(投稿者:Cet)
執務机に座った男は言った。
「君しかいないんだよ」
その前には左目辺りを耳から頭部にかけて包帯で斜めに覆った士官が直立不動でいる。
「は、ですがしかし自分は見ての通り包帯巻きです。ご家族の方々は不快と思われるかもしれません」
「いや、だから君しかいないんだよ。あの青年には」
そう言いながらキャスターをくるりと回転させ、士官に背を向ける。
「もういい、行き給え。他に断る理由は」
「ありません、失礼致しました」
ぺこりと一礼して踵を返し、足早く退出する。バタン、と比較的静かに扉が閉まる。
将官は窓の外を見つめて、動かない。
何も間違ってはいないのだとアンリは思った。
元より生きて帰れる望みなどなかったのだから。仮に生き残れるとしたら多分人知を超えた何かのはたらきによるに違いない、と。
戦線から程近い町の列車に揺られること数時間で
ベーエルデー連邦に到着し、更にそこから乗り換えること数時間で故郷に達した。帰郷であったが、その足で町の外に出た。
都市部を離れると、寂れた民家が左右に並ぶ赤茶けた道が延々と続く。彼の記憶が正しければ三十分も歩けばその村に辿り着くことができた。一本の道を、無心に歩く。
既に夕刻であり、東から照りつける赤光に目を細める。
ノスタルジーについて考える、つまり帰ってくる場所ということだと考える。どこまで行っても誰かが笑ってくれる場所、そんなものは非現実じみている。しかし確かに実在している。
暫くすると農村地帯に入る、広大な土地が広がる。放牧された家畜達やそれを区切る為に延々と続く柵や、ぽつりぽつりと小屋や民家の並ぶ。決して慣れ親しくはない光景だ。
川沿いの道を幾らか歩いて、そこに辿り着いた。やはりそれほど時間はかからず、その民家の前に佇む一人の少女を見つける。
こっちに気付くと、固まった。あからさまに警戒しているわけでなく、どうやら事実を推し量っているようだ。気付けばこちらへと一歩を踏み出している。
こちらからも歩き出す。相対的に距離を縮め、そして一メートルほどの余裕をもって止まった。
「
アンリ・ジュナール、准尉です。この度はヴィルヘルム君のことで大切なお話に参りました」
少女はしげしげとこちらを眺めていて、どうぞ、と一言いうと踵を返した。背後の民家の扉を開け、バタンと閉める。どうぞも何も他人行儀溢るる行動だ。やれやれと溜息を一つ吐き、一歩を踏み出す。
「お邪魔します」
にか、と笑って扉を開けたものの、そこにいた三人はぼんやりとした表情でこちらを見つめている。ほとんど表情を変えないままに扉を閉めた。一礼する。
「私の名前はアンリ・ジュナール、准尉です。この度はヴィルヘルム君のことで重要なお話があって参りました」
「ああ、エレン、トニー」
こくり、と頷くと両者は彼の傍らを走り抜けて行った。バタン、と比較的大きな音を立てて。
二重の足音が遠ざかっていく。
「死んだのかい」
「は、戦死です」
「そうかい」
ご愁傷様です。
ヴィルヘルムの母親は暫く黙っていた。
「座りなよ」
「は、恐れ入ります」
ざ、と椅子を引く。ひどく緩慢と座る彼女を待って、座る。
「苦しんだのかい」
「いえ、塹壕の中で、私の傍で息を引き取りましたが、そのような様子はありませんでした」
「何か言ってたかい」
「女性の名前を呟いて、寒い、と。それから遺書を」
肩に下げたポーチから一通の封筒を取り出し、机の上に差し出す。それを手に取って暫く眺める。
「いや、今はいいよ、また後でゆっくりと読ませてもらうから」
「は、お詫びを申し上げることも憚られます。というのは建前ですが、もう彼は帰って来ない、それは確かです」
「帰ってきたよ、こういう形だけどね」
はあ、と一つ溜息をついて封筒をくるくると弄ぶ。
