「バカッ!」
ビアンカは明らかに怒っていた。同時に怒っている感情以外のものが見え隠れするのに、それは複雑過ぎて僕には分からない。僕は左頬を押さえながら、頬の痛みよりも唇に触れた温かさを一生懸命思い出そうとしている。彼女に触れた瞬間、僕は間違いなく自分の幸せを一瞬だけ感じたのだ。
「私じゃないでしょ!」
彼女の言葉が飛躍していて分からない。彼女のことを知ろうとしてしたことなのに、僕の頭は余計に混乱をきたして、さらに彼女のことが分からなくなってしまった。彼女にどんな言葉をかけたらいいのかなんて、一つも分からない。
ビアンカもそれ以上の言葉を僕にかけることなく、短く引きつったような息をしたと思ったら、勢い良くその場に立ち上がった。そして何も言わないまま、くるりと背を向けて、船室へと走り去ってしまった。僕はまだ船上に腰を下ろしながら、彼女が走り行く後姿を呆然と見送っていた。
彼女が僕に背を向ける瞬間、夕陽に照らされた彼女の横顔には涙があった。僕には幸せな一瞬だったが、彼女にとっては違かったようだ。彼女との気持ちの違いが僕の心を打ちのめす。彼女の泣き顔が脳裏に焼きつき、僕はそんな彼女の心を読み取ろうとして自分まで泣きそうになった。
いつでもみんなのためにと、船旅でも洞窟探索でも、ビアンカは持ち前の明るさでリーダーシップを取る存在となり、みんなに分け隔てなく接した。魔物の仲間を少しも怖がらない好奇心旺盛な彼女は、小さい頃のままだと思っていた。僕は彼女をお姉さんだと思い込んで、安心して一緒に冒険をした。幼い頃の彼女との約束を果たそうと、僕はビアンカの笑顔につられるように、楽しい思いを共有するのに必死だった。
その彼女との均衡が、今、完全に崩れた。壊したのは僕だ。
彼女はお姉さんじゃない。お姉さんだと思い込んでいた僕の気持ちはきっと間違っていた。
触れた唇の感触に、今更ながらに身体が燃えるように熱くなった。それとは裏腹に、彼女の怒った顔を思い出して、心の内側が冷える感覚を覚える。僕が彼女をどう思っていたのかを考えると、それとは逆に彼女が僕をどう思っているのかが気になり始め、結局何も分からなくなる。同じ疑問が僕の頭の中で堂々巡りを始めるが、その答えを僕はきっと今、知らない方がいい気がする。彼女の心を知りたいと思うのに、その実、知るのはとても怖いことだと思った。
再会してから初めて目にした彼女の怒りの表情に、僕は自分の心が塞ぎこむのを感じた。今思い起こせば、彼女が我を忘れて怒りの感情を露にしたことはない。怒りや悲しみなどの負の感情と彼女を結びつけるものはなかった。いつでも明るく楽しくしている彼女が当たり前だと思っていた。しかしそれは彼女の優しさで、周りとの均衡を保つために必要な優しさだった。もしかしたら彼女の笑顔に彼女の本心はなかったことが多かったのかもしれない。今の彼女の怒った表情が本心だとしたら、彼女は僕を拒絶したことになるのだろう。『私じゃないでしょ!」と言った彼女の言葉にはどんな意味があったのか。言葉は明確なのにその意味が僕には分からない。僕はビアンカをビアンカと思って、そうしたかっただけなのに、僕の気持ちはきっと彼女には伝わっていない。そして彼女の気持ちも僕に伝わらない。
ビアンカは明らかに怒っていた。同時に怒っている感情以外のものが見え隠れするのに、それは複雑過ぎて僕には分からない。僕は左頬を押さえながら、頬の痛みよりも唇に触れた温かさを一生懸命思い出そうとしている。彼女に触れた瞬間、僕は間違いなく自分の幸せを一瞬だけ感じたのだ。
「私じゃないでしょ!」
彼女の言葉が飛躍していて分からない。彼女のことを知ろうとしてしたことなのに、僕の頭は余計に混乱をきたして、さらに彼女のことが分からなくなってしまった。彼女にどんな言葉をかけたらいいのかなんて、一つも分からない。
