彼女が潮風に服をはためかせながら、大きく伸びをしていた。真っ青な空の下で両手を高々と上げて伸びをしている彼女を見て、慣れない船旅に彼女が疲れを感じているのだろうと、僕は船室に戻って果物の一つでも持ってこようと踵を返した。
船内へ目を向けた途端、目の前が一瞬真っ白になった。それは太陽の光に晒された外の景色を見た直後に起こる自然な眩暈。目を瞑ってその眩暈を抑えようとしたら、今度は瞼の裏に先ほどの彼女の姿が映った。一瞬だけ見止めた彼女の姿だと言うのに、まるで現実に目にしているよりも鮮明に映る。瞼の裏にちかちかと蘇る彼女の姿はすらりとしていて、すっかり女性らしくなった体躯など自分ではまったく気にかけることなく、彼女は唸りながら身体を伸ばしていた。目を瞑っている限り、彼女の姿はそのままで、僕は知らずにずっとそのまま立っていたようだった。立ったまま寝てしまったのかとピエールやマーリンに心配されるまで、僕はしばらくの間瞼の裏に残る彼女の残像を見ていた。
「リュカ殿、お疲れでしょう。見張りは我々に任せて、早々にお休みください」
「ううん、僕は大丈夫。疲れてなんかないよ」
彼女の姿を瞼の裏に見ていたとは言えなかった。
「いいや、お主は自分の疲れに鈍感じゃ。今の自分の顔を鏡で見てくるがいい。少しやつれた感さえ見える。食事もあまり取っておらんのじゃろ?」
「誰がそんなこと言ってた?」
「ビアンカ殿が心配しておられました。最近、あなたが食事を残すと」
ピエールの言葉に僕は罪の意識を感じながらも、彼女らしさに苦笑した。彼女は仲間のみんなに平等に気を配っている。スラリンには歯がないから柔らかいものにしなくちゃとじゃが芋をすり下ろしてスープにしたり、船上にいるんだから食べ過ぎは良くないとプックルが恨めしそうに見る肉を適量に減らしたり、色々と注文がうるさいマーリンには彼女の負けず嫌いの血が騒ぐのか、「絶対に美味しいって言ってもらうんだ」と少ない食材であれこれ考えながら美味しい料理を作るのに厨房でしかめ面をしている時もある。みんな仲間は魔物だと言うのに、彼女はそんなことに臆することもなく、むしろその状況を楽しむ雰囲気さえ持ち合わせて仲間のみんなに接している。
そして彼女の頑張りは仲間との距離をすっかり縮めてしまった。プックルはもともと彼女のことを気に入って、再会した時からずっと彼女との距離を確認している。少しでも離れればすぐにそれに気がついて、プックルは表情も変えずに彼女との距離を一定に保つ。スラリンはよく彼女の膝の上で居眠りしているし、ホイミンは毎日厨房で彼女の手伝いをしている。ピエールとは一見どこにも接点がなさそうなのに、頭も切れる彼女は机上に地図を広げてピエールと一緒に海路の進み方について話していたりする。マーリンに魔法の教えを請う彼女は、マーリンのことを師匠と仰いでいる。相手が魔物の容姿をしていても、彼女には何の関係もないようだ。普通の人々は恐がる魔物たちの世話をこなす彼女を見ていると、僕は偉大なお姉さんを持ったのだと誇らしい気持ちになる。しかしその反面、今ではもしかしたら僕以上に頼られているのかもしれないと、少し悔しい気持ちにもなる。
いつだって彼女は僕のお姉さんで、何年も離れていたけど、今でも僕の一番のライバルであることに変わりはないと、そう思っている。
船内へ目を向けた途端、目の前が一瞬真っ白になった。それは太陽の光に晒された外の景色を見た直後に起こる自然な眩暈。目を瞑ってその眩暈を抑えようとしたら、今度は瞼の裏に先ほどの彼女の姿が映った。一瞬だけ見止めた彼女の姿だと言うのに、まるで現実に目にしているよりも鮮明に映る。瞼の裏にちかちかと蘇る彼女の姿はすらりとしていて、すっかり女性らしくなった体躯など自分ではまったく気にかけることなく、彼女は唸りながら身体を伸ばしていた。目を瞑っている限り、彼女の姿はそのままで、僕は知らずにずっとそのまま立っていたようだった。立ったまま寝てしまったのかとピエールやマーリンに心配されるまで、僕はしばらくの間瞼の裏に残る彼女の残像を見ていた。
「リュカ殿、お疲れでしょう。見張りは我々に任せて、早々にお休みください」
「ううん、僕は大丈夫。疲れてなんかないよ」
彼女の姿を瞼の裏に見ていたとは言えなかった。
「いいや、お主は自分の疲れに鈍感じゃ。今の自分の顔を鏡で見てくるがいい。少しやつれた感さえ見える。食事もあまり取っておらんのじゃろ?」
「誰がそんなこと言ってた?」
「ビアンカ殿が心配しておられました。最近、あなたが食事を残すと」
