(投稿者:店長)
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いよいよ、という段階で迷うのは彼女の気弱なところが原因である。
数回ほど目的の部屋の前で右往左往して見せる様子は何処か滑稽であったが、本人にとっては文字通り死活問題であったため、周囲の目線などに気を配る余裕は皆無だった。
しかしながら時間は永遠に存在しているわけではない。
漸く決意したヒルダが眼前のドアに向かって、軽く拳を握ってもちあげた。
こんこん、と夜分遅くにカイルの部屋と廊下を遮る扉がノックされる。
きちんと、小気味よく3回ほど叩かれた。
「ん?」
この部屋にノックを3回して、かつ無言でやってくるのは彼女しかいない。
部屋で行なってた銃器の手入れの手を休めて、入ってきた本人の愛称を呼ぶ。
「……どうしたんだ、ヒルダ」
一歩一歩、静かに歩いてくるヒルデガルドはまるでその歩みすら大切なもののように惜しんでいるように見えた。
漸く、短い距離のはずのそれをたっぷり十数秒かけて近寄ったヒルダはカイルの顔をじぃっと見つめている。
どうした? とカイルは彼女に正面をむいていぶかしむ。
だが予想できなかったことを彼女がしでかした……。
途端、彼女はいきなりカイルに抱きついたのだ。
彼女の顔がカイルの胸にうずまり、しがみつくように、逃がさないように。
そのしがみつく手から、震えがカイルに伝わる
「っ………!」
一瞬吃驚してから、ドロテーアの事かとカイルは思った。
アレほど惨い死に方をして、自分もああなってしまうことに恐れをなしているのだと。
「……怖いのか?」
そのカイルの気遣いの言葉に、必死に、否定するように顔を振り……その結果、彼女の顔を胸に擦り付ける。
その見上げた顔は、今にも泣きそうな笑顔。
「……別に、怖がることは悪いことじゃないぞ?」
──違う、違うんだよカイル君。私は……。
カイルの言葉に、苦笑し……そっと両手がカイルの頬を包む。
ひんやりとしてて、柔らかい手の感触。
「ヒルダ?……本当にどうしたんだよ?」
その唖然として開いた口に目掛けて……ヒルダは手で引き寄せながら、彼の唇に自分のそれを合わせた。
「んっ………?」
最初は彼女の紅を差していない唇が触れ合う程度だったそれが、次第に彼女から舌をねじ込んでくる。
濃厚で、より親密な、スキンシップを超えた行為。
「ん、んぅ……!?」
しばらく、彼女はその舌先で行なう行為に夢中になるものの……暫くしてからそっと口を離した。
二人の口の間に、銀の橋が一瞬だけ残して。
ヒルダは彼と重ねた唇に指を当てて、その感触に浸っている。
「ん、はぁ……ひ、ヒルダ?」
突然の行為に顔を真っ赤にしてカイルは面食らう。
その隙にヒルデガルドはポケットから取り出した小さな鍵をカイルの胸ポケットに放り込む。
カイルの記憶が正しければ、それは彼女が日ごろつけていた手記の鍵であったはずだった。
同時にその手記は相当大切にしていて、その中身はカイルにも見せたことが無かったはずなのだが……。
「これ……どうしたんだ、ヒルダ。なんかおかしいぞ」
いつものヒルダらしくないその一連の行動に、カイルは混乱する意志を平常にしようと努力に専念せねばならなかった。
彼女はただ、最初に見せたときより、幾分か薄らいだあの悲しい笑みを浮かべるだけ。
この時、もう少し洞察力があればよかったのかもしれない。しかし初心な彼にとって今のは十分に衝撃的なもの。
最後に、カイルの掌を手にとって、指先でその掌に文字を描くように動かす。
──またね。カイル君。
名残惜しげに、それだけ伝えてみせた後に彼女は部屋を後にした。
