【1.日常】
深夜0時を廻る前、なお活気づく中華街。
店外の電飾と店内の談笑が煌めくチャイナタウン。
梯子酒を勧める飲んだくれがいれば終電が近いと断る者もいる。
そんな場所に似つかわしくないハットを被ったラウンジスーツ姿の男性が一人。
左手には夕方のにわか雨を凌いだ傘を、右手には通りの店で買ったであろうカップ容器を持っている。
「んー! やはり本場のタピオカティーは一味違う…気がする!」
満足げに口の中のタピオカパールを噛みしめながら革靴を鳴らす。
「最初は店に入るのにも戸惑ったけど一度(女装をして)入ってしまえばなんてことはない」
バッと両腕を広げタピオカティーの容器を掲げる。
「英国紳士がタピってもいいじゃない! おじさんが飲んでもいいじゃない!」
道行く周囲の視線が一点に集まる、が酔っ払いの多いこの時間ではさほど気には留められなかった。
軽く咳をしてハットを深く被り直す。
芦屋くんとの待ち合わせは0時に新宿駅、今日はそこから中野区のほうを見回りに行く予定になっている。
なのでその前に一人楽しくティータイムをしているというわけだ。
現地で女装させられるのを思うとやるせないのだがこの一杯を飲んで今日もがんばろう、『仕事』をしないとお茶代も貰えないし。
最後の一粒を吸い上げカラになった容器をごみ箱へ捨てると駅に向かい歩き出した。
【2.非日常】
中華街の入り口、一段と目立つ装飾が施された門。
そこから少し路地裏へと入った場所に佇む小さなラーメン屋。
"狩り"を終えた少女が一人、ラーメンを啜っていた。
店の中には店主と少女の二人きり、つけっぱなしになっているテレビからニュースが流れる。
内容は連続殺人鬼『ジャック・ザ・リッパー』の容疑者が「また」遺体で発見されたというもの。
「まったく、連続殺人の被害者が出たと思ったらすぐにその犯人が殺されてるって……近頃どうなってんだか」
テレビに向かいぼやく店主をシカトするように少女は箸を置き、席を立つ。
毎度あり、そっけない挨拶をあとに店を出ようとした矢先、独りでにドアが開いた。
「嗚呼、まったくその通りです。ろくに"スコア"も稼げず脱落する『ジャック』がこうも溢れているとはなんとも嘆かわしい」
すっかり肌寒くなったこの時期に不釣り合いな半袖姿のひょろ長い男が少女の前に立ち塞がる。
「今晩は、小柄なお嬢さん。『池袋のジャック・ザ・リッパー』がお迎えに参りました」
ぶるりと身震いした男の両腕に鳥肌が立った瞬間、それは目の粗いヤスリのような刃に変化し少女の頭上へ突き下ろされる。
紙一重のところで躱した少女の代わりに先ほどまで座っていたスチール製の丸椅子がゴリゴリと音を立て削り取られる。
活きの良い獲物に舌なめずりする男の眼光は今までにも多くの人間を屠ってきた殺人鬼のものだった。
向き直るついでにどんぶりへ手を伸ばし驚いた表情のまま立ち尽くす店主の首を削り飛ばす。
「男性は点数が低いので邪魔なだけなのですが、まあいいでしょう。さて本命は……」
店の出入り口に目をやるとそこに少女の姿はなく、替わりにヒーロー然とした姿の人影が銃口を向けていた。
【3.交差】
パーンッ!
