僕の名前はリゥチン

(投稿者:Cet)



「リゥチン」
「はいお嬢さま、いかがなさいました?」
 少女が少年に話しかける。
 黄色人の少年はエントリヒ語で書かれた子供用おもちゃのパンフレットを手に、絨毯の上に座り込んでいた。広い部屋で、子供専用の応接間といった風情だ。
「あのね、ラシェルのことなんだけど」
 黒檀のように黒い髪をおさげにした少女は言った。名はアリサ、アリサ・ケーニヒ。
「はい」
「あの子ね、君に会いたい喋りたいってきかないの、いいでしょ?」
「全然拒否する理由がありません」
 少年はにこっと笑った、ちょっと少女はときめいたが頭をぶんぶん振る。
「おーけ、じゃあまた今度ね、あと君のお母さんまた体調崩してたみたいだけど」
「はい、また医務室に行っておきます。多分大丈夫とは思いますけど」
「うん、じゃね」
 はい、少年が答えると部屋はまた静かになった。
 再び少年は絨毯に座り込んでパンフレットを熟読し始める、その隣には積み木が散らばっている。

「こ、こんにちは」
 次の日も同じようにして過ごしていた少年の目の前に現れたのは、琥珀色の髪をしたアリサより小柄でゴシック(白地なし)な少女。先日アリサの語っていた。
「お嬢さま、こんにちは。お出しできるものは何一つありませんが」
「いいいです」
 少年は首を傾げる。い、いいです。だろうと結論付けて、隣に座ってはどうかと勧めた。あたふたと少女はぎこちなく座り込む、スカートが空気を吸い込んで膨らんだ。
「積み木だけですが、お嬢さまのお父さまが買ってくださった最高級品だそうですので、どうぞ触れてみて下さい」
「あ、うん」
 そうして少女は邪気のない瞳で積み木へと手を伸ばす。
 不意に少女の髪の匂いが少年の鼻をかすめた。その柔らかな香に、少年は何となく少女を大切にしてあげたい、というような気持ちになった。少女が少年のことを視界の端に放って積み木に熱中し始めたのは幾らか不満でもあった。だけど少女がちらちら遣る視線には気付かない。
「お嬢さま、お上手です」
「あ、ありがと。ヤンシャオもする?」
 少年は再び首を傾げる。何だか自分の名前じゃない何かが聞こえたような気がしたので。
「あの、もう一度僕の名前、呼んでくれます?」
「え」
 少女は顔を赤らめる、何だか少しずれている。
「や、ヤンシャオ」
 何ですそれ。少年は思っても口に出さなかった。

 という訳でその日から少年の名前はヤンシャオになった。アリサも笑いながらヤンシャオと呼んだ、少年の母も、まあそうだったかしらヤンシャオ、とベッドの上から呟くので、少年は早い内から諦観を習得する羽目になった。
 というのも少年の傍にラシェルが付きっ切りでいるようになり、また間違った名で自分を呼び続けるからで、それを遠目から観察していた他の給仕やらが確信犯的に言い合ったり素のまま勘違いしたりなどで広まってしまったのだった。

 少年は溜息を吐くようになった。どうしたものかな、と隣で新しく買って貰ったおままごとセットで遊んでいる少女を見るにつけ何やらやるせない気持ちになる。だからその年頃の男の子に比べて幾らか大人びた、何か面倒なことを熟考するような表情をするようになる。それでいて少女の視線にはほとんど気付かなかった。
「お嬢さま、お上手ですね」
 そう言う度、少女はえへへ、と微笑んで、顔を赤らめ、幾分か緊張した様子で再び手慰みを始めるのである。
 そんなある日のことだ、ヤンシャオもどう? とラシェルがおままごとを勧めてきたのがそもそもの始まりだった。
「はあ、一体どうすればいいのでしょうか」
「えーとね、私がお母さんで、貴方がお父さん」
「とすると子供がいたりするんでしょうか」
 少女は固まった。顔を真っ赤にして。
「い、いるんじゃないかなッ」
 えらく大声で叫ぶのだった。応接間の扉が薄く開いていて、そこからくすくすと笑い声が漏れることもあったが、少年はさして気にしなかった。
「シャオって呼ぶ」
「いいですよ、じゃあ私はお嬢さまって呼びますから」
「な、何で」
 戸惑ったように言うラシェルに、柳青(以下ヤンシャオ)は暫し熟考して。
「お嬢さまは、お嬢さまですから」
「うう」
 何となく不満そうにするラシェルの気持ちを、ヤンシャオは察することができなかった。往々にして女性の気持ちを察することのできない男子は死して当然である。他の給仕達の談である。

