腰は軽いが頭も尻も口すらも軽くはない。
 愛人形―――――美藤羊子という脳漿の代わりに快楽物質を満たした女の悩みはその自認と他人からの認識の齟齬である。
 男女問わず多くの人間と同衾したり一夜限りの愛に身を焦がすことと、誰にでも股を開くということは美藤の中では違うことだ。
 少なくとも美藤は自身の美意識、価値観でもって体を交える。
 相手は一人でも二人でもいい、姿かたちは心の体も気にしない。
 だがそれでも良し悪しや美醜というのは分かるものだ。

「……はぁ」

 ため息が出た。
 本当は神社に向かいたかったのだが、未だ慣れない東京という土地と気まぐれによって美藤の足は持ち主を墓地へと連れてきていた。
 墓前で手を合わせ、お供え物の饅頭に手を付ける。
 甘味を堪能し、代わりに自分のバッグからお供え物を置いていく。
 夜の墓地には自分の相手になるような人間はいない。
 ただでさえ街を騒がせる殺人鬼の噂によって人払いがなされたような状態なのに、場所がこの上なく悪い。
 普段であれば良さそうな人間に自身の能力によって快楽信号を流し、話してみて気が合えばそのまま夜の街に消えていっただろう。
 それによってどんな相手とでも目と目で通じ合える。
 かすかに色っぽいと相手が思えば後は蟻地獄のように引きずり込む。
 そんな気まぐれなお遊びも今は出来ない。
 伏せていた目線を上げる。
 規則的に並ぶ墓石、その中に紛れる大きな異物。
 いつの間にかそこにいて、気付けば自分の方に視線を注いでいた男。
 一目見て、自分と似た位置にいる存在だと理解できた。
 感じる。
 殺人というものに対する考えが一般人とは違う。
 社会において突然変異的に生まれる異物、そして目の前のそいつはきっととびっきりの化け物。

「初対面の人間に対してなんだその目は……」

 初めは貧汚れの概念が擬人化したのかと思った。
 ぼろ布のような礼服も、もはや局部露出を防げない短パンも、美藤の心を削っていく。
 『青い色の食べ物見ると食欲がなくなるって知ってた?』と言っていた故人を思い出した。
 あの男は美藤にとって青い食べ物だ。

「……あなた、うちとやりたいの?」

 目にかかる髪に触れる。
 指によって払われる髪、黒の隙間から肌の白と瞳の赤。
 美藤羊子の構成物質。

「やりたいのはそっちの方でしょ。メスの匂いが公衆トイレより強いぞ」
「そう……」

 バチリ、と音がした。
 美藤の頭の中でだ。
 脳が揺れる、脳がしびれる、五感が敏感になる。
 空気の揺れが体を優しく撫でて、それだけで下腹部の奥から熱いものがあふれ出していく。
 青い食べ物だろうと、腹が減っている状態なら食べられるはずだ。
 そう思っていたからこそ問題だ。

(ちから……つよ……)

 押し倒され、体をまさぐられる。
 乱暴な手つきだった。
 獣のようなプレイとは違う、本当に獣と交わろうとしているのかと錯覚してしまう。
 服を脱がせるのを煩わしく思っているのか服が引き裂かれる。
 体がどんどんと外気に触れていく。

「んっ……」
「はぁ……はぁ……」

 下着が千切れ、内ももに太く無骨な指が触れる。
 何度も往復して体を撫で上げていきもう片方の手はまるでリンゴでも持つように無造作に胸を掴んだ。

「知能が全部胸にいったような体してるなお前な」

 服が千切れ、胸が外気に触れた。
 すでに彼女の豊満な胸部の頂は硬直し、充血したように赤く染まっている。
 初めは舌で次は唇。

「……あ……ぁう……っ!」

 痛み。
 噛みつかれた。
 乳房に黄ばみ切った歯が食らい付いた。
 背中が跳ねる。
 快楽ではなく、驚きと痛みによってだ。
 思い出す、フラッシュバックする、蘇る。
 いつかの初体験。
 台風が通った時のような、力によって巻き起こる、あの日の昼下がり。
 閉ざされた村での思い出。
 母から繋がれた宿命と血統に込められた痛みの歴史。

「!!??」

 スパーク。
 傷口からだけでなく男に触れている部分から全身全霊の最大出力。
 快楽信号の送信というよりも電撃による痛みを与えるための行動。
 突然の刺激に男が口を離した。

「まるで電気ウナギだな」
「お気に……召して!」

 瞬間の行動。
 男と女、その膂力の差。
 そこを埋めるための一撃は迷いのない左目への刺突。
 バッグから取り出していたカッターナイフがチキチキと音を立てて刃を出し、そのまま終着点である男の目に飛び込んだ。