ピエールの言葉に僕は罪の意識を感じながらも、彼女らしさに苦笑した。彼女は仲間のみんなに平等に気を配っている。スラリンには歯がないから柔らかいものにしなくちゃとじゃが芋をすり下ろしてスープにしたり、船上にいるんだから食べ過ぎは良くないとプックルが恨めしそうに見る肉を適量に減らしたり、色々と注文がうるさいマーリンには彼女の負けず嫌いの血が騒ぐのか、「絶対に美味しいって言ってもらうんだ」と少ない食材であれこれ考えながら美味しい料理を作るのに厨房でしかめ面をしている時もある。みんな仲間は魔物だと言うのに、彼女はそんなことに臆することもなく、むしろその状況を楽しむ雰囲気さえ持ち合わせて仲間のみんなに接している。
そして彼女の頑張りは仲間との距離をすっかり縮めてしまった。プックルはもともと彼女のことを気に入って、再会した時からずっと彼女との距離を確認している。少しでも離れればすぐにそれに気がついて、プックルは表情も変えずに彼女との距離を一定に保つ。スラリンはよく彼女の膝の上で居眠りしているし、ホイミンは毎日厨房で彼女の手伝いをしている。ピエールとは一見どこにも接点がなさそうなのに、頭も切れる彼女は机上に地図を広げてピエールと一緒に海路の進み方について話していたりする。マーリンに魔法の教えを請う彼女は、マーリンのことを師匠と仰いでいる。相手が魔物の容姿をしていても、彼女には何の関係もないようだ。普通の人々は恐がる魔物たちの世話をこなす彼女を見ていると、僕は偉大なお姉さんを持ったのだと誇らしい気持ちになる。しかしその反面、今ではもしかしたら僕以上に頼られているのかもしれないと、少し悔しい気持ちにもなる。
いつだって彼女は僕のお姉さんで、何年も離れていたけど、今でも僕の一番のライバルであることに変わりはないと、そう思っている。
船内の床下の食料庫に手を伸ばし、手探りで手ごろな果物を探し出す。もう船旅は帰路の途中で、残りの食料も残りが見えている。すかすかになりつつある食料庫で少ししなびたオレンジを手に取ると、僕はそれを二つ持って再び甲板に出ようと来た道を戻っていった。
真上からの夏の太陽を浴びる彼女の姿は、もう甲板にはなかった。代わりにいたのは暑そうに日差しを避けて日陰で身体を休めているプックルの姿。全身を毛で覆われているのだから暑くないわけがない。プックルは大きな舌を垂らして、忙しない呼吸をしていた。
「プックル、ビアンカはどこか行っちゃった?」
僕がそう問いかけると、プックルは面倒そうに尻尾を上げて、燃えるような赤毛の尾の先で船室の方を指した。さっき僕がいた船室に彼女は行ってしまったとプックルは言うが、僕はここに来るまで彼女とは会わなかった。
「会わなかったよ」
僕の言葉などお構いなしに、プックルは呼吸をするのに忙しい。そして僕が持ってきたオレンジに鼻を近づけると、一応主人の顔を見ながらそれが欲しいという顔をして見せる。ただでさえ船上では食事制限を強いられているプックルのこと、目の前に食べ物があれば何でも食べたくなってしまうのだろう。普段はオレンジになんて目が行かない彼は、僕がそれを差し出した瞬間に喜んで大口を開けた。鋭い牙も一緒に覗くその大きな口にオレンジを放り込んでやると、プックルはまるでそれを飲み込むようにして一気に食べてしまった。潰れたオレンジが辺りに爽やかな匂いを漂わせる。ビアンカに持ってきたオレンジだったが、結局僕とプックルで二つとも食べてしまった。後でそのことに気づいたらまた叱られるかもしれないと思いながら、別にそれでもいいかと目を閉じながらプックルのお腹を枕にしてその場に寝転がった。
日陰から見上げる青空は一段と濃く、白い厚みのある雲がちらほらと空に浮かんでいる。船は徐々に帰路を辿り、あと一日もすれば彼女の村が管理する水門まで戻れるはずだった。順調すぎる航海に僕は半ば不安を覚えたこともあったが、マーリンに「お主は何事も悲観的に捉え過ぎる」と怒られて終わってしまった。あと一日、何もなければ、僕と彼女の再会の旅は終わる。
真上からの夏の太陽を浴びる彼女の姿は、もう甲板にはなかった。代わりにいたのは暑そうに日差しを避けて日陰で身体を休めているプックルの姿。全身を毛で覆われているのだから暑くないわけがない。プックルは大きな舌を垂らして、忙しない呼吸をしていた。
「プックル、ビアンカはどこか行っちゃった?」
僕がそう問いかけると、プックルは面倒そうに尻尾を上げて、燃えるような赤毛の尾の先で船室の方を指した。さっき僕がいた船室に彼女は行ってしまったとプックルは言うが、僕はここに来るまで彼女とは会わなかった。
「会わなかったよ」
