(投稿者:怨是)
「気づかされちまったよ、今」
今日は人生最悪のたんじょうび。
アシュレイ・ゼクスフォルトはろうやのなかで、ひとりつぶやきました。
もうすぐ10月が終わろうとしています。
まどのすきまから、つめたい風がふきこんできていました。
『そこまでだ! 下賎の者ども!』
拮抗状態は、突如として天空から打ち込まれた声に、叩き割られる。
エディの後ろから、若い男の声が高らかに響く。何と朗らかな声か。
『とぅ!』
長身の男がふわりと黒いコートと金の長髪をたなびかせ、サーベルを片手にエディの眼前へと舞い降りてきた。
何と、鮮やかな登場か。低くはないであろう場所から如何様にして飛び降りてきたのか。
チンピラ連中はずっとこちら側に視線を固まらせ、呆気に取られている。そこに次なる言葉を突き刺すべく、男が口を開く。
『貴様らのような害虫が……この世の心を腐らせるッ!
貴様らのような害虫が……この世の光を奪い取るッ! 成敗してくれようぞ! 覚悟はいいか!』
全てゼクスフォルトが自分で名乗っていただけだった。
チンピラたちが口々に叫んでいたのは、ゼクスフォルトへ投げかけていた言葉だ。
脳裏を回転させる。
そうだ。確か「きちがいめ!」と叫んでいた。
確かに銃を持った男が突然、気の狂ったような事を云い出したのだから。
いつ撃ち殺されてもおかしくないのなら、その前にさっさと逃げてしまうのが道理である。
何という事か。ベーエルデーでのあの出来事で、雨が上がってその手に掴んだものは、狂気の入り口の鍵であったのだ。
……――。
『あんた、旅を始めてからどれくらい?』
『そうだな……私は五ヶ月くらいだったかな。去年の11月は寒かった』
『奇遇だな。俺も同じくらいなんだ』
話を望めばこちらに応じ、沈黙を望めば気配さえ消えそうなほどに黙る。
ただの沈黙は孤独であるが、お互いの了承の元に、お互いの信頼関係の元に生じた沈黙は決して孤独ではない。
そこに存在する沈黙は、まるで密接に絡み合う指と指のようであり、無意識の呼吸である。
ガンショップで銃の手入れをしている時も、彼はその悠々とした笑顔を止める事はなかった。
クロッセル連合王国は同じ大陸の地続きとなっているだけあって、やはり部品の相互調達はできているようだ。
元々地続きの隣国という事もあるが、エントリヒの銃器メーカーの流通が行き届いているのはありがたい。
傷だらけのままだったヴァトラーP.38拳銃は綺麗に磨かれ、中身の部品も土が取り払われて新品へと交換される。
ガンショップの店員からは、よくこんな状態になるまで放置していたなと小言を喰らってしまったが、そんなのは瑣末な問題である。
どうせ殆ど使うようなものでもないし、今日のこの日までただの鉄の塊のようなものとして存在すら忘れかけていたのだ。
かくして久しぶりにP.38を掴んだその時、彼は現れた。
話を望めばこちらに応じ、沈黙を望めば気配さえ消えそうなほどに黙る、都合の良い分身として。
孤独を癒すために鏡に話しかける人間が居るが、ゼクスフォルトにとってもまた、彼はそのような存在であった。
無意識の呼吸が何らかの原因で止まった時、呼吸と云うものの存在に気づかされてしまう。
『……今から6年くらい前だったかな。戦争が始まったのは、俺がまだ二十歳にもなってない頃だった』
『6年前か……私が戦場に出向いた時期と同じだ』
当時から肌身離さず持ち歩いてきた拳銃なのだから、当然だった。
それをどこかで覚えていたからこそ、ヴァトラーは語ったのだ。
……――。
『でもこの煙草も駄目だな。タールがだるくなっちまう……重すぎて。
ああ禁煙しないよ。癇癪を抑えるために俺はこの安定剤と煙草と、あとミネラルウォーターと酒と安定剤と煙草と酒と酒、ああ、必要なんだ。必要なんだよ』
『君が必要と云っているなら、それは絶対に必要だ。必要なら摂取していい』
それは甘えだ。必要だと思い込んでいるだけで、その橋は泥で出来ている。
あのベッドも、あの水も、泥で出来ている。渡るな。寄りかかるな。飲むな。
安定剤も煙草も酒も、本当はここまで必要があるかどうかと訊かれれば首を横に振るべきだった。
振るべきなのに振れなかった。
「ヴァトラーちゃんは初めから、居なかったんだ。幻影だ。俺の意思を借りて、記憶で作り出した幻影だったんだ……」