ビアンカもそれ以上の言葉を僕にかけることなく、短く引きつったような息をしたと思ったら、勢い良くその場に立ち上がった。そして何も言わないまま、くるりと背を向けて、船室へと走り去ってしまった。僕はまだ船上に腰を下ろしながら、彼女が走り行く後姿を呆然と見送っていた。
彼女が僕に背を向ける瞬間、夕陽に照らされた彼女の横顔には涙があった。僕には幸せな一瞬だったが、彼女にとっては違かったようだ。彼女との気持ちの違いが僕の心を打ちのめす。彼女の泣き顔が脳裏に焼きつき、僕はそんな彼女の心を読み取ろうとして自分まで泣きそうになった。
いつでもみんなのためにと、船旅でも洞窟探索でも、ビアンカは持ち前の明るさでリーダーシップを取る存在となり、みんなに分け隔てなく接した。魔物の仲間を少しも怖がらない好奇心旺盛な彼女は、小さい頃のままだと思っていた。僕は彼女をお姉さんだと思い込んで、安心して一緒に冒険をした。幼い頃の彼女との約束を果たそうと、僕はビアンカの笑顔につられるように、楽しい思いを共有するのに必死だった。
その彼女との均衡が、今、完全に崩れた。壊したのは僕だ。
彼女はお姉さんじゃない。お姉さんだと思い込んでいた僕の気持ちはきっと間違っていた。
触れた唇の感触に、今更ながらに身体が燃えるように熱くなった。それとは裏腹に、彼女の怒った顔を思い出して、心の内側が冷える感覚を覚える。僕が彼女をどう思っていたのかを考えると、それとは逆に彼女が僕をどう思っているのかが気になり始め、結局何も分からなくなる。同じ疑問が僕の頭の中で堂々巡りを始めるが、その答えを僕はきっと今、知らない方がいい気がする。彼女の心を知りたいと思うのに、その実、知るのはとても怖いことだと思った。
再会してから初めて目にした彼女の怒りの表情に、僕は自分の心が塞ぎこむのを感じた。今思い起こせば、彼女が我を忘れて怒りの感情を露にしたことはない。怒りや悲しみなどの負の感情と彼女を結びつけるものはなかった。いつでも明るく楽しくしている彼女が当たり前だと思っていた。しかしそれは彼女の優しさで、周りとの均衡を保つために必要な優しさだった。もしかしたら彼女の笑顔に彼女の本心はなかったことが多かったのかもしれない。今の彼女の怒った表情が本心だとしたら、彼女は僕を拒絶したことになるのだろう。『私じゃないでしょ!」と言った彼女の言葉にはどんな意味があったのか。言葉は明確なのにその意味が僕には分からない。僕はビアンカをビアンカと思って、そうしたかっただけなのに、僕の気持ちはきっと彼女には伝わっていない。そして彼女の気持ちも僕に伝わらない。
僕の頬が叩かれた音に気づいていたのか、甲板を歩いていたプックルが僕のところに戻ってきた。僕がゆっくり彼を振り返ると、プックルは我関せずという調子でまた大口を開けて欠伸をした。また辺りにオレンジの匂いが漂う。
プックルは尾の先でばしりと僕の背中を叩くと、また広い甲板を歩いていく。空は紺色に染まり始め、星が瞬く。プックルとのこの距離感は自然なもので、僕はプックルが近くに来ても離れていても、安心していられる。それは信頼で、友情で、たとえ言葉は通じなくてもプックルの思いは僕に伝わってくる。
なのにビアンカの思いは全く分からない。同じ言葉を話すのに、言葉のやり取りだけでは彼女の心が僕に伝わってこない。言葉は様々で、変幻自在に嘘をつくことができるのもまた事実だ。おしゃべりな彼女は僕の十倍くらいの言葉を落とすけれど、そのうちのどれくらいが彼女の本心なのか、今となっては分からない。しかも帰路についてからの彼女はめっきり口数を減らし、更に心を閉ざしてしまったようだった。
夜の海は凪いで、少し欠けた月が海面に滲んで映る。汗をかくくらいに暑かった昼の気候は落ち着き、波の音も太陽の熱を含んだものから月の光を浴びるものへと変化する。
潮風に僕の左頬は冷やされていったが、身体の熱は一向に冷めない。彼女とのキスを忘れることは今後も一生ないだろう。