祝い事もない中華街に響く爆竹のような音に通行人たちが騒めく。
その音は駅へ向かう途中の英国紳士の耳にも届いていた。
足を止め音のした方角へ振り向くと突如目の前にあった屋台が粉々に砕け散る。
「うわあああぁあ! なんだぁ!?」
驚愕の声とそれを発した人間をもろとも粉砕したドリルのような物体は回転を止めると軽やかに着地する。
『池袋のジャック・ザ・リッパー』を名乗る殺人鬼が両腕を突き出し店舗の壁に大穴を開けながら逃げてきたのだ。
屋台と共に人間が粉々に吹き飛んだのを目撃し逃げ惑う通行人たちを気にもせず走り出す。
「ツイていない、嗚呼、まったくツイていない! 『池袋』の名を獲ってすぐにハズレを引くなんて!」
思わず愚痴が漏れる。魔人と出会うことを避けることで"スコア"を稼いでいた彼にとって少女は避けるべき相手だったからだ。
「へぇ? 『池袋の』は先日殺されているはずだが君も『池袋のジャック・ザ・リッパー』なのかい?」
殺人鬼の足が止まる。周囲に気配はない、だが確かに何者かの声が耳元で聞こえた。
同時に体に痺れるような違和感を受ける。鼻が、舌先が、喉元がチリチリと焼けるように痛みだす。
「貴方は誰ですか? 私に何の用です?」
平静を装いつつ目に見えない何者かに問いかける。
「誰か、との問いには先ほど君にバラバラにされた通りすがりの紳士と答えようか」
「亡霊が私に取り憑いたとでも?」
「まあ、そんなところかな。続いて要件だが、君の言っていた『ジャック・ザ・リッパー』の話を聞かせて欲しい」
「それを話した場合、私にメリットは?」
「特にないね、冥土の土産だと思ってくれていいよ」
チッと舌打ちすると今日は本当にツイていないとぼやきながらも話始める。
彼(池袋)や彼ら(自称ジャック)が行っているのは『東京のジャック・ザ・リッパー』を決めるゲームだという。
東京23区、それぞれの地域で一番"スコア"を稼いでいる者がその地区の『ジャック・ザ・リッパー』となる。
そしてそのトップ23人の中で最も"スコア"が高い者が『東京のジャック・ザ・リッパー』を名乗ることができるそうだ。
「はぁー…どうりで全然いなくならないわけだ」
「私が知っているのはこれくらいです、もうよろしいですか?」
「ああ、ありがとう。では約束通り…その話を土産に持って地獄へ行くといい」
そう言い終わるのが先か、突如殺人鬼の頭が弾け飛んだ。
後頭部から目頭に向けて風穴を開けた男の体は力なくその場に崩れ落ちる。
殺人鬼を射殺したであろう人影は右腕に備えた大型のライフル銃に弾丸を込めると再び銃口を正面に向け第二射を放つ。
その先には慌ててしゃがみ込む英国紳士の姿があった。
「いきなり初対面の人間に銃を撃つとか何を考えているんだ!?」
『いきなり襲い掛かってきた殺人鬼の”中身”が普通の人間なわけがないでしょう』
「失礼な! こんなに紳士的な姿をしているのに」
『殺した人間の口から出てきた靄(もや)が紳士的な姿になっただけでは』
「むっ…そう言われると返す言葉がない。だが自己紹介くらいはさせてほしい! 僕の名前は」
だがここで自分の過ちに気づく。
現世に呼び出された際、本名を明かすことは禁じられている。
しかし自称「池袋のジャック・ザ・リッパー」から出てきた人間が「『元祖』ジャック・ザ・リッパー」と名乗ったところで怪しいことこの上ない。
…ここに「女子高生の恰好をしたおじさん」が加わらなかったことだけは神に感謝しよう。
どうにか場を流そうと考えたが勢いに任せて開いてしまった口はもう止めることができなかった。
「……リッパー」
『……もう少し大きな声で』
「ジャック・ザ・リッパー…です、元祖の」
タタタンッ
足元へ無言のバースト射撃、それをステップを踏むように躱し距離を詰める。
