湿った空気のせいで髭にはいつの間にか細かい水滴が宿っていた。
ゲレゲレは髭を震わせて、その水滴を散らす。
辺りは濃い霧に覆われており、散った水滴は地面には落ちず、密度の高い湿気に溶けていった。毛皮がぐっしょりと濡れている。気持ちが悪い。
ゲレゲレは顔を上げた。濃霧の向こうでも輪郭をぼやかすことなく、くっきりと黒い陰になってそびえている高い塔が目にうつる。もう塔までそう遠くはないようだ。
ゲレゲレの心臓は体の中で痛いほど暴れている。それは駆け足に近い急ぎ足で、ずっと塔への道のりを辿ってきたせいではない。心臓を高鳴らせているものは、不安だった。
ゲレゲレの隣を走るリュカも同じであろう。同じように、不安に胸を焼かれ、祈るような気持ちで、塔へと足を急がせている。仲間モンスターたちの誰よりもリュカと想いを共有しているのは自分であると、ゲレゲレにはわかっていた。
リュカはゲレゲレが特別に大切に思っている人間のうちの一人だ。
そしてもう一人は、あの塔の中に閉じ込められているはずだった。
助けたい。
何としてでも。
――遠い昔、あの少女がゲレゲレを助けてくれたように。
ゲレゲレは髭を震わせて、その水滴を散らす。
辺りは濃い霧に覆われており、散った水滴は地面には落ちず、密度の高い湿気に溶けていった。毛皮がぐっしょりと濡れている。気持ちが悪い。
ゲレゲレは顔を上げた。濃霧の向こうでも輪郭をぼやかすことなく、くっきりと黒い陰になってそびえている高い塔が目にうつる。もう塔までそう遠くはないようだ。
ゲレゲレの心臓は体の中で痛いほど暴れている。それは駆け足に近い急ぎ足で、ずっと塔への道のりを辿ってきたせいではない。心臓を高鳴らせているものは、不安だった。
ゲレゲレの隣を走るリュカも同じであろう。同じように、不安に胸を焼かれ、祈るような気持ちで、塔へと足を急がせている。仲間モンスターたちの誰よりもリュカと想いを共有しているのは自分であると、ゲレゲレにはわかっていた。
リュカはゲレゲレが特別に大切に思っている人間のうちの一人だ。
そしてもう一人は、あの塔の中に閉じ込められているはずだった。
助けたい。
何としてでも。
――遠い昔、あの少女がゲレゲレを助けてくれたように。
太陽に透けて輝く金色の髪が印象的だった。
くるくると表情が変わり、独楽のようによく動く。
ゲレゲレを「子猫ちゃん」と呼んだあの少女は、今思えばどっちが子猫なのかと問い返したくなるような、活発で茶目っ気たっぷりの子供だった。利発そうで愛くるしい瞳が強く印象に残っている。
ゲレゲレを魅了したリュカの瞳が海の深さを持っているのだとしたら、彼女の瞳は空の輝きをもっていた。
事情があって、子供時代にゲレゲレが彼女と過ごせた時間はとても短かったのであるが――彼女は別れ際に、ゲレゲレの主人となったリュカに笑顔でこう言った。
『いつかまた、一緒に冒険しましょうね!』
涙で濡れてはいたが、その瞳は痛いほどのまっすぐさで未来を見つめていた。強く願えば、できないことなど何もないと信じきっているゆえの、子供らしい純粋さだった。その瞳を見て、また自身も子供であったゲレゲレは漠然と予感したものだ。
――ああ、きっとまた、一緒に冒険できる日はくる――
そして、その予感は当たった。
リュカと彼女は十余年を経て運命的な再会をとげ、ともに惹かれあうことになる。そして間もなく、大人になった二人は結ばれた。
くるくると表情が変わり、独楽のようによく動く。
ゲレゲレを「子猫ちゃん」と呼んだあの少女は、今思えばどっちが子猫なのかと問い返したくなるような、活発で茶目っ気たっぷりの子供だった。利発そうで愛くるしい瞳が強く印象に残っている。
ゲレゲレを魅了したリュカの瞳が海の深さを持っているのだとしたら、彼女の瞳は空の輝きをもっていた。
事情があって、子供時代にゲレゲレが彼女と過ごせた時間はとても短かったのであるが――彼女は別れ際に、ゲレゲレの主人となったリュカに笑顔でこう言った。
『いつかまた、一緒に冒険しましょうね!』
涙で濡れてはいたが、その瞳は痛いほどのまっすぐさで未来を見つめていた。強く願えば、できないことなど何もないと信じきっているゆえの、子供らしい純粋さだった。その瞳を見て、また自身も子供であったゲレゲレは漠然と予感したものだ。
――ああ、きっとまた、一緒に冒険できる日はくる――
そして、その予感は当たった。
