池袋、西武デパート屋上は人もまばらに、そろそろ短い夕方が冬の夜へと切り替わる時分であった。男は一人、ベンチに腰掛けて温かいうどんを啜っていた。
ズルズルと音を立てて吸い込むと、椀上の麺はみるみるその嵩を減らし、ネギや半熟卵はそのついでと言わんばかりに消えていった。
男が顔を上げて息を吐くと、容器の中は汁すらも綺麗に舐めとられていた。
「美味しそうに食べますね。私ももっと早く着いていれば同じのを頼んでいたところです」
「うるせえ、貴様が待たせるからこれで4杯目だ。いい加減飽きてきたところだよ」
「こんな都会に普段は用がないものだから迷ったんですよ。おまけに駅前のロケンローラーに耳をやられました。
目隠しをしていても虚無主義恋愛偏重思想無政府主義が侵入してくるとは新鮮な体験です」
「楽しんでんじゃねえ」
口から湯気を出してぎろりと睨むその先には、珍妙な布で目を覆う少女がひょろりと立っている。
彼女の名は稚切 バドー、ベンチコートのポケットに手を突っ込み、寒そうに首をすくめているが、危険視の対象となるような魔人である。
冷めていく容器を脇に置き、その男、警察官・大悲川 南兵衛(だいひがわ なんべえ)は胸ポケットから写真三枚を取り出した。
「こいつを探して引っ張ってこい」
嫌々ポケットから出した手で写真を受け取ると、バドーは目隠しをしている布を外し、それらを改めた。ピンボケした写真、明度が合っていない写真、肝心の被写体が遠すぎる写真の三枚。
バドーは心中に芽生えるウンザリとした感情を自覚した。
「本気で言ってます……?」
被写体からは何か底知れぬ殺意のような激情が伝わってくる。関わりたくなるようなものではない。
「職質したくても逃げちまうんだよ。今はそれどころじゃねえしな」
大悲川は口元を緩ませて言った。
「知らねえか? 殺人ガガンボ。今この辺だと持ち切りになってる」
直接聞いたことはない。しかしバドーはその名を知っていた。池袋駅近く、そそくさと帰ろうとする人の群れが肩をぶつける度に、その
殺人鬼に対する恐怖は何度も彼女に伝えられてきた。
人々の持つ断片的な情報、大悲川の語る情報を組み合わせると、要するにこういった話らしい。
完全に日が暮れた池袋周辺、道を歩いている人は大きな針金の束に出くわすことがあるとう。
否、それは針金ではない。人の頭よりも少し大きな羽虫である。その羽虫は細長い胴体から細長い脚を垂らしてゆっくりと近づいてくる。
ふわふわと、宙を泳ぐような動きだそうだ。
しかしその虫は印象よりもずっと速く歩行者に追いつき、BBQ串のような口吻を何度も突き立て、糸鋸のような脚で身体を掻き回す。
目撃者の多くは半死半生、死人も既に二人は出ている。
一日に複数同時に全く同じような被害が離れた地点から現れたことから、羽虫は複数匹存在している疑いがある。
「警察は今何件もの連続殺人事件にかかりきりで、未だ事件との関係が薄いと見られている写真の人物に対して特別関心は持っていない。
全ての殺人ガガンボの犯行と見られる事件周囲にこいつの影があるわけではねえ。
この写真は殺人ガガンボを発見した奴らがインターネットにアップしようと残したものだ。
虫と襲われる人間を撮ろうとしたらしいがシャッターを切る前にそいつらも被害者の仲間入り。
その時撮られた写真の中に背恰好の似たやつがいただけだ。
正面間近にそいつの姿を見たっていう奴はいねえしそいつらが本当に同一人物だという確信すらない」
「私は同一人物だと思います。湧き上がる感情と受ける印象が全く同じです」
「ならば良かった、適当な理由つけて捕まえてくれ。私人逮捕だ」
「どうやって? そして自分でやる気はないんですか?」
怪訝そうな目を向けるバドーを、大悲川はすげなく笑い飛ばす。
「そいつどうせ魔人だろ? 同じ魔人同士ぴゃーっとなんとかしちまえよ。俺ら非魔人に手を出せる相手じゃねえんだからさ」
