いつも見る夢がある。
 体のあちこちが傷だらけで、満身創痍のまま立ち尽くす私。
 その横に、私と同じくらいぼろぼろになった女の子が倒れている。
 倒れた女の子はピクリとも動かず、頭から血を流し血だまりはどんどん広がっていく。

 ふと、広がった血だまりに人影が映り込んでいるのに気づく。
 顔を上げると、地面につくほど長い髪の女性が笑顔で両腕を広げていた。

「おめでとう、アナタを迎えに来ました」

 倒れている少女のことなど意に介さずこちらに話しかける女性。
 指を動かすことすらままならない体に力を籠め、私はゆっくりと腕を差し出した。


「よう、来たかお嬢ちゃん!」
「……」

 すっかり日が暮れて夜も更けた東京の一画。中華料理店ばかりが集まった商店街の中のひとつにおいて、背広姿の中年男性が新たに来店した少女にさも親しそうに声をかけた。

「……っ」

 少女は、その姿を認めるとわずかに顔を歪ませる。
 しかし彼女はその表情をすぐさま消すと、何事もなかったかように店奥の空いた席を目指して歩を進めた。

「お、おい待ってくれ。無視はやめてくれよ、おじさん悲しくなっちまう」
「……」

 慌てた様子の男性が椅子から腰を浮かせる。
 店内には他に客はいないが、しかし店長と思しき男性と店員らしき女性が二人いた。このまま男を無視し続ければ、彼らの注目を集めてしまうだろう。『この後』のためにもそれは避けたい。
 仕方ない、というふうなため息をつき、少女は男に向き直った。

「……なんで居るんですか」
「なんでもなにも、俺はお嬢ちゃんの『ファン』だからな」

 にやり、と笑いながら男は言った。
 彼の名は糸引 針縄(いとひき しんじょう)。新宿警察署に務める刑事だ。

「粘着質で迷惑なファンはお断りします、と言ったはずですが」
「ああ、だからここで会ったのは偶然ってやつだな」
「さっき『来たか』と言っていたのは?」
「おじさんになるとそういう言い回しをしちまうんだ、誤解を招いたなら謝るよ」

 のらりくらりと言い訳を重ねる針縄。おそらくこのまま続けても要領を得た答えは返ってこないだろうことは容易に想像できた。

「まあまあ、その辺は置いといてだ。せっかく会ったことだし相席にしないか? おじさん奢っちゃうぜ」
「お断りします」

 針縄の誘いをすっぱりと断る。当たり前だ、同席する理由もなければ価値もない。時間の無駄だ。
 だが彼がその程度で身を引く男ではないことは、彼女も嫌というほど知っていた。

「そう言わずに、頼むよ。もう二人分頼んじまったんだ」
「偶然会ったにしては準備が良いですね?」
「今日はたくさん食べれそうな気がして頼んたんだが、いざとなるとやっぱり無理な気がしてきてね」

 そう言い合う間に、料理が運ばれてきた。
 エビチリ、天津飯、麻婆豆腐にチンジャオロースー、そして担々麺。たしかに一人で食べるにしては量が多い。

「頼むよ、おじさんを『助ける』と思ってさ?」
「……っ」

 ふたたび少女の顔がわずかに歪む。
 だがその表情をすぐさま消し、彼女はしぶしぶと言った体で、湯気を立てる料理の前に座った。

「ありがとう、お嬢ちゃん」
「……貴方のためではありません、ただ料理が冷めたら勿体ないと思っただけです」
「そうかい」

 それだけ言葉を交わすと、二人は黙々と目の前の中華料理を食べ始めるのだった。

 実のところ、このようなことは初めてではない。
 二人が初めて出会い、そして糸と手錠、銃と鋏を交わしたあの海岸での一件以来、針縄は少女……ガンバレット・アルペイオスの行く先々へ現れては、なにかと理由をつけて彼女の『行動』を阻害してきた。それも、直接的な手段を用いずに、だ。
 ある時はひとりで持ちきれないほどの荷物を抱え、ある時はあきらかに間違った地図を手に同じ路地をぐるぐる回り続け、またある時は目の前で股関節を脱臼させて動けなくなり、その度に少女の手によって『助け』られ、そして彼女の時間を奪っていった。

 その意図は見え透いている。
 なぜなら、彼が現れる時はいつだってガンバレットが『仕事』をしようとする時だったからだ。
 あの時、あの海岸で『これからは見守らせてもらう』と言っておきながら、その実行く先々で彼女の手を煩わせては『仕事』をさせないようにする。それも直接的でない、回りくどすぎる方法でもって。

 そのおかげでガンバレット、否、『黒い甲殻戦士』による殺人事件の件数はこの一ヶ月ゼロ。
 彼は彼なりの方法で、少女の凶行を止めようとし、そして確実に阻止しているのだ。その事実がガンバレットには気に食わなかった。
 こんなおじさんにいつまでも構っている暇はない。彼女には、為さねばならないことがあるのだから。
 ……だが。

「いやあ、本当に助かった。お嬢ちゃんがいてくれてよかったよ」
「……別に、貴方のためではありません」

 だが、目の前で困っている人を見捨てられるほど、少女は冷血でもなかった。

「まったく……なんなんですか貴方は、もしかして暇なんですか?」
「ん?……ああ、そうだな」

 この日初めて少女の側から発せられたその言葉に、針縄は笑いを噛み殺すような表情で答えた。

「俺は『ひまじん』なんだ」


「あれっ、先輩じゃないッスか。こんな所でなにしてるんスか?」
「ああん?……ああ、誰かと思えばお前か」

 針縄が少女と共に食事を始めてからおよそ十五分後、中華料理店に新しい客が入ってきた。
 客は二人連れ。そのうちひとり、針縄に声をかけた男は彼も良く知る人物、新宿警察署の後輩の刑事だった。

「なにってお前、見ての通りだよ」

 針縄は後ろ手に机と、その上の料理を指差して答える。その皿のほとんどが既に空だ。

「見ての通り……ははーん」
「なんだその『ははーん』は」

 しかし、後輩の顔はなにか別の考えに至ったようであった。

「お前、なに考えてるか言ってみろ」
「えっ言っていいんスか? マジで?」
「おう、言え」

 明らかになにか勘違いしている。
 今後のためにも問いただしておかねばならない。そんな気がした。

「じゃあ言いますけど……その、ヤバくないッスか……?」

 後輩の刑事は顔を寄せ、小声で針縄にささやきかける。
 その目線は、彼の先輩と同席する少女に注がれていた。

(まずい、バレたか)

 針縄の背筋に緊張が走る。
 確かに同席している彼女は『ヤバい』。何といっても巷で話題になっている殺人鬼『黒い甲殻戦士』の正体なのだ。
 そしてさらに、この後輩は甲殻戦士についての報告書に目を通している……!

 テーブルの下で手錠を構える。
 場合によっては、彼にきつめの『口止め』をしなければならない……!

