———夢を見た。

 在りし日の憧憬。変わらないはずだった日常。
 散歩から帰ってきた僕を、ソファーに座ったご主人がやさしく迎える。
 僕は、指定席であるご主人の膝に飛び乗る。ご主人は、その背中をゆっくりと撫でた。
 ご主人の手の感触が、こそばゆくも気持ちいい。僕の口から、欠伸が漏れた。

「あら、ヤットったら、ご機嫌ね」

 台所から出てきたのは、僕のママ。世界で一番綺麗なんだ。
 ママは、僕とご主人のそばに寄り添い、僕に微笑みかける。僕は、もう一つの指定席、ママの大きな胸にだいびんぐ!
 ママは、ちょっとびっくりしながら、僕を抱き留め、頬をすりすりしてくれた。
 僕を包み込む柔らかな腕と、ふわりと香る甘い匂い。
 ご機嫌な僕は、目を細めて、ゴロゴロと喉を鳴らす。

「本当にに甘えん坊だなあ、ヤットは」
 ご主人が、少し呆れ気味に視線を送る。ママは、ジト目でご主人を見つめ、
「あなたも(ひと)のこと、言えないじゃないの」
と反撃。
「ま、まあそれは否定しませんが……」
 はい、ママの勝ち。いつも通り。

「男の子は、多少甘えん坊さんの方が、可愛げがあって良いのよ」
 そうだぞ、ご主人。ママは常に正しい。

「でもな、ヤット」
 ご主人が僕に顔を近づける。
「男の子は、いざという時は、女の子を守ってあげなきゃダメだぞ」

 ご主人は、僕を諭すような眼差しで、頭を撫でる。僕は、ご主人の言葉に、にゃあと応えた。

———何気ない日常の、ちょっとした約束事。
 そう遠くない未来に、ご主人の言葉が、僕にとって大きな意味を持つ日が来ようとは、この時には思っても見なかった。


◆◆◆◆ scene1【逢魔時の邂逅】◆◆◆◆


 川脇亜里沙(かわわきありさ)は、数日前の殺人鬼の事件で、夫である大和を失った。犯人は、魔人能力を持った異常者。行きずりの犯行と告げられた。
 突然降り掛かった理不尽な死別。涙が出るより先に、何故という思いが、心を支配した。しかし遅効性の毒のように、徐々に悲しみの感情が、滲み、拡がり、心を蝕んだ。
 食欲は消え失せ、人に接する事もままならず、大和の葬式を終えたあとは、何もかも考える事が出来ずに、塞ぎ込んだ。けれど、気付いてしまった。あの子がいないことに。

 私は何を呆けていたのだろう。亜里沙は、愛する我が子が消えたことにすら気づかなかった自分を恥じた。

「ヤット、ヤット。ゴメンね。私は悪いママだ。必ず貴方を探し出してみせるから」

 亜里沙が我が子同然に可愛がっていた愛猫、黒猫のヤットは、あの忌まわしい日以来、行方不明となっていた。
 亜里沙はその日、仕事上がりが遅かったお陰で、犯行現場に居合わせず、命を失わずに済んでいた。

 仮にその場に居れば、夫を失わずに済んだだろうか?ヤットを護る事が出来ただろうか?答えの出ない自分への問いかけの日々が続いた。しかし事実は覆らない。ならば、次に向かって動き出すしか無い。こうしている間にも、ヤットが、どんなに恐ろしい目に遭っているかも知れないのだから。亜里沙の瞳に、強い決意の色が宿った。

 亜里沙は、ヤットの捜索に乗り出した。職場に休職届を提出し、動物保護センターや保健所等、関係各所に問い合わせた。複数の警察署へ、「逸走届」を出し、私立探偵にも相談をした。チラシを作り、近所に配りまわり、地区掲示板や、動物病院にも貼って貰った。
 今に至るまで、有力な情報は掴めていないが、諦めるものか。ヤットは私が見つけ出すんだという強い想いが、亜里沙を突き動かした。

 亜里沙が愛猫を捜し始めて数日、この日も駅前でのチラシ配りを終え、夕暮れ時の帰路に着く。
 最近は何かと物騒なので、暗くなる前に家に戻る予定だったのだが、思いの外、チラシが捌けるのに時間がかかってしまった。
 夕飯はスーパーに寄らずに、買い置きの物で済ませようと、家路を急ぐ亜里沙の行き先に、一台の黒いミニバンが、ハザードを焚いて停車していた。
 側には、スマホを眺める男の姿。浅黒い肌が印象的な、上背のある、モデルのような整った顔をした男だった。
 亜里沙は、なんの気なく、ミニバンの横を通り抜けようとしたが、男が恐る恐る声を掛けてきた。