————
バドーは当てもなく歩くことにした。大都会だというのに人通りが少ない。
殺人鬼や殺人ガガンボの噂が人々を怯えさせているようだ。
人通りのある場所であれば、他人がバドーの動向に多少なりとも注意している限りで周辺の様子を理解できるが、今は人が彼女を見ていない。
目隠しは外したままだ。
漫画や小説で見られることのある池袋名物のチーマーがたむろしていないか公園を探してみても、絶滅したか冬眠したか姿形も無い。
フィクションと現実の違いというものに打ちのめされ、バドーは溜息を軽く吐いてみる。
ここ数ヵ月の都内の様子は本当に異常だ。
夜というものは現代において祭のように華やかではなかったか。
このような状況下、平気で出歩くのはどうしても外せない用事が入っている人間か、それとも――
何処からか叫び声が上がった。
公園を抜け、路地を突っ切ったその先には地元でも親しまれている神社がある。
その境内ではツンツンと先を尖らせた髪の男と大きな虫との格闘が繰り広げられていた。
茶髪、金髪の男が頽れ、全身から血を垂れ流している。
「やれーッ、リョーちゃん!! タクミとマサキの仇を取るんだァ!! ブッ殺……ブチ殺せぇ!!」
「必殺のインフェルノファイアーを見せてくれぇ!!!」
ニット帽を被ったヒゲ面が、重症の男達のことは気にせずその場で飛び跳ねながら尖り髪に声援を送っている。
「よっしゃ見とけ!! 俺の伝説!!」
声援にあてられた尖り髪は羽虫の繰り出す泡だて器のような攻撃を躱しつつ、口から緑色の炎を舌のように伸ばした。
布のように広がったそれは、シュウと音を立て宙一帯を舐めとった。
————魔人だ。
少し離れた地点でそれを見ていたバドーの頬にまで、冬の空気を煮立たせる熱風は伝わってきた。
「リョーちゃんかっけえよ! ビバ伝説ヤッホー!!」
「だべだべ」
盛り上がる男達を見るに、決着はついたのだろうか。
バドーは現場の様子を確かめようと、足を踏み出した。
「リョーちゃん、マイレジェンド!! リョーちゃん、サイコー!!」
跳ねるニット帽の前で、不意に尖り髪は倒れた。
暗いので分かりづらいが、バドーは今しがた倒れた男に焦点を合わせるようにしながら音を立てず駆け寄っていく。
(意識を失っている……?)
能力が発動すれば、尖り髪の現在の感覚を読み取り、何が起こったのかを確認することができるはずであったが、どうやら彼は既に気力を手放していた。
ならばとニット帽を見つめるが、これはどうしようもない、薬で気分を昂揚させるばかりか、ほとんど何も考えず、現状を認識していない。
心なしか幻覚も見ているようで、周囲にウジャウジャと気味の悪い模様が渦巻いている様を知覚している。
「おっ、お前も見たかよリョーちゃんすごかったな!」
ニット帽が、バドーに気が付いた。
至近距離における相互の視覚、聴覚による認識と想念化。条件が満たされたことで瞬時に『象撫』の認識迷彩が半自動的に展開される。
レッドリスト、それが彼らの所属するチームの名前であるようだ。ニット帽の男の名前はポン田。次々と目の前の男から情報が流れ込んでくる。
ニット帽自身の認識であるレッドリストの一員という認識をバドーは自身にも適用し、怪しまれる事無く現場へと近付いていく。
ニット帽の感覚も何も当てにならない以上は自ら確かめる他にない。
「おっリョーちゃんこんな所で寝てる! さっすがワイルドだなあ~~! ……あれっ」
呑気なことを言っているニット帽。しかし、彼も急に全身から血を噴き出して倒れた。
もはやこの場に残され立ち上がっている者はバドー一人。
尖り髪健在時に遠くからも見えていた大きな羽虫の姿はもうない。足元には灰がうっすらとこぼれているおり、先ほどの一撃で焼かれたことは間違いない。
それならば、何故男達はやられたのか。
否、今考えるのはそんなことではない!