傍らに居た貴族風の金髪の男は、ゆっくりと空気に溶けて消える。
豪華なコートも、余裕を多分に含んだその笑顔も、後ろで結んだ金髪も何もかもが輪郭を失い、存在の枠組みを取り払う。
周囲の大気に同化したのか、それとも自分自身に同化したのか。それは判然としない。
しかし、壁を眺めながらずっと立ち尽くしていた事に気づくと同時に、ふと、背中の温もりにも気づかされた。
首の後ろを水分が伝わり、背後より廻された両手に、より力を込められて行く。
「おかえりなさい……」
「……ただいま」
首を伝う水分の正体は涙だった。
背中のぬくもりも、廻された両手も、ゼクスフォルトのよく知っている恋人のものではないか。
振り向いて、震える肩を支える。実の所、彼女を守っていたのではなかった。あらゆる意味で彼女に守られていたのだ。
漸くここまで戻ってくる事に、奇跡的に成功した。
導きを受けたのである。
「俺達はどれくらいの間、こうしてたんだ?」
「六時間ほど……ここの近くも民間人が皆逃げてしまいましたから。残っていたのはこの精神病院の患者達だけです」
「酷い事をするもんだ」
風の吹く音に、自動車の音は混じっていない。
それは、辺りが静寂を選んだ事を示している。
「……キス、してもいいかな」
「私にさせてください。長く、できるだけ、長く……」
永きに渡る旅路はもうすぐ終わりを告げようとしていた。
永遠とも取れる苦痛はもうすぐ終わりを告げようとしていた。
口の中を伝う唾液の中で微かに混じる血の味が、彼女が幻想ではない事を教えてくれる。
ここが、現実。これが、現実。少し前までの、地面を失ったような感覚はもう無い。
硬いコンクリートの感触が、足元から伝わってくる。
絡み合う舌が、互いの飢えを癒す。
ずっと隔てていた壁を、溶かして行く。
指と指を絡めて、ベッドへと転がり、首の向きを変えて求め合う。
目を閉じても景色が見える。息遣いが、鼓動が、例えそれらが弱弱しくとも。
指を解きほぐして背中へと廻し、磁石のように引き寄せてもなお、足りないような気さえした。
ただ、ただ、最後に残った“しこり”だけはどのように回避する事も叶いそうにない。
迷走と混迷の中で掴み取ってしまった一つの結論が、喉に張り付いて離れない。
唇が離れた瞬間に、云うべき言葉は決まっていた。
首もとのペンダントに引っ掛けた指輪を、片手で弄り回す。
本を質せば、あまりに虫の良すぎる話だったのだ。MAIDとなっても一緒に居られるなどと。
あの時エミアが死んだ時点で、もう二度と会えない筈だった。
――俺と君が初めて出会った時のことを、覚えているかい?
そんな質問をする余裕も、今は無い。してしまえば、それだけシュヴェルテを傷つけてしまわないか。
「俺は……君を――」
「――私を、エミアの代わりにしていた、と。それでも心の奥底では理解していたのではありませんか? だって……」
シュヴェルテが、ペンダントの指輪に触れる。
彼女のひどく寂しげな笑みが、ゼクスフォルトの双眸を焼く。
指輪を撫でる指の動きだけは、どことなく慈しむような様子で。
「この指輪、私が目覚めてから一度もペンダントから外した事がないもの。
ちゃんと“私を”見てくれていたんですね」
少しずつ、何かがほどけて行くような音がする。
エミアとシュヴェルテは違う。ゼクスフォルトも、心の奥底では理解していた。
いくら髪型を似せたとしても、彼女の遺品から服を作らせても。
結局、髪の色も違えば、性格も違う。
共通点はあの声と、顔と、身体と、生真面目なところや趣味である読書だけだった。
近づけようと思っても、エミアに似る事は無い。全くの、別人である。
押し付けていただけだ。
シュヴェルテに、エミアの残像を重ねて、偶像を押し付け続けていただけだ。
気付いていても口に出せただろうか。シュヴェルテの素体は、紛れも無くエミアなのである。
死ぬ間際に、愛を誓ったあのエミアの顔が、目の前にあるというのに。
それを手放せるほど、ゼクスフォルトは強くはなかった。
――ふと、シュヴェルテが取りとめの無い質問を挙げる。
「灰色の反対って、何色だと思います?」
「……虹色じゃないかな」
「じゃあ、その理由は?」