「そういう君は何者なんだい? 特撮番組の怪人みたいな着ぐるみを着て実銃を撃つ人間も十分、普通じゃないぞ?」
返答の代わりに返ってくる弾丸を避けながら言葉を投げかけ間合いを詰める。
銃器を扱った連続殺人鬼の話はすでに聞いている。おそらくアレもその一人なのだろう。
本来なら相手にするべきではない ”外道” ではあるが対峙してしまったのなら致し方ない。
「せめて名前くらいは名乗ってもいいと思うが、どうかな」
『そちらの好きに呼んだらいい、他人の評価に興味はないから』
「そうか、ではそうさせてもらおう」
ゆっくりと両手を後ろに下げ、腰に備えているナイフを握る。
巨大な右腕の下に覗く銃口が英国紳士、ジャックの額を捉える。
「さようなら、無名の殺人鬼(ネームレスキラー)」
先ほどまでの人当たりが良い顔つきが獲物を定めた狩人のものへと変わる。
銃声より早く踏み込んだジャックが「無名の殺人鬼」の喉元へナイフを振りぬく。
上体を反らしかろうじてナイフを避けた相手に対し続け様に斬撃を繰り出していく。
肘、脇腹、膝、装甲の隙間を縫った的確な攻撃を常人の目では追えない速度で繰り出す。
だがそのどれもがすんでのところで躱されるか刃の通らない硬い部位で受け流されてしまう。
右腕で攻撃を受け止めてはその巨大な腕を鈍器のように振り回し、左腕で攻撃を捌いては手に握った拳銃を突きつける。
防御が即、攻撃。攻撃が即、防御。
格闘に銃撃、なぎ倒すことも挟み潰すこともできる巨大な鋏、頑丈な装甲。
武装・身体能力を最大限に利用し、最小の動作で攻防をこなす相手に対する得物はナイフのみ。
「なるほど、さすがに分が悪い……だが」
突き出した鋏がジャックの頭を捉えガチリと音を立てる。
手応えは、無い。鋏を開閉し確かめるが肉片のひとつも見当たらない。
束の間の沈黙、完全に人の気配がなくなった中華街に冬日の冷たい空気が流れる。
『!?……かはっ!』
無名の殺人鬼が強く咳き込むと同時に数度バックステップを繰り返す。
状況を理解するより先に体が動いたのだろうか、初めて見せる回避に専心した行動からは焦りの色が感じ取れた。
【4.異能(まほう)】
何をされたかは定かではない、だが確かに攻撃を受けた。
毒か、あるいは類似した何か。いずれにしても能力者なのは間違いないだろう。
さっきまで立っていた場所に「最初に見た」もやが漂っている。
そう、漂っているだけ。あの状態で行動できるなら今頃は肺を潰されていただろう。
「君のことを普通の人間ではないと評したが訂正しよう、普通でもなければ人間でもないな?」
漂っていたもやが人の形状をなすと紳士服を着た男性の姿へ変化する。
『……その根拠は?』
「構造が違ったのだよ、ヒトには無い呼吸器官も備えているのだろう。咄嗟に吸ったモノをすべて吐き出し、別の器官で酸素を補う…常人では無理な対処法だ」
あの短時間でそこまで把握できるのか、迂闊に近づけるのは避けるべきなのだろう。
『評価を改めてもらったお礼をしないと。先ほど名前を聞きたがっていましたね』
「気変わりした理由は分からないが、礼儀として聞いておこう」
『……魔技忌《マジカ╲╲ジェクト》』
「ふむ? マジカ…独特な発音のようだ」
『聞こえたままに受けてればいい、所詮ヒトには発声できない言語です』
巨大な右腕を引きずりながら相手に歩み寄る、すでに対策は施した。
左手の拳銃を1秒間隔で撃つ。当然、これは当たらない。
相手の間合いに入り攻撃を受ける。完全に避けるのは難しいが受け流すのは容易い。
先ほどより深く踏み込んでくるのはすで形状変化という手札を見せた後だからだろう。
ヘルメットの頬を掠めるようにナイフを躱し、伸びきった腕関節へ左肘を打ち込みそのまま拳銃を突きつける。
引き金を引いた瞬間、相手の姿が見えなくなる。……いや、霧状に変化しうっすらとだが私の視界を覆っている。
