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銭湯プロフェッショナル
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銭湯プロフェッショナル 03/05/12
かつて風呂のない文化住宅に住んでいた時、銭湯に通っていた。
最初は洗面器にごちゃごちゃ入れていたが、次第に面倒になってくる。洗面器に入っていたのはケースに入れた石鹸、シャンプー、リンス、力を九十度変えて伝える円筒形の歯車のような櫛。そこからまず櫛を捨て、リンスは禿げるのを恐れて使わなくなり、やがて髪より頭皮を重要視し始めた頃シャンプーも使わなくなる。そうなると洗面器などいらず、銭湯へはタオルと液体石鹸のみの軽量化が完了。これ以上減らせるものはないと信じていたが、あるとき、凄い人を見た。
その銭湯が閉まるのが夜十二時で、大抵十一時半から通っていた。そこに来たのが五十代の小柄なおじさんで、作業着姿。何かの工事を抜けてふらりとやってきたふうに見える。前後して入浴料を払う時に手ぶらだったので不思議に思った。石鹸もシャンプーも買わず、脱衣所に向かう。後から続いて手前も向かう。ほぼ同時に全て脱ぎ終えて彼が持っているのは何故か軍手。
軍手しかも片方だけを持って滑るように湯殿に入ってゆく。やや遅れて入るが彼はいない。「軍手の人消えた」と思いながら洗い場で鏡に液体石鹸をすり込む。タオルを湯に浸してさて、鏡が写るようになったら頭から洗おうとのんびり待っていると、やがて曇りが取れて綺麗に写るようになる。すると鏡の向こうに彼が居た。鏡で左の方に写っているから左後方だ。あの手にもっている石鹸は五十円で買う石鹸だ。使い切ることが不可能な石鹸がいつも必ずどこかに転がっている事を見越して石鹸を買わなかったらしい。そして湯殿に入ってすぐ、姿がなかったのは石鹸を探していたせいだろう。
鏡の向こうで軍手に石鹸を揉み込んでいる。いつもなら頭を下げて髪を洗うが、この時は頭を上げたまま、鏡を見据えて頭皮を引っ掻き回していた。見ていると泡だらけになった軍手をはめた。右手か左手か。鏡の向こうで彼は後ろを向いているから、どちらの手だ。わからないが軍手でまず顔を擦り始めた。開いた手のひらを顔中に這わせ、耳を絞り、やがてもう片方に持っていた拾った石鹸を頭に押し付けてしごく。石鹸を置いて軍手の手と軍手でない方の手で頭をがしゃがしゃと洗い始める。こちらが顔を洗っている間に早くも軍手の手は肩を擦っている。握り拳になっている。握り拳で腕を洗い、腹を洗い、脇腹を洗い、腰の後ろを洗い、足を洗い、ここで軍手を外して再び石鹸を揉み込む。反対の手にはめた。どちらの手かがとても気になっていたので振り返ってみると、今はめたのが左手だ。という事はさっきまでは右手だったようだ。左手にはめた軍手を拳にして右腕を擦る。背中はどうするのかと見ていたら上から後ろに回し、右手で左手の肘を押し下げて背中を洗っている。下に回すと下から肘を押し上げて洗っている。軍手の握り拳というのは不思議なのだが、ほかに数人いる人は気付いていないようだ。あまりにも自然過ぎて軍手だとは気付かないのだろうか。それとも手前が知らないだけで実は常連なのだろうか。こちらは時間の決まった常連のつもりなのに一度も見たことがない人なのだ。
手前の方が先に洗い終わり湯船に向かう。勝った気がする。洗い終えたらしく軍手を絞っている。軍手を裏返して更に絞る。裏返して絞るのは意味があるのかどうか考えたが、よくわからなかった。
もしタオルか手拭があれば使っている筈だ。使っていないからもしかすると湯上りに体を拭くとき、軍手で拭くのかもしれない。その時は軍手を握って拭くのだろうか。軍手を手にはめて拭くのだろうか。気になるではないか。タイミングを合わせてあがるとしよう。
あがる必要はなかった。
銭湯の作法をよくよく知っているらしい。湯殿から出る扉の前で体を拭き始めた。残念ながら軍手を握り締め、何度も絞りながら拭いている。髪の水分を拭き取るのに苦労しているようだ。おそらく脱衣所に出てから洗面台で軍手を洗って固く絞り、服を着て軍手を乾かす為に手にはめて去ってゆくのだろう。上には上がいると思った。
あれほど無駄がなく、流麗で優雅な入り方をその後見た事がない。
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