「見えないのですか、ご主人様」

 一丸可詰丸(いちまるか・つめまる)は困惑を隠し切れなかった。いや、彼が戸惑ったのは、その問自体にではなかったが。

「見えない。見えませんよ。何も見えない。何があるというのですか?」
「見えない……の……ですか……」

 アンティーク調の椅子に座ったメイド服姿の女は、背もたれにだらしなく身体を預けて力なく呟いた。明らかに彼女の――、〼虚迷言(くちなし・まよい)の様子は異常だった。いつもの彼女であれば、困惑している詰丸を見れば、したりとばかりに無邪気な笑顔を浮かべて、

「それは『謎』です」

 などと嘯(うそぶ)いて煙に巻いたはずなのだ。

 今の彼女は目の下に酷い隈を作っていた。頬もこけ、美しい黒髪のロングヘアはボサボサに乱れて脂ぎっている。あの謎めいた佇まいは霧消して、両目はギョロギョロと忙しなく左右に動き、顔は脂汗にまみれている。息は荒く、臭い。ゲロの臭いがした。よく見るとメイド服の胸元が吐瀉物にまみれて汚らしく変色している。

 アンティーク喫茶『迷宮入り』の店内の様子も酷いものである。整った調度は無惨に破壊され、床には割れたカップや皿が散乱している。壁面には抉った爪痕のような傷が散見された。迷言のヒビ割れて血の滲んだ指先を見るに、彼女が傷付けたものに違いない。

 迷言は何度も何度も背後を振り返り、何もない空間を見つめては、

「本当に見えないのですか?」

 と、幾度も詰丸に詰問してくる。熱病にうなされた病人のように無意味に問い掛け続ける。だが、何度問われても詰丸には何も見えない。"それ"が見えているのは「謎」の答えを知る彼女だけだ。彼女の背後に存在する、黒い直方体。――その中で蠢く"モノ"を認知しているのは彼女だけなのだ。

 詰丸には何が起こっているのか分からない。彼女が何に苦しんでいるのか想像もつかない。ただ辛うじて分かるのは、〼虚迷言は何者かの存在に酷く怯えているということだけだ。

 だから、一丸可詰丸はしばらく悩んだ末に、恐る恐るといった素振りで、こう進言した。

「「」(かぎかっこ)さんを……呼びませんか……?」

 *

 〼虚迷言と「」は快楽殺人鬼である。

 二人は二人で一人であり、迷言の魔人能力『《迷図謎掛》(メイズ・メーカー)』と、「」の魔人能力『《秘密隠匿》(シークレットサービス) 』も根は同根である。彼女たちの真の能力の名は『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』。情報の強度を操作する能力である。

 〼虚迷言が「」と呼ぶ別人格を作り上げたのも、自身の能力を分割して別物に見せたのも、このような胡乱な喫茶店でメイド姿をしているのも、一丸可詰丸などという小物を側に置いているのも、全ては彼女のスタイルでありアティテュードによるものだ。

 彼女は自ら現場に出向いて手ずから獲物を殺し、証拠を隠滅して、健気に警察から逃げ隠れするような殺人鬼ではない。そのような殺人鬼を彼女は軽薄でつまらないモノだと思っている。殺人とは…………ミステリアスで、掴みどころなく、現実と幻想の合間に漂う、淫靡で不可解で残虐なものでなければならないと考えている。

 だから彼女は人格を分ける。能力を不必要に細分化する。詰丸を側に置き、自身のシンプルな加虐願望を粉飾する。複雑で捉えどころのない動機を演出する。単純な事実をより複雑に見せることが彼女の殺人美学なのだ。情報強度を操り、他者の認知をコントロールし、自身の演出する不可解で謎めいた世界へと周囲を巻き込む。平穏な生活を望むと嘯(うそぶ)きながら、死を蒐集する。死の気配を己の日常に色濃く漂わせることこそが、自身を彩る至高の装飾と考える異常者なのである。

 その意味で、詰丸は便利な道具だった。詰丸の持つ事件誘引能力『《歪な共犯者》(ノーバディノウズ)』に引き寄せられた被害者や加害者の情報をコントロールし、日常に死を招き寄せる。普段は詰丸を実行犯として事件を収束させる。気が向いた時は稀に己の手も汚す。だから、今回の一件も、彼女の演出する日常のほんの一幕に過ぎない。そのはずだった。