この夜が過ぎれば、彼女との冒険の終わりはすぐそこまでに迫っている。彼女が村へ戻れば、仲間のみんなもきっと悲しがるだろう。それほどにビアンカは僕たちの一員となっていた。僕もきっとみんなと同じように悲しむのだろう。そう考えたところで、僕は知らず自分の胸に拳を当てて、痛む胸を押さえていた。
「このままお別れなんて、悲しいよな」
言葉は勝手に嘘をつく。頭の中で、心の中で考えていたことが素直に言葉に出せるのは一体どれだけの確率なんだろう。今僕が落とした言葉も、果たしてどこからどこまでが本当のことなのか、僕自身にも自信が持てない。
とにかく僕は彼女を傷つけてしまった。涙を見せた彼女の横顔にはそんな感情が読み取れた。今、彼女は船室に戻って何を考えているのだろう。僕とはもう二度と口を利いてくれないのだろうか。あんなにおしゃべりで活発な彼女から言葉も笑顔も消えてしまうのだろうか。
「謝ろう。僕が悪いんだから」
僕は自分の言葉にどうにか納得すると、ゆっくりと立ち上がった。彼女のために、みんなのために、僕の我侭で仲間の関係を壊したくない。彼女が楽しみにしていた冒険が、彼女の中で楽しい思い出になってくれないと僕だって悲しい。
プックルは尾の先でばしりと僕の背中を叩くと、また広い甲板を歩いていく。空は紺色に染まり始め、星が瞬く。プックルとのこの距離感は自然なもので、僕はプックルが近くに来ても離れていても、安心していられる。それは信頼で、友情で、たとえ言葉は通じなくてもプックルの思いは僕に伝わってくる。
なのにビアンカの思いは全く分からない。同じ言葉を話すのに、言葉のやり取りだけでは彼女の心が僕に伝わってこない。言葉は様々で、変幻自在に嘘をつくことができるのもまた事実だ。おしゃべりな彼女は僕の十倍くらいの言葉を落とすけれど、そのうちのどれくらいが彼女の本心なのか、今となっては分からない。しかも帰路についてからの彼女はめっきり口数を減らし、更に心を閉ざしてしまったようだった。
夜の海は凪いで、少し欠けた月が海面に滲んで映る。汗をかくくらいに暑かった昼の気候は落ち着き、波の音も太陽の熱を含んだものから月の光を浴びるものへと変化する。
潮風に僕の左頬は冷やされていったが、身体の熱は一向に冷めない。彼女とのキスを忘れることは今後も一生ないだろう。
この夜が過ぎれば、彼女との冒険の終わりはすぐそこまでに迫っている。彼女が村へ戻れば、仲間のみんなもきっと悲しがるだろう。それほどにビアンカは僕たちの一員となっていた。僕もきっとみんなと同じように悲しむのだろう。そう考えたところで、僕は知らず自分の胸に拳を当てて、痛む胸を押さえていた。
「このままお別れなんて、悲しいよな」
言葉は勝手に嘘をつく。頭の中で、心の中で考えていたことが素直に言葉に出せるのは一体どれだけの確率なんだろう。今僕が落とした言葉も、果たしてどこからどこまでが本当のことなのか、僕自身にも自信が持てない。
とにかく僕は彼女を傷つけてしまった。涙を見せた彼女の横顔にはそんな感情が読み取れた。今、彼女は船室に戻って何を考えているのだろう。僕とはもう二度と口を利いてくれないのだろうか。あんなにおしゃべりで活発な彼女から言葉も笑顔も消えてしまうのだろうか。
「謝ろう。僕が悪いんだから」
僕は自分の言葉にどうにか納得すると、ゆっくりと立ち上がった。彼女のために、みんなのために、僕の我侭で仲間の関係を壊したくない。彼女が楽しみにしていた冒険が、彼女の中で楽しい思い出になってくれないと僕だって悲しい。
あと一日、彼女との冒険を楽しいもので終わらせなければならない。
それにはきっと、言葉の力が必要だ。
言葉は嘘をついてくれる。それに頼ることが必要だと思った。
あと一日、僕は本心に気づいてはいけない。
僕の幸せも彼女の幸せも、お互い別の道に用意されているのだから。
それにはきっと、言葉の力が必要だ。
言葉は嘘をついてくれる。それに頼ることが必要だと思った。
あと一日、僕は本心に気づいてはいけない。
僕の幸せも彼女の幸せも、お互い別の道に用意されているのだから。