『すみません、お姉さん。少し道をお尋ねしたいのですが……』

 突然声を掛けてきた男に、警戒の色を滲ませた亜里沙だったが、男の狼狽した表情を見て、その足を止めた。

『ココから姫代学園までは、どう行けばいいでしょうか?あ、私、ソコで教師をしている者でして、コレ、名刺です』

 亜里沙は男から、榎波春朗と書かれた、姫代学園の名刺を受け取る。姫代学園と言えば、ここからそう遠くない場所にある、お嬢様校だ。

『実は臨時で、最近赴任して来たので、この辺りの土地勘が無いんです。ここいらは一方通行(イッツー)も多いし……』

 男はそう言って、亜里沙の方にスマホの画面を向けた。地図アプリの現在地が点滅している。亜里沙は、男のスマホのほうへと目線を向ける。

「そうですか。姫代なら、そうですね、まずこの道を通って、国道に出てから」

———バチン。

 首筋から全身を走る衝撃。スマホを眺めた死角から、男は後ろ手に持った改造スタンガンを取り出し、亜里沙の首元に押し当てたのだった。
 意識を破られ、膝下からがくりと倒れる亜里沙。その身体を受け止め、男は邪悪な笑みを零した。

『さて、今宵の出演女優は、あんたに決めたぜ』

◆◆◆◆

 黒猫ヤットは、見慣れた路地に迷い込んだことに気づいた。

「アイツ」を追って、何日が経ったのだろう。その間に、「アイツ」の同類と思しき何人かのニンゲンをやっつけて来た。殺伐とした日々に、無意識に疲れが出てきたのだろうか。いつの間にか、我が家の方向へ足が向かっていたのだ。
 このままお家に帰ってしまおうか。一瞬迷いが生じるが、それは出来ない。一度でもママの顔を見てしまったら、「アイツ」を追い続ける決意が鈍ってしまうような気がした。

 家に着く道を逸れ、引き返そうと思った寸前で、ヤットは固まった。

———細身のシルエット、焦げ茶色のボブカット。ふわりと香る甘い匂い。

(ママ……!)

 ヤットの視界に移ったのは、大好きなママ。ヤットの目頭が熱くなる。
 駄目だとは思いつつも、脚が勝手にママを追ってしまう。ママが振り向いたら、僕はもう終わりだ。ヤットは、ママが振り向かないよう祈りながら、静かに彼女の後を追った。
 しばらくすると、ママが男に声をかけられ、立ち止まった。

———そのあとヤットが見たもの、それは彼の熱くなった心を一気に冷ますような、ゾッとする光景だった。

 ママが男に近寄り、「何か」を覗き込む。その後ろから伸びる、男の手。男がママの首筋に、「別の何か」を当てて、ママは男の胸に、倒れこんだ。

(え……ママ……?)

 男はママを強引に車に押し込み、ドアを閉める。ヤットの頭は、一瞬真っ白になったが、身体は考えるより先に駆け出し、男の乗り込んだ黒いミニバンのほうへと向かった。
 車が走り出す。ヤットはそれを追う。車が加速する一歩手前で、ヤットは車の後側のナンバープレートに飛びつき、爪を立てて、しがみついた。

(ママ……!ママぁ……!)

 車はヤットをぶら下げながら、走り続ける。ヤットは後部のウインドウから、男の乗り込んだ運転席のほうを、にらみつける。しかし、その心臓を捉える事は適わない。

 ヤットの魔人能力は、標的の心拍数が一定値以上に上昇したり、下降することで初めて発動する。平常時の心臓を「捉える」ことは出来ない。また、仮に標的が魔人能力者ではなかった場合も、その心臓を「捉える」ことは出来ない。ヤットの能力発現のきっかけが、魔人に対する、強い憎しみ由来であるからだ。榎波は魔人能力者なので、後者の定義には当てはまらなかったのだが、ヤット本人にはそのことを知る由もない。

(ママを……助けなきゃ!)

 ご主人の言葉が、ヤットの小さな体を奮い立たせる。

「男の子は、いざという時は、女の子を守ってあげなきゃダメだぞ」

 そうだ、僕が守るんだ。僕がママの護り手になる。

 もう、あんな思いはごめんだ。大切なものを、二度も奪われるくらいなら、僕がお前の命を奪い取ってやる。心臓を「捉える」までもない。その首を引き裂き、目玉をくり抜き、黒く歪んだ魂ごと、噛み砕いてやる!
 ヤットの蒼い目は、静かな怒りに燃えていた。

◆◆◆◆

 榎波春朗は、歓喜に震える感情を抑えきれずにいた。
 先日思いついた、あるアイデアの一つ。既に二回ほど愉しんだが、ココへ来て、とびきりの女が目の前に現れた。ああ、この女となら、最高の作品(・ ・ ・ ・ ・)が作れそうだ。

