう――」
義手自体のギミックではない。綿塚はそれを、3年前に身をもって体感していた。石積が右腕に纏うのは、極小のダイヤモンド――それら数千粒で構成される、人体の模造品。
石積 彩花――もとい『輝石星』。
「次はお前の番だ。3年前からどう変わったか――見せないのなら、ここでシネ」
石積の魔人能力『輝石星』。警視庁内部で呼ばれる異名でもあるその名が示すのは、単純にして強力な「周囲の宝石を操作する能力」である。以前に綿塚とやり合った時も、銃弾の如く降り注ぐダイヤモンドの雨と、宝石仕込みのメリケンサックを使用したインファイトで彼女を苦しめた。
「うはあ、貴方自身がダイヤモンドになっちゃってるじゃん! 幾らしたの、それ?」
「35億」
夜空にきらめく星の数と、果たしてどちらが多いだろうか。とりとめのない考えを浮かべながら、綿塚は低い高度で跳躍し石積の懐へ迫る。石積はダイヤの礫で応戦するが、急所を防ぎながら跳んで来る彼女のチャージは止まらない。
「相変わらず初速はニブいね。近づいてしまえばこっちのターンだ――うううるああああ!!」
吼え声と共に、綿塚のゆるふわコーデの内から新たに4本の腕が飛び出した。筋骨隆々といったその風貌は、明らかに女性のものではない。
「その姿は相変わらずだな、綿塚! お前のその姿を『少年向け漫画雑誌の打ち切り作品に出てくるパワータイプの四天王(最初に出てくる。最弱)』って比喩で似顔絵師に伝えたら、あまりにそのまんまの物が出てきたから少しびびったぞ!!」
「ああぁぁあ!? 誰が『二次元ドリームノベルスのヒロイン陵辱物に出てくるオーク系血統の竿役(第2章で登場。主人公の処女を奪うも、なんやかんや主人公の機転で殺される。たまに最終章手前で生き返る)だってええぇぇ!?」
台詞を一息に、どこから取り出したのか上段に振りかぶった肉切り包丁で斬りかかったが、石積は宝石の壁を展開しそれを受ける。ダイヤ自体の硬度もさることながら、柔軟性をもたせた構造にする事でそれは絶対的な物理障壁と化す。
「んあ、やるねえ!」
「まだまだ――!」
刃を弾いた直後、宝石の壁がじわじわと変形し刃の形を作り出す。勿論こけおどしではない、命を刈り取る為の本物の刃だ。
「う、おっとぉ!」
横薙ぎに迫るそれを、今度は綿塚が肉切り包丁で受ける。刃で滑らせて軌道を上手く逸らしたが、こちらは余裕ゼロの紙一重。真っ向勝負では、能力の強度差が如実に現れる――単純な殴り合いなら、今現在有利なのは石積の側だ。
(んなら――こっちは手数で攻める!)
一合の打ち合いで綿塚は判断する。義手を形作る宝石の総質量から見て、今のような受けと攻めを両立するのは困難な筈――ならば、こちらからの攻撃を切らず、相手に受けさせ続ける。彼女の持つ六本の腕なら、それが可能だった。
「うーららららぁ!!」
肉切り包丁以外の五本の腕を握り拳に、上・中・下段をただ叩き続ける。格闘ゲームなら通常対処のし様が無い、チートじみたガチャプレイである。石積は先程と同様に受けるが、全身を覆う壁を展開するのは確かに骨が折れるようだった。彼女の右腕部はそっくり消失しており、このままの状況では取りうる手段が狭まるのは確かだ。
(……まあ、大体分かった)
しかし、石積にとっては、ここまでの状況は想定内――むしろ、此方側に有利ともいえた。
「何だ。以前と成長が見られんな――こんなものか」
挑発。むろん、このような常套手段で綿塚が手を緩める事も、また苛烈になる事もない。平静を保ちながら、じわじわと石積の消耗を積み上げていく――はずだった。
がきん。
「……うぇ?」
突如、宝石の防御壁が解除される。無防備の石積の身体に突き刺さる多段攻撃を仕掛けた――仕掛けていた筈の六本の腕はしかし、10cm四方の小さな6枚の煌く壁に阻まれていた。
「説明は地獄でいいか?」
返答を待たず、綿塚の頭上に唐突な死がやって来る。
『へへ。見ない間に、随分イカす右腕が生えてんじゃん。それ見る度に、私の事思い出してくれてたん?』
『忘れる筈も無い。今日はその貸しを取り立てに来た』
大袈裟な言動では無かった。3年間、あの時失い、そして新たに得た右腕を見る度に、石積は綿塚と打ち合ったあの十数分を反芻し続けていた。この先、出会うかも分からない一人の殺人鬼について、通じるかも分からない対処法を延々と練り続けた。
結論から言えば、綿塚は戦闘巧者では無い。優れた能力の汎用性に胡坐をかき、自分よりも劣る相手を選び狩り続けてきた。殺人鬼としては間違った在り様でもないだろう。己の欲求を満たす魔人としても、これまでは問題なかったはずだ。
しかし、選んだ道の是非はどうあれ、その先が今の彼女の窮地に繋がっているのは確かだった。
(腕は前に戦った時も六本だった。攻撃パターンは上・中・下段でそれぞれ3パターン程度、綿塚はそれらの組み合わせで打撃のコンビネーションを作る。武器は変わっても、基本的な動作は同じ)
(勿論、それらはある程度のランダム性を含めた上で、こちらの読みを外す――あるいは裏をかいて正面から打ち込む位の工夫はしてくる。平常時に27分の1の一点読みを通すのは、不利な賭けと言わざるを得ない)
しかし、その選択性には一つの癖があった。仕切り直しからの綿塚の仕掛けは、極端にパターンが限定される。その日の体調や気分によっても変わるが、受けに回った際の観察でその辺りは看破済みだ。
(あからさまな挑発で揺らし、平静を『取り戻させる』。そこからなら、おおよそ3通りにまでコンビネーションは絞れる――後は予測される攻撃軌道を可能な限り塞ぐよう、最小限の壁を置いてやればいい)
石積の側でもリスクは負うが、これは最低限の必要経費だと自身で割り切っていた。絶対失敗さえ引かなければ、再度の打ち合いに持ち直すだけの余裕はある。尤も、その心配も今となっては杞憂だったが。
大質量・最高硬度の物質にて、能力を乗せた必殺の一撃。喰らって立ち上がった者は居らず、また単純落下の軌道を描く関係上、それを受けた相手は地に這い蹲り詫びるように頭を差し出すように倒れ伏す(頭の原型が残っていれば、の話だが)。
故に『侘石』――彼女を知る者はこの技を、そう呼んだ。
(死ぬ!!!!!!)