 詰丸が巻き込まれたこの度の事件――。彼の学友の女子学生が、行きずりの男に首を絞められて殺されたという、ごくごくつまらない殺人事件……。ただ、興味深い点もあった。白昼堂々の犯行にもかかわらず、警察は捜査を一切行わずに事故死と断定した。調べていくと、さらに面白い点に気付かされる。今回の事件の犯人――、長谷村美樹彦に敵対したものは、ことごとく謎の死を遂げているのだ。美樹彦から濃厚な死の匂いを嗅ぎ取って、迷言は昏い笑顔を浮かべて唇を舐めた。

 迷言は池袋へと向かった。ろくに警戒もせず、仕事帰りの長谷村へと接近した。彼女は情報の強度を操る。それが「謎」であれば「謎」ではなくなる。全ての真実は彼女の前に開示される。長谷村に付きまとう「謎の死」の真相は彼女の『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』により暴かれる。

 そして、彼女は見たのである。その真相を。その真実を。見て、後悔した。見なければ良かったと己を呪った。彼女の目の前に現れたものは、凄まじい呪いと歪な感情が渦を巻いて女の形を成した、禍々しき情報の塊だったのである。

 *

 この存在は一般的には「怨霊」と呼ばれるモノであろう。だが、彼女から見れば、実体を持たずして他者に影響を与えうるこの存在は、やはり「情報」であった。人間の悪意や恨みもつまるところは「情報」である。情報であるからには彼女にとってコントローラブルなものであった。

 〼虚迷言はその存在を――、長谷村夏菜子の姿を見るや否や、あまりのおぞましさにへたり込み、震え、嘔吐したが、同時にその情報を「謎」に包んだ。『《迷図謎掛》(メイズ・メーカー)』。「謎」と化した情報は他者へと影響を及ぼすことはない。いかにおぞましき存在とはいえ、こうなればもはや無力だ。迷言は脂汗にまみれながらも、やや落ち着きを取り戻して立ち上がり、そして、ほくそ笑んだ。

 ――これは恰好のコレクション品ではないか。

 と。死の情報を充満させた、この「謎」は自分を彩る最高の宝石であると彼女は考え、アンティーク喫茶『迷宮入り』へと、この「謎」を持ち帰った。死そのものの如き「情報」を無力化して飼い慣らす。「死」そのものを隣に侍らす己の姿を想像して、寒気を帯びた愉悦にぶるりと震えた。無力となった長谷村美樹彦はいずれ詰丸に始末させればいい。

 だが、その日の夜――。彼女は悲鳴と共に跳ね起きた。そして、慌てて「謎」の姿を確認した。黒い立方体の中では女のシルエットが恨めしげに蠢いていた。迷言は冷や汗にまみれた額を拭い、小さく安堵の溜息を吐く。今日見た長谷村夏菜子の姿が脳裏に焼き付き、離れないのだ。

 情報の強度をコントロールする。黒い立方体の中から女のシルエットが消える。ただの黒い箱になった。姿はもちろん音も聞こえない、気配すらない。ただの箱だ。自分を害する恐れは万に一つもない。

 しかし、迷言は立方体から目が離せなかった。眠れない。目をつむるのが恐ろしい。ねっとりとした汗が噴き出る。口の中に酸っぱい嫌な味が広がっていく。黒い立方体が気になって仕方がない。どれだけ情報を「謎」に包もうと、それが「謎」である限りは「謎掛」が行われる。迷言自身も「謎」へと誘導される。そして、彼女はブラックボックスに包まれた「謎」の答えを、いつでも簡単に知ることができる。できてしまう。彼女の目の前にはいつでもあのおぞましい長谷村夏菜子の姿が現れる……。

 *

 彼女はもう四日、寝ていない。食事は口に入れてもすぐに吐き戻してしまう。イライラして気が立って仕方なく、喫茶店の調度を手当たり次第に破壊した。その間も立方体から目を離すと不安でいても立ってもいられなくなる。「謎」が気になる。「答え」を知りたくない。自分一人がこの「謎」の答えを知っている……。

 詰丸を呼び出したのは、この「謎」を共有させるためだった。だが、彼には「謎」自体が見えなかった。当たり前だ。この情報は「怨霊」なのだ。「謎」を解き明かし得る自分にしか、この存在は認知できないのだ。