「頭おかし……!?」
「あら、ごめんあそばせ。でもいけないことだから気持ちいいんでしょう?」

 即座に離れる。
 向こうはさせまいと手を伸ばす。
 だから狙う。

「恋の稲妻、なんてね」

 刺さったカッターナイフ、特にその刃は避雷針だ。
 銃弾のように指から放った電撃が一直線にそこに向かう。
 痛みと共に流された快楽によって既に解放されていた男の局部が生命を吐き出した。
 恐ろしいほどの勢いであった。
 男性のそれが水鉄砲だとするのならば、確実に男の吐き出すそれは海外製の一品からの放水に等しいだろう。
 季節外れに栗の花が咲き、真っ白な匂いが辺りに広がっていた。
 美藤の顔や体にも当然それが振りかかる。
 離れようと下がっているのにだ。

「……倫理観を母体に置いてきたのか!?」
「前戯が甘いのよ。うち、するならとことんまでするし、されたいのだけれど」

 下がる際に引っ張ってきたバッグが美藤の手の中にはある。
 それにもべったりと男の精が張り付いていた。

「このケダモノ」

 とはいいつも、美藤の太腿には一筋の跡が出来ていた。
 放電するための自家発電というやつなのだろうか。

「……」

 美藤の手がバッグを握る。
 赤い瞳が輝いていた。

「だらしない股のくせにしまった顔しやがって……」
「しまったって顔をするのは、うちに関わったあなたの方じゃない? 一つ、教えてあげるわ」

 スナップを利かせてバッグが放り投げられる。
 中身が空中にぶちまけられて、男の顔面にバッグが飛ぶことで視界から美藤を隠す。
 チキチキと音が鳴り、カッターの刃が現れる。

「うちはあんたみたいなモノはないけれど……うちの中指と腹は立ちやすいから。だからとってもタチが悪いのよ」

 宙を舞うものがある。
 それは美藤のバッグから飛び出したカッターナイフの刃であった。
 すでに蓋を開けられたケースと共に銀色の刃が飛び出している。

「……あ、あなたに……抱かれたくなんて……ないわ……するとしても、うちがあんたを抱くかないと……ね……!」

 美藤の右手から電撃を放つ。
 自家発電も高まっていく、逃れられない快楽の波に意識が押し流されていく。
 吐息が漏れる、肌が赤く染まる。
 電流が枝分かれし、いくつもの光の矢となって刃にぶつかる。

「……ッ!」

 当然、浮浪者じみた男はその剛腕でもって刃を弾く。
 蚊やハエをのけるような気軽さで腕が振られて、空中でばらける。
 確かに電撃を喰らわせているはずなのに堪える様子がない。
 体の造りがまったく違う。

「んっ……んんう……!」

 右手からさらに電撃を放った。
 刃が散り散りになりながらも役目を果たそうと電撃を男に放つ。
 光線じみたそれは男に集中する。
 だが、結果は変わらない。

「う、うう……」
「っ……あっ……ぅ……」

 漏れる吐息。
 両者、違う意味を伴って息を吐いている。
 心臓が脈打っているのが分かる。
 どくどくと血液を流してくれている、それは生きている証だ。
 限界はとうに超えていて、墓地の床にいくつもの水滴が滴っていた。

「あ」

 男の様子がおかしい。
 元からおかしかったけれど、先ほどとは違う。

「あ、あんまりだ……うっ、うう……うううぅぅぅぅぅ……あああああああ!」

 泣いている。
 奇妙な大男が泣いている。
 上からは透明な雫、下からは電撃のせいなのか白い雫。
 まったく違うものが流れ出て全く調和がとれていない。

「ま゙ま゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙あ゙!!!!!」
「ま、ま……? うっ!」

 それはタックルというよりもぶちかましであった。
 抱きしめられなかったのは幸運だった、幼稚性から来る反動形成じみた暴力。
 ドン、とぶつかられて美藤の体は大きく後ろにぶっ飛ばされる。
 吹き飛び、地面に叩きつけられる。
 受け身も不完全なものになり、肺の中から空気が押し出された。
 首を絞められたような苦しさと、一気に頭に血流が回る感覚。
 頭痛とめまい、すぐには立ち上がれずに墓地を這う。
 落ちていた饅頭の包み紙を払いのけ、墓にすがるようにして何とか足に力を籠める。

「幼児退行でもしているっていうの……? どういう……原理で……」

 頭を回転させろ。
 脳を刺激しろ。
 美藤の能力が発動する、脳を刺激させるためか頭の中に普段よりも濃い電流が満ちていく。
 思わず、左手が左の胸に伸びる。
 彼女の癖だった。

(……あいつ、はっ……さっき……そう、あれも……む、ね……胸……)

「あっ……あぅ……ん……い、い……」

 脳に満ちた電流のデメリット。
 強烈な快楽の波。
 今まで発生していた熱も引かない中での自家発電。
 墓を背にしてもたれていたはずが、足から力が抜けていきへたり込む。
 そうしているうちにも男は近付いてきていた。
 涙と生命の種を垂れ流しながら、だ。