リュカと彼女は十余年を経て運命的な再会をとげ、ともに惹かれあうことになる。そして間もなく、大人になった二人は結ばれた。
二人の結婚を誰よりも喜んだのは自分であると、密かにゲレゲレは自負していた。この世で一番大切な人間である二人が愛し合い、結ばれ、幸せになる。一体これ以上の幸福があるだろうか。
幸福はさらに続いた。二人の間に子供が生まれたのだ。
その子供たちが男と女の双子だと聞いて、ゲレゲレは心中で微笑ましく思ったものだ。きっと、あの頃のリュカと少女そっくりの子供に育つに違いない。
しかし、――その子供が生まれた晩に、彼女は何者かによって連れ去られた。
パーティに浮かれ、酒の相伴までして中庭で眠っていたゲレゲレを、いつもは冷静で穏やかなリュカが、不安と焦燥に震える声で起こしに来た。
「ゲレゲレ、起きてくれ! ビアンカがさらわれた!」
――そう、少女の名はビアンカと言った。
まだ小さかったゲレゲレを、生まれて初めて優しく抱き上げてくれた人間。
あの腕の温かさを、ゲレゲレは一生忘れない。
幸福はさらに続いた。二人の間に子供が生まれたのだ。
その子供たちが男と女の双子だと聞いて、ゲレゲレは心中で微笑ましく思ったものだ。きっと、あの頃のリュカと少女そっくりの子供に育つに違いない。
しかし、――その子供が生まれた晩に、彼女は何者かによって連れ去られた。
パーティに浮かれ、酒の相伴までして中庭で眠っていたゲレゲレを、いつもは冷静で穏やかなリュカが、不安と焦燥に震える声で起こしに来た。
「ゲレゲレ、起きてくれ! ビアンカがさらわれた!」
――そう、少女の名はビアンカと言った。
まだ小さかったゲレゲレを、生まれて初めて優しく抱き上げてくれた人間。
あの腕の温かさを、ゲレゲレは一生忘れない。
塔の入り口で足を止め、いちど天辺を見据える。
石造りの塔は何をも寄せ付けようとしない厳めしさで、冷たくそびえていた。
この中にビアンカがいる。
呼吸を整えるより前に、ゲレゲレは高く吠えた。
るぅぉぉ……ん、と力強い雄叫びが空気を震わせ、塔の外壁をもビリビリと震わせながら振動となって塔を駆け上っていく。
ビアンカ、ビアンカ。
心配しなくていい、必ず助ける。
石造りの塔は何をも寄せ付けようとしない厳めしさで、冷たくそびえていた。
この中にビアンカがいる。
呼吸を整えるより前に、ゲレゲレは高く吠えた。
るぅぉぉ……ん、と力強い雄叫びが空気を震わせ、塔の外壁をもビリビリと震わせながら振動となって塔を駆け上っていく。
ビアンカ、ビアンカ。
心配しなくていい、必ず助ける。
十年以上も前。
満足なエサも与えられず、棒で叩かれ、冷たい罵声を浴びせられていた、力なかったこの身。
ただ自分を苛む人間たちへの憎しみがあり、単純な野生の怒りだけがあった、あの頃。
「やめなさいよっ、その子がかわいそうでしょう!」
ゲレゲレの尻尾を掴んで引っ張っていた子供たちの間に、ビアンカは果敢にも声をあげて割って入った――その勇敢さ。
「大変だったわね。もう大丈夫よ」
お化け退治から帰ってきたビアンカは、そう言ってゲレゲレを抱き上げた。
そのときのビアンカの笑顔。凛とした声は、雲間から差し込む光のようだった。
満足なエサも与えられず、棒で叩かれ、冷たい罵声を浴びせられていた、力なかったこの身。
ただ自分を苛む人間たちへの憎しみがあり、単純な野生の怒りだけがあった、あの頃。
「やめなさいよっ、その子がかわいそうでしょう!」
ゲレゲレの尻尾を掴んで引っ張っていた子供たちの間に、ビアンカは果敢にも声をあげて割って入った――その勇敢さ。
「大変だったわね。もう大丈夫よ」
お化け退治から帰ってきたビアンカは、そう言ってゲレゲレを抱き上げた。
そのときのビアンカの笑顔。凛とした声は、雲間から差し込む光のようだった。
リュカも知らないことだが、水のリングを手に入れたあとのサラボナへの船旅で、眠れないでいるビアンカが夜の甲板に立ち尽くしていたことがある。
ゲレゲレが側によっていくと、ビアンカはゲレゲレの毛皮を撫で、ついでその鬣に顔を埋めた。
ビアンカは毛皮を撫でる手はやすめないまま、小さな声で呟いた。
「……ゲレゲレ。リュカを守ってあげてね。あの子の旅はきっと大変なものになるわ。わたしはもう、サラボナから先の旅へは、ついてはいけないから――」
ビアンカが顔をうずめている、鬣の辺りが濡れるのがわかった。
ビアンカは声はたてず、ただこぶしを握りしめて、ぐっとわきあがる悲しみをこらえてに泣いていた。
