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悟る
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悟る 04/03/17
思うのだが、若くない女が道端でうるさく喋っていたら「全くおばはんは・・・」となり、若い女が道端でうるさく喋っていたら「全く女は・・・」となるのであって、この意識の差は何かを示唆している気がするのだ。当然「女」は「男」に読み替えてよいし、「おばはん」は「おっさん」に読み替えてよい。
電車で席取りをする若い女は微笑ましくて若くない女は邪魔と考えたくなるのは何故か。幾ら年を重ねても女という属性は変わらないのだから同じ行動をすることに倫理上の例外は別として特に問題はない。ところがそれを眺める男の頭には歴然とした違いが入力される。
車の運転が下手な若い女の場合、「全くもう。仕方がないな」 車の運転が下手な年増女の場合、「邪魔」
この差は何か。下心が多分に加算されているのは確かなようだが、その分を差し引いたとしても完全に同一の感想が出るようには思えないのだ。これを思えるようになることが性差別解消と言い募る奴が居るかも知れんが、ホモでなければそれは無理というものだ。ホモがおばはんを毛嫌いしないだろうという推測は、ホモの生態がおばはんそっくりに見える気がするところから来ているのだが、もしかすると近親憎悪でホモの方が上の傾向は強い可能性もあるが、そちらの方面はよく知らない。
何が違うのか。人込みで少しぶつかって一瞬後には離れて歩き去るだけの相手には下心の発生する暇がないのであって、ぶつかった瞬間に「あ。すいません」と言いながらもう少し派手にぶつかりたかったと考えるか、「あ。すいません」と言いながら注意して避ければ良かったしかし真っ直ぐ歩けよぼけがと考えるか、ねえ何が何故違うのですか?
電車の差席で眠り凭れ掛かってくる相手に対する感想が相手によって違うのは、相手の違いを明らかにすることで突破口が拓ける可能性もある。
誰もが言いたくて、でも言えないその違いを公言するのは躊躇われる。
さすがに「見た目が違う」とは言えないのであって、しかし言えない以上何かの理由を捻り出さねばならず、ここでようやく「下心」で濁して逃げる形式が確立されている理由を悟る。
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