「あ、おい!」
最後に扉が閉まる直前に見せた彼女が、口の動きだけで何かを伝えたようだった。
そう、カイルにはこういっていたように思えてならない。
実際、彼女はこう声のない言葉で告げた言葉と、一致していたのだ。
──いままで、ありがとう。
「ヒルダ、おい! 待ってくれって!」
それでも、彼女はもう一度扉を開けることも、ノックすることもなかった。
「………なんだよ。お別れなわけでもないのに、縁起でもない……」
その呟きは、自分以外いなくなってしまった部屋に静かに木霊した。
それ以来、ヒルダはカイルの前に現さなかった。
1943年5月23日の晩はこうして過ぎ去っていったのだ。
☆
隣で誰かが私の名前を呼びながら揺すっている。多分先ほどまで一緒にいたディートヒリだと思う。
思う、と断定できないのは、もう自分自身の視覚が霞がかかったようにぼやけているからだ。
胸部に穿たれた致命傷からは、ドクドクと命の証が流れ出ている。おそらくこの場に治療のできる存在がいたとしても死ぬのが先に違いない……ヒルデガルドは自分のことながら他人毎のように考えてた。
──最後にカイル君と会いたかった、かな。
あの時ほど、自分が声を告げれなかったことを怨んだことは無かった。
可能なら、自分の言葉で告げたかった。
──けど……きっとカイル君のことだから。
告げていれば、私を決して行かしてはくれなかっただろう。もしかしたら、同行するといいだしかねない。
私が死ぬことは覚悟をしていた。しかしそれにカイルを巻き込みたくはなかったのだ。
追放だけならいい。……一緒に殺されたりしたならば、死んでも死にきれないから。
──眠たくなってきたなぁ……。
体が冷たくなっていく感覚、意識がこの世からドライアイスの煙のように消えていく。
呼吸すら、次第に煩わしくなっていく。
口に溜まった血液を吐き出すのも、疲れてきた。
──ドロテーア、ベルクさん、ヴュスタス、アストリット……皆、元気そうだね。
いよいよだろう、既に死んだはずの皆がヒルダの隣で立っていた。
無論、ディートヒリには見えていない。これはヒルダがみている幻なのだから。
皆の顔は、いたわるような笑みを浮かべている。
──さようなら、カイル君……私の分まで、生きて……。
1943年5月24日。
ダリウス大隊所属メードであるヒルデガルドは、任務中味方から放たれた弾丸によって胸部を撃たれ大破。
だが彼女が恐れていたとおりその事実は湾曲され、同行していた
ディートリヒに対して責任を追求されることになった。
その報告は、すぐさま大隊にいたカイルの耳に入るのは時間の問題であった。
☆
基地に戻ってきたカイルは、未だにヒルデガルドが戻ってきていないことになにやらよからぬ予感を覚えていた。
先日の突然の行為があってから、何かあったことは明らかだ。
彼女は言葉をしゃべることが出来ない。なにか悩みでもあったのではないだろうか……。
彼の足は自然と隊長のいる処に向かっていた。
大隊隊長であるダリウスは、彼をみるや鉛のように重く深いため息をついた。
「隊長。ヒルダは、ヒルデガルドは……」
ダリウスは黙ったまま、一枚の書類を近くにあったテーブルに載せた。
実に簡素な、数行しか書かれていない書類。
それは、ヒルデガルドが戦場で大破したという旨を機械的に伝える報告書であった。
「……エイプリルフールにしては時期外れですよ?」
「事実だ」
「……」
カイルの顔から、表情が一瞬にして失せる。
ダリウスからディートリヒからの報告を告げる言葉が聞こえては来るものの、カイルには一切耳に入ってこなかった。
──ヒルダが、死んだ!? 何故だ!