「全く馬鹿だよ、ところでアンタ泊まるところは」
「は、ご心配されぬよう」
それから少しだけ長い沈黙があった。
「では、別件に参りたいかと」
「分かってても、どうしてだろうねぇ」
涙が枯れてしまっても。体はそれを覚えているものなのだ。
エーレンハイト家を出て暫く歩くと、先ほどの小川が覗えた。そこにトニー少年は座っており、こちらに気付き振り返る。
「アンタがアンリ」
「そうだよ」
赤光に包まれた少年はどこか神々しい、農村に暮らす一少年という事実をもってしてもだ。兄を喪ったことがそうさせるのかもしれない。あるいは。
「兄ちゃんは何か言ってたかい」
彼はその少年のもとへ歩み寄る理由に思い当たらず、直立不動のまま言う。
「彼は最後に愛する女性の名前を叫んだ、結婚してくれ、と」
「嘘でしょ」
「ああ」
少年がにこりと笑う、そこで境界線が曖昧になったのを機に、青年は少年のほうへと歩み寄る。傍らに腰を降ろした。
「本当はどうなの」
「ん、寒いよ、だった。女性の名前ってのは本当」
「かっこいいじゃん」
「いやどちらかと言うとダサいだろ」
夕日を見つめながらそんな話をする。広大な土地に牧場を据えて、ここの他にもちらほらと小川が覗える。
「そうかな、ところで俺も軍人になりたいんだけど」
「やめといた方がいい、今軍人になると皆死ぬ」
「皆じゃないでしょ」
「皆さ、Gに負けた時は皆々して死ぬことになる。軍人は尚更さ」
お互いに顔を見合う、半ば睨みつけるように。
「敗北主義者」
「そんな言葉、どこで聞いた」
「どこでも、大人はそんな話をよく、たまにしてる」
ベーエルデー連邦は小国にして、最新鋭のメードを多数抱える有数の軍事国家である。それをして敗北などというムードが、今にして漂っている。彼の死もそれに加担したのだろうか。
「まあいいや」
アンリは立ち上がる。コートの尻をパンパンと払うと、少年に背を向けて立ち去ろうとした。
「ちょっと待て」
「何かな、保障の話ならお母様と十分にし合った」
「そういうことじゃなくて、アンタみたいなのには憧れるんだよ」
青年にはその言葉の意味が分からず、立ちすくむ。
「包帯とかさ」
その言葉にしばらく呆気に取られて、ようやく気を取り直す。
「言っとくけど、誰かみたいに手引きはしてやらないぞ、それに君みたいなのは検査で引っかかる。どうしてか、年齢さ。餓鬼はお呼びじゃないんだ」
「幾らでもごまかせるよ、そんなの」
少年は笑った。
「無理さ、君には」
「無理じゃない、それにできるできないじゃなく、やりたいんだよ」
青年は表情を失う。
「頼むからやめてくれよ、またアイツみたいなのに現れてほしくないんだ」
「悪くないよ、そういうのも」
青年には、そこに立っているのがいつかの誰かのように見えてくる。
「死んだら、お終いだろう。皆悲しむぞ」
「兄ちゃんには好きな人がいたんだ、だから、俺にも守るべき人がいる」
帳尻は合うよね。少年の言葉に、答える術を知らなかった。
立ち上がると、暫くの間黙っていた。お互いに言うべきことは何もなかったのだ。
「もう知らねぇからな」
いつか言ったような言葉を吐いて、その場から立ち去った。
「何だよ」
青年は元来た道を辿る、結局あのエレンとか言う少女に話せなかったことが気がかりである。時折話に聞いた通り、美しい娘であったから。
「知らねーよ、そんなの、死にたきゃ勝手に死んじまえ」
エントリヒ陸軍の一派が反メードを掲げて蜂起した、なんて話も聞く。彼らには遠からぬ話である。
喪失感というのが風景を新たにさせる。救ってやれなかったという喪失感は、西日を叙情的に映し出す。それでも生きていかなくちゃならないのなら、歩いていこう。
そんな風に思いなおし、元来た道を歩いていく。
最終更新:2009年03月03日 04:22