———そしてそれは、俺の死とともに伝説へと昇華される。

 榎波は、自らの計画に、陶酔していた。

 亜里沙は意識を取り戻した。どうやら男のミニバンに押し込まれたらしい。3列シートの後部座席は、背もたれが後ろに倒されフラットになり、亜里沙はその上に寝かされていた。車は何処かに向かっているようだった。
 亜里沙は身体を起こそうと試みた。しかし、全身が痺れて動かない。声も、うまく上げられなかった。何らかの薬を飲まされたのかも知れない。これでは、外の様子すら分からない。
 亜里沙は、心臓に冷たい氷水をかけられたような感覚を覚えた。

「あ……ぐぁ……!」

『お目覚めの様だな。お姉さん』

 運転席の男は、抑揚の無い調子で、亜里沙に声を掛けた。

「貴方……一体……何者なの……?何で、こんな……マネ……」

『あんたがそれを知ってどうする?俺は俺さ。それ以上でも、それ以下でも無い。』

———殺人鬼。亜里沙は、これから自分に起こる悲劇を、自覚する。

『目的地まではまだ少しかかるんだ。暇潰しにテレビでも観てなよ。自信作(・ ・ ・)なんだ』

 後部座席用のテレビモニターから流れて来たのは、見るもおぞましい、一人の女が、暴行を受け、陵辱されながら、徐々に解体されていく、殺人(スナッフ)フィルム。痛みと恐怖で泣き叫ぶ女の様子は、この先の亜里沙の死に様を、生々しく予見するものだった。

『自分語りになるんでアレなんだが、俺、医者から余命宣告受けちゃってんのよ。だから、こういう記録映画を作って、自分の生きた証を、残したいなって、なぁ』

 男は自慢げに語る。思い付きの企画の一つではあったが、興が乗ったせいか、一端の映画監督気分だった。

 亜里沙は言葉を失った。この男は、日本語こそ通じるが、決して意思疎通の出来ないバケモノだ。殺人を愛し、罪悪感のかけらも持たず、他人の命を塵芥同然に感じる、生まれながらの殺人鬼(ナチュラルボーンキラー)。亜里沙は、凄惨な光景が映るモニターから目を逸らし、声を立てずに泣いた。

『これで3人目。あんた体つきがいいから、今までで一番シコいVTR(ブイ)が作れそうだぜ。良かったな』


◆◆◆◆ scene2【天使と劇薬、宵に舞い】◆◆◆◆


 車は公営の、とある立体駐車場に入った。

 24時間稼働の駐車場だったが、殺人鬼騒ぎのお陰で、停まっている車は、数台もなく、閑散としていた。榎波は、蛍光灯の切れかけた、薄暗い駐車スペースに車を停める。
 榎波は、後部座席に転がしていた亜里沙に対し、下卑た笑みを浮かべた。ウェアラブルカメラを取り付けたヘッドセットを装着し、亜里沙の最期の表情を、克明に記録する準備も整った。

『さあ、お楽しみの時間だ。良い声で鳴いてくれよなぁ!』

 榎波が身を乗り出し、ベッド状に倒された後部座席に移る。榎波は、亜里沙に迫ると、極上の食材を値踏みするが如く、全身を舐める様に眺め回す。華奢で、スレンダーな四肢と、肉付きの良い乳房のアンバランスさが、榎波の劣情を煽る。
 亜里沙は、人食い狼の湿った鼻息を肌に感じ、動かぬ身体で、芋虫のように無駄な抵抗を試みる。
 榎波は、身体が麻痺して自由が利かない亜里沙の上に陣取り、シャツのボタンを一気に引き裂かんと、襟元に手を掛けた。

———ドン!

 車の天井を叩く、音が聞こえた。

「?」

———ドン!

 気のせいでは無い。何かが、車の上で暴れている。榎波は、カメラを外して、前部の座席に再度身を乗り出し、ダッシュボードに入れていたハンドガンを取り出した。
 H&K P7。スクイズコッカーという独特のセーフティ機構が付いた、大型グリップが特徴の、短銃身のハンドガン。榎波はバレルに減音器(サプレッサー)を取り付ける。マガジンに装填された弾薬は、ソフト・ポイント弾の内部に、猛毒のリシンが仕込まれた、極めて致死性の高い特殊弾頭。榎波は、窓越しに外の様子を警戒する。

『女。まだ薬が効いて居るだろうが、ここを動くなよ。ドアを開けたら即殺す。大声を上げても即殺す。黙って、俺の戻るのを待ってろ』

 ドアを開ける。飛び出しざまに天井を確認。しかし、人影は見えず。いや、あの音は、人間が乗ったにしてはヤケに軽い音だ。
 針で突き刺してくるような、淀んだ殺気は感じる。確実に、何かが俺を狙っている。榎波は、P7を右手に構えつつ、周辺の車を目視する。

 その瞬間、榎波の両足の隙間から、鋭爪を持った黒い風が吹き抜けた。
 その疾風は榎波の両足首を擦り抜けざまに引き裂き、瞬く間に、対面に停まる車の影と同化した。

『ぐっ……、下かよ……!』

 榎波のズボンの裾が破られ、血が滲む。大したことはない。アキレス腱も無事だ。
 榎波は、対面の車に銃を向ける。立体駐車場の、切れかけた蛍光灯程度の明るさでは、車の影に潜む刺客の位置を判別出来ない。
 それでも榎波は発砲した。床に当たった跳弾の火花で、黒い風の輪郭を捕捉した。

———猫!?