 そして、その詰丸はいま床に突っ伏し、頭から血を流して無惨に息絶えている。これは彼女が――、「」(かぎ・かっこ)が行ったのだ。彼女は絶望し、激昂し、恐怖と後悔の只中で、衝動的に詰丸を殺害した。

「嫌だ。イヤだ、嫌だ嫌だ嫌だ……。こんなの、絶対嫌……。なんで、私がこんなことに……」

 黒髪ロングの〼虚迷言は、短い茶髪の秘密主義者「」(かぎ・かっこ)へと変じていた。彼女のもう一つの人格だ。髪型は毛髪量と色素の情報強度を操ることで擬似的に変化させている。『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』の能力が真価を発揮するには「」の人格を招かねばならない。

 迷言の操る「謎」には「謎掛」が伴い、「謎掛」は「回答」を誘引する。だが、「」の操る「秘密」はそもそも認知を消滅させる。『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』により徹底的に情報を叩き潰せば、もはやその情報を世界から消し去ることすら可能。詰丸は「謎」を「秘密」へと変えることで、完全に世界から、その「情報」を消し去るよう進言したのだ。

 だが、これは真っ向から裏目に出た。というか、迷言は最初からこの結果が分かっていた。だから、これまでそれを試そうとはしなかった。四日に渡る不眠と恐慌状態が、彼女にこの愚かしい選択を為さしめたのだ。

 世界から長谷村夏菜子の認知が消えた今――、〼虚迷言と「」はその「秘密」を知る世界で唯一の存在となったのだ。あのおぞましさを。禍々しさを。夏菜子の育み続けた異常な愛情を。さらには夏菜子が内包する途方も無い絶望と恐怖。その全てを彼女たちは独り占めしてしまったのだ。夏菜子持つ全ての「情報」が彼女一人の双肩へとのしかかる。これを呪いと言わずして何と言おうか。

「嫌……嫌、嫌……こんな、秘密……一人で、抱えきれないよ……」
「待って。お願い、待って……落ち着くのよ、「」」
「どうして……どうしてこんなモノを、私に押し付けた……ッ!」

 〼虚迷言と「」の姿が目まぐるしく入れ替わり、歪に混じり合う。荒廃した店内で、狂った女が一人二役の会話劇を演じる。一方は絶望と怒りに支配され自暴自棄となり、一方は摩耗した精神で必死に相方をなだめすかす。

「「」、もう終わったの……終わったのよ……。夏菜子は私たちに何も手出しできない。何もかも終わったのよ」

 そう言いながら迷言自身がやるせない気持ちに駆られてしまう。

「何言ってんのよ! 私たちが犠牲になって……世界は夏菜子を忘れるのよ! なんで! なんでよ! 私は世界を救いたくなんかない! そんなの、まっぴらごめんよ!」

 自分たちが苦しんで、呪われて、それで世界は夏菜子から解放される。これではまるで自分たちが正義のヒーローではないか。殺人美学はどこへ行ったのか。「」の指摘に迷言もムシャクシャして、ヒステリックになって叫んだ。

「じゃあ、どうしろッていうのよ!」
「ねえ……迷言、思い出して……。思い出してよ。私たち……そういうのじゃ、ないでしょう? ねえ、だから……さ。これ、解放しようよ……ねえ」
「待って……あなた、何を言って」
「これを、解き放つの。そうすれば、さ。滅茶苦茶人が死ぬよ?」
「それ、私たちも死ん」
「そうなんだけどさアッ! でも、私たちが殺すんだよ!? 夏菜子が殺すんじゃない、夏菜子を解き放って私たちが殺すの!! 私だけが犠牲になって、世界中のみんなが平和に暮らすなんて絶対に嫌! 私が苦しむなら、みんなもそれ以上に苦しんで死ねばいい!」
「やめて……やめて!」

 迷言と「」はフラフラと立ち上がった。金切り声を上げて口論を交わしながら、アンティーク喫茶『迷宮入り』を出て、池袋へと向かう。髪を振り乱しながら異臭を放つ狂女に、道行く人達が怪訝な眼差しを向けた。

「待って、「」……長谷村を、長谷村美樹彦を探すのよ……」
「今さら美樹彦に会ってどうするの?」
「分からない……分からないけど、夏菜子を止められる可能性があるとしたら、美樹彦だけ……」