「ま゙ま゙……ずぎ……」
「……じゃあ……ふっ……く……おいで……? ま、ま……の……」

 力任せに男が肩を掴んで押さえる。
 骨がきしむのではないかと思うほどの剛力。
 まともにひっくり返せるものでもない。

「あ……く……う……っ……」

 ドズン、と下腹部に衝撃。
 男のそれが叩き込まれた。
 すでに蜜に濡れた秘裂は剛直なそれを受け入れられる、しかし乱暴な抽挿に耐えきれるほど美藤の体は頑丈でもなかった。
 痛みは快楽で和らげる。
 より強い快感によって上書きする美藤流の鎮痛剤。

「おっぱい……」

 涙と鼻水で濡れた顔。
 それがこちらの胸を見ている。

「あ……かっ……は……すき……なの、よ……ね……っ?」

 左の手が胸を開放し、男の首に回される。
 誘導されるように男が美藤の左胸に吸い付いた。
 それを待っていた。

「!!!」
「ん……!」

 最大出力での電撃。
 流す場所は全身ではない。
 集中させる、狙いは左胸。
 脳への快楽の元気信号による刺激、美藤の発想。
 内部からの破壊を目的とした一撃。
 それを完成させる要素は一か八かの産物。

「んんう!」

 男がこちらに追いつくまでの時間、泣いたままでゆっくりとこちらへと向かってくるまでの猶予。
 左胸から触るという自分の癖。
 指という外側からの刺激、発電という内側からの刺激。
 電流が刺激したのは脳内だけではない。
 美藤の狙い、それは―――『乳腺』だった。
 出来るという意識。
 その感情と想像によって美藤羊子の体は男への授乳を可能にした。
 子を成さぬ状態での母乳、それに美藤の電撃が混ざる。
 それによって男を内側から攻撃する、美藤の狙いはそれだったのだが、思わぬ効果を発した。

「これは……っ!」

 男の動きが一瞬止まった。
 目の前に男、美藤は最後まで知ることはなかったが殺人鬼としての名前を『スピリチュアル・バブバブ・オタク』という。
 その男の能力『大人こどもおじさん』
 幼児退行に比例する身体能力の強化、しかし一つ穴がある。
 授乳によって母子ともに悟りを得るという一点。
 悟りの瞬間、男は賢者となった。

「いま」
「!」
「……ふふ」
「ひゅ……お……」

 美藤はなにも適当に自分が体を預ける墓を選んだわけではない。
 饅頭の包み紙。
 それが落ちていたから選んだのだ。
 その饅頭はきっと自分が食べたものであろうことは理解できた。
 となれば、そこにはそれがある。

「思わぬ……しゅう……かく……立つものは腕とそれから……乳頭もあったわね……」

 バッグを投げた時、なぜカッターナイフの刃が飛び出したのか。
 答えはケースの蓋があいていたからだ。
 では、なぜケースの蓋があいていたのか。
 答えは美藤が食べた饅頭の代わりに置いたお供え物が彼女のカッターナイフの刃だったからに違いなかった。
 食べ物を持たぬ代わりに持っていたそれを供えた。
 常軌を逸した行動ではあったが、それが身を助けた。

「ま……」

 悟りによって緩んだ手の力。
 左の手と胸に相手の意識を集中させたが故に意識の外に出ていた美藤の右手。
 右手による攻撃は敵から見て左側、美藤がカッターを突き刺して左目の視界は不明瞭。
 墓に供えたカッターの刃を握り、見事に男の首に一筋の線を引いて見せた。
 こぼれる赤。

「じょうずに逝けたわね。偉いわ」

 だから『男は死ぬ』
 もはや物言わぬ存在となり美藤の体に巨体が覆いかぶさる。
 それを押しのけると、強烈な快楽によって男のものが脈打っているのが見えた。
 指ですくい、口に運ぶ。
 絡みつくような味わいが口に広がっていく。

「もしもあの世で会えたなら、パプリカの踊り方でも教えてあげるわ」

 痛む体を引きずって、美藤は去っていく。

「子供になるなら、お遊戯でも覚えないとね」

 頭が痛い。
 電流のせいではない。
 あの男の特殊能力のせいだ。
 授乳によって得られる悟りは母子ともに受ける、当然母役となった美藤羊子にもその恩恵はあった。
 しかし、彼女はすでに一つの答えを得ていた。

(もっと……快楽と……甘美な滅びを……)

 虚ろな赤い瞳が夜空を眺める。
 愛した人を絶頂の瞬間に殺すことで幸福な死を与える。
 その意識、哲学が強化される。
 悟りによってより高い位置、あるいは低い位置へと移動していった。
 誰であろうとこの滅びから逃がしはしない。
 愛人形は生まれ変わる、夜は続いていく。
最終更新:2020年07月03日 20:47