何者かが、バドーのことを見つめている、殺意を向けている。
彼女はその発信源、『象撫』が示す手がかりの方向を振り返った。
女だ。
パーカーを着た、歳は二十代と見られる女が、集合住宅高層、回廊部分から彼女を見下ろしている。
廊下の明かりが逆行になってその姿を照らす。
その女は告げた。
「殺せ」
と。
瞬間、血飛沫が舞い、内臓を外気に曝した時のあの、独特の臭いが夜の清涼な空気を我がものとした。
目を潰され、骨を引きずり出される痛み。急な苦痛に対する全身の筋肉の反射的な緊張。
様々な感覚が瞬時にバドーを貫いたが、しかし、それは彼女の身体が受け取ったものでは無い。
倒れたのは、女の方であった。
血液と共に意識と感覚が流れ出し、視界が眩い闇に埋められていく。
やがて、静謐な冷たさのみが現在を占めた。
バドーは相手の殺意を読み取ってすぐに、バドー自身のことをその女であると、その女をバドーであると思い込ませることに成功していた。
並々ではない女の殺意が込められていなかったならば、この距離で上手く能力が発動することは無かっただろう。
言葉を交わすこともなく交わされた、一瞬の応酬、思い返すほどの内容も無く、それは終わった。
混乱とポン田、死んだ女の意識を引きずりながら、バドーの手は携帯電話を掴んでいた。
凍える指で、あの男の電話番号を1つずつ押していく。
————
初めて、他人の死を取り込んだ。
以前代返の仕事をした時に大学で聞いた話、フランスの哲学者が残した思想の一つがバドーの小さな胸に浮かび上がった。
「自分自身の死は、他人の死とは代替不可能、経験不可能なものである」
周囲からは実際の死にゆく人の意識を観察することができないこと、死にゆく人自身も観察する意識能力を失ってしまうことが理由だとその時は説明を受けた。
そう、本来死の瞬間とは最も孤独な状態であった筈だが、バドーはそれを生きたまま体験してしまった。
少女の最悪の体験を他所に、大悲川は楽しそうに女へと駆け寄っていく。
「自分の能力で死んだな、自殺! 事件性なし! 一件落着だぜ」
「私がやったんですよ……?」
「それはかなりどうでもいい情報だな!」
「でも……」
「あー、もしもそれが本当だったとして? どうせなら今世を騒がしてる殺人鬼みんな自殺させてくれよ。魔人だろ?」
大悲川、この悪徳警官には、バドーの能力が何故か通じない。
理由は分かっている、この男は人を人と思っておらず、バドーを我-汝の関係では見ていない。
「頼むぜ? 俺はおっかないからよ」
バドーにはこの男を殺せない、身体能力でも劣っている。抵抗はできない。
逃げたとしても、次に見つかったならば何をされるかは分からない。
家も、知人も、誰かの記憶にも存在しない稚切バドーなどという人間は、この社会のどこにも認められていないのだ。
仮に怪我をしたとしても、殺されたとしても、誰も気にはしないし、大悲川は罰を受けない。
まだ、大悲川はバドーの力が彼に劣っているということを知らない。
まだ、自分は同等の存在であると思い込ませておかないといけない。
————
「ごちそうさまでした」
「はーい、お粗末さまー。お風呂が沸いていますよー」
適当に見繕った家で、家族の一員に成りすましてシャワーを浴びながら、バドーは考え事を続けていた。
人を殺したという意識、罪悪感は冷め始め、逆に自分は死んだのだという意識が湧きだしもした。
殺人ガガンボの意識が、強く染み込んでいる。
死という何よりも個人的な領域に踏み込んだためか、件の殺人鬼の意識は普段に無い鮮明さを保ってバドーの中にあった。
殺人ガガンボ、彼女は、寂しい魔人だった。
魔人能力『殺意の蟭螟』は、大型のガガンボ型ユニット、中型の蚊型ユニット、極小の寄生虫ユニットを視界内の対象を殺すために使役する能力で、レッドリスト達と殺人ガガンボ本人を下したのは極小ユニットによるものだった。
殺人のためにしか使えない能力、それも虫の使役という見栄えの悪さ、気味の悪さは人を遠ざけたが、それでも彼女の事を愛してくれる人がいた。
しかし、その恋人は先月、どこの誰とも知れぬ魔人殺人鬼に殺された。周囲からは彼女が犯人だと疑われることもあった。
警察は一向に捜査を進めない。
痺れを切らした彼女は、自らが殺人鬼となり果てながらも、夜の街をうろつく魔人を日々狩り続けていたのだ。
死の瞬間、彼女の心中に浮かんだのは、無念ではなく恋人との再会へと胸を躍らせる喜びだった。
受け止めきれない。死というものはあまりにも重い。
バドーは顔に湯を浴びせながらも、今後の身の振り方を考えることにした。
殺人鬼を、殺すしかないのだろうか。殺す以外の方法でお茶を濁すか。
いずれにしても、ポーズのために夜の街には出歩かなくてはいけない。
悩み、頭を捻る、そんな彼女の身体の暖まった底の方で。
殺人ガガンボの復讐の念がどこか心の奥で、再び熾るようにうずまいていた。
最終更新:2019年12月01日 18:20