通州事件

「通州事件」の編集履歴(バックアップ)一覧はこちら

通州事件 - (2005/09/19 (月) 00:48:12) の1つ前との変更点

追加された行は緑色になります。

削除された行は赤色になります。

*通州事件 「通州事件」、又は「通州大虐殺」とも呼ばれる。 「廬溝橋事件」の3週間後に発生した。 「廬溝橋事件」発生後、日本は、現地解決・戦線不拡大方針を表明。国民党軍との間に停戦協定を締結していた。 当時、通州には、「廬溝橋事件」の余波で避難していた婦女子や朝鮮人(当時は日本国籍)を含む日本人居留民、天津特務機関長・細木繁中佐ら軍人等200余人が居住していた。 通州には、日本軍守備隊も駐屯していたが、たまたま、主力が南苑攻撃の為、町を離れ、僅か110名の留守部隊しか残っていなかった所へ、支那保安隊千数百名が襲撃を掛けた。 通州を襲撃した支那保安隊は、多勢にものを言わせて日本軍守備隊を全滅させる。 その勢いにのった日本人居留民をも標的にした。 支那保安隊は、日本人居留民を通州城内に全員集め、城門を閉め、城外へ逃げられない様にして、日本人居留民の住宅一軒々々に火を放ち、女性には暴行を加えた上で局部に丸太を突き刺す等して殺害、子供は両手・両足を切断し、男性には首に縄を巻き付けた上で引き回す等、「残虐」の限りを尽くした。 **この事件の影響 「民間人」への殺戮行為という明らかな国際法違反に、日本の世論は沸騰。 朝日新聞などのメディアもさかんに「支那討つべし」との世論を煽りたてた。 しかし、日本側としては日中間の全面戦争を望んでおらず、むしろ事態収拾のため対応に苦慮していた。 その後、上海租界の日本人居留民を警備・保護する目的で駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して、国民党正規軍10個師団(20万人)もの大兵力を配置して、攻撃を開始(第二次上海事変)。 海軍陸戦隊は、多勢に無勢で苦戦。 「帝國臣民ヲ保護スヘシ」として、上海租界の日本人居留民「保護」を任務としていた海軍陸戦隊は、遂に陸軍に対して派兵を要請。 8月15日、蒋介石が「対日抗戦総動員令」を発令した同日、日本海軍機が南京を空爆し、遂に8年もの長期に及ぶ全面戦争 「支那事変」(日華事変・日中戦争)へと発展していく。
*通州事件 **事件発生までの状況 「廬溝橋事件」発生後、日本は、現地解決・戦線不拡大方針を表明。 国民党軍との間に停戦協定を締結していた。 当時、通州には、「廬溝橋事件」の余波で避難していた婦女子や朝鮮人(当時は日本国籍)を含む日本人居留民が200余人が居住していた。 理由としては現地の軍閥「冀東防共自治政府」の首領が親日派として知られており、また比較的治安が良かったせいでもある。「冀東防共自治政府」はおよそ9千人の「保安隊」を組織。 日本軍はこの保安隊に対し、軍事訓練まで施していた。 **事件の推移 日本軍守備隊主力が南苑攻撃の為、町を離れた隙に事件は発生した。 僅か百数十名ほどのの留守部隊しか残っていなかった所へ、支那保安隊が襲撃を開始。 那保安隊は、多勢にものを言わせて日本軍守備隊を全滅させる。 その勢いにのり、日本人居留民をも標的にした。 支那保安隊は、日本人居留民を通州城内に全員集めた。 城門を閉め、城外へ逃げられない様にした。 また、日本人居留民の住宅一軒々々に火を放った。 女性には暴行を加えた上で局部に丸太を突き刺す等して殺害。 子供は両手・両足を切断し、男性には首に縄を巻き付けた上で引き回した。 **この事件の影響 「民間人」への殺戮行為という明らかな国際法違反に、日本の世論は沸騰。 朝日新聞などのメディアもさかんに「支那討つべし」との世論を煽りたてた。 しかし、日本側としては日中間の全面戦争を望んでおらず、むしろ事態収拾のため対応に苦慮していた。 その後、上海租界の日本人居留民を警備・保護する目的で駐屯していた日本海軍陸戦隊に対して、国民党正規軍10個師団(20万人)もの大兵力を配置して、攻撃を開始(第二次上海事変)。 海軍陸戦隊は、多勢に無勢で苦戦。 「帝國臣民ヲ保護スヘシ」として、上海租界の日本人居留民「保護」を任務としていた海軍陸戦隊は、遂に陸軍に対して派兵を要請。 8月15日、蒋介石が「対日抗戦総動員令」を発令した同日、日本海軍機が南京を空爆し、遂に8年もの長期に及ぶ全面戦争 「支那事変」(日華事変・日中戦争)へと発展していく。

表示オプション

横に並べて表示:
変化行の前後のみ表示:
ツールボックス

下から選んでください:

新しいページを作成する
ヘルプ / FAQ もご覧ください。