握り締めた拳が軋む。
確認の為に手に取った報告書がぐしゃりと握りつぶされてシワクシャになってることを意に返さない。
茫然自失しているカイルに対し、ダリウスは先日預かっていたものを彼に渡すべく取り出した。
「──カイル・シュテンバッフェ中尉。ヒルデガルドから預かっているものがある」
「え……」
それは、見覚えがあるもの。
鍵だけもらっていた、
ヒルデガルドの手記。
肝心の手記のほうには、鍵が掛けられていた。
「……ヒルダ」
ダリウスから受け取ったその手記を抱きしめながら、彼はその場に崩れ落ち。
床に水滴がいくつも落下して濡らしていく。
☆
押したら吹き飛んでしまいそうな歩みで部屋に戻ったカイルは、受け取った鍵を用いて手記の鍵を開ける。
内容を流し読みしていく内に、彼女が抱いていた感情がありありとカイルに伝わっていく。
普段しゃべれないヒルデガルドは、この手記の中ではその分沢山本音が書かれていて……。
「そっか……普段、そんなこと思ってたんだな……」
ヒルダはどれだけカイルのことを慕っていたのだろう。
ヒルダはどれだけカイルのことを心配してただろう。
そして……。いよいよ、日付は先日になっている内容にたどり着いた。
『私はおそらく、この手記をカイル君が見ている時にはこの世にはいないと思います。
けど、カイル君。私は……私の分まで、カイル君は生きて欲しいと願います。
──カイル君。私は……貴方を愛していました。
そして、いままで……ありがとう』
「馬っ鹿………馬鹿やろ………言えよ…なんでもいいから、伝えてくれれば……俺、もっと……!!」
あのヒルダがいきなりキスをした晩。
あれば最後の別れの挨拶だったんではないか。
あの悲しそうな笑みは、自分がもうすぐ死ぬことを予感してからではないか。
あの時、あの意図に気づいていれば。
あの時、無理やりにでも引き止めて置いていれば──ヒルダは、死ぬことはなかったんではないか?
そもそも、ヒルダは何をした? 何故殺されなければならない?
後悔は止め処なくあふれ出て、感情という容量を容易に超えて涙腺から漏れ出た。
雫が、手記のページへと落下していく。
『カイル君のことだから、きっと憤慨しているでしょう。
けれど、私は貴方に、私という存在がいたことを覚えてて欲しかった。
これはきっと、優しいカイル君にとって呪いになってしまうと思います。
それでも、この思いは伝えたかった。
日々育っていく私の心に芽生えた、愛と呼ばれる感情を』
──ああ、忘れられるかよ馬鹿。こんなに俺のことを慕ってくれたんだから。
忘れられるわけ、ないじゃないかよ……。
なぁ……。
『最後に、もう一度だけ言わせてもららいます。
いままで、ありがとう……私に、愛を教えてくれて。
さようなら、私の愛しい人』
「っ、ヒ、ルダ……っ、くっそ……くっそおおおおおおおおおおおおおお!!!」
己の無力の不甲斐なさ、そして彼女の思いに答えられなかった、答えることが出来なくなった青年の無念の咆哮が。
暖かくなった筈の部屋に、震えを齎していた。
あの夜より失われてしまった。彼女のあの温もりはもうない。
☆
カイル・シュテンバッフェ元中尉。
彼はヒルデガルドの教育に失敗し、損失させた原因を生んだ人物として軍部より指摘を受け、軍から追い払われることになる。
しかしそれは彼女の、ヒルデガルドの手記の存在が知られる前に国外へ逃亡するためにダリウスらが考えた手であった。
ヒルデガルドの手記に刻まれたその内容の真偽はとにかく、そのような”危険思想”を見逃す彼らではないのだから。
無実の罪を着せられ、それを理由に極刑に処される可能性も、もう疑う余地はない。
実際に、そのようにしてヒルデガルドが死んだ。
「カイル……」
「アシュレイ……ヒルダを殺した闇に気をつけろ」
「……カイル?」
「俺が言えることはそれだけだ……俺みたいになるなよ? じゃあな」
ただ一人だけ見送りに来れたアシュレイと、列車の窓経由で言葉を交わしたカイル。
続きを聞こうと思っても、既に列車は加速を始めていた。
──そうだ、俺みたいじゃなく……守れよ。大事なヤツを。
「……ヒルダ。俺は……」
ぎゅっと、彼女の忘れ形見となったその手記を胸に。
彼はエントリヒの地より、いなくなった。
彼女の手記(おもい)を伴って。
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最終更新:2009年03月18日 08:16