僕の言葉などお構いなしに、プックルは呼吸をするのに忙しい。そして僕が持ってきたオレンジに鼻を近づけると、一応主人の顔を見ながらそれが欲しいという顔をして見せる。ただでさえ船上では食事制限を強いられているプックルのこと、目の前に食べ物があれば何でも食べたくなってしまうのだろう。普段はオレンジになんて目が行かない彼は、僕がそれを差し出した瞬間に喜んで大口を開けた。鋭い牙も一緒に覗くその大きな口にオレンジを放り込んでやると、プックルはまるでそれを飲み込むようにして一気に食べてしまった。潰れたオレンジが辺りに爽やかな匂いを漂わせる。ビアンカに持ってきたオレンジだったが、結局僕とプックルで二つとも食べてしまった。後でそのことに気づいたらまた叱られるかもしれないと思いながら、別にそれでもいいかと目を閉じながらプックルのお腹を枕にしてその場に寝転がった。
日陰から見上げる青空は一段と濃く、白い厚みのある雲がちらほらと空に浮かんでいる。船は徐々に帰路を辿り、あと一日もすれば彼女の村が管理する水門まで戻れるはずだった。順調すぎる航海に僕は半ば不安を覚えたこともあったが、マーリンに「お主は何事も悲観的に捉え過ぎる」と怒られて終わってしまった。あと一日、何もなければ、僕と彼女の再会の旅は終わる。
マーリンには悲観的だと怒られたけど、これでも僕はかなり前向きになったと自負している。何せ、僕は結婚をしようとしているのだから。
結婚なんて、それこそ他人事のように思っていた。それを身近に感じたのはつい最近のこと。友人のヘンリーが結婚したのがきっかけで、僕は生まれて初めて結婚というものを考え始めた。ヘンリーは僕と一つしか違わないのに、この世に一人しかいない自分のお嫁さんを見つけ出していた。彼のお嫁さんのマリアは僕も大事に思っていた子で、でも僕はマリアのことを妹のように見ていただけで、彼女を見て結婚という文字が頭に浮かぶことはなかった。
旅の途中、偶然にも古の呪文を復活させた僕は、その呪文を使って友人のいるラインハットへと文字通り飛んで行った。空を飛び上がる瞬間の竦むような感覚と、着地する時の不安定極まりない重力感が苦手なため、今はあまりその呪文を使わなくなってしまったが、その時の僕はきっと焦っていたんだろう。使えるかどうかも分からない呪文を、ルラフェンという町で長年魔法研究に勤しむ老人に言われるがままに使ってしまった。それくらい何も考えず、長年の労苦を共にした友人に会いたかった。今、自分が進んでいる道は間違いなく合っているのだと友人に認めて欲しかったのかも知れない。
久しぶりに会ったヘンリーは姿形こそ別れた時と変わらなかったが、その雰囲気が少し変わっていた。僕に掛ける言葉もざっくばらんで、元気付けるために背中を叩く手の力も相変わらず容赦ない。だけどその行動一つ一つが今までのものと微妙に違っているような気がした。彼らしくない穏やかな雰囲気がそこにあった。
ヘンリーの隣で慎ましやかにしているマリアも、僕との再会を心から喜んでくれた。修道女として一度洗礼を受けたマリアは一歩後ろに下がったような控えめな雰囲気をそのままにしながらも、喜びを隠せない感じで綺麗な微笑を浮かべていた。僕よりも年下で、子供のように思っていた彼女がすっかり女性の雰囲気を纏わせていることに、僕は正直少しショックを受けてしまった。僕だけが置いていかれた感じがした。僕だけがまだ子供のままでいるようで、二人との間に感じたくもない時差を覚えた。
結婚なんて、それこそ他人事のように思っていた。それを身近に感じたのはつい最近のこと。友人のヘンリーが結婚したのがきっかけで、僕は生まれて初めて結婚というものを考え始めた。ヘンリーは僕と一つしか違わないのに、この世に一人しかいない自分のお嫁さんを見つけ出していた。彼のお嫁さんのマリアは僕も大事に思っていた子で、でも僕はマリアのことを妹のように見ていただけで、彼女を見て結婚という文字が頭に浮かぶことはなかった。
旅の途中、偶然にも古の呪文を復活させた僕は、その呪文を使って友人のいるラインハットへと文字通り飛んで行った。空を飛び上がる瞬間の竦むような感覚と、着地する時の不安定極まりない重力感が苦手なため、今はあまりその呪文を使わなくなってしまったが、その時の僕はきっと焦っていたんだろう。使えるかどうかも分からない呪文を、ルラフェンという町で長年魔法研究に勤しむ老人に言われるがままに使ってしまった。それくらい何も考えず、長年の労苦を共にした友人に会いたかった。今、自分が進んでいる道は間違いなく合っているのだと友人に認めて欲しかったのかも知れない。
久しぶりに会ったヘンリーは姿形こそ別れた時と変わらなかったが、その雰囲気が少し変わっていた。僕に掛ける言葉もざっくばらんで、元気付けるために背中を叩く手の力も相変わらず容赦ない。だけどその行動一つ一つが今までのものと微妙に違っているような気がした。彼らしくない穏やかな雰囲気がそこにあった。