 だが、その覚悟は杞憂で終わった。

「やっぱりヤバいッスよ……現役刑事がエンコ―なんて……」
「違うわ!!!!!」

 思わず大声を出す。
 勘違いにしてもあまりに酷い。彼は後輩の知性を疑った。

「えっ、違うんスか」
「違うに決まってるだろうがこのバカ!! どこに目ェつけてんだ!?」
「えー、だって女子高生と中年男性の組み合わせって言ったらそれくらいしか」
「観察眼がなさすぎる!! それでも刑事か!!」

 はあ、と溜め息をつく。余計な気を使ったからか、肩がどっと重くなったように感じる。
 このザマでは先が思いやられる。針縄はこの後輩に、刑事としてのあれこれをみっちり叩き込まねばならぬと決心した。

「ったく……そんなわけないだろうが」
「ははは、スンマセン。でもそうなると、一体どういうご関係なんスか?」
「あ?……あー、それは、だな」
「娘さんってわけじゃないんスよね、先輩たしか独身だし」

 痛いところを突かれた。
 前言撤回。この後輩は刑事として十分やっていけそうだ。
 しかし、ここでその才能を発揮されても困る。多少強引でも話題を変えねばなるまい。

「そういうお前はどうなんだ? そっちの連れも女子高生……だよな?」

 後輩の後ろに立つ人影を指差しながら問う。社会人としては無礼な行動であるが、あえて気にしないことにする。
 彼が指差した相手は、確かに白いセーラー服の上にピンクのカーディガンを着た、女子高生らしき人物だった。幾重にも巻かれたマフラーのせいで顔立ちははっきりしないが、どうやら日本人ではなく白人のようだ。

「ああ、コイツは……妹ッス」

 後輩はチラリと後ろを一瞥し、すこし目を泳がせたあとそう答えた

「妹? 見たところ人種からして違うようだが」
「義理の妹なんスよ」

 どうにも嘘くさい。

「まあ、そうか」
「そうッス」

 だが、追及するのはやめておいた。
 こちらも探られては困る事案を抱えているのだ。ここは互いに探りを入れない、無言のうちにそういう了解を取れればいい。
 後輩の後ろの女に視線を向けるとばったり目が合った。小さく会釈され、針縄も軽く頭を下げた。

「ところで、どうだ? せっかく会ったわけだし、一緒に飯食わないか?」

 互いにこれ以上の詮索は無し、と後輩と目線を交わしたのち、針縄はそう提案した。

「これも何かの縁だ、今日なら奢ってやってもいいぜ」
「えっ本当ッスか!? そういう事ならゴチソウになろうかなー」

 後輩の表情がぱっと明るくなる。多少わざとらしいのは向こうも話題を変えたかったからだろう。

「いやあ、先輩も意外と太っ腹なところがあるんスねー」
「意外とはなんだ意外とは。俺はそんなケチじゃないぞ」

 がはは、と笑って見せる。
 もちろん意味もなく奢るほどお人好しではない。これにも別の目的がある。
 だがそれはそれとして、彼は他人と食卓を囲むことが嫌いではなかった。

 しかし。

「待ってください」

 待ったをかけたのは、同席する少女だった。

「貴方、これを食べ終えたら帰ると言っていませんでしたか?」

 そう言って彼女が指差すのはテーブルの上の料理。その皿のほぼ全てが既に空だ。

「ああ、そうだな。言った」
「だったら……」
「でもこいつらが来ちまったんだから仕方ないだろ?」

 後輩を指す。
 詭弁だ。わざわざ奢る必要性はないのだ、帰ろうと思えば帰れる。
 だが、まだ帰るわけにはいかない。少なくとも、この少女を残したままでは。

「なんなら先に帰ってもいいぜ? 代金は俺が払うからな」
「……それは」

 少女が食い下がる。当然だ、彼女の目的はこの中華料理店にあるのだから。
 だからこそ針縄としては、彼女が『仕事』をする時間をできる限り奪わなければならない。そういう意味なら、ここで帰って貰った方がむしろ都合がいい。
 だが、そう上手くいかないことは、彼も承知していた。

「……わかりました。どうぞご自由に」
「ありがとな、お嬢ちゃん」

 渋々、という表情で同席を認める。
 だがその目は言われるままに帰る気はないと言いたげだった。

「さて、さっさと座った座った! なんでも好きなもん頼んでいいからな!」
「それじゃ、ゴチになるッス!」

 少女からの恨みがましい視線をよそに、針縄は新たな客を迎え入れる。
 こうして、奇妙な四人組による食事会が始まった。


「……」

 刑事が知り合いらしき二人組を迎え入れてから、二十分が経過した。

 ガンバレット・アルペイオス……『黒い甲殻戦士』の正体たる少女は、目の前の状況を黙したまま観察していた。
 テーブルの上には、追加で注文された料理が所狭しと並んでいる。だが、それに口をつけているのはただ一人、刑事の後輩だという男だけだ。
 ガンバレット自体は最初に頼まれた以上に食べる気はない(そもそも食事をしにきた訳ではない)ため手を伸ばさず、注文した本人である刑事も、これまでに食べた分で満腹なのか新たな料理に手を付ける気配はない。彼は後輩の男に皿を渡してばかりであり、渡された男はそれをひたすら平らげていた。

 だが、店内にはもうひとり客がいる。
 男の連れ、彼曰く『妹』なのだという人物。彼女はこの店に入ってきてから一口も料理を食べていない。
 それどころか、入店から今に至るまで首に巻かれたマフラーを外しもせず、一言の会話すらしていないのだ。これは明らかにおかしい。

 そしてなによりも、ガンバレットは女が入店した瞬間から、なにやら言い表しようのない『違和感』のようなものを感じていた。はっきりとはしないが、何かが致命的に間違っているような感覚を。

「……」

 刺すような視線を向ける。
 ガンバレットの内心を知ってか知らずか、女はマフラーでさらに顔を隠した。

 その時。

「てめえ、なにやってる!!?」

 店内に響く怒声。
 弾かれたように、同じテーブルに座る四人が同時にそちらを向く。

「ごめんなさい……ごめんなさい……」
「口だけ動かしてんじゃあないぞノロマが!! さっさと片付けろ!!!」

 視線の先には、床に這いつくばる女性店員と、それを罵る店長らしき男性。
 見れば床にはぐちゃりと潰れた料理の成れの果てと、粉々に割れた皿が散らばっていた。
 女性が料理を運ぶ途中で落としたのだろう。男が怒るのも当然ではある。

「早くしろ!! クビにするぞ!!」
「ごめんなさい……すぐにやります……」
「チッ、この愚図が!!!」

 男が罵声と共にカウンターに蹴りを入れた。その音を聞き、女性はビクリ、と肩を震わせる。

 ……その光景を見た瞬間、ガンバレットの思考は冷え切っていた。

 そうだった。私はここに、こいつを殺しに来たんだ。

 怒鳴り続ける男に向けて、右腕を上げる。
 だが、それは既に右腕などではない。黒く光る異形……甲殻で構成された無骨な鋏だ。そしてそこには、一丁の対物ライフルが固定されている。
 その全身は、すでに黒い殻で覆われている。今や彼女はガンバレット・アルペイオスではなく『黒い甲殻戦士、魔技忌《マジカ╲╲ジェクト》』だった。

 破裂音が響く。

 放たれた銃弾は男の胸部に命中し、その衝撃でもって肋骨と肺をぐちゃぐちゃにかき混ぜ、背中側へと貫通する。

 ……そのはずだった。

 だが、実際に放たれた弾はもっと手前、甲殻戦士の足元の床を抉っただけだった。

『……!』

 意図せず下がった銃身を視線を向ける。
 そこには、ライン(釣り糸)に結びつけられた手錠がかかっていた。

 甲殻戦士はすぐさま振り向くと同時に、ラインを握る中年刑事に左手に持ったマシンピストルを向ける。
 一切の躊躇いなく流れるような動きで、彼女は刑事を撃った。

 あまりにも素早い射撃。あの海岸での一件と同様、彼には対応できない。

 だがまたしても邪魔が入った。
 同席していたセーラー服の女が驚くべき速さで両手で刑事を押し倒し、射線から押し出したのだ。
 しかし、今度は当の女自身が射線に入ってしまう。彼女はそのまま拳銃から放たれた弾をその身体に受け止め……

 跡形もなく『霧散』した。


「う、ぐ……クソ、どうなった……?」

 針縄は冬のアスファルトの冷たさを頬で感じ、目を覚ました。
 あちこちが痛む体を起こし、周囲を見る。視界がかすれてほとんど何も見えない。

 なにが起きた。自分は中華料理店で、今まさに殺人を犯そうとする少女を止めようとしていたところではなかったのか。
 疑問が脳裏から湧いて出るが、激しい頭痛のせいか確かな形を取れずに消えていく。