 迷言にしても成算があるかどうかなんて分からない。だが、このまま放っとけば、遠からず「」は夏菜子を解放してしまうだろう。それまでに美樹彦に会う。会って直接に『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』を使えば、もしかすると何らかの答えが得られるかもしれない。

 夜の帳が下りた池袋を、二人で一人の狂女がさまよう。工場帰りの長谷村美樹彦を必死に探して、街をさまよう。『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』が美樹彦への道標を指し示す。二人は長谷村美樹彦へと達した。

 突如、自分の行く手を塞いだ狂った汚らしい女にも美樹彦は動じず、むしろ心配そうな眼差しで女を見つめた。その眼差しに怯えながらも、〼虚迷言は救いを求めるように、震える声で美樹彦へと問い掛けた。

「あッ、あ、あなたのッ、あなたの、お、奥さんがッ……」
「妻?」

 美樹彦は不思議そうな顔を見せた。
 そして、とぼけた顔で言った。

「私に、妻はいませんけど」

 〼虚迷言と「」が同時にハッと息を呑んだ。そうだ、長谷村夏菜子の存在は「秘密」となっていたのだ。当然、長谷村美樹彦の認知からも「夏菜子」の存在は抹消されている……。

 そして、二人の狂女は憐れにも疑問を抱いてしまった。彼女たちは夏菜子の、美樹彦に対するおぞましいまでの愛情を知っていたから。何よりも愛する男から存在を忘れられた女の怒りと絶望は如何程の物であろうか?

『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』

 ――「謎」は速やかに解き明かされる。

 全てを押し流す濁流の如き女の情念。狂気を軽く超えた夏菜子の絶望と激怒が二人の精神を侵食し、破壊する。「あ、ああああ、あああああああ!」「ああああ、ああああああ」 完全に狂い切った「」が後ろ向きに倒れながら天を仰いで絶叫する!

「こッ、殺して、殺して殺して殺して、殺して殺してェ! 殺しッ殺して今すぐ私を殺してェェ!」

 「」が夏菜子を解き放った、その瞬間。池袋が赤く染まった。
 視界内の人間や動物たちが、捩じ切られ、あるいは押しつぶされ、へしゃげ、折り曲げられ、一斉に破裂するかのように血を噴いて死んだ。フロントガラスを真っ赤に染めた乗用車が暴走して美樹彦に突進するも、見えない力が車体を紙風船のように吹き飛ばす。

 そして、仰向けに倒れ伏した迷言と「」の視界には、空を覆うかの如くに巨大でおぞましい悪霊の姿があった。

「あ、あはッ! あはは、あははははははははははははは!」

 「」がケタケタ笑いながら痙攣してのたうち回る。とんでもない大きさだ。あたり一面血の海だが、たぶん被害はそんなものじゃない。何千人、何万人死んだのか。

『《情報狂者》(マッド・フィクサー)』

 解答は速やかにもたらされる。被害者数、約三十四万人。豊島区全域は壊滅し、隣接する区域にまで被害が及んでいた。これ全て夏菜子の八つ当たりである。普段は美樹彦の守護にしか力を振るわない慎ましい彼女も、この時ばかりは堪忍袋の緒が切れた。

「や、やった! やった、たくさんッ、たくさん殺したアァ! あはっ、あははははは! あはははははははは! やった、やった! あたしが、殺ッた! ヤッタ、やった! あは、アハハハハハハハハハハ」

 天を覆う巨大なる存在に、迷言が金切り声で必死の祈りを捧げる。

「はやくッ、はやく、はやく、早くこッ、殺してっ! 早く、殺してええっ!」

 一秒でも早く死んで、こいつらのことを忘れたかった。迷言はさっき死んだ三十四万人が羨ましくて仕方ない。この恐怖を知らず、何の真相も知らずに死ねた奴らが羨ましくて仕方ない。一刻も早く死んで、美樹彦や夏菜子との関わりを断ち切りたかった。

 だが、夏菜子は動かない。天を覆う巨大な存在は、迷言を静かに見下ろしている。代わりに美樹彦が近付いてくる。

「ひッ、ひいっ、ひいイィ……!」

 美樹彦が馬乗りになる。迷言の首に手を伸ばす。無機質な眼差しで迷言の首筋を見つめながら、少しずつ確かな力を込めていく。

「おゴ……あ、ァ……ガ……」

 迷言が泡を吹いて手足をバタつかせる。白目を剥く。股間がしっとりと濡れだす。なぜ、なぜ夏菜子は自分を殺さなかったのか?