ヘンリーの隣で慎ましやかにしているマリアも、僕との再会を心から喜んでくれた。修道女として一度洗礼を受けたマリアは一歩後ろに下がったような控えめな雰囲気をそのままにしながらも、喜びを隠せない感じで綺麗な微笑を浮かべていた。僕よりも年下で、子供のように思っていた彼女がすっかり女性の雰囲気を纏わせていることに、僕は正直少しショックを受けてしまった。僕だけが置いていかれた感じがした。僕だけがまだ子供のままでいるようで、二人との間に感じたくもない時差を覚えた。
その日一日、ラインハットに泊めてもらうことになった僕は、王宮内の一室を案内された。城下町で宿でも取るからと断ろうと思っていたのに、僕はいつでもヘンリーの調子に巻き込まれるようで、いつの間にか僕の宿泊する部屋を用意されていた。
広い部屋に一人ぽつんといると、妙に寂しくなってしまうのは、ルラフェンに仲間たちを置いてけぼりにしてしまったからか、はたまたヘンリーとマリアの恋人のような雰囲気に当てられたのか、王宮の知らない人たちに囲まれているからか、そのどれもが原因だと思った。食事も済ませ、入浴も終え、もう何もすることがない。時間はまだ月が夜空にくっきりと浮かび上がる前で、空はまだ夕方の明るさの余韻をほんのり残している。僕は明かりの灯された広い廊下に出て、ヘンリーたちのいる上階へと足先を向けた。もともと夜遅くまで語ろうと話していたのだから、早めに行っても差し支えはないだろうと、僕は寂しさを紛らすように早足で廊下を歩き出した。
ヘンリーの友人である僕はラインハット城内では有名らしく、廊下を歩く途中、夜の見回りをしている兵士に出会うと、彼はヘンリーたちが中庭に行っていることを教えてくれた。僕はお礼を行って中庭に向かう途中、どうして僕に何も言わずに中庭なんかに行ったんだろうと、子供じみた憤りを感じていた。
中庭に出ると木陰にひっそりと寄り添う二人の姿をすぐに見つけた。遠目にもヘンリーの姿がすぐに分かるのは、共に苦労を乗り越えた友人だからだと、僕は自信を持っていた。ヘンリーとはもう十年以上の付き合いになり、彼と共有した時間は濃縮されたものだ。普通の十年と言う月日では計算できない。一日一日、お互いの生死を確認しなければならないように危うく、不安定な毎日だった。その時間を生きて乗り越えて来たのだから、僕たちの絆は半端なものではないと僕も彼も思っていることは確かだ。
僕は普段の調子で二人に声をかけようと、中庭に一歩を踏み出した。ラインハットが復興してから中庭にも庭師が入るようになり、荒れ放題だった中庭の草は駆り揃えられ、今二人が寄り添う木々にもラインハットが徐々に平和の道へ踏み出していることが感じられる。しかし自分が踏みしめた草の擦れる音が思った以上に大きく、僕は一歩を踏み出した後、その場で立ち止まってしまった。
僕が中庭に来ていることなど、二人は全く気がつかない様子で何やら話をしている。月を見上げながら、肩を寄せて話す二人の後ろ姿に、僕はその場から動けなくなってしまった。シルエットに浮かぶヘンリーの手はマリアの小さな手を取り、初夏を迎えようとしている爽やかな夜風が吹くだけで大して寒くもないのに、互いに身を寄せて、二人にしか聞こえないような小さな声で話をしている。僕のいるところに彼ら二人の会話は聞こえないが、たとえ聞こえなくともその内容は僕など入る余地のないものなのだろう。
ずっと後ろ姿しか見せてくれなかったヘンリーが、ゆっくりとマリアに顔を向け、僕はそんな彼の横顔を見ることになった。月明かりは逆光で、やはりヘンリーの横顔もシルエットになる。表情は分からない。しかし彼がどんな顔をしているのかは何となく想像がつく。彼はきっと今まで僕が見たこともないくらい穏やかな顔をしているのだろう。子供の頃からずっと苦労ばかりしてきた友人は今、人生で最高の時を過ごしていた。彼の幸せにはマリアが必要だった。
少し遅れてマリアもヘンリーを間近に見上げる。彼女もずっと苦労をしてきて、兄を残して自分だけが幸せになることに臆病になっていたけど、彼女はヘンリーの隣にいることを選んだ。兄の望んだ自分の幸せをと、決心を固めた彼女の横顔は見えないけれどやはり想像できる。彼女の幸せにはヘンリーが必要だった。
そんな二人の想いが重なるように、彼らの横顔のシルエットが重なったのを見た時、僕は今までにない感情が胸の内から湧き出すのを感じた。
ヘンリーが幸せになるのは、僕がずっと願っていたこと。
マリアが幸せになってくれれば、僕は彼女のお兄さんがそうするように喜ぶだろう。
彼らを祝福する気持ちに嘘偽りは全くない。
だけど、僕はこの時、僕自身も幸せになりたいだなんて、初めて自分の欲を知った。