 続けて発砲。しかし黒猫の動き出しが勝る。
榎波は再三再四、地を駆ける黒猫を狙って撃つが、その全てが無駄弾となる。

 風の様に疾る黒猫ヤットのスピードは、瞬間的に100km/hを超える。こと敏捷性という一点に於いて、人間の限界を軽く凌駕する猫に、覚醒した魔人の身体能力が上乗せされているのだ。セミオートのハンドガン程度では、黒い風を吹き散らすには余りにも力不足だった。

(的も小せえし、何よりこの速さは異常だ……。何なんだコイツは……?)

 銃では埒が開かないと見切りをつけた榎波は、P7を打ち捨て、空気の流れを読む。黒猫が再び潜った車の風上に陣取ると、腰を落とし、左の掌を地面にかざした。
 飛び込んだ車の影から敵の様子を伺っていたヤットは、榎波が魔人である事に、ここで初めて気付いた。

(紫色に輝くニンゲン……!何か普通じゃない力を使ってくる……!)

 男の煌きが左手に集約されると、次の瞬間、妖しく発光する。男の左手が、陽炎の様に揺らめく。ヤットは、地を這い進撃する、多頭蛇(ヒドラ)の幻を見た。

 男の佇む風上から、微かな干し草の匂いと、目鼻を襲う刺激。それは旧日本軍が「あお剤」と呼称していた化学兵器。呼吸器に深刻なダメージを与える、猛毒のホスゲンガス。
 榎波春朗の魔人能力、『深愛を抱く藍(ハイドロレンジア)』の、薬物合成バリエーションの一つ、『ナイチンゲール』であった。

(———マズい。この空気を吸い込んではいけない)

 半ば未来視にも届きそうな直感。ヤットは、側面に回り込み、致死性のホスゲンガスの射程から逃れる。しかしそれは、小さく無防備な姿を、敵の目の前に晒す事と、同義であった。

(炙り出された……!クソっ!)

『ようやく姿を現しやがったな……!化け猫野郎』
 ヤットが尻尾を立てて榎波を威嚇する。榎波は、ヤットに注意を払いつつも、周辺を見渡す。
 この黒猫をけしかけた魔人が何処かに居るはずだ。単なる動物使役能力にしては、動きが良すぎる。どこか近くで直接操作でもしない限り、俺の攻撃をここまで正確に躱す事はできない。
 榎波はヤットに問い掛けた。

『オイ、聞こえてんだろ。何のつもりだ?化け猫使い』

  もちろん返事は無いが、榎波は構わず続けた。

『折角の良い気分を台無しにしてくれたなぁ。何処に隠れてるか知らんが、俺に上等切ったことは、高く……』

 榎波はそこで気付く。黒猫の敵意に満ちた、燃えるような蒼い瞳に。辺り一面を冷たく焼き尽くす殺気が、この黒猫本体から、発せられていることに。榎波は、その迫力に一瞬たじろぐ。

『まさか……。猫の殺人鬼かよ……』

 殺人鬼。信じがたい話だが、コイツは俺の同類だ。猫の分際で、この俺を、完全に獲物として見ている。それなりの修羅場を潜り、実際に人間を葬っている。でなければ、今俺が受けているこの強烈なプレッシャーに、説明がつかない。
 動物的な本能は、自分の何倍もの大きさの敵に対して、自然と逃走を選択する。逃げないという事は、殺せる自信がある(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)という事だ。

『ハハ、ハハハハハハハハ!同類がやけに多い、異常な夜とは感じていたが、コイツは傑作だ!遂に、猫が人間をぶっ殺す時代になったのか!狂気の夜、ここに極まれり、ってか?最高じゃねぇか!なぁオイ!』

 極めて不快に笑う榎波に対して、ヤットは怒りの唸り声を上げる。

『いいぜ、同じ殺人鬼同士、存分に殺し合おうじゃねえか』

 榎波がサイドポケットからナイフを取り出す。ヤットは、相手を撹乱する為に、ジグザグに走り出す。いや、それだけでは無い。風の速さを生み出す強靭な脚で、ヤットは天井に跳び、柱を駆け、梁を蹴り、三次元機動を用いて榎波に迫る。
 狙うは首筋。研ぎ澄まされた鋭爪で、頸動脈を切り裂かんと、黒猫は吶喊する。
 しかし、その攻撃は、榎波のナイフの腹で止められる。交錯する爪と刃。質量で劣るヤットは、弾き飛ばされながらも、くるりと身を翻し、柔らかく着地する。