「う……ゴホ、ゲホッ!」

 肺がきしみ、思わずせき込む。口元を抑えた手に生暖かい感触。

「ああ、起きたか。大丈夫、そのまま寝ていて」
「あん? だれ……ゴホゴホ、誰だ……?」

 声をかけられて、初めて自分の脇に人がしゃがみ込んでいることに気づいた。
 顔は見えないがその声は男のもの。だが、店にいた人間の中に該当する候補はない。

「起きないで、そのまま、そのまま……事故とはいえ、結構吸ってしまったようだ」
「じ、事故? ゲホ、吸って?」

 熱でもあるのか頭が重く、そのせいか男の言っている内容はまったく理解できない。
 まったく理解できない……しかし、己のやるべきことだけは、はっきりと分かった。

「あんた、どいてくれ……俺にはやらなきゃならな、ゲホ、ならないことが」
「その体じゃあ無理だ、寝ていたほうがいい」
「そんなわけ、いくか……止めねえと……」

 悲鳴を上げる身体に気合を入れて、起き上がろうとする。
 だがその努力も虚しく、針縄は謎の男に押されるがままに冷たいアスファルトの上に横たわった。

「クソ、邪魔すんな……クソが……ッ」

 悪態が口をついて出る。
 それは男に対してではなく、不甲斐ない自らの体に対してのものだ。

 中華料理店での一件をおぼろげながら思い出す。初撃は邪魔できたが、しかしその後自分に向けられた銃口に対してはまったく対応できなかった。
 情けない。あれこれと策を弄してみた所で、実際に彼女が動いてしまえばこのザマだ。針縄は己の力不足を呪った。

 だが、いつまでもそうしている訳にもいかない。あの子を止める。それは、大人の義務だ。

「なるほど、つまり君は彼女を止めたい訳なんだな?」

 と、男が針縄に声をかけた。
 どうやら考えが知らず知らずのうちに声に出ていたらしい。

「あ、ああ……そうだ、止めねえと。だから……」
「そういうことなら、君の代わりに僕がやろう」
「だから……は?」

 見知らぬ男は、まるでちょっとしたお使いを買って出るかのような軽い口調でそう言った。

「僕がやる。だから、君は寝ていなさい」
「ゴホ、なんで、アンタが……」
「『大人の義務』なんだろう? だったら僕の方が『大人』だ」
「馬鹿言え、その声、どう聞いても年下……ゴホ、ゲホッ」

 あまりにも突拍子もない提案に、張りつめていた緊張が解けてしまったらしい。全身から力がガクリと抜け、もはや身体を立てることすらままならない。

「ああ、ゲホッ、クソ……本当に、頼まれてくれるのか?」
「もちろん。紳士に二言はないよ」

 本来ならば、こんなどこの誰とも知れない相手に頼むことではない。相手は少女とはいえ凄腕の殺人鬼であり、さらに目の前の男はおそらく一般人だ。まともに考えて勝負にすらならないだろう。

 ……だが、針縄はそれでも男を信用することにした。それは、自分が動けないという現状もある。
 しかしそれ以上に、男の軽い口調の言葉の内に、まるで何十年も人生を重ねたかのような『重み』を感じたからだ。

 彼はその『重さ』と、それを感じ取った自分の直感を信じることにしたのだ。

「それじゃあ、頼む……あの子を、止めてくれ……!」
「ああ、頼まれた」

 弱々しく挙げられた針縄の手を、男はがっしりと掴む。
 針縄には、その手から伝わる頼もしい感触だけで、すべてがうまくいくように感じられた。

 掴んだ手の力強さにつられて、針縄の意識がハッキリとしてくる。
 ぼやけた視界が徐々に像を結び、声の主の姿をおぼろげながらに捉えた。
 ……白い服、ピンク色の上着。首元には、顔を隠すかのような布の塊。

 嫌な予感がする。

「おい、まさか、お前……!?」
「ところで、ひとつだけ聞いておきたいことがあるんだが」

 針縄が己の頭脳が導き出したあまりにも受け入れがたい推察について確認する前に、男は不可解なことを彼に尋ねた。

「彼女、ジャック・ザ・リッパ―じゃないよね?」


 体のあちこちが傷だらけで、満身創痍のまま立ち尽くす私。
 その横に、私と同じくらいぼろぼろになった女の子が倒れている。
 倒れた女の子はピクリとも動かず、頭から血を流し血だまりはどんどん広がっていく。

 ふと、広がった血だまりに人影が映り込んでいるのに気づく。
 顔を上げると、地面につくほど長い髪の女性が笑顔で両腕を広げていた。

「おめでとう、アナタを迎えに来ました」

 倒れている少女のことなど意に介さずこちらに話しかける女性。
 指を動かすことすらままならない体に力を籠め、私はゆっくりと腕を差し出した。

 ……何度も見る夢。
 これは、私の後悔の形だ。

 主観的な時間が止まる。

 まるで他人事かのように、倒れ伏した血まみれの少女を観察する。
 頭蓋骨が陥没し、ぱっくりと開いた傷口から脳漿が零れている。
 ひどい傷だ。

 だが、それをやった犯人を非難する権利を私は持たない。
 なぜならば……犯人は、私自身だから。

 少女……真木ハルコは、私の親友だった。
 ただの友達ではない。本当の親友。

 彼女との出会いは妃芽薗学園中等部に入学したての頃。せっかちな彼女と面倒くさがりの私、性格はまったく違ったが出会ってすぐに意気投合した。
 今さら思えば笑ってしまうくらい残酷だ。なぜなら、彼女はそのせいで死んだようなものなのだから。私と友達になったのが、彼女の運の尽きだ。

 彼女と私はいつでも一緒だった。運動会も、学芸会も、女子校なのになぜか開催されたミスコンにだってふたり揃って参加した。
 そして……その裏で、他人には言えない活動も、一緒にやった。

 もちろん犯罪行為ではない。むしろその逆、人のためになる事だ。

 何を隠そう、真木ハルコは、『魔法少女』だったのだ。

 大切な人々の住む街を駆けまわり、困った人をその手で助ける。文字通りの正義の味方。
 ちょっとしたきっかけでその事実を知った私は、彼女の手伝いを買って出た。

 最初はうまくいっていた。ハルコが表通りで人を助け、私は裏でそのサポートをする。
 働けば働くだけ誰かの役に立てる。それは自己承認に飢えた女子中学生にとって、夢のような青春だった。

 ……だが、それもいつからか物足りなくなっていった。

 どれだけ人を助けても、認められるのは表舞台に立つ『魔法少女』の彼女だけ。裏方である私は誰にも存在すら気づかれず、貰えるのも彼女からの『お情け』のような感謝のみ。
 それに気づいた、否、そう思い込んでしまった時、私の中のなにかに、直しようのないヒビが入った。

 そして、そのヒビが致命的な傷へと変わる日が来た。
 ハルコに、故郷たる魔法の国『マジカニア』からの使者が訪れたのだ。
 それは彼女を一人前の魔法少女として認め、真なる魔法の力……『マギ(魔技)』を授けるためだった。

 そうして、あの夢へと繋がる。
 私は、私の親友を殺し、彼女が受け取るはずだった『力』を奪った。

 時間が動き出す。

 使者が、差し出された愚かな私の右腕を掴む。
 その目には一片の生気もない。それは魔法の力を譲渡するためだけに作られた人形だった。
 輝くようなエネルギーが腕を伝い、私に流れ込んでくる。
 私は目を見開く。これで、私も『魔法少女』に……!

