転移後、絶対的に不足していた船舶量を補う為、大量の船舶を建造する際に帝國がした、『建造効率の上昇、及び建造資材の節約のため、国家規格を制定する』事。
昭和14年に社団法人船舶改善協会が制定していたが、転移前の制定なので、『帝國旧標準船型規格』と呼ばれ、現在の『帝國標準船型規格』と区別されている。
この『帝國旧標準船型規格』がそのまま採用されなかったのは、転移前の制定のため、現在の状況には合わないということもあるが、それ以上にその不完全さが原因だった。その内容は、主要な要目――寸法や性能等――を定めただけのものに過ぎず、それ以外は各造船所の自由という、極めて緩やかな規格だったのだ。(しかも強制ではなく、あくまで推奨の規格だ)
『帝國標準船型規格』はこれとは異なり、設計図どころか部品――それこそネジ一本に至るまで――厳密に定められた国家規格である。無論、強制である。
帝國の期待を一身に背負った第一次帝國標準船型ではあるが、その期待ほど生産量は伸びなかった。
昭和17年度における船舶生産量は、僅かに55万トン程度で、以前の計画を僅かに上回る程度である。下方修正に下方修正を重ねた、『絶対実現可能』とされた予定の80万トンには遠く及ばなかった。
第一次帝國標準船型自体の原因として、「簡略化の度合いが少ない」、「要求水準の高さ」が挙げられた。
前者は、初めての規格化であり、未だ規格としては不完全ということ。
後者は、第一次帝國標準船型の船舶は、転移前においても『優良船』とされる一流の船舶群――起重機すら装備されている――であり、どうしても建造に時間がかかるということ。
昭和17年2月における『第一次帝國標準船型』
輸送船
| 名称 |
総トン数 |
載貨重量トン数 |
航海速力 |
航続距離 |
追記項目 |
| 1A型 |
6500トン |
10500トン |
12ノット |
8000海里 |
帝國-大陸間輸送 |
| 1B型 |
4500トン |
7400トン |
12ノット |
8000海里 |
帝國-大陸間輸送及び帝國-神州大陸島間輸送 |
| 1C型 |
2700トン |
4500トン |
11ノット |
8000海里 |
帝國-神州大陸島間輸送及び帝國本国・神州大陸島・大陸内での局地輸送 |
| 1D型 |
1900トン |
2900トン |
10ノット |
8000海里 |
重量物運搬船 |
| 1E型 |
800トン |
1300トン |
10ノット |
7000海里 |
|
| 1F型 |
500トン |
800トン |
10ノット |
3600海里 |
国内用 |
| 1K型 |
5200トン |
7400トン |
12ノット |
8000海里 |
鉱石運搬船 |
油槽船
| 名称 |
総トン数 |
載貨重量トン数 |
航海速力 |
航続距離 |
追記項目 |
| 1TL型 |
10000トン |
14000トン |
15ノット |
10000海里 |
艦隊随伴も可 |
| 1TM型 |
5300トン |
7500トン |
12ノット |
8000海里 |
|
| 1TS型 |
1000トン |
1200トン |
10ノット |
3600海里 |
国内用 |
昭和17年後半は危機的状況下に陥り、一向に増えない建造量に業を煮やし、『抜本的な解決策』を唱える者が急増した。具体的には、安全性すら無視した徹底的な工作数の削減と資材節約、囚人労働者の大量投入による工員数確保といった、品質云々以前の案である。幸いにも、流石にここまでの暴論は採用されず――却下ではなく保留ではあるが――、変わりに一層の合理化が図られることになった。
この一環として、昭和17年12月に帝國標準船型が改定される。
第二次帝國標準船型の登場だ。
昭和17年12月における『第二次帝國標準船型』
輸送船
| 名称 |
総トン数 |
載貨重量トン数 |
航海速力 |
航続距離 |
追記項目 |
| 2A型 |
6500トン |
10500トン |
12ノット |
8000海里 |
|
| 2C型 |
2700トン |
4500トン |
11ノット |
8000海里 |
|
| 2D型 |
1900トン |
2900トン |
10ノット |
8000海里 |
|
| 2E型 |
900トン |
1400トン |
8ノット |
3600海里 |
大量生産型 |
| 2K型 |
5200トン |
7400トン |
12ノット |
8000海里 |
鉱石運搬船 |
油槽船
| 名称 |
総トン数 |
載貨重量トン数 |
航海速力 |
航続距離 |
追記項目 |
| 2TL型 |
10000トン |
14000トン |
15ノット |
10000海里 |