(バカが、狙いが見え見えなんだよ)

 黒猫の凄まじいスピード。これは脅威として認める。だが、それだけだ。
 人間様を正面切って相手取るには、些か武器が貧弱すぎる。奇襲、乱戦等、相手の意識外からの先制攻撃ならば、その爪も命に届きうるだろう。だが、まともな1対1(タイマン)であれば、露出した急所、首元への攻撃さえ捌ければ、こちらの負けはない。

 ヤットもまた、自分の不利を感じとっていた。この相手は心臓を「捉える」事が出来る、輝きを持ったニンゲンだ。だが、そのスイッチを入れるには、今より早い心臓のリズムが必要だ。
 しかし敵は、必要最小限の動きで、こちらの攻撃を捌く戦術に出た。これでは心臓のリズムは早まらない。こちらの体力だけが、削られる一方だ。

 それでもヤットは、縦横無尽に駆け回る。執拗に、敵の首元を切り裂こうと試みるが、その全てが弾かれる。焦りと疲れからか、攻撃が単調となる。

 そこを、榎波は見逃さなかった。

 ヤットの突撃に合わせ、バックステップと同時にナイフを宙空に放る。敵の刃の動きに集中していたヤットは、放り投げられたナイフを、半ば反射的に追ってしまった(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)。そこは、あらかじめ榎波が仕掛けていたトラップの真上。そして榎波は懐に忍ばせたコインを、床に投げつけた。

 駐車場に響く爆発音。床に敷設された、ニトログリセリンが、ヤットの真下で炸裂した。

『深愛を抱く藍(ハイドロレンジア)』の、薬物合成バリエーションの一つ、『コメット』。
 自らの巻き添えを避ける為か、爆発の規模は小さなものであったあっが、小動物の身体を、天井まで吹き飛ばし、コンクリートの破片をお見舞いするには充分な威力だった。
 カラリと落ちるナイフと、それに遅れて響く鈍い音。二度にわたり、全身を強打したヤットは、痛みで遠のいた意識を繋ぐのに必死だった。

『クハハ、そりゃあ目の前のナイフを追っちまうよなぁ。猫だからなぁ。クク』

 醜悪な笑みを浮かべ、榎波は黒猫に差し迫る。ヤットの目前で立ち止まった榎波は、その頭を踏み砕こうと、右足を上げた。そして、心通わぬ機械の如く、そのまま一気に踵を振り下ろす。

 しかし榎波が踏み抜いたのは、固い地面のみであった。ヤットは、渾身の力を振り絞り、その追撃を間一髪で躱した。転がるように受け身を取り、再び榎波とヤットの距離が開く。

『へぇ、まだそんな力が残っていたのか。少し地雷の威力を抑えすぎたかな』

 ヤットが榎波に向き直る。しかし、四つ脚は震え、擦り傷打撲に火傷多数。更に、一瞬吸ってしまった毒ガスの影響で、呼吸不全一歩手前。余力は既に、尽きかけていた。

『まぁいい。寿命が一瞬伸びただけだからなぁ』

  榎波は、黒猫の殺し方を吟味していた。黒猫が未だ動ける事には少々驚いたが、そのダメージは明らかだ。今ならセルフブーストの『ギムベル』を使えば、ちょこまかと目障りな化け猫の首根っこを捕まえることが出来る。
 そして、そのまま、『ステュクス』を見舞ってやろう。アレが一番、表情の良い死相が出来上がる。全身が痙攣した、ゲロまみれの間抜け面。俺に歯向かう事が、どういう事なのか、身を以て知るがいい。

 榎波は三度(みたび)、魔人能力を発動させ、体内で麻薬を合成する。『ギムベル』の発現により、感覚機能、運動能力を底上げする。血管が拡張し、血流速度を上げ、脳および筋肉の酸素需要に応答する。

 ヤットは死を決意し、最後の突撃を敢行した。地から壁、壁から柱、柱から天井と、黒い風が疾る。速度こそ今までと遜色ないものではあったが、全身に負担が掛かる切り返しに関しては、明らかにワンテンポの遅れ。方向転換する度に、身体のありとあらゆる場所から、稲妻のような激痛がはしる。

(今度は見えてるぞ!早く飛び込んで来い……!)