「灰色は白にでも黒にでもなる。そして全ての色から彩度を抜いてしまったら、結局はみんな灰色になっちまう。
虹色はあらゆる色を内包して、それでいてそれぞれが意味のある色になっている。
ただ……灰色は我を貫き通してる色だけど、虹色はいい所を取りすぎて欲張りになってるという捉え方もできるな」
そこに善悪は果たして本当に存在するのだろうか。
果たして、どれほどのパターンで、人々はそこに善悪の枠組みを嵌め込むのだろうか。
ただ、この場に於いては“灰色の反対は虹色、そしてその理由”に関して正解を見出す事ができた。
シュヴェルテの満面の笑みが、動かぬ証拠としてゼクスフォルトの心を照らしてくれた。
「……正解です」
「本当に?」
「ええ。私にとってはこれが正解なんです」
――私にとっては。
それでいいのかもしれない。普遍的に正しいかではなく、自分にとって正しい。
自身の正義と他者の正義は必ずしも一致しない。むしろ、どこかで交わりつつ、どこかで衝突する。
「……そろそろ、行かねばなりません。私はもう一度、私を探してみようと思います」
「これでいいんだよな……」
「きっと、エミアさん――エミアも、同じ事を云いますよ」
時間だ。もう二度と会えなくてもいい。
これで決着は付いたのだ。そろそろ、死を受け入れても良いのではないだろうか。
エミアは死んだ。もう戻らない。目の前にいるのはエミアではなく、シュヴェルテだ。
最後に接吻をひとつ。いつの間に切り落とされた青い髪の束を、片手に受け取りながら。
「お誕生日おめでとう。さようなら、アシュレイ」
「ありがとう。さようなら……“シュヴェルテ”」
自然と別れの言葉を出せたのは、長い月日を経て、無意識のうちに受け入れる準備が出来ていたのかもしれない。
ゼクスフォルトは開け放たれたドアを辿り、所長室の椅子へと腰掛ける。青い髪の束を握り締めながら。
さようなら、シュヴェルテ。
「俺達はもう、押し付けない。自分の居場所を自分で作れた時、会いたくなったら会おうぜ」
残像でも偶像でもなく、一つの人格を持つ者として。
かつてアシュレイ・ゼクスフォルトが彼女に教えた言葉が、少しだけ形を変えて脳裏を駆け上った。
(ユーリカ市内の精神病院の一室より押収。筆者不明)
Oct.30 1944
誕生日プレゼントは、ひとつの閃きだった。
俺はついに、人類共通の難病を見つけた。
「押し付け病」だ。
これを治さない限り、戦争は起こり続ける。
戦場っていうのは有り体に云っちまえば病院なんだよ。
押し付け病の患者達がひしめき合って、死神という医者に治療してもらうための病院なんだ。
死んで土に返ったら、もう誰にも思想を押し付けない。
自由を愛する気取り屋な怠け者も。
軍隊を愛する熱心な脳ミソ筋肉も。
俺達を平等に治療してくれるのは結局の所、死神だけなのさ。
俺もいつか治療してもらう。病院に行き損なった。
だからこの、ノミの共有された世界で、他人のノミをなすりつけられて。
痒いのを我慢しながら、必死に押し付ける相手を探さなきゃいけない。
繁殖したノミを押し付けて、そうして人々は満足する。
そうさ。「あいつは俺と同じ考えを持ってる。悪い奴じゃない」って。
またはこうでもいい。「やっと解ってくれたか」とか「あいつは成長したな」とかね。
……今なら、よく解る。
俺はシュヴェルテに、エミアであるよう望みつつ、俺の中での理想像も同時に押し付けていたんだ。
俺の心の中で繁殖させたノミを、あいつに精一杯、擦り付けていたって事さ。
どうだ! どうだ! こいつは傑作! 何せ、何度も死なせちまってようやく気づいたんだよ。
まずはエミアだった頃に流れ弾で死なせた所で一回。
シュヴェルテとして生まれ変わったあいつを守りきれなかった所で一回。
胸の傷跡を見て一回。最後の一回は俺の心の中で死を認めた所でだ。
四回?
いや、それ以上だ。
シュヴェルテを、エミアの代わりのように見るたびに、俺はあいつを殺してしまっていた。
何度も、何度も。殺した。心の中で。
そうして何度も何度も何度も死なせてようやく気づいた俺は、史上稀に見る馬鹿だと胸を張って云える。
俺はそろそろ、馬鹿を卒業しなきゃいけない。
押し付け病を、生きたまま治す方法を探そうじゃないか。
最終更新:2009年05月06日 16:24