(投稿者:Cet)
秋のエントリヒは寒かった。寒かった。寒かった。
心が寒い、などと言えば、それこそ寒いの一言に付せられよう。
しかし寒かった。何も感じないというのとは少し違う。
心がかじかんでいるのだ。歩く足に心は付いていけない。
紅葉が街路を彩り、はらはらと舞い落ちていく。
私は一つ溜息を吐いた。この秋はいつまで続くのだろう。
私の心の中で一つの形象を取った、この秋は。
「はぁ」
不意に背後から反響のように溜息が聞こえた。人の気配はしなかった。
あくまで平静のまま振り向くと、そこには茶がかった長髪の男が佇んでいた。
その髪の色と、コートの色は上手く紅葉の舞う景色に調和していた。
「あー、アンタのコート、その髪の色とよく似合ってる」
男の言葉だった。私はようやく男の存在を現実味あるものとして認識した。
「そっくりそのまま返します、お似合いです」
「なあ、あんたの髪は黒いんだね。どこの人だい?」
「今も昔もエントリヒ人ですよ」
通りに静止して言葉を投げかけ合うのはどこか奇妙な感じだった。すぐここから歩き出してしまいたいような感覚がある。しかし男はそれを許さないのだ。何故か、離れがたく思わせるのだ。
「あんたは」
男は一度言葉を切った。
「貴方は誰ですか? 私の知り合いではないようですが」
「俺はあんたのことをよく知ってるよ。今日はどこからの帰りなのか、ってこともね」
「ストーカー?」
「違う、諜報員さ」
何と間抜けな言い訳か。私はそう思った。
今の世の中、そういった人材が暗躍しているというような三文ゴシップがそこらの新聞の紙面を踊っているのだ。それを安易に現実と結び付けるのは莫迦の為すことだろう。少なくとも自分自身はそれを是としない精神の持ち主であると自負している。
ならば男はただの変人だろうか、そう考えると、どこか違うような気もしてくる。
というのも男の表情は親しげに笑っているものの、妙な説得力を帯びているのである。どうしても男の話す内容を絵空事として撥ね退けるのは、憚られた。
「何故それを私に話すの?」
「君もなってみないか、諜報員」
「質問の答えになってないわ」
男は笑った。時の流れがゆっくりになった。
ひどく色彩があいまいになった。私は何故かその場に立っている感覚を失った。
青色だった。
青色の部屋だった。それが目の前に浮かんで、一人の男が椅子に座っているのが見えた。それは先程から素っ頓狂な言葉を繰り返しているあの男とは別の、短い髪の男だった。笑っている。
私を見て笑っているのだと察しがついた。
私はそれを見て何とも思わなかった。
私はベティナイフを手に取った。親しげな笑みは、それで消え失せた。
ふと気が付くと、そこは赤色の街並みだった。男が笑顔で佇んでいて、先程のままの光景だった。
「で、どうなんだい。俺に付いてくるか、それともこのまま自宅に帰るのか」
「行きます」
男は黙って私の瞳を見ていた。私も、黙って男の瞳を見詰めていた。
「行かせてもらいましょう」
私は微笑みを浮かべて言った。
すると男は少しだけ表情の失せた顔をして、一つ頷いた。
「俺の名前はパスカル。パスカル・リード」
「私はレーヴェです。レーヴェ・ブラウ」
よろしくお願いします。と一言告げた。
男は先程の笑みを取り戻していた。
最終更新:2009年05月25日 01:02