広い部屋に一人ぽつんといると、妙に寂しくなってしまうのは、ルラフェンに仲間たちを置いてけぼりにしてしまったからか、はたまたヘンリーとマリアの恋人のような雰囲気に当てられたのか、王宮の知らない人たちに囲まれているからか、そのどれもが原因だと思った。食事も済ませ、入浴も終え、もう何もすることがない。時間はまだ月が夜空にくっきりと浮かび上がる前で、空はまだ夕方の明るさの余韻をほんのり残している。僕は明かりの灯された広い廊下に出て、ヘンリーたちのいる上階へと足先を向けた。もともと夜遅くまで語ろうと話していたのだから、早めに行っても差し支えはないだろうと、僕は寂しさを紛らすように早足で廊下を歩き出した。
ヘンリーの友人である僕はラインハット城内では有名らしく、廊下を歩く途中、夜の見回りをしている兵士に出会うと、彼はヘンリーたちが中庭に行っていることを教えてくれた。僕はお礼を行って中庭に向かう途中、どうして僕に何も言わずに中庭なんかに行ったんだろうと、子供じみた憤りを感じていた。
中庭に出ると木陰にひっそりと寄り添う二人の姿をすぐに見つけた。遠目にもヘンリーの姿がすぐに分かるのは、共に苦労を乗り越えた友人だからだと、僕は自信を持っていた。ヘンリーとはもう十年以上の付き合いになり、彼と共有した時間は濃縮されたものだ。普通の十年と言う月日では計算できない。一日一日、お互いの生死を確認しなければならないように危うく、不安定な毎日だった。その時間を生きて乗り越えて来たのだから、僕たちの絆は半端なものではないと僕も彼も思っていることは確かだ。
僕は普段の調子で二人に声をかけようと、中庭に一歩を踏み出した。ラインハットが復興してから中庭にも庭師が入るようになり、荒れ放題だった中庭の草は駆り揃えられ、今二人が寄り添う木々にもラインハットが徐々に平和の道へ踏み出していることが感じられる。しかし自分が踏みしめた草の擦れる音が思った以上に大きく、僕は一歩を踏み出した後、その場で立ち止まってしまった。
僕が中庭に来ていることなど、二人は全く気がつかない様子で何やら話をしている。月を見上げながら、肩を寄せて話す二人の後ろ姿に、僕はその場から動けなくなってしまった。シルエットに浮かぶヘンリーの手はマリアの小さな手を取り、初夏を迎えようとしている爽やかな夜風が吹くだけで大して寒くもないのに、互いに身を寄せて、二人にしか聞こえないような小さな声で話をしている。僕のいるところに彼ら二人の会話は聞こえないが、たとえ聞こえなくともその内容は僕など入る余地のないものなのだろう。
ずっと後ろ姿しか見せてくれなかったヘンリーが、ゆっくりとマリアに顔を向け、僕はそんな彼の横顔を見ることになった。月明かりは逆光で、やはりヘンリーの横顔もシルエットになる。表情は分からない。しかし彼がどんな顔をしているのかは何となく想像がつく。彼はきっと今まで僕が見たこともないくらい穏やかな顔をしているのだろう。子供の頃からずっと苦労ばかりしてきた友人は今、人生で最高の時を過ごしていた。彼の幸せにはマリアが必要だった。
少し遅れてマリアもヘンリーを間近に見上げる。彼女もずっと苦労をしてきて、兄を残して自分だけが幸せになることに臆病になっていたけど、彼女はヘンリーの隣にいることを選んだ。兄の望んだ自分の幸せをと、決心を固めた彼女の横顔は見えないけれどやはり想像できる。彼女の幸せにはヘンリーが必要だった。
そんな二人の想いが重なるように、彼らの横顔のシルエットが重なったのを見た時、僕は今までにない感情が胸の内から湧き出すのを感じた。
ヘンリーが幸せになるのは、僕がずっと願っていたこと。
マリアが幸せになってくれれば、僕は彼女のお兄さんがそうするように喜ぶだろう。
彼らを祝福する気持ちに嘘偽りは全くない。
だけど、僕はこの時、僕自身も幸せになりたいだなんて、初めて自分の欲を知った。
僕も幸せになりたい。
想いを通じ合わせて、夫婦になるっていうことは、とても綺麗なことなんだ。
ヘンリーとマリアが月明かりの下でキスをしている姿がそれを証明してくれた。
僕の父さんだって何年もかけて母さんを探していた。
それは父さんが母さんを愛しているということ。
僕は父さんの手紙を懐にずっと入れながらも、
そんな父さんの気持ちに追いつくことができずにいる。
想いを通じ合わせて、夫婦になるっていうことは、とても綺麗なことなんだ。
ヘンリーとマリアが月明かりの下でキスをしている姿がそれを証明してくれた。
僕の父さんだって何年もかけて母さんを探していた。
それは父さんが母さんを愛しているということ。
僕は父さんの手紙を懐にずっと入れながらも、
そんな父さんの気持ちに追いつくことができずにいる。
まだまだ父さんに追いつけるわけではないけれど、
僕は自分の幸せを探してもいいですか?
僕は自分の幸せを探してもいいですか?