鬣を濡らす熱い涙を受けながら、ゲレゲレはやりきれなさを感じて喉の奥でグルル…と鳴いた。
ビアンカはきっと、昔からこんなふうに涙を流してきたのだろう。誰にも泣いていることを悟られないように、誰かにすがろうともせずに、じっと声を殺して涙を流す泣き方をしてきたのだろう。
意地っ張りな泣き方はビアンカらしかった。子供の頃と変わらないな、と思いながら、ゲレゲレはビアンカの頬をぺろりとなめ、涙を舌で拭った。
ビアンカが声を上げて泣ける場所があるとすれば、それはたった一つ、リュカの腕の中だ。
その場所がビアンカに与えられればいいとゲレゲレは願った。ビアンカの涙は口の中で、苦かった。
ゲレゲレが側によっていくと、ビアンカはゲレゲレの毛皮を撫で、ついでその鬣に顔を埋めた。
ビアンカは毛皮を撫でる手はやすめないまま、小さな声で呟いた。
「……ゲレゲレ。リュカを守ってあげてね。あの子の旅はきっと大変なものになるわ。わたしはもう、サラボナから先の旅へは、ついてはいけないから――」
ビアンカが顔をうずめている、鬣の辺りが濡れるのがわかった。
ビアンカは声はたてず、ただこぶしを握りしめて、ぐっとわきあがる悲しみをこらえてに泣いていた。
鬣を濡らす熱い涙を受けながら、ゲレゲレはやりきれなさを感じて喉の奥でグルル…と鳴いた。
ビアンカはきっと、昔からこんなふうに涙を流してきたのだろう。誰にも泣いていることを悟られないように、誰かにすがろうともせずに、じっと声を殺して涙を流す泣き方をしてきたのだろう。
意地っ張りな泣き方はビアンカらしかった。子供の頃と変わらないな、と思いながら、ゲレゲレはビアンカの頬をぺろりとなめ、涙を舌で拭った。
ビアンカが声を上げて泣ける場所があるとすれば、それはたった一つ、リュカの腕の中だ。
その場所がビアンカに与えられればいいとゲレゲレは願った。ビアンカの涙は口の中で、苦かった。
……ぉおおん…。
ゲレゲレの雄叫びは、ゆっくりと夜闇に溶けて消えていく。
リュカは突然声を上げたゲレゲレを驚いたように見下ろしていたが、やがてうなずき、ゲレゲレの鬣に手をかけた。
「よし、行こう、ゲレゲレ!」
重い音を立てて、扉が開かれる。
ゲレゲレは力強い足取りで塔の中に踏み入った。
ひとり、魔物たちの棲み処に放り込まれたビアンカはあの夜のように泣いているだろうか。――いや、ビアンカのことだ、気丈に魔物たちと渡り合ってるに違いない。そう思えばいっそ小気味いいほどだ。
ゲレゲレは忘れない。
幼い日のあのビアンカの笑顔も、夜の甲板で人知れず流したビアンカの涙も。
覚えている、だからこそ、一刻も早くビアンカを助けてやりたいと心から思った。
早く助けだして、あの笑顔を見たい。そして安心させて、思う存分リュカの腕の中で泣かせてやりたい。
きっとビアンカはゲレゲレよりも、まっさきにリュカを見、リュカにしがみつくだろう。
けれど、それでも構わない。いや、――それでいいのだ。
はるかに遠いあの日から、ゲレゲレが祈り続けてきたのは、何よりもリュカとビアンカ、二人の幸せだったのだから。
ゲレゲレの雄叫びは、ゆっくりと夜闇に溶けて消えていく。
リュカは突然声を上げたゲレゲレを驚いたように見下ろしていたが、やがてうなずき、ゲレゲレの鬣に手をかけた。
「よし、行こう、ゲレゲレ!」
重い音を立てて、扉が開かれる。
ゲレゲレは力強い足取りで塔の中に踏み入った。
ひとり、魔物たちの棲み処に放り込まれたビアンカはあの夜のように泣いているだろうか。――いや、ビアンカのことだ、気丈に魔物たちと渡り合ってるに違いない。そう思えばいっそ小気味いいほどだ。
ゲレゲレは忘れない。
幼い日のあのビアンカの笑顔も、夜の甲板で人知れず流したビアンカの涙も。
覚えている、だからこそ、一刻も早くビアンカを助けてやりたいと心から思った。
早く助けだして、あの笑顔を見たい。そして安心させて、思う存分リュカの腕の中で泣かせてやりたい。
きっとビアンカはゲレゲレよりも、まっさきにリュカを見、リュカにしがみつくだろう。
けれど、それでも構わない。いや、――それでいいのだ。
はるかに遠いあの日から、ゲレゲレが祈り続けてきたのは、何よりもリュカとビアンカ、二人の幸せだったのだから。
――待っていろ、ビアンカ。
ゲレゲレは力強いその四肢で地を蹴り、塔の階段を駆け上がっていった。
ゲレゲレは力強いその四肢で地を蹴り、塔の階段を駆け上がっていった。