 その内、少女が本物の包丁を取り出してくるようになると、ヤンシャオは一層良い父親になることを決意する。曰く。
「良い夫の鉄則、その一。お嫁さんと子供が世界一大事。その二。いつでも優しい。補足、お嫁さんの作った料理をいつも誉めてくれたりする。その三。仕事熱心で職場関係が良好」云々。
 少女の言いつけ通りにすること数十回、少年の演技というものも段々と板についてくるようになる。例えばこんな具合に。
「ただいま、お嬢さま。今日の晩御飯は一体何かな?」
「お帰りなさいシャオ、今日の晩御飯は」
 晩御飯は、と少女は口ごもった。それもそのはず、少女には料理のレパートリーというものが一切存在していないのだ。それを見咎めると少年は愛想良く笑って。
「ん、じゃあ先にお風呂にしようか。子供達はもう寝てる?」
「あ、ハイ。すやすやと、まるで天使のようでしたよ」
「なるほど天使か、違いない。でもお嬢さまだって十分に女神さまだよ」
 すると少女は顔を真っ赤にして、涙を流すのであった。
 しかし少年も変なところで煮え切らないのであった。お嬢さまはないだろう。給仕たちの談である。

 ある日のことである。少年は包丁で刺された。
 何のことはない演技の一環である。おままごとでは時々突飛も無い行動を演じなければいけないらしい。少年の小さな体から溢れる血はひどく鮮やかで、また少年の肌の色はさっと青白くなった。
 その傍で少女は泣いていた。うわーん、ヤンシャオが死んじゃうーっ。冗談みたいな響きが頭の中で反響する。お母さま助けて。
 どたばたと隠れていた給仕たちが走り出す。
 給仕達の間では当然のように情報統制が敷かれた。

 その内ヤンシャオの母親は亡くなってしまうことになるが、別に息子が虐げられるようなことに起因するのではない、単に病弱だったのだ。情報統制は徹底されていた。
 しかしそれによって彼が母親の庇護から抜け出てしまった。アリサが嫁入りしたのもまずかった。ラシェルの父親は十分にそれを憂慮しており、愛される辛さを男として分かっていた。要するに半分くらい分かっていなかった。
 少年は故郷に返されることとなった。でもやっぱり死に掛けたりした。
 結局放逐されたのは、世暦1935年の三月上旬のことであった。


「た、だ、い、まっ」
 薄暗い屋内に明るい声が響き渡る、その家にいた数少ない人間(別の階にいた者を含む)はいっせいに玄関の方を見やる。リゥチンが帰ってきた、叫び声がこだますることで、その住宅に住まっていた有象無象は事実を知るところとなった。
「ただいま、マーおばさんは?」
 少年の言葉に、少なくとも少年より大人びて見える少女は口ごもって。
「今は、李さんのところに用事で出てる。リゥ呼ぼうか?」
「ああ、もう来てる」
 住居の奥からもう一人少年が現れる。
「ただいまリゥ」
「ああお帰り、何かえらく元気になったな、いいことでもあったか?」
「うんっ」
 少年は輝く笑顔で答えた、そうかそうか、弟である柳留(リゥリゥ)は応える。
 どうしてなのか、とは聞かなかった。母のことを話題に出すのも余り意味のないことだし、それに言いたければ自分で言うだろう、リゥリゥはそう思った。


 少年はその後も休みなく奉公に出向かなければいけない事情に置かれていたが、しかしそうはしなかった。何かと体調の不備を訴えるようになったのだ。
 それも徐々に許容されていった。それ以前からリゥリゥが奉公に出ていたことで経済状況は幾らか安定していたし、ヤンシャオの精神状態が明らかに違っていたからだ。
 ある日彼は長方形の格子窓がある灯りの無い部屋にいた、足の長く背もたれのない四脚椅子の上で何やらひもを括っていた。
 独り言を言う。
「まあ僕にとって正直この世に何の未練も無いわけで、そしたら僕がここに留まっている理由もなければついでに言えば留まっていることはむしろ害悪にしかならない訳だから、ああじゃあ僕にとって現実の世界に居ることは全く意味のないことですぐさま旅立つことが唯一絶対に必要なんだ、そうだよねラシェル」
 少年はそう言い終ると、後はひたすらに穏やかな目をして、丁寧に首を輪に通した。

 再見!


最終更新:2009年02月27日 03:51
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