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年寄
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年寄 03/11/18
若者は馬鹿でよい。
若者がもし馬鹿ではなく利口であったならばあらゆる面に於いて年寄に勝ち目がないことになる。その事に気付いていない年寄は若者並みの馬鹿であるし、気付いているならば若者が年相応の馬鹿であることを微笑みでもって眺めることになる。従って若者に対して「馬鹿ではいけない」と説教する年寄老人は自らの存在価値の立脚点をぐらぐら揺すぶっている事に気付いていないか、あるいは単に唯一勝っている点を誇示すべく稚気から来る優越感を顕にしているに過ぎない。
長く生きただけのことをして尊敬を強要する儒教の思想は、あまりにも年寄に都合が良すぎる。どう考えても役に立たなくなった老ゆる者のあざとい知恵にしか思えないし、第一余裕がなくその日その日が精一杯の暮らしであった地域に残る姥捨ての風習が儒教の虚飾を剥ぎ取っているではないか。
木材の上下の調べ方を年寄に教わり、「やはり老人の経験と知恵は捨ててはならない」とする話も確かにある。しかしその話が誕生するには、年寄を邪魔者扱いする思想があってこそなのだから、この話自体が「老人を大切にせよ」との意をあからさまに込めた年寄の知恵である可能性を否定出来ない。
若者並みの体力を持った年寄が若者にとって畏怖すべき存在である以上、年寄並みの知恵を持つ若者もまた年寄にとっては脅威となるではないか。
あくまで年寄と若者が対立していることを前提にしているが、年寄の説教癖は、年寄に限らず全ての説教は反発以外の何物も生まない。このマガジンが説教と受け取られないことを祈るが、このマガジンは「真顔で与太」が基本方針なのだが、少し不安なのだがとにかく、もし反発せず真剣に説教から何かを学ぼうとする若者ならば、年寄の優位を脅かすことになり、やがてそのまま年寄の敵となるのだ。また、経験とは重なるものではなく、重ねるものであり、ただ漫然と生きただけでは「生きている」以上の意味も価値もない。それは若者とて同じことだ。
年寄は若者に説教する資格はない。また説教するべきではない。年寄は若者に負けないように知恵の限りを尽くして若者を叩きのめせばよいのだ。そこを掻い潜ること程若者の成長に相応しい方法はない。単純に若者が嫌いならばそのまま叩きのめせばよいだけであるし、真剣に「馬鹿ではいけない」と考えるならば、馬鹿ではいけないと説くよりも馬鹿であることを自ずから気付くよう仕向けるために叩きのめせばよいのだ。長い目で見てそれが最も人的資源の豊饒が約束されることにもなる。
体力で勝てないから弁論で勝とうとして言い負かしの技術だけが達者になった生ける屍が「若者の癖に」と口走ってしまうとたちまち「年寄の癖に」と切り返されることになる。
若者相手に憂さ晴らしなどせずに何か尊敬したくなるような事をして見せてくれ。「役に立たないから引退してくれ」と思わせる年寄など必要ないのだ。「昔は儂もそうだった」など若者に媚びずに「引退しないなら殺してやるぞ」と思わせるくらい元気な姿を見せてくれ。
歪な人口構成である日本は高齢化社会への扉が開かれたにも関わらず、壮健の者が中核を担っていた時代の仕組みのままで崩壊への道を歩んでいる。世界が少子高齢化の実験国と位置付けているこの国は、この国の人間にとって失敗が許されないのだ。年寄を磨り減るまで使えばよいではないか。若者は年寄が一線にいることで「上がつかえている」と考えはせずに「こいつら早く往生させてやる」と奮起することが必要になるが、同世代に競争者が少ない若者が年寄を競争相手と見倣すことで生まれるであろう力を、手前は信じたい。
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