 だが、結局思い通りにはならなかった。

 『マギ(魔技)』はポジティブな感情を糧として成立している。ゆえにこそ、希望の象徴たる『魔法少女』がそれを扱えるのだ。
 そして、既に私の中には、そんな感情(もの)は無かった。

 私が憧れ、私が望み、私が妬んだ光が、黒く変色していく。
 それは私の腕を突き刺して、蝕むようにその形を変えていった。

「痛い!! やめて!! たすけて!!」

 私が泣き叫ぶ。
 だが、使者はその手を離さない。力を譲渡し終えるまで、人形は動かない。

「痛い!! いたい!! いたいいいいいい!!!!!」

 ……しばらくして『力』の譲渡が終わった時、そこには倒れ伏した人影がひとつだけ残った。
 それはもはやガンバレット・アルペイオスではなく、しかし憧れた『魔法少女』でもない。

 黒い甲殻に覆われた、おぞましき異形の怪物。
 『黒い甲殻戦士、魔技忌《マジカ╲╲ジェクト》』は、こうして誕生した。


 甲殻戦士が気が付くと、中華料理店の暗い店内には彼女一人だけが立っていた。

 白昼夢でも見ていたのか。目元にわずかな熱を感じるが、甲殻を纏ってしまったため拭う事はできない。仕方がないので無視することにした。

 周囲には誰もいない。
 その状況に、違和感を覚える。ぼやけた頭に喝を入れ、直前の状況を思い出す。
 ここには自分自身の他にも人間がいたはずだ。あの刑事と、その後輩らしき男、連れの女、店員の女、そして……殺すべき店長の男。

 そうだ。あの男は殺さなければならない。調べによれば奴は日常的に店員に暴力を振り、示威行為によって人を支配下に置く。典型的な悪党だ。

 殺さなければ。『魔法少女』であれば光り輝く魔法でもって改心させられるのだろうが、そんなものはこの体にはない。あるのは歪に顕れた甲殻と、残虐なまでの暴力だけだ。

 どこだ。どこにいる。

 闇の中で目をこらす。
 だが、もはや人の気配はひとつとして存在しない。逃げられたか。

 と、その時。
 ひとつの人影が、店のスライドドアを開けて入ってきた。

 彼女は無言のまま撃った。

「……」

 放たれた弾丸は、人影の爪先から一センチ手前の床に穴を開けた。当てるつもりはない、ただの牽制だ。
 あまりにも精密な射撃による威嚇。常人であれば動揺し、何らかの反応を示すだろう一撃。
 だが、その人物はひとかけらとして狼狽える気配を見せなかった。

 硝煙をあげるライフルの銃口を人影へと合わせ、暗闇に慣れてきた目で正体を確かめる。

 その人影は、あの刑事の後輩の、連れの女だった。
 やはりその姿には違和感がある。『魔技忌』の勘がそう告げていた。

「……」
「……」

 一瞬の静寂。
 無音の闇の中で、目と目が合った。

「!」

 女が動いた。倒れ込むように体を傾け、そのまま跳躍。まっすぐ突っ込んでくる。

 破裂音。

 『魔技忌』のライフルが再び火を吹いた。今度は確実に仕留めるべく、狙うは女の心臓ただ一点。
 直線状に『魔技忌』、銃弾、そして女が並ぶ。もはや躱すことは不可能。

 だが女の体は銃弾を受け入れる寸前、またしても霧散した。

 甲殻戦士の視界が白く染まる。
 彼女は数刻前にも同じ現象を目にしたことを思い出す。あの時も同様に女の肉体がまるで霧のようになって、そして気がつけば一人になっていた。
 左腕を顔の前で振りまわし、視界を覆う霧をはらう。正面には、誰もいない。

「ッ!」

 背後に気配。右の鋏を打ち付けるように振りぬく。
 そこに女は居た。だが鋏がその身を打つよりも早く、ふたたび霧散。
 またしても霧が顔にまとわりつく。咄嗟に腰を下ろし、姿勢を低くする。

 その時、頭上にぞくりとする感覚。

「……ッ!?」

 反射的に鋏で頭をかばう。
 ぎゃりり、と甲殻が削れた音が響く。
 頭上から、ナイフを構えた女が落下してきていたのだ。
 脳天を突き刺さんとしていた刃はライフルの銃身を貫通し、その下のによって受け止められていた。

「……ッぐ、ああぁッ!!」

 座ったままの姿勢で、鋏の上で逆立ち状態の女に向けて左の拳銃を抜き、撃つ。また霧散。
 霧は床に尻もちをついた彼女に向かって、塊のまま落ちてくる。
 回避できない。身体が、霧で包まれた。

 瞬間。閃光が煌めいた。

 一瞬にして霧が散り散りに飛び去る。
 その中心には、ぴたりと閉じた鋏を構える『魔技忌』がいた。

 先ほどの光は彼女の『マジカニック(魔法技術)』……『魔技・大気膨縮(マジカニック・エアキャピデーション)』によるものだ。魔法の泡で空気を包み、鋏で挟み潰すようにして圧縮・プラズマ化させ高熱と衝撃波、そして閃光を放つ彼女だけの『マギ(魔技)』。
 魔法少女のなりそこないがたったひとつだけ使う事ができるその能力によって、自身にまとわりつく霧を払ったのだ。

 だが、安心してもいられない。まだ危機をひとつ潜り抜けただけだ。

 態勢を立て直し、右の鋏を見る。固定されたライフルは銃身が断裂し使い物にならない。左の拳銃のグリップで固定部を殴りつけ、デッドウェイトとなったそれを取り外して捨てる。

 黒い甲殻戦士はわずかに軽くなった鋏を構え、前方を睨み付ける。
 その視線の先では、四方に散らばった霧が集まり、いままさに人の形へと変わろうとしていた。


 ジャック・スプレンジッド……『元祖』ジャック・ザ・リッパ―は、内心焦っていた。

 平素の彼ではありえないほど、ものすごく焦っていた。というのも、目の前の少女が想定外に手ごわかったためだ。
 彼としては最初の打ち合いで霧化したまま体当たりを仕掛け、そのまま霧を吸わせることで瞬時に無力化するつもりだったのだ。
 霧と化した彼の肉体は銃弾をものともせず、少量でも吸い込めば激烈な体調不良を引き起こす。だがそれだけで死ぬことはない。ある意味制圧向けの能力と言える。

 だが、甲殻戦士は霧をものともしなかった。その身体をほとんど包まれたにも関わらず、熱病ひとつ起こしていない。
 原因は明らかだった。真正面で鋏を構える黒い影、その頭部を見る。

「……シャコ―ッ、シャコ―ッ……」

 まるで甲殻類のような呼吸音。
 黒い甲殻戦士の仮面は、ガスマスクとしての機能を備えていたのだ。
 ジャックとてガスマスクの存在は知っていた。だが特撮ヒーロー然としたそれは彼の知る装備とはあまりにも似ても似つかず、結果としてその可能性を見落としてしまったのである。

 そしてさらに、想定外だったことがもうひとつある。

 ジャックは霧の毒が効かないと分かるやや否や作戦を変更、武器を破壊し無力化することを目的と定めた。
 手始めに右の対物ライフルを破壊。これはうまくいった。ライフルを固定した右腕でガードするように誘導し、狙い通りに差し出されたその銃身をナイフで断った。

 だがその次に移ろうとしたところで、謎の閃光が放たれた。

 光の発生源は右の鋏。空気を異常な力で圧縮したことによる衝撃波であろうことは、彼にも推察できた。
 問題は、衝撃と同時に放たれた『熱』だ。超高温のそれは霧となったジャックの体を打ち払うと同時に、そのうちのいくらかを『蒸発』させたのである。
 霧になったジャックはいかなる物理攻撃を受け付けない。しかしその本質は霧そのものであり、構成要素は当然『水』だ。高温で熱せられれば蒸発し、そうなっては体に戻すことはできない。
 幸いにも被害は全体の数パーセントに過ぎず、生存することに支障はない。だが減った分だけ肉体を削るわけにもいかない。

 結果として、彼は衣服を構成していた霧を肉体の再構築にあてなければならなかったのである。
 そのせいでピンク色のカーディガンは消滅し、スカートは三センチも短くなってしまった。