綿塚は本能的に悟る。受ければ死。回避は――右足・左足には、いつ刺されたのか二本の棘が、地面と自身とを縫い合わせている。残された思考時間は皆無。その瞬間の閃きに、彼女は賭けるしかなかった。
「っ、」
覚悟を決める時間すら取らないまま、彼女の右腕が弧を描き、両足を肉切り包丁で切り落とした。無防備な頭部へ迫る宝石塊まで、あと10数cm。
跳躍。後でも上でもなく、前へ。服の内へ隠されたままだった後脚――三本目の脚を屈伸し、綿塚は石積へ跳び掛かる。
(窮鼠の一撃か。これが受かれば)
石積はバックステップで距離を取り、作った時間で思考と対応に脳内のリソースを回す。彼女は揺れない――侘石に所持石を割いた為防御に使える石は少ないが、最悪死ななければこちらのアドは継続する。相手方にも余裕は無い、ギリギリまで慎重に見極めれば、どの手でくるかはある程度予測できる。
う、とうめくような声。彼我の距離は未だ、綿塚の得物が届くような距離ではない。
「う、ろえぇぇ」
放ったのは、彼女の開かれた左手――から生えた、口――からの、ゲロ。
「っ、ぷ!」
顔面を狙った黄濁色の液体に、生理的嫌悪感から思わずガードの姿勢をとる。想定からの僅かなタイミングのずれ――そのラグを活かし、石積とすれ違った綿塚は1本足と6本の腕で、そのまま這うように戦場から離脱を図った。石積は振り返り、めくら撃ちで弾丸を放つが、それらは命中することなく、綿塚は路地裏の方向へと消えていく。
追えばとどめを刺せるチャンスも有ったかもしれないが、先行して罠を張られる可能性・逆上して民間人の大量殺戮発生の可能性も考え、石積は足を止めた。2本の脚のダメージは――綿塚の能力の性質上、この場で仕留められなかったのならば考慮する意味が無い。
「……汚え」
石積の言葉はむろん、彼女のとった手口ではなく吐瀉物そのものに対してである。逃げられた原因は単純に、彼女の能力を一瞬でも失念していた己の失策だろう。
摸喰……食った相手の部位を任意の場所へ取り込む、綿塚の能力。
「見に回り過ぎたな。今のままなら十回やって十回勝つ自信は有るが……」
ここで逃したとあれば、綿塚も次は対策を打ってくるだろう。逃した彼女は、次はどのような姿で、石積と対峙するだろうか。
ばり。むしゃ。もぐ。
「ん……やっぱ足は、3本のがバランスいいね」
出会い頭に一刀両断した一般市民の右足と左足を交互に齧る綿塚。口中は血に溢れ、その潤いは他で満たされなかった渇きを癒す。切り落とされた脚は、既に新しい脚――目の前で事切れている男性の脚へと生え変わっていた。
「いやー、負けた負けた。もう少し戦闘用にカスタムしないと、ねっ!」
顔面をえぐり取るように、一口で頭部を齧る。眼球・鼻・舌・唇。食感で言うなら、これらの異なる部位を一口に味わえる顔面が、彼女の最高の好物だった。
「眼はもう一つくらい……フェイントと奇襲対応用に、背後が見えるよううなじに付けとこうかな。今回のゲロはまだ使えそうだから、もう1,2箇所口も仕込んどきたいし」
死は免れたとはいえ、初めての敗北らしい敗北。その予感は、常に綿塚の頭の片隅にはあった。
「漸くだねえ。漸く、新しい遊びができた」
彼女は未来に起こりうる予測を無視し、今この時の欲求に従い動く。人を殺す。喰う。邪魔が入れば、排除する。今彼女は、新たな欲求を認識した。
「……次は、殺すよ。その為に、先ずは新鮮な死体を……」
東京。この街での獲物を、『口口』は見定め始めた。
最終更新:2019年12月01日 18:40