ここまで想定通りだ。左半身を大きく後ろへ下げ腰を落とし、もやの中に右腕を突き入れ勢いよく鋏を閉じる。
打ち付け合った鋏から火花が散り、衝撃波が中華店の窓を軋ませ破裂音が闇夜に響く。
目の前を漂っていたもやは文字通り『霧散』した。霧が散り、そこには何も残っていない。
「Brilliant! 素晴らしい! ここまでやりあえる相手に出会えたのはいつ以来だろうか!!」
「原理はわからないがバリアのようなものかな? 呼吸器官を守る対策まで即座にできるなんて本当に素晴らしいの一言に尽きる」
だが彼はそこに立っている。衣服に傷のひとつもつけずに拍手をしながら。
人を人外呼ばわりしたが彼も大概ではないか。
「だからこそとても残念だ、こんな素敵なレディを殺さなくてはいけないなんて」
『性別を教えた覚えはないのだけれど』
「見た目で分からずとも"体"を見れば判断できるさ」
振り向きざまに発砲する、しかし放たれた弾丸は靄を通り抜ける。
「マジカニジェクト、君はとても強い、だがそれ以上に運が悪かった」
今度は左右から声が聞こえる、前方には今も拍手をしている彼がいるのにも関わらず。
つまり周囲には3人のジャックがいることになる。
「日本の冬はよく冷える、特に今日は0度を下回ると天気予報で言っていた」
こちらの周囲をゆっくりと、包囲するように彼が歩みを進める。
「しかも昼から夕方頃にかけて雨が降った、降水確率は30%ほどだったかな」
1つ、2つ、3つ……周囲の足音が増えてゆく。
足元には白い靄が広がっている、いやこれは
「そしてここはモクモクと煙を出す飲食店が特に多い。気温、湿度、土地…様々な条件が揃ってしまったこの瞬間に僕と遭遇してしまった」
霧(きり)、まだ視界が広いとはいえこの中華街の外までは視認することができないほどに広がっている。
彼は自身の体を変化させるだけではなく自然現象さえ利用できるのか。
「ああ、でも己の不運を嘆かないでほしい。これ以上、長引かせるつもりはない、全力をもって君を殺そう」
正面から向かってくるジャックを右腕で振り払う、わずかな手ごたえはそれらが実体だと証明している。
背中に衝撃が走る、いかに頑丈な装甲も無防備な状態で彼に刺されれば安心はできない。
さらに魔技(マギ)による対策にも限度がある。
"魔法"を唱えることで強度を上げたが周囲の空気を触れさせないようにする程度にしかならない。
強い風が吹けば風を受けるように物質が強い指向性を持てば通してしまう。
それはつまり、呼吸が荒くなれば"彼"を吸い込んでしまう危険性が増すということ。
「どうしたのかね、動きが追い付いていないようだが」
『話をしている余裕がないだけです、お構いなく』
カチカチと一定の間隔で鋏を打ち鳴らす。一種のレーダーのようなものだ、霧の中では視力より早く広範囲に反応できる。
だがこの数の前ではどうしても後手に回ってしまう。左の敵を撃てば右の敵に斬られ、後ろの敵を殴れば正面の敵に突かれる。
10箇所の攻撃に対して2箇所は反撃、2箇所は回避、4箇所は受け流す、残りの2箇所は辛うじて致命傷にならないよう受けるしかない。
防御策ではなくより根本的な、状況を変える一手を打つ必要が……
【5.奥の手】
休む隙は与えない、複数の自分自身による一方的な攻撃。
防御は無意味であり攻撃もまた無意味、攻防一体の技術も自然の前では無力でしかない。
それでも体内への侵入を許さない戦いぶりには敬意を表する。
周囲一帯を覆う霧から無限に生み出されるジャック・ザ・リッパーの斬撃を受けいまだに立っていられる女性がいようとは。
しかしそれももう限界だろう、必殺の斬撃を再び首元へ振り抜く。
ついに装甲は切り裂かれ彼女の首にうっすらと赤いラインを引く、それでも諦めることなく放たれる反撃の一射。