 これ以上やられればスカートはさらに短くなり、最終的にはセーラー服すら消え去って己の『正体』をさらけ出してしまうことになる。それは不味い。いろいろと不味い。
 英国紳士としての誇りを守るためにも、二度とあの攻撃を食らうワケにはいかないのだ。

「あー、ごほんごほん」

 首元のマフラーで顔を隠しつつ、のどの調子を整える。
 甲殻戦士は微動だにしない。

「その、えーっと……この辺で終わり、ということにしませんこと?」

 正体がバレないよう高めの声を作り、そう提案する。
 ……今風の女の子っぽく口調も変えてみたが、ちょっと無理があったかもしれない。

「……終わりとは?」

 構える腕はそのままに、甲殻戦士が問いかえす。

「ですから、お互い痛み分けでおしまい、ここで解散! ということで……よろしくて?」
「なるほど」
「まあ、分かっていただけましたのね!」
「お断りします」

 交渉決裂。やはり口調がまずかったか。

「あの男を出してください。私の目的はそれだけです」

 甲殻戦士が告げる。それは提案ではなく命令、否、武器をつきつけての脅迫だ。

「……それは、どうして?」
「殺すためです」

 ジャックの問いに、彼女は考えるまでもないと即答した。

 あの男。店の表で倒れている刑事の事であろうか。
 確かに彼女は先ほども男を銃撃し、そこをジャックが押し倒す形で助けた。彼女はまだ諦めていないというのだろうか。
 二人の間にあるであろう因縁について、ジャックは多くを知らない。だが、男の方が少女を止めようとしていたことだけは知っている。その動機は、恨みではないはずだ。

「では、こちらもお断りしますわ」

 彼女が男を狙うというのなら、それは阻止しなければならない。
 そしてなにより……ジャックは紳士として「彼女を止める」という男の頼みを引き受けたのだ。
 紳士は約束を必ず守る。たとえ女装していても、だ。

「わかりました、では」

 ジャックの決意を知ってか知らずか、甲殻戦士は了承の意を示し。

「さようなら」

 右腕の鋏から、閃光を撃ち放った。

 迫る光、そして熱。
 ジャックはそれを認識し、霧化……

「くっ……!」

 彼は霧化しなかった。右方向に跳躍し、回避する。
 霧の状態でまともに食らえば、やはり何パーセントかを蒸発させられてしまう。そうなっては弱るばかりでジリ貧なのだ。ここは多少無理をしてでも躱すしかない。

 だが甲殻戦士の方もその動きは予想済みだ。先ほどの一戦で『魔技』ならば霧に対してなんらかの効果があることは把握できている。ならば霧にならず回避するのは当然。
 ジャックが回避した先には、既に左手の拳銃が向けられている……!

「……っ!?」

 発射できない。左手に持った拳銃に、ナイフが突き刺さっていた。
 右の鋏を発射した一瞬、左手から意識がそれたその瞬間を狙って、ジャックがナイフを投擲したのだ。その刃は寸分違わず拳銃のスライド部に刺さり、その機能を完全に破壊していた。

 役に立たなくなった拳銃を、突き刺さったナイフごと背後に投げ捨てる。これで最早ジャックは武器を失った。
 無手で突っ込んでくる敵に向かって、甲殻戦士は右の鋏を振り下ろした。

 ……殴りつける鋏が当たす前に、ジャックはふたたび霧と化した。振るわれた鈍器は対象を失い、床材を砕く。

「ッ……『魔技(マジカニック)』!!」 

 ならば、と『魔技』を発動しようとする。だが遅い。
 霧は甲殻戦士の足元を抜け、背後に回る。能力発動の予備動作に入った状態から後ろを攻撃する手段は、ない。

「ッつ、があぁッ!?」

 膝裏に激痛。
 脚部を覆う甲殻の隙間、関節部を『切り裂かれ』た。

 傷ついた脚ではアーマーを含めた体重を支えることはできない。
 黒い甲殻戦士は、大地に膝をついた。
 そして、首筋に冷たい感触が押し付けられる。

「勝負あり、ですわね」

 なおもお嬢様ぶった口調で、ジャックはそう宣言した。
 両膝の筋を切ったのだ。もはや機動力は無きに等しく、動けない敵に後れを取るほど彼はのろまではない。

「……そのようですね、降参です」

 少女も負けを認め左手をあげる。右手の鋏は床に付いたまま、杖のようにして体を立たせていた。
 戦いはこれで決着。彼女の生殺与奪はジャックの握るところとなった。

 だが、彼はその手に持ったナイフを少女に突き立てるつもりはない。
 なぜなら。

(『あの子はジャック・ザ・リッパ―じゃない』だものな……)

 そう、目の前の少女はジャックの求める敵ではない。彼が殺すのは彼の名を名乗る者、『ジャック・ザ・リッパ―』自称者だけだ。
 無益な殺生はしない。それが、現代に蘇ったジャックが己に課したルールだった。

「……それで、私をどうするつもりですか?」

 黒い甲殻に身を包んだ少女が、背後に立つジャックに訊ねる。

「えーと、警察に突き出しますわ!」
「はあ、分かりました……それじゃあ立たせてもらっていいですか? 誰かさんのせいで足に力が入らないので」
「え、ええ! よろしくてよ!」

 ちょっと恨みがましい台詞に罪悪感を感じつつ、彼は少女の両脇に腕を差し込み、そのまま立ち上がれるように持ち上げる。
 いまだ甲殻を纏ったままの体は、少々重い。

「これでよろしくて?」
「ええ、ありがとうございます……射角もばっちり」
「え?」

 思わず、ジャックが素っ頓狂な声を出す。射角とは。

「『魔技(マジカニック)』」

 その呟きが聞こえると同時に、甲殻戦士の体の向こうで閃光が走った。
 次の瞬間、ジャックの体を硬く、そして少なくない質量を持ったものが弾き飛ばす。
 状況が理解できないまま彼は広くもない店内を真横に横断し、己の背後にあった厨房の設備に叩きつけられていた。

「あ、ぐゥ……?」

 頭の中身がかき混ぜられたかのように思考がおぼつかない。目の前で星がチカチカしている。

「本当に助かりました……貴方がこんなにも愚かで」

 嘲るような少女の声が脳に響く。
 そのおかげか、なにが起こったのか理解できた。彼女が、ジャックに抱えられたままの状態で例の衝撃波を放ったのだ。目の前の床に向けて。
 衝撃の反作用は少女の体を背後に押し出し、己の体そのものを砲弾として背後にいたジャックを弾き飛ばしたのだ。
 思い返せば、彼女の右腕は脚を切られた時点で発射の予備動作に入っていた。後はもう撃つだけになっていたのだろう。降参のポーズも、ジャックを油断させるためのものだったに違いない。

「あー、これは、一本取られたかな……」

 思わず、素の声で苦笑が漏れる。
 その目には、こちらに向けて鋏を構える甲殻戦士の姿が映っていた。

「……『魔技(マジカニック)』」

 もう一度、閃光が煌めいた。


「が、ぐ、ゲボッ……!?」

 謎の敵を背後の調理設備ごと破壊したあと、甲殻戦士……ガンバレットは膝から崩れ落ちた。

 衝撃の反作用で自ら身体を砲弾とする、といえば聞こえはいいが、実態としては己の体へ衝撃をもろに打ち込んだことに等しい。
 人間の体と鋼鉄の砲弾ではそもそもの強度が違う。彼女の無茶な行動によって、その体は硬い甲殻の内で無惨なまでに破壊されていた。

 咳き込むと、ごぼり、と音を立てて血が吐き出される。それはマスクのフィルター部に滲み出し、血の泡となって頬のスリットから零れ出た。

「ゲブ、ゴボ……ッ! ぐう……!」

 左手で太ももを殴って今にも意識を手放しそうな体に喝を入れ、打ち倒した敵へと視線を向ける。
 自分自身をここまで追い詰めた相手の正体を、確かめておきたかった。

 元々はコンロであったのだろう残骸の中心に仰向けに倒れた謎の人物、その衣服は追撃の『魔技』によってかところどころが引き裂かれ、もはや肉体を覆い隠せていなかった。そしてその下には、明らかに女性のものではない身体。