 解答は速やかにもたらされる。夏菜子は美樹彦の意志を尊重する。美樹彦の殺意を尊重する。彼が首を絞めて殺したいと思った女を呪い殺したりはしない。

「ぃ……嫌……嫌ァ……」

 声にならない悲鳴を上げた直後、迷言と「」の魂は己の亡骸を見つめていた。そして、自分たちを高みから見下ろす、真っ白な着物をまとった美しい女の姿。迷言と「」が同時に金切り声の悲鳴を上げて、必死に逃げ出そうとするも、女の白い手が伸びると、二人はいとも容易く囚われてしまう。白く光る女に抱きかかえられるように、二人は繋ぎ止められた。

「逃げないで。ねえ、もう怒ってないから」

 美しい女は穏やかな優しい声でそう語り掛ける。二人はなおも泣き喚き、叫び続けている。この後、自分たちがどうなるのか、彼女たちは知ってしまっているのだ。

「ちょっとね、ほんのちょっとイラッとしちゃったけど。でも、もう大丈夫。だって、あなたたちは美樹彦さんに選ばれたのよ」

 逃げられない。女の白く光る身体の中へと二人の魂が同化していく。

「美樹彦さんはね、本当に愛している女の人だけを殺すの。あの人は、みんなを平等に愛してるし、私もそんな美樹彦さんが大好きなの」

 三十年前、快楽のために女を殺していた美樹彦は、殺しの現場を妻の夏菜子に見られて、衝動的に彼女を絞め殺した。夏菜子は狂っている。

「ね、だから。あなたたちも、一緒に美樹彦さんを愛しましょう。ずっとずっと、一緒に美樹彦さんを見守りましょう」

 迷言と「」の絶望にノイズが混じり始める。それは、愛。美樹彦に対する底なしの愛情。彼のことがたまらなく愛おしくなり、全てを犠牲にしてでも美樹彦のために尽くしたくなる、異様な情念。

「やめて……解放して。お願い……忘れさせて……お願い……お願い……」
「嫌だ、嫌だあぁ、私が、私が何をしたの! こんなの……こんなの酷すぎるよぉお……」

 迷言と「」は救いを求めるように必死に手を伸ばすが、足元の方から無数の腕が伸びて二人の体を無情にも引きずり込む。夏菜子の中に同化した幾百もの女の霊たちが、悲痛なる絶望と愛を歌いながら、仲間を増やさんと二人の魂へとまとわりつく。自分を殺した殺人鬼への憎しみをお仕着せの愛で塗り潰され、美樹彦を守り慈しむためだけに彼女たちは何十年も囚われ続けている。

 〼虚迷言は最期に残った微かな理性を振り絞り、疑問を抱いた。いつの日か、美樹彦が寿命で死んだ時には自分たちの魂は解放されるのか、と。答えは速やかにもたらされ、彼女は一際悲痛な絶叫を上げた。やっぱり、知らなければ良かった。

 *

 数日後――。
 K県Y市のY警察署殺人課オフィスにて、井野上刑事は手にした書類を溜息と共にデスクへと叩き付けた。課長の方へ視線をやりながら、投げやりな素振りで報告する。

「池袋の件、やっぱり長さんですよ」
「確かか?」
「ええ、警視庁がよこして来た資料を精査したんですが、まず間違いないでしょう。小物の殺人鬼が長さんに絡んで……その結果アレって感じみたいですね」
「その殺人鬼は?」
「死んでました。あの時に、池袋のど真ん中で。……ったく、三十万人巻き込みやがって。なら、せめて相討ちまで持っていけってンだ」

 井野上のデスクの上には「B級殺人鬼TT-407」と銘打たれたファイル。氏名欄には「〼虚迷言」と書かれていた。彼はそれをクシャクシャに丸めてゴミ箱に放り込み、吐き捨てるように言った。

「ったく、余計なことしやがって。このクズ、精々苦しんで死んでりゃあイイんですがね!」


<終>
最終更新:2020年07月03日 20:48