撃たれた自分は霧に返り、次の自分が同じ個所へナイフを振るう。
だが刃は届かなかった。突然、背後の中華店が爆発したのだ。
予想だにしていなかった爆風に晒された自分達は霧ごと吹き飛ばされた。
「なにを……しているんだ?」
『店にあるガスボンベ、それとガス管を撃ち抜いた』
おそらく逃げた店員が栓を開けたままにしていたのだろう。しかし
「それは見れば想像できる! 僕が聞きたいのは"なぜこんなことをしたのか"だ!!」
『当然、霧を晴らすため』
「それだけのために…周りの被害を考えなかったのか!?」
霧は先ほどの爆発と火事で発生した上昇気流に巻き上げられすっかり晴れている。
爆発を起こした中華店の周りの店、雑居ビルに火は移り、晴れた夜空に黒煙が巻き上がる。
燃え移った建物で小さな爆発が起こるたびに火の手は広がり警報機の音と人々の悲鳴が響き渡る。
声の主の中にはここに住んでいる人たちもいたはずだ、ぐっすりと寝ていた子供たちも……
「失望したよ、マジカニジェクト。目的のためならば手段を選ばない人間だったか」
『私を人間ではないと言ったのはそちらでしょう』
彼女は冷静にリロードを終えるとこちらに銃口を向ける。
『目的のためならば最良の手段を取る、当然のことです』
動作や口ぶりからは一切の動揺は見られない、まさに当然のことをしたとしか感じていないのだろう。
もはやアレを一秒でも長く生かしておくべきではない、いまここで殺さなければならない。
一気に走り寄り間合いを詰める。
真正面からの銃撃、額を撃ち抜いた衝撃で被っていたハットが宙を舞う。
構わず頭のなくなった体で彼女の顔を鷲掴みにする。
『まさか、当てても死なない!?』
今度は左手の拳銃で頭を掴んでいる腕への銃撃、3発の銃弾が肩に命中する。
「無駄だよ、そもそも当たっていないのだから」
部分的な霧化、少々体力と集中力が必要な方法なので"奥の手"のままにしておきたかったがもはや手段は選んでいられない。
上腕から先だけの状態で彼女を掴んだままもう片方の空いている手を霧化させる。
『ぐっ!?』
膝裏への打撃、ありえない位置から殴られた彼女は地面に膝をつく。
部分霧化、この方法なら人体構造という枷から外れ人間では不可能な攻撃もできる。
そのまま彼女を仰向けに押し倒すと胸の上に馬なりに跨る。
「……とても紳士的ではない野蛮なやり方、どうしても昔を思い出してしまうな」
倒れてもなお反撃を試みようとする彼女の左腕を実体化させた腕で押さえつける。
「密着してしまえばその巨大な右手ではどうにもできまい、あとは君が口を開けば終わりだ」
両足、くるぶしから下の部分を霧化させ右足を喉の上に、左足を胸の上に実体化させ踏みつぶす。
『がっ……はっ……』
「このまま窒息しても構わない、死に方は好きに選ぶといい」
力を込めるほどぎりぎりと音を立てる彼女の喉。
脳裏に浮かぶ霧のロンドン、逃げ回る娼婦たち、今の状況と同じように恐怖にゆがむ彼女たちの顔を見ながら殺していた昔の自分。
忌まわしき残虐な行為……だが同時に胸の奥に蘇る愉悦。
「死してなおこの感覚は消えず…殺人鬼はいつまでも殺人鬼、か」
吐き出す息も無くなり彼女の呼吸音が止まる。次の呼吸で霧化した身体すべてを体内に送り込む。
少量ではダメだ、一切の反撃を許さない、身体の自由を奪い内側から確実に切り刻む。
中華街だったこの場所は火の海と化し、熱気に包まれた二人を炎が赤く照らす。
そして訪れた大きな呼吸、その瞬間ジャックは自身を霧化させる。
マスクに密着させていた腕から馬乗りになっていた胴体、すべてが彼女の口の中に吸い込まれていく。
気管から肺へ、あるいは胃へ飲み込まれるか、どちらでも構わない。
ナイフを握った手を実体化させ喉を、臓器を切り裂く。
『ジャック・ザ・リッパー』の犯行はこれで完結する。
【6.終幕】