「……なるほど、変態さんでしたか」
「やりたくてやってるワケじゃ、ないんだけどね……」

 思わず零れた独り言に、すぐさま返答が戻ってきた。

 弾かれたように右腕の鋏を構える。
 だが想像以上に傷ついていた彼女の体は構えを維持できない。重さに負け、切っ先が床へと落ちた。

「ぐ……ッ!」
「もういい、やめてくれ……僕の負けだ」

 なおも腕を持ち上げようとするガンバレットに、その男は場違いなほど穏やかな声でそう告げた。
 ……しかし、少女はそれを真に受けなかった。先ほど彼女自身がその手を用いて不意打ちをかましたのだ。相手がそれを狙っていないとは言い切れない。

 左手を添え、どうにか刃先を男に向ける。
 男が動く気配は……ない。

「最後に、ひとつ教えてくれないか」

 そんな事を、彼は言った。
 その表情には敵意の欠片もない、死に際の老人のような穏やかさだけがあった。

「……なんでしょう」
「君は、どうして彼を殺そうとするんだ?」

 男が問う。だから、彼女は答えた。

「……あの男が悪人だからです」
「悪人だから、殺す?」
「はい」
「でも、もしかしたら彼は改心するかもしれない。それを促すことだってできるんじゃないか?」

 改心。その言葉が少女の心の奥底、輝かしくも忌まわしい記憶を刺激する。
 もしそんなことが出来たらどれだけ良かったか。だが、その力は今の彼女には無い。それができる少女は、既に死んだ。

「……いいえ。悪人は改心などしません。悪人は死ぬまで悪人のままです」

 だから、彼女はその可能性を否定するしかない。ないのだ。

「……僕は、改心した悪人を知っているよ」

 穏やかな口調のままで、男がそう告げる。

「……それは、あり得ません。きっと勘違いです」
「いいや、ゴホッ、確かにこの目で見た」
「嘘です! そんなもの、きっと幻覚です……っ!」

 意識せずとも語気が強まる。
 そんな事実は認められない。認めてしまったら、これまでしてきたことが『間違い』になってしまうのだから……!

「……もういいです。お喋りはおわり。とどめを刺してあげます」

 焦りといらつきを奥底へと沈め、鋏を構え直す。その声には動揺の欠片もない。

 目の前に刃先を突き付けられ、男は……にこやかに、笑った。

「ありがとう、話してくれて、ゴホッ……おかげで、十分に充満した」

 充満。その言葉を聞いた瞬間、彼女は咳き込む男の背後の『それ』に気が付いた。

 断裂したパイプ。その先端の空気が、歪んで見える。
 それは、調理場用の可燃ガスだった。

「……シャコ―ッ、シャコ―ッ……!」

 呼吸が荒くなり、それによって気が付く。マスクの空気ろ過機能が動き、独特な呼吸音を発している。
 通常ならば彼女を助けるはずのその機能が、室内に満ちていくガスの存在を気づかせなかったのだ。

 危なかった。この状態で『魔技』を放てば充満したガスに引火、建物もろとも彼女を吹き飛ばしていただろう。
 だが、そうなる前に気が付くことが出来た。それは、目の前の男が言った「充満した」という不用意な言葉のおかげだ。

「……惜しかったですね。ガスに気づいた以上、私はもう『魔技』を使いません。私が撃つ前に喋った貴方のミスです」

 ガンバレットは勝ち誇ったように告げる。そして右腕の鋏を左手で支えたまま振り上げた。火器として使えぬならば、叩きつけて殺すまでだ。

 だが、男の笑みは消えていなかった。

「ミスではないさ、ゴホッ……最後の『引き金』は、いつだって自分で引くものだよ」 

 そう言って身体の後ろに隠していた腕を上げる。その手には、スライド部が壊れた拳銃が握られていた。ガンバレットが投げ捨てた、彼女自身の銃だ。
 その銃はもう弾丸を発射することはできない。だが……撃鉄を上げ、信管を打つ機能は、まだその中に残されていた。

 かちり、とトリガーを引く音が響く。

 中華料理店が、爆発した。


「ああ、しまった。やり過ぎた!」

 元・中華料理店、現・瓦礫の山にて、建造物の残骸を掘り起こす人影がひとつ。
 ジャック・スプレンジッド……『元祖』ジャック・ザ・リッパ―である。
 彼は倒壊した建物の中から、霧化して脱出したのだ。

「まさかあんなに爆発が強いとは……どれだけガスの純度が高いんだ、この時代は」

 ぶつくさと言いつつも、瓦礫を退かす手は休めない。
 その姿は見るも無残。純白だったセーラー服は煤と埃で黒く汚れ、固く結ばれていたマフラーもすでに消滅。スカートは股下ギリギリで、倫理的にもギリギリだった。
 ……それだけではない。服に隠された体には、戦闘によって作られた負傷がそのまま残っていた。
 『魔技』の直撃を受けた身体の中では肋骨が折れて何本か肺に突き刺さり、内臓はいくつも破裂している。おまけに霧化して爆破の衝撃から逃れる最中に、相当量の部分が『蒸発』してしまった。まさしく満身創痍と言えるだろう。

 だが、手を休めるわけにはいかない。想定外の事態とはいえ、少女を生き埋めにしておくわけにはいかなかった。

「店員が居なかったのは幸いだったが……ゲホッ、うう、生きていてくれよ……!」

 咳と同時に吐血する。しかしその身体は、腕は、目的を果たすまで止まることはない。

 瓦礫を掘り始めてから約五分後、ついに彼は残骸の隙間からはみ出た少女の左手を発見した。

「待っていてくれ、すぐに助けてあげるから……!」

 ひとつ、またひとつと少女の上に積み重なった瓦礫を退かす。そして最後の一片を持ち上げると、そのまま脇へ放り投げた。
 少女の無事を確かめるため、頭を下げてその顔を覗きこむ。

 甲殻の奥で、瞳が輝いた。

「ッ!!?」

 次の瞬間。ジャックの頭を、甲殻戦士の鋏が貫いた。

 否。貫いたのは頭があった空間だけだ。彼は瞬時に霧化し、その刺突を回避した。

 攻撃の主たる甲殻戦士の姿は満身創痍。爆発に飲まれ、炎に炙られた甲殻は赤く変質している。もはや衝撃を受け止めるだけの強度は残っていないだろう。
 全身の殻に亀裂が走っている。その頭部を守るはずのマスクは大きく欠けて、その内に秘めていた少女の顔があらわになっていた。

 ジャックは霧状になったまま少女に飛び掛かった。
 狙うはその頭部。ガスマスクがなくなった今、わずかでも霧を吸わせることができれば瞬時に無力化できる!

