この町の朝は、早い。
秋場は、特にそれが顕著だ。
身を切るように冷たく清廉な空気が薄靄のように漂い、まだ太陽も顔を出し渋っている。
朝の鍛錬を終え帰路を走る私の横を、牛乳屋の青年の自転車が走り抜けていく。
「おはようございます、スノリさん」
ああ、おはよう。今日も精が出るな。
「バイトですから」
笑顔と共に通り過ぎる青年に軽く手を振り、そして前を向く。
鍛錬を欠かさないのは、修行中の身としては当然のこと。
ちなみに、さすがに鍛錬中いつものコート姿ではかさばるだけなので、ちゃんと運動に向いた格好をしている。上下で千円のジャージというのもなかなか動きやすいものだ。
健全な精神は健全な肉体に宿る、というのはこの国の言葉だったとおもうが、その内容はこの国だけに限ったものではないというのが師匠の教えである。
もとより私の魔術はその特色上、私自身が強くなければ役に立たないものが多い。
それに、早起きによって得られた関係も少なくない。
「ほら、がんばんなさいよ」
仕込みに忙しい豆腐屋はもうシャッターが上がっており、毎朝の顔見知りである店の老婦人が、私に袋に入ったできたてのおからを手渡してくれる。
いつもすまない。
礼と共に、ビニール袋に入ったまだ温かいそれを受け取る。
たとえば、これも得られた関係のひとつ。
以前極貧からの空腹に絶えかね水路で捕ったモロモロを炙っていたところ、見かねた彼女が譲ってくれるようになったのである。最初は食べられるのかすらいぶかしんだものだが、豊かとはいえない家計の状況にある私にとって、この白いものは貴重なタンパク源のひとつである。
いつも同じ道を散歩している老人と軽い挨拶を交わし、水路にかかった配管の上を渡って近道をする。
やけに大きな八百屋の横を走り抜けると、そこにあるのは小さな商店街。
規模こそ小さいものの、良心的な値段で個性的な品を取り扱う店が多く、西区住民に愛されている場所である。
その店舗のひとつに、素材屋「F」、という店がある。
詳しいところは知らないが、その店は何の加工もされていない食材、特に野菜や果実を専門に取り扱っているらしい。その品質の高さから、霧生ヶ谷にある味にこだわる料理店は必ずと言っていいほどこの店から食材を取り寄せているという。
「ん…?」
いつもなら素通りしてしまう店だが、今日は、自然と足が止まった。
半分だけシャッターの開いた、明らかにまだ準備中というその店先では、二人の女と一人が何かを話している。
性別不明の一人は、店主のF。
曰く、極度の恥ずかしがりのために常にぶかぶかの長袖長ズボン、目深に野球帽を被り、常に筆談で話すため男なのか女なのか、そもそも名前すらもわからない謎の人物。
一人の女は、チョコレート菓子の名店「シュネーケネギン」の店主にしてパティシエ、白瀬雪乃。
そして最後の一人は…
「あっ、おはようスノリさん! 朝の散歩ですか?」
私を発見し手を振る、人当たりのいい笑顔の溌剌とした少女。
外見でそう判断したくなるが、甘く見てはいけない。
こんな容姿ではあるが、彼女、望月
千年世(ちとせ)はこれでも不思議な現象による厄介事の斡旋をするBAR「下弦の月」の、あの老獪な店主の孫娘。そして彼女もまたそこで、バーテン見習いとして仕事を手伝っている身なのだから。
あと、私は鍛錬の帰りだ。
「じゃあ暇なんですね! いやぁ、ちょうどよかったですよ! 毛井さんあたりに頼もうかと思ってましたが、この仕事はあなたにまわすとします!」
勝手に暇と決めつけるな。
…しかし、名高い素材屋Fで私のようなものが呼び出されるとは、一体何の仕事だ?
「それは私とFさんから説明を…あら、最近ちょくちょく顔を見せてくれているヴェランドさんではないですか?」
ああ、そうだ。
そう頷くと、服のすそをちょいちょいFが引っ張った。何事かと思い視線をやると、メモ帳大の便箋に筆ペンで文字が書かれている。達筆な字というらしいが、会話はともかく日本語の読み書きは得意としない私には、ミミズののたくった跡にしか見えない。
『それなら話は早い。早速問題について説明をはじめます』
苦心して読んだ結果、そう書いてあるらしいかった。横でその内容を覗き込んでいる千年世は、にやにやと腹黒い笑みを浮かべている。
「じゃあ、あとはスノリさんがなんとかしてくれますので、私はこれで!」
こらまて! まだ私はまだ請けるとも何も言っていないのに、勝手に話を進めるではない!
「今日の朝八時から待望のアニメ版霧生忍法帖が始まりますから、話は今度にしてくださいねー!」
おい、人の話を…
口を開く間もなく。千年世は毎朝公園で行われている太極拳講習を終え帰る老人達の人ごみに紛れて、見えなくなっていった。
…くそ、明らかに確信犯だな。
何がアニメだというのだ、あれで私と同い年か!?
「…説明始めて構いませんか?」
ああ、構わない。
正直なところ、無理やり押し付けられた仕事だからと突っ撥ねることも考えていたのだが。
『実は、旬真っ只中で要望の多い栗が、収穫した直後に忽然と消えるのです』
「このままでは、栗をベースにした秋のケーキを出せなくなりそうで…」
食材屋に食物屋とくれば、このような食材に関する問題だという予想はつく。
とくれば、シュネーケネギンの、あの素晴らしい甘味を愛する一人として、断るなどという選択肢はありえない。
一通りの説明を受けた私は、神妙に頷き、そして口を開いた。
できれば報酬だが。
そこに、その秋のケーキとやらを加えてもらいたい。
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