夢の中に出てきたのは
かの令嬢の伏し目がちで慎ましやかな姿と
冒険に飛び出していく元気一杯の幼馴染の後姿
かの令嬢の伏し目がちで慎ましやかな姿と
冒険に飛び出していく元気一杯の幼馴染の後姿
「起きなさい。風邪引くわよ」
プックルのお腹に左頬を埋めながら眠っていた僕に、聞きなれた声が呼びかける。言い方は少しきついのに、優しさと労わりに満ちた彼女の声。だけど僕はまだ夢の続きが見たくて、身体を丸めてプックルの硬い毛並みの中に顔をうずめた。
「疲れているのは分かるけど、休むんだったらちゃんと自分の部屋に行きなさい」
ビアンカはそう言いながらじっとプックルの脇に立っているようだった。気配で彼女が自分とプックルを見ていることが分かる。少し距離を置いている感覚に、僕はたまらないほどの寂しさを覚える。
滝の洞窟で水のリングを手に入れる前までは、僕がこうして居眠りをしていたら、ビアンカは僕の身体を揺さぶってでも起こしてくれた。それは彼女の優しさで、僕が身体を壊したらいけないと言って、僕が意地でも起きなかったら力づくでも部屋に連れて行くくらいの勢いがあった。それは仲間として、お姉さんとして、僕や魔物の仲間を平等に気遣う彼女らしさで、滝の洞窟を出る前まではごく普通に行われていた彼女の身内的な慈愛だった。
今の彼女は僕から一歩離れたところで、僕の寝入ったふりを距離を置いて見ている。思い出してみれば、滝の洞窟を出て船に戻って以来、僕はビアンカに指一本触れていない。水のリングを手に入れ、ビアンカから「おめでとう」という言葉を聞いてから、僕は彼女の心がまったく分からなくなってしまった。そしてそんな彼女に触れるのが怖いのか、自然に彼女の肩を叩いたり、手を引っ張ったりしていたことも、まるでその方法さえ分からなくなったように彼女に触れることができず、僕の頭はすっかり混乱していた。
何の反応も見せない僕に痺れを切らしたのか、ビアンカはとうとうプックルの脇に腰を下ろした。そんな微かな空気の流れにも僕は身じろぎしてしまう。だけどここで僕が目を覚ましたら、彼女はそれを機にこの場を去ってしまうんじゃないかと、僕はそれが嫌でやはり狸寝入りを決め込んだ。彼女にはもうばれているに違いないのに、彼女はじっと僕が起きるのを待っている。
どうして肩を揺らして起こしてくれないんだろう。
そうしてくれれば僕は安心して起きられるのに。
どうして彼女は僕を放っておいてくれないんだろう。
それは彼女の優しさからなんだろうと、納得しようとして、止めた。
「リュカが風邪を引いたら、仲間のみんなが悲しむでしょう。それにリーダーたるもの、元気でいなくちゃいけないわ。疲れた時はちゃんと休む。これが旅の鉄則だって自慢げに言っていたのは誰? リュカがそれを破ったら、みんなだって気が抜けちゃうわよ」
ビアンカの説教が聞こえる。ビアンカはいつでもみんなのためを思ってこんなお小言をしばしば口にする。そして反論できない仲間はみな、彼女との約束を守って反省をし、次からは怒られないようにと自分の行動に気をつけ、行動を学んでいく。それは彼女が魔物たちを仲間と認めている証で、間違ったことは正していくという彼女の信条を素直に表しているだけのことだった。
彼女の仲間を思う平等さに疑う余地はない。ただ僕もその一人なんだと思うと、それでいいのかと自問してしまうのはどういう訳だろう。彼女の言うことに間違いは一つもないのに、僕は彼女の言っている意味は納得できても、彼女のその気持ちに意味もなく反論したくなってしまう。だけどいつも結局僕が言い包められてしまう。
枕にしていたプックルのお腹が膨らみ、僕の耳元で大口を開けて欠伸をした。吐き出された息と一緒にオレンジの匂いが辺りに漂う。プックルが果物を食べたことに気づいたビアンカはまだ寝た振りをしている僕に問いかける。
「リュカ、プックルにオレンジを食べさせたわね」
やはり僕は怒られるらしい。ビアンカの口調に少しばかり棘が加わる。でも一つくらいいいじゃないか。いくら船上の旅が続いているとは言え、プックルだってお腹を空かせていたんだから、僕は何にも悪いことなんかしていないはずだ。それに元々はそのオレンジは君に食べてもらいたかったんだ。
そんなことを考えながら僕はまだ目を瞑ったままプックルのお腹の毛に顔を半分埋めた。プックルは暑いと言わんばかりに僕を避けようと身をよじったが、僕は半ば強引にプックルのお腹にしがみつくように身体を丸めた。
ビアンカが傍に座りながら、ふっと息を吐き出すのを聞いた。そして僕の頭をぽんぽんと叩いて呆れるような声で言う。
「怒らないわよ、安心しなさい」