 しかし、霧は少女の体に侵入する前に、空中で止まった。
 ジャックは息を呑む。霧となった彼の体を、透明な幕が包み込んでいた。

 それは、少女が持つ『マジカニック(魔法技術)』の産物。
 物質を魔法のシャボン玉で覆い隔てる、それだけの能力。
 だが、霧を止めるには、それで十分だった。

 シャボンそれ自体はたいした強度を持たない。
 だが物理干渉のできない霧のままのジャックにはそれを割ることは不可能だ。
 ……そして彼は、彼の頭を刺さんとした鋏が、すでに開かれていたことに気づいた。

「しまっ……ッ!?」
「『魔技(マジカニック)……』」

 鋏が、シャボン玉ごとジャックを挟み潰す。

「『……大気膨縮(エアキャビテーション)』……ッッッ!!!」

 まるでここだけが昼になったかのような、眩しいまでの閃光。
 それは、消え去る彼の魂が最後に放った輝きだったのか。

 『元祖』ジャック・ザ・リッパ―は、この世から消滅した。


 ぐるぐる回転し、赤い光をまき散らす救急車の警告灯を、少女……ガンバレット・アルペイオスはぼんやりと眺めていた。
 その手首には、光を反射する鈍色の手錠。彼女のファンを名乗る刑事、糸引 針縄によってかけられたものだ。

 最後の『魔技』が放たれたあと、彼女は己が起こした衝撃の余波を受けて気絶した。
 爆発に巻き込まれ熱で劣化した鋏は、もはや衝撃に耐えるだけの強度を持たなかったのだ。指向性を失った衝撃波は鋏を内側から破壊し、その持ち主たる少女をも襲った。
 それまでのダメージを残したままの彼女が、それに耐えられるはずもない。赤く変質した甲殻が粉々に吹き飛ぶと同時に、ガンバレットの精神は意識を手放した。
 そして意識を取り戻した時には、すでに針縄に逮捕されていたのだった。

「……逃げようなんて思うなよ」
「……」

 針縄は少女の顔を覗きこみ、忠告する。
 それに対して、少女は無言で応えた。逃げようにも、もはや彼女には一片の余力もない。甲殻を纏う事はおろか、立ち上がる事さえ難しい状態だった。

 と、その時。

「おお、先輩! 無事だったんスか!」

 まるで緊張感のない声が、針縄に投げかけられた。
 その声の主は、針縄の後輩の男だった。

「お前……いままでどこに居たんだ。いつの間にか消えやがって」
「はは、スンマセン」
「ったく……刑事ならもっとシャッキリしろ!」

 悪びれない後輩に、針縄は叱咤の声をかけた。
 だがその声に悪感情はない。なんだかんだ言っても、彼も後輩の事が心配だったのだろう。

「えーっと、それで……そっちの子が、例の?」
「……ああ、そうだ」

 後輩が視線を少女に移し、囁くような声量で問う。
 ここまで派手な事件を起こしてしまった以上、もう隠し通すことはできない。針縄は苦々しく思いながら、その事実……『黒い甲殻戦士』の正体が目の前の少女であることをを肯定した。

「あの子は、俺が責任をもって署まで連れていく」

 そう宣言し、少女の腕を掴もうとする。
 だが、一歩踏み出したところで脚から力が抜け、アスファルトの上にへたり込んでしまった。

「駄目ッスよ先輩怪我してるんスから! 無理しないでください!」
「怪我? 俺は怪我なんて……うぐ」
「全然動けてないじゃないッスか! もー、あとは任せて先輩は救急車ッス!」

 後輩の言う通り、針縄の身体はすでに動ける状態ではなかった。
 怪我はさほどひどくないが、しかし唐突に彼を襲った異常なまでの体調不良が、彼に残った体力を根こそぎ奪い取っていたのだ。

 駆け付けた救急隊員にに担ぎあげられ、針縄は救急車の中に運ばれていく。

「あー、クソ……仕方ない、あとは頼んだぞ」
「任せてほしいッス。あとは全部やっておくッスよ」

 安請け合いする後輩に、わかったわかったと苦笑しながら手を振って応える。
 その時、針縄はあることを思い出した。

「そうだ、あとひとつ……お前の連れの事なんだが」

 そこまで言った瞬間、後輩の指が彼の額に触れた。

「なに言ってるんスか? 『連れなんていない』ッスよ」

 頭に、声が響く。
 声は波紋を産み、思考を押し流す。

「……あー、そうだったか」
「そうッス。『最初からひとりだった』ッス」
「そうか、そうだな」

 納得する。
 後輩は『最初からひとりだった』。

「それじゃ、また」
「おう、後の事は頼んだぞ」
「はい、先輩は『今日の事は、悪い夢だった』とでも思えばいいッス」
「ああ」

 別れの言葉を交わし、針縄は救急車のストレッチャーの上から、後輩の姿を眺める。
 そこに立つ男は、まるで張り付けたような、一切の人間性が感じられない笑顔をしていた。

 救急車が走り去る。
 そして、その場には『後輩』と少女だけが残された。

「……貴方、何者?」

 ガンバレットが男に問う。その目は、元の鋭さが戻っている。

 彼女は思い出した。
 例の女装男が最初に針縄をかばい霧化した時。その直後、目の前の男が『紙』のようなものを彼女前に投げ飛ばし、そして気が付いた時には一人になっていたのだ。

 思い返せば、店に入ってきたときから軽い違和感はあった。だが、あの女装男の強烈な違和感に視線が吸い寄せられて、半ば目を眩まされるような形で意識をそらされていたのではないか。

「……まったく、負けちまうとはな」

 ガンバレットの質問を無視し、男はひとりごちる。その口調は先ほどとはまったく違う。

「……目的はなに?」
「目的? お前こそ何が目的だ、なんのためにここに来た?」

 少女の問いに、男が問い返す。

「私は、悪人を殺すために……、っ?」

 問われるがままに、口が答えを紡ぎ出した。そして、そのことに自分で疑問を覚える。
 まるで操られるかのように、思考が言葉となって零れ出ている。己の意思ではないなにかが、少女の口を動かしたようだった。

「そう、悪人を殺すためだ。では、なぜここに悪人が居ると知っていた?」
「それは、事前に調べて……」
「どうやって?」

 どうやって。
 たしかに、それは疑問だ。たとえ『黒い甲殻戦士』と呼ばれているとしても、彼女自身は特撮ヒーローなどではなく一介の女学生に過ぎない。その情報網は、フィクションのヒーローが持つそれに比べ悲しいほどに貧弱だ。
 では、どうやって悪人、今回の中華料理店の店主について知ったのか。

「協力者が……」
「それは、どんなやつだ?」
「え、えっと……」

 記憶が混濁している。
 端切れのようなフラッシュバックが浮かんでは消え、そしてまた浮かぶ。

 情報。悪人の、情報をまとめたファイル。ファイルを手渡しで受け取る。受け取る私、差し出されるファイル。ファイルを差し出す腕の持ち主は……

 記憶の中の少女が顔をあげ、情報提供者の顔を見る。
 その顔は、いま目の前にいる男と、同じだった。

「貴方が、協力者……?」
「そうだ」

 そうだった。目の前の男が、彼女の『情報源』だった。
 彼女は彼と組んで、これまで何人もの悪人を殺してきたのだ。
 なぜ忘れていたのだろう。ずっと『相棒』だったのに……?

「どうして……?」

 とりとめのない感情が、疑問の形をとって口から零れ落ちた。

 それは何を問うたのか。
 彼がここにいる理由?
 彼の事を忘れていた理由?
 それとも……彼の目に、一片の情すら感じられない理由だろうか?

「新しい『道具』が手に入ったんだ」

 彼の答えは、どの問いに対してのものだったのだろうか。

「だからまあ、古い方は処分してしまおうと思ってな。ここ一ヶ月ほど餌を撒いてたんだが」

 言っていることが、少女にかなにも理解できない。道具。処分。餌。

「あの『先輩』ときたら、人の獲物をかかる寸前で釣り上げちまうんだもんな。おかげでこっちはボウズときた」

 釣り上げる。先輩。針縄のことだろうか。彼に横取りされていた。何を?