 榎波の右手が黒く燃える。触れただけで命を刈り取る悪魔の掌は、黒い風を吹き散らすには、余りにも過剰な暴力であった。

 お互いの距離が詰まる。呼吸すら忘れる必殺の間合い。ヤットは、榎波の視線を外すフェイントを掛ける。至近距離の切り返しにより、榎波の死角に一瞬で周る。筈だった。

 『ギムベル』で強化された視覚が、痛みで一瞬遅れたヤットの切り返しを正確に追う。死角は消失し、ヤットの飛び込みに、『ステュクス』を合わせる。回避不能のタイミング。触れてしまえば全ての終わり———

ざくり。

 悪魔の掌は、その目前で止められる。一振りの、ナイフによって。
 ヤットは、榎波が囮として使用したナイフをあらかじめ口に咥え、致死の掌撃を刺し止めていた。穴の空いた右手が、どす黒い血を撒き散らす。

 そのナイフを足掛かりに、ヤットはすぐさま次の動きに移る。『ステュクス』の掌を飛び越え、榎波の腕伝いに、首を切り裂かんと迫る。しかし、榎波の口角は、歪んだ笑みで上がっていた。

『ここまでは、必要経費なんだよッ!』

 化け猫がナイフを使うことも、そこからの隙をついて来るのも想定済み。榎波はそこに罠を張る。右手はデコイ。黒く染まる悪魔の掌は、左こそが本命。差し迫る右腕からの刺客を、半ば殴り抜ける勢いで、黒猫の視界の外、横側から掴みかかる。今度こそ、捕まえられる。

 しかしそれは(あた)わず、黒掌は空を切る。

 右腕の重みが消えていた。黒猫が突如踵を返し、地面に降り立ったからだ。一体、何故?
 榎波は、黒猫の不可解な動きに、混乱の色を見せる。しかし、時既に遅し(・ ・ ・ ・ ・)

 黒猫が足元でにゃあと鳴く。これが、時間切れ(ゼロ)の合図。

 ———ばつん。

 榎波は、自分の身体の中心で暴走し、爆砕する心臓の音を聞き、糸の切れた人形の様に(くずお)れる。
斯くして、「慈愛のお迎え天使」は、強姦殺人鬼を地獄へと連れ去った。

 ヤットは、既に交錯の直前、『ギムベル』で活発化し、更に興奮状態に陥った榎波の心臓を「捉えて」いた。あとは3秒、時間を稼ぐだけで良かった。
 しかし、土壇場での心臓のリズムの変化が無ければ、死んでいたのは間違いなくこちら側であっただろう。それ程の強敵であった。ヤットは、「アイツ」とは違う殺人鬼の顔を一瞥し、薄氷の勝利を噛みしめた。


◆◆◆◆ scene3【乙夜(いつや)のころ】◆◆◆◆


 夜の大都会。街の至るところで、パトカーのサイレンが響き渡る。殺人鬼達の暗躍が、今日は一際目立つようだ。

(そんな事より、ママだ。ママを助けないと)

 ヤットは、ママの乗って居るミニバンの方へと向き直り、歩き出した。ボロボロの身体を引きずりながら、前へと突き進む。

 歩くたびに体の節々が痛む。視界がぼやける。それでも、一歩ずつ前へ。

 肺が侵され、呼吸も荒い。疲労も限界。けれどもヤットは、約束を違えぬ為に、歩みを止めず。

「男の子は、いざという時は、女の子を守ってあげなきゃダメだぞ」

 いつか聞いた、誰かのセリフ。

 おぼろげな意識。ふらつく足取り。けれども一歩。また一歩。

(ママ……ママ、今、僕が助けに……)

 遂にヤットは、ミニバンの前にたどり着く。固く閉じたドアの前。最後の力を振り絞り、ドアに向かって、渾身の体当たり。鉄の扉の打ち付けられる音が、駐車場に反響する。しかし、そこまでが限界。ヤットは、その場で意識を失った。

 亜里沙は、車のドアに響いた打撃音に反応する。ようやく薬の効果が抜け、手足は動く。しかし、男の言葉が耳に残る。迂闊に外に出ることはできない。
 だが、それ以降の外の様子は、驚くほど静かだった。亜里沙は、窓から恐る恐る外の様子をうかがった。
 まず最初に目に飛び込んできたのは、自分を襲った男が、倒れている姿。うつぶせに倒れて、表情は窺い知れないが、動く気配はない。何故?という疑問よりも、これで助かる、という安堵感のほうが、先だって胸を駆け巡った。

 亜里沙は意を決して、車のドアに手をかけた。ゆっくりと、ドアをスライドして、足元を確認する。その直後、亜里沙の視線は、そこにくぎ付けとなった。

 横向きに倒れた黒い猫。首には、銀翼のチャームが輝いている。見間違うはずもない。亜里沙が、必死になって探していた、愛する息子だった。

「ヤット……ヤット!」

 亜里沙はヤットに声をかける。ヤットはぐったりして動かない。お腹の上下動で生きていることは確認したが、毛並みはボロボロ。擦り傷や切り傷多数。そして、異常な呼吸音。

「ヤット……ああ、ヤット!」

 亜里沙は一瞬頭が真っ白になったが、すぐに携帯を探しだす。幸い、あの男は端末を処分する暇も無かったようで、車内の床下からハンドバッグとともに発見する。
 かかりつけの動物病院に連絡する。夜間救急の受付にも対応してくれる病院で、今夜も受け付けてくれるようだった。亜里沙は地図アプリを確認する。ここからなら車で20分程度だろう。