プックルのお腹に左頬を埋めながら眠っていた僕に、聞きなれた声が呼びかける。言い方は少しきついのに、優しさと労わりに満ちた彼女の声。だけど僕はまだ夢の続きが見たくて、身体を丸めてプックルの硬い毛並みの中に顔をうずめた。
「疲れているのは分かるけど、休むんだったらちゃんと自分の部屋に行きなさい」
ビアンカはそう言いながらじっとプックルの脇に立っているようだった。気配で彼女が自分とプックルを見ていることが分かる。少し距離を置いている感覚に、僕はたまらないほどの寂しさを覚える。
滝の洞窟で水のリングを手に入れる前までは、僕がこうして居眠りをしていたら、ビアンカは僕の身体を揺さぶってでも起こしてくれた。それは彼女の優しさで、僕が身体を壊したらいけないと言って、僕が意地でも起きなかったら力づくでも部屋に連れて行くくらいの勢いがあった。それは仲間として、お姉さんとして、僕や魔物の仲間を平等に気遣う彼女らしさで、滝の洞窟を出る前まではごく普通に行われていた彼女の身内的な慈愛だった。
今の彼女は僕から一歩離れたところで、僕の寝入ったふりを距離を置いて見ている。思い出してみれば、滝の洞窟を出て船に戻って以来、僕はビアンカに指一本触れていない。水のリングを手に入れ、ビアンカから「おめでとう」という言葉を聞いてから、僕は彼女の心がまったく分からなくなってしまった。そしてそんな彼女に触れるのが怖いのか、自然に彼女の肩を叩いたり、手を引っ張ったりしていたことも、まるでその方法さえ分からなくなったように彼女に触れることができず、僕の頭はすっかり混乱していた。
何の反応も見せない僕に痺れを切らしたのか、ビアンカはとうとうプックルの脇に腰を下ろした。そんな微かな空気の流れにも僕は身じろぎしてしまう。だけどここで僕が目を覚ましたら、彼女はそれを機にこの場を去ってしまうんじゃないかと、僕はそれが嫌でやはり狸寝入りを決め込んだ。彼女にはもうばれているに違いないのに、彼女はじっと僕が起きるのを待っている。
どうして肩を揺らして起こしてくれないんだろう。
そうしてくれれば僕は安心して起きられるのに。
どうして彼女は僕を放っておいてくれないんだろう。
それは彼女の優しさからなんだろうと、納得しようとして、止めた。
「リュカが風邪を引いたら、仲間のみんなが悲しむでしょう。それにリーダーたるもの、元気でいなくちゃいけないわ。疲れた時はちゃんと休む。これが旅の鉄則だって自慢げに言っていたのは誰? リュカがそれを破ったら、みんなだって気が抜けちゃうわよ」
ビアンカの説教が聞こえる。ビアンカはいつでもみんなのためを思ってこんなお小言をしばしば口にする。そして反論できない仲間はみな、彼女との約束を守って反省をし、次からは怒られないようにと自分の行動に気をつけ、行動を学んでいく。それは彼女が魔物たちを仲間と認めている証で、間違ったことは正していくという彼女の信条を素直に表しているだけのことだった。
彼女の仲間を思う平等さに疑う余地はない。ただ僕もその一人なんだと思うと、それでいいのかと自問してしまうのはどういう訳だろう。彼女の言うことに間違いは一つもないのに、僕は彼女の言っている意味は納得できても、彼女のその気持ちに意味もなく反論したくなってしまう。だけどいつも結局僕が言い包められてしまう。
枕にしていたプックルのお腹が膨らみ、僕の耳元で大口を開けて欠伸をした。吐き出された息と一緒にオレンジの匂いが辺りに漂う。プックルが果物を食べたことに気づいたビアンカはまだ寝た振りをしている僕に問いかける。
「リュカ、プックルにオレンジを食べさせたわね」
やはり僕は怒られるらしい。ビアンカの口調に少しばかり棘が加わる。でも一つくらいいいじゃないか。いくら船上の旅が続いているとは言え、プックルだってお腹を空かせていたんだから、僕は何にも悪いことなんかしていないはずだ。それに元々はそのオレンジは君に食べてもらいたかったんだ。
そんなことを考えながら僕はまだ目を瞑ったままプックルのお腹の毛に顔を半分埋めた。プックルは暑いと言わんばかりに僕を避けようと身をよじったが、僕は半ば強引にプックルのお腹にしがみつくように身体を丸めた。
ビアンカが傍に座りながら、ふっと息を吐き出すのを聞いた。そして僕の頭をぽんぽんと叩いて呆れるような声で言う。
「怒らないわよ、安心しなさい」
その声を聞き、久しぶりに触れたビアンカの手の感触に、僕は瞑っていた目をパチリと開けた。
青空だった空は夕焼けに染まり、東の空には一番星が瞬く時間になっていた。僕はそれだけ長い間眠っていたらしい。みんなが口々に疲れていると言ってくれた言葉はあながち嘘ではなかったのかもしれない。旅には慣れているはずで、僕は一体何に疲れていたのかは自分でもよく分からないが、身体は疲れに正直だ。