「仕方ないから奴ごと罠にかけた。まあこれは上手くいった」

 話しながら、男はガンバレットの周囲を回るように歩く。
 まるで彼女を中心とした円を描くように、その足跡を残していく。

「……だがまあ、あいつはちょっと優しすぎたな。そこが気に入ってる所でもあるが」

 そうして、男は元いた位置に戻る。
 足跡が、呆けたままの少女をぐるりと囲んだ。

「まあ、こちらの事情はそういうことだ。分かったかい?」

 まるで恩師が教え子にかけるような、優しい声音。
 その響きを受けて、少女の肩がびくり、と震える。

 喉が渇く。身体が震え、手首にかかった手錠がかちゃりと音を立てた。
 それでも何とか、声を絞り出す。最後に、これだけは聞いておきたい問いがあった。

「……それで、これからどうするの……?」
「もちろん、新しい『道具』を作る」

 光が瞬く。そして、激痛。

「……が、う」

 呻き声が漏れる。
 視線を下す。ガンバレットの喉に、ナイフが刺さっていた。
 何の変哲もない、だがどこかで見たことのあるナイフ。その刃は彼女の喉に、人型の『紙』を縫い付けていた。

「さて、あとは……最後に、何か言いたいことは?」

 極めて軽い調子で、男が尋ねる。

「……どうして、どうして私を……」

 どうして私を殺すのか。
 死の間際の少女の脳裏には、もはやそれしか浮かばなかった。

「もちろん、君が『悪い奴』だからだ」

 男の声。

「あいつなら『悪人だって改心できる』なんて言うんだろうが、俺の考えは違う」

 目の前が真っ暗になる。身体の熱すら、感じない。

「悪人は、死ぬまで悪人だ。だからまあ……死んで役に立ってくれ」

 最後まで響いていた心音が止まると同時に、おぼろげだった意識が途絶える。

 かつて魔法少女を目指した、しかしそうなれなかった殺人鬼の少女は、かつて相棒だった男の前で溶けて、死んだ。


「リン、ピョー、トー、シャ」

 冬の東京。その夜の闇の中で、一人の男が居た。

「カイ、ジン、レツ、ザイ、ゼン」

 男の目の前には、赤い液体がぶちまけられている。
 それは彼が結んだ『印』に呼応するかのように蠢き、ひとつの形へと成る。

 それは、人だった。
 白人の、成人男性。年齢は三十代なかばだろうか。
 男は眠りから目覚めるように目蓋を開けると……思い切り、咳き込んだ。

「ゴホ、ゲホ―ッ!?」
「よう、はじめましてだな『ジャック・ザ・リッパ―』」

 儀式を行った男が声をかける。その声音は軽薄そのものだ。

「ゲホ、ゴホ……ここは……君は、誰だ……?」

 『ジャック・ザ・リッパ―』が尋ねる。
 その問いを聞き、男はその顔に、張り付けたような笑みを浮かべた。

「俺の名は九九代目・芦谷道満。あんたに、頼みたいことがあるんだ」


「おーっす! 先輩、差し入れのコーヒーッスよ!」

 病室に、少々騒がしい客が転がり込んできた。

「うるせえ。病院だぞ、静かにしろ」

 そう答えたのは糸引 針縄。新宿警察署の刑事であり、絶賛入院中の身であった。

「えーっ、せっかく見舞いに来てあげたんスよー」
「なにがせっかくだ。コーヒーもそこの自販機で買ったやつじゃねえか」
「貰った物にその態度! 元気そうでかえって安心したッス!」

 ハア―、と針縄はため息をついた。まったくこの後輩ときたら、尊敬の念が足りていない。
 だが、いつもこんなにテンションが高い訳ではないことも、彼はよく知っていた。入院中の針縄に心配かけまいとする、後輩なりの思いやりなのだろう。

「……それで先輩、身体は大丈夫なんスか?」
「おう、健康も健康、どこも悪くないって医者の先生も言ってたよ」

 ガッツポーズを作って見せる。針縄が言うとおり、それは事実だった。

 昨晩救急車で病院に運び込まれた当時、針縄はひどく衰弱しその身体には正体不明の出血跡すら残されていた。新種の病原体の可能性すら浮上し、病院は緊張に包まれた。
 だが一晩立ってみれば容体は劇的に回復。あらゆる検査で『健康体』との結果が出るまで戻ったのだ。これには医者もみな頭をかしげていたが、彼としては治ったのならそれで良かった。

「心配して損した気分ッス」
「その程度の損ならあってないようなもんだろ」
「まあ、そうッスけどね」

 ははは、と笑い合う。隔離も兼ねて一人部屋を貰えたため、同室の患者に怒られる心配はない。

「けど先輩、あんなところで一体なにやってたんスか?」

 と、唐突に後輩が尋ねてきた。

「なにって、そりゃあ……」

 何をしていたのだったか。
 目が泳ぐ。そうだ、たしか。

「そりゃあ、中華料理店なんだから、飯食ってたんだよ」

 そうだ、中華を食べていた、はず。

「? あそこの店、一ヶ月前に閉店してたはずッスけど」
「……は?」
「店主が『池袋のジャック・ザ・リッパ―』とかなんとかで店員の女を殺して、そのまま逃亡先で死体で見つかったとかで。確かそれが一ヶ月前だったはずッス」

 閉店していた? だが、確かに、料理を……

「あー、そうだったか?」
「まあ魔人がらみの事件だったんで先輩の耳には入らなかったのかもしれないッスね」
「そうか、まあ、そういう事もあるか」
「そうッス。だからあんな場所で何してたのかなー、って」
「そうだな。えっと」

 思い違いをしていたらしい。
 正しい記憶を、思い出そうとする。

「確か……そう、あそこでお前と会った」
「何言ってんスか、昨日は『用事がある』とか言って先輩一人で先に帰っちゃったでしょ」
「……そうだっけ」
「ッス。おかげでひとり朝まで残業だったんスからね」

 違う。まただ。
 まるで『悪い夢か何か』のように、記憶が繋がらない。
 なにか、忘れている気がする。だが、それが何なのかすら分からない。

「……すまん、ど忘れした」
「ええーっ!?」

 結局、何も思い出せなかった。

「本当に大丈夫ッスか? 頭の検査とかしました?」
「失礼なやつだな……まだボケてねえよ!」
「いや、そういう事じゃなくって……」

 後輩が怪訝な表情をする。
 その顔に、なにか違和感があるように思えた。

「まあ、思い出せないってことは大したことじゃねえんだろ、心配すんな!」
「そうッスかねー……まあ、本人が良いっていうなら追及しませんけど」

 そうこうしているうちに、面会時間が終わった。
 後輩が空になったコーヒーの缶を持って立ち上がる。
 そして部屋から去ろうとするその時になった、ようやく針縄は後輩に抱いていた違和感に思い至った。

「おい、お前って」
「はい?」

 後輩が振り向く。その顔は、新米時代から良く見知っている……

「お前って……女だったっけ」

 ……新宿警察署で唯一の、女性刑事の顔だった。

 きょとん、とした顔をする後輩。そしてその顔は、見る見るうちに憮然とした表情に変わった。

「なんスか、それ。新手のセクハラッスか?」
「あー、いや、すまん。忘れてくれ。やっぱりボケてるみたいだ」

 そう答えると、彼女はハア―、と息を吐き、そして苦笑した。

「まったくもう……ちゃんと休んで、早く元気になってくださいよ? 先輩がいないと張り合いがないッスからね!」
「お、おう。そうする」

 若干挙動不審の針縄をそのままに、後輩の女性刑事は病院を後にするのだった。

「……なんであんなこと言ったんだ、俺は」

 ベットの上で、針縄は己の言動をいぶかしむ。
 だが、考えても答えは出ない。
 頭の中に『霧』がかかったまま、ベット脇の小物入れに手を伸ばす。
 昨晩の着信履歴を確認すれば、なにか思い出すかもしれない。そう考えスマートフォンを取り出した。
 だが起動した瞬間、待ち受けに表示されたのは、見覚えのない画像だった。

 そこには満面の笑みを浮かべ自撮りをする少女と、不機嫌そうにそれに付き合う少女。
 ぎこちなく、それでいて仲睦まじく肩を寄せ合う姿が映っていた。

「なんでこんな、他人の写真を待ち受けにしてるんだ、俺は……?」

 針縄は設定画面を開くと、その写真を、消去した。



<了>
最終更新:2020年07月03日 20:07