『……そう、これで終わり』
「この状況でまだ諦めていないとはな、感心を通り越し呆れるな」
『本当に、まずは自分の状況を把握してはどう?』
彼女の口の中から真っ白な球体が吐き出される。
魂、エクトプラズム…どちらでもない、何かに閉じ込められた"僕自身"だ。
身体のすべてが混ざり、小さく纏められてしまい人の姿に戻ることができない。
このまま無理に実体化をしたらミートボールが出来上がるだろう。
『霧の状態ではモノに触ることができず、漂う程度の速度ではその"膜"から出ることはできない』
「だが君の攻撃も僕には通じない、爆発させようが元に戻る時間が長くなるだけだ」
『だから貴方を攻撃するのではなく、"霧"を完全に消滅させる』
完全に消滅させる? 何を言っているか分からない。
蒸発させたところで無意味なことは爆発を受けた僕を見ていれば理解しているはずだ。
ゆっくりと深呼吸をした彼女は右腕の巨大な鋏を広げる。ギチギチと装甲の中の筋肉が軋む音が聞こえてくる。
『熱を加えると固体は液体に、液体は気体になる。それは知っているでしょう』
開ききった鋏の間に白い球体、霧状の僕を捕らえる。
『では気体をさらに熱したら…エネルギーを加えたらどうなるか』
「……」
『原子レベルに分解され第4の物質、プラズマになる』
馬鹿な、確かに水素などをプラズマ化させる技術はある。
だがそれには大掛かりな設備を用意し、レーザーで何千℃という熱を加えなければならない。
それをどうやって再現しようというのか。
『できるはずがない、そう考えていますね?』
「ああ、できるはずがない」
『人間ならばそうかもしれない……だけど地球上にそれが可能な生物は存在する』
「…いたとして、それが君に可能なのか? この場所で?」
彼女は拳銃をしまい左手を右腕に添えると一言だけ、力強く、まっすぐに言葉を発する。
『できる』
その一言は私の置かれた状況を改めて認識させるのに十分だった。
何者にも傷つけられることがないこの能力が、無敵とも不死身とも言われたこの能力が仇になった瞬間。
絶望、頭によぎる"死"。手も足も出せないまま殺されるのを待つだけ。
声を出すこともできない、圧倒的な恐怖。生前も、こうして蘇った後も味わったことのない感覚が駆け巡る。
これが私のしてきたこと、そしてその報いということか。
『これが最後です。さようなら、ジャック・ザ・リッパー』
『魔技・大気膨縮《マジカニック・エアキャビテーション》!!』
巨大な鋏が閉じられ、球体は一瞬のうちに圧し潰される。
密封された内部の物質が爆縮され2000℃とも4000℃とも言われる高温となり、水分は蒸発し気体は熱エネルギーにより電離、プラズマ化。
1トン級爆弾相当の爆発音と共に放たれる超高熱、衝撃波が燃え盛る中華街を吹き飛ばしていく。
太陽が落ちたのかと錯覚するほどの閃光が収まり爆心地があらわになる。
中華街と呼ばれた場所は瓦礫の山となり生存者はいない。そこにあるのは冬日の闇夜、静寂、ひとつの人影だけ。
*
「あいつ…約束を破って勝手に逝っちまったのか」
新宿駅でジャックを待っていた芦谷道満の手には缶コーヒーと少量の真っ白な砂が握られていた。
本来、手の中にあったのは式札と呼ばれる人形(ヒトガタ)だった、それが突然崩れ去ったのだ。
「破れるでもなく燃えるでもなく、粉粒になるなんてな……いったいどんな死に方をしたのやら」
コーヒーを飲み干すと空き缶をゴミ箱に投げ捨て、ホームではなく駅前のタクシー乗り場へ歩き出す。
殺人鬼を蘇らせ殺人鬼を狩っていたなどと世間に知られる訳にはいかず、なによりそこまでして失敗した彼を警視庁上層部が野放しにするはずもない。
「まぁ、ろくな死に方ができないのはお互い様になるかな」
タクシーを捕まえるとどこかへと走り去っていく。以後、彼の姿を見た者はいない。