 亜里沙は、動かなくなった男のほうに向きなおる。目の前まで歩を進め、意を決して、男のポケットをまさぐる。その時点で、この男が既にこと切れていることを確認したが、今はそれどころではない。果たして、亜里沙はミニバンの鍵を、男のポケットから取り出した。

 ヤットを自分のマフラーで優しく包んで、助手席に乗せる。車のエンジンをかけ、発進させる。立体駐車場を後にしたミニバンは、飛ぶような速さで、病院へと向かった。

 若干の冷静さを取り戻した亜里沙は、震える身体を抑えながら、あの場で起こったことを想像する。自分が男に襲われる寸前、天井から物音がして、男は外に出た。あれはきっと、ヤットの仕業だ。どういう経緯で、男が死んでしまったのかは全く窺い知れないが、おそらく、ヤットがあの男を殺して、私を助けてくれた。
 恐ろしい想像ではあったが、満身創痍のヤットの姿を見ると、私のために戦っていた事が、見て取れるような気がした。

 けれども、私の想像が正しいのならば、大変な事だ。相手が犯罪者とは言え、猫が人を殺めてしまったら、取り返しがつかない。警察や、保健所に捕まれば、命は無いだろう。何とかして、ヤットを護り通さなければならない。

 すれ違う車はまばらだったが、パトカーの数が異常に多い気がした。この車も、殺人現場から持ち出してきたものなので、できるだけ目立たぬよう、病院に向かわなくては。

 日が変わる少し前に、亜里沙は動物病院へたどり着いた。

 院長の白石先生は、ヤットを一目見ると、顔色が変わったが、素早く治療の準備に移ってくれた。先生の見立てでは、擦り傷、切り傷に関しては、さほど問題はなさそうとのことではあったが、問題は、軽度の火傷と、有毒ガスを吸った形跡があるということであった。

 適切な処置と、ガスを吸った量がごく微量だったことから、とりあえず命に別状はないということではあったが、明らかに異質で、異常なダメージ。
 ヤットが何故こんな状態になったのか。その経緯を先生から尋ねられたが、正直なところ、火傷やガスに関しては私にも全く想像がつかない。
 行方不明のヤットが、突然大怪我をして目の前に戻ってきた。そんな説明しか、できなかった。

 夜は物騒だからと、白石先生は一晩の寝床を亜里沙に確保してくれた。亜里沙は、外に止めてある車が気がかりだったが、ヤットの容体が心配なことと、ショッキングな出来事が立て続けに起きたことによる疲労感がピークに達していたため、白石先生の言葉に甘えることにした。

◆◆◆◆

 立体駐車場に、パトカーが数台、集結していた。

 爆発音がしたという、周辺住民の通報を受け、駆け付けた警察官が、男の死体を発見。連絡を受けた捜査一課が現着し、捜査を開始した。
 捜査一課の本田が、状況を確認する。被害者は、通称「歩く劇薬」(リーサルドーズ)こと、榎波春朗。27歳。かつて、長谷川頑馬(はせがわがんま)という名で、魔人警察官として警視庁に在籍していたが、不祥事の発覚により突如失踪。姫代学園で発生した、女子高生行方不明事件の容疑者として、浮上してきた男だった。

 現場の状況は、混沌としていた。何かが炸裂した、爆発の形跡と、うち捨てられた、サプレッサー付きの拳銃。銃痕および薬莢も数か所で確認された。
 被害者の外傷は、両足の擦過傷と、右手の掌を貫くナイフの傷。しかし直接の死因は、司法解剖して見ないと判らないが、両手に付着していたとの報告があった毒物か、はたまた別の何かか……

「本田さん!大変です!」

 後輩刑事の橋本が、血相を変えて、駆け付ける。

「どうした?橋本」

「今さっき回収した防犯カメラの映像を確認したんですが……。とんでもない犯人が映っていました!」

 パトカー内のノートパソコンで、回収された映像ログを確認する。そこには、男と、一匹の黒猫が対峙する映像だった。猫に向かって発砲する男、それを悉く躱す黒猫。刑事の眼前で繰り広げられている映像は、明らかに異常だった。

「人と戦う……猫だと……?」

 本田は、モニター越しに展開される信じられない光景に、くぎ付けになった。凄まじいスピードで縦横無尽に動き回る猫。爆弾らしきもので対抗する男。そして、何の前触れもなく、突然倒れた男の姿。

「この猫……もしかしたら……」

 本田は、にわかには信じがたい事実を、推察する。この猫の異常さを見るに、こいつは魔人能力者の可能性が高い。特に、被害者の死に方が不可解すぎる。念じただけで人を殺せるというのか(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)

(慈愛の……お迎え天使……?)