艦隊随伴も可 |
| 2TM型 |
5300トン |
7500トン |
12ノット |
8000海里 |
|
| 2TE型 |
900トン |
1400トン |
7ノット以上 |
3600海里 |
大量生産型 |
1C、1D、1K、1TL、1TMの各型は、それぞれ簡略された2型に移行したが、1A/1B型は2A型、1E/1Fの各型は2E型に集約、1TSも2E型の改装型に移行している。
内容に関しては、各型――2Eシリーズを除く――ともに前型を基本としつつも、船体は直線を多用した造りへと変化しており、一部に溶接構造とブロック建造が取り入れられている。また船体強度とは直接関係の無い艦橋及び上部構造物、内装に関しては大幅に簡略化された。
このため工作数を、平均して1型の七~八割程度にまで減少させることに成功している。
これら各型は、2A型も含めて基本的に前型(1型)の簡略型の色合いが濃い。
それに反して、2E/2TEからなる2Eシリーズは、全くの新型であった。
2Eシリーズは、1E/1F/1TSといった中小型船舶の後継として位置付けられてはいたが、その運用・設計思想については全く異なる。1E/1F/1TSが、あくまで局地間輸送か、せいぜい帝國-神州大陸島間での運用を基本としていたのに対し、始めから帝國-大陸間での運用を想定していたのだ。
無論、帝國国内間や帝國-神州大陸島間での運用も行なう。要するに、あらゆる運用をこなす(させられる)とされたのだ。
この決定には、帝國の造船事情がある。
そもそも帝國には、大型の優良船舶の大量生産など、始めから不可能だったのだ。
(これは、大型船舶を建造できるドックと技術者の数が限られていたためである)
事実、昭和17年に生産された1型についても、その大半が1E/1Fといった中小船舶だった。
2Eシリーズの設計上の大きな特徴は、『小工場でも量産できること』『資材と工数を大幅に節約したこと』の二点である。
具体的には――
①ブロック建造方式の全面採用。
②溶接構造の全面採用。(ただし、初期はリベット方式も併用)
③二重底の廃止等、船体強度の低下よりも量産性を優先。
④機関は、航海速力7ノット以上ならばディーゼルでもレシプロでも可。(ただし航続3600海里実現のため、最大燃料搭載可能量を調節)
――である。
『1E型と比べて資材及び工作数が半減』『寿命10年』ということからも、いかに粗悪な船かが分かる。
しかし、帝國には選択の余地は無かった。
こうして、2Eシリーズは大量生産に移されることとなった。
帝國史上初の、『船舶の大量生産』である。
ブロック組み立て方式、流れ作業方式、一流れ量産方式……
全国の造船所で造られた2Eシリーズは、それぞれ独自の量産方式による生産が行なわれることになる。
各造船所は、手探りながらも、2Eシリーズの量産に漕ぎ着けていったのだ。
2Eシリーズは、生産初年度である昭和18年だけで、実に200隻以上が建造された。
結果として、2Eシリーズは、見事帝國のシーレーンを支え続けた。
その評価は高く、後世からも『必要な時、必要な装備を用意できた稀有の例』として賞賛される程だ。中には、『名船』とすら評価するものもいる。
……が、その評価は些か過大過ぎるだろう。
2Eシリーズは、船としては完全な『欠陥船』である。それは間違いない。
ただ、転移という異常事態の影に、それが覆い隠されただけに過ぎないのだ。
平時――当時の帝國は戦時とは必ずしも言い切れなかったが――では有り得ない船、人命よりも生産性を優先した船、それが2Eシリーズの本質だ。
事実、当時遭難や故障、海賊被害といった海難事故にあった船は、その大半がこの2Eシリーズである。
こういった被害をできるだけ防ぐため、数隻での行動を推奨していたが、なかなかそうはいかず、これが一層事故の多発に繋がっていく。
(中には、嵐により船団4隻が全船遭難、その後船員がミイラと化して発見されるという、悲劇的な例すらあった)
帝國は、このような船員達の犠牲の上で、その命脈を保ち続けていたのだ。
しかし、如何に事故が多発しようとも、2Eシリーズの量産は続行され続けた。
当時の帝國が大量生産できる船、それはこの2Eシリーズ位だったからだ。
(政府は、『輸送量から考えれば事故率は少ない』『この程度ならば十分許容範囲』という、数字の上での結論に基づき、2Eシリーズに満足すらしていた)
その証拠に、第三次帝國標準船型以降、各型は大型・高速・長航続化していくが、それでも2Eシリーズは、3Eと名だけ変えて生産され続けることになる。
帝國が2Eシリーズの生産を終了したのは、昭和20年代も後半に入ってからのことである。
最終更新:2006年07月03日 23:57