西からの陽光を背中に浴びるビアンカは逆光で陰になり、彼女の表情は分からない。僕が彼女の顔を見上げた瞬間に、彼女は僕の頭から手をどかして、その手を所在なさげに宙に浮かせた後自分の膝に置いた。
シルエットだけが浮かぶ座る彼女の姿に、僕は夢の中に出てきたヘンリーとマリアのシルエットを思い起こした。幸せそうな友人たち。月の下でお互いが必要だと確かめる二人を、僕は陰になったビアンカを通して考える。表情が見えないビアンカは僕のことを見ているのかいないのか、ただ顔をこちらに向けているのだけは分かる。徐々に目が慣れてくると、彼女がどこか戸惑うような表情で僕をじっと見ているのが分かった。
それを見た途端、僕は身体中を駆け巡る嵐のような不安を感じた。どうにも抵抗し難い不安に、僕はプックルのお腹から頭を起こした。プックルはようやく暑さから解放されたと言うように、夕方の涼しくなった風を浴びようと甲板を歩いていった。
「ビアンカ」
変な体勢で寝ていたのか、少し首が痛い。だけどそんなことはどうでもよくて、僕は彼女の名前を呼ぶと、何も考えられないまま彼女の膝に置かれたままの手を取った。彼女は僕の手を握り返すでもなく、抵抗するでもなく、ただ自分の意思など何もないというようにだらりと僕に手を任せている。
水のリングを手に入れる前までは、彼女の気持ちが見えていたはずだった。いつでもみんなに優しく厳しく、誰一人ひいきすることなどなく、みんなを平等に大事にしてくれる。帰路につき、段々と彼女の心が見えなくなっていくことに不安を覚えたのは、果たして仲間のうちで僕だけだったんだろうか。
そんなの嫌だ。寂しい。僕だけが彼女の気持ちが分からないなんて。
僕は彼女の心を知りたい。
青空だった空は夕焼けに染まり、東の空には一番星が瞬く時間になっていた。僕はそれだけ長い間眠っていたらしい。みんなが口々に疲れていると言ってくれた言葉はあながち嘘ではなかったのかもしれない。旅には慣れているはずで、僕は一体何に疲れていたのかは自分でもよく分からないが、身体は疲れに正直だ。
西からの陽光を背中に浴びるビアンカは逆光で陰になり、彼女の表情は分からない。僕が彼女の顔を見上げた瞬間に、彼女は僕の頭から手をどかして、その手を所在なさげに宙に浮かせた後自分の膝に置いた。
シルエットだけが浮かぶ座る彼女の姿に、僕は夢の中に出てきたヘンリーとマリアのシルエットを思い起こした。幸せそうな友人たち。月の下でお互いが必要だと確かめる二人を、僕は陰になったビアンカを通して考える。表情が見えないビアンカは僕のことを見ているのかいないのか、ただ顔をこちらに向けているのだけは分かる。徐々に目が慣れてくると、彼女がどこか戸惑うような表情で僕をじっと見ているのが分かった。
それを見た途端、僕は身体中を駆け巡る嵐のような不安を感じた。どうにも抵抗し難い不安に、僕はプックルのお腹から頭を起こした。プックルはようやく暑さから解放されたと言うように、夕方の涼しくなった風を浴びようと甲板を歩いていった。
「ビアンカ」
変な体勢で寝ていたのか、少し首が痛い。だけどそんなことはどうでもよくて、僕は彼女の名前を呼ぶと、何も考えられないまま彼女の膝に置かれたままの手を取った。彼女は僕の手を握り返すでもなく、抵抗するでもなく、ただ自分の意思など何もないというようにだらりと僕に手を任せている。
水のリングを手に入れる前までは、彼女の気持ちが見えていたはずだった。いつでもみんなに優しく厳しく、誰一人ひいきすることなどなく、みんなを平等に大事にしてくれる。帰路につき、段々と彼女の心が見えなくなっていくことに不安を覚えたのは、果たして仲間のうちで僕だけだったんだろうか。
そんなの嫌だ。寂しい。僕だけが彼女の気持ちが分からないなんて。
僕は彼女の心を知りたい。
掴んでいた手を引っ張り、僕は彼女を抱き寄せて、キスをした。
そうすれば彼女の気持ちが分かるんじゃないかと思った。
ヘンリーとマリアだって、お互いの気持ちを確かめるのにこうしたんじゃないかとそう思って、ただ僕は分からなくなってしまった彼女の気持ちが知りたくて、そうした。
そうすれば彼女の気持ちが分かるんじゃないかと思った。
ヘンリーとマリアだって、お互いの気持ちを確かめるのにこうしたんじゃないかとそう思って、ただ僕は分からなくなってしまった彼女の気持ちが知りたくて、そうした。
胸を強く押され、身体を引き離された。
その直後に、左頬に強い衝撃が走った。
ビアンカが僕を睨んでいた。
たった今触れた唇を戦慄かせて、彼女は僕の頬を強く張ったのだ。
その直後に、左頬に強い衝撃が走った。
ビアンカが僕を睨んでいた。
たった今触れた唇を戦慄かせて、彼女は僕の頬を強く張ったのだ。
To be continued.