 正体不明、死因不明の殺人鬼の名前が頭をよぎる。下手人がこの猫なら、なるほど、今までの現場の、不可解な状況にも説明がつくかもしれない。
 その後、黒い車から出てきた女が、倒れた黒猫を抱きかかえ、再び車で立ち去るまでを確認した本田は、橋本に指示する。

「橋本、この車のナンバーを控えたな。現場から車で立ち去った女を押さえろ。どこかに電話を掛けて黒猫を連れ去っている。付近の動物病院も当たるんだ。事件の重要参考人を何としても確保しろ」


◆◆◆◆ scene4【暁に消えた黒い風】◆◆◆◆


———夢を見た。

 在りし日の憧憬。変わらないはずだった日常。
 僕はいつもの指定席。ママに抱かれて撫でてもらう。ゴロゴロと喉を鳴らし、思いっきり甘える。

———穏やかな日常。平和な日々。

 ママは棚から大好きな、細長いパッケージのおやつを取り出し、僕に与える。美味しいちゅるちゅるを、口いっぱいにほおばる。

———帰れると、思っているの?

 ママと一緒に日向ぼっこ。ぽかぽか陽気の、柔らかな日差しと、ママの温もりが、とってもとっても気持ちいい。

———サツジンキの、分際で。

◆◆◆◆

 夜明け前の、静かな時間、僕は目を覚ました。節々の痛みを思い出し、顔色が曇る。
 身体のあちこちに、包帯が巻かれ、足取りもやや重い。だけど、呼吸は楽になり、多少は体力が戻ったようだ。

(ここは......?何処だろう)

 僕はケージの中に入れられていたが、外に出るには、何の問題もない。前脚で器用に金具を外し、扉を開く。
 ヤットは辺りを見渡す。知っている場所だ。けれどあまりいい思い出の無い場所だった。チューシャとか、ケンシンとかをする所だ。
 すぐそばで、寝息を立てる人影があった。細い手足と、大きな胸。僕は、穏やかに眠るママの姿に、胸がいっぱいになる。ふわりと香る、甘い匂いがやけに懐かしかった。

(ママ……!ママぁ……!)

 良かった。ママは無事だった。僕も何とか生きている。痛くて怖い思いも沢山したけど、今はママがそばにいてくれる。そうだ、僕はもう、普通のネコに戻ろう。ママの顔を見てしまったら、もう離れられない。これまでの出来事は、ご主人が居なくなった悲しみが見せた、悪い夢だったんだ。もうすぐ夜が明ける。悪い夢からは、もう目覚めるんだ。

———ふと、ママの後ろの姿見が目に入る。

 鏡に映る、黒猫の姿。
 白い包帯から覗くそれは、邪悪を象徴する漆黒と、呪いを宿した、蒼い炎の双眸。
 鏡の中の黒猫は嗤っていた。駄目じゃあないか。オマエはまだ、ご主人の仇を討っていないんだぜ?
「アイツ」に辿り着くまで、殺して、殺して、殺しまくるんだ。中抜けなんて、許さない———

ミ”ャ……ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ァァァァア”!!!

 間違えた。どこかで間違えた。
 同じだ。「アイツ」と同じ燃えるような蒼い瞳だ。ダメだ、もう戻れない。いや、今まで気づかない振りをしていただけだ。でも、もうハッキリと分かってしまった!僕は変わってしまったんだ。

———「アイツ」と同じ、サツジンキに!

 亜里沙が異常な鳴き声に身体を起こす。ヤットが、こちらを見ながら後ずさりしている。

「ヤット?どうしたの!?お布団から出てきちゃったのね?ねえヤット?」

 ヤットの様子が明らかにおかしい。黒い毛並みは全身総毛立ち、警戒の色が著しい。その瞳も、今まで見たことも無いような、ギラついた蒼い光を放っていた。

「ヤット!怖いのね!何が怖いの?ママがいるから大丈夫よ!」

 亜里沙がヤットを宥める。しかし、ヤットは更に後退する。そして、風のようなスピードで、窓の方へ駆け出した。

「ヤット!!」

 ヤットは、黒い砲弾となって、一撃の元に窓を破り、暁の色が滲む外界へと駆け出した。亜里沙がそれを追いかけ、窓の外へと飛び出した頃には、既にヤットの姿は消えていた。亜里沙はその場に立ち尽くすしか、術はなかった。

「ヤッ……ト、どうして……?ヤット!ヤットぉぉぉ!!」

 亜里沙の叫びが虚しく響く。悲嘆に暮れる亜里沙の瞳の奥に、蒼い炎の残像が残った。

———空気すら凍る様な寒さが、肌を突き刺す。東の空の夜明けは近い。
最終更新:2020年07月03日 20:41